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ストーン・サークル(エイヴベリー・サークル/ 秋田県・大湯環状列石 /滋賀県・辻遺跡サークル /滋賀県・太郎坊宮)
エイヴベリー・サークル
お仕事で時々イギリスに行かれる戸澤さんがストーンヘンジとエイヴベリー・サークルの写真をこのHPに送って下さいました。ストーンヘンジの写真はすでにこのHPにアップさせていただきました、ページの後ろの方ですが。私も数十年前にソールズベリーの古代遺跡を訪れた時にエイヴベリー・サークルにも行きました。ストーンヘンジの圧倒的な迫力の前にはそのものから受ける印象は地味なものですが大きさはストーンヘンジよりもかなり広いです。
Avebury Circlesの立石群
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さて、エイヴベリー・サークルは、ソールズベリー平原のKennet谷の草原に横たわります。 此の有史前巨石遺跡の事が記録に出てくるのが、ジョン・エイブリーによって1646年に作られた説明書が始めてと言うことです。ほとんど注目をされていなかった遺跡も、アレキサンダー・ケイラー(Keiller)氏の発掘(1934〜1939)によってたくさんの埋められた石が見つけられたそうで、消えた石の跡はコンクリートブロックで原初の位置をマーキングされました。
Aveburyは、英国で最も大きいヘンジモニュメントの一つで後期新石器時代に建てられました。グレート・サークル(大石のサークル)を囲む外側にさらに土手と溝が取り囲んでいます。(直径約450メートル) 現在は道路がサークルの中を十字形に通っていて、外側の土手と溝には4つの出入口がついています。グレート・サークルは元々98〜100の大きい直立したサーセン石(最も重いものは40トン以上の重さがある)のリング( 36フィートの間隔)だった様で、またこれらはストーンヘンジの石の様に表面を加工していません。そして、それらの石はサークルの建造の際に意図的に二つの形で選ばれているようです。 それは、垂直な側面もつ背の高い柱と幅広いダイヤ形か菱形です。グレート・サークルの中には、同じサーセン石の立石の、北のサークル(Central Circle)と南のサークル(South Cirrcle)があります。セントラル・サークルは、当初はだいたい98 mの直径で30個の立石で、現在は4個だけが残っています。その中心には「洞穴」と言う石の群れがあります。サウス・サークルは、わずかにそれより大きくて、32の石から成っていました。 これらのうちの5が残存しています。
Aveburyの南の入口から南へ当初はだいたい1マイル、オーバートン・ヒルまで道の両側に立つ並木の様に立石が並んでいます。これはケンネット・アベニュー(Kennet Avenue)と呼ばれている列石群です。
平面図(「STONEHENGE AND AVEBURY」 より)
秋田県・大湯環状列石 日本にもストーン・サークル遺跡があります。特に東北地方と北海道の、大湯環状列石と忍路(おしょろ)環状列石は有名です。秋田県鹿角市に大湯環状列石はあって、「野中道遺跡」(直径40メートル)と「万座遺跡」(直径45メートル)の二つのサークル遺跡があり、二つともによく知られた、中心に石棒が立ってその周囲に放射線状に長い石が敷き詰められた幾つかの配石があります。小樽市石狩湾沿いの三笠山西山麓に忍路環状列石はあります。これは南北の直径が33メートル、東西の直径は22メートルと卵形のだ円形に配石がされています。この楕円を描く中心点にあたる所にやはり配石があることなどから古代人がこれを建造する際にただなんとなく石を並べているのではなくなんらかの規則性をもった配石を行っているのではないか、その場合考えられるのが天文の運行との関係を指摘する説もあります。天文観測に利用された可能性があると言うわけです。
大湯・野中堂環状列石
大湯・野中堂環状列石
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(史跡の真ん中を県道66が貫く)
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滋賀県・辻遺跡サークル 日本列島の北方にはストーンサークルが多く、南方にはドルメンが多いとされてきましたが最近では南の地域(中国地方)でもストーンサークルが発掘されている様です。 昨年(’98)の新聞に滋賀県の辻遺跡発掘現場からストーンサークルが発見され、それは太陽信仰の祭祀と関連があるのではないか、と書かれていました。 それでそのサークルが復元保存されて言う滋賀県栗東町の埋蔵文化センターに行ってきました。 あいにく休館日で詳しい説明を聞くことが出来ませんでしたが、展示物の写真は撮らせてもらう事が出来ました。 地面は出土時の状態で合成樹脂で型どりされ、石は本物です。 2メートル四方の箱に遺跡は治められていました。
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埋蔵センター内に復元展示されている配石遺跡 その横の壁に展示してある出土時の写真
正確な場所を聞くことができないまま、現在も続いている辻遺跡の発掘現場の配石遺跡が出ただろうと思われるところを探しましたが見つける事は出来ませんでした。 三上山が見通せる、辻地域の大体の位置を探しコンパスを置いてみました。すると、ま東から北方向へ約30度の位置に三上山が見えました。これは夏至の頃の日の出の角度です。古代の太陽観測の目印に特徴のある山をあてる事があります。これは上手い工合に太陽観測の法定式に合致します。
さて、 三上山は野洲平野の南東部にある標高432mの山で、近江富士とも呼ばれる様に特徴のある姿をしています。琵琶湖の標高は85mあるので、実際の高さは350m弱です。山頂には「磐座」があり、古くは御神山と呼ばれていて崇められてきた神体山であります。
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左は野洲川岸からの三上山 右は三上山山頂から辻遺跡方向の眺め、遠くに琵琶湖が見える
小学校の遠足だったか、何時の頃かはさだかではありませんが、バスガイドさんの説明が記憶に残っています。バスの中で聞いた、俵藤太のムカデ退治の話は、三上山を7捲き半もまく大ムカデと言う事だが実際は八捲よりも短い大きさのムカデだった、と言うオチつきの話でした。一度此の山に登ってみたかったのでトライしてみました。国道8号線を挟んで御神神社のある登山口に行くと裏道と表道があって、裏道がゆるやかな登りとありましたからそちらを登り始めました。しだいに登山道は急勾配になって山頂近くでは岩盤がむき出しになっていたり、大石がゴロゴロしている険しい山でした。1時間ほどの登りでした。山頂には奥津磐座がありました。ここに、考霊天皇6年(296年)6月18日に天の御影神が御降臨になった、と山頂の案内板に書かれています。したがって、毎年、現在でも6月18日の未明に氏子の人たちは山頂に登り神迎えのお祭りをするそうです。これは夏至に近い日ですから先に書きました辻遺跡の配石遺跡と三上山の関係はなにか結わくありそうに思えます。
三上山山頂の磐座と鳥居 |
辻遺跡の円形の配石の事を考えていると、ネイティブ・アメリカンのナバホ族の儀式のことに思いあたりました。 彼等は現代でも月への信仰を失っていないそうです。 月には不思議な力があると信じているそうです。 彼等の儀式は地面に色んな色の砂で月の象徴の円形の図形を描きます。 その円形の図形の中に祈祷して貰う人は座り月の力をもらいます。 ひょっとしたらここの円形の配石は太陽の象徴かもしれません。 と、勝手な想像はふくらみます。

上の写真は御神神社に伝わる「相撲人形」です。鎌倉時代の作とされ、ヒノキの一木造りで、行司29.4センチ、力士23.9センチの大きさです。古来より相撲は豊作祈願の意味で神前に神事として奉納されてきた、中世の神事相撲の具体的な姿を知る事ができる貴重な資料とされるといいます。この相撲人形のことは、ズーッと以前に大学時代の恩師の辻晋堂先生書かれた「相模人形」と言うコラムにあったことを思い出しました。 少々エッチなクスグリが厳格な先生を知る元学生には新鮮に感じて心に残っていました。
引用させてもらいます。
朴斎といふ友達と二人で、或る日つまらぬことを喋ってゐるうち、話が「誤植」の事になってきて、そこで彼は、大変有名な老俳人の作った俳句の誤植の話をきかせてくれた。
春風や女の股の襞多き
この句を雑誌で見た天下の俳人達は齊しく、あの先生が、なんとまア大胆な表現を———と呆れたものだ。しかしこれは、「服」が「股」と誤植されてゐたのだ。と。
朴斎も俳句をひねる男だ。この話は彼の創作した笑話ではなく、実話と思って私はきいたのである。彼は、それから又いま一つの話を績けた。これもまた有名な俳人が、あるとき句集を送ってきた。その句集のあとがきに「この句集は、もっと早く出す予定であったが、さまざまの情事のために次第に遅れてしまひ云々」と記されてゐて、これを一讀吃驚仰天した。しかし、これも「情事」は「事情」の誤りであったのだ。と。誤植には、讀者がそれと気付く誤植もあるが、誤植と思はずに績む誤植がある。「女の股」が誤植ではなからうか、と誰がこれを疑ふだらうか。これはこれで俳句の体をなしてゐるから、たいがいの人は誤植とは思はずに讀んでニヤリとするだろう。なんともこれは始末の悪い誤植の例である。
滋賀縣野洲郡の三上山の麓の、御上神社に、「相模人形」といふものが所蔵されてゐるといふ事を、大百科事典(平凡社、昭和十三年版)で讀んで、私は、これは是非一見しておきたいと思ひながら、それから二十年余りになる。近い所だから行かうと思へば何でもないのだが、そのためにわざわざ出掛けなくても、そのうち何かの機會があるだらう、と思ってゐたけれど一向にそのやうな機曾はなくて、長い年月が過ぎてしまった。 この夏は雨がよく降ったので、家にこもって、欝とうしい気分で暮らしてゐたけれど、先日は久しぶりの好天気だったので、私は散歩がてら御上神社に参ることを思ひ立ったのだった。
御上神社の祭神は天目一箇命で、この神は鉄の神様である。鍛冶の業に大功を立てた神として、また地方開拓の祖神として古来尊崇されてきたといふ。御上神社には宝物や古記録がたくさんあって、史料として貴重なものを蔵する中に「相模人形」といふものがある、といふことが大百科事典に書いてある。また三上山の山上に祭神を鎮祭したことがこの神社の起源であると記されてゐる。私は以前から、三上村といふ村の名も、三上山といふ山の名も、御上神社の社名も、「サンガミ」ではなからうかと思ってゐるので、御上神社に「相模人形」といふものがあるといふことは、地名についての私の考へが、決してマト外れではないといふ、有力な証拠だと信じてゐたのであった。また、甲賀郡の東部に「相模村」があり、膳所の近くには「相模川」といふ小川があり、現在その辺に「相模町」といふ地名がある。このやうな事実からして、三上も相模であらうと私は思ぶのである。
さて私は御上神社へ参って「相模人形」の拝観を申し出たところ、「相模人形といふものは無い。當社に在るのは相撲人形だ」とのことであった。この一言で私は愕然とし悄然とした。誤植とは知らずに長年の間、その誤りの上に自分の考へを組立てて、よろこんでゐたのであるから、くやしいやうな、バカバカしいやうな気持ちになった。・(一九八O年八月二十九日)
2009年7月11日更新
関ヶ原にある大きな石材会社で制作中のNさんの彫刻を見に行った帰り道にかねてから行ってみたかった太郎坊宮を参拝した。関ヶ原では雨が降っていたのだが八日市に近づくと晴れてきた。目的地に近づくと開けた田圃の風景の中に先端が尖った釣り鐘を伏せたような形の山が現れた。関ヶ原へ向けて大阪から名神高速道路を走って行くと直線の高速道路の前方に三上山が見える場所がある。その三上山よりももっと先端が尖っている。しかも巨石が露出している。写真でみるよりも実物を真直にみるとせまってくるものがある。
山は赤神山(標高350メートル)と言い、 太郎坊宮は山の中腹にあって、正式には阿賀神社と言う。愛称が「太郎坊さん」だ。《どんな事にでも勝つ》勝運の神さん。開運厄よけ、縁結びなどにもご利益があるとされ多くの人々の信仰を集めている。
右は、駐車場から階段に到る通路に立っているカンバン、太郎坊宮の名前の由来が案内されている。
京都の鞍馬の天狗さんと兄弟で、鞍馬の天狗さんは次郎天狗だとか。
左は、石灯籠が両側に並ぶ参道からの眺め。
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田圃の中の石の鳥居をくぐり、石灯籠が両側に並ぶ参道を行くとやがて山の麓にたっする。そこから本殿に参拝するには740段ほどの急な石段を昇。見上げるとうんざりするほどの急勾配だ。木製の奉納された鳥居のアーチをくぐり上に上がるにしたがってあちこちに巨岩が現れる。
やがて本殿と言う手前には高さ数十メートルの巨岩の割れ目があらわれて隙間を通して建物がみえる。夫婦岩だ。
悪心を抱く者やウソをつく人間が通ると岩はたちまち閉じると言われている。
隙間のなかから見上げると大きな力によって巨岩は引き裂かれたように見える。
左右の岩壁はピッタリとくっ付くかのようにカタチは雄雌の関係にある。
夫婦岩を通り抜けてカメラのシャッターを押した時、隙間に巫女さんがこられた。とっさのことで驚かせてしまったようだ。ごめんなさい。
通り抜けられた時には満面の笑みが返ってきたので一安心。
本殿前からは眼下に広々とした蒲生野平野の景色が望める。稲が育って美しい緑色をしている。ヨーロッパのアーティストが来日して田圃の風景を見ると大きな大地に緑のカーペットを敷き詰めたように感じるらしい。田圃の水平面は彼らにとっては非常に珍しい風景のようだ。起伏のある丘陵に作る麦畑とはまったくことなる。
白州正子著「かくれ里」、「石をたずねて」の章に太郎坊宮の巨岩のことが出てくる。「農耕の行事には多かれ少なかれ、性的な身ぶりがつきまとうが、八日市の近く、太郎坊の山頂にも「夫婦岩」と名づける巨巌があり、二つの岩の間に、人がようやく通れるほどの参道が通っていて、その向うに本殿がのぞめる。いうまでもなく、一種の「体内信仰」で、ここでも女体が象徴されているが、後に山伏信仰に発展したため、原始の姿は失われた。が、今でも下の神田で「田祭」行われる。」、石をたずねてには太郎坊近在の石達が多く紹介されている。
2010年3月24日更新
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夫婦岩の割れ目を抜けて、太郎坊宮本殿横から西方向を眺めるとお椀を伏せた様な小高い丘(紅かす山)が見える。その背後左方向に細長く森の様に見えるのが鮒の骨が積み重なって出来たと言う船岡山。冬至の夕日はこれらの先きの山並みに沈むと言う。この蒲生野が手塚治虫著「火の鳥/太陽編」に出てくる。時代は壬申の乱の頃と千年後の未来を時間と空間を超えてドラマが展開する。右の写真は、ちょうど左上の写真方向の直線上から太郎坊宮の眺めだ。カメラをかまえた位置には右上の写真、「万葉の里」碑がある。側面からの太郎坊宮は円錐形ではないが遠目にもゴツゴツした岩の露呈が見える。この位置から夏至のの日の出を拝することが出来るそうだ。正面の紅かす山の頂上には磐座があるそうなので次回は山頂に登ってみたいが、昔なら聖地にはみだりに立ち入ることは出来なかったはずだ。紅かす山に限らず、太郎坊宮の参拝路の途中に箕作山方面のハイキングコース入り口に信仰の対象ゆえ岩の上には上がらない様に、の注意書きがあった。
2010年3月21日は春分の日なのだが生憎天気は悪かった。天気予報でみると22日は晴れとなっていた。それで、春分の日の滋賀の日の出に間に合うように早起きをして出かけた。途中道に迷ったりしたため太郎坊宮に着いたのは7時近かった。ほぼ東西方向に向く夫婦岩の隙間を通過して太陽を拝めるかと予想していたが、もし日の出時間に到着していても樹木が生い茂っていたり隙間を光は通りぬけることがないと思われた。しかし、この隙間から太陽を拝することが出来るのは夏至の日の出なのだ。
大和岩雄著「天照大神と前方後円墳の謎」に太郎坊宮の隙間から望む冬至の夕日の事が出てくる。辰巳雅之と言う人が実測したデータが載っている。それによると隙間の平均値は70センチ幅で930センチの長さがある。やや頂上部の方が通路部分より広がっている感じがするがほとんど均等な隙間が空いているので自然にづれたのではなく人工的に微調整が加えられて整えられた様に感じられる。本殿前のテラスから朝日の映える風景を見ていると人があがってきた。よく朝の散歩にくる人だったが、隙間は人が広げて調節したのではないか、と言っていた。誰しもが抱くほどに人の手が感じられる平行の隙間なのだ。冬至の夕日の方向にある紅かす山がやはり整った円錐形をしている。そのことから山の名前にまつわる伝説がある。
紅かす山を外周する道路に立っている案内板の記述を要約すると、この地域(今里)には「狛の長者」と言う立派な人が住まっていてその娘は美しいうえに毎日奇麗に化粧をしていたのでなお美しかった。その化粧の紅を毎日捨てていた所にこんもりとした山が出来たので紅かす山と言うようになった。と、別の説としては長者の庭園の築山と言うものもあるとか、別名お盆山とも呼ばれるようだ。
紅かす山裾の付け根、太郎坊に近い側に金柱宮跡がある。案内板によると室町時代から明治まで金柱宮神社があったとか。平安時代末期に編まれた「梁塵秘集」や「山槐記」に出てくる記述やこの地域に伝わる狛の長者伝説から長者の屋敷はここだとされる、と書かれている。狛の長者は「狛」の呼び名から当時の朝鮮半島の高句麗からの渡来人とされていて、筏川にそった蒲生野、小脇郷の開発をした大人物とされている。時期は平安後期(11世紀)の蒲生保(荘園)の成立した時代頃になるそうだ。
さらに古く飛鳥時代、額田王が詠んだ歌『あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」にあるように蒲生野は朝廷の禁足地で原野であったろうか、倭国の同盟国であった百済は新羅と唐の連合国に攻められて多くの百済人難民が倭国にやってきたとか。この時代、朝鮮半島や中国と行き来が盛んだったのだなぁ。 太郎坊宮周辺のネット地図を見ていると沖原神社の参道が太郎坊宮方向を向いている様に思って現地で確かめたくて車でウロウロしていると札の辻付近で突然大きな石の彫刻を見つけた。周囲は公園の工事中の様であった。真っ先に3メートル以上もありそうな石の彫刻を据えたと言った感じだった。銘板には「波動」と言う題名が記してあった。さらに彫刻の一面を太郎坊宮の方向に向ける事で聖地のパワーにあやかりたい意図があると書かれていた。作者は深田充夫とあった。
肝心の沖原神社は見つけることなくあきらめて帰宅した。
資料:「Stonehenge And Avebury」Her Majesty's Stationery Office. 「Newton」1999/10月号
「日本の巨石文化」駒井和愛著、学生社
「泥古庵雑記」辻晋堂著、三彩社
「かくれ里」白州正子著、新潮社
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