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index ボタン   (酒船石遺跡、2000年発掘当時へ)     [酒船石] [ストーンヘンジ]


酒船石遺跡  

 2009年6月
明日香村岡にある岡本寺で開催中の「飛鳥から奈良へ」と題された国際彫刻展を見た後、すぐ横の岡寺へお参りした。本尊の如意輪観音坐像(塑造/奈良時代/像高4.6m)を目にした途端なんとなく雲崗石仏を思い浮かべた。日本最大の塑像と言う事だが、全体に白い色のせいでその連想が働いたのかもしれない。昼食をとりに参道にある坂乃茶屋に入った。壁と言わず天井と言わず、色紙が貼ってある。テレビの取材が入ったこともある名物おばあちゃんの店だった。
そのおばあちゃんに酒船石遺跡までの行き方を教わった。参道の急坂を石の鳥居まで下り、右折してしばらく歩くと2000年の発掘見学の時に歩いたところだと思い出した。このころと途中も景色が随分変わっている。遺跡は中央の亀形石の部分を残し周囲の石段は埋め戻されている。木製の樋を付けて水を流しているが水源からの水の流れは、当時はこのようでなかったのではないかと想像する。これだと小判形の水槽の左の平らな部分の意味が分からなくなる。ここには人が立ち、水源からくみ上げた水を小判形の水槽に注ぐという手間があるのではないか、と思う。

kamegata
2009年6月撮影


kamegata  kamegata
  ・上の方角、岡に酒船石がある


kamegata

hoseki
左の写真、自然石の敷石の間に四角く成型された石が二列に整然とならべられている。この様子は埋め戻された現在の遺跡では見る事ができない。

2000年発掘当時の下段の写真、亀形石の左右に広がる観覧席状の階段の石組みの間に敷かれたオーカー色の歩道と確認出来る。

この石は右の写真、石垣なのだが、酒船石遺跡の後方の小高い丘にある酒船石に通じる坂道に残っている遺跡と同じ石質である。

案内板に詳しく解説されているので次に引用する。
ishigaki
案内板にある斉明天皇が築いたと推測されている石垣の一部分

酒船石遺跡

この石垣は平成4年に発見された。調査の結果、この丘は版築状に3Mほど盛土された人工の丘陵で、石垣は明日香産の花崗岩を地覆石状に並べて基礎とし、その上に天理市から奈良市にかけて分布する凝灰岩質細粒砂岩の切石を積み上げて築かれていた。現在、倒壊していた石垣の一部を復元して公開している。酒船石遺跡は、『日本書紀』斉明天皇条の「宮の東の山に石を累ねて垣とす」「石の山丘を作る」という記事に該当する遣跡である可能性が強く、その解明は、後飛鳥岡本宮など飛烏の諸宮跡の所在地を確定する上からもぎわあて重要である。明日香村教育委員会が平成5年度からこの丘陵周辺で範囲確認調査を継続的に実施して酒船石を含めた全容の解明につとめており、石垣が教段にわたって丘陵を取り巻く状況を確認するなどの成果を上げてきている。

ここは明日香村大字岡です。  明日香村教育委員会

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2000年2月26日

 沢山の見学者がおしよせるだろうと思っていましたが、説明会の土曜日、11時半ごろ明日香村に到着すると整理券をもらうのに長い列が出来ていた。 発掘の説明会に行くのは今回初めてなのですが結構皆さん熱心ですね。 雨も降りかけてきているのであきらめかけて、それでもまずは腹ごしらえしてと思いなおし、食事後に列の最後尾につくとドンドン進みやがて現場に入れました。 午前中より人が減ったためでした。

さかふね

上の写真は酒船石遺跡の説明会(2000年2月26日2時頃)風景ですが、随分低い位置に配石や亀型の造形物はあります。 また中央が一番低くなっていて亀型の造形物から流れ出た水が溝を伝って、画面では右の方へ流れて行く構造になっています。 両サイドは石をひきつめて階段状に次第に高くなっていき、ちょうど野外劇場の観覧席を思わせます。

さかふね

会場で配られていたパンフの遺跡全景写真で見ると、右側の階段状の石垣やV字型の谷状態の遺跡の構造がよく分かります。

下の写真は、左が階段状の石組で、右が中央部の小判型の石造物と亀型の石造物です。 周囲は石畳となっています。

さかふね

さて、中央にある亀型と小判型の石造物に注目してみましょう。

さかふね

小判型の石造物の端の台の様なものはなんなんでしょう。   供え物の台でしょうか。もしかして、生け贄の動物が供えられていてその血が小判型の水槽に溜まり、穴を通り亀の頭の穴から亀の胴の水槽に溜まり、尾っぽから出て溝を流れて行く、なんてオドロドロしい想像も成り立つ様な気もします。この石造物を見ていると水よりももっと濃い液体が流れて行くのがピッタリする様に思えます。しかし、水槽とは反対の山側には石で囲った井戸の様なものがあります。  きっと、この台の上に巫女とか僧とか、聖なる人が立ち井戸から聖なる水を汲み上げて水槽に流す儀式を行ったのではないでしょうか。  東大寺のお水取りはどの様な儀式で行われるのか知りませんが、「若狭の水」を汲み上げるのでは?  この遺跡は神仙思想にも通ずると言われています。  正に「若狭」は「若さ」もしくは「不老不死」「国家の安泰」を祈る儀式の場だったかもしれません。と、勝手な想像はいくらでも出来ますが、この遺跡の南西に当たるすぐ側の(500メートルも離れていない)丘の上には酒船石があります。  遺跡全景写真のほぼ中央上に写っているブルーシートの所が酒船石に通じる道です。関係があるとすると、この石の謎も次第に説明出来る様になるのでしょうか。

さかふね

     土の中から出ている、井戸囲いの様な石組みが見えます。   もう一度、亀型の石造物を見てみると亀の背中は丸く彫り込まれていてその側面は垂直に切り込まれずに彎曲して彫り込まれています。   かなりの精度のある仕事です。  細い水穴はイチョウ刃ノミであけたのでしょうが、この時代に良質の鋼の鍛冶屋技術はあったのでしょうか。  また、この窪みは水が容易に外に跳ね出さない為の工夫ではないでしょうか。   古代の人たちのメンタルな部分に若返りの水への信仰があったそうですが、蛇が脱皮して若返ると信じられていたことと水との結びつきからお尻を水に浸す事で若返ると信じられていたそうです。   すると亀型の水槽には人が入って水を浴びる事が(禊)あったかもしれません。  その様子は亀の背に乗って竜宮城に行った浦島太郎の様です。

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さて、下の図は酒船石遺跡紹介の新聞記事で亀の図像が似ていると指摘されている「天寿国繍帳残欠」(国宝/中宮寺)の部分です。   この縫帷(ぬいのかたびら)は推古30年(622)に聖徳太子が亡くなられ、それを悲しんだ后の橘大女郎(たちばなのおおつらめ)が天皇の許しをえて、天寿国に逝かれた太子を思いだすために工人達に作らせたものと伝えられています。   下絵は、東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加世溢(こまのかせいえい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)、らで、椋部秦久麻(くらべのはたくま)が監修して采女らが刺繍したものです。   図には、男女の像や僧、鳳凰、月と兔、蓮花座に合掌する仏、亀が3匹(丸い背中には、部間人公、千時多至、利令者椋の文字)などが描かれています。

カメ

人物はその当時の服装を着ていてこれを見るだけで飛鳥の事がよく想像できそうです。   月と兔は不老不死の象徴であるし、また同じ様に桂の木や水もそうです。

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2月4日のN・H・Kの情報発信基地と言う番組で「石の都」と題して明日香の事をやっていました。   現代のCG技術を使って古代の明日香盆地を再現していました。   酒船石も出てきてそれでは石から石の樋(とい)が数カ所に出ているようにしてありました。   その一本は今回出土した亀型石の方へも付けられていました。   とは言え私はこの説は(樋でつながり水が流された)ないのではないかと思って見ていました。   その後で以前から読もうと思っていた、松本清張著・「火の路」を読んでみるとまさに明日香の謎石の解明を試みた推理小説でした。  よく調査された資料にもとずいた物語の展開が一気に終わりまで読ませてくれました。

以下に、この小説で展開されている論について要約した清張氏自身の単文がありますので引用させてもらいます。

古代イランと飛鳥 作家松本清張

数年前に連載した「火の回路」の作中人物に飛鳥の「謎の石造物」は古代イラン(ベルシァ)のゾロアスター教と関連があるとの「仮説」をたてさせた。  小説ではあるが、述べた「仮説」は作者白身のもので、それが捨てがたく、関連取材を求めてイランに行き、それなりの収穫を得たと思うのでその一部をここに書く。  アケメネス朝(前700〜前300)のペルセポリスの柱頭飾りにライオンやワシが背中合せになっている彫刻はよく知られているが、柱頭飾りの機能をなくせば直接背中合せとなり、この形の人物像が飛鳥の道祖神像であり、二面石である。(中略)   橘寺の近くにある亀石は、未完成品だが、顔の先の三角は鳥のクチバシに、眼もこれから丸い形に、背中のもり上がりもこれから両翼や鳥の頭を、口もあけた形に作るつもりであったのだろう。  亀石のらう側にうずくまった人間と螂子の葉のような文様がある。  人間の方は、ササン朝浮彫りにある帝王に踏まれた被征服民の姿そのままで、仏教彫刻では四天王に踏まれる邪鬼となる。  四天王は毘沙門天を四つの威力に分散したもので、毘沙門天そのものはイランのミトラ神なのである。  また、椰子の葉の文様は、ペルシア彫刻に多いアカンサスを写したものに違いない、ペルセポリスに近いナクシェ・イ・ルスタムの拝火壇の近くには摩崖横穴墓が多く、その近くに拝火壇に対して水の女神の祭壇「水の石」とよばれる施設がある。  方形の穴に雨水がたまり、溌れて横にあるミゾを伝わって崖下に落ちるようしくまれたアケメネス朝期のもので日本の益田岩船や加古川付近の「石の宝殿」のミゾも同じく水の落下用と思われる。  益田岩船は「水の石」的なもので、「石の宝殿」も同じ目的で作らせ、飛鳥に運ぶつもりが、急に不要となり、現在地に残されたものだろう。須弥山石と道祖神像が噴水施設をもっているのはよく知られている。  噴水の石像は中国、朝鮮にもない。  噴水施設は砂漢の国の発想である。  チェヘル・ソトゥーン宮殿跡にはライオンの口から噴水がでる施設がある。  17世紀の宮殿だが、復古主義をとった王朝のものだから、アケメネス王朝やササン朝にも籔水施設をもった石像があったに違いない。   飛鳥はこうしたイランの流れを取り入れたといえるだろう。   イランから飛鳥の経路はよくわからない。   シベリア経由と南海ルートが考えられるが、発掘調査が進んでいないので、今のところ証拠はない。  だが書紀の斉明紀には、両ルートにあたる地域から異国人が上陸した記事がある。  石造物は誰が何のためにつくったか、以下のように推測する。  蘇我馬子が飛鳥の自邸に泉池をもうけた時(推古期)・須弥山石・道祖神像・二面石・猿石などを装飾物として彫刻させた。  表裏に二つの顔があるのは・一は地上から見、一は池の倒影を見る効果からである。  噴水施設はチェヘル・ソトゥーン宮殿と同じ、酒船石は薬酒の製造施設、益田岩船や石の宝殿は「水の石」を模して造った。  続日本紀には奈良時代に波斯人(イラン系胡人)が居住したと伝えるが、飛鳥時代にも渡来していたに違いなく、その工人が馬子のためにイラン的泉池と石造物を作って奉仕したのだろう。  工人のいたずらではない。  馬子のあと蝦夷や入鹿により石造物の製作は続けられたが、蘇我氏の減亡で邸宅は壊され、石造物は邪魔物として飛鳥川辺や島の庄あたりに捨てられ、ワシ・グリフィンは造りかけとなり(亀石)、石の宝殴も仕上ったまま運搬できず残置された。こう考えることで、飛鳥の石造物はその謎が解けると思うがどうだろうか(朝目東京12・4,5)

参考資料:パンフレット「酒船石遺跡」明日香村教育委員会

     「飛鳥・藤原京の謎を掘る」平田稔・金子祐之共著、文英堂

     「水の神話」吉田敦彦著、青土社

     「火の路」松本清張著、文芸春秋社

     「東アジアの古代文化/1979夏号」大和書房

     「原色版国宝/上古・飛鳥・奈良」毎日新聞社

 


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