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酒船石

奈良、飛鳥には沢山の古代の石造物が残っています。その中に天文観測に使用されていたかもしれないと考えられている石が「酒船石」と「益田の岩船」の2つです。酒船石は周囲が竹薮に囲まれた小高い丘の上にあります。当時はきっと竹薮もなく見通しのよい場所であったことでしょう。次の図の様に、石の上面には線や窪みが穿たれていて一説によればここに酒をみたしたと言うことですが、ここに水を張り沈む太陽を水面に映して観測すると入り日の光線は穿たれた溝をたよりに角度が測れると言う事になります。後世にこの石をなにかに流用するために「矢」によって割られたため現在は一部が欠けていて水は張れません。 

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sakafune    酒船石
          

 上の図で酒船石の上面の窪みの様子がお分かりいただけると思いますが、観測者はきっと東の方から太陽を見たのではないでしょうか。現在の石の位置は、東西線に対して北方向は磁石の北方位から約14度東に偏向しています。これは何時かの時代に石が動いたか動かされたためでしょう。夏の太陽の沈む方向に当たるはずの溝の角度は30度の開きで、冬の入り日にあたる溝の角度は約28度です。北緯34度28分、東経134度48分にある酒船石から見える夏の入り日の角度が東西軸から約29度30分北ですから、石の溝の角度と一致する言えます。

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もう一つの「益田の岩船石」は、橿原神宮の西にある住宅地に隣接する小さな丘の上にあります。急な上り坂を昇ってほぼ頂上の様な場所に岩船はあって、今はあまりおとずれる人がいないのか周囲は篠竹がおいしげっています。西側のすこし高い場所に昇るとすぐ下に岩船の上部を見ることが出来ます。四角い穴が2つ見えますが、石の上に昇ることが出来なかったので方位磁石をあてる事が出来ず、並んだ2つの穴の正確な方角は分かりません。この石をどのように利用して天文観測したのかはまだだれも解明していないのですが、石はかなり巨大でしかも丘の上に置かれているし、わざわざなんでここに途方もないものを移動してきたのか、もしくは作ったのかと言う思いがします。

iwafune 益田の岩舟
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岩船石の裾の周囲はこのような格子模様が残っていて石の成形時の作業行程がうかがえて面白い。 

岩船山梺の上り坂附近に立てられている案内版

史跡岩船−昭和五十一年一二月三十日指定

奈良盆地の南辺に位置する越智岡山塊の一支峯、石船山の頂上近く、標高約一三〇mの地点に所在する花園岩の巨大な石造物で俗に益田岩船とよばれているものである。その構造は、東西の長さ一一m、南北の長さ八m、高さ(北側面)四・七mの台形を呈し、頂部の平坦面から東西両側面の上半部にかけて東西の方向に幅、一・八m、深さO・四mの浅い溝状の切込みがあり、その南側面には上から約O・十四mのところに幅約O・一三mの段が造り出されている。溝内には中央に一・四mの間隔をおいて西よりと東よりの部分に二つの方形の孔が穿たれている。西の孔の大きさは上口部で東西一・五m、南北一・六m、深さ一・三m、東の孔は東西一・六m、南北一・八m、深さ一・三mとほぼ同じ規模をもら、ともに孔底の四局の壁の直下1こは幅、深さともに六�の小溝がめぐる。溝内の東西両孔の中凹部と孔の両側の平坦部はそれぞれ高さが異なり、孔の中間部に対し東側はO・一二m、西側はO・三六m低くなっている。また。この三つの平坦部や東西両孔の底面は東西方向には水平であるが南北方向ではいずれも南に傾斜しており、岩船全体がや南に傾いているものと考えられる。岩船の側面は、全貌を表してい北側では上半部が平滑に仕上げられているが、下半部には石の整形のための仕事と推定される格子状の溝が刻まれている。この格子状の溝は東西側面や南側面にも見られる。なおこのような格子状の刻みは、明日香村川原所在の亀石にもみとめられるものである。

この巨大な石造物については、古くから弘仁一三年この地に築城された益田池の碑の跌(台石)とする節があり、また最近では墳墓節や占星台の基礎とする説などが提起されている。その用途や築造年代については今後の研究にまたねばならないが、いずれにしても飛鳥地方に分布する特異な石造物のなかでは最大の規模をもつものとして保存の必要がある。なお益田の岩船の名称は、江戸時代の地誌類にもみられるものであるが、この岩船が益田池に関連するものとの想定にもとずく呼称と思われ、現在の地名によるものではない。

昭和六十二年   奈良県教育委員会

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      明日香村の亀石

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 亀石の後部、格子の刻み後が残る

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後ろ側

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左側面の平行線の溝

 

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鬼の雪隠

鬼の雪隠

岩船石の用途に関しての節に墳墓節があるが、これは明日香村にある「鬼の雪隠石」や寝屋川市にある高良神社の「石の宝殿」(横口式石室を持つ古墳で1400〜1500年前のもの、高句麗系の豪族の墓)、高砂市の「石の宝殿」などの様に大石を刳り貫いて石室にするところが似ているためか。


一方、松本清張氏はゾロアスター教の祭壇石「水の石」と言っている。なぜ明日香でオリエントのゾロアスター教なのかと不思議になるが、やはり明日香に幾つかある謎石の中に石人像や須弥山石など噴水の仕掛けをもつものがあって、これは砂漠の思想の反映だそうだ。 また、奈良の大仏様は、即天武功が造った金色に輝く大仏を模して造営されたと言うが、この金色に輝くものこそ太陽や火の象徴であり一名を拝火教と言われるゾロアスター教の影響を仏教が受けた証だそうだ。 様々なものがシルクロードを経て明日香までやってきていると言うことなのだろうか。

須弥山石に関しては、斉明3年(657年)に「須弥山の像を飛鳥寺の西につくる」という記録が残っているそうだ。 また、斉明天皇は飛鳥の地に大きな庭園を造らせたそうで、これと須弥山石を結びつけた水時計の設備の節もある。 記録には、斉明6年(660年)「皇太子が始めて漏刻(水時計)を造り、民に時を知らしめた」とあってこれが日本で初めての時計でしょう。 

キトラ古墳の天井に描かれていた天体星図は同志社大学の宮島先生の解析によって北朝鮮の北の地方の空であるとされたが、もともとは中国で観測され造られた天体星図が元になっている。中国では殷(商)代には太陰太陽暦が使われていたようでこれは天文観測が行われていたことを示している。 周代には「天」の思想が生まれていて、この世界の一切の存在と現れる現象を支配している存在が「天」で、人間社会の支配は天がその代行を認めた徳と能力を備えた人物に行わせると言う考えのもと、「天子」が出来上がりました。天子は常に天の声に耳を傾けて人間社会の政治を実行しなければなりません。そのためには天体の運行を観察して正確な暦を造り、それにもとずいて人々が農作業などの食料生産を円滑に行なえる様に配慮する役割が出てきたのです。

 

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明日香の謎石、二面石

西暦572年に聖徳太子(幼名は厩戸皇子)がお生まれになった場所とされる。当時は欽明天皇の別宮の橘の宮があったと言われている。幼少より太子は大変深く仏法をご信仰になり、自ら仏典の講義をされた。西暦606年に推古天皇の仰せにより、勝鬘経(しょうまんきょう)を三日間にわたりご講讃になった。その時、大きな蓮の花が庭に1mも降り積もり、南の山に千の仏頭が現れ光明を放ち(仏頭山)、太子の冠から日月星の光が輝き(三光石)、と不思議な出来事が起こったので、天皇は驚かれて、この地にお寺を建てるよう太子に命ぜられた。そこで御殿を改造して造られたのが橘樹寺(たちばなのきでら)で、聖徳太子建立7ヵ大寺の一つに数えられた。(橘寺縁起より)

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二面石は太子殿の左側にある。

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