[黄金の華の秘密註解]原註・訳註
- 註01
この点について、詳しくは1936年および1937年のエラノス年報に発表した2編の論文を見られたい(この2つの論文は、現在では、ユング『心理学と錬金術』にある。1952年、第2版、第II部及び第III部)。
- 註02
Ludwig Klages(1872-1956)、ドイツの哲学者。ニーチェを偉大な心理学者とし、生の哲学を唱えた。
- 註03
行為せぬことによる行為。
- 註04
柳華陽『慧命経』(Hui Ming Ging. Chin. Blätter, herausgegeben von R. Wilhelm. Bd. I, Heft 3.)を見よ。
- 註05
ヴィルヘルムはまたWeg(道)とも訳している。
- 註06
「首」は「天上の光の座」でもある。
- 註07
「生」(本性)と「慧」(意識)は『慧命経』の中では、無差別に使われている(両者は「命」の反対語であるが、まったく同じではない)。
「性」は心の隠れた本質であり、「慧」はその本質が現実化するときにあらわれる叡知の作用である。
- 註08
慧命経第1章参照。
ユングはここで「舎利を中国音のままdie Schêli ?と記している。これは「仏舎利」などというときの「舎利」である。原語 sharîraは「身体」の意味であるが、『慧命経』の用法では、仏のごとき永遠不滅の身体を指している。
- 註09
Jung, Psychologische Typen, Kap. V, Ges. Werke, Bd. 6, 1960. の私の議論を参照されたい。
- 註10
マンダラについての詳しい説明は、次の著作を参照せよ。
H. Zimmer, Kunstform und Yoga im indischen Kultbild. Berlin, 1926.
M. Eliade, Yoga, Unsterblichkeit und Freiheit. 1960. (邦訳、エリアーデ『ヨーガ』せりか書房)。
Jung, Zur Empirie des Individuatlonprozesses ; Über Mandalasymbolik; in Gestaltungen des Unbewußten. 1950.
- 註11
Wallis Budge, The Gods of Egyptians. London, 1904.
- 註12
Böhme, Viertig Fragen von der Seele. Amsterdam, 1682.
- 註13
これに対して、中国では、両限の間にある天の光という観念を用いていることを参照せよ。
(太乙金華宗旨、第1章1節)。
- 註14
Mathews, The Mountain Chant. (Fifth Annual Report of the Bureau of Ethnology, 1883-84), und Stevensson, Ceremonial of Hasjelti Dailjis (Eight Annual Report of the Bureau of Ethnology, 1886-87.)
- 註15
私は、夢遊病者の描いたマンダラを、次の論文で示した。
Jung, Über die Psychologie und Pathologie der sogennanten okkulten Phänornene. 1902. (Ges Werke, Bd. 1.)
- 註16
ヴィルへルムは「竅」をKeimblase と訳している。これは植物学や生物学でいう「胚胞」つまり、芽や花がそこから成長してくる胚種を膜でつつんだ容器(胞)を意味する。しかし、「竅」は元来、穴を意味する言葉である。彼がこういう意訳をした理由は次のように考えられる。『慧命経』の用法では、「竅」は、ほぼ漢方医学でいう「経穴」(ツボ)を指していると思われる。経穴は気がたまる穴であり、また経絡の末端はいわゆる「井穴」で、これは、「気」が出入する穴であるといわれている。つまり経絡組織として見た身体は、感覚的には認知できないが、瞑想において宇宙の気を感得する第二のみえざる身体組織(いわゆる「先天の竅」)なのである。この組織が瞑想によっていわゆる「真人」を受胎し、成長させる容器になるわけである。本書二八九頁に掲載した呼吸法の図は、代表的な経絡である任脈と督脈にそって気を周回させるように説いている。これによって瞑想が深まり、次に引用されている「黄庭」以下のさまざまな象徴的イメージが体験されるのであるから、その意味で、この感覚をこえた身体を、マンダラ体験を生み出す「胚胞体」と解することができるわけである。ただし訳語としては熱さないし、意味がとりにくいので、一応「みえざる身体(組織)」と訳し、必要に応じて「胚胞体」と訳すことにした。
- 註17
これは「水郷の鉛は唯、一味なり」という太乙金華宗旨の語を引いたものである。ユングはこれを、すべての卑賎なものの中に偉大な一者を示す金華が宿る、という意味に解している。
- 註18
A. Avalon, Schlangenkraft. Weiheim. 1961.
なおクンダリニ・ヨーガの「クンダリニ」とは「巻かれたもの」を意味し、尾てい骨の部位にとぐろを巻いて眠っている蛇の象徴である。クンダリニ・ヨーガでは、瞑想によってこの蛇が目覚め、脊柱をのぼるにつれて、いわゆるクンダリニ・シャクティとよぶ力がはたらき始め、ヨギは白い光を体験するという。このアヴァロンの著作は、ヒンズー教シヴァ派の経典の訳と解説である。
- 註19
私は E. F. Knuchel, Die Umwandlung in Kult, Magie und Rechtgebrauch. Basel, 1919. にすぐれた収集があることを言っておきたい。
- 註20
Evans-Wentz, Das tibetanische Totenbuch, 6. Autl. Zürich, 1960.
原典は W. Y. Evans-Wentz, The Tibetan Book of the Dead, London. 1927. 邦訳おおえ・まさのり『チベットの死者の書』講談社。ユングは、この書にも心理学的解説を書いている。 Jung, Psycholo- gical commentary on "the Tibetan Book of the Dead", CW. 11.
- 註21
道教の瞑想法では、眉間の部位を上丹田とよぶ。仏教の図像学ではいわゆる「白毫」に当たる。悟りをひらいた如来には、この位置に渦を巻いた白い毛があるという。『往生要集』にくわしくのべられている白毫観という瞑想法では、この位置に思念を集中する。またヨーガでは、眉間の部位をアジナ・チャクラという。さしあたり、瞑想における直観的体験の得やすい思念集中点の一っと考えておけばよいであろう。
- 註22
太乙金華宗旨、第4章7節。ヴィルヘルムは「動とは、線索を以て牽動するを言う。即ち、制の字の別名なり」という句を、「運動は外的手段によって生まれる。その(運動の)本質は克己 Beherrschung である」(S.95)と訳している。ユングはこの句を要約して引用しているのであるが、このヴィルヘルムの訳は疑問がある。ここの「動」は、心が外物に動かされる意味であるから、「制」は受身に、つまり「外物に支配される」という消極的意味に解さなくてはならない。もっとも、瞑想はそういう心の「動」を「静」に帰せしめる別種の運動である点において、克己の意味をもつであろうが。
- 註23
この文にそのまま当てはまる言葉は、原典にもヴィルヘルムの訳にもない。光と闇は陽と陰、円運動というのは「回光」(光の回転、瞑想)のことであろう。この書の基本主張は、回光によって陰陽対立を超越した純陽に至ることなので、このように要約したものと思われる。
- 註24
タパス tapasg は元来、熱を意味する。転じて、物を変化させるとか、精神を清浄にする意味に用いられる。ふつう「苦行」と訳されることもあるが、ウッドは、これを西洋的意味の禁欲や苦行と解するのは誤りだといっている(cf. E. Wood, Yoga Dictionary)。
- 註25
この点を指示していただいた私の協力者、ニューヨーク在住のベアトリス・ヒンクル博士に謝意を表する。表題は次の通り。Ed. Maitland, Anna Kingsford, Her Life, Letters, Diary and Work. London, Redway, 1896. 特に129頁以下を参照。
- 註26
このような経験は本物である。しかし、経験が真実であるからといって、患者がそこからみちびき出した結論が健全なものであるという証拠にはならない。もっとも、精神病の場合であっても、全くまじめに解すべき心的経験に出会うことはよくあるものである。
- 註27
ヒルデガルト・フォン・ピンゲン(Hikdegard von Bingen (1098-1197) 中世ドイツのベネディクト会修道士。女子修道院を建て、病者を癒す。神秘家として有名で、神秘劇「徳の輪舞」Leigen der Tugenden はカトリック神秘思想の一源泉とされる。
- 註28
法身 Dharma-kâya 大乗仏教の代表的な仏身観である三身説では、仏の身体に応化身・報身・法身の三つを分ける。応化身は救済のためこの世に現れた仏の肉身、報身は修行の果報をたのしんでいる彼岸の仏の身体、そして法身は究極不可見の超越的仏の身体である。密教の大日如来は法身仏の代表的なもの。
- 註29
この間題についてのすぐれた叙述として、次の二書をすすめたい。H. G. Wells, Christian Alberta's Father; Schreiber, Denkwürdigkeiten eines Nervenkranken, Mutze, Leipzig.
- 註30
マタイ福音書、5章26節。
イエスの山上の垂訓の一節。イエスは、隣人に対して怒ってはならない、もし怒ったなら、相手は怨んで法廷に訴え、獄に入れて報復するだろうと説いている。引用文の「そこ」は獄を指す。ユングは、怒りという情動にとらえられることは獄にとらえられるようなものであるという寓意をこめている。
- 註31
この引用句にそのまま当たる文はない。おそらく要約。次の句は、太乙金華宗旨、第1章2a に類似の句がある。
- 註32
次の私の論文にくわしくのベてある。Jung, Die Beziehungen zwischen dem Ich und dem Unbewußten. 7. Aufl. 1963. (Ges. Werke, Bd. 7, 1964.)
- 註33
Jung, Psychologische Typen, Kap. V. (Ges. Werke, Bd. 6, 1960.)
- 註34
ここの意味はたぶん次のような事情を指しているのであろう。反対の性の者が魄や幽霊をコントロールするというのは、男性の審神(さにわ)が巫女に憑依した霊をしずめるような習慣を指すのであろう。また超心理学という用語は、そういう心霊現象を研究する心理学という意味であろう。
- 註35
ユングは男性における意識面と無意識面の関係を、ロゴスとアニマという対比でとらえ、女性の場合はエロスとアニムスという対比でとらえている。「魂」と「魄」の関係は、前者、つまりロゴスとアニマの関係に近い、と彼は解しているのである。これに対してヴィルヘルムは、「魂」と「魄」をアニムスとアニマに近いものと解している。「魂」と「魄」は元来、意識と無意識の両方を含めた心の二要素と解すべきであろうから、ユング心理学の用語法と完全におきかえることはできにくい。ユングとヴィルヘルムの用語法のちがいについては、<&……GT;英訳者ベインズの説明を参照されたい。
なおユングが、中国哲学は全く男性の精神世界に属すると言っている点については、次のような点に注意しておく必要がある。心理学的にみて哲学的概念が男性心理の立場に即して定義されていることは、西洋のキリスト教的教義学も中国哲学も同じであるが、中国では、男性心理の中に潜在する女性的無意識的要素の存在を承認している。「魂」と「魄」の関係は、このことを示している。しかし西洋では、そういう要素(エロス、肉)の存在を人間のたましいの霊的本性から排除しようとするために、理論的困難が生れる、とユングは考えているのである。
- 註36
logos spermatikos ストア哲学の用語。宇宙を支配する理法ともいうべきロゴスに対応して、人間のたましいに宿るロゴスの種子。ストア哲学の霊魂論では、この種子的ロゴスは生殖器の部分に宿るものとみなされた(ジャン・プラン『ストア哲学』クセジュ文庫、白水社、六八頁以下参照)。
- 註037
Hyslop, Science and a Future Life, Boston, 1905.
ハイパー夫人は今世紀初めごろの有名な霊媒。多くの男性の霊が現れたという。ユングは、男性は意識面で多くの女性に関心を抱く傾向がある反面、無意識では一人の理想の女性像(アニマ)を有しているのに対して、女性は逆に、意識面では一人の男性を求めつつ、無意識では多数の男性像(アニムス)をもつ傾向があるという。ハイパー夫人の場合はその例である、と彼は解釈している。
- 註38
Lévy-Bruhl, Les Fonctions mentales dans les sociétés inférieurs, 1912.
- 註39
ユングは、ここにsubtle body という英語を挿入しているが、これは、ヨーガ哲学における微細身 sûkshma sharîra の訳語として一般に用いられているものである。ヨーガ哲学では、現実の生理的身体組織の根底にみえざる第二の身体としての微細身が潜在するという。瞑想はこの微細身のはたらきを目覚めさせ、死によっても解消しない不滅の身体をつくり出すことである。
- 註40
アムフォルタスは、中世の詩人ヴォルフラン・フォン・エッシェンバッハの長編叙事詩『バルチバル』に出てくる王の名。この詩に取材したヴァーグナーの楽劇『バルジファル』は有名である。アムフォルタス王は妖女クンドリーへの愛に迷い、キリスト磔刑の聖槍によって重傷を負い、愚者バルジファルに救われる。アムフォルタスの傷は、道をふみ外し、世界苦に悩む人間の存在を象徴する。
- 註41
まさにこれが神秘的分有関係の克服である。
- 註42
太乙金華宗旨、第8章。ここでユングは、古代の賢者をDer alte Adept Gu De と固有名詞のように解しているが、Gu De の原語は「古徳」である。
- 註43
[ヴィルヘルムの注] 西洋の教義学者と対照していえば、中国の哲学者たちは、こういう〔ユングのような〕態度に対して、ただ感謝するだけである。なぜなら彼らは、彼らの神々に対しても主人であるからである。
- 註44
この書物が「生の永続」〔永生、不死〕について語っている場合、それは死後の生命の存続についてのべているのか、それとも物質的肉体の永続についてのべているのか、はっきりしない。「生命の霊薬」〔丹〕などといった表現は、はなはだ漠然としたものにすぎない。瞑想(ヨーガ)についての教示が純粋に生理的意味に理解されているということは、後人が補足説明した部分によってわかる。われわれ〔西洋人〕にとっては、こういう身体的問題と精神的問題を混合した説明は異様に思われるかもしれないが、未開な精神にとってはそれほど気になることではない。われわれとちがって、彼らの場合、生と死は絶対的な対立を意味しないからである(この点については、民族学的資料の他に、特に興味深い例として、徹底した古代的表象をともなったイギリスの「レスキューサークル」rescue circles の〔死者との?〕「交流」があげられる)。「不死」についてのこのような曖昧な観念は、よく知られているように、初期キリスト教の中にも見出されるものである。そこでは全く類似した前提、つまり生命の重要な担い手たるべき「霊気的身体」という観念にもとづいて、不死を理解している(ゲーリー Geley の超生理学的理論は、この古代的観念の現代風の再生であろう)。しかし、われわれはここでは、この書物について、その迷信的な読み方、たとえばこれによって黄金〔金丹〕を製造するといった迷信に対しては警告を与える立場に立っているのであるから、ためらうことなくその教えの精神的意味を主張しても、テキストの意味するところと何ら矛盾しない。この書の教えが目標としている境地においては、物質的身体はあまり重要でない役割しか果していない。というのは、それは「霊気的身体」によっておきかえられているからである(瞑想(ヨーガ)の修行において、一般に呼吸法の重要性が説かれるのはそのためである)。「霊気的身体」は、われわれのいう意味において「精神的」なものではない。西洋人は、知識を得る目的で、物質的なものと精神的なものを分離してしまうくせがある。しかし魂というものは、この対立するこつのものが集まってでき上っているのである。心理学はこの事実を認めなければならない。「心的」ということは、物質的であるとともに精神的であるということである。われわれの書物の表象のしかたは、そういう曖昧で混乱したようにみえる中間的世界の中を動いているのであるが、これは、「心的現実」という概念が、独特な生命的領域を表現しているにもかかわらず、われわれの間ではその意味内容がまだ十分知られていないためなのである。魂がなければ、精神は物質的素材と同じように死んだものである。というのは〔精神と物質という〕両者は作為的な抽象物にすぎないからである。しかし根源的な直観においては、精神とは揮発性をおびた身体なのであり、また物質的素材にも魂の息吹きが通っているのである。
「霊気的身体」Hauchkörper, breath-body という言葉の Hauch, breath は息、呼吸の意味なので、ユングはこう言ったのであろう。これらはギリシア語のプノイマ pneuma の訳であるが、プノイマは元来、息という意味とともに、霊という意味をもっている。ユングはヨーガの微細身や『慧命経』でいう金剛体、あるいは道教でいう真人受胎を、そういうプノイマ的存在様式の表象とみなしている。この見方はほぼ正しい。ヨーガにおける呼吸法は、微細身のはたらきを活発にする訓練である。
- 註45
Imatatio Christi 中世ドイツの神秘家トマス・ア・ケンピス(1380-1471)の主著。修道士がキリストの先例に従って生活するように勧めた教訓書。