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アウトクトネス観とアテナイ人たち



Vincent J. Rosivach
Autochthony and the Athenians
Classical Quarterly 37(ii) 294-306(1987) Printed in Great Britain




 前5/4世紀のアテナイ人たちが誇りをもって主張したことは、自分たちの祖先はずっとアッティカに住みつづけてきたということであったが、この主張を彼らは、みずからを(au)to&xqonej)と言い表すことで表明した。自分たちはずっとアッティカに住みつづけてきたというアテナイ人たちのこの信念に関係するのが、第二の信念――一国民として、彼らは文字どおり「大地から発生した」というものであった。一般には、これら二つの信念は、非常に早い時期に発展したと主張されているが、しかしそれは単なる憶説であって、この論考においては、逆に、二つの観念は比較的遅く発展したということを示唆する証拠を見ることになろう。この論考は、アウトクトネスという概念の発展に焦点をあて、われわれの典拠が許すかぎり、アウトクトネス観がアテナイ人たちにとって何を意味するかをよりよく理解することに努める。とりわけ、どのようにしてアテナイ人たちは自分たちのことを「大地から生まれた」と考えるにいたったかを考究する。次に、(au)to&xqwn)という単語を媒介に、「大地から生まれた」という観念が、いかにして、「往古の昔からひとつ所に住む」ということを象徴するようになったかを示唆する。最後に、アウトクトネスという概念が、アテナイ民主制に関係する脈絡の中でどのように用いられたかを検討する。


[I]

 通説では、上述のごとく、ある不確かな、しかし非常に早い時期に、アテナイ人たちはひとつの国民として、アッティカにずっと暮しつづけてきたと信ずるにいたった;さらに、これら初期のアテナイ人たちは、この信念を、神話的用語によって、原始的な人々が比較的よくするように、自分たちの国民は、文字どおり、故国の土壌から発生したという言い方で表明した。こういった主張から、これら初期のアテナイ人たちが、大地から生まれたエレクテウスを、自分たちの神話的祖先として案出、あるいは少なくとも、自分たち自身の土着民としての出生に対する信念の表明として、エレクテウスに大地からの出生を与えるのは、容易な一歩である。ホメロスは『イリアス』の中ですでにエレクテウスを大地から生まれたとして記述していたので((...0Erexqh~oj megalh/toroj o(/n pot' A)qh&nh|qre&ye Dio_j quga&qhr, te&ke de_ zei/dwroj a!roura)「…… 心の大いなるエレクテウス、これをばかつて養いしは、ゼウスの御娘アテネ、されど生めるは実り豊かなる畑地」『イリアス』第2巻547-8)、これを解釈すれば、『イリアス』はこうして、アテナイ人たちはずっとアッティカに住みつづけてきたという彼らの信念のterminus ante quemを提供していることになろう。ところが、やがて、事実として、アテナイ人たちはエレクテウスの大地からの出生を、自分たち自身の土着民としての出生と関連づけるにいたったが、しかし、彼らがこの関連づけを早い時期に行ったという証拠はなく、また、後世に行ったことが、かかる初期の信念に確実に導くとはかぎらない。じっさい、われわれが有する証拠が示唆するのは、むしろ、初期のアテナイ人たちは、エレクテウスをば、蛇体ないしは半蛇体の神性とよりほかには考えなかったということ――彼は例えば『イリアス』第2巻550-1で生け贄を捧げられている――、また、人間の祖王への彼の変身は、おそらくは、前5世紀以降に起こったということである。これに関して興味深いのは、やはり大地から生まれたといわれているケクロプスが、アテナイ人のアウトクトネス観を象徴するためには決して使われないということに留意することである。今仮に、ケクロプスの大地からの出生が、アテナイ人たちのアウトクトネス観と何ら関係しないのなら、a prioriに尤もなのは、エレクテウスの大地からの出生も、少なくとも本来的には、アウトクトネス観に何ら関係しない。むしろ、ケクロプスとエレクテウスとは、人王とみなされるにいたる以前はいずれも神であったし――じっさい、王とみなされていたときでさえ、エレクテウスは神としてエレクテウス神殿で崇拝を捧げられつづけていた――、エレクテウスもケクロプスもどちらも大地からの出生を同じ初期の宗教的観念(これがまた大地からの出生に帰属する)に負い、蛇体ないし半蛇体の性格は、ギリシア神話の他の箇所で見い出される似たような存在物に負うていた。

 エレクテウスの大地からの出生が初めであり、アテナイ人のアウトクトネス観との関係が後だということをよくよく考えれば、アテナイ人たちが、後に、大地から生まれたエレクテウスを自分たちのアッティカ定住の象徴とみなすにいたった過程を追跡することは可能であろう。先に注意したように、ホメロスによれば(『イリアス』第2巻547-8)、エレクテウスは、文字どおりに、大地から生まれた。今、大地から生まれた初期王の一人あるいはそれ以上を取り上げても、アテナイ人たちを、種族として、大地から生まれたものにしなかった。アテナイ人たちは古い王統の子孫ではなかったからである。もっと重要なのは、すでに見たように、エレクテウスはもともと神であったらしいこと、そして、彼が人王を通して存在したのではなく、だからまた、前5世紀以前に、アテナイ人たちの可能な祖先でもなかったということである。とはいえ、アテナイ人たちはホメロス(『イリアス』第2巻547)によって(dh~moj 0Erexqh~oj)〔エレクテウスの民〕と呼ばれ、ピンダロス(I. 2.19)と同じくらい早くにエレクテイダイ(Erechtheidai)と呼ばれ、それ以後もしばしばそうであった。この姓は「エレクテウスの国民」を言い表すのに漠然と使われたが、文字どおりには、「エレクテウスの子たち」を意味する。はっきりしているのは、この姓の頻用は、わたしの示唆を待つまでもなく、アテナイ人たちは一国民である、少なくとも、比喩的にいえば、エレクテウスの子孫であると考える習慣を助長したということである。かくて、エレクテウスが大地から生まれたのであれば、そのときは、そう考えることによって、アッティカ種族もまたそうであった。こうして、例えば、ソポクレス『アイアス』202においてテクメッサはサラミスの船乗りたちに(genea~j xqoni/wn a)p' 0Erexqeida~n)〔大地より生まれたエレクテウス家の血筋をひく方々〕と呼びかける。ここ、アテナイ国民を全体として大地からの出生を含意する最初期の現存文献の中で、留意すべきは、ソポクレスが(0Erexqeida~n)という姓を、アテナイ人たちを言い表すために用いたということである。(xqoni/wn)は効果的にも添え名に移された:大地から生まれたエレクテウスの民は、エレクテウスの大地から生まれた民となった。

 ここで、いくつかの注意書きが順序である。第一、アテナイ人たちは大地から生まれたエレクテウスの子孫であると、あるいは、彼ら自身が大地から生まれたと言ったからとて、それはふつう、アテナイ人たちは大昔からアッティカにいたということを示唆するわけではない。じっさい、大地から生まれたということは、通常は、まったく違った含意をもつ。xqo&niojという、ソポクレスに用いられた形容詞は、たぶん、地下世界、あるいは、大地から生まれた巨人族や他の怪物と関係する(例、Tith~naj xqoni/ouj〔大地から生まれたティタンども〕ヘシオドス『神統記』697)。ghgenh/jという、文字どおり「大地から生まれた」を意味する単語は、大地からの出生のある人ないし物を言い表す(例、0Erexqe&oj tou~ ghgene&oj lego&menou〔大地から生まれたと伝えられるエレクテウスの〕ヘロドトス、第8巻55)が、しかしこれもまた大地的怪物を含意する(例、dra&kwn o( ghgenh&j〔大地から生まれた竜〕エウリピデス『フェニキア人たち』931)。この二つの形容詞は、テバイのスパルトイを言い表すのに用いられる(xqo&niojは例えばエウリピデス『バッコス信女』538-41;gghenh&jは例えば同上 264))が、歴史的テバイ人たちがテバイに大昔から住んでいたと主張する人は誰もおらず、この形容詞がこれらテバイ人たちの脈絡で何ごとかを呼び起こすとしても、それはスパルトイの直接の子孫の怪物的性格にすぎない。簡単にいえば、形容詞xqo&niojghgenh&jも、大地から生まれた何ものかの子孫という神話でさえも、それ自体では、特定のひとつ所に居住しつづけたということを含意しない。アテナイの神話がこういう仕方で理解されるにいたったということは、この論考において説明を差し出そうとすることに対する特別な場合である。

 第二に、アテナイ人たちが全体として自分たちをエレクテイダイつまりエレクテウスの子孫だと習慣的に思っていたというは明確さから程遠い。じっさい、アリストパネス『騎士』1515-22において、パプラゴニア人がデモスのことを0Erexqei/dhと呼びかけたと解したデモスの誤解が示唆しているのは、0Erexqei/dai0Aqhnai~oiと同義として使用することは、決まり文句ではあるが、しかし、それはあまりに大袈裟な「詩的」決まり文句であって、デモスのような教養低き者には理解できなかったということである。この姓が詩的用法にかぎられるとしたら、アテナイ人たちにとっての大地からの出生という主張は、この姓から進化したとわれわれが論じていたところの主張は、他の詩的な独断として始まったらしく、広く世間に流布した信念の反映として始まったのではないらしい。

 最後に、エレクテウスや他の初期のアテナイの王の大地的誕生は、ただ単に、アテナイ人たちはアッティカにずっと住みつづけてきたというアテナイ人たちの信念の神話的定式であったのではないと、積極的に論ずることが可能である。他方、エレクテウスやその他大地から生まれた諸王の、原始的な蛇体/大地的性格は、彼らの起源が非常に早い、時代を限定できないにしても、アテナイの宗教期にあるということを暗示している。その一方で、アテナイの伝説が、アッティカへのアテナイ人の移住の記憶を含んでいないからには、民族移動の伝説を有しているドリア族のような国民と接触するようになるまでは、アテナイ人たちの伝説の中に存在し*ない*ものにことさら気づくと信ずべき理由はない。この点においてのみ、アテナイ人たちは、ドリス人たちと違って、移住したことがない、と自覚するようになる理由を有し、こうして、自分たち自身の移住の記憶の欠如は、アテナイ人たちはずっとアッティカにいたという積極的主張へと転化した。真に早期の典拠があまりに少ないので、この主張がいつ作られたかをいうことは不可能であるけれども、「ドリス族侵入」以降、それもできるかぎり後ということは確かである。じっさい、アウトクトネス観は単に差異の問題ではなく、優越性の問題であり、この観念が広く知られるようになるのは前470年以降、アテナイ人たちがドリス族スパルタ人たちと敵対するときから後である。しかしながら、実際の年代がどうであれ、自分たちはアッティカにずっと住みつづけてきたというアテナイ人たちの観念は、エレクテウスの大地からの出生に対する信念よりも大いに新しく現れたのは確かであり、それゆえ、〔その観念は〕この信念の源ではない。

 要約すれば、全体として大いに尤もらしいのは、アッティカに永住してきたというアテナイ人の伝説は、初めは、エレクテウスないしは大地からの誕生と関係しなかった。しかしながら、時代とともに、アテナイ人たちはエレクテイダイと同一視するにいたり、結果として、エレクテウスの大地からの出生は、全体としてのアテナイ人たちに移し変えられた。結局、アテナイ種族のこの大地からの出生は、自分たちは大昔からアッティカに住みつづけてきたというアテナイ人たちの信念のお決まりの譬えと結びつき、譬えとなった。アウトクトネスという概念に、政治的関係性――それをこの論考の後半で調べるつもりだ――が与えられれば、少なくとも、この過程の最終段階は、前5世紀の前半に位置づけられる。しかしながら、この政治的関連を調べる前に、まず、au)to&xqwnという単語そのものをもっと詳しく考察しよう。


[II]

 au)to&xqwnという単語に立ち帰ると、大昔から故国に住みつづけてきた民を言い表すのにずっと用いられてきたという注意から始めることができるが、その仕方には二つある。その国民が文字どおり大地から生まれたと言い表すことがしばしばあり、この意味でのau)to&xqwnghgenh&jと同義に用いられうる(例えば、プラトン『ソピステス』247cならびに248cを参照せよ)。しかし他の場合は、au)to&xqwnは、国民ないしはその先祖が大地から生まれたという何らの示唆もなしに土着民を言い表すのに使われる。ヘロドトスはau)to&xqwnのこの第二の好例をいくつかわれわれに提供してくれている。第1巻171-2にいわく、カリア人たちは自分たちのことをau)to&xqonaj h)peirw&taj〔土着の大陸人〕と思っているが、クレタ人たちは、カリア人たちは島嶼からやってきたといっている;またカウノス人たちは、クレタからやってきたと主張しているけれども、筆者にはau)to&xqonejに見えると。第4巻197章2では、リビアの民を記述するなかで、筆者はギリシア人やフェニキア人をe)ph&ludej、リビア人たちやエティオピア人たちをau)to/xqonejと呼ぶ。最後に、第8巻73章では、ペロポンネソスの7つのe!qnh〔種族〕を記述する中で、彼はいう:
tou&twn de_ ta_ me_n du&o au)to&xqona e)o&nta kata_ xw&ran i(/drutai nu~n th|~ kai_ to_ pa&lai oi1keon, 0Arka&dej te kai_ Kunou&rioi.
 「そのうちアルカディア人とキュヌリア人の二種族の土着民は、昔と同じ地域に今も住んでいる」
しかし他の5つのe!qnhe)ph&luda"〔移住民〕である、と。アルカディア人たちの神話的王統は、大地から生まれたペラスゴイに始まるというやや弱い伝説があるが、この弱い伝説を別にしても、ヘロドトスがこの3行で言及した国民のいずれについても、われわれの知るかぎり、その種族が大地から生まれたとか、大地から生まれた王に統治されたとか主張するものはいない。じっさい、少なくともカウノス人たちが言及されるかぎりでは、彼らの伝説は、ヘロドトスによってここで記述されているとおり、そういう可能性を排除するのである。

 au)to&xqwnの二つ(大地的関連を有するのと有しないのと)の用法は、現存する典拠の同じ時期に現れる。大地からの出生を示唆しない最初期の事例は、ヘロドトスの上述の行文の中にある。他方、大地的関連が含意しているように見えるのは、アイスキュロス『救いを求める女たち』250-1において、アルゴスの王ペラスゴスが自分のことを「余は大地から生まれたパライクトンの息子(tou~ ghgenou~j ga&r ei)m' e)gw_ Palai/xqonoj| i)~nij)」――アイスキュロスの考案したパライクトンという名前は、au)to&xqwnという単語を思い起こさせる意図があるようにみえる――というときである。『救いを求める女たち』は前463年ころ書かれ、ヘロドトスの行文よりもいくらか先であるが、どちらの文献も、au)to&xqwnの二つの用法の発展にとって実際terminus ante quamをなすにすぎず、この時期から伝存する文献がほとんどないので、現存する典拠に現れる以前に、どちらの用法がどれくらいの期間続いたのかをいうことは不可能である。こういう事情のもとで、『救いを求める女たち』という文献の先駆性は、au)to&xqwnの大地的用法が原住民的用法に先駆けたということを確実には証明できず、この単語が文献中に現れはじめたときには、どちらの用法もすでに一般的だったというのがよかろう。

 語源学は、たぶん、現存する文献を越えて過去へとわれわれを遡及させうるひとつの道具である。とりわけ、au)to&xqwnのように、その語源が見え見えの合成語の場合にはそうである。ひとがau)to&xqwnというような単語を造語する場合、その単語の構造、すなわち、その構成要素や、それら諸要素が組み合わせられる仕方は、合成語によって表現される観念と可能なかぎり密接に対応しているはずである。もしも、この単語の構造が、現存する文献のいくつか(あるいは、全部でもよいが)にこの単語が用いられている仕方と対応していないなら、その単語によって表現される概念は、時代とともに進化したのである、そして、その単語の構造の中にはっきりと見てとれる語意は、その単語が表現する概念の*もともとの*形に対応しそうだ、と結論づけてよいであろう。au)to&xqwnは、もちろん、au)to&jxqw&nとの合成語である。一般的には、この合成語は、e)k th~j xqono_j au)th~j geno&menoj〔大地そのものから生まれた〕ような何か或るものを表現するものと思われているが、しかしそれは、すぐ後にに見るように、この合成語の自然な意味ではないし、だからして、もともとの語意であったというのも、ありそうなことではない。

 先ず、この合成語の二番目の要素たるxqw&nという語そのものは、もともと大地、とりわけその表面を言い表した(例、e)te&qapto u(po_ xqono&j〔大地の下に埋葬され〕『オデュッセイア』第11巻52;『イリアス』第4巻443のe)pi_ xqoni/〔地上〕と対照されたou)ranw~〔天空に〕を参照せよ)。ホメロスは一度、xqw&nを「土地、場所」の意味で使っており(『オデュッセイア』第13巻352)、この用法は、ピンダロスに(例、「ピュティア競技祝勝歌」9.7)、また後世の作家たちによってもしばしば受け継がれる。結局、ピンダロスは、特定の国民の領土に帰属する「土地、国土」という意味での(「オリュムピア競技祝勝歌」7.30)、xqw&n使用の現存する最初期の典拠となる。xqw&nという語は、本質的には「詩語」であり、管見の及ぶかぎりでは、古典期の現存するいずれの散文作品の中にも現れない。同様にして、BuckとPetersenによってまとめられた-xqwnという合成語の中に、ピタゴラス学派のa)nti/xqwn――中央火の両側に位置する一対の土地の名前――という用法にアリストテレスが言及している(例、『天体論』293a24);他には、ハリカリナッソスのディオニュシオス以前の文学的散文の中に、au)to&xqwnが見出せるだけである。われわれが見ようとしているように、au)to&xqwnの中の第二語基-xqw&nは、おそらくは、「土地、国土」の意味を有する。xqw&nのこの意味がわれわれの典拠に現れるのは比較的遅く、しかも、au)to-との通常の合成(これについては後述する)、また、xqw&nのほとんどもっぱら詩語としての使用とその合成語とがもろともに暗示しているのは、au)to&xqwnという単語は自然発生的にできたのではなく、意識的な造語だったということである。au)to&xqwnとアテナイ人たちとの特殊な関係という観点からいえば、この単語の起源がアッティカにあることは蓋然性が高そうであるし、アッティカ演劇こそはこの語の普及に責任を負うと、当てずっぽうを言ってみることもできよう。

 au)to&xqwnが、事実、きわめて尋常ならざるau)to-合成語であるのは、二番目の要素〔語基〕が名詞だからである。たいていの場合、au)to-は、能動的であれ(例、au)to&pthj〔目撃した〕)、再帰的であれ(例、au)todi/daktoj〔独学した〕)、受動的であれ(例、au)to&grafoj〔自分で描かれた〕)、ひとが自分でする行為を必要とする動詞の語基に対する第一語基である。au)to-が名詞の語基と合成されるのは、はるかに稀であるが、しかしまた〔合成された場合には〕、より多彩な語意をもつことにもなる:

 (A)ひとが何かを自分ですることを示す(例、au)tourgo&j〔自作農〕、〔用法を〕拡張して、au)to&xeir〔手ずから〕、au)to&pouj〔徒歩で〕);これは、能動的用法の動詞の語基とのau)to-合成語に対応する;
 (B)形容詞で、誰からも押しつけられたのではない、自分自身のものを所有するひとを言い表す(例、au)to&nomoj〔自由意思で〕[ソポクレス『アンティゴネ』821]、au)to&dikoj〔自主司法権を有する〕[トゥキュディデス、第5巻18.2];これは再帰動詞として用いられる動詞の語基とのau)to-合成語に対応する;
 (C)いくらか似た仕方で、物を言い表す形容詞において、合成語に含まれている名詞の要素に帰せられるものが、より大きな本体の自然な延長であることを示す(例、"<a!rotron> au)to&guon「本体〔犂床"eluma"〕から分岐した自然なgu&hj〔犂身〕をもった<犂>」;be&lh au)to&kwpa「それ自身に柄のついている武器〔=剣〕」);
 (D)家族関係を表す名詞の第一語基として、関係の親密さを強調する(例、au)ta&delfoj「血のつながった自分の兄弟/姉妹」;au)tokasi/gnhtoj〔まことの兄弟〕);
 (E)形容詞だが、名詞の語基は、何かが作られる原料に自然に働きかけた結果と同一視される(例、au)to&culon e!kpwma〔粗末な木の器〕、au)to&pokon i9ma&tion〔粗末なウールのヒマティオン〕);この合成語の中で第一語基のau)to-が用いられるのは、おそらくは、対象が原料そのものの特徴をいまだとどめていると言い表されるからであろう;
 (F)特に哲学的言説で、形相を意味する名詞の中で(例、au)toa&nqrwpoj、〔人間の形相〕au)to&ippoj〔馬の形相〕[アリストテレス『形而上学』1040b35];非哲学的な脈絡では、例、au)to&tokoj「屍体そのもの」[Alcph. 3.7.27]);
 (G)形容詞で、「〜その他すべて」の意味で(例、"autotokos"〔生子ぐるみ〕[アイスキュロス『アガメムノン』137]、au)to&xqonoj〔国ぐるみ〕[アイスキュロス『アガメムノン』536]、au)to&premnoj〔根こそぎ〕[ソポクレス『アンティゴネ』714);この用法は、与格で名詞を修飾して、同じ意味に用いられるau)to&jの語法から発達した。

 ここまでに考察されたすべての用法において、第一語基au)to-au)to&j(=ipse〔自身〕)の強意的用法を反映している。明らかに、(A)、(F)、(G)はau)to&xqwnに満足な語意を提供し得ない。「自分たち自身の土地をもつ」という(B)の意味は、これが有意味であるとすれば、自分たちの国土を、誰かに他の者によって押しつけられて持っている人たちとの対比を含意しなければならないが、ギリシア世界では強制された再定住はきわめて稀であり、この欠如は、誇るにたるほども意義を持っていない;また、第一語基au)to-は、もっと漠然と、「自分たち自身で、独力で」という意味で使用されているというのも、ありそうなことではない。国家の独立という単純な事実は、アテナイ人たちの自己像の重要な部分であるけれども、それはau)to&xqwnによって言い表される観念の外延の部分ではないからである。(C)もまた不充分であるのは、アッティカの土地をアテナイ人たちの自然な延長とはしないであろうからであり、同じように、(D)の意味におけるau)to-第一語基も、アッティカこそがアテナイ人たちに属する(au)to&xqwnである)と言い表されるのが常であって、むしろvice versa〔あべこべ〕だからである。最後に、(E)の意味でのau)to&xqwnも不可能である、というのは、それが示唆するのは、アテナイ人たちは、いわば、ありのままに造作された、ある意味で「未完成の」土地であるが、au)to&xqwnが、アテナイ人たちは原始的、ないしは、非文化的であるということを意味するために使用されることは決してないからである。ちなみに、われわれが注意できるのは、ここまでの考察では、au)to-が第一語基の用法のどれひとつとして、「大地から発生した」という意味でのau)to&xqwnの定義に何らかの類例を提供するものではないということである。

 au)to&j=ipse〔自身〕という再帰的au)to-の用法に加えて、この第一語基はまた次のような、「同じ」(=idem〔同じ〕)という意味でのo( au)to&jを反映する仕方で用いられる:
 (H)「〜と同じ」という意味で(明らかにSem. 7.12 にのみ:au)tomh&twra、「ちょうど彼女の母のような」、しかしその解釈は明解さからは程遠い);
 (I)時を表して(例、au)qh&meron〔同じ日に〕、au)to&etej〔同じ年に〕);
 (J)「他のものと同じ〜を有する」という意味で(明らかに、a)qana&toij o(me&stioi, au)totra&pezoi不死なる者たちとともに竈を分け合い、食卓を共にする〕[エムペドクレス断片147.1]にのみ;au)togenh&j〔身内の〕[アイスキュロス『救いを求める女たち』8の、一般に校訂箇所と受けとめられている箇所];au)qai&mwn〔血を同じくする〕[ソポクレス『トラキスの女たち』1041、Lyc. 1446]、au!qaimoj〔血縁の〕[ソポクレス『コロノスのオイディプス』1078;参照、au)qo&maimoj同じ血を分けた〕、同335、Lyc. 168, 222]、au)tepw&numoj〔同姓の〕[エウリピデス『フェニキア人』769]また、au)to&frwn kai_ o(mospo&ndwn[Ion 19F53f])。

 (H)が第一語基au)to-の正統な用法だ――そうであるという確証には程遠いが――としても、「土地と同じである」は、アッティカの土壌の伝統的に貧しい本質を考えるとき、ほとんど讃辞たりえないようだ。(I)は時の表明にかかわるから、au)to&xqwnに類例を提供しえない。最後に、(J)は、「同じ土地を有する」を、「同じ土地にずっと住みつづけてきた」という意に解するなら、au)to&xqwnにすぐれた説明を提供する。この解釈によって、この単語の構造は、アウトクトネス概念の中核となる土着民であるという観念をぴったり反映する。じっさい、この単語の構造と、それが表現する観念との間の合致は、この解釈の場合に最も説得的である。特に、第一語基au)to-の立証された他の用法はどれも、au)to&xqwnのいずれかの用法に合致する語意をもたらすことに接近しない、あるいは、何とか受け容れ可能な意味を作ることさえしないから、なおさらである。

 上述の解釈の助けに、au)to&xqwnの通常の反対語はe!phluj〔移住民〕だということに注意を向けることができる(参照、ヘロドトス、第4巻197章2、第8巻73章1;イソクラテス、第4弁論63、第12弁論124;プラトン『メネクセノス』237b;[伝デモステネス]第60弁論4;e)pakto&j〔居留外人〕との対比で、エウリピデス『イオン』589-90、断片362.7)。e!phlujは、e)pe&rxomai〔赴く〕からできた比較的稀な形容語であるが、散文中に、例えばトゥキュディデス、第1巻29.5に見い出され、ここでは、コリントス人たちがエピダムノスの党争の一方を支援するために建設した新しい入植者たちを言い表すのに使われている。au)to&xqwnをその反対語によって定義するなら、ou)k e!phluj〔非ー移住者〕、ある所にやって来たのではない者、移住民ではなくて原住民、を言い表すことになろう。すでに論じたごとく、au)to&xqwn=「同じ土地をずっと有しつづけた」との密接な対応は、au)to&xqwnのもともとの語意であった。

 上述のau)to&j + xqw&nという説明を受け容れると否とにかかわらず、少なくとも確言しうることは、*構造的に*この単語は「大地から生まれた」を意味しないということ。さらに、すでに述べたごとく、ひとは単語の構造がその語意に対応しないような語を造語するなどということはまったくありそうにないことだから、au)to&xqwnは、もともと、その構造に対応した観念を、すなわち、おそらくは「同じ土地にずっと住みつづけた」ということを表現していたと結論づけてよかろう。他方、先に見たところであるが、アテナイの初期の諸王が何人か大地から生まれたという信念は、もともと、アテナイ種族はアッティカの土着民であるという信念と何ら関係しない;さらにわれわれが見たのは、大地から生まれたというのは、普通は、ある特定の場所にずっと住みつづけてきたということと何ら関係しない、大地からの出生とアウトクトネス観との関係は、説明を必要とするすぐれてアテナイ的発展であったということである。時代とともに、エレクテウスの大地からの出生が、アテナ人のアウトクトネス観を象徴するにいたるにつれて、逆に、au)to&xqwnという単語は、「大地から生まれた」と解されるにいたった。これら二つの観念がお互いに影響しあったという結論に反対するのは困難であり、アテナイ人たちの「先祖」としてのエレクテウスの大地からの出生が、au)to&xqwnという単語が理解される仕方に影響して、au)to&xqwnという単語は今のように、大地からの出生と、アッティカにずっと住みつづけたという観念との連結を提供すると解された。

 さて、われわれの議論の要点はこうである、すなわち、通念とは逆に、エレクテウスの大地からの出生は、初め、アテナイ人たちの土着民としての出生と何ら関係しなかったということ;これら二つの観念は、比較的後の時代に、たぶん前5世紀以降に、ひとつの観念に混合されたにすぎないということ;そして、エレクテウスがアテナイ人たちのアウトクトネス観の象徴になりえたのは、その混合の結果にすぎないということである。さらに、この象徴は、通念が有するような社会的・宗教的信念の表明ではなく、むしろ、この象徴の使用は、次に検証して示すように、政治的な、あるいはもっと正確には、アテナイ民主制と連結した、イデオロギー的信念の表明の手段だったのである。


[III]

 ここまででわれわれが従事してきたのは、アウトクトネス概念のもともとの意味と、その発展であった。今や、考察すべきは、アテナイ人たちがアウトクトネスであることを誇りとしたのはなぜかということである。たいていの場合、われわれの典拠が単純に断言あるいは含意するのは、アウトクトネスであることは、なぜとかどのようにとかいう説明抜きに、アテナイ人たちを優越させるということである。こういった事例の多くは、事実、公的な葬送演説――そこでは、アテナイの歴史の主張は、世間に広く理解されているので、これに馴れ親しんだ聴衆にとって、説明は不要である――のような愛国的脈絡の中に現れる。まったく同様に、アテナイ人たちは他国民よりもすぐれているという結論に、少なくともしばらくは「愛国的理屈」が働いているという疑念を抑えることはできない;アテナイ人たちはアウトクトネスであるが、他国民はさにあらず;ゆえに、アウトクトネス観はアテナイ人たちを他国民よりも優越させるあるものである。この疑念は、アウトクトネス観が何ゆえに優越性を授けるのかという何らかの示唆を提供する典拠を読むとき、強められる。じっさい、一つならずさまざまな理由を見い出すのだが。

 最も単純な段階では、「同じ土地にずっと住みつづけた」というアウトクトネス観は、ポリスがすこぶる古くて、建設されたのはどのようにしてかとか、いつなのかとか誰も知らないほどだということを意味することができる。最古であること、あるいは、少なくとも非常に古いということは、古さを尊重する社会では自動的にひとを優越させ(参照、アリストテレス『弁論術』1360b31-2)、アテナイ人たちがa)rxaio&taton e!qnoj〔最古の民族〕(ヘロドトス、第7巻161章3)であるということは、それ自体が、それ以上労力を必要としない特恵待遇的主張である。単なる古さ以上に、そこにあるのは「事実」――他の国民が地から地へとまださすらっていたとき、アテナイ人たちは、いわば腰を落ち着けて、出発したのであり、したがってまた、他国民に先駆けて文明化にいたる過程を開始しえたという「事実」である。かくして、アウトクトネス観についても述べている脈絡の中で、イソクラテスはいうのである(第12弁論124)、アテナイ人たちは、prw&touj...kai_ po&lin oi)kh&santaj kai_ no&moij xrhsame&nouj〔国を統治し、法習を適用した最初の者たちである〕(参照、イソクラテス、第4弁論39、第8弁論49);プラトン(『メネクセノス』237e-238a)とイソクラテス(第4弁論28-9)は言う、アテナイ人たちは初めて穀物を栽培し、この発見を彼らは惜しげもなく他国民に分け与えた([伝デモステネス]第60弁論5をも参照);またプラトン(『メネクセノス』238b)は言う、アテナイ人たちは初めて諸々の術知を学んだ。イソクラテスはアテナイについて言う:eu(rh&somen...au)th_n...th~j...kataskeuh~j e)n h|(~ katoikou~men kai_ meq' h(~j politeuo&meqa kai_ di' h$n zh~n duna&meqa sxedo_n a(pa&shj ai)ti/an ou}san〔われらの発明せるは、それによって暮らしを立て、それを使って為政し、そのおかげで生きることのできる装備のほとんどすべての原因となるものなり〕(第4弁論26-7;参照、プラトン『メネクセノス』238b、Hyp. 6.4-5、キケロ『フラックス弁護』62)。トゥキュディデスは、堂々とした言い回しからは程遠いけれども、アテナイの初期の発展を、侵入者の攻撃を受けなかった(そして、党争への傾向性も少なかった)アッティカの貧しい土壌のせいにしたとき、同じ観念に触れているように見える;他の国土は国民の絶えざる交替を被った、それゆえ、アテナイが安定した住民のおかげで実現できたようには、発展できなかった(mh_ au)chqh~nai)(トュキュディデス、第1巻2.1-6)。

 あまりはっきりしないが、だからこそまた余計に関心をひくのだが、アウトクトネスのアテナイ人たちは、民族的に混成された国民(mi/gadej、イソクラテス第4弁論24、第12弁論124)と対比されうる。この対比において、民族的に混成された集団は、和合しあうことの乏しい外国人のでたらめな集合以上のものではないと見られ、異種族構成ゆえに僭主制や寡頭制への傾向性をもち、一般に、都市の高貴さを欠く(例、エウリピデス断片362.7-10、プラトン『メネクセノス』238c、リュクウルゴス『レオクリトス』47;参照、シケリアの混成した国民の弱さに関するアルキビアデスの評言、トュキュディデス、第6巻17.2-4)。民族的に混成した共同体との対比は、アテナイ人たちは共通したひとそろいの祖先の子孫であるという、アウトクトネス概念に含まれる観念の論理的発展である。

 アテナイと他の国制とを対比するという同じ思考法は、アテナイそのものにも適用されることができる。au)to&xqwnは、eu)ge&neiaすなわち出生の高貴さに対して、e!phlujよりも優越した主張を有する(プラトン『メネクセノス』237b、Hyp. 6.7;参照、ハリカルナッソスのディオニュシオス『弁論家』261);対比を通して、e!phlujは継子であり([伝デモステネス]第60弁論4)、噛み合わぬ留め釘であるlo&gw| poli/thj e)sti/, toi~j d' e!rgoisin ou!〔言葉の上では市民だが、実際にはさにあらず〕(エウリピデス断片362.11-13)。かくて、アウトクトネス観念が主張するのは、最下層の市民でさえ、高貴な生まれの点で、非市民に優越しているということである。この主張は、アテナイのような、住民の大多数が非市民であり、少なくとも非市民の何人かは、市民の大多数よりもきわめて大きな富と社会的名声を有しているような社会にあっては、とりわけ意義深い。アウトクトネス概念は、市民たちをおだて、自分たちの中にいる外国人たちに市民権を拡張することに対する乗り気のなさを助長する。

 しかしながら、アウトクトネス観は、古さや民族的純粋さの問題以上のものである。アウトクトネスであることは、アテナイの愛国的伝説の規範目録(standard list)――これにはエレクテウスのエウモルポス打倒、テセウスのアマゾン女人族打倒、ヘラクレイダイの防衛、テバイに向かう7将の埋葬も含まれ、通常は、マラトンとサラミスでのペルシア軍打倒も含む――の第一位のものである。これらの伝説は、ひとまとまりと考えられていたらしく、アテナイ人の卓越性の例として、愛国的脈絡の中にいっしょに引用されることしばしばである。これ以外の伝説はすべて軍事的なもので、アテナイ人たちの祖国防衛とか、圧制者に対する自衛とかを例示する。この脈絡において、アウトクトネス観は、とりわけ、アテナイ人たちは現実に大地から発生したという改作においては、自分たちの国土は母親であり乳母であるのだから、アテナイ人たちは自分たちの国土との独特な関係を有すると主張するのが常である。この関係は、アテナイ人たちをより大きな愛国心に(例、イソクラテス、第6弁論124、リュクウルゴス『レオクリトス』100)、あるいは、アテナイ人たちが祖国のために愛国的行為をとりかねないのはなぜかを説明するのが常である。『国家』においてプラトンは、彼の理想的な国制の最初の市民たちのために大地からの出生という神話を提案している。そうすれば、後の世代の子孫は、自分たちの国をw(j peri_ mhtro_j kai_ trofou~〔母親や養母のように〕思いなし、外来の攻撃に対して防衛するであろうからである(『国家』414e)。そしてアウトクトネス観そのものは、大地からの出生に言及することなく、アリストパネス『蜂』1076、クセノポン『ヘラス史』第7巻1.23、リュシアス第2弁論4.3、デモステネス第19弁論261(参照、トゥキュディデス第2巻36.1)においては、外来勢力の統治に対する抵抗の精神に関係する。

 プラトンは、アウトクトネスという神話の第二の効用として、市民の後の世代が、お互いを兄弟と考えるだろうということを上げている(『国家』414c)。この意味で、アウトクトネス観は平等主義たりうるが、アテナイ民主制において平等主義は常のごとくに増進しこそすれ、減退はしなかった。すべての市民が共通の両親から生まれたとき、みなは等しく高貴であり、上述の非市民とは違って(vis-a-vis)、みなは等しくeu)ge/neiaを要求する資格を有する。逆にいえば、市民階級のうちには、すべての市民が等しく高貴であるとき、優越した生まれゆえの特権的待遇を要求し得るものはいない。こうして、『メネクセノス』のなかで、共通の母親の血をひく子孫は、アテナイ人たちを寡頭制や僭主制に対峙させるか、あるいはプラトンが優雅な仕方で述べているように、h( i0sogoni/a h(ma~j h( kata_ fu&sin i0sonomi/an a)nagka&zei zhtei~n kata_ no&mon〔自然本性的な生まれの等しさは、われわれをして、法習上の平等権を求めさせる〕。――それはe)leuqeri/aと同等である――のこの継承ゆえに、アテナイ人たちは自由を守って他のギリシア人と戦い、全ギリシア人を守って夷狄と戦った(プラトン『メネクセノス』239a-b、以下、これは、[エウモルポス打倒その他の]愛国的伝説の規範的目録に続く;アウトクトネス観とe)leuqeri/aについては、デモステネス第19弁論261、リュクウルゴス『レオクリトス』41をも見よ)。同じ観念が、リュシアス第2弁論17-20のちょっと異なった取り合わせにも現れ、ここでは、規範目録中の偉業は、正義のために戦うアテナイ人たちの不動の意思に跡づけられ、この意思は、アウトクトネス観とe)leuqeri/ano&mojに重きを置く彼らの民主制とによって説明される。そしてクセノポンの『思い出』3.5.8-12では、規範目録中の偉業は、アテナイの安定した国情によって説明されるが、この国情は、裁判係争中の仲裁人として、また、圧制者に対する保護者としてのアテナイに他国民を向かわせる原因となるものである。この安定した国情は、他のギリシア人たちの移住との対比で、すでに見たように、アウトクトネス観のもうひとつの相貌である。

 このような場合に、規範目録におけるアウトクトネス観やその他の伝説がイデオロギー的なのは、それらが、政治的自主独立体〔=国家〕としてのアテナイについて何事かを、例えば、アテナイが非常に古い都市であるというのは、イデオロギー的言明ではないと立言するような仕方で、発言するのが常だからである。規範目録の残りは、アテナイがポリスとして典型的な行為をするのはいかにしてかを例示するが、アウトクトネス観はとりわけこれら典型的な行為において、アテナイが行為するように行為するのはなぜかを説明するのが常のようである。しかし、注意に価するのは、規範目録は(自由の擁護、正義の追求、上で考察した例における圧制者に対する防御というように)さまざまな意味に解釈されえたということである。とりわけ民主制そのものは、『メネクセノス』やリュシアス第2弁論におけるのとは異なった仕方でアウトクトネス観に連結しているが、『思い出』の行文には言及されていない。これらすべてのことが示唆しているのは、伝説――しかし彼らの解釈ではない――は、アテナイ人たちの愛国的意識の部分であったということである。いわば、誰しもが知っていることだが、アウトクトネス観とその他の伝説は、アテナイ人たちの徳を示威したが、厳密にいかなる徳を伝説が示威したのか、アテナイ人たちがそれを所有していることをいかなる仕方で示威したのかについては、共通理解が大してあるわけではない。

 規範目録における伝説はひとまとまりと考えられていたので、ひとつの伝説は関連的に他の伝説を示唆し、ひとつの伝説への間接的言及は、他の伝説に言及する脈絡の中で簡単に認識された。いつ、あるいは、どのようにして、規範目録が発展したのかということについて、実際的な証拠をもたないけれど、公的な葬送演説における規範的な要素としての目録の出現が示唆しているのは、そういった演説の伝統の中で発展したこと、この伝統は、その始まりを、留意さるべきことだが、ペルシア戦争の時代にもつということである(ハリカルナッソスのディオニュシオス『AR』 5.17.4)。他方、アイスキュロスの二つの悲劇、『ヘラクレイダイ』と『エレウシス人たち』(後者は、テバイに向かう7将をテセウスが埋葬したことを主題とする)は、たぶん、これらの伝説を愛国的目的に利用し、エウリピデスも後に自分の『ヘラクレイダイ』と『救いを求める女たち』のなかでそうした。アイスキュロスがこれらの話題を選んだのは、それが愛国的まとまりの部分をなすからだということは、ありそうなことだが、彼の演劇が、そのまとまりに包含させる伝説の特殊な改作を一般化したということも可能である。いずれにしても、伝説がひとまとまりとして、葬送の伝統の中で、イデオロギー的色彩を帯びたとか、あるいは、少なくともわたしにはかなりありそうに思えるのだが、他所でイデオロギー的色彩を帯びたために、伝統の中に包含されたのかどうか、規範目録を定式化する過程は、ヘロドトスが『歴史』(第9巻27)に伝説を目録化した時代に、完成されたに違いない。

 先に、au)to&xqwnという単語そのものは、比較的後世、大地からの出生とアウトクトネスという考えとの関連ができたときの造語だという証拠を見た。この二つの発展の最もありそうな時代は、わたしが示唆するように、規範目録が定式化された時代、すなわち、ペルシア戦争と前5世紀の中期との間の期間である。伝説はひとりでに発展するのではない:個々人が工夫し、新しい改作を広める、とりわけこれら新しい改作を大衆に広く伝達する位置にある個々人が。われわれが述べている時期に、かかる個々人は公的な演説者あるいは劇作家以外にない。公的な演説者ないし劇作家が、古い伝説の新しい改作を工夫しえた理由は多々あるが、アテナイにおいて、前5世紀中葉に先立つ時期に、イデオロギー、とりわけ民主的イデオロギーは、少なくとも重要な要因であったのは尤もなことである。アウトクトネスという伝説がいかにして民主的イデオロギーに利用されたかは、すでに見たし、全市民の政治的平等さと、どんなに卑しい市民でも、いかなる非市民より優越することとを示唆した。わたしが論じようとしたのは、アウトクトネスという伝説は際立ったものであった、この時代にそうであった、正確には、イデオロギー的目的に利用されえたからであるということ、そして、その改作の努力は、とりわけ大地からの出生の付加は、イデオロギー的道具としての効果を高めたということである。

Fairfield University, Connecticut
VINCENT J. ROSIVACH



付録:「大地から生まれた」アルカディア人たち

 アルカディア人たちの大地からの出生の証拠は以下の通り:
 (1)ストラボン(第5巻2.4)によれば、エポロスはヘシオドスを典拠に、ペラスゴイはアルカディアに起源を有するとして、ヘシュキアス断片161M.-W.を引用している:――リュカオンはアルカディアの王ペラスゴスの後を継いだ。
 (2)パウサニアス(2.1.4-2.2.1)はアシウスの断片8Kを引用して、ペラスゴスは大地から生まれたことを示す;ペラスゴスの支配を記述した後、パウサニアスはリュカオンの支配に話を続ける。
 (3)[アポロドロス]神話3.8.1は、ヘシオドスに従って、ペラスゴスはau)to&xqwnだったと言う(参照、同上2.1.1);ここから彼は、リュカオンの妻と子どもたちの一覧に話を続ける(au)to&xqwnはここでは、ヘシオドス自身の言葉であるというよりは、その焼き直しのように見える。この場合、それは「大地から生まれた」――通常、後世の文献に見られる語意――を意味しよう。
 (4)Serv. Aen. 2.84 glosses 'Pelasgi': a Pelasgo Terrae filio, qui in Arcadia genitus dicitur, ut Hesiodus tradit.

 これらの典拠のどれひとつとして、他典拠と完全には同じことをいわず、細部における相違を一致させるのは容易ではない。ごく簡単に、この典拠に対する私自身の読みを言うなら、エポロスがヘシオドスとアシウスとの証言を結びつけて論じているのは、ペラスゴイはもともとアルカディアから広がったアルカディア人たちであったということ、アルカディア人たち自身はアウトクトネスであった、それは、(ヘシオドスの引用が示すように)彼らがリュカオンの子孫であり、その父親のペラスゴスは(アシウスの引用が示すように)大地から生まれたからである、ということである。『神話(Bibliotheca)』の作者(あるいは、もっとありそうなことは、彼の典拠)は、やはりエポロスに依拠しているけれども、あまりよくは知られていないアシウスを看過し、二片の情報をヘシオドスに帰している。『神話』の作者と同様、Servius(あるいは彼の典拠)も、最終的にはエポロスに依拠しているが、エポロスは、ヘシオドスに、ペラスゴス自身はアルカディアで生まれたとはっきり言わせるというさらなる過ちをおかした。

 ヘシオドスの完全なテキストがないので、アルカディア人たちは大地から生まれたペラスゴスの子孫であると、ヘシオドスがどういう意味でも言わなかったと証明するのは不可能であるが、ヘシオドスが言ったかどうか、現存する典拠の中には、エポロス以前にそのことに注意を向けさせたものはひとつもないようである。他方、上述の再構成が正しいとするなら、アルカディア人たちの先祖が大地から生まれたという伝説は、エポロスその人より古くはあり得ない。ヘロドトス(第8巻73.1)、おそらくはヘラニコス、クセノポン(『ヘラス史』第7巻1.23)、デモステネス(第19弁論261)は、みな、au)to&xqwnという語をアルカディア人たちを記述するのに使用しているが、これらの著作家たちにとってこの単語が「土着民」よりほかの何かを意味するという証拠は、それらの脈絡中に存在しない。

2000.08.09.訳了

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