補説(3)

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ブリス・カーマン『サッポー:抒情詩百篇(Sappho: One Hundred Lyrics)』(3)

パオーン伝説

 ウォートンは、ベルク校訂本を英訳した『サッポー』に「サッポー伝」を併載し、その中で、
 「サッポーはパオーンに恋したが、相手が彼女をつれなくしたため、彼女がレウカースの断崖から身投げしたという物語は、絶対的事実と久しく信じられてきたが、これを支えるいかなる確実な歴史的根拠もないようだ
 (The story of Sappho's love for Phaon, and her leap from the Leucadian rock in con- sequence of his disdaining her, though it has been so long implicitly believed, does not seem to rest on any firm historical basis)」(p.15)
と言っている。
 他方、Bergk140[211]〔既出〕は、サッポーがパオーン伝説に取材して詩作していることを証言している。
 そして、われわれは、ブリス・カーマンが作詩する場合に、(沓掛良彦が言うほど)野放図な空想を拡げていることはなく、かなり抑制的であることを先に見た。
 そうだとすると、例えば、詩中で「わが恋人、パオーンよ」と言ったとしても、その「わたし」=" I "は、作者であるサッポーのこととは限らず、アプロディーテーであるかも知れないことになる。

 パオーンという固有名詞が出て来るのは4篇 — XVII, XL, XLI, XLIII — であるが、このうち、XLI と XLIII とに挟まれた XLII は、──

XLII

O heart of insatiable longing,
What spell, what enchantment allures thee
Over the rim of the world
With the sails of the sea-going ships?

And when the rose-petals are scattered
At dead of still noon on the grass-plot,
What means this passionate grief,--
This infinite ache of regret?

  おお 飽くなき思い焦がれの心よ、
  いかなる呪文、いかなる魔法がそなたを惹きつけるのか。
  世界の周縁を
  航海する船の帆が?

  そして 静寂の真昼 草地の一画に
  薔薇の花びらが散りしくとき、
  この激情の悲しみは何を意味するのか —
  哀惜の際限なきこの痛苦は?

 ここにパオーンの名前は出て来ないものの、"the sails of the sea-going ships"が"thee"を惹きつけるというのだから、パオーンのことを歌っていると見てよいだろう(パオーンは船乗りであった!)。

 この3篇が連続しているのに対し、XVII〔既出〕はやや離れた箇所に出てくる。しかし、ここXLIIの"rose-petals are scattered"は、XVII の"Pale rose leaves have fallen"とみごとに響き合って、両篇を繋いでいる。そして両編とも、この「話し手」がアプロディーテーであってはならない理由はない、とわたしは考える(同様に、XL と XLIII も)。

 ところが、XLI はどうであろうか。

XLI

Phaon, O my lover,
What should so detain thee,

Now the wind comes walking
Through the leafy twilight?

All the plum-leaves quiver
With the coolth and darkness,

After their long patience
In consuming ardour.

And the moving grasses
Have relief; the dew-drench

Comes to quell the parching
Ache of noon they suffered.

I alone of all things
Fret with unsluiced fire.

And there is no quenching
In the night for Sappho,

Since her lover Phaon
Leaves her unrequited.

  パオーンよ、おお わが恋人よ、
  いったい何がそなたをかくも引き留めているのか?

  青葉蔭なすたそがれの中を
  今 風は歩み寄ってくるというのに。

  涼しさと ほの暗さにつれ
  すももの葉はみな打ち震える、

  身も萎えさせる灼熱のなか
  長い間を凌いだ後に。

  かくて 揺れる草々は
  安堵する。露しげくして

  彼らが蒙った白日の渇きの
  苦痛をいやしてくれるゆえ。

  されど われのみは
  鎮まることなき火に 蝕まれている。

  そして この夜 サッポーに
  渇きを癒すものは何もない、

  彼女の恋人パオーンが
  彼女に報いることなく つれないゆえに。

 「語り手」が、自分を一人称で呼ぶことは、最もありふれた表現方法である。自分(「語り手」)に二人称で呼びかけることもよくある文学表現ではある。しかし、自分(「語り手」)を三人称で名指しするとなると、文学表現としても、かなり特殊なのではあるまいか。
 ここXLIでは、「語り手」がサッポーを三人称で名指ししている!。— とすると、ここで「わが恋人よ」と言っている「わたし」=" I "とは、いったい誰なのだろうか?
 もう一度、「抒情詩百篇」の全体の構成を振り返ってみよう。

I Cyprus, Paphos, or Panormus
 アプロディーテー崇拝の中心地を3つ挙げて、これらの地の手厚く奉仕された祭壇が御身(thee)を引き留める(detain)であろう、と歌う。XLIでは、航海がパオーンを引き留めている(detain)から、自分のもとには来ない、という恨みを述べる。どちらも同じ"detain"が使われていることが目を惹く。

II What shall we do, Cytherea?〔既出〕
 ここでいきなりアドーニス祭(!Adwnia)の祭礼文句が出て来る。
 アドーニス祭が挙行された季節は、春・夏(それも真夏)・秋、諸説あって一致しない。しかし、ブリス・カーマンが春説を採っているらしいことは、詩句からして推測できる。この祭礼の様子は、アリストパネースの『リューシストラテー』からわずかに窺うことができる。

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 アドーニス祭で屋根からケルノスを降ろす女。
 翼のあるのはエロースであろう。

  いや、あれは屋根の上のアドーニス祭だ。
  <…………>
  <…………>
  ……女は「哀れアドーニス」を
  唱えながら踊っておった。……
  <…………>
  女の方はすっかり出來上がって、屋根の上で
 「悲しやアドーニス」と叫んでおった。……(389-396)

 なぜ屋根の上かというと、「アドーニスの園」と呼ばれる祭儀用の聖なる壺(ギリシア語ではkevrnoV)に小麦、黍などの穀物の種子を播き、これを陽に当てて(あるいはお湯を入れて)早生させるためである。この陶器は、8日目の終わりに、死せるアドーニスの像といっしょに海または泉に流される。

 考えてみれば、奇妙な祭礼である。アドーニスが亡くなって、悲しいのはアプロディーテー自身のはずなのに、人間の女たちが哀哭するのだから。そして女たち("we"で表されている。一人でないことに注意)は、アプロディーテーに対し、アプロディーテーがアドーニスを"Love and desire"することを願い求める。

III Power and beauty and knowledge
 ここで3柱の神を持ち出す。その役割は
    大いなる力 — パーン(Pavn)
    叡知 — ヘルメース(+Ermh:V)
    美 — アプロディーテー(=Afrodivth)
であるが、これら3柱の上位に位置し、世界を統括しているのが、太女神としてのアプロディーテーであると、カーマンの構成はそう言いたいのであろう。太女神は、愛の女神であると同時に、死をもたらす「愛死」の女神でもある(「愛死」については、反ギリシア神話の「Liebestod」の項を参照せよ)。

 ヘルメースはベルク校訂本では1箇所(Bergk51[141])に出てくるが、叡知とは何の関係もない。おそらくは、ルネッサンス期以来もてはやされたヘルメース・トリスメギストスの文書(ヘルメース主義)のことが念頭にあったのであろう。

 パーン神は、伝存するサッポーの詩句の中には出て来ない。しかし、カーマンの時代(19世紀)には文学者たちの間で最も人気のあった神格である。

 1821年、シエリーは、友人のトマス・J・ホッグにあてて、こう記している。
 「君が真の宗教の儀式をおろそかにしていないと聞いて、嬉しかったよ。君の手紙は、ぼくの心の中に眠っていた信心を呼び覚ました。すぐさま、ぼくは夕暮れに1人で家のうしろの高い山に登り、花飾りをかけ、そして山を逍遙するパーンに捧げる小さな芝の祭壇を作った」。
 オスカー・ワイルドは物憂げに記した。「おお、アルカディアのヤギ足の神よ! この現代の世界はお前を必要とする!」。
 バイロンは、パーンの死を悼む賦を書いた。

古き神々は海辺にて黙す、
偉大なる牧神パーンは死せり、イオーニアの水の響きを貫きて、
恐ろしき「力あるパーンは死せり」の声ぞ起こりぬ。
彼とともに偽りも真も多くが死せり。
— 過ぎ去りし夢ぞ美わしかりき。流れには魚の群。
森や水辺に、花恥ずかしきニンフぞ集う。追い来たる神々の恋の戯れ、ニンフは嗤い、
はてはまた神々の腕に抱かれ、
山も海もその名をとどめん高貴なる
雄々しき血筋をぞ生みいだす。

 以上、バーバラ・ウォーカー『神話・伝承事典』の「Pan」の項。

 3柱の神々を立てたのはカーマンの独創であるが、その発想の根は明らかだ。すなわち、ヘルメースは竪琴を発明した神であり、パーンは笛(シューリンクス笛)を創った神である。そして、パーンは牧人の守護者であるから、第C篇のリテュエルセースは、すでにここに用意されていると言ってよい。

 パーンが、大地を豊穣にするために死んだ聖王であるオシリス、アドーニス、タンムーズに列なる存在であることを、カーマンが知っていたかどうかはわからない。しかし、彼はLXXVI Ye have heard how Marsyas.に、未熟な芸術家の象徴としてマルシュアースを歌っている。マルシュアースを含むサテュロスまたはシーレーノスは、ウォーカーに言わせると、パーンの扈従ということになる。

Bergk74[159]

そなたと、わたしの召し使いであるエロースとが……

[Whartonの訳]

Thou and my servant Love.

IV O Pan of the evergreen forest
 3柱の神の役割がもう一度繰り返される。とりわけパーンの役割はカーマンの独創であるから、詳述されなければならない。「牧場の群れの守護神、精出し働く人々の助力者(Protector of herds in the meadows, / Helper of men at their toiling)」と。
 これだけのお膳立てをした上で、
V O Aphrodite
 アプロディーテーに、サッポーは自分の恋の成就を祈願する(報われない恋情の恨み!)。
 これはサッポーの詩の中で、唯一、完全な形で伝存している詩篇である。サッポーの詩集は9巻あったと伝えられるが、この詩が全体の巻頭を飾っていたと証言されているものでもある。しかし、現代人のわれわれには、太女神に対するこの敬虔な(あるいは情熱的な)祈りは、なかなか理解しがたいところがある。それが、この詩篇の前に、手引きとなる詩篇を挿入せざるをえない所以であろう(沓掛良彦も、その『サッポー:詩と生涯』において、4編の詩編を置いている)。
 そして、以下の諸篇において、恋情の諸相が描かれてゆくことになるのである。

 そう考えると、アプロディーテーには2重の位相があることがわかる。ひとつは、世界=宇宙の統括者、つまり、太女神としての位相と、愛と美の女神としての位相である。しかし、愛の衝動を喚起する力は「エロース」の役目であって、アプロディーテー自身にその力能があるわけではない。

 そしてサッポーは達観する。—「愛とは美しいものを愛することであり、愛するものが一番美しい」(古澤ゆう子『牧歌的エロース:近代・古代の自然と神々』p.69)。

 Bergk13に謎のような断簡がある。

Bergk13[/]

....................e[gw de; kh:n= o[t-
tw tiV e[ratai

[Whartonの訳]

But that which one desires I .....

 これは、修辞学者アポッロニオスが、"ejravw"〔「恋する」〕という動詞の用例として引いたものであった(詩には関心がなかった)ために、かくも意味の通じない断簡になったものであった。
 後に、パピルス断片が発見されて、これは次のような詩の一部であることがわかった。

oij me;n ijpphvwn strovton ioj de; pevsdwn
oij de; navwn fai:s= ejpi; ga:n mevlainan
e[mmenai kavlliston, e[gw de; kh:n= o[t-
tw tiV e[ratai`

  ある人は馬並(な)める騎兵が、ある人は歩兵の隊列が、
  またある人は隊伍組む軍船(ふね)こそが艦隊が、かぐろい地上で
  こよなくも美しいものだと言う。でも、わたしは言おう、
  人が愛するものこそが、こよなくも美しいのだと。
                    (沓掛良彦訳)

 古澤ゆう子が、サッポーの中心的思想として述べた上の1文が、この詩句を引いていることは明らかであろう。
 しかし、そのことを知るよしもなかったブリス・カーマンは、いかに乏しい資料からサッポーの詩世界を再現しようとしたか、ということに思いを致すべきである。

 とはいえ、XLI の"my"と"her"の関係は、やはり、解決しがたい問題を含んでいるように思う。"her"がサッポーを指すことは間違いなかろうから、もしも"my"がサッポーを指すなら、"my"(一人称)から"her"(三人称)への移行の理由が説明されなければならないであろうし、"my"がアプロディーテーを指すなら、アプロディテーとサッポー両者にとってパオーンとの関係は如何という問題が残るからである。

 もしかすると、サッポーとアプロディーテーとが、パオーンを介して交錯する(それによって、異性愛か同性愛かという問題が無化されている!) — これこそが、ブリス・カーマンの意図だったのではないかという気さえしてくる。それはまた、パオーンに対するサッポーの悲恋伝説を、いまだ「絶対的事実」と信じていた時代に対するカーマンの妥協であったのかも知れない。

アドーニス — パオーン — リテュエルセース

 「抒情詩百篇」の最後に、奇妙な詩篇があることに気づく。

C

Once more the rain on the mountain,
Once more the wind in the valley,
With the soft odours of springtime
And the long breath of remembrance,
 O Lityerses!

Warm is the sun in the city.
On the street corners with laughter
Traffic the flower-girls. Beauty
Blossoms once more for thy pleasure
 In many places.

Gentlier now falls the twilight,
With the slim moon in the pear-trees;
And the green frogs in the meadows
Blow on shrill pipes to awaken
 Thee, Lityerses.

Gladlier now crimson morning
Flushes fair-built Mitylene,--
Portico, temple, and column,--
Where the young garlanded women
Praise thee with singing.

Ah, but what burden of sorrow
Tinges their slow stately chorus,
Though spring revisits the glad earth?
Wilt thou not wake to their summons,
 O Lityerses?

Shall they then never behold thee,--
Nevermore see thee returning
Down the blue cleft of the mountains,
Nor in the purple of evening
 Welcome thy coming?

Nevermore answer thy glowing
Youth with their ardour, nor cherish
With lovely longing thy spirit,
Nor with soft laughter beguile thee,
 O Lityerses?

Heedless, assuaged, art thou sleeping
Where the spring sun cannot find thee,
Nor the wind waken, nor woodlands
Bloom for thy innocent rapture
Through golden hours?

Hast thou no passion nor pity
For thy deserted companions?
Never again will thy beauty
Quell their desire nor rekindle,
 O Lityerses?

Nay, but in vain their clear voices
Call thee. Thy sensitive beauty
Is become part of the fleeting
Loveliness, merged in the pathos
 Of all things mortal.

In the faint fragrance of flowers,
On the sweet draft of the sea-wind,
Linger strange hints now that loosen
Tears for thy gay gentle spirit,
 O Lityerses!

  もう一度 山の上に雨を、
  もう一度 谷に風を、
  春の甘い香りと
  追憶の深い息とともに。
   おお リテュエルセースよ!

  町の太陽は暖かい。
  街角に 笑いながら
  花売り娘が往き来する。美しい
  花を もう一度 そなたの喜びのために
   多くの場所に。

  今は ますます穏やかに 日は暮れゆき、
  西洋梨の樹に細い月;
  そして緑色の蛙たちが 牧草地で
  目覚めさせんと 鋭い笛の音を吹き鳴らす、
   そなた リテュエルセースのために。

  今は ますます輝かしく 深紅の朝が
  美しく建てられたミテュレーネーを赤らませる —
  前廊を、神殿を、そして円柱を —
  そこでは花をかざした若い女たちが
  歌ってそなたを誉めたたえる。

  ああ、どんな悲しみの重荷が
  彼女らの合唱をゆったりと重々しいものにするのか、
  春が喜びの大地を再び訪れたというのに?
  彼女らの勧請にそなたは気づかないのか、
   おお リテュエルセースよ?

  だからなのか、彼女らがそなたを目にすることがないのは —
  二度と 山々の青い裂け目を降って
  そなたの帰りを見かけることはなく、
  夕暮れの紫色の薄闇の中
   そなたの到来を迎えることもないのは?

  二度と そなたの燃えあがる若さが
  彼女らの情熱に応えることなく、
  そなたの心が 愛の想い焦がれをいだくこともないのか、
   おお リテュエルセースよ?

  我にもなく自足して、そなたは眠っているのか?
  春の太陽もそなたを見つけられず、
  風も目覚めさせず、森林も
  そなたの他愛ない有頂天に、黄金の時を通じて
   花咲かせないところに?

  そなたは情熱も憐れみもないのか、
  そなたの見捨てられた友たちに?
  もう一度 そなたの美は
  彼女らの恋い焦がれを鎮めることなく、再燃させることもないのか、
   おお リテュエルセースよ?

  然り、彼女らの澄んだ声は、虚しく
  そなたを呼ぶ。そなたの華奢な美しさは、
  はかない愛らしさの一部となる、
  ありとある死すべきものらの
   悲哀の中に溶けあって。

  花々のほのかな香りにのって、
  一陣の海風のなか、
  今や不思議な暗示がなくなることはなく、そなたの
  陽気でやさしい心のために涙を解き放つ、
   おお リテュエルセースよ!

 日本人には馴染みのないこのリテュエルセース(LituevrshV)が、わたしたちに何らかの手掛かりを与えてくれる。とはいえ、神話事典に書かれていることは、たいした手掛かりになりそうにもない。

Lityerses, LituevrshV
 プリュギア王ミダースの子。彼はもっともすぐれた刈取り人で、彼の所に来た者に刈入れ、あるいは刈入れの競争を強い、負けた者を殺した。しかし最後に、オムパレーに仕えていたヘーラクレースが来て、彼を退治した。一説にはダプニスのために彼を殺し、ダプニスとその愛人ピムプレイア Pimpleia にリテュエルセースの領土を与えたという。リテュエルセースはプリュギア人が刈り入れの際に歌った歌であると伝えられている。
       (『ギリシア・ローマ神話辞典』)

 リテュエルセースを、これを退治したヘーラクレースの側からではなく、退治された側から見ると、とつぜん見えてくるものがある。

 リテュエルセースは、テオクリトスの『牧歌』(第10歌41以下)に、「神々しい歌」の作者として、その農業労働歌が出て来る。

豊かな実りと作物をもたらす女神デメテル、
この穀物の刈り取りがうまくゆき、できるだけ豊作でありますように。
結び手よ、麦束をしっかりゆわえるんだ。だれかが通りかかって
「役立たずなやつらめ、払った金も無駄だった」と言わないように。
刈り取った束の切り口は北風か西風に向けるといい。
そうすれば穂が熟す。
脱穀するときは昼寝をしない。
この時刻には、籾がいちばん茎から離れやすい。
刈り入れ人はヒバリが目覚めるときにはじめ、眠るときに終えるが、
燃える暑さのもとでは休め。
カエルの暮らしはいいものさ、なあ、おまえたち。
飲み水汲む者のことを気にしない。まわりに充分あるんだから。
けちんぼの監督さん、もっとおいしいレンズ豆を煮ておくれ。
クミンを刻むときに、手を切るなよ。
                 (古澤ゆう子訳)
 ここに出てくる「カエル」が、C「緑色の蛙たち」にも〔他にはXCVI「活きた青銅の小さな笛吹きたち(Little fifers of live bronze)」にも〕登場していることに注目!

 そのリテュエルセースが殺されたという。その意味するところは、大麦にゆかりのあるサバージオスと同様、毎年、麦畑で切り倒され、その死を嘆き悲しまれる若き聖王だったということである。
 「プリュギアの刈り手たちはリテュエルセースを記念して、今もなお刈り入れの挽歌を歌うが、その挽歌は、最初のエジプト王の息子で、やはり刈り入れ畑で死んだマネロスのために歌われる挽歌と非常によく似ている」(グレイヴズ『ギリシア神話』P.733)
 アドーニスが、植物一般の「死と再生」を象徴するとすると、リテュエルセースは大麦の「死と再生」を象徴すると言える。そして、第1部で挙げた表は、次のように追加されなければならない。

 シュメールのイナンナに対するドゥムジ、
 アッカドのイシュタルに対するタンムーズ、
 プリュギアのキュベレー・アグディスティスに対するアッティス、
 ギリシアのアプロディーテーに対するアドーニス、
 そして、
 デーメーテールに対するリテュエルセース
である。
 そして、(これも第1部で指摘したことだが)「サッポーの女友だち」=アッティスを媒介として、サッポーとその恋人との関係が、太女神とその若き恋人との関係と同じ構造になるのである。

 アッティスは、発狂してみずからを去勢して死に、アドーニスは狩猟の最中に猪に突かれて死に、リテュエルセースはヘーラクレースのために鎌で頸を切り落とされ、胴体はマイアンドロス河に投げこまれたと謂われる。太女神の恋人のこれらの悲惨な死に方と、それに対する哀哭とは、神話学の世界では次のように解釈されている。
 I 作物・畜群の衰凋を悲しみ繁殖を冀うて、その精霊もしくはダイモーンを代表するものとしての或るものを犠牲に供した。
 II そうした代表がアッティスなりアドーニスなりリテュエルセース……と称せられた。
 III しかしその或るものが犠牲死をなすことの真義が曖昧になるにつれて、そのものが悲劇的な死を遂げたという神話的伝承が発生した。
 IV 祭儀は犠牲死を遂げるものに対しての贖いの実修をなすことを構成要素の一部としていた。かくて悲劇的な死を遂げたそのものに対する贖罪の実修が同祭儀の起源であるという説明を生誕せしめた。
         (松村武雄『古代希臘に於ける宗教的葛藤』p.184を応用した)
 この仮説に拠れば、太女神たるアプロディーテーに、生け贄たるアドーニスを「愛したまえ、恋い焦がれたまえ」と祈る(第II篇)理由もわかるし、女たちがアドーニスのために哀哭する理由も説明がつく。

 このように見てくると、ブリス・カーマンの「抒情詩百編」は、初め(II)に、「いとしいアドーニスは身罷りました」と歌い、中ほど(XLI〜XLIII)で、その結果として(この世には)不在のパオーンを歌い、最後(C)に、同型のリテュエルセースの目覚め=再生を暗示してしめくくる、という大枠で構成されていることが理解できよう。

 リテュエルセースは、この抒情詩百篇の中でいかにも孤立しているように見えるが、第XCII篇には、エレウシスの母神(つまり、デーメーテール)が出、さらにその前(第XXXIII篇)には、エレウシスにゆかりの深いオルペウスとムーサイオスが言及されて、リテュエルセースの伏線をなしていることに気づかされる。

 この、最後をしめくくるのがアドーニスではなく、ましてパオーンでもないのはもちろん、ここに初めて登場するリテュエルセースであるのは、きわめて暗示的である。というのは、リテュエルセースは、ただ単に豊穣を約束する存在(その点ではアドーニスと同じ)であるばかりでなく、農業労働歌の最高の「歌い手」でもあるからだ。
 すなわち、サッポーの美に対する恋情 — それはアプロディーテーの美すなわちアドーニス(II)=パオーンに対する恋情によって象徴される — は、「歌」の現前によって初めて成就する。Cは、歌人リテュエルセースの目覚めのほのめかしによって終わっている。サッポーは、(ブリス・カーマンの考えでは、おそらく)永遠に恋する女である以上に、何にもまして「女流詩人」だったのである!

海表集から

 最後に、日夏耿之介が『海表集』の中に取り上げたサッポーの詩のうち、これまでの論述で言及されなかったものを、まとめて見ておきたい。

LXIII

Formed like a golden flower,
Cleis the loved one.
And above her I value
Not all the Lydian land,
Nor lovely Hellas.

海表集61 美童

美童ぞわがものなる、
さりや 黄金(こがね)の花なれや、
寵童(めづご)クレイス
すべてリディヤの真土(まつち)も
はた美景(うるは)しき希臘(ヘラス)もただに値ひせまじを。

Bergk85[132]

われに美しき娘あり、黄金色の花にもまがう
容姿のいとし子クレイス、
この愛しきものをリュディア全土とも、はた恋しき〔レスボスと〕とてもゆめ換えるまじ。

[Whartonの訳]
I have a fair daughter with a form like a golden flower, Cleîs
the beloved, above whom I [prize] nor all Lydia nor lovely
[Lesbos] . . .

 サッポーにはクレイス〔女性名〕という名の子どもがいたという伝承から、「娘」と訳されているが、これは恋する年下の女友だちでもよい。しかし日夏は「寵童」の詩に変えてしまった(原詩では、ギリシア語の"pai:V"は中性のため、男女の区別はできない。しかし、「クレイス」は女性の名前であることを、日夏は見落としている)。

LXXIV

If death be good,
Why do the gods not die?
If life be ill,
Why do the gods still live?

If love be naught,
Why do the gods still love?
If love be all,
What should men do but love?

海表集67 死と戀と

死が善からましかば なにのゆゑに
神神死したまはざる。
生が悪しからましかば なにのゆゑに、
神神ながらへたまふ。

戀が無(む)ならましかばなにのゆゑに、
神神なほ戀したまふ。
戀が全ならましかば、
人 恋をよそに なにごとをかなしてむ。

 この詩句は、アリストテレース『弁論術』第2巻23章に、「サッポーの言葉、『死ぬことは悪いことです。なぜなら、神々がそう判断されたからです。そうでなかったら、神々は死に絶えていることでしょうから』」(1398b)とあるものを典拠とする。Bergk137[201]。

LXV

Softly the wind moves through the radiant morning,
And the warm sunlight sinks into the valley,
Filling the green earth with a quiet joyance,
Strength, and fulfilment.

Even so, gentle, strong and wise and happy,
Through the soul and substance of my being,
Comes the breath of thy great love to me-ward,
O thou dear mortal.

海表集64 愛の伊吹

この朝(あした)かがやきて 風しめやかに搖曳(たゆた)ひぬ、
あたたかきたる日のひかり
やすらけき悦(よろこび)と力と足らひし心(こころ)もて
みどりなす大野(おほぬ)にみたし 谿間(たにま)深くに沈みしか。

かくばかり淑(しと)やかに力(ちから)ありいと賢(さか)しく幸ひに
わが心とこの身とより
いとふかき愛(あい)の伊吹(ぶき)ぞおとづるる、
あはれ こひびと。

 わたしはこの原詩を突きとめられない —。
 原詩を突きとめられないが、いかにもサッポー的とも思えるもうひとつ。

LI

Is the day long,
O Lesbian maiden,
And the night endless
In thy lone chamber
In Mitylene?

All the bright day,
Until welcome evening
When the stars kindle
Over the harbour,
What tasks employ thee?

Passing the fountain
At golden sundown,
One of the home-going
Traffickers, hast thou
Thought of thy lover?

Nay, but how far
Too brief will the night be,
When I returning
To the dear portal
Hear my own heart beat!

海表集56 レスボスの島乙女

ミチレエネがた
侘(わび)ゐの孤閨(へや)の
白日(ひる)ながき。
レスボスの島乙女(しまをとめ)
あはれ また 小夜(さよ)もぞながき。

みなとのそらに
星照りて
美晴(はれ)しひと日も
夕されば 花をとめ
なににうき身をやつすらむ。

金色(きん)のいり日の
吹上(ふきあげ)のあたりをふみて
ふるさといそぐ商(あき)びとよ
戀しききみを
偲(おも)へるや。

いなとよ さはれ天離(あまさ)かる
こひしき家(いへ)に
かへるとき
更(ふ)けやすき小夜(さよ)にもあるかな、
わが小胸ときめきにけり。

 大正期にサッポーを紹介した法月歌客は、『女詩人サッフォ』の中で、日夏耿之介のこの訳詩を、サッポーの作として紹介していることを附記しておく。


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