トローイアにおけるイドメーネウスの仲間という噂で、トローイア戦争の説明の作者だと主張した。後2/3世紀(PTeb. 2, 268)のギリシア語断片が伝存している。現存する『Ephemeris belli Troiani〔トローイア戦争日誌〕』(後4世紀ごろ)は、『Cypria』から『Telegony』にいたるトローイア伝説に関係し、この作品の翻訳のひとつは、L. Septimiusによるもの。同じくプリュギアのダーレスによるとされるもの〔『トローイア滅亡の歴史物語』〕は、ギリシア語なき中世期に大いに読まれた。(OCD)
ラテン語に翻案されたものは、ディクテュスの『トロイア戦争日誌』、ダーレスの『トロイア滅亡の歴史物語』として、いずれも岡三郎の訳でトロイア叢書1(国文社、2001.12.)に入っている。
“1a,49,F”.1.1
EKLOG. IST. Cram. An Par II 201, 22:
ダナイオイ人たちには、初め、プリアモスと共闘して、イーリオンやトロイアー近傍に対して戦うのがよいと思われた。だからこそ、テラモーンの子アイアースやアキッレウスは王たちから除外した。かくてプリュギアの数多くの都市を掠奪して、戦利品のおびただしい量を軍陣に運びこんだ。しかし、ヘッラス勢と非ギリシア勢との間に数々の〔symbilon[ 章夫 富田, 2014/01/22 10:58 sumbilw:n語義不明。]?〕戦闘が起こり、イーオン市が略奪された。ディクテュスの第1歌にあるとおりである。
”1a,49,F”.2.1
JOHANN. MALALAS Chron. V p.135, 2 Bonn:
オレステースを愛し、これが王支配することを望む都市と評議会の人々の意向に沿うため、神官たちはオレステースを祓い、浄めて、彼の母親殺しの狂気を宥めた。そうして彼を連れて行って、アレイオス・パゴスのあるアテーナーの神域でテュンダレオースといっしょにやって来たオイアクス、クリュタイムネーストラーの娘エーリゴネー、オレステースの間の訴えを聞いたのは<メネステウス>であった。このメネステウスが、オレステースは自分の父親に対する殺人、とりわけ他の女たちによるそれに、誰か別の女が何かそのような恐ろしいことをしでかさないよう、復讐したのだと義しく判決を宣した。以上のことをディクテュスが自分の第6歌の中で詳述している。
”1a,49,F”.3.1
JOHANN. ANTIOCH. EXC. De virtut. I 166, 25_168, 4:
プリュギア人たちの王プリアモスが、ヘカベーと結ばれて、アレクサンドロスとも〔呼ばれる〕パリスをもうけたこと。彼女は妊娠中、火のついた松明を産むように思われた。そこでプリアモスが占い師に神託をうかがわせたところ、30歳になったらトロイアを滅ぼすだろうとの神託を得た。そこでこれ〔パリス〕をいわゆるパリオンに送り出した。かくて30年が過ぎたとき、父親はこれをトロイアに呼びもどして、祝祭を挙行した。ところがメネラーオスは、王アガメムノーンとともに、地方の統治者たちtopavrchVを歴訪し、ヘッラスに対する暴慢を看過することなく、自分と共闘し、”1a,49,F”.3.10 これらを敢行した非ギリシア人たちを相手にともに戦うよう呼びかけた。そうして王たちと州の統治者たちを結集したと、ホメーロスとディクテュスがそういうふうに謂っている。
”1a,49,F”.4.1
JOHANN MALALAS Chron. V p.106, 19:
ポリュクセネー〔プリアモスとヘカベーの末の娘〕は背が高く、清純で、きわめて色白で、大きな眼をしていて……とても別嬪であった。18歳の時に殺されたと、最高の知者ディクテュスが(T 2aが続く)……この人は、アガメムノーンとメネラーオスに扇動され、武装し、軍を率いてイーリオン攻めに向かった者たちを詳述したが、その各々は自分の軍と艦船を所持していたという。”1a,49,F”.4.6 誰よりも先に出発したのが、アトレウスの息子、ミュケーナイオイ人たちの王、アガメムノーンで、率いたのは軍船100と、軍隊の兵糧のための荷船30。ペーネレオース、レーイトス、アルケシラーオス、プロトエーノール、クロニオスが率いたのは軍船50。エレペーノールがエウボイアから率いたのは軍船60。プレイステネースの息子、スパルトスの王メネラーオスの方が率いたのは、軍船60。ディオメーデースがアルゴスから率いたのは軍船80。アスカラポスとイアルメノスが率いたのは軍船30。スケディオスとエピスポロスが率いたのは軍船40。メゲースがヘッラスのドリケーから率いたのは軍船40。テラモーンの子アイアースがサラミスから率いたのは軍船12。アンティマコス、タルピオス、ドレースが率いたのは軍船40。ネストールが率いたのは軍船90。トアースが率いたのは軍船40。アゲーノールとテウティデースが率いたのは軍船60。プロトオスとマグにトールが率いたのは軍船40。エウメノスが率いたのは軍船11。ネーレウスがミュケーネーから率いたのは軍船3。カリアースがトリッケーから率いたのは軍船30。エウリュピュロスがアステリオスから率いたのは軍船40。レオンテウスとポルペーテースが率いたのは軍船40。アムピゲネアスがイーリオンから率いたのは軍船43。メネステウスがアテーナイから率いたのは軍船50。イドメネウス、メーリオネースがクレーテーから率いたのは軍船80。オデュッセウスがイタケーのケパレーニアから率いたのは軍船12。トレーポレモスが率いたのは軍船9。ロクロス人アイアースが率いたのは軍船9。アキッレウスがパトロクロスとともにヘッラスのアルゴスから率いたのは軍船50。プローテシラーオスとポダルケースが率いたのは軍船40。パラメーデースが率いたのは軍船12。ピロクテーテースがメトーネーから率いたのは軍船500。ネーレウスがペライボイから率いたのは軍船22。ソールテース、ピリッポス、アンティポスが率いたのは軍船20。ヘッラス勢の全艦船は1250。彼らは各自の指令どおり、先ず、アウリス地方に出港し、そこから、プリュギア人たちの地方に攻め寄せ、先に書かれたとおり、その王国を略奪し、プリアモス王を勾引して、これと王妃ヘカベーを殺害し……各自の地方に帰還した。こうして、全アジアのエペソスとプリュギアのトロイアの王国が存続したのは、まる819年であった。
”1a,49,F”.5.1
SCHOL. A HOMER. Il A 108:「おまえ(sc. カルカース)は、結構なことは一度とてまだ言いも果たしもした例がない」
ここから出発して、新世代の史家たちは記録している、 ヘッラス勢がボイオーティアの都市アウリスに集結したが、〔天候が悪く〕船出できず港に留められたとき、占い師カルカースが発言し、アガメムノーンが自分の娘イーピゲネイアをアルテミスに生け贄としないかぎり、他の方法では自分たちはイーリオンに船出できないといった。その所以は、彼女〔アルテミス〕の杜で育てられた聖なる牝ヤギを自分〔カルカース〕が殺すのであり、かてて加えて、アルテミスでさえこれほどには射たことはないと自慢して云った。そこでアガメムノーンが、万やむを得ぬ仕儀で乙女を祭壇に供えたとき、女神が憐れみ、処女の代わりに鹿を供えて救い、彼女〔イーピゲネイア〕はスキュティアのタウロスで ”1a,49,F”.5.10 女神の聖なるもののために送られると云ったという。この歴史は、新世代の史家たちの多くの書にあるが、トローイア誌を書いたディクテュスにもある。
”1a,49,F”.6.1
JOHANN. SIKELIOTA Chron. [Heinrich Progr. Graz 1892] p. 7, 8_8,10. JOHANN. ANTIOCH. (EXC. SALM.) Cram. An Par II 390, 19_30:
(1)そしてこれらの都市はアキッレウスが略奪した。アイアースの方は……ケッロネーソスと、彼らの王ポリュムネーストールを攻囲した。ポリュムネーストールはこの勇士の力に恐れをなして、これと和平条約を結び、これに黄金と、<1年間分の>穀物と、プリアモスの末子ポリュドーロスを差し出した。というのは、王プリアモスは、〔ポリュドーロスが〕小さいとき、財産をつけて彼に預けていたのだが、それは、自分の都市が将来転覆させられても、彼が生きのびられるためであった。そういう次第で、テラモーンの子アイアースは、そこから〔プリュギア王〕テウトラースの都市と、”1a,49,F”.6.10 その娘テクメーッサを受けとり、妻とした。
(2)プリアモスから、アッシュリア人たちの王タウタネースに宛てた手紙と、ヒエルゥサレーム王ダウイドに宛てた手紙が送られ、その中で〔プリアモスは〕救援を要請した。しかしダウイドは承知しなかったが、タウタネースは、ティートーノスと〔その子でエティオピア王〕メムノーンとを、インドイ人たちとともに派遣した。
(3)一方、アキッレウスは、密偵の何人かを捕らえ、連中から、〔アマゾーン女人族の〕女王ペンテシレイアを出迎えるため、夜陰に乗じて、彼女を援助しに出かけると知って、自身はひそかに、自分の家来たちをも待ち伏せさせ、河を渡ろうとしていたヘクトールを襲撃し、彼も彼に率いられた者たちをも、それと気づかぬうち、ただひとりだけを残して殺し、これは両手を切り落として、プリアモスに報告させた。そしてこれ〔ヘクトール〕の残りものは馬たちに曳かせて陣地に運び、無数の刺突を加えたうえで、戦車に吊しておいた。
(4)他方、プリアモス王は聞いて都市とともに痛哭したために、鳥たちも惑い、ヘッラス人たちも哀悼の叫び声を耳にしたほどであった。アキッレウスはといえば、これを放置したまま、パトロクロスのための葬送競技を挙行し、数々の競技を準備したうえで、パトロクロスの死体を火葬に付した。
(5)喪服に身を包み、四輪の荷車の荷台に、おびただしい金、銀、飾り、輝かしい衣裳を載せ、さらには、自分の娘のポリュクセネーをも招いて、夜間、アキッレウスの兵舎にやって来て、誰しもがこの人の敢行にびっくりしたのだが、アキッレウスの足許に身を投げだして、ヘクトールの死体を引き渡してくれるよう嘆願した。さらにはポリュクセネーが、アキッレウスの両足をかき抱いて、彼の奴隷にして、ヘクトールの死体の傍に置くよう要請した。そこでイードメネウスやネーレウスの一統は、贈り物と、プリアモスをその嘆願ともども受け容れるようアキッレウスに勧めた。そこで彼らに説得されてアキッレウスはプリアモスに以下のことを謂った。「御身は最初から御身の子どもらを掴んでいるべきで、やつらといっしょに過ちをおかすべきではなかった。いやむしろ、他人のことに対してもエロースに御身を捕らえさせておくべきだった。だからして、御身らが犯した不敬の罰を受けるがよい。御身らのおかげで、ヘッラス人たちも非ギリシア人たちも正気に返れたのだ」。こういうふうに云って、ポリュクセネーともどもプリアモスを地面から立たせて、自分といっしょに食事するよう懇請し、死体は彼らに与えられると約束した。そこでプリアモスは、”1a,49,F”.6.40 懸念にとらえられてはいたが、食事にあずかり、多くの会話の中で、アキッレウスに、身代金を受け取って、残り物を与えるよう説得し、さらに、ポリュクセネーをも自分の奴隷に残すよう勧めた。しかしアキッレウスは、ヘッラス人たちがこの時にポリュクセネーをつかまえることを恥じて、少ししたら彼女を娶ると云って、先延ばしした。
(6)こうして、プリアモスはヘクトールの死体を受けとって、イーリオンに立ちもどった。そうして、死体を葬り、追悼の仕来りの日々を送っているとき、ペンテシレイアがアマゾーン女人族の大軍を率いてトロイアに来援すると知った。〔ペンテシレイアは〕まだヘクトールの死を知らなかったのだ。そこでパリスは、多くの贈り物を携えて彼女と会見し、トロイアに入城するようこれを説得した。彼女によって都市が起死回生すると期待してである。以上すべてのことをディクテュスが”1a,49.F”.6.50 記録している。
(7)さて、ペンテシレイアが都市に来援しようとしていることで、アカイオイ人たちはポリュドーロスを都市の<城壁の>前に引き立て、ヘレネーを引き渡してポリュドーロスを受け取るよう非ギリシア人たちに通告した。しかし拒まなかったので、彼らの見ているところで、その若者を射殺した。
”1a,49,F”.”7a”.1
PAP. TEBTUNIS 268:
……彼らの意気はなくなった。
それからさして多くない日々が経過して、ヘッラス勢は武装して……平野に進み出、彼らを戦いに挑発した。今度は、メムノーンがもはやいないので、非ギリシア勢を指揮したのはアレクサンドロスであった。しかし、軍勢が付き随ったものの、もはやわれわれに攻めかかれず、敗走する非ギリシア勢のうち、きわめて多くの者たちがスカマンドロス河に投げこまれ、プリアモスの子どもたちのうちリュカオーンとトローイロスとが、生け捕りにされ、これをアカイオイ勢の中央にすぐ引き立てて、アキッレウスは喉笛を掻き切るよう命じた。〔彼らの〕父親が、同意したことを自分にまだ送って寄越さないので、憤慨していたからだ。
”1a,49,F”.”7a”.10
亡き者にされたトローイロスに対する小さからぬ歎きが、イーリオンにいる者たちの間に湧き起こった。というのは、まだ若く、気高く、……誰よりも……死者たちを……。わずかな日数が経ち、テュムブレーにいますアポッローンの祝祭が催され、戦争の休止が成り、犠牲祭のなか……プリアモスはポリュクセネーのために、イーダイオスに書簡を持たせて、アキッレウスのもとに遣わした。彼が杜でこの者と1対1でいたとき、ヘッラス勢の中に大きな騒動が持ちあがった。アキッレウスが軍を裏切ったというのである……アレクサンドロスは……を引き具して……
”1a,49,F”.”7a”.20
……アイアースはディオメーデース、オデュッセウスと連れ立って……彼を待っていた。……彼らを見てオデュッセウスが云った。……善くなかった。この連中は……手に掛けた者たちだった。そこで杜の中に入っていって、全体を見まわして、アキッレウスが祭壇の囲いの中に横たわっているのを目にした。ぐったりして、それでもまだ息をしていた。これに向かってアイアースが云った。「まこと、おぬしは衆にすぐれているゆえ、力で殺すことのできる者は余人にあらず、おぬしの向こう見ずさがおぬしを滅ぼしたのだな」。すると彼が云った。「ポリュクセネーをだしに、こういうことをわしにしでかしたのはアレクサンドロスとデーイポボスだ、罠を仕掛けて」。彼と抱き合い、息を引き取る彼と指揮官たちは挨拶を交わした。
”1a,49,F”.”7a”.30
死者となった彼を、アイアースは……肩にかついで……。トロイア勢はこれを見て、死体を損なおうと……。しかしヘッラス勢は、何が起こるかを察知して、武器を執って、アキッレウスを運ぶ者たちと落ち合った。お互いに衝突するや、アイアースはディオメーデース麾下の者たちに死体を守るよう渡し、最初に、デュマースの子にして、ヘカベーの兄弟アシオスを斃し、次いで、カリア人たちの指揮官ナステースとアムピマコスを〔斃した〕。
”1a,49,F”.”7a”.1
PAP. TEBTUNIS 268:
”1a,49,F”.”7b”.1
JOHANN. MALALAS p. 132, 22 (=T 2 b)
”1a,49,F”.8.1
JOHANN. MALALAS Chron. V p. 119, 22 (EKL. ICT. P. 212, 6):
キルケーについて、コース人シーシュポスとクレーテー出身のディクテュスというこれら至賢の人たちが以下のことを詳述している。
”1a,49,F”.9.1
_p. 121, 3 (EKL. ICT. P. 212, 22):
しかしキルケーの島からオデュッセウスは出発したが、逆風に吹き散らされて、他の島にひきもどされた。これを、キルケーの姉妹カリュプソーも、彼と交わって結婚することをあてに、何くれとなく彼の世話をやいた。
(2)さらに彼が打ち上げられたところには、海の近くに大きな港があり、ネキュオポントス〔死者の海〕港と言われていた。そこの住人たちは占い師であった。彼らは彼のために、彼に結果することや未来のことをすべて預言してやった。
(3)そこからさらに船出して、海の大嵐が起こり、セイレーンたちとそう呼ばれる岩礁に吹き散らされた。それは波の衝突によって特有の反響を引き起こす岩礁であった。
(4)そこからさらに脱出して、いわゆるカリュブディスという、荒涼たる切り立った場所に至ったが、当のオデュッセウスだたひとりが、船板にすがって海洋を運ばれ、心ならずもの死を待つばかりであった。
(5)ところが、フェニキアの船乗りたち数人が航行中、海の中を泳いでいる彼を見つけ、憐れんで救い、彼をクレータ島のヘッラス人たちの指揮官イードメネウスのもとに連れて行った。イードメネウスはオデュッセウスが裸で無一物なのを見て、同情し、自分の同僚の将軍として、おびただしい贈り物と、軍船2隻、彼を助けた者たち数名を彼に与え、彼をイタカへと送り出した。以上が、賢者ディクテュスがオデュッセウスから聞いて著した内容である。
”1a,49,F”.10.1
EKL. ICTOP. P. 213, 13_216, 5:
オデュッセウスは、クレーテーから船出して、パイアーケスのアルキノオスのもとにたどり着き、輝かしいもてなしに値する者として扱われた。
(2)しかしオデュッセウスは、あまりに長期間にわたる出郷のせいで、死んだものと家人たちに思われていた。そこでイタケーに密偵を遣ったところ、彼らはオデュッセウスの館にペーネロペーの求婚者たちが30人いることを見出した。また、都市の出身者で、彼らに出会った者たちは、オデュッセウスについて尋ねたので、彼は以前に死んだと彼らは謂った。”1a,49,F”.10.7 これを聞いて、求婚者たちは、以後、危惧を止めて、宴楽した。しかしペーネロペーは信じなかった。
(3)一方、派遣された者たちはパイアーケスに帰着して、求婚者たちに関することを洗いざらい報告した。オデュッセウスは聞いて、イタケーめざして、アルキノオスとともに出航した。イタケー人たちが船を見て、何者で、どこから来たのかと問いただしたとき、テーレマコスに向かって、「われわれは、オデュッセウスが死んだので、弔問しようとやって来たのだ」。しかしテーレマコスはオデュッセウスの息子で、彼は船がやって来た真の理由を知ることを願った。そこで、オデュッセウスとともにいた人たちのひとりに近づき、その者から、自分の父親であることをひそかに知った。他方、求婚者たちは〔オデュッセウスの〕家で宴楽していたところ、オデュッセウス一統が武装して入ってきて、いきなり襲いかかった。しかし前者は酩酊していたので、全員が亡き者にされた。都市に騒ぎが起こったので、布告使たちがオデュッセウスの帰着を告げてまわった。
(4)さて、テーレマコスは、アルキノオスの娘で名をナウシカアというのを妻に迎えた。
(5)その後、求婚者たちの家族や友人たちは、出来事を聞いて怒りに満たされ、”1a,49,F”.10.20 イタケーのオデュッセウスとテーレマコスに向かって進撃してきた。そこでオデュッセウスとテーレマコスの一統は、武具に身を固めて、都市の外で迎え撃ち、激戦となったが、求婚者たちに味方して戦った者たちは、テーレマコスが最勇者となったので、斃された。
(6)時が過ぎ、オデュッセウスは自分の最期を暗示する夢を見た。夢から覚めて、夢判断をするため、彼は経験を有する者たち全員を呼び集めた。その中には、イタケー人クレイトポーンもアルゴス人ポリュペーモスもいた。この者たちに夢を告げ、彼は謂った、「自分の寝床にわしは横たわっていた。**何か姿のよい、神のような恐ろしげな生き物が、完全な人間の姿を守ることができないが、これを快く思って見ていた。すると、子がもうけられたあの寝台が、わしにはわしの理解力によっても気持ちによっても明白でなくなった。そうとわかって、”1a,49,F”.10.30 そいつの手で熱心に抱きつかれたくなかった。するとそいつは、人間の声を使って謂った、これは神法であり、われわれ両者の親しさの紐帯であり、あのものにわしが消滅させられるのがその意味だ、と。そいつについてわしが熟慮していると、海から取られた針のようなものが、あいつの指令を見えないところで受けて、いきなりわしを襲った。ところがわしは驚きのあまり無力になり、少しして死んだ。以上がわしが観たことだ。おぬしらは何も恐れることなく判断するがよい。夢見の中味が縁起がよくないことは心得ておるから」。
(7)そこで彼らはひとりになってその話を考察し、テーレマコスは席を外すよう謂った。彼が退席すると、〔オデュッセウスは〕自分の子によって刺されて最期を遂げる、と謂った。そこで彼はすぐにテーレマコスのところに飛び出し、これを亡き者にしようとした。しかし、息子が落涙し懇願するのを目にして、”1a,49,F”.10.40 父親の情にほだされ、子を放逐することに決め、これを見張るよう命じた。次いで、これをケパレーニアの辺境地帯に移住させ、死の推測から自分を解放した。
(8)多日を経ずして、再びオデュッセウスは同じ夢を観、判断の誤りに帰して、以後は、好機嫌で過ごした。しかしながら、彼には自分の知らない別の子があった。キルケーから彼にできた子で、名はテーレゴノス、生まれる子の美質をすべて持って、年ごろに達したのを見たキルケーは、オデュッセウスからもらった海のトリュゴーン〔アカエイ〕の針〔脊柱〕を仕込まれた槍を彼に与えた。これは、彼にとって父親を確証する割り符であり、認知の品となるものであった。
(9)かくて、テーレゴノスは小槍を受けとって、夜間、イタケーに着いて、父親を探し、それが田舎にいると知り、そこに着いて、番人たちに父親に会わせるよう強要した。しかし彼らは彼を知らず、[むしろ]反撃した。そこでテーレゴノスが、自分の父親だということ、そして自分が会うことを妨害されているといって、神々を証人に呼んだので、テーレマコスだと猜疑し、夜間にやって来たのは、父親を殺すためであろうと猜疑して、ますます激しく反撃した。オデュッセウスが別の子を持っているとは誰ひとり信じなかったからである。
(10)騒ぎが起こり、「テーレマコスが異国の衣裳を身にまとって、夜陰に乗じてやって来てわれわれに暴行している」とオデュッセウスに知らされた。彼はこれを聞き知るや、怒りに煮えくりかえり、槍を携えて飛び出し、その槍をすぐに相手めがけて投げつけた。しかしそれは外れ、傍にあった秦皮の樹に刺さった。テーレゴノスも、自分の父親とは知らず、狙いをつけて自分も槍を投げ、このうえない不幸な幸運に恵まれて、オデュッセウスの脇腹を傷づけた。
(11)オデュッセウスは、この敢行をテーレゴノスに問いただし、彼がキルケーからもうけた自分の子であることを聞き知り、また、キルケーに与えた海の針をも〔テーレゴノスが〕示したので、まさしく自分がテーレゴノスの父親であることを確信し、深い懊悩に打ち沈んで身を地に投げだした。そして、〔自分を殺すのが〕テーレマコスでないことを知り、夢占い師たちを罵った。彼らはテーレゴノスから、どこからやって来て、いかなる両親の子であるかを聞き知り、イーリオンにおいては傷つけ得た者はひとりとしてなく、数々の驚異をちからづくで仕遂げたこのような人を、この者が倒したことを聞き知った。
(12)さて、半死半生の態でオデュッセウスはイタケーに運ばれ、暫くしてその生を終えた。
(13)権力はテーレマコスと孫のプトリポルトスに遺された。そこでテーレマコスは、統治権を分割し、自分はイタケー全土を統治し、テーレゴノスにはそれ以遠を与え、その真ん中の地方の統治権は ”1a,49,F”.10.70 プトリポルトスに委ねた。また夢占い師たちを亡き者にしようと望んだが、テーレゴノスがこの命令を断ったので、彼らはスパルタに留まるよう命じた。この者たちがやって来て、すべてをディクテュスに説明した。そしてオデュッセウスについてのことは、以上である。
”1a,49,F”.11.1
Synesios Falakr. ejgk. p. 82 C:
なぜなら、(sc. ディオーンは)ヘクトールの反対側から虚言しているが、ヘクトールに関することはむしろホメーロスに属する……というのは、非常に知慮深い人たちと最も等しいことを剃髪に関して伝承し、英雄たちについて、(わたしの思うに)その出征仲間となり、彼ら攻めに出征した者として、最も真実なことを示している、まさにそのことをヘクトールについて言っているからである。〔???〕
2014.01.26. 訳了。