ヘーラクレイトス

 この人物については、本書の著者という以外、詳細は知られていない。

 邦訳は、京都大学学術出版会の西洋古典叢書に、内田次信訳で入っている。
 プルタルコス/ヘラクレイトス『古代ホメロス論集』(京都大学学術出版会、2013.10.)

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『寓意(Allegoriae)』あるいは『ホメーロスの諸問題(Quaestiones Homericae)』


"T".1.1

ヘーラクレイトスのホメーロスの諸問題
神々についてホメーロスが寓意した事柄について

序部

1.1.1
 ホメーロスに対して天から重大かつ難儀な言い掛かりが向けられているのが、それは神性に対する軽視についてである。というのは、彼はあらゆる点で不敬だからである、もしも彼が何ら寓意していなかったとするなら。
1.2.1
 たしかに神殿荒らしの神話や、神に対する戦いというたわごとに満ちた神話が、両編を通じて狂乱している。
1.3.1
 したがって、もしもひとが哲学的観想なしに、それらに何らの寓意的転化(trovpoV)もないまま、詩的な伝統に基づいて述べられていると考えるなら、ホメーロスはサルモーネウスとかタンタロスであろう、

放埒な舌を有するとは、醜態もきわまる病かな(E. Or. 10)

1.4.1
 したがってわたしには、とても驚くことになったのである、信心深い生が、神殿や神域や、神々の毎年の祭礼に専念しているにもかかわらず、ホメーロス的不敬をかくも愛おしげに抱きしめて、いまわしい言説をそらで歌うほどなのは、どうしてなのか、と。
1.5.1
 例えば、幼児の初学者の子どもは、最初の年ごろからすぐに、あの人の作品による教授で授乳され、ほとんど産着にくるまれるようにその詩句でくるまれて、まさしく新鮮な母乳によってのように魂を潤されるわれわれなのである。
1.6.1
 生き始め、少しずつ成人してゆく各人の傍に彼は付き添ってきて、成人した者たちには真っ盛りとなって、老いるまで飽きることは一つとしてなく、止めれば再び彼に渇するわれわれなのである。
1.7.1
 人間界にあってホメーロスと〔の交流を〕終える者は、ほとんど生をも終えるに等しいのである。

2.1.1
 以上から、わたしの思うに、いまわしい神話の汚点は一つとして詩句に含まれていないことははっきりしており、万人に明白である。しかも先ず『イーリアス』が、次いで『オデュッセイア』が、それぞれ声を合わせて、自分の敬虔さについて、あらゆる汚点から清浄であり聖潔であることを叫んでいる。

拙者にしても、天上にまします神々と戦おうとはおもいもよらない。〔Il. vi_129〕
幼稚ぞな、われらがいきり立って、ゼウスと張り合おうなどとは〔Il.xv_104〕

2.2.1
 これらの詩句を通して、ゼウスは天上において、眼に見えぬ頷きによって〔天を〕揺るがして〔Cf. Il.i_528-530〕、いかに聖別されていることか。ポセイドーンにしても、いきなり突進して、いかに「高き山々を、また森をもおののきわたらせる」〔Il. xiii_18〕ことか。
2.3.1
 同じことはヘーラーについてもひとは云うことができよう。

玉座のうちに身を震わせ、高きオリュムポスをも揺るがせたもうた。〔viii_199〕

2.4.1
 アテーナーの出現の仕方も同様で、

それでアキレウスは肝をつぶし、後ろを向くなり、ただちに
パッラス・アテーナーなるを認めた。両の眼は恐ろしげに輝いていた。〔Il. i_199-200〕

〔アルテミスも〕

あたかも矢を射るアルテミスが、峰を降って渉られるよう
— 高く聳えるターユゲトスか、エリュマントスか —
野猪どもや、俊敏な牡鹿たちに興じつつ。〔Od. vi_102-104〕

2.5.1
 もちろん、神々全体について、聖なるものにふさわしく平等に、かつ、共通に神話されている事柄は、いったいどうして言う必要があろうか。「永遠にいます浄福の神々」〔Od. viii_306〕とか、「不滅の謀を持てる」〔Il. xxiv_88〕とか、あるいはゼウスにかけて、「善福の贈り手」〔Od. viii_325〕とか、「楽々と生きる方々」〔Od. iv_805〕とかのことである。

彼らは穀類を食さず、燃え立つ酒を飲まず、
それゆえ血汐を持たず、不死なる者たちと呼ばれている。〔Il. v_341-342〕

3.1.1
 だから、これらの点に基づいて、誰がホメーロスを不敬な者と敢えて言うであろうか。

いと誉れ高きゼウスよ。いと大いなる、黒雲に包まれ、高空に住まう方よ。〔Il. ii_412〕
またヘーリオス、万物を見そなわし、万物を聞こし召す方よ、
そして河川よ、大地よ、また黄泉の国にて
偽証を犯した死者たちを罰する二神よ、
御身らが証人となりたまえ〔Il. iii_277-280〕

ホメーロスの敬神の意図について、彼が格別の情熱を以て、あらゆる霊妙なるものの崇拝者である、と。彼自身もまた神的な者なるゆえに。

3.2.1
 しかし、無学にも、一部の人間たちが、ホメーロス的寓意に無知で、あの人の知恵の奥底に降りて行けず、真実の判断が彼らによって吟味されないまま投げ出され、哲学的に言われたこと理解せず、神話的に実行したと思われることを押しつけるなら、こういう連中は行ってしまえ。
3.3.1
 だがわれわれは、足を踏み入れてはならない聖水盤の内側で聖別された者として、詩作品の歌の底にある厳粛な真理を追跡しよう。

4.1.1  そこで、追従者にしてホメーロスの中傷者プラトーンは棄てらるべし。自分の国制から誉れ高き追放者として、白い羊毛〔のリボン〕を巻いて、高価な香油を頭に注いだ後に追い出した〔Cf. Rep.iii_398A〕彼は。
4.2.1
 エピクゥロスもわれわれは気にしない。自分の菜園のあたりで卑しい快楽の百姓となり、詩作術のすべてを神話の破滅をもたらす餌として、一括して禊ぎする〔Cf. Fr.229〕彼は。
4.3.1
 彼らに向かってわたしが大嘆息してこう云ったとしても、道理に適っていよう。

やれやれ、いったいまあ何として、人間どもは神々に責めをきせるのか。〔Od.i_32〕

4.4.1
 実際最もひどいのは、両者ともホメーロスを自分たちの教義の源にし、彼から知識の大部分を益されながら、彼に感謝することがないという不敬さである。
4.5.1
しかしながら、エピクゥロスとプラトーンについては、また言う機会があろう〔76節以下〕。

4.5.1
 今はおそらく、寓意について少し、簡潔に専門的に論ずるべきであろう。おおよそこの名称そのものが、語源的によく説明していて、それ〔寓意〕の能力〔意味〕を曝けている。
5.2.1
すなわち、他の事どもを語りつつ(a[lla ajgoreuvwn trovpoV)で、言っていることとは別のことを表す転化法で、同音的に寓意(ajllhgoriva)と呼ばれるからである。

5.3.1
 例えばアルキロコスは、トラキアとの恐るべき事態に巻きこまれたときに、その戦争を海の荒波になぞらえて、およそ次のように言っている。

5.4.1
グラウコスよ、見ろ、深い海はすでに波をかき乱され、
ギュライの頂には、雲がまっすぐ立っている。
あれは嵐の前触れだ。恐怖は思いがけずやって来る。〔Archil. 54〕

5.5.1
 また、ミュティレーネーの抒情詩人〔アルカイオス〕も、よく寓意しているのをわれわれは見出すだろう。つまり、僭主政の騒乱を、やはり、海の?態になぞらえているのである。

5.6.1
風たちの党争をわしは解せぬ。
ある波はこちらにのたうち、
ある波はあちらに。して、わしらはその真ん中で
黒い船とともに運ばれつつ、
すこぶる大きな嵐に苦労している。
船底の水は帆柱受けまで達し、
帆はもはやどこもかしこも穴だらけで、
そこに大きな裂け目まである。
錨は弛む。〔Alcaeus 208〕

5.7.1
前述の海に関する比喩からすぐに、海を航行する人間どもの恐怖のことだとみなさない者がいるであろうか。しかしそうではないのである。というのは、表明されているのはミュルシロスのことであり、ミュティレーネー人たちに対して惹き起こされた僭主的組織のことだからである。
5.8.1
同様に、この者に起因する事柄を、どこか他の箇所で彼はほのめかして言っている。

今度は、前のよりも大きな波が
やって来て、われわれに大変な労苦をもたらすであろう、
船に浸水すれば、掻い出すのに。〔Alcaeus 6〕

5.9.1
島人の彼は、海事の言い廻しをふんだんに寓意に使い、僭主たちのもとに蔓延したに悪事の大部分を海洋の嵐に譬えたのだ。

5.10.1
 さらにテオース人のアナクレオーンも、高慢な女の遊女的な考え方や尊大さを罵って、彼女の跳びはねる理性を馬のように寓意して次のように言っている。

5.11.1
トラキアの子馬よ、どうしてわたしを横目で睨みつつ
無常にも逃げてゆくのか。わたしが賢いことを何も知らないと思っているのか?
よく知るがよい、わたしはおまえに美しく銜を嵌め、
手綱を持って、走路の折り返し柱を廻らせてやろう。
今、おまえが牧場で草を食み、軽やかに跳ねて遊んでいられるのは、
右利きの手綱さばきをする騎乗者をおまえが乗せていないから。

5.12.1
 総じて、詩人や著作家たちの寓意を一つひとつ詳述すれば長くなろう。<そこで>わずかの譬えによってこの問題の全体の自然を専門的に論ずれば充分であろう。
5.13.1
 いや、ホメーロス本人が、両義的でもなく、探究の余地もない寓意を用いている場合が、時に見出される。
5.14.1
 表現のこの明瞭な転化法を彼が伝えているのは、オデュッセウスが戦闘と勝負の諸悪を詳述して謂っている詩行においてである。

5.15.1
その〔戦の仕事〕といえば、大方は藁ばかりを、青銅〔の刃〕が地に薙ぎ倒し、
穫り入れときたら、はほんのわずか、 — ゼウスが
秤をついに傾げられるとな。〔Il. xix_222-224〕

5.16.1
つまり、言表されているの(legovmenon)は農事だが、思考されているもの(noouvmenon)は戦いである。いずれにしろ、やはり、表意されていること(dhlouvmenon)を、わたしたちは相互に反対の事柄によって口に出した(ejpeivpomen)のである。


第1部 『イーリアス』における寓意

アポッローンの矢(『イーリアス』第1歌)

6.1.1
 ところで、他のあらゆる〔詩人〕たちに馴染み深いのが転化法であり、ホメーロスにおいても知られないわけではないからには、神々についてまずいと思われているかぎりのことをわれわれが蒙ったとしても、このような弁明によって手当てしないことがどうしてあろうか。

6.2.1
 そこで、わたしの言説の配列は、ホメーロス叙事詩の配列どおりとなり、各歌の中で神々について寓意されている事柄が、洗練された知識によって演示されることになろう。

6.3.1
 さて、いつも血なまぐさく邪眼に満ちた妬みは、第1歌の第1行をさえ容赦しない。アポッローンの怒りについて長々しい言葉が彼に対してくりかえされるのである、何の責任もないギリシア兵たちを、でたらめに放たれた矢が巻き添えに滅ぼしてゆく、6.4.1
この者の瞋恚はあまりに不正であるために、クリューセースを姦したアガメムノーンこそが、不正したのなら罰せらるべきなのに、格別なことは蒙らず、

神官を畏敬し、輝かしい身代金を受け取るよう 〔Il. i_23〕

大声で呼びかけた者たちの方が、説得されることのなかった者〔アガメムノーン〕の愚かさの巻き添えをくらうとは、と。

6.5.1
 ただし、わたしが叙事詩の根底に横たわる真理を厳密に精読したところ、それは、思うに、アポッローンの怒りではなく、疫病のもたらす悪であり、神の送ったものではなくて、自然発生的な破滅、その時もだがいつでも起こり、今日に至るまで人間の生を蝕んでいるのである。

6.6.1
 さて、アポッローンが太陽と同一であり、一体の神が2つの名称で飾られていることが、われわれにはっきりしているのは、口外無用の入信式が神話する秘儀的言説と、あちこちで人口に膾炙している「太湯はアポッローンだが、アポッローンは太陽」という俗諺である。

アポッローンと太陽

7.1.1
 これに関する証明は、あらゆる歴史にについて恐るべき人物アポッロドーロスによっても精査されている。

7.2.1
 わたしとしてはこれを、さらなる細説と場違いな言葉の過剰によって長話することを避けよう。
7.3.1
 だが、わたしたちの比喩からして云う必要のあることを省くつもりはなく、示すのは、ホメーロスにおいてもアポッローンと太陽は同一である、ということである。
7.4.1
 これは、ひとが細密に考察しようとすれば、あらゆる形容句から周知のことであるのを見出すであろう。

7.5.1
 とにかく彼をポイボスと名づけるのが習わしであるが、ゼウスにかけて、レートーの母親といわれるポイベーにちなむのでは断じてない。7.6.1
なぜなら、ホメーロスに馴染みなのは、父系の形容句を用いることであって、母系のそれは、彼においては総じて見出すことが出来ないからである。
7.7.1
 そこで、光線にちなんで彼を輝くものつまりポイボスと名づけたのであり、太陽にだけそなわったものを等しくアポッローンにも共有させたのである。

7.8.1
 さらに、ヘカエルゴスも、ヒュペルボレイオイから<……>デーロスに初穂を運んでくる乙女ヘカエルゲーと同名であるはずはなく、実際にeJkavergoV、つまり、遠くから(e{kaqen)事を働きかける者、なのである。
7.9.1
 すなわち、太陽は、われわれの大地から遠く離れたところにありながら、地上の諸季節の時宜に適した耕作者として存在し、人間どもにとって、暑熱を寒気と釣り合わせ、耕耘や種蒔きや取り入れの作業の原因となる者である。

7.10.1
 また、リュケーゲネテースと彼に命名したのは、リュキアで生まれた(ejn Lukiva/ gegenehmevnoS)からではなく — 実際、この比較的新しい神話は、ホメーロス的読解の外であるから — 、思うに、暁を生むもの(to; h\r gennw:sa)、これこそ夜明けであるとして、日(hJmevra)をエーリゲネイア(hjrigevneia)と名づけたように、太陽をリュケーゲネース(lukhgenhvV)と命名したのであり、その所以は、彼が大気の澄む季節の薄明かり(lukaughvV)の起因者だからだ。
7.11.1
 あるいは、リュカバース(lukavbaV)つまり年を生むからである、というのは、太陽は12獣帯を順番に経巡って、1年という期間の区切りとなすからである。

7.12.1
 さらに彼をクリューサーオロスと名づけたのは、黄金の剣(crusou:V xivfoV)を帯に佩いているからではなく — この武器はアポッローンにそぐわない、この神は射手なのだから — 、
7.13.1
 日の出時に見られる光がとりわけ黄金に似ているからこそ、この光線ゆえに太陽にはクリューサーオル(crusavor)という形容句がふさわしいとみなされたのである。

7.14.1
 ここから、思うに、神々の戦いにおいても、〔彼と〕争って「ポセイドーンが対立する」〔Cf. Il. xx_67以下〕ことになった。なぜなら、火と水には信じがたいほどの敵意があり、これら2つの要素はお互いに正反対の自然を受け継いでいるからである。
7.15.1
 このゆえに、ポセイドーンは、一種の湿った物質にして、飲み物(povsiV)にちなんでそう名づけられたものとして、太陽の燃えさかる火と敵対的に戦うのである。いったいアポッローンに敵対するどんな格別な理由を〔ポセイドーンが〕有していようか。

太陽が悪疫をもたらしたということ、時季は夏

8.1.1
 さて、以上で、いったいどうして太陽をアポッローンと同一とわたしが表明したかは、述べられたとしよう。では、いかなる論を組み立てようとしているのか。疫病は、破壊の最大の原因を太陽に持つということである。
8.2.1
 というのは、それの〔もたらす〕夏季が、穏やかで柔和で、静かに暖められる場合には、人間にとって救いとなる光を微笑みかけてくる。

8.3.1
しかし乾燥し、ぎらぎら燃える〔夏季〕であれば、大地から病的な蒸気を発散し、それで身体は疲弊し、還境の馴染みがたい変化のせいで罹病し、疫病の病状で滅んでゆく。
8.4.1
 ところが、苛烈な禍いの原因を、ホメーロスはアポッローンに取り換え、はっきりしと、急死の責任をこの神に負わせる。こう謂っているからである。

銀弓たずさえるアポッローンが、アルテミスと連れもって来たりて、
その優しい征矢にて〔死を〕見舞わんと、射かけたもうた。〔Od. xv_410-411〕

8.5.1
 それで、アポッローンと太陽を、ひとつのものであり、同一と彼は解し、太陽からそういう受難は生起するのだからして、自然の理のからしてアポッローンに疫病を引き起こさせたのである。

8.6.1
 また、ギリシア人たちが疫病に病むことになった時季は夏だったことを、今は教授してみよう。したがって、起こった出来事は、アポッローンの怒り〔の表れ〕ではなく、大気の腐敗として自然発生したものであるということを。

8.7.1
 先ずは、日々の長さ。不釣り合いに長く延びていて、「日がもう永くなった時分」〔Od. xviii_367〕、つまり、夏の盛りであることを裏づけている。
8.8.1
 というのは、アガメムノーンの武勲から、アキッレウスが武具なしで現れるまで1日が、それもまる1日でさえなく、大部分が長引いているのである。

牝牛の眼のヘーラーが、疲れを知らず、また沈む気は
いっこうにない太陽を、オーケアノスの流れへと向けた。〔Il. xviii_239-240〕

これは、残った時間の少なからざる部分を、思うに、〔ヘーラーが〕短縮したのだろう。

夜も夏のそれである

9.1.1
 で、その間の活動の数々は、8歌に分けられている。つまり、第1歌は、平原での戦いで、両軍の数多くの武勇談が含まれている。その次はギリシア軍の防壁の前での戦いである。
9.2.1
 さらに第3歌として、パトロクロスの戦死と、それをきっかけとするアキレッウスの登場にいたるまでの、軍船攻めの戦いをわたしは付け加える。とはいえ、作戦の数はかくまで多いが、夏の時季だから、信じがたいこととはしていないのである。

9.3.1
 夜もけっして冬のそれではない。凍てつく中、ヘクトールがアカイア軍の艦隊のそばであえて夜を過ごすということがあるだろうか。
9.4.1
また、「アウロス笛やシューリンクスの響きが」〔Il. x_13〕夷狄の陣営中に祝祭のように聞こえたということもなかったろう。
9.5.1
 なぜなら、冬期に戦争する者たちには、温かい寝床や宿営が準備されるのであって、野外での戦闘は無縁だからである。
9.6.1
 そういう次第で、ヘクトールが、そこに入れば安全に暇つぶしできたであろう都市を後にして、海の傍に裸の軍勢を駐留させることは〔戦闘が冬期に行われていたのなら〕なかったであろう。

9.7.1
 また共闘目的に来援した者たちが、皆、季節外れに敵に対峠するほど無謀であったことがどうしてありえようか、とりわけ、イーデーという寒気堪えがたい山がそびえ、河川の無数の流れを湧き出させているのに。

9.8.1
というのは、山のそれぞれの側面から奔出しているのは、
レーソスやヘプタポロスやカレーソスにロディオス、
グレーニーコスに神々しいアイセーポスにスカマンドロスに、
そしてシモエイス。〔Il. xii_20-22〕
これらは、天から降る雨がなくても、平原を水びたしにするのに充分だったのである〔だから、雨の降る冬に戦争をする必要はなかった〕。

9.9.1
 とにかく、夷秋が、無知覚に、何か不利益なことを実行することを選んだと仮定せよ。〔だが〕、思慮の点で万事において抜きん出たギリシア人が、最も善勇の者たちを選抜して、夜間に偵察に送り出したのはどういうつもりなのか?
9.10.1
 その成功から、どれほどの利益があり、失敗した場合に蒙る被害に見合うどんな利益があったというのか。なぜなら、一度雪が降り暴風雨があれば、二人を容易二塁めていたはずなのだから。

9.11.1
 すなわち、わたしとしては、都市から戦闘へ打って出るというそのことが、まさしく夏以外の季節でないことの証拠だと考える。なぜなら、冬にはすべての戦闘が止み、彼らはお互いに休戦協定を結び、武器を携行することもできないし、戦役に従事することもできない。
9.12.1
 いったい、追ったり逃げたりがどうして容易であろうか。寒気に縛られた両手が、どうして狙いあやまたず放つことができようか? しかし、真夏には、大衆は戦闘に向かうのである。
9.13.1
 事情かくのごとくであることこそ、推測はひとつも交えず、眼に見える形で考察すべきである。

海、大地などの状態

10.1.1
 例えば、アガメムノーンが軍の士気を試すした後で、ギリシア人たちが立ち上がって船の方へ走り下り、「船船の下に交う枕木まで取り除けていった」〔Il. ii_154〕のは、もちろん、船首に逆風が吹いていないし、海が脅迫じみてもいなかったからである。

10.2.1
いったい、目に見える危険のなかに出て行こうとする者たちのために操舵手となる者がいるだろうか、とりわけ、渡ろうとする彼らにとって小さな海ではないのに? 

10.3.1
 というのは、彼らが行こうとしたのはテネドスではないし、レスボスやキオスへの航海を準備したわけでもないのである。ギリシアははるか遠くにあるし、この海洋は難物で、夏に航行しても躓くことがあるのである。
10.4.1
 そのうえさらに、集会場から彼らが移動するとき、大量の土埃が舞い上がる。

   一方では喚声をあげ、
船をめがけて一散に走り寄る、足の下からは、
砂塵が舞いあがり、空に漂った。〔Il. ii_149-151〕

10.5.1
大地がまだ[冬季で]湿りを持っていたとしたら、どうしてこういう状態になるだろう。続いておこる対抗布陣の際にも、彼は絶えずこう言いならわしている。

彼らはうわべが埃で白くなっていた、それはまさしく彼らの間を
馬どもの脚が、青銅に富む天までもと打ち上げたもの。〔Il. v_503-504〕

10.6.1
 しかし、負傷したサルペードーンについてはどうか? 吹きすさぶ北風が、

吹き寄せて、ほとほと息絶えた命を生き返らせた〔Il.v_698〕

のは、炎熱の大気の中で身体が休息を必要としたからではないのか。さらにまた別の箇所でも、渇きによって

乾涸らびつ、平原の土ぼこりをさんざ浴びる〔Il. xxi_541〕
とも、また、
汗をしずめて、、水を飲んで渇きを癒した。〔Il. xxii_2〕
ともある。こういうことが冬のような時季に起こるというのはありえず、10.6.10 戦う者たちにとっては夏の防禦だったのである。

10.7.1
 多くのことで長話をする必要があろうか。ほぼ充分だからである、述べられた事どもの何かひとつでも提示すれば、1年の時期を明らかにすることは。

楡の木も燃え立てば、川楊も御柳の樹も
蓮華の原も、また芦原も、高菅の草むらさえ燃えていった。〔Il. xxi_350-351〕

悪疫がギリシア軍に生じた経緯(要約)

11.1.1
 さて、夏がその時季であったことが同意され、病気は夏の季節に生じるのであり、疫病の病状の守護神がアポッローンである、ということなら、出来事は神の瞋恚ではなく、大気のめぐりあわせと思われる以外何が残ろうか。
11.2.1
 実際、ヘーロデイコは、きわめて説得的に、ギリシア人はまる10年間トロイアにとどまったわけでもなく、陥落の定めの時の終わりに襲来したことを明らかにしている。
11.3.1
 というのも、カルカースが予言したことから、

十年目には、道幅広きその都市を落とすだろう〔Il. ii_329〕
と知っていた彼らが、何の意味もなく、あれほどの年月を無為に費やすというのは道理に合わず、むしろ、その間の好機に、アジアのあちこちに周航し、戦闘の訓錬をし、戦利品で軍営を充たしていった、11.4.1
そして、陥落の成就が定まっていた十年目の年が来たときに、一斉に[トロイアに]上陸した、という方が尤もらしいことである。
11.5.1
 だが、彼らを迎え入れたのは、窪んでじめじめした沼沢地で、そのため、夏になると、疫病が彼らに降り懸かったのである。

アポッローンの矢と音と天の音楽

12.1.1
 さて今は、この病気について述べられている個々の点を考察することにしよう。というのは、ほぼすべての事柄が、われわれによって言われたことと合致するはずだからである。
12.2.1
 先ず、矢から出てくる音さえをも、〔詩人は〕物理的なものと見なして、ゼウスにかけてけっして、神話的に、声を発する矢という怪異を語っているのではなく、次の行に含まれているのは、哲学的な理論である。

忿怒する神の両肩の上では、矢の数々が鳴りとどろいた、
彼が動くにつれて。〔Il. i_46-47〕

12.3.1
 たしかに、永遠の運行につれて奏でられる音階(aJrmoniva)を充足させた天の反響のようなものがあり、とくに、太陽の回転円が引き締められた状態のときにおこる。
12.4.1
 例えば、ひとが生の杖で漫然と空気を打ったり、投石具で石を抛り投げても、シュッビュッとか、非常に低い音を出すではないか、まして、あれほど巨大な天体が勢いをこめて、東から西まで車駕を駆りつつ巡りながら、静かに、しかし激しい走行で、旅しているのである。

12.5.1
だが、天で絶えず鳴らされているこれらの音をわれわれは知らない。誕生の初め以来の馴染みのせいで、隔たっている距離がとてつもないので途中の空間でその音が消滅してしまうからである。
12.6.1
 ことはこのようであることを、自分の国制からホメーロスを追放するプラトーンも認めて、こう言っている。

12.7.1
 「そのそれぞれの輪の上には、セイレーンたちが乗っていて、輪とともに回転しながら、それぞれひとつの高さの音声を発している。全部で八つあるこれらの音声は共に響いて一つの音階(aJrmoniva)をなしている」〔Rep. x_617B〕。
12.8.1
 同様に、エペソスの人アレクサンドロスも、どうして惑星たちが整然と進んでゆくのか説明するさいに、それぞれが出す音についてこういう言葉を付け足す。
12.9.1
 その[諸天球の]全体が、七弦琴の諸音調に通じる、LUを合わせた和声を、それぞれは隔たり合いつつ、釈でてい記。〔Alexandros Fr. 21_19〕
これらによって、宇宙は唖ではなく無音でもないことが知られるであろう。

アポッ口ーンの行動

13.1.1
 この観念(dovxa)の源はホメーロスで、太陽の光線を寓意的に矢と云ったが、それらが大気中を通過するときに、一種独特の神々しい音を発すると付け加えている。

13.2.1
 で、音声の共通性を提示した上で、すぐに、この言葉の独自性に移って彼は付言する。

神は夜のごとくに進みたもうた。〔Il. i_47〕
13.3.1
つまり、太陽の光を、混じりけのないものとしてではなく、黒い霞さえ混じっていないものとして想定するのではなく、彼を夜にさえ浸した。疫病の受難の際には、そういう〔夜〕が昼間の光を遮るのがおよそ通例である。

13.4.1
 けれども、アポッローンが矢を射ようと心をこめて、

次いで船隊から離れて坐り、矢を放たれた、
すると白銀の弩弓から恐ろい轟きが起こった〔Il. i_48以下〕
ということが、どうしてあろうか。
13.5.1
怒りに駆られて射たのなら、もちろん、射手は傷つけられたものらの近くに立たねばならなかったろうから。ところが今は、太陽を比喩的に寓意して、疫病をもたらす光線がそこから遠く進んでゆくことを比喩的に代用したのである。

先ず騾馬たちが倒れるということ、悪疫のはびこる日数

14.1.1
 さらに、その後で、最も明瞭なしるしを持ち出して云う。

先ず第一に騾馬どもや、また脚の速い犬どもを襲った。〔Il. i_50〕

14.2.1
というのは、言葉なき動物たちがアポッローンの怒りの無差別な巻き添えをくったということでもはなく、その憤怒が騾馬たちや犬たちに対し無思慮に燃えさかったということでもないのだ。あのトラキアの奴隷がホメーロスに対してそのように立ち向かっているのだが、わたしが言っているのは、あちこちでそのようなおしゃべりをしているアンピポリス人ゾーイロスのことである。

14.3.1
 ホメーロスは、疫病に関する病状のめぐりあわせを、きわめて自然的に、こういう仕方で提起したのだ。すなわち、医術と哲学の経験は、厳密な観察を通じて有するに至ったもので、疫病における恐るべき始まりは四足動物にあることを知っていたのだ。
14.4.1
 で、2つの点で、恐るべき〔病〕にとらわれやすい尤もな理由がある。ひとつは、まず、生活様式の厳密さを追い求めず、野放図に食べ物、飲み物をに満たされるので、だめになる。過度な衝動(oJrmhv)を制御する思量(logismovV)がひとつもないからである。
14.5.1
次に、こちらこそがより真実なのだが、人間の方は上層での呼吸によって最も清浄な空気を吸うので、病状にとらわれるのがより遅いが、地上に投げ出されている動物たちの方は、そこからの病的な気息をより容易く吸うのである。

14.6.1
 また、まったく真実にも、病からの解放が偶数日にではなく、奇数日にあったことを明らかにしているのである。

九日の間、陣中くまなく、神の矢は襲いつづけた。〔Il. i_53〕

というのは、個別の経験から最もよく知られていることは、身体的な病状の危機は奇数日であること、これである。

悪疫からの解放(アキッレウスとヘーラー)

15.1.1
 この病いからの救い主はアキッレウスである。というのは、彼を教えたのはケイローン、つまり、「ケンタウロスたちのうち最も義しい者」〔Il. xi_832〕、あらゆる智恵に優れ、医術にとりわけ優れ、この面ではアスクレーピオスも彼の知己であったと謂われる。
15.2.1
 癒し手アキッレウスには、自然学的に、女神へーラーを割り当てた。

彼[アキッレウス]の心に、白い腕の女神ヘーラーが、[集会を]思いつかせたのだから。〔Il. i_55〕

15.3.1
というのは、自然学者たちによれば、気息的な元素には二種類あり、アイテールと空気がそれであるが、ゼウスをば、われわれは火炎的実体とわれわれは称するが、ヘーラーの方は、それに次ぐ空気のことで、より柔らかな元素であって、そのゆえに女性でもある。
15.4.1
 これに関する 15.4.2 詳論は、少し後で対話しよう。
15.5.1
 今は、これだけ述べれば充分である、以前から濁っていた空気が消散すると、禍いは急速に分離された。
15.6.1
 だから、ヘーラーを「白い腕の」と云ったのも不合理ではなく、夜に似た靄を、白い空気が、より清浄なものになるまで照らしたという結果にちなむのだから。
15.7.1
 次いで、病から解き放たれると、ギリシアの大衆は、解放された者たちに習わしとなっている道に向かった。で、わたしが言っているのは、お祓いと浄めの儀式のことである。

彼らは禊ぎをし、潮海に穢れを投げ入れた。〔Il.i_314〕

オデュッセウスの供犠

16.1.1
 わたしには、オデュッセウスも、供儀を捧げ、それによって宥めた相手はヘーリオスにほかならなかったように思われる。例えば、

彼らは日がな一日、歌舞によって、神を宥めた。〔Il. i_472〕
<…………>
して、太陽が沈み、暗闇が襲ってきたとき、人々は
まさにそのとき、船の艫綱のあたりに身を横たえて眠りについた。〔Il. i_475-476〕

16.2.1
というのは、敬神は日没とともに終わる。それまでは、耳を傾け、眼を向けたもう神を彼らは崇めた。だが、彼〔神〕がもはや儀式に臨在できなくなったとき、祝祭の残りは中止されるのである。
16.3.1
もちろん、明け方に船出するとき、詩人は謂う。

その者どもに、遠矢射るアポッローンは、追い手の風を送りたもうた。〔Il. i_479〕

太陽の独特な性質を明らかにすることに懸命なのである。
16.4.1
 つまり、まだ火炎状でさえなく、火炎として火焔に燃えていなその走路が南中まで進むまでは、露っぽい湿気(ijkmavV)が、水分を含んだ大気を放っているので、暁の風を、弱い微風にして送り出すのである。このゆえに、太陽は明け方に彼らを上船させ、湿気を含む風を十分送って航行させたのである。

16.5.1
 かくて、最初の寓意としては、いたずらに怒るアポロンの憤怒をではなく、自然学的な理論の哲学的な思考を、われわれは演示したのである。

アキッレウスとアテーナーのエピソード

魂の三部分についてのプラトーンの説

17.1.1
 続いては、アキッレウスの傍に立つアテーナーについてわれわれは考察しなければならない。

刀の鞘からいかつい剣を抜きかけた折しも、アテーネーが天上から
降り来たもうた、というのは腕の白い女神ヘーレーが遣わされたので、
双方ともを同様に心に愛しみ、かつ気づこうてのことであった。
して後ろの方に立ち止まり、ペーレウスの子ただひとりに姿を示し、
その亜麻色の髪をつかんだ、他の者には誰ひとりとして見えなかったが。
それでアキッレウスは肝をつぶし、後ろを向くなり、すぐさまパラス・
アテーネーなのを見分けた。その両眼は輝きわたって恐ろしかった。〔Il. i_194-200〕

17.2.1
 言われていることからすぐさま云えることは、鉄〔剣〕が引き抜かれようとするさなかに、女神が、どんな速さのものよりも敏捷に天上での暇つぶしを後にして、血の穢れの人殺しに立ちはだかり、まったく絵にある恰好で、アキッレウスの後ろから髪をむんずと掴んだということである。
17.3.1
 しかし、寓意的に思考する者たちにとっては、素晴らしい、かつあまりに哲学的な知識が伏在しているのである。
17.4.1
 ところが、またもや、国制の中で恩知らずのプラトーンは、これらの詩句を通して、魂に関する教義を彼から剽窃していることが判明するのである。

17.5.1
 というのは、プラトーンは魂全体を二種類に分けている。思量的なものlogistikovnと、彼によって非ロゴス的(a[logistikovn)と命名されたものとである。

17.6.1
そして、非ロゴス的部分のさらなる固有の区分を導入して、2つの部分に分け、一方を欲性的部分(ejpiqumhtikovn)、もう一方を気性的部分(qumoeidevV)と名づけた。
17.7.1
 そしてそれぞれに家のようなものを割り当て、身体における住まいを分配した。
17.8.1
 かくして、魂の理性的部分は、一種のアクロポリスとして、頭の最上部に当籤していると考えた、あらゆる感覚的なものらにぐるりを槍持ちたちのように守られて。だが、非理性的な部分のうちの気性の部分は、心臓のまわりに、諸々の欲望の衝動は肝臓の中に、住まいを持つと。

17.9.1
 これらは、『パイドロス』の中で寓意的に馬どもと御者とに譬え、明瞭にこう言っている。

17.10.1
さて両者のうち、より美しい位にあるものは、姿勢正しく、骨格ととのい、項高く、鼻筋とおり、色白く、瞳黒く、慎みと廉恥の念とをもつ名誉の愛者であり、また真なる思い(dovxa)の友として、笞を要せず、ただ言葉(lovgoV)で命令しただけで御せられる。〔Pl. Phrd. 253D〕
17.11.1
 以上が、魂の一方の部分についてである。残りの部分については、こう謂う。17.12.1
これに反して他方は体歪み、肥大で、組み立てがでたらめで、項太く、頸短く、獅子鼻で色黒く、眼は灰色で血走り、膨満と瞞着との友、耳は聾でその廻り毛深く、笞と拍車で辛うじて従う。〔Pl. Phdr. 253E〕

17.13.1
 他方、魂の理性的部分は頭の中に位置づけられているが、それを全体の御者になしてこう語っている。 17.14.1

われわれのもとにある魂の至上権を握っている種類のものについては、次のように考えるべきである。 — すなわち、神がこれを神霊として各人に与えたのである — と。このものこそ、われわれの身体の天辺に居住し、天にある同族に向かって、われわれを、地上の植物ではなく、天上のそれであるかのように、大地から持ち上げているものなのだと、われわれが謂っているものなのである。〔Pl. Ti. 90A〕

ホメーロスがその源泉、非理性的部分の位置

18.1.1
 さて、こういうことを、プラトーンは、いわばホメーロスの詩句の泉から、自分の対話編のなかに流用した。
 そこで先ず、魂の非理性的な部分について考察しなければならならない。
18.2.1
 もちろん、気性が心臓の下の領域を占めていることは、オデュッセウスが、求婚者たちに対する怒りにおいて、不正への憎悪が住まう家であるかのように、自分の心臓の扉を叩くことから明らかであろう。

18.3.1

それでも胸をうち叩きつ、心臓を叱って小言するよう、
「辛抱しろよ、わが心臓よ、これよりひどい所業だとても辛抱したのだ」。〔Od. xx_17〕

18.4.1
 しかり、気性が流れ出てくる源、そこにこの言葉は向けられているのである。
18.5.1
 さらに、ゼウスの婚礼を恋したテイテュオスは、考えを抱いた元たる部位で懲らしめられていると〔詩人は〕描写する。

18.6.1
その両脇に禿鷹が二羽も坐り込んで、肝臓をつついていた。〔Od. xi_578〕

それはなぜか、ホメロスよ?

だって、レートーに挑みかかったのですから、ゼウスの尊いお后の。〔Od. xi_580〕

18.7.1
 つまり、あたかも立法者が、父を殴った連中の手を断ち切って、連中の不敬を働いた部分を取り立てて切除するように、そのようにホメーロスは、肝臓を通じて不敬を働いた者を、不持な行為に及んだ者を、肝臓において懲らしめるのである。

18.8.1
 魂の非理性的な部分については、かくのごとくに〔ホメーロスは〕哲学的であった。

理性的部分の位置

19.1.1
 さて、残されているのは、理性的な部分はどの場所にあるのかという探求である。
19.2.1
 もちろん頭であり、ホメーロスによれば、それは身体の中で最も支配的な位置(tavxiV)である。
19.3.1
 だから彼は、最も支配的な1部分を取り出すことで、残りを明らかにして、ひとりの人間全体と名づけるのならいであった。

こうしたもの[アキッレウスの武具]のせいで、かほどの頭[勇士]を大地が覆い隠したのだ。〔Od. xi_549〕
つまりアイアスを、ということである。
19.4.1
しかし、もっとはっきりと、ネストールの馬に関して、この部位が最も支配的であることを表明している。
たてがみがうまの顱頂に
生えだしている端のところ。そこが最も急所となってる。〔Il. viii_83-84〕

19.5.1
 そしてその見解を寓意によって補強しつつ、アテーナーの箇所をわれわれに提示している。
19.6.1
 すなわち、アキッレウスが、怒りでいっぱいになり、頭にある思量が胸のあたりの気性によって眩まされて、鉄〔剣〕に突進したとき、少しずつ理性が憤慨の酔いからより善い方へと酔いを覚まさせた。
19.7.1
 それで、思慮をともなう回心(metavnoia)は、詩作品の中で、当然にもアテーナーとみなされている。

19.8.1
 なぜなら、この女神は、およそ識見の同名以外の何ものでもなく、ajqrhna:〔見つめるもの〕であり、思量の繊細このうえない眼で万事を見透すもの(diaqrou:sa)なのだ。
19.9.1
 だからこそ〔人々は〕彼女を処女としても見守る — 思慮はつねに堕落せざるものであり、いかなる汚れによっても汚されることができないからである — 、ゼウスの頭から生まれたとも思われるのである。なぜなら、その部位こそが特別に思量の母胎であることをわれわれは証明した。

アテーナー顕現の心理学的説明

20.1.1
 いったいどうして多くのことで長引かせる必要があろうか。彼女〔アテーナー〕は完き思慮以外のものではない。
20.2.1
 だからこそ、アキッレウスを燃えあがらせた気性から離れて、一種害悪を消滅させる薬のように傍に立ち、

ペーレウスの子の黄色い髪を引引っ張った。〔Il. i_197〕
20.3.1
すなわち、彼が怒っているちょうどその時に、胸の中には気性がわき起こった。
20.4.1
 つまり剣を抜きつつ、
疎毛の生えた胸の内で、2つに割れて思い惑った。

20.5.1
しかし、怒りがやわらいできて、思量が彼をば、もはや思い直しかけているような状態に変換したとき、思慮がしっかりと掴んだ。

20.6.1
それでアキッレウスは肝をつぶした。〔Il. i_189〕

どんな危険に対しても静穏で怯むことのない彼の気質が、思量による思い直し(metavnoia)を目にして畏怖したのである。
20.7.1 そして、20.7.2 すんでのことでどれほどの害悪に陥るところだったかと悟ると、そばに立つ理性(nou:V)に、御者を敬うように敬った。だからといって、怒りから完全に離れたわけではない。
20.8.1
 例えば、こう付け足す。

それより、まったくことばだけで、なじってやるがよい、きっと将来どうなるかを。〔Il. i_211〕

20.9.1
もちろん、女神が援けに来ているのだから、この状況の完全な平和を用意していたことであろう。
20.10.1
 しかし思量は人間的なものであるから、剣は強制的に押しとどめはしても、行動に至るまでの敢行は排除しても、怒りの残余はまだ残っている。
20.11.1
諸々の激情の大きな気性が、1つの機会にまとめて取り除かれることはないからである。

20.12.1
 アガメムノーンに対する気性の仲裁役として立ったアテーナに関することも、まさしく寓意の価値ありとせよ。

ゼウスに対する神々の陰謀の話

ゼウスへの陰謀

21.1.1
 しかしながら、ホメーロスに対してきわめて重大な告発があり、かりに、続く詩句に見出されるとおりに神話していたとするなら、〔詩人は〕あらゆる有罪に価することになる。万物の嚮導者[ゼウス]をば、

21.2.1
オリュムポスなる他の神々、ヘーレーだとか
ポセイダーオーンやパラス・アテーネーが、縛りつけようと企んだ〔ことがあった〕。
そこへあなた〔テティス〕がおいでになって、女神よ、そっとゼウスの縛めを解き、
すぐさま百腕の巨人をオリュムポスの高嶺へと呼び寄せなさった、
— その者をブリアレオースと神々は名づけ、人間はみな
アイガイオーンと呼ぶ、臂力にかけて今度は、おのが父にも優った者が。〔Il. i_399-404〕

21.3.1
 これらの詩行において、ホメーロスは、プラトーンの1国制からのみならず、ヘーラクレースの柱と称される最果ての柱や、オーケアノスの足を踏み入れてはならない海の向こうにまでも、追放されるに価する。

21.4.1
 なぜなら、ゼウスはすんでのことで捕縛を経験するばかりになったし、彼に策謀を企てたのは、ティーターンたちではなく、パッレーネー〔トラーキアのカルキディケー半島の1つ〕におけるギガースたちの蛮勇でもなく、
21.5.1
 自然と共生との二重の名称[妹かつ妻という]をもつへーラーと、万事を平等に分配し、自分のものになるはずだった名誉を得損ない、その資格があると、より多くを取った相手[ゼウス]に憤慨しているのでない兄弟ポセイドーンと、三番目に、一度の陰謀で父かつ母[ゼウス]に不敬を犯すことになるアテーナーなのである。
21.6.1
しかし、わたしとしては、ゼウスに対する策謀よりも、救助の方がもっと不適切であると考える。すなわち、テティスとブリアレオースが彼を縛めから解いたという。が、そういう共闘者を必要とするという、そういう期待こそが不適切なのだ。

その元素論的釈義

22.1.1
 そういう次第で、この不敬の解毒剤は一つ、この神話を寓意されたものとしてわれわれが演示することである。すなわち、これらの詩句において神話されているのは、万物の元祖にして、より年長の自然である。

22.2.1
 実際、自然学者たちの諸元素に関わる教義の創始者はホメーロスで、彼以降の者たち一人ひとりに、見出したと思われている思いつき(ejpinoiva)の、彼は教示者である。

22.3.1
 ミレートス人タレースをば、全宇宙を創世する元素として水を前提した最初の人だと同意されている。すなわち、 湿った自然は、たやすく個々のものらに変成し、多種多様なものに姿を変えるのがならいである。
22.4.1
 例えば、それが蒸発すれば空気となり、最も微細なものは空気からアイテールとして発火し、沈下して泥に変化した水を大地にする。
22.5.1
 だからこそ、タレースは、水を四元素のうちの始原の元素であると表明したのだ。

22.6.1
 では、誰がこの思念(dovxa)を生んだのか。ホメーロスではないか? 彼はこう云って、

オーケアノス、これこそ、万物にとって生成の産まれでたもの。〔Il. xiv_246〕

22.7.1
 湿った自然が速やかに(wjkevwV)流れることを「オーケアノス」の語源とし、これこそが万物の元祖であるとしたのではなかったか。

22.8.1
 しかし、クラーゾメナイ人アナクサゴラースは、学統の上ではタレースの弟子であるが、第二の元素たる土を水 と結合し、乾いたものに湿ったものが交じり合って、反対の自然から一つの協和的な状態に混合するようにしたのである。

22.9.1
 この否認も、初めに開拓したのはホメーロスで、アナクサゴラスに着想の種を授けたのであって、その〔詩句の〕中で彼は謂っている。

お前たちは、皆、水と土になったがよかろう。〔Il. vii_99〕

22.10.1
 なぜなら、あるものらから生じたものは、みな、滅びると、同じものに分解するからである、あたかも、自然が初めに貸しつけたものを最後に取り立てるがごとくに。

22.11.1
 だからこそ、クラーゾメナイ人の教義に追随するエウリーピデスが謂う。

地から生まれたものは地へと
帰って行き、
アイテールの種から芽吹いたものは
アイテールへと。〔Euripides Fr. 839〕

22.12.1
 だから、詩人はギリシア人たちを呪詛する際に、一つの哲学的な呪詛を見つけた、生まれてくるとき導き出された基と同じものへと分解して、ふたたび水と土になればいいのに、と。

22.13.1
 こうして、最大の哲学者たちによって、諸要素の四個の完き組み合わせが、最終的に完成された。
22.14.1
 彼らの謂うには、地と水という2つは物質的であるが、アイテールと空気という2つは気息的であり、これらの自然は互いに反対のことを思慮するが、混じり合って同じものになる、同心する(oJmonoei:n)、という。

承前(五元素論とホメーロス)

23.1.1
 しからば、はたして、ひとが真実を精査しようとすれば、これらの要素のこともホメーロスによって哲学されているのか。
23.2.1
しかし、ヘーラーの縛めの箇所については、この中で四元素の配置が寓意されているのだが、もっと好機に述べることにしよう。
23.3.1
 今は、第三歌にある誓いの詩句が、われわれによって言われていることを確証するに足る。

23.4.1
ゼウスよ、いと誉れあり、いと大いなる、黒雲を駆り高空にます御神、〔Il. ii_412〕
また太陽、万物をみそなわし、万象を聞こし召すもの、
また諸々の河川、また大地、また黄泉の国にて、何びとにもあれ、命を終えた
とき、偽りの誓いをすれば、そのひとを仕置きしたもう神よ〔Il. iii_277-279〕

23.5.1
 先ず、至高の位置を占める最も鋭いアイテールに呼びかけている。なぜなら、火の純粋な自然が、思うに、非常に軽いがゆえに、至高の領域を抽籤されているからである。
23.6.1
思うに、それがゼウスと名づけられているのは、人間どもに生(zh:n)をもたらすものであることからか、あるいは、炎上した沸騰(zevsiV)の状態から、そう名づけられたか、である。

23.7.1
 例えば、エウリーピデスも、上方に拡がっているアイテールのことをこう謂う。

大空高く果てしなく拡がるこの天空(アイテール)が、
潤いに満ちた両腕で大地をかかえているのが君には見えないのか。
この天空をゼウスと思うがよい、これを神と考えよ。〔E. Fr. 941〕

23.8.1
 だから、誓いの最初の保証人がアイテールと呼ばれる。しかし河川と大地は、物質的要素として、第一の自然であるアイテールに続いている。
23.9.1
 また、下方にあるハーデスとは、寓意的に空気に対する命名である。
23.10.1
 なぜなら、この要素は黒いからである、より密で湿った分け前に与っていると思っているけれども。
23.11.1
 たしかに、光を放つことのできる他のものらとは異なり、それは輝きを持たず、だからこれをハーデス[「見えざるもの」の意]と命名したのは道理である。

23.12.1
 では、五番目のもの、太陽はなぜあるのか? それは、逍遙学派の哲学者たちをも結構喜ばせるために、ホメーロスが呼び寄せたのである。しかも、この自然は火とは異なる彼らは主張し、これを周回性のものと名づけて、これを第五の元素とすることに合意している。
23.13.1
なぜなら、アイテールは、その軽さゆえに至高の場まで進むが、太陽や月や、これらと連動して走行する星辰のおのおのは、周回的な運行を持続しており、火炎的な実体とは異なる力を有するのからである。

23.14.1
 これらすべてのものらを通して、〔ホメーロスは〕われわれに自然の初発の要素をほのめかしたのだ。

承前(ヘーラクレイトス、エンぺドクレースの自然学)

24.1.1
 また、彼について、何びとにも言わせてはならない、 — どうしてアイテールがゼウスと命名されたのか、空気をハーデスと名づけ、象徴的な名称で哲学をあいまいにさせるのか、と。
24.2.1
 詩人たる者が寓意を使ったからとて、何ら意想外なことではないからだ。先進的な哲学者たちでさえ、この転化法を用いているのに。

24.3.1
 実際、「暗い人」ヘーラクレイトスは、自然学を不明瞭な、象徴によって譬えることのできる内容を神話しているが、それによって彼は謂う。

24.4.1
神々は死すべき者である。人間は不死なる者であり、一方の死を生き、他方の生を死んでいる。〔Fr. 62〕
24.5.1
さらにまた。
同じ河流に、われわれは足を踏み入れているし、また踏み入れていない。われわれは存在しているし、また存在していない。〔Fr. 49a〕
また、自然について全体に謎めいた寓意を用いている。

24.6.1
 では、アクラガース人エンペドクレースはどうか? 四つの元素をわれわれにほのめかそうとして、ホメーロス的寓意を模倣しているではないか。

輝けるゼウス、生命はぐくむヘーラー、またアイドネウス、そして死すべき人の子らのもとなる泉を その涙によって潤すネステイス。〔Fr. 6〕

24.7.1
 彼は、アイテールをゼウスと云い、大地をへーラー、空気をアイドネウス[ハーデス]、また水を、涙で潤された死すべき者の泉と〔云った〕のである。
24.8.1
 何ら意想外なことではない、先進的に哲学することに同意している者たちが、寓意的な名称を用いているのに、作詩術を標傍する者が、哲学者たちと等しく寓意を使ったからとて。

25.1.1

承前(ゼウスへの陰謀の話と元素論)

25.1.1
 それでは、後は、ゼウスに対する策謀は元素を数え上げたものであり、かなり自然学的の観想に接しているのかどうかを考察しよう。

25.2.1
 さて、信頼にたる哲学者たちは、宇宙の存続〔の仕方〕について次のように謂う。
25.3.1
 愛勝することなき調和が、四つの元素を保持し、どの一つも卓越した力を持つことなく、おのおのが得た自分の地位を節度をもって守っている間は、各々は動くことなくとどまる、と。
25.4.1
ところが、そのうちの一つが優勢になり、僭主的に自己の領域以上にはばを利かせるようになると、他のものは紛糾して、支配者の力に否応なく屈することになる。
25.5.1
 火が突然沸き起これば、あらゆるものいっしょに炎上し、水が一斉にほとばしれば、宇宙は洪水によって滅びるだろう、と。

25.6.1
 だから、あれらの詩句によって、宇宙に将来するであろう混乱のようなものをホメーロスはほのめかしているだ。
25.7.1
 つまり、最も力ある自然たるゼウスが、その他の元素によって、つまり、空気たるヘーラーや、湿った自然たるポセイドーンや、あらゆるものらの造物者にして働き手の女神だからして大地たるアテーナーによって、策謀されるということである。

25.8.1
 じっさい、これらの元素は、初めは、互いの混交のゆえに同族であった。
25.9.1
 それから彼らの間に紛糾が生じそうになると、その救い手として摂理(provnoia)が見出された。
25.10.1
 これを〔ホメーロスは〕合理的にもテティスと名づけた。なぜなら、それは、諸々の元素をその固有の法の中に定置することで、宇宙の時宜にかなった引き離し(ajpovqesiV)を行なったからである。
25.11.1
 彼女の共闘者となったのが、逞しい(briarav、多くの手を持つ、力(duvnamiV)である。なぜなら、事態のそれほどの病は、大いなる暴力で矯正されるよりほかに、どんな仕方が可能であろう。

25.12.1
 ゼウスに対する不敬な緊縛に関する逃れがたい非難も、かくのごとく、寓意の自然学的観想を有するのである。

へーパイストスの天からの投げ落し

26.1.1
 ヘーパイストスの投げ落としに関して人々がホメーロスを出訴するのは、第1に、彼を足萎えと想定し、神的な自然を不具者にしているという点、次に、すんでのことで危機に陥ったという点である。
すなわち、彼は謂う。

それでわたし[ヘパイストス]は一日中空を渡っていって、日の沈むのと同じ頃おい、
レームノスに落っこちまして、ほとほと息も絶え絶えであった。〔Il. i_592〕

26.3.1
 これら〔の詩句〕にも、一種哲学的な理性がホーメロスによって隠されている。
26.4.1
 〔これは〕詩的な作り事によって、聴衆を喜ばせようと、例えば足萎えのへーパイストスをわれわれに提示しているのではない。つまり、へーラとゼウスとから生まれた子が神話されているのではない。
26.5.1
 なぜなら、神々についてそういうことが物語られるのはまことに不適切なことだからである。
26.6.1
 そうではなくて、火の有性は二重であって、ひとつは、先ほど述べたとおり、アイテールのそれで、全体〔宇宙〕の至高の に掛かり、完全さに関するかぎり何ら足らざるところを有せず、もうひとつ、われわれのもとにある火の質料で、のほうは、大地に接しているがゆえに滅びやすく、それを養うものによってその都度燃え上がらせられ、
26.7.1
 それゆえ、このうえなく鋭い焔の方は、つねに太陽とかゼウスと命名し、地上の火の方は、容易に発火し、消火されるされるとして、ヘーパイストスと〔命名した〕のである。
26.8.1
それで、当然にも、あの完全無疵な〔火〕との比較で、こちらの火は跛足と見なされたのである。
26.9.1
 とりわけ、足の不具はいつも支えてくれる杖を必要とする。
26.10.1
 そして、われわれのもとにある火は、材木を加えられなければ、長くは持続しないので、象徴的に跛足と述べられるわけである。
26.11.1
 じっさい、他の箇所で、ホメーロスは、寓意によってではなく明瞭な仕方で、ヘーパイストスのことだと謂っている。

臓物を串に突き刺し、ペーパイストス〔が火〕の上にかざした、と。〔Il. ii_426〕

 比喩的に(metalhptikw:V)、ヘーパイストスによって肉が焙られたと謂っている。

26.12.1
 かてて加えて、天から投げ落とされたと彼のことを想定している。
26.13.1
というのは、自然学的に、火の使用は初めはまだそれほど行き渡らなかったが、人間どもは、時代とともに、青銅でこしらえられた一種の道具で、天体からやって来る火花を捉えるにいたり、南中時に、真昼どきにその道具を太陽に向けて置いたのである。
26.14.1
 思うに、プロメーテウスが天から火を盗んだというのも、ここから来たと思われる。人間どもの術知の先慮(promhvqeia)が、あそこ〔天〕からのその〔火の〕流出を思いついのであるから。

26.15.1
 神によって投げ出された火を、レームノスが最初に受け取ったと神話しているのは不合理ではない。なぜなら、そのでは、大地から生じる火の自然発生的な焔が燃え立っているからである。
26.16.1
 だが、〔ホメーロスが〕はっきり明明言しているのは、この火が神のもとから流れ来るものであるということで、次の詩句を彼は付加している。

ほとほと息も絶え絶えだった。〔Il. i_593〕

なぜなら、それを保持する力のある先慮を得られないと、すぐに弱まって滅びるからである。

承前(クラテースの議論に対して)

27.1.1
 へーパイストスに関しては、以上のことも哲学的に考えるべきである。

27.2.1
 しかし、クラテースの哲学はかなり考えについては、荒唐無稽であるから、今は放置しよう。〔彼によれば〕ゼウスは、全体〔世界〕の測量に真剣になり、2つの火、つまり、等速で走るへーパイストスとヘーリオスとによって、宇宙の拡がりを画そうとし、一方[ヘーパイストス]の方は、いわゆる敷居から下に投げ落とし、他方[ヘーリオス]の方は、東から西まで行くよう放った、というのである。
27.3.1
 そのため、両者は時間も同じで、「日の沈むのと同じ頃おい、ヘーパイストスはレームノスに落っこち」た〔Il. i_592〕。
27.4.1
 さて、これが、宇宙的な測量のようなものであれ、こちらの方が真実であるが、われわれのいうように人間どもへの火の寓意的なであろうと、へーパイストスについてホメーロスは何ら不敬なことは語っていないのである。

第二および第三歌でのアテーナー、イーリス、アプロディーテー

28.1.1
 さらにまた第二巻では、ギリシア勢が帰還しようとするので、行き詰まったオデュッセウスの傍に立ち現れたのは、余人ならぬ神的思慮(hJ qei;a frovnhsiV)で、これを〔ホメーロスは〕アテーナーと名づけている。

28.2.1
 さらにまた、ゼウスによって使者として遣わされたイーリスを、言葉を述べる者と想定するのは、ヘルメースを解釈する者(eJrmhneuvwn)と想定するがごとくである。
28.3.1
というのは、二人は神々の使者であり、言葉による説明を語源とするからにほかならない。

28.4.1
 しかしながら、アプロディーテーがアレクサンドロスにヘレネーを取り持つのは不適当である。
28.5.1
 〔そう唱える人々は〕ここで言っているのは、恋情的激情恋にある無思慮(ajfrosuvnh)のことであり、それはいつも若者の欲望の仲介者であり召使いなのだということを知らない。
28.6.1
 これ〔無思慮〕が、へレネーの座を据えるにふさわしい場所も見つけ、両人の渇望をさまざまな娼薬で興奮させるのである、アレクサンドロスの方はまだ恋情的であったが、ヘレネーは後悔し始めていたけれども。
28.7.1
 それゆえにこそ、初めは抗がった彼女だが、最後は屈することにな り、アレクサンドロスへの恋情と、メネラーオスへの羞恥との二つの激情の間に運ばれたのである。

へーべーについて(第四歌)

29.1.1
 少なくとも、宴楽する〔神々〕に最初に給仕するへーベー[青春]とは、つねに好機嫌(eujfrosuvnh)のうちにある若さ以外の何であろう。
29.2.1
 というのは、天に老いは存在せず、神的自然に生の極端な病いさえもない。
29.3.1
 あらゆる特段の歓喜(qumhdiva)をつなぎ留めておく道具のようなものが、好機嫌目的に参集したものらの盛んな若さなのである。

エリスについて(同歌)

29.4.1
 だがエリス[争い]に関しては、韜晦に寓意することもせず、精妙な比喩を必要とすることもなく、あからさまに開陳した。

それとて最初は、もたげた頭も目立たぬほどのものが、いつかそのうち
虚空にまで頭を突き立てて、しかも地上を歩いて行く。〔Il. iv_442〕

29.5.1
 これらの詩句を通してホメーロスによって造形されたのは、身体の両極端への信じがたい変化を有しつつ、あるときは地を低く這い、あるときはアイテールの無限大にまで伸長するという、まったくもって奇怪な女神ではなくて、
29.6.1
 彼がこの寓意で描写したのは、愛勝者たちにいつも結果する情態。
29.7.1
 つまり、争いはささいな原因から始まっても、あおり立てられると、悪のじつに大きなものに膨れ上がということなのである。

アブロディーテーがディオメーデースに傷つけられる話(第五歌)

30.1.1
 しかし、こういうのはまだ穏やかな方であろう。ホメーロスに対するじつにおびただしい仰々しい言説が、不見識にも彼を誹誘しようとする者たちに上演されている、つまり、第五歌に、傷つけられた神々を導入しているというのだ — ディオメーデースによって先ずアプロディーテーが、次いでアレスが。
30.2.1
 これらに彼らが付け加えるのは、ディオーネーが〔娘のアプロディーテーを〕慰めるために、それよりもっと前に不幸せであった神々について報告している事柄である。
30.3.1
 そこでその一つひとつのことについて、順番に、何ら哲学の外にないことをわれわれは説明することにしよう。

30.4.1
 すなわち、ディオメーデースが共闘者として得たのはアテーナー、すなわち、30.4.2 思慮(frovnhsiV)であったので、傷つけたのはアプロディーテー、すなわち、無思慮(ajfrosuvnh)をであって、ゼウスにかけてけっして、何らかの女神をではなく、それは戦闘相手の夷秋の無思量さ(ajlogistiva)のことなのである。
30.5.1
 つまり、当人の方は、あらゆる戦争体験を経てきたのであって、ひとつはテーパイにおいて、ひとつはイーリオンにおいて、10年間にわたり思慮深く戦闘に従事したので、夷秋勢を易々と追撃できる。
30.6.1
 ところが相手の方は、感性なく、かろうじて思量を共有するにすぎないので、彼に追撃されることになる。それはあたかも、

羊の群の、大分限者の中囲いにいるごとく〔Il. iv_433〕

30.7.1
だから、ホメーロスは寓意的に、大勢の殺害された者たちの夷狄の無思慮がディオメーデースによって傷つけられたと紹介したのである。

同様にアレースが傷つけられる話(同歌)

31.1.1
 同様に、アレースは戦争のことに他ならず、ajrhv、それはつまり禍にちなんで名づけられた。
31.2.1
 これは、彼のことをこう言うところからわれわれには明白であろう。

怒り狂っても、申し分ない禍のもと、二股膏薬。〔Il. v_831〕
31.2.1
 神によりは戦争に調和する形容句を用いている。
31.3.1
 というのは、戦う者はみな狂気に充たされ、互いの殺害に取り憑かれたようになって興奮しているからである。
31.4.1
 また二股膏薬も、どこか他の箇所で、より多くのことばを使って説明している。
エニューアリオス[戦の神]は、依怙贔屓なし、〔時には〕殺し手の方が殺されもする。〔Il. xviii_309〕

31.5.1
 なぜなら、戦争の流れは、両陣営に配分され、敗れた側が、刃向かうこともできないのに、突然相手を打倒することもしばしばである。その結果、戦闘における「お互い様」は、時と相手によって交替するから、戦争のことを語源的に「二股膏薬の悪者」と述べたわけである。

31.6.1
 また、アレースがディオメーデースに傷つけられたのは、どこか他の部分ではなく、「脇腹の底」〔Il. v_857〕というのは、すこぶる説得的である。

31.7.1
というのは、ディオメーデースは、敵勢の完全ではない守備戦列の手薄な部分に攻め込んで、夷狄を易々と敗走させたのだからである。

31.8.1
 さらにまた、アレースを「青銅の」と言うのは、戦闘者の武具全体をほのめかしている。というのは、その当時は鉄は珍しく、総じて青銅で防護していたからである。
31.9.1
それゆえ〔詩人は〕謂う。

眼を奪うばかりに輝きわたる兜の数の、青銅よりして、
また磨き上げたる胸鎧から発するきらめきが〔Il. xiii_340-342〕
31.10.1
 〔アレースは〕傷つけられて喚き叫んだ、
さながら九千人か、一万人ものつわものどもが叫びをあげるほどに〔Il. v_860〕

これも、追撃される敵勢の多さの証拠である。なぜなら、これほどに叫んだのは一体の神ではなく、敗走する何万もの夷秋の密集隊だとわたしは思う。

31.11.1
 こうして、明らかな証拠により、また、部分部分〔の詩句〕を通して、ディオメーデースによって傷つけられたのはアレースではなく、戦争だということをわれわれは示した。

アレースが縛られた話(同歌)

32.1.1
 また、以下〔の詩句〕が、それまでの寓意のついでに出てくるが、これらによって〔寓意は〕一層専門的な経験(ejmpeiriva)有するにいたっている。それらの〔詩句の〕中で〔詩人は〕謂う。

アレースとても辛抱しました、オートスと、力の強いエピアルテースと、
アローエウスの子ども二人が、頑丈な鎖で彼を繋いだときには。〔Il. v_385-386〕

32.2.1
 すなわち、これらの高貴な、力ある若者たちは、人生が騒乱と戦争に充ちていることを知った。
32.3.1
そして、その折々に疲弊する人々を解放する平和な休息が何ひとつとして現われてこないので、自分たちの武力で出征して、蔓延する諍いを追い払ったのである。
32.4.1
 かくて、十三ヶ月に至るまでは、彼らの家は傾くことなく、党争もなく、同心のなかで平和を主宰していた。
32.5.1
 ところが、継母が忍びこんで、家の愛勝的な病気が、それまでの安定をくつがえしてしまった。
32.6.1
 そして、ふたたび第二の似たような騒乱が湧き起こったので、アレース、つまり、戦争が、縛めから解き放たれたと思われたのである。

へーラクレースの十二の試練

33.1.1
 で、ヘーラクレースをば、身体能力によって、あの当時、あれほどの強者に出世したと考えるべきではなく、彼は思慮深く、天的知恵の秘儀に通じた者として、あたかも深い靄に沈んでいたがごとき哲学を照らしたこと、ストア派の名だたる人々が同意するとおりである。

33.2.1
 もちろん、ホメーロスの言及に洩れているかぎりのその他の功業については、専門家ぶって時宜を逸して長引かせる必要がどうしてあろうか。
33.3.1
 猪を退治したというのは、人間界に蔓延する放縦(ajkolasica)を〔そうした〕ということであるし、ライオンは、向かうべきではないものに見境いなく突き進む衝動(forav)のことである。
33.4.1
 同じように、無思量的な気性に足枷をつけることで、暴慢な牡牛を緊縛したとみなされた。
33.5.1
 さらに、人生から怯懦を追放したのが、ケリュネイアの鹿である。

33.6.1
 また、ひとが不適切に名づける功業にも辛労したが、彼が掃除したという大量の糞とは、人間界に蔓延している諍いのことである。
33.7.1
 また、烏どもとは、当てにならない希望のことで、これがわれわれの生を養うのだが、これを彼は追い払った。
33.8.1
 また多頭の暴慢をも、これは、断ち切ってもまた芽生え始めるものだが、あたかも一種の暴慢のように火を用いて焼き切った。
33.9.1
少なくとも太陽のもとにさらされた三頭のケルベロスは、当然ながら、三部から成る哲学を暗示していよう。というのは、そのひとつは思量学、ひとつは自然学、ひとつは倫理学と名づけられている。
33.10.1
 だが、これらは、あたかも一つの首からのように生え出て、頭は3つに分かれているからである。

へーラクレースがへーラーとハーテースを傷つける話(第五歌)

34.1.1
 だが、その他の功業についての方は、わたしが云ったように、簡略に説明された。
34.2.1
 だが、傷つけられたヘーラーの方は、ホメーロスが想定したのは、次のことをはっきりと証拠立てたかったからである、つまり、濁った、そして、各人の精神(dianoiva)に靄を掛ける空気を、ヘーラクレースは最初に、神的なロゴスを使用して、口ごもらせた。人間どもの各人の無学を、多くの忠告によって、膿を出したうえで。

34.3.1
 そういう次第で、地上から天に向けて矢を放つ。というのは、哲学たる者は誰でも、可死的にして地上的な身体の中にある一種の矢弾のように有翼の理性を、空中に発送するからである。
34.4.1
 また、〔詩人が〕専門的に「3つの顎を持つ矢をはっしと射込んで」〔Il. v_393〕と云ったのは、3部から成る哲学を簡潔に3つの顎を持つ矢弾で表すためだった。

34.5.1
 後日、〔ヘーラクレースは〕ハーデースをも射た。というのは、哲学にとって足を踏み入れられない場所はなく、天の後には、最低位の自然をも探求して、下の世界の秘儀に与らぬ者となるまいとしたのである。
34.6.1
 それで、光なく、いかなる人間どもにも足を踏み入れられないハーデースを、知恵の矢が、狙いあやまたず射当てて解明したのであった。

34.7.1
 かくて、ヘーラクレースの両手は、オリュムポスに対するいかなる汚れからも聖潔である。

34.8.1
 で、あらゆる智の創始者となった彼は、彼以降の者たちに、自分が初めて哲学したかぎりの事柄すべてを、一々汲み上げるよう、寓意的に伝承したのである。

迫害されるディオ二ューソス(第六歌)

35.1.1
 さて、一部の人たちの考えるところでは、ディオニューソスもホメロスにおいては神ではない、その所以は、リュクールゴスに追われ、彼の傍に立ったテティスの救援に辛うじて与ったと思われているからだという。
35.2.1
 しかしこれは、農夫たちによる葡萄の穫り入れの寓意であることを、以下の詩句を通して彼は謂っている。

あるときは、狂乱のディオニューソスの乳母らを、神さびたる
ニューサの山中中追いかけたもの、その女らはみな一言に
祭りの杖を地面に振り落とした、人殺しのリュクールゴスの
牛撃ち斧に打ちのめされて。それでディオニューソスも恐れをなし、
わだつみの波に潜れば、テティスが、恐れおののく御神を内懐に
抱きまいらせた。〔Il. vi_132-137〕

35.3.1
 「狂える」とは、葡萄酒のことをディオニューソスに代えて述べたものであるが、その所以は、あまりに多く飲酒する者たちは、思量を失くすからである。ちょうど、恐怖を「青ざめた」と言ったり、戦争を「激烈な」と言うように、結果的に生じる状態を、その状態が起因する元のものに結びつけているのである。

35.4.1
 で、リュクールゴスという人は、葡萄のたわわに実る領主として、晩夏の後に、ディオニューソスの果実の収穫時に、すこぶる肥沃なニューサにやって来た。また乳母たちとは、葡萄の木のことと考えるべきである。
35.5.1
 そしてその後、葡萄の房がまだ摘まれているさなかに、〔詩人は〕謂う、「わだつみの波に潜れば、テティスが、恐れおののく御神を内懐に」ディオニューソスは恐怖にとらわれ」と。その所以は、恐怖は精神(diavnoia)を転向させるのが常であり、葡萄の房の果実は、すり潰されて葡萄酒転向するからである。
35.6.1
 少なくとも、安定性を保つために、海水を混ぜ込むのは、多衆にとっての慣わしである。
35.7.1
 そういうことから、ディオニューソスは、

わだつみの波に潜れば、テティスが、恐れおののく御神を内懐に

は、搾り出しの後の最後の処置(qevsiV)である。というのは、彼女は葡萄酒の最終的な受け手だからである。
35.8.1
 「恐れおののく彼」とは、搾りたての新酒の拍動(palmovV)と、変化しゆく衝動(oJrmhv)のこと。というのは、脅え(devoV)とは震動(trovmoV)のことだからである。
35.9.1
 このように、ホメーロスは、寓意的を用いつつ哲学しただけでなく、農業の仕方も知っていたのである。

ゼウスの威嚇と黄金の綱(第八歌)

36.1.1
 さらに、ゼウスが神々全員を同じ場所に集め、

峰多きオリュムポスの最高部の頂きで〔Il.viii_3〕
強烈な威嚇を始めたときも、自然学的観想に触れる。

36.2.1
 最初に本人が起ったのは、最高部の位置を占めるのが、われわれが明らかにしたように、アイテール的な自然だからである。
36.3.1
 また彼は、黄金の綱を、アイテールから万物の方に吊り下げた。なぜなら、哲学者たちの中でも恐るべき人たちは、精神の軌道は火の塊だとみなしているからだ。

36.4.1
 しかし、宇宙の球形の方は、次の一詩行でわれわれために測ってくれている。

大空から大地が離れているだけ、それだけ〔タルタロスは〕黄泉からまた奥にある。〔Il. viii_16〕
36.5.1
つまり、大地は、全宇宙の真ん中にある炉のようなものとして、中心の能力を保持しつつ、確乎として据えられている。
36.6.1
 その上のぐるりを、天空が、休みなき回転をしながら、東から西へ永遠の走路を走っており、恒星の天球がいっしょに引きずられている。
36.7.1
 もちろん、最上部を取り巻く球面から、この中心に引かれる直線と、正反対側からの〔直線〕とは、すべて互いに等しい。
36.8.1
故に、幾何学的な観想によって球の形を測った上で云うのである。
大空から大地が離れているだけ、それだけ〔タルタロスは〕黄泉からまた奥にある。

「嘆願」の外見について(第九歌)

37.1.1
 一部の者たちは、無学なあまりに、りてーたち〔「祈願」の意の複数〕に関してもホメーロスを責めるほどである、彼女らに不様な性格を付与して、ゼウスの娘たちに対してあまりに暴慢であるという。

祈願の女神たちこそ、ゼウス大神の御娘ながら、
足萎えで、皺が寄り、両眼とも斜視でおわす〔Il. ix_502-503〕

37.2.1
 この詩句では、嘆願者たちの姿が造形されているのだ。というのは、実際、過ちをおかした人間の良心は、すべて、鈍く、懇願者たちはやっとのことで嘆願を受ける者たちに近づいてゆく、羞恥をことばで測りながら。もちろん、静穏に見やることもせず、眼の視線を後ろに振り向ける。
37.3.1
 さらにまた、初めのうちは、嘆願者たちの精神が、何ら喜びの紅潮を身にまとうことなく、土気色を俯けて、最初の一瞥から憐懸を呼び起こそうとする。

37.4.1
 このことから、言い廻しもよく、ゼウスの娘たちをではなく、嘆願者たちのことを表明したのである、「足萎えで、皺が寄り、両眼とも斜視でおわす」と。逆に、アテーの方は、「力も強く、脚も達者」〔Il. ix_505〕と。なぜなら、彼女の無思慮はさはより強いのだから。
37.5.1
すなわち、無思量的な衝動に充たされながら、あらゆる不正へ疾駆するごとくに向かって行く。
37.6.1
 だから、ホメーロスは、あたかも人間的情動の絵師のごとくであり、われわれに結果する情態を寓意的に神々の名称で包むのである。

ギリシア軍の防壁の破壊(第十二歌)

38.1.1
 だから、わたしとしては、好機にあわせて自軍の安全のために築いた防壁であるギリシア勢の城壁が、共闘者ポセイドーンによって破壊されたとは思わない。
38.2.1
 むしろ、大量の雨が降り、イーデー山から下る河々が氾濫した結果それは壊されたのだと〔思う〕。それで、湿った自然の先導者としてポセイドーンが、この情態の語源となったのである。

38.3.1
 さらには、この建造物が地震に揺すられて崩れたということもありそうである。すると、ボセイドーンは大地を揺さぶる者、地面を揺する者だとして、そういう情態に帰せられた。
38.4.1
 例えば彼〔詩人〕は謂う。

また大地を揺する〔神〕も、みずから両手に三叉の鉾を執って
先導に立ち、アカイア人らが苦労してこしらえ上げた
材木や石でつくった土台をそっくり波に渡してやった。〔Il. xii_27-29〕

一種の地震の衝撃によって、城壁の土台を根本から崩し去った。

38.5.1
 こういうことを微細に検証するわたしには、よってもって城壁の石組みをこじ開けられたと想定されている三叉鉾に関することも、哲学と無関係ではないように思われる。
38.6.1
 なぜなら、地震の事象には種々違いがあり、自然学者たちは、同等だと言いつつ、名称は一種固有の性格を付して、独得の名称を付け、「突き上げ的」な、「地割れ的」な、「地すべり的」な地震と命名している。
38.7.1
 そこで〔詩人は〕、地震の原因者たる神に、三重の先端を装備させたのである。いずれにしろ、彼が少し動いただけで、「高い山々、また森の樹も揺らぎ渡る」〔Il. xiii_18〕地震の特性は、詩人はわれわれに指摘しているのである。

ゼウスとへーラーの情交(第十四歌)

39.1.1
 しかしさらに、かなりひどい冗談、嘲弄と〔人々が〕考えているのは、イーデーにおけるゼウスの時を弁えぬ居眠りや、言葉なき動物のためにするがごとき山上に伸べ敷かれる臥所であり、この中で、ゼウスは愛欲と眠りという二つの最も無思慮な情動の奴隷とされるのである。
39.2.1
 そこで、わたしとしては、寓意的にとって、これはまさしく1年の春の季節のことと考える、あらゆる植物、つまり、青草が、凍てつくような冷たさに静かに浸っているときに、地面から出てくる季節である。

39.3.1
 そこで〔詩人が〕想定したのがヘーラーを、つまり、大気を、冬が終わったばかりでまだむっつりして憂惨なさまを想定した。それゆえ、わたしの思うに、彼女の「気性はいまいましくおもったstugerovV」〔Il. xiv_158〕ことは説得的である。
39.4.1
 しかし、すぐ後では、不快さのもやもやを叩き出して、

すべての汚れを拭い清め、それから豊かなオリーブ油の、
しめやかな芳しいのを 身体に塗った。〔Il. xiv_171〕

39.5.1
 豊かで生産的な、花々のよい香りを伴った季節が、ヘーラーがそのような香油を塗布することでほもめかす。
39.6.1
 また、彼女は編み毛を、「美し、神々しいのを、不死なる頭に」〔Il. xiv_177〕編み上げたと謂って、植物の生長を暗示しているのは、あらゆる樹木が髪を生やし、毛のように葉を枝から垂らすからである。
39.7.1
 また、大気に懐と、黄金の帯を与える。

そこには、愛情が、憧憬が、睦み言があった。〔Il. xiv_216〕

39.8.1
 一年のうちでこの季節が最も喜ばしい部分として最も多くの快楽で充たしてくれるからにほかならない。
39.9.1
 というのは、寒気であまりに凍てついてしまうこともないし、暑すぎることもなく、両方からよく混ぜられた状態の一種宙ぶらりんが、身体の内に生じる。

39.10.1
 そこで、この大気を、ホメーロスは、少し後で、アイテールと交わらせる。
39.11.1
 それゆえに、最も高い、「大気を抜き、アイテールまで届く」〔Il. xiv_287〕峰の上でゼウスがつかまえられるわけである。ここで、大気はアイテールと交合し、ひとつに混じり合う。
39.12.1
 そこで、名前を挙げて明瞭に云った。

こう云うより早く、クロノスの子は、腕の中に妃を抱きかかえた。〔Il. xiv_346〕
つまり、アイテールは、自分の下に拡がる大気をぐるりと覆い、腕に抱くのである。

39.13.1
 そして彼らの逢引きと交合の結果として、春の季節を〔詩人は〕明らかにした。

その足もとには聖なる大地が、新たに萌えるにこぐさを生い、
露を含んだロートス、あるいはクロコス、あるいはまたヒュアキントスなど、
やさしい花を隙間もなく、土から高く持ちあがらせた。〔Il. xiv_347-349〕

39.14.1
 これらは芽生えたばかりの季節に固有の花冠である。凍てついた冬期から、固く塞がっていた大地が、胎内に宿していた子種を出現させるときに。
39.15.1
 さらに追加証明せんとして、ロートスを「露多き」と云ったのは、露を含んでいることを、春の時節をもっと明瞭に確証せんとしてである。

上には美しい黄金の雲をば
引きかずかすれば、きらめく露は間なくも土へと降りそそいだ。〔Il. xiv_350〕

39.16.1
 次のことを知らない者がいようか — 冬には雲が密に積み重なって黒雲となり、濁った霧とともに全天が暗欝な様子になるが、いったん大気がそれに割け目を作ると、雲は太陽の光線に抱かれその光が柔らかく拡がって白色を帯び、黄金のきらめきのようなもので輝くことになるということを。
39.17.1
 この、イーデー山頂の雲こそ、春の季節を造物者〔詩人〕がわれわれに明らかにしたところである。

へーラーが宙に吊るされる話(第十五歌)

40.1.1
 しかしながら、彼〔ホメーロス〕に対して執拗な連中の敢行は、引き続いて、ヘーラーの緊縛を責め、ホメーロスに対する無神的狂気の相当豊富な材料を持てると考えるのである。

それとも憶い出すかな、もし天から吊してやったら。両足からは
金敷を2つ垂らしてやったが、また手には黄金の、けっして壊れぬ
鎖をつけたら、御身は高い大空や、雲の間に吊るさがってた。〔Il. xv_18-21〕

40.2.1
連中が忘れているのは、これらの詩句で、万物創成が神話されているのであり、常に歌われる四元素が、すでにわたしによって言われたとおり、これらの詩行の配置であるということである。
40.3.1
 最初にアイテール、その次に大気、次いで水と地という、万物を造物する究極の元素たちである。
40.4.1
 これらが互いに混じって生き物に化し、無生物の元ともなる。
40.5.1
 それで、第一元素であるゼウスが、40.5.2 自分の大気を吊り下げた、すると、大気のいちばん足元に、堅い鉄床どもが、つまり水と地がある。
40.6.1
 こういうことであるということも、それぞれの言い廻しについて、ひとが真実を正確に考察しようとすれば、

それとも憶い出すかな、もし天から吊してやったら。

40.7.1
すなわち、至高の宙の場所から彼女[ヘーラー]は吊るされたと謂われる。

40.8.1
手には黄金の、けっして壊れぬ
鎖をつけて

40.9.1
 懲らしめられる罰というこの珍しい謎は何か? 怒るゼウスは、どうして、懲らしめられる〔女神〕を高価な鎖で報い、もっと強力な鉄鎖の代わりに黄金の鎖を思いついたのか?
40.10.1
 だが、アイテールと大気との中間部が、色の点で黄金に近似していることは尤もなことである。
40.11.1
まさにきわめて説得的に、相互に接する部分を — すなわち、アイテールが終わり、それとともに大気が始まる所を — 黄金の鎖と描写したのである。

40.12.1
 実際、こう続ける。
御身は高い大空や、雲の間に
吊らさがってた〔Il. xv_18-21〕
というのは、大気の度合いを、雲のあるところに限ったのである。
40.13.1
 そして、大気の終わりの部分、つまり「足」と呼ばれている所から、どっしりとした塊、つまり、大地と水をぶら下げた。
両足からは
金敷を2つ垂らしてやった

40.14.1
鎖のことを、どうして、「壊れない」と云ったのか。神話では、ヘーラーはすぐに解放されたわけだが? しかし、総体の調和は切りがたい鎖によって整合されており、全体の逆の状態への変化は困難であるがゆえに、けっして引き離すことのできぬものを、適確に「壊れない」と名づけたのである。

四元素とへーラーの誓い、および世界分割の話(同歌)

41.1.1
 この四つの元素を、少し後でも、ヘーラーが、誓いのなかで解き明かしている。

では大地も、上なる久方の空も、また落ちて流れる
ステュクスの水も、このことを照覧なりませ。〔Il. xv_36〕

41.2.1
 つまり、三つの誓約で、自分の同部族・同氏族の自然の名、つまり、水、大地、上空の天つまりアイテールを挙げた。四つ目の元素は、誓いを立てる彼女なのである。

41.3.1
 ともかく、才に富み、美しい場面でも、こういう諸元素を寓意的に提示しようとして、少し後でも、イーリスに対するポセイドーンの言葉のなかでも、その同じことを描写して、言う。

41.4.1
つまり私〔ポセイドーン〕は、一同で籤を引いた上で、灰色の海を、常住の
住居として引き当て、アイデースは朧にかすむ闇の世を当て、
またゼウスは、アイテールと雲との中の久方の空を引き当てたが、
大地と、それにオリュムポスの高嶺はまだ、みんなの共有物である。〔Il. xv_190-193〕

41.5.1
 ゼウスにかけて、これは、シキュオーンにおいて神話されている籤引き — 海とタルタロスに天が対置されるほどに不釣り合いな分割を兄弟の間でしたことを言ってのでは断じてない。というのは、この神話全体が、原初の四つの元素について寓意されていうのである。

41.6.1
 つまり、〔詩人が〕クロノス(KrovnoV)と名づけたのは、1字母を変換した時間(crovnoV)のことである。そして、時間は総体の父であり、有るものらのうちの何ものも、時間なしに生じることは絶対に不可能である。だからこそ、これが四元素の根源なのである。
41.7.1
 また、母としてそれらに当てがったのがレアーであるのは、一種の流れ、つまり、永遠に流れる動きによって、全体は司られているからである。

41.8.1
 時間と流れとの子どもこそ、大地と水、またアイテールとそれにつき従う大気として〔詩人が〕描写したものである。
41.9.1
 そして火焔的な自然には天という場所を割り当て、湿った有性(oujsiva)はポセイドーンに付け、三番目のハーデースは光のない大気と明かし、
41.10.1
 大地をば、総体を造物する炉のごとく、万物の共有物にして最も安定した要素であると表明した。

41.11.1
大地と、それにオリュムポスの高嶺はまだ、みんなの共有物である。

41.12.1
それゆえにまた、これらのために〔詩人が〕絶えず寓意するのは、わたしに思われるところでは、その詩句につきまとっているように思われる不明瞭さが、教示の繰り返しによって、それだけより理解されるようにするためである。

サルぺードーンのためにゼウスが涙を流す話(第十六歌)

42.1.1
 もちろん、サルベードーンのために〔ゼウスが流す〕涙を、神の苦しみとして虚言しているのではない、それは人間どもにおいても病である。むしろ、正確なところを述べることを望んだ彼によって、寓意される真理の方法が思いつかれたのである。

42.2.1
 例えば、重大な事態の変化の際には、異常な前兆が生にもたらされると記録されるされることしばしばである。河や泉の流れが、血に染まった水で汚されると、昔の神話がアソーボスとデルケーについて伝承するように。
42.3.1
 人殺しの穢れのようなものが付着した雨滴が雲から降ってくるという話にある〔ように〕。

42.4.1
 そういう次第で、戦の変化が、夷秋たちに総敗走をもたらしそうになったとき、そして強さの点で最善者たるサルペードーン戦死が近づいたとき、この災禍を告げる異常現象らしきものが出現したのである。

彼[ゼウス]は、ただ血みどろの雨雫を地の上へと注ぎたもうた。〔Il. xvi_459〕

42.5.1
 この、血みどろの雫こそ、寓意的にアイテールの涙と述べたもので、それはゼウスのではなく — なぜなら神が泣くことはないから — 、高処から雨が、嘆きに混じり合ったかのように、降り注いだのだ。

ヘーパイストスとアキッレウスの盾(第十八歌)

43.1.1
 以上は、たぶん、寓意された事柄についての些少な例証だろう。だが、盾作りの場面では、総体〔世界〕の誕生を気宇壮大な精神で収拾した。
43.2.1
 すなわち、全体の始まりがどこから生じたのか、その造物者は誰なのか、一つひとつのものがどのようにして充足され、分かたれたのかということに、明瞭な証拠に、アキッレウスの楯を、宇宙の円周の鍛造された模造として提起しているのだ。

43.3.1
 先ず第一に、全世界の造物の時機を夜としている、それ〔夜〕は、時間の父祖伝来の歳ふりた翼を継承していて、今見えている諸物に分けられる前は、全体は夜であった、この全体こそ、詩人たちの子どもたちが混沌と呼んでいるものである。

43.4.1
手を用いる仕事の中断を、夜間すら得られないほど惨めで不幸な神として、ヘーパイストスを導入しているわけではない。惨めな人間においてもすら、夜も労苦の休憩をもてないとなったら、奇妙に思われるだろう。
43.5.1
そうではなくて、アキッレウスのため武具一式を青銅で鍛造するヘーパイストスとは、そういうことを〔意味している〕のではなく、また天上に、青銅や、錫や、銀や、金の小山があるわけでもない。
43.6.1
なぜなら、地上の不愉快で銀好きな病が天上に昇ることは不可能だからである。

43.7.1
 自然学的には、まだ形を成さず、分離もされていない質料の時機は夜であると表明しつつ、万物が形を成そうとしたときの造物者にヘーパイストス、つまり、熱い有性(oujsiva)とした。なぜなら、自然学者ヘーラクレイトスによれば、「万物は火の交替」〔Fr. 90〕にほかならないからである。

43.8.1
ここから、カリスを総体の初子の同棲者にするのは説得的でないことはない。なぜなら、宇宙(kovsmoV)に今や固有の飾り(kovsmoV)を授けることを(cariei:sqai)こころざしたからである。

43.9.1  では、その〔楯の〕拵えとは何であったか?
こなたは、火中へ、摩滅を知らぬ青銅や錫を、投げこんでゆき〔Il. xviii_478〕

43.10.1
 もしも、アキッレウスに武具一式を拵えたのであれば、すべては黄金であるべきだったろう。というのも、わたしの思うに、アキッレウスが、高価さの点で、グラウコスとも等しくないというのは、悲惨なことだから。
43.11.1
 今こそ、四つの元素が混合する。
43.12.1
 かくて、黄金と名づけたのは、アイテール的自然のこと、銀とは、まさに色合いで似る大気のことである。
43.13.1
 青銅と錫と命名されたのが、水と地のことなのは、両者の重さの故である。

43.14.1
 これらの元素から、彼によって青銅で最初に鍛造された楯が、球状の形をしているのは、これを通して宇宙をわれわれにあからさまに描こうとしたのであるが、盾作りからのみならず、他の証拠によっても、これが球形であることを彼は知っていたのだ。

ついでの議論(太陽の形容句)

44.1.1
 ついでながら、これらの点についての専門的な証明を、われわれは簡潔に明かしておこう。
44.2.1
 さて、太陽のことを〔詩人は〕いつも「ajkavmaV」とか、「hjlevktwr」とか、「+Yperivwn」とか命名する所以は、これらの形容句によってその球状を表すため以外の何ものでもない。

44.3.1
 すなわち、「ajkavmaV」、つまり、疲れない者(oJ mh; kavmnwn)というのは、どうやら、日の出と日没〔の間〕にその限界を有するのではなく、常に周回することに必然性を〔有する〕らしい。

44.4.1
 「hjlevktwr」とは、2つのうちどちらかである。すなわち、この神は眠りにつくことがないから、h[lektroV〔「臥所(levktron)無し」〕と名づけられたか、あるいは、たぶんより説得的なのだが、昼夜を分かたず宇宙を測量しつつ、ejpielivktwr〔「巡廻する者」〕として、円状の運行によってかである。

44.5.1
 また、彼〔太陽〕を「+Yperivwn」とみなすべきであるのは、つねに大地の上を行く者(uJperievmenoV)だからであり、これは、わたしが思うに、コロボーン人クセノパネースも謂っているとおりである。

44.5.3
そして太陽は大地を超えゆきつつ大地をあたためる者。〔Fr. 31〕

44.6.1
もし、父称で彼を名づけるつもりだったら、「+UperiwnivdhV〔「ヒュペリーオーンの子」〕と云ったことであろう、ちょうど、アガメムノーンを「アトレウスの子(=AtreivdhV)」、アキッレウスを「ペーレウスの子(PhleivdhV)」と、状況によって云うように。

承前(夜の形容句)

45.1.1
 また「qoovV〔「脚の速い」の意と「尖った」の意とがある。女性形はqohv〕夜」〔Il. x_394〕とは、全天が球状であることを表す以外の何ものでもない。なぜなら、太陽と同じ走路を夜は完走するのであり、前者が去った場所はすぐ後者によって暗くされるのである。
45.2.1
 実際、どこかではっきりとこの点を打ち明けて謂う。

さてオーケアノスへ輝きわたる太陽の光も落ちて、
禾穀をみのらす田畑の上に か黒い夜を引きずって来たが、〔Il. viii_485〕
45.3.1
すなわち、自分の後ろに夜を牽引しているかのように、太陽の速度に同期しているそれを曳いているのである。だから、それを「速い(qohv)」とホメーロスが述べたのは尤もなことであった。
45.4.1
 ところが、ひとはもっと説得的な試みとして、「取り換え法(metalhptikw:V)」によって、qohvを、動きのうえで鋭い(ojxei:a)意ではなく、形の上で鋭い意で名づけることができる。
45.5.1
 というのも、どこか他の箇所で謂っている。
そこで今度は、qoaivqohvの複数形〕島々へと乗る船を差し向けて往く。〔Od. xv_299〕

45.6.1
〔詩人が〕明らかにすることに懸命だったのは、根を張た島々の速度ではなく — それは阿呆げだから — 、形状の先端が鋭い線に終わっていることであったのだ。
45.7.1
 だから、極みにある影の鋭い果てに収束する夜が、qohvと言われるのは尤もなことなのである。

同(影の形)

46.1.1
 この点についての言葉が示しているのは、自然学的にいって、宇宙が球状であるということである。
46.2.1
 というのは、影の形は3とおりに落ちると数学者たちは謂う。
46.3.1
 すなわち、光源が、照らされるものより小さい場合は、影は、籠状に、頭部の細い始点から放射して、いちばん後ろの底部に向け広がってゆくことになる。
46.4.1
 しかし、照らす光が、照らされる場所より大きい場合は、その影は、広い始まりから、狭い果てへと円錐状に狭まってゆくことになる。
46.5.1
 さらに、照らされるものと照らすものとが等しい場合には、影は円筒のように、両側の線において同等の幅を保つ。

46.6.1
 だから、ホメーロスは、大多数の哲学者たちの考えどおりに、大地より太陽の方がはるかに大きいことを示したいと望んで、果ての形が鋭く終わる夜を、qohvと命名したのはうまい言い廻しで、わたしの思うに、その影が円筒形や籠形に落ちることはありえず、いわゆる円錐形を達成するからである。
46.7.1
じつにホメーロスが、最初に、たった一つの言い廻しでほのめかして、哲学者たちの無量の論争を片づけているのである。

同(風たちのこと)

47.1.1
 さらに、逆方向の風たちの運行も、宇宙の球状を明らかにしている。
47.2.1
 すなわち、北風は北方から吹きつけ、高い空から「大きな波をころがす」〔Od. v_296〕。というのは、高所から低所への運行を、この詩句は1つの言い廻しで転がり落とした〔あたかもころがりおろすように描いた〕。
47.3.1
 逆に、下の場所から吹いてくる南風についてはこう記録した。

そのところで東南風が大きな波を左手にあたる岩鼻に向け、押しやる。〔Od. iii_295〕

より低所から上への動きを転がし上げているのである。

47.4.1
 さらになお、その他〔の表現〕とともに、「無限の大地」と名づけて、さらにへーラーに関しても、

というのは、これから養い豊かな大地の果てへ伺うつもり〔Il. xiv_200〕

47.5.1
 もちろん、相反する意見を述べて自己矛盾を犯しているのではなく、球状のものは、すべて、無限でもあり、限られてもいるからである。
47.6.1
 ある種の境界として外周を持つということから、それは、合理的に、限られたものと見なすことができる。他方、円の中に何か限界点を示すことは不可能だから、それを無限と称することも正当だろう。終極と思われる点は、同様に始点ともなりうるのである。

アキッレウスの楯の象徴性

48.1.1
 さて、以上が、ホメーロスにおいては宇宙が球状であるということの一連の証拠であるが、最もはっきりしているのは、アキッレウスの楯の拵えの象徴性である。
48.2.1
 なぜなら、へーパイストスは、あたかも宇宙の円周の似像のように、その武具を形の点で円状に鍛造したのだから。

48.3.1
 実際、神話的には、鋳造される楯は、全体を通じてアキッレウスに調和する進行を描写して刻むべきだったろう。
48.4.1
 では、それはどういうものだったか?

さればそれぞれ陣を構えて、河の堤で闘い合えば、
互いに青銅の穂先をはめた、槍を執っては抛りつづける、
その場にはエリスの女神、またひしめきあい、またおぞましい死の定めの
女神も混じって、まだ生きて傷をしたのや、無傷な者や、
あるいははや死に果てたのを引っつかみ、足をとらえて混み合う中を
引きずってゆく。〔Il. xviii_533-537〕
これこそが、アキッレウスがずっと送ってきている人生である。

48.5.1 ところが、実際は、ホメーロスは、自分固有の哲学に従って宇宙を造物しながら、未分化の混然たる質料の後に、すぐに、摂理の大いなる業を鍛造した。

そこには大地や、また大空、あるいは海原、また疲れを知らぬ
太陽や、また満ちわたる月が設けてあった。〔Il. xviii_483〕

48.6.1
 宇宙誕生の宿命は、先ず、基台として大地を打ち出した。次いで、神的な屋根のようなものとして、天をその上の覆いとし、その〔大地の〕開かれたか窪みに、海をどっと注ぎ入れた。そしてすぐに、太古の混沌から諸元素の分化したものらを、太陽と月で照らした。

48.7.1
また大空に冠する星座の数をすべて尽くした。〔Il. xviii_485〕

これによって特に、宇宙が球状であることをわれわれに伝承している。
48.8.1
なぜなら、冠が頭の周りの飾り(kovsmoV)であるように、天の穹窿を取り巻いて、球状の形に散りばめられているものが、天の冠と名づけられているのは尤もなことだからである。

楯の中の二つの都市

49.1.1
 そして、星全体のことを厳密に論じた上で、特に目立ったものを個々に説明した。なぜなら、エウドクソスやアラトスのようには、すべての星をその神学で扱うことはできなかった、『星辰譜』の代わりに『イーリアス』を書くことを自らに課していたからである。
49.2.1
そこで、寓意的な二つの都市に移り、1つは平和のそれ、もうひとつは戦争のそれを導入する。これによってアクラガス人のエンペドクレースも、そのシケリア派の理論を、他ならぬホメーロスから吸収したのだということになるのである。

49.3.1
 なぜなら、エンペドクレースは、自然学的理論において、四元素とともに、「争い」と「友愛」というものを伝承した。
49.4.1
 他方、ホメーロスの方は、それらのおのおのをほのめかして、楯の中に、一つは平和の、つまり友愛のそれを、一つは戦の、つまり争いのそれを、鍛造したのである。

楯の五層は気候帯の五種

50.1.1
 また、楯に五つの襞を想定したが、宇宙に刺繍されている[気候]帯をほのめかしていないとしたら、外にほとんど何もなかろう。
50.2.1
 すなわち、いちばん上方の帯は、北風の極を巡っており、これを北極と名づけられる。それに続くものは温和な帯である。次いで三番目のは、焦熱の帯と呼ばれる。
50.3.1
 四番目のは、前の二番目のと同様、温和な帯と名づけられる。五番目のは、南風の領域にちなんで、南風の、対極の帯と呼ばれるものである。

50.4.1
 これらのうち、二つの帯は、その冷気のせいで完全に無住である。北風の極と、その反対の南風の極にある帯がそれである。同様に、焦熱の帯は、火焔的有性の過剰のゆえに、いかなる生き物にも立ち入ることができない。
50.5.1
 しかし二つの温和な帯は、[寒熱]おのおのの帯の中間の、混合された状態を享受しているので、人の住む地と謂われる。
50.6.1
 とにかく、エラトステネースが、強烈な表現を用いながら、その『へルメース』のなかで、こう精しく云っている。

50.7.1
五つの帯がそれ[世界]の周囲を取り巻いている。
その二つは、青いエナメルより暗く、
50.8.1
一つは乾いて、火焔に打たれ焼かれているように赤い。
それは犬星に向かって
位置しており、つねに照りつける光線に燃やされているからだ。
50.9.1
しかし二つの、両極の周りに凍てついている帯は、
いつも寒冷で、いつも雨水に悩まされている。〔Fr. 16〕

51.1.1
 ところが、これらの層をホメーロスは名づけて、次のことばで謂う。

というのは、足の曲がった御神は5枚の板をはっとかれたので。
その二枚は青銅づくり、内側の二枚は錫の張り板、中の
一重だけが黄金だった。〔Il. xx_270-272〕

51.2.1
上方で、宇宙の暗い隅に横たわる二つの帯を、〔詩人は〕青銅になぞらえる。この素材は冷たく、冷気に充ちているからだ。実際、どこか他の箇所で、言っている。

冷たい青銅をもろ歯に咬んだ。〔Il. v_75〕

51.3.1
「そして一つだけ黄金の層だった」というのは、焦熱帯のことである。火焔的有性は、色合いにおいて、黄金に最も近似だからである。
51.4.1
「内側の二枚は錫の張り板」は、温和な帯を暗示している。51.4.2
 この素材は柔らかく、鍛えやすい。そのことによって、こういう帯がわれわれになじみやすく穏やかであることを明らかにしている。

51.5.1
 こういう次第で、天空にあるヘーパイストスの厳かな仕事場は、このようにして、聖なる自然を創造していた。

神々の戦闘について

52.1.1
 だが、ホメーロスに向けられた誹謗者たちのすさまじくも厄介な妬みが、神々の戦闘の件りに関して、すぐさま起ち上がる。
52.2.1
 なぜなら、彼の作中で激突するのはいまだ「トロイエー方とアカイア勢の戦の騒ぎ」〔Il. vi_1〕ではなく、天上の騒乱と党争が神性を蝕むからである。

52.3.1
すなわち すわこそ、ポセイダーオーンの尊には面と向かって、
ポイボス・アポッローンが 翼を持った矢を携えて立ち憚った。
戦の神には面と向かって 燦めく眼の女神アテーネーが、
またヘーレーには 黄金の棹の、音も騒々しいアルテミスとて、
遠矢射る御神の姉、矢を射かける大姫神が立ち上がられた。
してレートーには、役に立つ大したお助け神のヘルメースが立ち向かえば、
ヘーパイストスへは 深く渦巻く大河が向かっていった。〔Il. xx_67-73〕

52.4.1
これはもはや、ヘクトールがアイアスに闘いを仕掛けるとか、アキッレウスがヘクトールに、サルペードーンがパトロクロスにそうするとかいうものではなく、ホメーロスは、天の大戦争を引き起こして、あわやという際まで禍いの準備を進めるというのではなく、じっさいに神々を互いに激突させたのである。
52.5.1
 実際、アレースは「7」

ペレトロンにも渡って倒れ、髪の毛を砂にまぶせた。〔Il. xxi_407〕
その後でアプロディーテーは
膝も心もくずおれた。〔Il. xxi_425〕

52.6.1
またアルテミスは、聞き分けのない子供が諭されるという態で、自分の弓によって侮辱されることにもなり、クサントスは、へーパイストスのせいで、すんでのことで河として流れることすらできなくなりそうになる。

承前(その占星学的説明について)

53.1.1
 いずれにせよ、これらはすべて、そもそも多衆をとうてい納得させられない話である。
53.2.1
 もし人が、ホメロスの密儀の奥深くに下りていって、その秘儀的な智を観じようと欲するなら、不敬な話と彼に思われることが、どれほどの哲学に充たされていることか、悟るであろう。

53.3.1
 然り、一部の人たちの見解では、同一の宮における七つの惑星の合が、これらの詩句を通してホメーロスによって現に言われている。これが起きるとき、全面的な滅亡が起きるという。
53.4.1
だから、全体の混乱(suvgcusiV)をほのめかして、アポッローンすなわち太陽と、月のことであるとわれわれが謂うところのアルテミスと、アプロディーテー[金星]と、アレース[火星]と、さらにまたヘルメース[水星]と、そしてゼウス[木星]とを一箇所に集めるのである。

53.5.1
 尤も、この寓意は、真理の領域に属するというより、むしろ説得性に属するもので、われわれが受け容れたのは、無知と思われないためという程度である。もっと顕著であり、ホメーロスの知恵に属することは、まさに以下のように考察しなければならない。

承前(その倫理学的解釈)

54.1.1
 じっさい彼は、諸々の悪徳には徳を対置し、闘い合う自然にはその反対〔の自然〕を対置した。
54.2.1
 現に、神々の戦いの組み合わせは、じつに哲学的である。アテーナーとアレースというのは、無思慮と思慮ということである。
54.3.1
 つまり、一方〔アレース〕は、わたしが謂ったように、「猛り狂った者」であり、「申し分ない禍のもと、二股膏薬」〔Il. v_831〕である。他方〔アプロディーテー〕は、「諸神の間で知恵でも狡い企みでも名うての者」〔Od. xiii_298-299〕である。

54.4.1
 最善事を判断する思量にとって、何も見ることのできぬ無思慮に対する敵対関係は解消しがたいものである。
54.5.1
それは、人生にできるかぎり利益をもたらすよう、戦のことでもよい判断を下す。なぜなら、気の狂った、常軌を逸した無分別が、洞察(sunevsiV)に勝ることはないからである。
54.6.1
 で、アテーナーがアレースに勝ち、地上に延びさせたのは、あらゆる悪は地に倒れて、最も低いバラトロンに投げ込まれるのであり、踏みしだかれる病であり、あらゆる侮辱に服するものだからである。
54.7.1
 もちろん、彼といっしょにアプロディーテー、つまり放縦をも彼は打倒した。

両神ともども、養い豊かな大地の上に延びて倒れた。〔Il. xxi_426〕

これらの病は同族であり、情態の点で隣人なのである。

承前(その心理学的説明、レートーとへルメース)

55.1.1
 レートーにヘルメースが対立したのは、後者は、われわれの内なる情態の言葉以外の何ものでもないからである。
55.2.1
 あらゆる言葉にはレートーが戦いを挑む、1字母の置き換えで忘却(lhqwv)のようなものになるのだから。
55.3.1
 つまり、記憶されていないことは、もはや報告されることはできないのであり、だからこそ、ムーサたちの母はムネーモシュネー[記憶]であると記録され、言葉の保護者たる女神たちは、記憶によって生まれたと言われるのである。
55.4.1
 だから、忘却が敵対者との争いに進発したのは尤もなことなのである。
55.5.1
 そして、ヘルメースがそれ〔忘却〕に負けたのは義しい。なぜなら、忘却は言葉の敗北であり、明白なことも、無記憶によって、唖者の沈黙のうちに打ち負かされるからである。

承前(その自然学的説明、ボセイドーンとアポッローン)

56.1.1
 さらに、残りの神々の間の戦いは、もっと自然学的なものである。

ポセイダーオーンの尊には面と向かって、
ポイボス・アポッローンが 翼を持った矢を携えて立ち憚った。〔〕

56.2.1
水に火を対置し、太陽をアポッローン、濡れた自然をポセイドーンと命名した。
56.3.1
 これらのおのおのが反対し合う力を持つということを、いったいどうして言う必要があろうか。
56.4.1
一方が他方を支配すると、必ず相手を破壊する。
56.5.1
それでも、真理の綿密な観察によって、両者の戦いを解決することができる。
56.6.1
 その所以は、太陽の糧は湿った有性、とくに塩水的なそれであることをわれわれは闡明したからである。
56.7.1 — というのは、われわれは気づかないが、大地から湿った蒸気を吸い上げ、もっぱらそれによって自分の火焔的な自然を増大させるからである — 。
56.8.1
だから、養うものに養われるものが相対するのは困難なことだった、それで〔両者は〕互いから身を引いたのである。

承前(自然学的説明の続き、へーラーとアルテミス)

57.1.1

またヘーレーには 黄金の棹の、音も騒々しいアルテミスとて、〔Il. xx_70〕

57.2.1
ホメーロスがこの場面を導入したのも不合理ではない。むしろ、ヘーラーとは大気であり、月をばアルテミスと名づけたとわたしが謂ったとおりである。
57.3.1
 およそ、切られるもの(temnovmenon)は、つねに、切るもの(tevmnon)に敵対的である。
57.4.1
 それ故、大気に対する月の敵意を想定して、大気中のその〔月の〕運行と走路を示唆したのである。

57.5.1
 また、月がすぐに打ち負かされたのは尤もである。
57.6.1
 その所以は、大気は大量で、いたるところに行き渡っているが、他方はより小さな存在で、大気の諸現象によって — あるときは月食に、あるときは霧や、下方を流れる雲によって — 絶えず隠されるからである。
57.7.1
 それゆえ、勝利の褒美(brabei:a)を、より大きな存在で、いつも害する側(blaptwn)に付与したわけである。

承前(さらなる自然学的説明、へーパイストスとクサントス)

58.1.1

ヘーパイストスへは 深く渦巻く大河が向かっていった。

58.2.1
 アポッローンとポセイドーンについての言説の中で、天空のアイテールと太陽の純粋な焔とをわれわれに明示した上で、今や死すべき火に移行して、これを河と対決させて、おのおの相異なる自然を戦いに駆り立てる。
58.3.1
 先には、ポセイドーンに対して引きさがる太陽を導入したが、今は、湿った有性が火焔的なそれに負かされるとする。後者の元素の方が、他方よりも力があるからである。

58.4.1
 だから、お互いに戦い合う神々を導入するほどに狂っている者がいようか。ホメーロスは、自然の理の観点から、こういう神々の話を寓意を用いて神話しているのに。

ヘルメースがプリアモスを導く話(第二十四歌)

59.1.1
 さて、『イーリアス』の最後では、ヘルメースが目に見える形でプリアモスに付き添って行くと、寓意的に明らかにしている。
59.2.1
というのは、どうやら、怒れる人間をこれほど説得できるものは何もなく、銀ではなく、金ではなく、高価な贈り物でもないらしい。
59.3.1
だが、言葉による説得は、嘆願の優しくて  な武器である。
59.4.1
 じっさい、エウリピデースはまったく真実である。

ペイトー〔説得の神〕の神殿とは、言葉そのものにほかならない。〔Fr. 170〕
59.5.1
プリアモスもまた、堅固な武具のようにこれで武装している。もっぱらこれによってアキッレウスの怒りを折ったのだ。初めは、「十二枚の幅広布や、十二枚の一重仕立てのクラミュスや」〔Il. xxiv_229〕、他の持参された贈り物を示してではなく、
59.6.1
嘆願の最初の声々が、彼〔アキッレウス〕の男らしい気性を柔弱にしたのである。
父上のことを思ってください、神々にもたぐえられようアキッレウスよ、
ちょうどわたしと同年輩の、おぞましい老いの閾においでの父上を。〔Il. xxiv_486〕

59.7.1
短い前置きの言葉で、アキッレウスを引っつかみ、プリアモスの代わりにほとんどペーレウス[アキレウスの父]となった。
59.8.1
 それゆえ、食事をするまでに憐れみを受け、ヘクトールの遺体の方は洗い清められて返されるのである。
59.9.1  それほどに、情動の翻訳者たる言葉は偉大なのであり、これを彼〔プリアモス〕の嘆願の援助者として、ホメーロスは遣わしたのである。


第二部『オデュッセイア』における寓意

60.1.1
 いったい、『イーリアス』総体を通じて、ホメーロスの哲学が協和し一貫しており、その中で、神々についての事柄を彼は寓意したということで充分ではないか? それ以上われわれは何を追求し、これほどの明証の数々のあとで、なお『オデュッセイア』に関する事柄に何が必要であるとわれわれは考えるのか?
60.2.1
 ただし、いかなる美も飽きられることはないのだから、やはり、競い合いに充ちた戦闘的な『イーリアス』から、60.2.3 性格描写的な『オデュッセイア』に移ることにしよう。
60.3.1
 もちろん、こちらもけっして非哲学的ではない。いや、両方の書に、同様のホメーロス — 神々についてはふさわしくないことは記録せず、そのような慣わしとは無縁に、謎めかす彼 — をわれわれは見出すのである。

アテーナーの顕現とテーレマコス(『オデュッセイア』第一歌)

61.1.1
 そういう次第で、冒頭すぐに、アテーナーがテーレマコスのもとに、ゼウスに派遣さるのが合理的なのをわれわれは見出すが、その所以は、ひどく若い時分から、すでに二十歳にさしかかり、成年に移行してきたのであり、
61.2.1
いろいろ生じたなかで、求婚者たちの四年にわたる放埒をもはや我慢すべきではないという一種の思量が彼を襲ったのだ。

61.3.1
 そこで、テーレマコスの内部でつのりつつあるこういう思量を、〔詩人は〕アテーナーの顕現として寓意にした。
61.4.1
 というのは、〔女神は〕老人に姿をやつしてやって来た。実際それはオデュッセウスの古くからの客友メンテースであることが同意される。
61.5.1
 で、白髪や老年は、〔人生の〕最後の時期の聖なる港であり、人間どもにとって安全な停泊所であって、身体の力が衰えれば衰えるほど、精神の活力は増すのである。

アテーナー(メンテース)の忠言は理性の諭し(同歌)

62.1.1
 それでは、忍びこんだ理性は — 〔テーレマコスが〕賽子遊びをしているとき、そばに座って、それらの言うことを忠告したのは女神ではない — 、テーレマコスに何を教えたか?

62.2.1
では、さあ、と彼は謂う、おお、テーレマコスよ、おまえにはもう若者以上の思慮があるのだから。
先ず一番よい船を一艘仕立てさせ、漕ぎ手を十人乗りこませる、
して、長いこと出たきり帰ってこぬ父上を、訊ねて旅へ出かけるのだ。〔Od. i_280〕

62.3.1
 先ず、敬虔で義しい思量が、弱齢ゆえの無思慮の深みから忍びこんで、イタケーで、生みの親のことを失念して、怠惰な時間をすり潰すのは価値がなく、
62.4.1
もう今は、父上恋しの船をよくこしらえて、海を渡って消息を求めて跳び出さねばならないときだ、オデュッセウス出郷の知られざる足跡をたどるために。

62.5.1
 第二に、そのためには、父の運命を特にどこに訊ねるべきかを考察した。
62.6.1
すると、彼のそばに坐っている思慮が提案した。

先ず手始めは、ピュロスへ往って、ネストール殿に訪ねるがよい、
そこから今度はスパルテーへ、亜麻色の髪のメネラーオスのもとへ赴くのだ。〔Od. i_284-285〕

62.7.1
なぜなら、だから、前者は老年にもとづく経験を有し、後者は、8年間の放浪の末、最近帰還した。

青銅の鎧をつけたアカイア勢中、いちばん送れて帰った者ゆえ。〔Od. i_286〕

だから、ネストールは彼に忠告を与えて助けてくれそうだったし、メネラーオスはオデュッセウスの放浪について真実を述べられそうだったのである。

承前(第一歌から第二歌)

63.1.1
 こういうことを思い巡らすと同時に、あたかも自分を励ますように云った。

もはやあなたも
子どもの続けてはいけない、もうそういう年齢ではないのだから。〔Od. i_296〕

63.2.1
まるで家庭教師か父親のように、彼の思量は、思慮に与る部分を目覚めさせた。次いで、同年輩者の武徳に似せて、同様の思慮へとに励ました。

63.3.1
ご存知ないかな、どれほど大した評判をあの勇ましいオレステースが
世界の到るところで得たかを、自身の親御を殺した男を討ったというので。〔Od. i_298〕

63.4.1
 こういう思量に鼓舞されて、自分の精神を中空に舞い上がらせるのは道理である。これをホメーロスは鳥になぞらえて言う。

鳥みたように空高く舞いあがって発ってゆかれた。〔Od. i_320〕

63.5.1
思慮が、あたかも、わたしが思うに、わが身の中に、事態のこれほどの嵩を宿していたかのように、空高く起ち上がった。
63.6.1
もちろん、すぐに民会が召集され、父に関する言説を彼は弁じ立てる。

63.7.1
 また、彼の出航を整えるのは、この寓意にちなむ名前のプロニオスの子、その名もノエーモーンである〔Od. ii_386〕。この両者によって、彼の手近に有する思量を〔詩人〕は暗示した。
63.8.1
そして彼が乗船すると、アテーナーも、今度はメントールに姿を似せて、乗り合わせた。この男は、思慮に加えて精神も合わせ持つ。後者〔精神〕は思慮の母である。
63.9.1
これらのすべてを通じて、テーレマコスの中で少しずつ養われてゆく洞察が、これらの詩句によって記録される。

プ口ーテウスの話(第四歌)

64.1.1
 かてて加えて、プローテウスに関する言葉が、メネラーオスによって長々と開陳されるが、これは一見すると、欺瞞的な人を欺く幻想性を有する。
64.2.1
エジプトの小島の惨めな寄留民として、不死なる者〔神〕から〔下された〕懲罰の程度たるや、陸と海の二重生活をしつつ、アザラシたちといっしょに寝り、その〔眠りという〕喜ばしささえ懲らしめられるというのは、とても作り話めいている。

64.3.1
また、娘のエイドテアーは、父〔プローテウス〕に不正を加えるため、余所者〔メネラーオス〕に親切にしてやって、その〔=父親に対する〕裏切り者となる。その後、捕縛と、メネラーオスが待ち伏せる。
64.4.1
 次いで、何でも望むものになれるというプロテウスの変幻自在な変身は多様な変身は詩人の奇怪な神話に思えるーーもし人が、天的な魂によって、ホメーロスのオリュンポス的秘儀を大祭司として説明するのでなければ。

宇宙の混沌と秩序化

65.1.1
 とにかく、総体の太源となる誕生を描写する。そこに根を持つ万物が、今日われわれが目にする状態(katavsthma)へと導く。
65.2.1
というのは、かつて、形を成さぬ素材だけが存在し、まだ完全な姿に達せずに、未分化のままだった時があったのである。
65.3.1
 宇宙の炉たる大地には、まだ、不動の中心が定まっておらず、天も、永遠の運行を安定的に巡らしてはいなかった。すべては、陽のない静けさ、陰欝たる沈黙だったのであり、混沌とした素材の他には何もなかったのだ。
65.4.1
 形のない不活性の状態だったのであり、その後にやっと、万物を造り世界を創造する始源が、生を保護する型をそれに被せ、世界(コスモス)に秩序(コスモス)を与えた。
65.5.1
 天を地から離し、陸と海を分けた。万物の根であり源である四元素は、本性に従ってそれぞれ固有の形を得た。
65.6.1
 それらを摂理をもって(promhqw:V)混ぜ合わせた神は、それまでは未分化だった、形のない素材に[秩序を与えた]。

プローテウスの変身などについて

66.1.1
 プローテウスの娘がエイドテアーというのは義しい。おのおのの形相(ei\doV)を眺める女神(qeva)となったからである。それゆえ、以前は自然は一つのものだったが、プローテウス〔「太初のもの」〕が、摂理(pronoiva)によって、数多くの形姿に分かたれたのである。
66.2.1

先ずいちばん初めには、立派な髭を生やしたライオンに化けた、
それから今度は大蛇に変じ、それからまた豹だの大きな野猪だのに、
はてはまた液体の水や、高く茂った樹木にまで姿を変えにかかった。〔Od. iv_456-458〕

66.3.1
 もちろん、ライオンという火と燃える動物によって明らかにしているのは、アイテールのことである。
66.4.1
 また、大蛇は大地〔土〕である。土地生え抜きであり、そこから生まれたものということは、それを象徴する以外の何ものでもない。
66.5.1
 さらに樹木は、全体が生長してゆき、上方に向かう勢いを大地からつねに受け取るものであるから、象徴的に大気のことを云っている。
66.6.1
 もちろん、水のことは、すでに謎めかした点をより確実にするため、より明瞭な形で提示して云う。

はてはまた液体の水になった。〔Od. iv_458〕

66.7.1
 結局、形のない質料がプローテウスと呼ばれ、おのおののものの形姿を造る摂理(eijdwloplasthvsasa provnoia)がエイドテアーと〔呼ばれれ〕、両方によって万物が分けられ、密なるものや、配置されたもの総体が分割されたというのは、うまい言い廻しである。

66.8.1
 さらに、そこにおいてこれらが造形されたという島も、パロスと名づけたのは、説得的である。「fevrsai」とは、産むことだからであり、
66.9.1
不毛な大地を、カッリマコスは、ajfavrwtoV云ったからである。

石女のような女。〔Fr. 555〕

66.10.1
 だから、万物の父たるこの場所を、自然学的に、パロスと名づけたのが説得的なのは、生産的な命名によって、いちばん言いたいことを表わしたからである。

プ口ーテウスの形容句

67.1.1
 さらに、いかなる形容句でプローテウスを飾っているかを、今や考察しよう。

このところへは、a[lioVというある無謬の老人が通ってくる。〔Od. iv_384〕

67.2.1
 すなわち、わたしの思うに、元祖の第一有性の特徴は、より老いていることであり、したがって、時間の〔経過による〕白髪によって、無形の質料を荘厳しているのである。
67.3.1
 また、a[lioVと名づけたのは、ゼウスにかけてけっして、海の一種の精霊にして、波の下に生きるものということではなく、多数で多様なものからsunhlismevnonsunalivzwのperfect Passive「集められたもの」の意〕、それこそsunhqroismevnonということなのだ。
67.4.1
また、「無謬のもの」と述べられたのもうまい言い廻しである。なぜなら、この有性ほどに真理を制作するものが何かあろうか。それから万物が誕生したと考えるべきなのだから。

カリュプソーとヘルメース(第五歌)

67.5.1
 さらにまたカリュプソーも、オデュッセウスの繰り出す多彩な言葉の説得力を、ヘルメースと命名したが、それは彼が、やっとのことではあるが、自分に対するこのニンフの恋情を龍絡して、自分をイタケーへと送り出させたからである。
67.6.1
 このゆえに、ヘルメースは、鳥に身をやつしてオリュンポスからやって来た。
67.7.1
 というのは、ホメーロスによると、詩句は「有翼」にして、人間界で言葉より速いものは何もないからである。

オーリーオーンとイアーシオン(同歌)

68.1.1
 だが、われわれは些細なことも通り過ぎることなく、それを通してホメーロスの精妙な思慮を調査しなければならない。

68.2.1
 例えば、ヘーメラー〔「日」〕とオーリーオーンの恋は、人間においてさえ 68.2.2 恰好のよい情動ではないが、これを〔詩人は〕寓意した。

薔薇の指もつエーオースがオーリーオーンを選びなさると。〔Od. v_121〕

68.3.1
 すなわち、彼は、まだ若く、身体の盛りにあるのに、運命より前に引っさらわれる者として〔詩人は〕導入する。
68.4.1
ところが、昔の慣習では、病人がその生を終えたとき、その遺体を埋葬のために運び出すのは、夜でもなく、昼間の暖気が地上に広がるときでもなく、昇る陽が、熱のない光線を注ぐ未明のときに行われたのだ。
68.5.1
 だから、生まれのよい、同時に美しさの点でも抜きん出た若者が命終すると、未明の運び出しを、死者としてではなく、ヘーメラーによって恋情的欲望ゆえに拉致された者のごとくに、縁起のよさを求めた。
68.6.1
 ホメーロスに従って人々はそうに謂っている。

68.7.1
 イアーシオンは、農業にいそしみ、自分の畑から作物をたっぷり収穫していた男なので、デーメーテールに歓愛された思われたのは尤もである。

68.8.1
 これらの話を通して、ホメーロスが記録しているのは、神々の淫らな恋ではないし、放縦でもない。表しているのは、汚れのないヘーメラーとデーメーテールなのである。
68.9.1
 敬虔な尋ねようとする者たちに、自然学的観想のきっかけを恵贈しているのである。

アレースとアブロディーテーの愛(第八歌)

69.1.1
 それで今や、その他のことはすべて脇に措いて、中傷者たちによって絶えず厳しく唱えられる非難の方に向かうことにしよう。
69.2.1
 もちろん、彼らが上を下への大騒ぎをするのは、アレースとアプロディーテーに関する話が涜神的に造形されていると言ってである。
69.3.1
 すなわち、放縦を天の市民となし、人間界で死をもって罰せられる犯行が — わたしが言っているのは姦通のことだが — 、神々の間でなされると記録して〔詩人は〕恐れるところがない〔という〕。

69.4.1
アレースと、冠もみごとなアプロディーテーの逢い引きの段、
すなわち、最初に、この両神がこっそりとヘーパイストスの屋敷うちで密通したところから。〔Od. viii_267〕

69.5.1
次いで、その後に、彼らの緊縛と、神々の笑いと、ポセイドーンがヘーパイストスに対して行なった嘆願となる。
69.6.1
 神々がなす病的な振舞いを不正な人間が犯しても、懲罰を受けるべきではない〔ことになる、と〕。

69.7.1
 しかし、わたしとしては、パイアーケス人、つまり、快楽に隷従する者どもの間で歌われるこれらの事柄でさえ、一種の哲学的な知識と関連していると考える。
69.8.1
 というのは、シケリア派の教義やエムベドクレースの思想を、どうやら、これらの事柄によって、裏づけているらしいからである、「争い」をアレース、「友愛」をアプロディーテーと名づけるとだが。

69.9.1
これら〔の2つ〕が、初めは離ればなれになっていたのが、それ以前の愛勝(filoneikiva)から1つの同心(oJmovnoia)へと混合されたものになる、ということをホメーロスは導入した。
69.10.1
 ここからして、当然ながら、両者からハルモニアーが生まれた、全体が、揺るぎない協調関係のなかで調和した(aJrmosqeiV)からである。
69.11.1
そこで、これを神々が笑い、いっしょになって喜ぶのは尤もなことである。それは、彼ら固有の喜びが、破滅の方へと分離するのではなく、同心した平和へと導くのであるから。

69.12.1
 しかしながら、鍛冶の術について寓意したということも可能性である。
69.13.1
 なぜなら、アレースが鉄を名づけられるのは尤もであるし、これをへーパイストスが手玉にとるのは容易だからである。
69.14.1
 というのは、火は、わたしの思うに、鉄より強力な力を分有しているが故に、前者の硬さを自分の中であっさりと軟化させるからである。
69.15.1
 また、鍛冶師は、拵えられる物のために、アプロディーテーをも必要とする。ここから、わたしの思うに、火によって鉄を軟らかくしてから、一種魅力的な(ejpafrodivtoV)技で、制作を達成するわけである。
69.16.1
また、アレースをヘーパイストスから救い出したのがポセイドーンであるというのも説得的である。鉄の赤熱の塊は、溶鉱炉から引き出されて、水に浸けられ、火焔は、固有の自然によって消化されて、消え失せるからである。

オデュッセウスの放浪(概論)

70.1.1
 またオデュッセウスの放浪をも、ひとが精確に考察する気になれば、それが総じて寓意になっていることを見出すだろう。
70.2.1
 なぜなら、オデュッセウスを、あらゆる徳のあたかも道具のように描写し、それを通じて自身のために哲学研究したのであった。人間の生を諸悪を憎んでいたからである。
70.3.1
 少なくとも快楽は、つまり、異国風の農法を享受している「ロートス喰い」地方のことであるが、これをオデュッセウスは克己心をもって通り過ぎた。
70.4.1
 また、各人の粗野な気性の方は、あたかも焼きごてによってのように、言葉の忠告によって不具にした。
70.5.1
 また、キュクロープスと名づけられたのは、思量をくすねる者(uJpoklwpw:n)のことである。

70.6.1
 では、どうか。初めて、天文気象の知識によって航海によい日和を推察して、風どもを授けたと思われたのではないか。
70.7.1
また、キルケーの〔調合する〕薬より強かったのは、数多の知恵によって、外国産の悪しき菓子の解毒法を見出したからだ。

70.8.1
 また、その思慮は、ハーデースまで降りていった。地下界のことを探索もしない者とならないためだった。
70.9.1
 セイレーンたちの歌声を聞いて、あらゆる時代のさまざまな経験に関わる歴史を学んだのは誰か?
70.10.1
 また、カリュブディスとは、救いがたい濫費や、飽くことのない渇望がそう名づけられたが、うまい言い廻しである。
70.11.1
 スキュラの方は、多形の無恥を寓意したであり、だからこそ、犬たちの顔が下のほうを取り巻き、掠奪や向こう見ずさや、強欲に守護されているというのは不合理なことではない。
70.12.1
 太陽の雌牛たちは、食欲の抑制である。飢えも、不正の強制力を〔彼に対して〕発揮しなかったとするなら。

70.13.1
 まさしく以上は、聴衆に神話的に述べられてはいるが、寓意されている智恵へと降りてゆくならば、模倣する者たちにとても有益な事柄となるであろう。

アイオロスとその一族(第十歌)

71.1.1
 例えば、とくにアイオロスは、時の周期と結びつけられた1年のことであるとわたしとしては考える。
71.2.1
 実際、アイオロス、すなわち、「多様なるもの」と名づけられている所以は、どの季節においても同じ時間の長さ・単一の様相という自然と一致することはなく、それぞれの季節の諸変化が、それ〔?〕を違え、多彩にしているからにほかならない。
71.3.1
 すなわち、辛い寒気から、春の柔和な快さへとやわらぐかと思えば、
71.4.1
 春を過ぎた状態の湿りを、夏の火と燃える力が凝縮させるが、
71.5.1
 年毎の収穫をもたらす衰微の季節たる秋は、夏の暑気を引きずりつつ、冬の季節の序となる。
71.6.1
 こういう多様さの父として、1年がアイオロスと名づけられているのは尤もなことである。

71.7.1
 ところで、〔詩人は〕彼をヒッポテースの子と名づけた。なぜなら、時ほど鋭いものがあろうか? そして、これほど脚の速いものがあろうか。常に進行し流れてゆく速さによって、あらゆる時代を計測する〔時〕ほどに。

71.8.1
 また、彼の12人の子どもたちとは、暦月のことである。

その六人は息女、また六人は今年頃の息子だった。〔Od. x_6〕

71.9.1
 夏を充足する月々の豊穣と生産力をば、女の生子になぞらえ、冬期の固く凍てついた性質を男性にした。
71.10.1
 彼らの結婚に関する神話も不敬なものではない、その所以は、諸季節がお互いによって進んで行く結果になっているからにほかならない。

71.11.1
 そして〔アイオロスは〕風の分配者である。

その意のままに、あるいは風に吹き止ますなり、吹き起こさすなりする。〔Od. x_22〕

その運行は、各々の月により、決まりに従って吹くのだが、すべてのものらの主人は一年であった。

キルケーおよびへルメース(同歌)

72.1.1
 アイオロスをめぐる事柄も、このような自然学的探求に値するものなのである。

72.2.1
 他方、キルケーのkukewvnとは、快楽の容れ物であって、これを飲むと、放縦な連中は、その日その日の満足により、豚より惨めな生を送る。
72.3.1
 このゆえに、オデュッセウスの仲間は、愚かな一団なので、大食に負けてしまうが、オデュゥセウスの思慮は、キルケーのもとでの贅沢に勝ったのである。

72.4.1
 たしかに、最初、船から上陸し、玄関に近づいた彼に、ヘルメースが、つまり思慮深い言葉が、立ち現れる。
72.5.1
 もちろん、それ〔思慮深い言葉〕は語源的にヘルメースと言われるとわれわれは想定する。魂で思考されることすべての一種の解釈者(eJrmhnuvV)だからである。
72.6.1
また絵描きや彫刻家の手が、彼〔ヘルメース〕を四角に削ったのは、真っ直ぐな言葉というものは、すべて、どっしりした土台を持っていて、どちらかの側にふらふらころがるものではないからである。
72.7.1
 さらにまた、彼〔ヘルメース〕に翼をまとわせるのは、すべての言葉の速さをほのめかすからである。
72.8.1
 また、平和を喜ぶ。というのは、戦争はたいてい言葉に不足し、そこにおいては腕力が大部分を掌握しているからである。

72.9.1
 そこでホメーロスは、どうやら、形容句によっても、このことをわれわれのためにもっとはっきりさせているようだ。
72.10.1
 というのは、この神を「=ArgeifovnthV」とも名づけ、ゼウスにかけて決して、イーオーの〔監視役の〕牛飼い〔アルゴス〕を殺した(ejfovneusen)という、ヘーシオドス的な神話を知ってでは断じてない。
72.11.1
 いやむしろ、あらゆる言葉の自然は一つ、思考されるものを目に見える形で表明する(ejkfaivnei ejnargw:V)、それゆえ、彼のことをajrgeifovnthVと云ったのである。
72.12.1
 「=Eriouvnion」、「sw:kon」、さらにまた「ajkavthta」は、思慮深い言説の完壁な証拠である。
72.13.1
 なぜなら、思量は悪(kakiva)の埒外に宿るし、それを用いる者すべてを救い(sw/;zein)、じつに大いに裨益するからである。

72.14.1
 それでは、いったいどうして、この神に二重の、別々の時にまたがる名誉、ひとつは大地の下にある「地生えの」それを、ひとつは「天上の」それを、分け与えたのか? それは、言葉が二重だからである。
72.15.1
 そのうち、一方は「内在の」それと、他方は「表出される」それと、哲学者たちは呼ぶ。
72.16.1
 だから、後者は、内部の思量の報知者であるが、前者は胸の奥に閉じ込められている。
72.17.1
 しかし、後者は神性も用いていると謂われる。なぜなら、彼ら〔神々〕は何ものをも欠いてはいないので、自分たちの内部において有用な声を敬愛しているからである。
72.18.1
 だから、そういうわけで、ホメーロスは、内在のそれを「地生えの」と云った、精神の深みに翳らされているからだ。他方の表出されるそれの方は、遠くに明るいから、天に住まわせたのである。

72.19.1
 この〔神への〕供犠は舌、つまり、言葉の唯一の部位である。〔人々が〕眠りにつくとき、最後にヘルメースに潅酒するのは、あらゆる声の限界が眠りだからである。

ヘルメースについて(続き)

73.1.1
 さて、この〔神〕が、キルケーの方の行くオデュッセウスの傍らに、助言者として立った。
73.2.1
 しかし、最初のうちは、聞き知った出来事のために怒りと苦悩に捉われ、わけもなく興奮していた。
73.3.1
しかし、少しずつそういう激情がおさまってゆくと、有益さをともなった善き思量が解き放たれてきて、そこから、

黄金の杖を持つヘルメース神が向こうからやって来た。〔Od. x_277〕
73.4.1
 少なくとも、黄金という語は、美しいものの代わりに代用され、縫う(rJavptein)という語は、比喩的に、「洞察する」「思惟する」の代わりである。
73.5.1
 じっさい、他の〔詩行〕で言っている。
われわれは手を尽くして、諸悪を縫いつづけた。〔Od. iii_118〕

73.6.1
このゆえに、「絡み合わされた神話」とも云った。なぜなら、言葉は言葉から生じ、これに縫い合わされたものとなって、有益さを見出すからである。
73.7.1
 したがって、言葉を「黄金のラピス[裁縫]の」云ったのは、事態を美しく熟慮し、縫う〔企図する〕ことができることからである。

73.8.1
 さて、この思量が、傍に立って、自制なき怒りに駆られてむやみに急ぐ彼を叱責した。

どちらへ今度はまた行くのです、不運な方だ、しかもひとりきりで、
丘あいを、土地不案内だというのに。〔Od. x_281〕

73.9.1
これをオデュッセウスが自分に向かってしゃべったのは、考えなおした思量によって、それまでの怒りを抑えたからだ。

73.10.1
 また、思慮をモリュ[薬草の一種]と〔呼ぶの〕は納得しがたくはない。それは人間だけ(movnoV)に、あるいは、少数者にだけやっと(movliV)、訪れるものなのだから。
73.11.1
 そして、その〔思慮の〕自然はというと、根は黒い、

しかし花は牛乳に似ている。〔Od. x_304〕

73.12.1
なぜなら、こういう種類の諸善はすべて、総じて、初めは険しく困難な面を示すが、最初の労苦にひとが健気に耐えていると、甘美な成果が日の目を見るのである。
73.13.1
 このような思量に守護されて、オデュッセウスはキルケーの魔薬に勝利したのである。

黄泉の国(第十一歌)

74.1.1
 ところで、ホメーロスは、大地に関する観想から移行して、目に見えない死者の〔国の〕自然をも、寓意なしに放置することをせず、ハーデースの〔館〕の事柄をも、象徴的に哲学的探究をした。
74.2.1
 じっさい、最初の河が、人間的情態の悪を語源としてコーキュトスと名づけられているのは、死者たちのために生者たちからの哀悼があるからである。
74.3.1
 続いては、ピュリプレゲトーンと名づける。というのは、涙の後に埋葬と、われわれの中の死すべき肉体に属する部分を消滅させる火(pu:r)とが来るからである。
74.4.1
 そして、両方の河が一つの河アケローンに合流することを〔詩人は〕知っているのは、初めの嘆きと、死者へのつとめである埋葬との後には、一種の悲痛(a[ch)と苦悩とが、少しの憶い出で受苦をかき立てるからにほかならない。
74.5.1
 また、ステュクスからこれらの河が流れ出ているのは、陰鬱(stugnovthV)と、死による落胆(kathvfeia)のせいである。

74.6.1
 もちろん、ハーデースとは、語源的に、目に見えない場所が名づけられたのだが、さらにペルセポネーは、すべてのものらを破滅させるべく生まれついた女〔神〕だからである。
74.7.1
その〔すべてのものらの〕中では、

梨の実は梨の実の上、林檎は林檎の上に古びてゆくこと〔Od. vii_120〕
なく、根づいている幹は、神林に
川楊や、実をいたずらに投げ落とす柳。〔Od. x_510〕

74.8.1
また、供儀をその場所にいっしょに住まわせ……
……………………〔写本欠文〕……………………

テオクリュメノスの幻視(第二十歌)

75.1.1
…………………………………………………………
75.1.1
 月が[合に入ると]、太陽の輪は暗くされておぼろになり、しばしば、星々の澄んだ閃きをわれわれは目にする。
75.2.1
 だから、テオクリュメノス、神的なものらに耳を傾ける人(qei:a kluvwn)がこう云ったのはうまい言い廻しである。というのは、自然学的観想の価値あることと、その名称を彼は見出して、

君らの顔も頭も闇に包まれているし、下は膝まで同じこと。 夜の閣に覆われている。〔Od. xx_351〕
75.3.1
さらに、日食にさいしては、目に見えるものは血の色を呈する、つまり紅く染まるのだ。
75.4.1
 それゆえ、彼は付言した。
きれいな壁も中構えも血ですっかり塗りたくられている。〔Od. xx_354〕

75.5.1
 また、日食の定めの日は、これをヒッパルコスが究明したが、第三十日の新月の日で、これをアッティカ人たちの子どもたちが「古くて新しい日」と名づけている。
75.6.1
 他には、日食の日をひとは見つけられないだろう。
75.7.1
 さて、テオクリュメノスがこのことを、いつだったとして記録しているのかは、当のホメーロスから知ることができる。

この月が過ぎ去って行き、来たる月が立とうというとき。〔Od. xiv_162〕

75.8.1
日食の日は、付随して起きる事象とその決まりの日に関しても、これほどに精確なのである。

求婚者たちの殺害とアテーナー(同歌)

75.9.1
 以上の事柄に、求婚者殺しの終わりに、オデュッセウスの傍らに立つアテーナー、つまり、思慮のことを付け加える必要がどうしてあるだろうか?
75.10.1
 というのは、仮に、公然と、力ずくで、苦しめてきた連中に復讐しようとしたのなら、「戦い」が加勢するのが最善だったはずだ。
75.11.1
 ところが、じっさいは、欺瞞と技で廻り道をして、知られないままに罠にかけ、洞察力によって成功したのだ。

75.12.1
 一つひとつ集めてゆくと、まさに全体を通して、この作品総てが寓意に充ちていることをわれわれは見出すのである。


結部

ホメーロスとプラトーン

76.1.1
 さて、これらの点に鑑み、はたして、天と神々の大祭司ホメーロス — 人間の魂たちにとって未踏のまま閉ざされていた近道を天まで開拓した人 — を、不敬罪で有罪判決を下すのは、ふさわしいことであろうか、
76.2.1
 その結果、神法に悖る忌まわしいこの票決が下され、作品が破棄されることになれば、声なき無知が宇宙に蔓延し、
76.3.1
そうして、幼い子どもたちの合唱隊が、最初にホメーロスからの知恵を、まるで乳母からのミルクのように益されることもなくなるし、
76.4.1
 ほんの少年とか若者とか、すでに時を過ぎた老人が、一種の快楽を享受することもなくなり、
76.5.1
 全人生が、舌を奪われて、唖のうちに過ごすことになる、ということが?

76.6.1
 されば、プラトーンをして、おのれの国制からホメーロスを追放せしめよ、あたかも、彼自身をアテーナイからシケリアに追放したごとくに。
76.7.1
だが、この国制からは、クリティアスこそが、僭主なのだから、排斥さるべきだった、あるいは、アルキビアデース — 子どものころには下品なまでに女々しかったが、若者の時には一人前、酒宴でエレウシスの儀式をからかい、シケリアからは逃亡者、デケレイアでは建設者となった彼こそが。

76.8.1
 それにもかかわらず、プラトーンはといえば、ホメーロスを自分の都市から追い出したが、全宇宙は、〔自分のところが〕ホメーロスの1祖国だと主張する。

76.9.1
 とにかく、

ホメーロスをどの祖国の市民と記録すべきだろう、
すべての都市が腕を差し伸べ掛けるかの人を?〔Anthologia Graeca xvi_294〕

76.10.1
とりわけ、アテーナイときたら、ソークラテースを市民にあらずと、毒刹する拒否しながら、ホメーロスの1祖国であると思われたいという祈願を持っているけれども。

76.11.1
 そもそも、当のホメーロスが、プラトーンの法習のもとで市民権を得ることをどうして我慢できようか、彼らはこれほどに正反対の戦い合う党派に分住しているというのに?
76.12.1
少なくとも、後者は、結婚と子どもの共有を勧告するが、前者によって両巻は、慎み深い結婚によって献げられているのである。
76.13.1
なぜなら、ヘレネーのためにギリシア人たちは遠征したのであり、ペーネロペーのためにオデュッセウスは放浪したのだから。
76.14.1
そして、人間的生全体の最も義しい神法は、ホメーロスの両篇を通して体制に導入されているのに、
76.15.1
プラトーンの対話編の方は、あちらこちらで少年の愛者たちがこれを凌辱し、男へに対する欲望に満たされていない男が、全然いないのである。

76.16.1
 きわめて輝かしい成果〔を歌わんが〕ために、ホメーロスが呼びかけるのはムーサたちという処女神たちである。それはかなり気高い、ホメーロス的神性にふさわしいことが課題になっている場合であり、
76.17.1
同様に、国ごとに配置されている〔軍隊〕や、偉大な英雄たちの武勲を〔歌う〕場合である。

ホメーロスとプラトーンにおけるムーサイへの呼びかけ

77.1.1
 だから、あたかも自分になじみの土地であるかのように、絶えずヘリコーンの地に立って言う。

77.2.1
いで告げたまえ、オリュムポスに宮しき居ますムーサたちよ、
ダナオイ勢を率いる大将、またその頭領方はいかなる人々であったかを。〔Il. ii_484, 487〕

77.3.1
 あるいは、また、アガメムノーンの武勇を語り始めるとき、三体の神々〔ゼウス、アレース、ポセイドーン〕に姿の似るこの英雄を讃えようとして。

77.4.1
いで告げたまえ、オリュムポスに宮しき居ますムーサたちよ、
先ず一番先にアガメムノーンに面と向かってきた者は誰であったか。〔Il. xi_218〕

77.5.1
 ところが、驚くべきこの男プラトーンは、すこぶる美しい作品『パイドロス編』の中で、エロースに関する思慮深い分類を始めるにさいし、大胆にも、ちょうどロクリス人アイアースが、至聖の女神〔アテーナー〕のパルテノンの中で〔した〕ように、ムーサたちのちょっとした供え物を潅ぎかけながら、この思慮深い女神たちに、ふしだらな行為の援助者として呼びかけたのだ。

77.6.1
ムーサたちよ、声澄める(liguvV)、(とは歌の種類ゆえにでしょうか、それともリギュスという音楽的な種族ゆえにこの綽名を貴女方は持っておられるのでしょうか)、どうぞ「我を助け給わんことを」、この神話を語るにつきまして。〔Pl. Phdr. 237A〕

77.7.1
 「何について?」とわたしは云いたい、おお、これは吃驚仰天のプラトーンよ。天や総体の自然についてなのか、それとも、大地や海についてなのか?
77.8.1
いや、太陽や月についてでもなく、さまようことなきもの〔恒星〕た惑星の運動についてでもない。
77.9.1
いや、この祈りの行き着くところは何か、わたしは言うのも恥ずかしい。

77.10.1
 大変美しい少年が、というよりむしろ若者がおった。で、彼には非常に大勢の愛者がいた。ところがそのうちのひとりはこすくて、誰にも劣らず恋していながら、恋してはいないのだという風にその少年に思いこませたのだ。そうしてある日彼に求めて言った……。〔Platon, Phaedurus 237B〕

77.11.1
 こういうふうに剥き出しの眼で、あたかも屋根の上に置くかのように、放埒をさらけだして、事柄の恥ずべき性質を、体裁よく隠すことさえしなかった。

ホメーロスの徳と、プラトーンが受けた罰

78.1.1
 そういう次第で、尤もなことだが、ホメーロスの言葉は英雄たちの生であるのに対し、プラトーンの対話篇は若衆たちへの恋である。

78.2.1
 そして、ホメーロスにおいては全体が高貴な徳に充ちている。
78.3.1
思慮深いオデュッセウスに、勇敢なアイアース、慎み深いペーネロペー、どんな時でも義しいネストール、父に孝行なテーレマコス、友情において誠実このうえないアキッレウス。
78.4.1
 こういうものの何が、プラトーンの哲学にあるだろうか? もっとも、諸々のイデアのものものしいさえずり、弟子アリストテレースに笑われたそれが、高価で有益であるとわれわれが謂うのなら、話は別である。
78.5.1
 それゆえ、わたしが思うに、ホメーロスに対する言葉に匹敵する罰を受けたのだろう。

放縦な舌を持ったという、醜態このうえない病。〔E. Or. 10〕

タンタロスのように、カパネウスのように、その他の、舌の締まりのなさのゆえに無量の禍いに陥った連中のように。

78.6.1
 零落して僭主の〔館の〕門を訪れことしばしばで、自由人の身で奴隷の運命をその売り立てまでも甘受した。
78.7.1
 というのは、スパルタ人ポッリスを知らない者は一人もなく、また、リビア人の憐れみのおかげで救われたが、廉価な人足奴隷のように、その値段は20ムナであったと〔知らない者もひとりも〕いない。
78.8.1
 それも、ホメーロスに対する不敬の廉で、轡なし・閂なしの舌のおかげで、負うべき罰だったのだ。

工ピクー口スとホメーロス

79.1.1
 さて、プラトーンに対してはもっと言うこともできるが、ソークラテースの派の知恵の名声をはばかって、やめておこう。

79.2.1
 だが、パイアーケス人の哲学者エピクーロス、自分の菜園における快楽の耕作者、とくにホメーロスだけではなくすべての詩作術を星々によって推測するこの人物は、はたして、この世に伝えた唯一の教えすら、恥知らずにも、それと知らずにホメーロスから盗んだのではないか?
79.3.1
例えば、アルキノオス〔パイアーケス王〕のもとでオデュッセウスが、演技で、思慮を働かせずに虚言したことを、真実をいっているとして、人生の目的だと表明した。

79.4.1
饗宴に与る者がことごとく、館の内に、次第よろしく
座について、伶人の声に聞き惚れる、こうした状態に立ちまさって、
心床しくありがたい姿は外にあるまいと存ずるのです、
この楽しみは、この上もなく結構なものと、胸にも深く心得ます。〔Od. ix_6-7, 9〕

79.5.1
 オデュッセウスがこう言うのは、トロイア人たちのところで武勲を挙げる者としてではなく、トラーキアを劫掠した者としてではなく、「蓮の実喰い」たちのところの諸々の快楽をやり過ごして航行する者としてでもなく、最大のキュクロープスよりさらに大きな者としてでもなく、
79.6.1
 全地を踏破し、オケーアノスの海を渡航し、まだ生きながらにハーデースを目撃した男、
79.7.1
 それを言っているのは、このオデュッセウスではなく、ポセイドーンの怒りのを僅かな残骸、ひどい嵐がパイアーケス人たちの憐れみを得るべく打ち上げた男である。
79.8.1
 受け入れてくれた人々の間で価値ありと認められている事柄、これを是認するのはやむを得ない。
79.9.1
 彼がいだく祈りはひとつ、これを彼は不遇のうちに祈る。

パイエーケスの中にいっては、愛と情けをかちえますように。〔Od. vi_327〕

劣悪に為されても、これを教えによってよりよくすることができない事柄、これこそ、必要上、是認せざるを得なかったことだった。

79.10.1
 ところが、エピクーロスは、無学さから、オデュッセウスのかりそめの強制を、人生のドクサと解し、パイアーケス人たちのもとでの最美と彼が表明した事柄、これをおごそかな菜園に植えこんだのである。

79.11.1
 だから、エピクーロスをして立ち去らしめよ。わたしが思うに、彼は身体についてよりも、魂についてもっと多くの病に冒されているであろうから。
79.12.1
しかし、ホメーロスの知恵の方は、あらゆる時代が神的と崇め、時が進むにつれて、あの人の恩恵は新しくなり、彼のために祝福の舌を開かない者は一人としてない。
79.13.1
 われわれは皆、等しく、彼の精霊的な詩句の神宮であり、僕なのだ。

彼奴らには好きなままに身を尽くさせろ、アカイア勢中一人や二人だ
違った意見を立てるというのは — どうせそいつが成就されることはあるまい。〔Il. ii_346〕

2014.02.14. 訳了。


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