Caxton本 | ローマ字本 |
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イソップが財宝を発見したこと。 エクサントゥスとイソップはある古代人の大きな墓所で、段を四つ登ったところに、文字を一見意味もなく並べた銘文を刻んだ柩を見つけた。それはラテン語で、A/B/DO/ct/H/cHとあった。エクサントゥスはこの意味が分からず、イソップに、「解読してくれ」と言った。イソップが「もし私が財宝を見つけましたら、褒美に何をくださいますか」と聞くと、エクサントゥスは「おまえに自由な身分と財宝の半分をやろう」と答えた。そこでイソップは四つの段を下りて、墓柱の根元を深く掘った。すると財宝が見つかった。イソップは主人に先の約束を果たすよう求めた。彼は、その前にどうして財宝があることが分かったのかを教えよ、と言った。イソップは答えた。「並んだ文字はAscende(登って[下りて])gradus(段を)istos(この)quatuor(四つの)fodias(掘れ)/et(そうすれば)inuenies(汝は発見するであろう)thesaurum(宝を)auri(黄金の)の意味だからです」エクサントゥス「おまえは賢いからまだ自由の身にはさせんぞ」イソップ「先生、この財宝は王者のものです。これらの文字は、『汝が見つけた宝はディオニシウス王に捧げよ』をも意味していますから」エクサン卜ゥス「この財宝の半分をおまえにやるから、誰にも教えるな」イソップ「先生は私に何も与えることはできません」エクサントゥス「どうしてそれが分かるのだ」イソップ「続く文字がそれを示しています。すなわち、E/D/Q/I/T/Aとは、Euntes(立ち去る者たちよ)dimitte(置いて行け)quem(ところの)inuenistis(汝らが発見した)thesaurum(宝を)auri(黄金の)と読めますから」しかしエクサントゥスはイソップに、「家へ帰って、宝を分けよう」と言った。 |
ある時、シヤント(Xantho)エソポ(Esopo)を連れて墓所(はかどころ)へ赴かるるに、その所に棺(くわん)のあったに、七つの文字(もんじ)を刻うだ。それといふは、ヨ、タ、ア、ホ、ミ、コ、オ、これぢゃ。エソポ(Esopo)シヤント(Xantho)に言ふは、「殿は学者でござれば、この文字をば何と弁へさせらるるぞ」と。シヤント(Xantho)しばらく工夫をせらるれども、さらに弁へられいで、「この棺は上古(しやうこ)に作ったれば、文字今は弁へ難(がた)い。汝知らば言へ」と言はれた。エソポ(Esopo)は元よりその字面(じめん)をよう心得て、シヤント(Xantho)に言ふは、「我はこの謂(いはれ)を弁へてござる。この所に過分の財宝がござる。それを現はしまらしたらば、何(なに)たる御恩賞にか預からうぞ」と。シヤント(Xantho)この旨を聞いて、「汝これを現はすにおいては、普代のところを赦免して、その上に財宝半分を与へうずる」と約束せられた。その時エソポ(Esopo)、文字の謂(いはれ)を読み現いて申すは、「ヨといふは、四つといふことぢゃ、タといふは、たんとといふこと、アとは、上(あが)らうずるといふ義、ホといふは、掘れといふこと、ミとは、見よといふ義、コとは、黄金(こがね)といふ義、オといふは、置くといふ義ぢゃ」と判ずれば、掘ってみるに、文字のごとく、過分の黄金(わうごん)が見えた。シヤント(Xantho)これを見て、貧欲(とんよく)がにはかに起こって、エソポ(Esopo)に約束を違(たが)へうとせられたれば、またその奥な石に五つの文字があったを、エソポ(Esopo)が見て言ふは、「所詮この黄金(わうごん)をばシヤント(Xantho)も取らせられな。その故は、ここにまた石に五字書いてござる。それといふは、オ、コ、ミ、テ、ワとあった。この心は、オといふは、置くといふ義、コといふは、黄金(こがね)といふ義、ミとは、見付くるといふ義、テといふは、帝王といふ義、ワといふは、渡し奉れといふ義でござる。しかれば、この宝は国王に捧げうずる物ぢゃ」と言うたところで、シヤント(Xantho)大きに驚いて、ひそかにエソポ(Esopo)を近付け、「このことが外(ほか)へ聞えぬやうにせい。家に帰って、その配(わ)け分(ぶん)をば与へうず」とばかり言はるれば、エソポ(Esopo)普代の赦しの取沙汰はなかったによって、シヤント(Xantho)に向うて言ふは、「この金(かね)を下さるることは、恩に似て恩でない。子細はさうなうて叶はぬことぢゃ。右のお約束のごとく、普代のところを赦させられいでは曲がない。たとひ、当時はいろいろに仰せらるるとも、時刻をもって、是非に本望を達せうずる」と申した。 |
イソップが牢から解放されたこと。エクサントゥスが彼に自由を与えることを約東したこと。 エクサントゥスはイソップの知恵に感心したが、イソップの自由の要求については腹を立て、イソップが口外することを恐れて、彼を牢に入れた。しかし、「自由の身になりたければ、黙っていよ」と言って、彼をすぐ釈放した。 |
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〔既出〕 | ある時シヤント(Xantho)を知音(ちいん)のもとへ請待(しやうだい)したに、その座でシヤント(Xantho)妻のことを思ひ出(い)だし、エソポ(Esopo)を呼び寄せ、座敷にあった珍物(ぶつ)を取り揃へて、「これはいづれも賞翫(しやうくわん)の物ぢゃほどに、持って行(い)て、わが秘蔵(さう)大切にする者に食(しょく)させい」と言はるれば、エソポ(Esopo)これを聞き、女房のことを言はるるとは分別したれども、かの人の、エソポ(Esopo)に当たり様(ざま)が悪うて卑しめらるるによって、どこでがな返報をせうと思ひゐる時分であったによって、「折に幸ひぢゃ。今この時返報をせいでは、いづれの時日(ときひ)を待たうぞ」と思ひ、空とぼけしてかの雑餉(ざつしやう)を持ってシヤント(Xantho)の家に帰り、シヤント(Xantho)のいかにも秘蔵せらるる小犬があったを女中の前に呼び出し、かの雑餉をその犬に供へて(食はせば、ただも食はせいかし)「いかにもよう聞け。汝をシヤント(Xantho)の深う大切に思はせらるることは、並ぶかたがないぞ。その証拠はこれぞ」と言うて食はせ、やがて馳せ帰り、シヤント(Xantho)に向うて、「仰せのごとくに仕った」と返事をしたところで、シヤント(Xantho)言はるるは、「さて、それを受け取ってから、何(なん)ともそれは言はなんだか」と問はるれば、「何をも申すことはござなかったれども、心の中(うち)には、一段と深い御(ご)大切のほどを喜ぶ体(てい)が、見えてござった」と申した。 さて、その後(あと)に、女中はこのことをつくづくと案じて、妬みの心が起こり、「さても曲もないわが夫(つま)かな。犬にも我を思ひ換へらるるかな。かの珍物をば我にこそ贈られうことが本義ぢゃに、さはなうて、何(なん)ぞよ、今の犬にくれ様(やう)は? このやうな人を今は夫と頼うでも何(なに)にせうぞ? 取って退いて、この恨みを思ひ知らせうずるものを」と思ふ心が付いた。 さうあるところへ、シヤント(Xantho)帰宅して女中に向うて、例のごとく言葉を掛けらるれども、かつて女房は返事にも及ばずつっくすんでゐたが、腹こそ立っつらう、「いかにシヤント(Xantho)、お聞きあれ。そなたと我は縁こそ尽きつらう。今よりしては夫(をっと)とも頼みまらすまい。また妻とも思はせらるるな。我に当たる財宝をば暇(いとま)として賜うれ。わが代りには先に雑餉を贈りあった犬から寵愛せられさせられい」と言ふによって、その時シヤント(Xantho)このことを聞いて胆(きも)を消し、「これは何事ぞ? さても心得ぬことかな! これは定めて例のエソポ(Esopo)が業(しわざ)によって、かくのごとくぢゃ」と思ひ、女中に言はるるは、「いかに妻、ただし御身も我も酔狂か? 夢とも現(うつつ)とも覚えぬものかな! 先の雑餉をばそなたにこそ贈ったれ。別には誰にもやらぬものを」と言はるれども、女房衆(しゆ)はこれを真(まこと)に受けいで、「それは今こそさ仰せらるるとも、一円その分ではなかった。ただ犬にこそ」と言ふによって、エソポ(Esopo)を呼び寄せ、「先の饋(おくりもの)をば誰に与へたぞ」と問はるれば、エソポ(Esopo)居直り申すは、「それは、こなたの御大切に思はせらるる者に渡いてござる」と答へ、犬を呼うで、「これこそ御身を大切に思ふ者なれ。なぜにといふに、女は夫(をっと)を大切に思ふと言へども、真実ではござない。それによって、少しも気逆(ざか)ひのことがあれば、口答(くちごたへ)をし、腹を立て、身の炎(ほむら)を燃(もや)いて謗り廻って、なほ足(た)んぬせねば、取って退(の)いて、そちはそち、こちはこちと振舞ふ者ぢゃ。さりながら、犬は打っても叩いても、口答もせず、謗らず、取って退くこともござらず、やがて立ち直れば、尾を振り、足もとに来て舐(ねぶ)りつき、噛(かぶ)りつきして、主人の気を取るものでござるほどに、大切の者と仰せらるるは、平生御秘蔵なさるるこの犬のことでござらうずると存じて、先の物を渡いたは某が僻事(ひがこと)でござるか? その上、上様(かみさま)へ遣はさるるならば、明らかに上様へと仰せられいで、ただわが大切に思ふ者と仰せられたによって、かくのごとく仕った」と申した。その時、シヤント(Xantho)妻に向うて、「さればこそ、お聞きあれ。わが誤りではなかったは。ただ使ひをした者の聞き違(ちが)へであった。また聞き違へなれば、折檻するにも及ばぬことぢゃ。とかく理を曲げて堪忍めされい」と言へども、少しも承引せいで、けんもほろろに言ひ放いて親類のもとへ行ってのけた。 そこでエソポ(Esopo)シヤント(Xantho)に言ふは、「ようこそ先(さき)は申したれ。御覧(らう)ぜられい。犬は捨てまじいけれども、上様は捨てさせられてこの分にござる」と言うたれども、シヤント(Xantho)はえ思ひ切らいで、親類を頼うで、「再び帰り合はれい」と妻を頼まるれども、これにも同心せねば、シヤント(Xantho)は思ひの余りに、既に気を煩はせらるるやうにあったによって、そこでエソポ(Esopo)が申すは、「少しも御(ご)気遣ひあられそ。たやすうお中(なか)を直しまらせうずる」と言うて、その手段(てだて)を巧(たく)んだ。それといふは、まづシヤント(Xantho)に銀子(ぎんす)を乞うて、町辻を廻って買物をしたが、かの妻の籠り居(ゐ)られた家の辺(あたり)へ行って、「ここもとに雁(がん)や鴨はないか? 買はうず」と言うて、どしめくによって、その女房の親類これを見て、「何事なれば、けしからぬ肴道具の買ひ様ぞ」と怪しむれば、エソポ(Esopo)が言ふは、「いやさてはまだ御存じないか? 某が頼うだ人はこの比(ごろ)婦夫争(めうといさか)ひをめされたによって、女房衆(しゆ)の取ってお退(の)きあったを種々に佳びらるれども、つひにお聞きあらぬによって、『今ははや為方(せんかた)ない。世に女房はあればかりか、余(よ)の妻を迎へう』と言うて、既に婦(よめ)入りが今明日(こんみやうにち)の中(うち)にある。さるによってこそ、この肴をも調へ歩け」と真(まこと)しやかに言ふによって、かの人家(いへ)に走り帰ってしかしかと語れば、女房これを聞いて、「げにそれはさぞあるらう。かうしてゐるさへ腹の立つに、わが眼の前で、別の妻などを持たせてはあられうものか? とかく余の女房をシヤント(Xantho)の家へ入れ立ててはなるまい。ただ行(い)け」と言ひさまに、取るものも取りあへず、走りぢだめいて家に帰り、「いかにシヤント(Xantho)、わがまだ生きてゐる中に、別の妻をば何(なん)としてお持ちあらうぞ? 思ひも寄らぬことぢゃ。叶ふまじい」と言うて、その時に及うで、人も直さぬ中を直られた。エソポ(Esopo)が業(しわざ)をもって中を違(たが)はれたごとく、またエソポ(Esopo)が巧みをもって中直りせられた。 |
さて、ちょうどそのとき、サモスの都で不思議な出来事が起きた。市民らが集まって芝居を演じていたとき、突然二羽の鷲が人々の間を通り抜け、サモスの都の全権のシンボルたる指輪形の印章をさっと奪うと、それをある自由民のふところに落としたのであった。市民らはサモス第一の賢者とうたわれていたエクサントゥスにその意味を尋ねたが、彼は答えられず、沈欝な面持ちでいたところ、イソップが「私に答えさせてください。明朝サモスの市民たちに『私の家には謎を解くことができそうな賢い奴隷がいますので、よろしければ登場させます』とおっしゃってください」と言った。エクサントゥスはそのとおりにした。 かくしてイソップが登場し、裁判官の席に着くと、人々はその醜い姿を見て嘲った。するとイソップは手で一同に静粛を合図し、こう言った。「みなさんはなぜ私を笑うんですか。人は外見でなくその知恵に注目せねばなりません。汚い徳利にもしばしば美酒が詰まっているものです。さて、今日主人と家来の間に争いが起きました。たとえ私が勝っても、報酬はもらえないのです。また、私の主人が勝てば、彼の奴隷である私は自由を得ることができず、打たれ、罵られ、牢に入れられます。ですから、私が確信をもってあなたがたに発表できますように、私を解放してください。そうしてくだされば、私はこの前兆の意味をお教えいたします」市民たちは一斉に、「イソップの要求は正当だ」と叫んだ。しかしエクサントゥスはこれを拒んだ。すると市長が出てきてエクサントゥスに、「そなたが市民の声に従わなければ、余の権限でイソップを解放させる」と言った。 | ある時、またサモ(Samo)といふ所に大法会(だいほふゑ)の儀があって、高いも卑しいも群集(くんじゅ)する。その場に所の検役が坐せられたに、鷲一つ飛んで来て、かの守護の環(ゆびがね)を含んで、いづくとも知らず飛び去ったところで、その座にあり会(や)うた万民これを怪しみ、「これは只事(ただこと)ではない」と言うて、法会の儀式も興醒(さ)めて、各々このことを僉議するのみであった。地下(ぢげ)の宿老・若輩の者まで、「この義はシヤント(Xantho)より外に知る人があるまじい」と言うて、その旨をあひ尋ぬれば、「このことは浅からぬ不審ぢゃほどに、思案をして答へうずる」と言うて家に帰り、心を尽くいて案ずれども、さらに弁ゆる道がなかったによって、案じ煩うてゐらるる体をエソポ(Esopo)見て、シヤント(Xantho)に問ふは、「何事を案じさせられて、悲しませらるるぞ」と言へば、シヤント(Xantho)、「我このほど案じ煩ふことはこれぢゃ」とあって、かの一篇を語って、「汝これを弁へたか」と言はるれば、エソポ(Esopo)、「しからば、この里の会所で、『わが郎等(らうどう)このことを弁へたれば、召し出(い)だいてお問ひあれ』と仰せられい。某申し当てたならば、諸人(にん)御身を崇敬(さうきやう)いたさうず。もし申し損ずるとも、私一人(いちにん)の不覚でこそござらうずれ」と言へば、「この儀もっともぢゃ」とあって、シヤント(Xantho)所の人々にその分申さるれば、各々大きに喜うで、エソポ(Esopo)を召し出(い)だすに、その座に列なるほどの人、「さても、これほど醜い者はどこから出たぞ」と笑ひ合(や)うたれば、エソポ(Esopo)少しも臆した気色(しょく)もなう、諸人の中を臆(お)めず憚らず、踏み越え踏み越え、さし通って高座に直り、「只今各々私を欺かせらるることは、その謂(いはれ)がない。破れた衣裳を服(き)た君子もあり、藁屋の中(うち)に貴人(にん)の坐せらるることもあるもの」と言へば、各々「道理ぢゃ」と言うて、もの言ふ者もなかった。その時エソポ(Esopo)、「只今某鷲の子細を申さうとすれども、人の下人として、主君の前で自由にもの申すことも憚りなれば、この座にわが主(しゆう)シヤント(Xantho)のござることなれば、ほしいままに申されぬ。只今わが普代のところを赦免あらば、その因縁を談ぜうずる」と言うた。されども、シヤント(Xantho)少しも同心なうて、「かつてあるまじいことぢゃ」と蜂を払はれたれども、所の守護あながちに赦免を乞はるるによって、力に及ばいで、万民の前で「今(こん)日よりはエソポ(Esopo)に暇(いとま)を取らするぞ」と言はれた。その時、エソポ(Esopo)「只今の音声(おんじゃう)は澄みやかに諸人の耳に落ち難(がた)い」と言うて、別人(にん)をもってシヤント(Xantho)の言葉のごとくに高声に叫ばせ、さてその後(のち)三戸(さんこ)をしづめさせて、鷲の子細を述べた。「かの鷲守護の環を奪ひ取ることは、余の義ではない。鷲は諸鳥の王ぢゃ。他の国の帝王からこの里を押領せられ、その勅命の下(した)にならうずるといふ義ぢゃ」と言うて去った。それよりやがて、リヂヤの国のケレソと申す帝王より勅使を立てられ、「その里から年ごとに過分の貢(みつきもの)を捧げ奉れ。この勅諚を背かば、ことごとくを攻め取られうずる」との儀であった。これによって所の人々「この勅諚を背くまじい」と口を揃へて同音に、議定(ぎぢやう)、こと終ってあった。されども、年長(た)けた人々は「まづエソポ(Esopo)に談合(だんかふ)してお返事を申さうずる」とあって、「いかに」と問へば、エソポ(Esopo)答へて言ふは、「一切人間のナツウラ(Natura)の教へには、自由を得うことも、または人に使はれうことも、その身の分別にあることなれば、只今某いづれを取らせられいとは申すに及ばぬ。ともかくも惣並(そうな)みに任させられい」と申した。そこで、所の人々エソポ(Esopo)に智恵を付けられ、各々その分別をないて、「貢(みつきもの)を捧げうことは、その謂(いはれ)がない」と言うて、勅諚を背くによって、勅使帰ってこの由を奏し、「ただ義兵をもって攻めさせられうことも難(かた)からうず。その子細は、かの所にエソポ(Esopo)といふ学者が一人(にん)居住仕る。これを召されぬほどならば、たやすう攻め伏せられうことは難うござらうず」と申せば、重ねて勅使を立てさせられ、「その所に居住するエソポ(Esopo)を参らせい。しからば、貢(みつきもの)を赦させられうず。エソポ(Esopo)を参らせぬならば、大軍をもって攻めさせられうず」と仰せられた。その時、その里の人々は、まづその難を遁れうとて、エソポ(Esopo)を奉らうずるとの談合半(なかば)であったところに、まづその身に「いかが」と問へば、警へを述べて言ふは、「昔鳥獣(とりけだもの)のものを言うた時、狼(おほかめ)羊をくらはうとすれば、羊はその難を遁れうとて、犬を雇うて警固させた。その時狼が心に思ふやうは、『武略をもって誑(たぶら)かさうにはしくまじい』と。羊に向うて言ふは、『面々の傍(そば)に置かれた犬どもを渡し与へらるるならば、今より以後汝らに害をなすことはあるまじいぞ』と。羊はこれを真(まこと)かと心得て、すなはち犬を渡しやれば、その時狼、元より巧んだことなれば、まづ犬どもを生害して、その後(のち)羊をくらひ果いた」と言ひ終って、かの勅使と連れて、リヂヤの国へ赴いた。 |
エソポ(Esopo)ほどなうリヂヤ(Lidia)の国に罷り着き、ケレソ(Cresso)のお前に祇候いたせば、国王エソポ(Esopo)を叡覧あって、「さてもかかる見苦しいやつが所為をもって、サモ(Samo)の者どもわが命を背いたか」と大きに怒(いか)らせられたれば、その時エソポ(Esopo)叡慮を察して、謹んで「いかに帝王の中(なか)の帝王にてござる御身、少しのお暇を下されば、奏聞申さうずることがござる」と申せば、すなはちお赦しを下された。その時エソポ(Esopo)が述ぶるところの警へには、「ある貧者螽(いなご)を取らうずると行く路次(ろし)において、蝉を見付け、すなはちこれを取って殺さうとするところで、かの蝉の申すやうは、『さりとては、我を殺させられうこと本意(ほい)ない儀ぢゃ。それをなぜにと申すに、五穀草木に障りとはならず、さしては人にも仇(あた)をなすことはござない。結句梢に上(のぼ)って囀りをもって夏の暑さを慰めまらするところに、理不尽に殺させらるることは何事ぞ』と、事 を分けて申せば、その者道理に責められて、たちまち赦免いたいた。しからば、古への蝉と只今の某は、少しも隔てがござない。私は惣じて人に仇を仕らず、ただ道理の推すところを人に教ゆるばかりでござる。道理を守る時は、天下も太平に、国土も安う穏やかに、民の竈(かまど)も賑ふことは常の法でござる。私はこの道を教ゆるより外、別の犯しもござない。お赦しなされば、国・里をあまねく徘徊いたさうずる」と奏すれば、国王この奏聞を感じさせられて、「汝に咎(とが)がない。天道もこれを赦させらるれば、我もまた赦免するぞ。その外所望あらば、申し上げい」と仰せらるれば、「某別の願ひもござない。ただ一つの望みがござる。それと申すは、わが久しう居住仕ったサモ(Samo)において、人の被官となっていろいろの辛労を仕るところに、その里の人々暇(いとま)を乞ひ受けて、自由を得させられたれば、いかでかこれを報謝(ほうじゃ)仕る志がなうてはござらうぞ? 仰ぎ願はくは、かの所へ仰せ掛けられた貢(みつきもの)を赦させられば、比類もない御恩でござらうずる」と奏すれば、帝王その優しい志を感じさせられて、「御赦免なさるる」と仰せられたれば、 | |
それから一巻(いちくわん)の書を作って帝(みかど)へこれを奉ったれば、叡感斜(なのめ)ならいで、過分の財宝にサモ(Samo)のお赦しの綸旨を添へて下されたれば、エソポ(Esopo)これを戴いて、おびたたしい船を飾りたて、これに乗ってサモ(Samo)ヘ渡海すれば、サモ(Samo)の万民この由を聞き、上下万民喜び身に余り、足の踏みども覚えいで、馳走奔走をして、結構に船を飾り、舞楽を奏し、糸竹(いとたけ)を調べ、宗旨(むねと)の老若(らうにやく)迎ひに出て、かのエソポ(Esopo)を賞(もてな)いた。さてこの船ども湊に着けば、宮(くう)殿楼閣を飾りおいた高い台(うてな)に上(のぼ)って言ふは、「そもそも、この所の人々わが身を自由になさせられた、その御恩賞の忝なさを、いつの世に忘れうぞ? その御恩を報ぜうために、この度リヂヤの国王の勅札をここに持って参った」と言うて、綸旨を開いて高らかに読めば、その所の守護を始めとして、老若男女喜びの眉を開き、安堵した有様は、真(まこと)に警へを取るに例(ためし)もないほどにあったと申す。 | |
この後イソップは、外国に遊んで説話や寓話によって民衆を教化しようと、サモスを後にした。彼はバビロニアへやって来た。そしてその知恵によって、パビロニア王リクルスに歓迎された。当時諸国の王は互いに難問を出し合って楽しんでいた。そして解答が分からない王は、設問した王に貢ぎ物を送ることになっていた。イソップは数多くの寓話を作り、それらをリクルスが諸国の王に送った。彼らは誰もその意味が解けずに貢ぎ物を送ってきた。かくて王国は増大し、大きな富を貯えるにいたった。 | その後(のち)エソポ(Esopo)諸国へ渡り、道を説き教ゆれば、バビロニヤ(Babilonia)といふ大国のリセロと申す帝王、このエソポ(Esopo)を寵愛あって、忝なくも御身近う召し置かせられた。その比(ころ)諸国の帝王より互に不審の勅札を送り、その不審を開かねば、あるほどの宝を奉らるる形儀(かたぎ)がござった。しかれば、バビロニヤ(Babilonia)ヘ諸国から掛くる不審をば、エソポ(Esopo)が智略をもってたやすう開いてやり、バビロニヤから掛けらるる不審をば、他国から開くことが稀にあったと聞えた。さあれば、バビロニヤ(Babilonia)は元より大国といひ、智略といひ、国の勢(いきほひ)も他に異にあって、国も福有に、民も豊かに、帝王の誉れも四海に仰がれさせらるれば、エソポ(Esopo)もまた官・位(くらゐ)に進むることも斜(なのめ)ならなんだ。 |
さて、イソップには子がなかったので、エヌスというある貴族の息子を養子にした。ところがエヌスはほどなく、イソップの侍女で妻でもあった女と密通した。そしてイソップの仕返しを恐れて、イソップを反逆罪で訴えた。そして王に、イソップが諸国の王に送った寓話が、王を裏切り、王の死を謀ったものである旨の偽手紙を見せた。 | されども、エソポ(Esopo)はまだ子孫を持たなんだによって、エンノ(Enno)といふ官人(くわんにん)の子を養子(やしなひご)と定めて、やがてこの由を申し上げ、その身の惣領と披露した。ある時エンノ(Enno)罪を犯すことがあったところで、「もしこのことをエソポ(Esopo)が知らば、定めて奏聞申さうず。その時は悔ゆるとも、かひがあるまじい」と思うて、謀(はかりこと)をないて謀(ぼう)書を作り、「エソポ(Esopo)この比(ころ)野心を企て、他国へ移り、この国を傾けうと仕る」と国王へ奏した。されども帝王この由を聞かせられて、実否(じつぷ)をいまだ決しさせられなんだれば、かねてエンノ(Enno)巧みおいたことぢゃによって、「ここに証跡(しようぜき)がある」と申して、一つの巻物を捧げた。帝王これを御覧ぜられて、「今は疑ふところもない」と仰せられ、エルミッポ(Ermippo)といふ臣下に仰せ付けられて、「罪科に行(おこな)へ」との儀であった。エルミッポ(Ermippo)すなはちエソポ(Esopo)を召し禁(いまし)めて、心中(ぢゆう)に思はるるは、「さても、世上に名を得たこの学者を殺さうことは本意(ほい)ない。所詮身に罪を蒙るといふとも、命を継がうずる」と思ひ定め、ひそかにある片脇な棺(くわん)に入れておき、「既に誅罰つかまった」と奏聞せられてあった。さて、かのエソポ(Esopo)が跡式をば、論ずる者もなう、かの養子(やうじ)がこれを進退(しんだい)いたいた。 バビロニア王がイソップを最高の地位に上げる旨の命令を発したこと。また、イソップが自分の養子の罪を許したこと。 リクルス王は、エヌスの訴えを真に受けて激怒し、へロぺなる執事に、イソップを死刑にせよ、と命じた。しかしへロぺはこの判決が不当であることを見抜いて、イソップを密かに墓室にかくまった。イソップの財産はすべて息子に没収された。 |
それからしばらくたって、エジプト王ネクタナプスが、イソップは死刑に処せられたと考えて、リクルス王に難問を出した。それは、「天にも地にも触ねないような塔を建てたいから、石工を送ってほしい」というものであった。王は困りはて、悲しみのあまり地に倒れ伏し、ィソップを死刑にしたことを悔いた。へロぺがこれを知り、イソップを墓室にかくまってきたことを告白した。王は狂喜して起き上がり、イソップをすぐ連れてくるように命じた。イソップが来た。彼は青白く、やつれ果てていた。王はイソップに新しい服を着せた。イソップは王の前に出ると、どうして自分を獄に投じたかを尋ねた。王はエヌスの告訴によることを明かした。王は父の死を謀ったエヌスを厳罰に処するよう命じた。しかしイソップはエヌスを許してほしいと願い出た。さて、王はエジプト王がよこした難題をイソップに教えた。イソップは、冬が過ぎたら塔を建てる者を派遣する旨の返事を書いてほしい、と王に言った。王はエジプト王に使節を送った。その後で、王はイソップに全財産を取り返してやった。そして彼を最高の地位に上げ、自分の息子を自由に罰する権限を与えた。 | さて、エソポ(Esopo)は死去した由が、隣国は申すに及ばず、遠い国までも隠れがなかったところで、エヂツト(Egypto)の国のネテナボ(Nectenabo)と申す帝王、エソポ(Esopo)が逝去したといふことを聞かせられ、「さあるにおいては、不審を掛けられうずる」とあって、不審の条々を書き送られた。その趣(おもむき)は、「今我、天にも地にも付かぬ宮(くう)殿楼閣を、一つ建立せうとの望みぢゃ。願はくは、その国から作者一人(にん)を遣はされ、不審の様(やう)をも開かせたらば、何(なん)の幸ひかこれにしかうぞ? このことが成就いたさば、これより毎年宝の車を贈らうず。さないものならば、その方より毎年宝を賜はれ」と書かれた。さうあるところで、リセロ(Lycero)この不審を聞かせられて、国中(こくちゅう)の学者・宿老どもを召し寄せられ、このことを「いかに」と問はせらるれども、一人(ひとり)として明らめ申す者がなかったによって、帝王御(おん)心を悩まさせられ、歎いて仰せらるるは、「国を亡ぼし、家を破ることは人を失へば、とある言葉、今身の上に知られた。何(なん)たる天魔波旬がわが心に入り替って、かのエソポ(Esopo)を害したか? 賢王は勝れたる臣下の亡ぶることをば、手足(てあし)をも[手偏+宛]がるるごとくに惜しがるとあるも、これらのことであらうず。エソポ(Esopo)さへもあるならば、この不審をたやすう開き、わが誉れをも輝かし、国の智略をもあげうずるに。悔ゆるにかひない越度(をつど)をした」と御(おん)涙を流させらるれば、 |
エルミッポ(Ermippo)この由を見奉り、「いかに君、かのエソポ(Esopo)を成敗いたせと宣旨(じ)を下された時、あまり本意なさに、ある棺に入れ置いてござれば、まだ存命仕ることもあらうずる」と奏すれば、帝王大きに感じ喜ばせられて、エルミッポ(Ermippo)に取り付かせられ、「汝我に王業を再興した。ひとへにこの国の世を治め、民を撫づることは汝が分別に残った」と仰せられて、喜びのお涙を流させられ、「急ぎエソポ(Esopo)を召し寄せい」と仰せらるるによって、エソポ(Esopo)再び死せいで蘇生仕り、参内いたすは不思議ぢゃ。元より数月(すげつ)棺の中(うち)に籠り居たことなれば、姿も衰へ、衣冠も弊(やつ)れて、いとどその様は見苦しうなったところで、国王この姿を御覧なされて、「衣冠を改め、罷り出(で)よ」と仰せらるるによって、いかにも束帯(そくたい)ひちぎって罷り出(づ)れば、すなはちかのエヂット(Egypto)よりの勅札を見せさせられた。エソポ(Esopo)これを披見して、しばらく案じて申したは、「これはさらにむつかしい不審でもござない。『冬過ぎて、その造営のために、作者をも遣はし、または不審の条々をも開いて以て参らうずる』と仰せ返されい」と奏すれば、すなはちその返事をさせられたと申す。 | |
エジツト(Egypto)よりの不審の条々 エソポ(Esopo)国王に奏するは、「ギリホ(Gripho)〔ギリシア語"gryps"、ラテン語"gryphus"〕といふ大きな鳥を四つ生捕って、かの鳥の足に籠を結(ゆ)ひ付け、その籠に童(わらんべ)を入れ置き、鳥の餌を持たせ、さし上げば鳥も上に上(あが)り、下げば鳥もまた下(さが)るやうに習はせて、かの四つの鳥の上に、その造営をいたさうずる」と言うて、エソポ(Esopo)はエヂットに赴(おもむ)いた。〔以下の一段は、次の「エソポ(Esopo)養子に教訓の条々」の後に来るべき内容だが、ローマ字本ではここに入っているか。〕かの国の人どもエソポ(Esopo)を見て、笑ひ嘲ることは限りがなかったれども、エソポ(Esopo)はこれをものともせず、内裏に参って、国王を礼拝(らいはい)して畏ったを、国王御覧(らん)ぜられて、「さて高楼の作者は何(なん)と」と問はせらるれば、「各々召し具してござる。いづれの所に建立(こんりふ)仕らうぞ」と奏すれば、所を指(さ)いて教へさせられたところで、国土の貴賎上下(じやうげ)見物せうと出(で)立つこと限りもなうて、あまっさへ帝王・后(きさき)までも車を立て並べて、ここを先途(せんど)と見物させられたに、エソポ(Esopo)は、かねて巧んだことなれば、件(くだん)のギリホ(Grypho)を四所(よところ)に置いた。その時、帝王「作者は誰(たれ)ぞ」と問はせらるれば、籠の中(うち)な童が参って、一方の手には鳥の餌を持ち、ま一方には泥饅(こて)を取って、かの鳥の餌をさし上げたれば、かの鳥遥かに飛び上った時、童「いづくのほどに、かの御造営をばあらうぞ」と言へば、rその辺(へん)に建てい」と仰せらるれば、童答へて申すは、「しからば、石と土とを運ばせられい」と言へば、上(かみ)一人(いちにん)より下(しも)万民返事につまって、もの言ふ者もなかったによって、エソポ(Esopo)が才智のほどを大きに讃められ、帝王も臣下も、その外下々(したじた)の者どもも、「この人を師とせずは、誰人(たれびと)か師にせうぞ」と、感じ合はれたと申す。 |
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だがイソップは養子を自分の家に呼び戻し、優しく説諭した。彼はこう言ったのである。「息子よ、私の戒めをようく心にとめておくがいい。おまえは人間ゆえ、運命に従わなければならない。それゆえまず第一に神を愛せ。そして王の怒りを招かぬようにせよ。人間である以上、人事に関心を持て。悪者は神が罰してくださるからである。他人に害を加えるのはよくない。だが、おまえの敵に対しては残酷であれ。おまえの味方に対してはにこやかであれ。味方には幸福を、敵には不幸を願うべきだからである。妻には優しく話せ、彼女が他の男を求めないように。なぜなら女は非常に移り気であり、妻は夫におだてられたり優しい言葉を掛けられたりすれば、浮気をしたくなくなるからである。冷酷非情な者と付き合うな。そのような者はたとえ富み栄えていても、卑しい者である。耳を塞げ。口を慎め。多弁を控えよ。他人の財産を羨むな。家族に愛されたくば、面倒をよく見てやれ。道理に反することをするのは恥と思え。毎日怠ることなく学べ。妻に秘密を明かすな。財産を浪費するな。なぜなら、生きている間に貧窮して乞食をするよりも、死後に財産を残すほうがいいからだ。道で会った者には笑顔で挨拶せよ。犬でさえ、知っている者には尾を振って愛敬を振りまくではないか。何びとをも嘲るな。たえず知識を学べ。借金は快く全部返せ、そうすれば後で相手がおまえに喜んで貸してくれる。助けてやれる者に援助を拒むな。悪い仲間と付き合うな。友人には自分の仕事について教えよ。後で後悔するようなことはするな。逆境に出合ったら、じっと辛抱せよ。宿無しを泊めてやれ。よい言葉は罪悪の薬である。よい友人が得られる者は幸せである。なぜなら、どんな秘密もいつかはばれるからである」 | エソポ(Esopo)養子に教訓の条々。 子に向うて申すは、「汝たしかにこの義を聞いて耳に挟め。人によい理(ことわり)を教ゆるとも、その身に守らずは、木賊(とくさ)の物を滑らかに磨いて、己は麁相なごとくぢゃ。また天道(たう)の私ないことをかがんみ、万事を謹み、天に跼(せくぐま)り、地に蹐(ぬきあし)する心を持て。人は万物の霊長であるぞ。それによって、人と万物の差別(しやべつ)を置かずは、鳥類・畜類に同前ぢゃ。このやうな者には天罰遠うはあるまじい。万事について難儀難艱出来(しゆつらい)せうず。それを心から堪忍せい。その堪忍をもって、万事ことごとく心に叶はうず。親しいをも疎いをも分たず、平等に笑ひ顔を人に現(あら)はせ。妻に心を許すな。平生異見を加へい。惣別女は弱いによって、悪には入りやすう、善には到り難(がた)いぞ。樫貧放逸な者を友にすな。悪人の威勢富貴を羨むな。道理の上からでない時は、富貴はかへって成り下(さが)る基(もとゐ)ぞ。わが言はうずる言葉を押し止(とど)めて、他人の言ふことを聞け。言語(ごんご)に邪(よこしま)なかれといふ轡(くつわ)を常に含め。乱れがはしうものを言ふことを本(ほん)とするところでは、なほその嗜みに緩(ゆるかせ)をすな。よい道を修(しゆ)せうずるには、人口外聞を憚るな。学文(もん)をせいで心の至るといふことはないことぞ。我より下(した)の者に崇敬(そうきやう)せられうよりも、上(かみ)たる人に諌めらるることを喜うで、交りをなせ。大事を妻に洩らすな。女は智恵浅う、無遠慮なによって、他に洩らいて仇(あた)となるぞ。凡下(ぼんげ)の者を卑しめ侮(あなど)るな。かへって憐愍(れんみん)を加へい。これは、すなはち、天のお憐みを蒙る道ぞ。万事を勤め行はぬ前(まへ)に、心を尽くいて思慮を加へい。極悪の人に異見をなすな。病眼(やみめ)のためには、日の光がかへって仇にならうず。病者(びやうじや)は良薬(らうやく)を服(ふく)して癒(い)え、犯人(ほんにん)は異見を受けて善人ともなるぞ」。 |
エヌスがイソップの許を去り、自殺したこと。 イソップにいろいろと諭された後、エヌスは父親をいわれなく告訴したことを悔いて、イソップの許を去った。そして悲しみに満ちて高い山に登り、頂から身を投げて自殺した。邪悪な人生は不運な結末を迎えるのである。 |
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さて、イソップは鷹匠たちに、四羽の雛鷲を持ってこさせると、自分で鷲を調教した。彼はそれぞれの鷲の足に二人の子供を結わえつけ、子供が餌を上げたり下げたりするにつれて、鷲も餌を求めて舞い上がったり、舞い下りたりするようにしたのである。このような準備をして冬を越すと、イソップはリクルス王に暇乞いをして、鷲と子供を連れてエジプトへ行き、王の面前に出た。王はイソップがせむしで片輸なのを見て、バビロニア王が自分を馬鹿にしたと考えた。汚い徳利にも美酒が詰まっているということを思いつかなかったのである。イソップは王の前に脆いて、謹んで挨拶し、王を太陽に、その家来たちを日光にたとえて讃えた。 イソップが、エジプト王がパビロニア王に出した難題を解いてみせたこと。 エジプト王はイソップの賢い答えぶりに感心し、「わしの塔を建てる者たちを連れてきたか」と尋ねた。そしてイソップを広い野原へ案内して、「わしはここへ塔を建てたいのじゃ」と言った。イソップは野原の四隅に子供を二人結わえた鷲を一羽ずつ置いた。子供が餌を空中に捧げた。すると鷲は舞い上がりはじめた。ついで、子供は「塔を建てるための煉瓦と材木とタイルを持ってきてください!」と叫んだ。王はこれを見て、イソップの賢さに降参した。 |
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ついで王はイソップに言った。「ではこういう問題を解いてくれ。わしがギリシアから取り寄せた牝馬はバビロニアの牡馬の助けで孕むが、なぜか」イソップは「明日お答いたします」と答えた。イソップは宿へ帰ると、召使に、「大きな猫を一匹捕まえてきてくれ」と言った。召使がそうすると、イソップは人々の前で猫を鞭で打たせた。エジプト人たちは急いでこのことを王に報せた。イソップはただちに呼び出された。王は言った。「おまえは知っているはずだ、われわれが崇めている神は猫の姿をしているということを。おまえは大それた罪を犯したのだ」イソップ「この性悪者は、昨晩バビロニア王にひどい悪さをしたのでございます。こ奴めは王が可愛がっていた雄鶏を殺したからであります。その雄鶏はいくさに強く、夜は定刻に時をついていたのであります」王はイソップに「おまえがこんな大嘘つきだとは思わなかったぞ。この猫がどうして一晩でバビロニアまで行って来れたのだ」イソップはにやりと笑い、こう答えた。「王様、同じように、パビロニアの牡馬もこの国へ来て、あなたの牝馬を孕ませるのでございます」王はイソップの賢さを大いに讃えた。 | ネテナボ(Nectenabo)帝王、エソポ(Esopo)に御不審の条々。 「ゲレシヤ(Gre?ian)の国からあまたの雑役を引き寄せたが、バビロニヤの国に駒が嘶へば、必ずこの国の雑役が胎(はら)むことがある。その心は何(なん)と」と問はせらるれば、エソポ(Esopo)、「この答話をば明日(みやうにち)言上仕らうずる」とて、わが宿に帰り、エソポ(Esopo)その夜、家の猫を散々に打擲(ちやうちやく)せられたところで、エヂット(Egypto)の国はゼンチョ(Gentio)〔異教徒〕で、猫を崇敬(そうきやう)するによって、旅宿の亭主がこの由を奏聞すれば、叡慮を悩まされ、エソポ(Esopo)を召して、「汝はなぜに猫を打擲するぞ」と問はせらるれば、エソポ(Esopo)申すは、「バビロニヤ(Babilonia)の禁中の鶏を、この猫が夜前(やぜん)くらひ殺いたによって、不肖ながらも、某はリセロ帝王の臣下一分(いちぶん)でござれば、打擲仕った」と申せば、エヂット(Egypto)の帝王聞かせられて、「遥かの境なバビロニヤ(Babilonia)ヘ、何(なん)としてこの猫が一(いち)夜の中に往来(ゆきき)をせうぞ」と仰せらるれば、「御馬屋(おんうまや)に召し置かれた雑役が、バビロニヤ(Babilonia)の駒の嘶ふを聞いて、胎(はら)うでござるごとく、かの猫も往反仕った」と奏すれば「奇特な答話ぢゃ」とあって、感じさせられたと申す。 |
翌朝、王は国じゅうの学者たちを呼び寄せて、イソップと知恵比べをさせた。ある学者が言った。「大きな神殿に大きな柱が一本ある。その柱は十二の都市を支えており、それぞれの都市は三十の大きな帆で覆われており、その上を二人の女が走りつづけている。これは何か」イソップ「そんな問題はパビロニアでは幼児でさえ答えられます。神殿は天であり、柱は地です。十二の都市は十二か月、三十の帆はひと月の三十の日、二人の女は昼と夜です」 | かくて、エヂット(Egypto)の帝王国家の学匠を召して、「エソポ(Esopo)に不審をなせ」と仰せ下さるるによって、ある学匠一人(にん)進み出でて問ふは、「大伽藍の中(うち)に柱ただ一本あって、その上に十二の在所がある。その在所の棟木(むなぎ)は三十ぢゃに、この柱から二人(にん)の女房上(のぼ)っつ下っつするは、何(なん)としたことぞ」と言へば、エソポ(Esopo)答へて言ふは、「これらの不審は、我らが国には女(をなご)・童(わらうべ)などの口号(くちずさみ)でござる。まづ大伽藍とは世界のことなり。一本の柱とは一年(ねん)のこと、十二の在所とは十二月(つき)のこと、三十の棟木とは三十日のこと、柱から二人(ににん)の女が上り下りするといふは、昼夜(ちうや)のことよ」と、目算もなうざっと言うて出(だ)いた。 |
次の学者がイソップに言った。「われわれが見たことも聞いたこともないものとは何か」イソップは宿へ戻ると、偽の証文を書いた。それはネクタナブス王がリクルス王に金貨千マルクを借りており、それを指定の期日に返却することを約束した内容であった。イソップはこの証文を翌朝王に届けた。王はひじように驚き、貴族たちに、「おまえたちはリクルス王がわしに金を貸したのを見たり聞いたりしたことがあるか」と尋ねた。彼らは「ございません」と答えた。イソップは言った。「これであなたの問題は解けました。見たり聞いたりしたことのないものを、あなたは見たり聞いたりしたからです」王は、イソップのような家来を持つバビロニア王はなんたる幸せ者かと言って、イソップに多くの贈り物を与え、パビロニア王への貢ぎ物とともに彼をパビロニアに帰したのであった。 イソップがバビロニアに帰ったこと。王がイソップを讃える黄金の像を建てさせたこと。 イソップはパビロニア王の許へ戻り、エジプトでしてきたことの一部始終を物語った。そこで王はイソップを称えて、黄金の像を広場に建てさせた。 |
又一同に各掛くる不審には、「天地始まってからこの方(かた)、まだ見聞かぬものは何ぞ?」イソポが申すは、「某只今家に帰らうず、その暇(いとま)を下されい」と申し、家に帰り、イソポ一紙を調(ととの)へて帝王へたてまつつた。その理(ことわり)はリセロ帝王から借らせられた三十万貫の借(しゃく)状であった、帝王これを御覧(らう)ぜられて大きに驚かせらるる体(てい)で、諸臣下に「汝らはこの儀を見聞いたことが有るか」と問はせらるれば、各「曾てもつて見聞かぬことでござる」と、申せばその時イソポ「しからば只今の御不審はそれをもって啓けてござる」と申して、イソポは暇を乞うて罷り帰れば、あまた その身にも数多(あまた)の宝を下され、パピロニヤへも宝の車を贈り下された。イソポこれを受け取ってパビロニヤへ帰り着いて、ェジツトからの宝の車を奉り、かの国での事どもを委しう奏聞すれば、斜(なのめ)ならず喜ばせられた。 |
その後まもなく、イソップはギリンアへ行きたくなり、王に許可を願い出た。王は悲しんだが、イソップがかならず帰ってきて王と生死をともにする旨誓ったので、出国を許可した。イソップはギリンアのすべての都市を旅して歩き、寓話を語って知恵を示したので、ギリンア全土でたいへんな評判になった。彼は最後に、ギリンアで最も有名な地方デルポイへやってきた。 | その後エソポ(Esopo)、バビロニヤ(Babilonia)の帝王に暇を申し、諸国修行と志いて、まづゲレシヤ(Gre?ia)の国に行いて、諸人に道を教へ、同じくその国の中(うち)なデルホス(Delphos)といふ島へ渡り、教化するといへども、 |
しかしデルポイの市民は嫉みからイソップを軽蔑した。イソップは彼らに言った。「みなさん、あなたがたは海中の丸太のようなものです。遠くから見れば何か立派なものに見えますが、近くに寄って見ればつまらぬものです。同様にあなたがたも、私が遠方にいたときは、ギリシアで最良の人たちと思いましたが、来てみれば最悪の人たちでした」デルポイ人はこの言葉を聞いて、会議を聞き、ィソップがいると自分たちの権威が失墜すると思い、彼を殺す方法を考えた。ちょうどイソップの召使が旅立ちの準備をしていた。彼らはイソップの旅嚢の中にアポロの神殿の金杯をこっそりひそませた。そしてイソップがデルポイを出発するやいなや、彼らは彼を聖物盗のかどで捕まえた。 | この島の人悪逆無道(ぶたう)にして、理非善悪も聞き入れなんだれば、かの島を出(づ)るに臨うで、島中(しまぢゆう)の悪人ども僉議して言ふは、「エソポ(Esopo)は聞ゆる学匠ぢゃに、ここを去って我らが悪名(みやう)を言はば、この島の瑕瑾であらうず。ただ殺せ」と言うて、エソポ(Esopo)が荷物の中(なか)に黄金(わうごん)を入れておき、路次で追(お)っ懸(か)け、荷物の中からこの黄金を探し出し、盗人と言ひ掛けて、すなはち籠者させ、 |
イソップが裏切られたこと。また、彼がデルポイ人らに鼠と蛙の話をしたこと。 イソップは盗みを否定したが、旅嚢の中から盗品が出てきた。イソップは彼らの陰謀と知り、もはや逃れられないと分かると、おのが不運を悲しんで泣いた。デマスという友人が、元気を出したまえ、と彼を慰めた。 |
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デルポイ人らは、イソップは死刑に値するとして、彼を高い山に連れていき、頂から突き落とすことに決めた。イソップはこの宣告を聞き、彼らを翻意させるべく、次の寓話を語った。「昔、動物たちの間には平和がありました。鼠と蛙は仲良く暮らしていました。鼠は蛙を食事に招き、次は蛙が鼠を食事に招きました。そして鼠に、『川を無事に渡れるように、君の足を僕の足に繋ぐといい』と言いました。こうして鼠は蛙と足を繋いで川に入りました。鼠は溺れそうになりました。そして言いました。『僕を殺すとは君もひどいことをするものだ。だが生き残っている者が君に仕返しをするだろう』こうして両者が引っ張りっこをしていると、鳶が飛んできて、両者を捕まえて食べてしまいました。同様に、おまえさんたちも不当にも私を殺そうとしていますが、バビロニアとギリシアの人々がおまえさんたちに復讐するでしょう」しかしデルポイ人らはイソップを釈放しなかった。そしてイソップを山頂へぐいぐい引っ張って行った。 | つひにはエソポ(Esopo)を山上に連れて行けば、最後と心得て、警へを述べて言うたは、「諸々の虫どもが無事に参会をした時、別して鼠と蛙(かいる)、いかにも親しう言ひ合はせた。ある時鼠のもとに蛙を招いて、種々の珍物を揃へて饗(もてな)いたところで、その後また蛙も鼠を饗さうずるとて、招き寄せ、川のほとりに出て言ふは、『わが私宅はこのほとりぢゃ。定めて案内を知らせられまじい』とて、鼠の足に縄を付けて、蛙水の中に飛び入(い)ったれば、鼠も引き入れられ、命の終りと思うて言うたは、『さても蛙は情もなう我をたばかり、命を絶つものかな! 我こそ滓(みくづ)となり果つるとも、後(あと)に残る一族ども、いかでか汝を安穏(あんのん)に置かうぞ』と、互に浮いつ沈うづするところに、鳶といふ猛悪人(じん)『これこそ究竟(くきやう)の所望なれ』と言うて、宙に掴うで飛び上り、二つともに裂きくらはれた。そのごとく、わが只今の有様はかの鼠に少しも劣らぬ。我面々に珍物のごとくな道を教ゆれども、その返報には命を失はるる。我こそ空しう果つるとも、バビロニヤ(Babilonia)とエヂット(Egypto)の人々我を深う愛せらるれば、この儀はただは果されまいぞ」と言ひ終れば、高い所から突き落いて、殺いてのけた。 |
イソップが死んだこと。 イソップは彼らに抵抗した。そして彼らの手を逃れてアポロの神殿に逃げ込んだ。だがすべては無駄だった。彼らはイソップを引きずり出し、処刑の場所へと引っ張って行った。イソップはこのひどい仕打ちに、次のような語をした。 「ある女に頭の弱い生娘がありました。母親は神々に、娘に知恵をお授けください、と何度も祈りました。この娘はあるとき畑へ行きました。そこには袋に小麦を詰めている男がいました。彼女が『何をしているのですか』と聞くと、男は『知恵を袋に詰めているんだよ』と答えました。彼女は言いました。『どうか私の体にも知恵を少し入れてください。そのお礼は母がしますから』すると男はただちに彼女を捕まえて、その腹に知恵を入れました。つまり彼女の処女を奪ったのです。娘は喜んで母親の許へ帰ってきました。そして『お母さん、立派な若者がいて、私の体に知恵を入れてくれたんですよ』と言いました。母親はこれを聞いてひどく悲しみ、娘にこう言いました。『娘や、おまえは知恵をもらったんじゃないよ。持っていた知恵をなくしたんだよ』」 イソップはまた、こういう話をした。「昔、若いときから年を取るまで、畑にばかりいて、都会へ一度も出たことのない農夫がありました。彼は主人に、一度都会を見物に行かせてほしい、と頼みました。人々は彼を荷車に乗せ、ロバに引かせて行かせました。するとひどい嵐が起きて、ロパは正しい道を見失って、荷車を山へ引いていきました。そして嵐に視界を奪わて、ロバも荷車も彼もみんな谷底に落ちてしまいました。この老人は落ちて行きながらジュピターにこう言いました。『ジュピター様、私が罪を犯したためにこのように不幸な死に方をしなければならないとしましても、この役立たずなロバのせいで死ぬのはとても残念です。これが美しい馬だったらよかったでしょうに』同様に私も、正しい人たちでなく、おまえさんたちのような不正な者たちによって処刑されようとしているのです」 さていよいよイソップが突き落とされる場所へ来ると、イソップはまたひとつ話をした。「ある男が自分の娘に惚れて、力ずくで娘を辱めました。娘は父親に言いました。『娘の私にこんな恥ずべきことをしたとは、あなたは何たる悪者、愚か者でしょう。私はこの暴行を、血のつながったあなたでなく、百人もの他の男から受けたほうがましでした』私も同じです。おまえさんたちのようなならず者でなく、立派な人たちによって殺されたかったです。しかし私は神々がおまえさんたちを罰してくださることを祈ります」そこで彼らはイソップを山頂から谷底へ突き落とした。かくてイソップは哀れにも死んでしまったのであった。 |
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デルポイ人らが彼らの神に犠牲を捧げたこと。そしてイソップの霊を慰めるために神殿を建立したこと。 イソップが処刑されると、デルポイの都はひどい疫病と飢饉に見舞われた。彼らは途方に暮れて、イソップの霊を慰めるべく、アポロに犠牲を捧げた。そしてイソップ殺害が不当だったとして、彼らは神殿を建立した。一方、ギリシアの王侯たちはデルポイ人らがイソップを殺害したという報せを聞いて、イソップを不正にも惨殺した彼らを罰すべく、デルポイへやってきたのであった。 |
その後(のち)エソポ(Esopo)が申したに違(ちが)はず、このことがゲレシヤ(gre?ia)に隠れがなかったによって、その国から人数(じゆ)を率(そつ)し、デルホス(Delphos)ヘ渡って、そのことを糺し、皆討ち果いてのけられたと申す。 〔以下、「エソポが作り物語の抜き書」の部となる〕 |