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Hellenica Oxyrhynchia

――オクシュリュンコス出土のギリシア史パピルス断片――



[解説]
 1906年、エジプトはOxyrhynchiaに発見されたパピルス断片の中に、土地検分の結果を記載する一種の公文書の裏面に、ギリシア史が書かれていることがわかった。これは発見者(B.P. Grenfell と A.S.Hunt)の手によって、"The Oxyrhynchus Papyri"の名で公刊された(1909年)。

 この断片は、二種の異なる書体で書かれており、編者によってA・B・C・Dの4つの部分に分かたれた。それぞれは連続しておらず、長さも不同である。

 諸々の断片を集めても、およそ900行にしかならないが、資料的価値は極めて高いと言われる。扱われているところは、前396年から395に及ぶギリシア世界の諸情勢である。

[底本]
TLG 0558 002
Fragmenta Londinensia(P. Oxy. 5.842)
ed. V. Bartoletti,
Hellenica Oxyrhynchia. Leipzig: Teubner, 1959: 6-37.
(Pap: 5,378: Hist.)





"t".1.1.
FRAGMENTA LONDINENSIA
(P. Oxy. 842)


"A".6.1.
 同じころ、三段櫂船〔1艘〕が、民衆の承認なしに、アテーナイから出航したが、この船の主はデーマイネトスで、この一件について、ひそかに評議会と意を通じていたと言われているが、それは、市民たちのなかに彼に組みする者がいたからであるという。その市民たちといっしょに、彼はペイライエウスに下ってゆき、船倉から船を進水させ、船出して、コノーンのもとに航行した。

"A".6.2.
 その後で、しかし騒ぎが起こった――アテーナイ人たちのうち、名の知れた優美な人たちが憤慨して、ラケダイモーン人たちとの戦争を始めて、国家を破滅させる気かと言ったので、評議員たちはその騒ぎに驚倒し、この一件には何も関与していないようなふりをして、民衆を招集した。かくて、大衆が集まると、アテーナイ人たちのうち、トラシュブウロスやアイシモスやアニュトス一派の人たちが起って、国をこの責任から解き放たなければ、大きな危難を引き起こすことになろうと彼らに教えた。

"A".6.3.
 ところで、アテーナイ人たちのうち、貴顕層や財産を持っている者たちは、現状に満足していたのだが、多衆や民主派の人たちは、この時は(tote men)恐れをなし、動議提案者たちに聴従し、アイギネーの総督(harmostes)ミローンのもとに使いをやり、デーマイネトスは国の承認なしにこの挙に出たゆえ、これを罰してもよいと言いやった。それまでは、ほとんど間断なく、事態を紛糾させ、ラケダイモーン人たちに逆らっていた彼らがである。

"A".7.1.
 じっさい、武器や漕手たち(hypereiai)を、コノーン麾下の艦隊に送り届けていたのは彼らであり、某クラテースやハグニアスやテレセーゴラスの一派は、〔ペルシア大〕王に使節団として派遣されていたのであった。この使節団を、前艦隊指揮官パラクスが逮捕し、ラケダイモーン人たちのもとに送致し、これを彼らが処刑したことがあった〔前397年秋頃〕。

"A".7.2.
そのために彼らは反目したのであるが、これを扇動したのは、エピクラテースとケパロスの一派であった。というのは、この一派は、もともと、国を戦争に巻きこむことにことのほか熱心であって、〔ロドス人〕ティモクラテースと折衝して金を受けとったからというのではなくして〔Hell. III.V_1〕、すでにはるか以前から、そういう考えをもっていたのである。とはいえ、たしかに、彼〔ティモクラテース〕の金が、アテーナイ人たち、ボイオーティアの人たち、その他前述の諸都市の人たちを結束させる原因となったと言う人たちがあるが、その人たちは知らないのである――彼らがみな、昔からラケダイモーン人たちに敵愾心を持ち、自国を戦争に巻きこむ機をうかがっていたのだということを。すなわち、アルゴス人たちとボイオーティア人たちとがラケダイモーン人たちを……憎んでいた所以は、市民の反対派をこそ友邦として〔ラケダイモーン人たちが〕遇したからであり、アテーナイにある一派は、アテーナイ人たちを平静と平和から引き離し、戦争と干渉に引き込み、それによって公事から自分たちに金儲けができることを欲していたからである。

"A".7.3.
 また、コリントス人たちのうち、現状の変革を求める人たちとは、他の人たちはアルゴス人たちやボイオーティア人たちと似たり寄ったりで、もともとラケダイモーン人たちに敵愾心をいだいていたのであるが、ティモラオスだけは、彼らとは異なり、個人的な不満が原因で、以前は〔ラケダイモーン人たちとは〕最も仲がよく、格段にラケダイモーン贔屓であったことは、デケレイア戦争当時の出来事からわかるとおりである。

"A".7.4.
 すなわち、彼〔ティモラオス〕は、時には、艦船5艘を率いて、アテーナイ人たちの支配下にある艦船を何艘か破壊し、時には、三段櫂船2艘を伴ってアムピポリスに上陸し、かの地の人たちから4艘を別に完全艤装して海戦して、アテーナイの将軍シミコスに勝利し、前にもどこかで述べたとおり、敵の三段櫂船5艘と、彼ら〔アテーナイ人たちが〕派遣していた艦船30艘を拿捕した。その後、……三段櫂船を率いて、タソスに上陸して、この島をアテーナイから離反させたのである。

"A".7.5.
 とにかく、前述の諸都市の一派は、パルナバゾスとその金のせいでというよりは、はるかにもっとこのことが原因で、ラケダイモーン人たちを憎む気になっていたのである。

"A".8.1.
 対して、アイギネーの総督ミローンの方は、アテーナイからの知らせを聞くや、三段櫂船を完全艤装して、急遽、デーマイネトスを追跡した。彼〔デーマイネトス〕は、このときたまたまアッティカのトリコス〔区〕近辺にいた。

"A".8.2.
そして相手〔ミローン〕が……向かって直航し、……襲撃しようとしたときには、〔デーマイネトスは〕はるか遠くに……進発したあとだった。しかも、〔デーマイネトスは〕相手勢の艦船1艘を制圧し、配下の船は船体が劣悪であったので、この船体を捨て、自艦の船員たちを相手の船に乗り移らせて、コノーン麾下の部隊に向け、先頭切って航行した。ミローンの方は、なすところなく、自分の艦船とともにアイギナに引き返した。

"A".9.1.
 この冬、ヘッラスに起こったことのうち、最も強烈だったのは、以上のごとくにして起こった。そして夏が始まると、[……
……]8年目に入り[……
……]三段櫂船を[……
かの地に上陸させ[……
……]常に[……
船渠を建造していた[……
……]敗北したところに[……
……]パルナバゾスは[……
……]到着することを望み[……
……]そして報酬を受けとり[……

"A".9.2.
……彼は同所に……、他方、ラケダイモーン人たちとその同盟者たちの艦隊に、ラケダイモーンから到着したのは、艦隊指揮官のポッリスで、アルケライスの後継者として艦隊指揮の任に就いた。同じころ、ポイニクス人たちとキリキア人たちの艦船90艘がカウノスに来着し、このうち10艘はキリキアからの来航、残りの艦船は
[……]彼らのうちのシドーン人の
権力者は……王に……同じ地方の住人に
……艦隊指揮について。パル
ナバゾスは……
指揮に関することを
……軍陣を。

"A".9.3.
 コノーンの方は、
……察知して、収容し
……三段櫂船を完全艤装して
……できるかぎり速やかに、いわゆるカウノス河を
カウノス湖に乗り込んだ
……パルナバゾスとコノーンの
……ペルシア人〜ペルネースは[……
……]事態、彼は……
……で受けとりたいと望み……
……???友好を……
……大王のもとに派遣した……
……彼の書簡を……
……通達を……
desunt versus 25

"A".10.1.
〔5行、判読不能〕

"B".11.1.
 ……がある……
……馬〔騎兵〕たちのうち……
……、一部の者たちは……
……そこで、〜は……
……こういうふうに……
……

"B".11.2.
 他方、アゲーシラオスの方は……
……軍陣を……
……カユストロス平野に……
……山脈……配備し……
……この地に再び……
……こういうふうに機先を制して……
……軍陣……
……

"B".11.3.
 ティッサペルネースは……
ヘッラス勢を追撃し、……騎兵は
1万...千、陸戦隊は……
...万を下らぬ数。対してアゲーシラオスは……
ヘッラス勢よりはるかに優勢な敵勢の突撃を防ぐのは難しいと考え、
……
そして……用兵術
……戦闘する……
……部隊……対して非ヘッラス勢は、
……
ヘッラス勢を見て、……前進もならず、
……軽視……
彼ら……部隊……突撃
都市の外に……
……下知し……
ペロポンネーソス人たちと同盟者たちを……繰り出す……
……ヘッラス勢が……眼にして、……
……いつも……
……同様に……
……より接近して……
……ほかならぬ河に……
……というのは、どちらも……
……前進して……
……
部隊……

"B".11.4.
 対して、アゲーシラオスの方は、……
……
部隊……
……
準備し……
分断し、
……
評議し……
……
知って……
夜間、……
重装歩兵……、裸兵500を……、指揮官としてスパルタ人クセノクレースをこれに任じ、別動して……ということが起こったら、戦端を開くよう下知した。……
……夜明けと同時に起こし、部隊を再び奥地へと引率した。対して非ヘッラス勢は、例によって追随し、そのうちのある者たちはヘッラス勢に突撃し、ある者たちは騎乗してそのまわりを取り囲み、ある者たちは平野を戦列も組まずに追尾した。

"B".11.5.
 他方、クセノクレースは、敵勢に襲いかかる好機と見て、ペロポンネーソス勢を待ち伏せから立ち上がらせ、駆け足で突進させた。非ヘッラス勢は、ヘッラス勢が駆けつけるのをめいめいが眼にしたので、平野を四方八方に敗走した。アゲーシラオスは、相手勢が恐れをなしたのを見て、これを追撃するため、部隊から、将兵たちのうちの軽装備兵と騎兵を派遣した。彼らは、待ち伏せから起った者たちといっしょになって、非ヘッラス勢に追い討ちをかけた。

"B".11.6.
 しかし、敵を追尾したものの、あまり長時間はかけなかった――〔敵の〕多数が騎兵であり裸兵であったため、これに追いつくことができなかったからである――、とはいえ、相手のおよそ600を斃し、追跡はやめにして、非ヘッラス勢の陣地そのものに進軍した。そして、本気になって配置していなかった見張りを取り押さえ、すぐに攻略し、敵の多くの糧食、おびたただしい人員、多数の調度や財産――他の者たちのもティッサペルネース本人のものも――を獲得した。

"B".12.1.
戦闘がこういう結果になったので、非ヘッラス勢はヘッラス勢に恐れおののき、ティッサペルネースともどもサルデイスまで撤退した。対してアゲーシラオスは、同所に3日間駐留し、この間に、休戦の申し出を受けて屍体を敵に引き渡し、勝利牌を立て、全地を破壊した上で、部隊を再び大プリュギアに先導した。

"B".12.2.
 行軍を続けたが、そのさい、もはや将兵たちに方陣の編隊を組ませることなく、彼らが望む土地に押し掛け、敵たちをひどい目に遭わせること(kakos poienin)を許した。対してティッサペルネースは、ヘッラス軍が進軍を続けていると聴いて、再び非ヘッラス人たちを動員したが、相手の後方から何スタディオンもの距離を保って追尾するのみであった。

"B".12.3.
 アゲーシラオスの方は、リュディア人たちの平野を通過し、リュディアとプリュギアとの中間にある山脈を通って……遠征軍を引率した。そして、この山脈を通過したのち、ヘッラス軍をプリュギアに下らせ、ついにマイアンドロス河に到達した。この河は、水源をカライナイ――プリュギア最大の都市――に持ち、プリエーネー……で海に注ぎ込んでいた。

"B".12.4.
 ペロポンネーソスとその同盟軍を宿営させ、彼〔アゲーシラオス〕は、この河を渡るべきか否か、また、ケライナイに前進すべきか、それとも、将兵たちを再び引き上げさせるべきか〔を占って〕供犠を行った。しかし、彼の卜兆が美しくならない〔吉兆がでない〕ということになったので、到着した日はそこに駐留したが、次の日には部隊を……連れ戻した……
かくてアゲーシラオスは、……いわゆるマイアンドロス平野の方は、……

"B".13.1.
……。〔ペルシア大〕王の方は、……
……この者たちに関する……
……将軍を、しかし……と同時に……
……。ティッサペルネースに……
ヘッラス軍を……
……むしろ……
……。二重に……
……から……
……
ティッサペルネース……
アルタクセルクセース……
……
……
……
……
……大王はとりわけ……同意し……
ティッサペルネースと……によって……
なかでも、ティトラウステースが彼を……かぎりで
……彼はプリュギアとリュディアを……していたので、
……書簡を送り、
……アリアイオスに対してティッサペルネースは
……をとるよう命じ……
……
……しようとした
……ティトラウステース
……
……
……
……したときに……
……ティッサペルネースを派遣した
将兵たちの中で最も善勇の者たちは
……太守の地位に関することは、より危険がないと
……アゲーシラオスがマグネシア近辺にいるので
……陸戦隊と騎兵隊の……
互いに隔たって……
……望んで
……部隊
……

"B".13.2.
〔16行、判読不能〕

"C".14."1,C, Coll".
desunt versus XV

"D".15.1.
〔1行、判読不能〕
……毎日、武装した将兵を海岸で観閲したのは、安逸に流されて戦争に対して役立たずにならぬようというのは口実で、自分たちがそのとき武装してそこにいるのをロドス人たちが眼にして、〔ロドス人たちが支配者に叛乱〕事に着手するよう、その気にならせたいと望んでのことであった。そして、閲兵を眼にするのが誰にとっても馴染みのことにさせると、自分は三段櫂船のうち20艘を受けとってカウノスへと出航したが、それは、支配者たちの壊滅の場に居合わせないことを望んだからで、そのさい、ヒエロニュモスとニコペーモスとに、自分の補佐役として事態を管理するよう下知しておいた。

"D".15.2.
 その日、駐留した彼らは、いつものように、翌日の閲兵式に出席予定の将兵たちのうち、その一部隊は武装したまま港へ、もう一部隊は、アゴラの少し外れたところに引率配備した。かくて、ロドス人たちのうち、この作戦行動の共犯者たちは、事に着手する好機と判断するや、短剣を携えてアゴラに集まり、その中のドーリマコスが、石――伝令官が伝令を伝えることになっていたところ――の上に上り、できるかぎりの大声で叫んだ、「市民諸君」と彼はいった、「急ぎ、僭主どもに立ち向かおう」。残りの者たちは、彼が助勢を求めるや、短剣を持って支配者たちの会議場に押し入り、ディアゴラス一門ならびにその他の市民11人を殺害し、これをし遂げるや、ドロスの大衆を民会に集合させた。

"D".15.3.
 時あたかも、彼らが結集したとき、コノーンが再びカウノスから三段櫂船を伴って到着した。殺戮の実行者たちは、現行国制を解体して民主制を樹立し、市民のうちわずかばかりの者を追放刑に処した。かくて、ロドスの叛乱は、こういう結末をむかえたのであった。

"D".16.1.
この夏、ボイオーティア人たちとポーキス人たちとが戦端を開いた。彼らの敵対の理由は、とりわけてテーバイにある一部の者たちのせいであった。というのは、それまで、長年にわたって、ボイオーティア人たちは内乱状態に立ち至ったことはなかったからである。

"D".16.2.
 つまり、かつてのボイオーティアの事態は次のごとくであった。かつては、各々の都市に4つの評議会(boule)が定められていたが、この評議会に参加できるのは、市民全員ではなく、多額の財産を所有している者たちで、この評議会の各々が順番に首席を占め、事案を予審し、〔ほかの3つの〕評議会に回付し、全評議会で決議されることで効力を持つことになっていた。

"D".16.3.
私的な〔国内〕問題はこういうふうにして統治されていたが、ボイオーティア人たち〔全体〕のことは、次の仕方で調停されていた。この地の住民全体が11の部分に分割され、その各部が以下のようにしてボイオータルコス(boiotarchos)を差し出す。テーバイ人たちは4人を役割分担するが、〔このうち〕2人は、本国〔テーバイ〕を代表し、2人は、プラタイア人たち、スコーロス、エリュトライ、スカポス、その他、以前は彼らと同市民権を有していたが、当時はテーバイに併合された諸地方を代表。さらに2人のボイオータルコスを、オルコメノス人たちとヒュシアイ人たちが差し出し、2人を、テスピアイ人たちがエウトレーシス人たちおよびティスバイとともに、1人をタナグラ人たちが、さらにまた別のひとりを、ハリアルトス人たちとラバデイア人たちとコローネイア人たちが、各都市が順番に派遣し、同じ仕方で、アクライピオンとコーパイとカイローネイアから〔1人を〕送りこんだ。

"D".16.4.
 こういうふうにして〔11の各〕部が為政者たちを差し出した。そして、評議員も、ボイオータルコス1人につき60人を差し出し、この人たちの日当も彼ら〔ボイオータルコス〕が出費した。また出征も、各部に、重装歩兵およそ1000、騎兵100が課せられた。簡単に説明すれば、為政者を通して公事をも享受し、貢納もおさめ、裁判官たちをも遣わし、万事――悪しきことも善きことも――同等に参加したのである。かくて、この民族は全体がそういうふうに治められ、同盟会議(synedria)にも公儀(ta koina)にもカドメイアにおいて一堂に会させたのである。

"D".17.1.
ところで、テーバイでは、市民たちのうち、最善にして最も著名な人たちが、先にも述べたように、お互いに党争をしていた。その一派を嚮導したのは、イスメーニアス、アンティテオス、アンドロクレイダスで、もう一派〔を嚮導したの〕は、レオンティアデース、アシアス、コイラタダスであり、政事に携わった者たちのうち、レオンティアデースの一派は、ラケダイモーン人たちのことに心を寄せ、対して、イスメニアスの一派は、アッティカ贔屓との非難を被っていたが、それは、〔アテーナイの民衆派が〕亡命したとき〔前405/4年冬〕、民衆派に熱心であったとの理由からであった。実際は、彼らは、アテーナイ人たちに心を寄せたのではなく、
……
むしろ……を選んだのであって
……ひどい目に遭わせること(kakos poiein)をいさぎよしとしていた
……

"D".17.2.
 テーバイにある人たちが、以上のようなありさまであり、かつ、どちらの同志会も志操堅固であったので、……ボイオーティアの諸都市の人たちも多くが立ち現れ、彼らと同じように、いずれかの同志会に参加したのであった。権勢を誇ったのは、この時と、この少し前からは、テーバイ本国においてもボイオーティア人たちの評議会においても、アスメーニアスとアンドロクレイダスの一派であったが、それ以前は、アスティアスとレオンティアデースの一派が優勢で、久しきにわたって、権力で都市を牛耳っていた。

"D".17.3.
 というのは、ラケダイモーン人たちがアテーナイ人たちと戦争して、デケレイアで時を過ごしているとき、そして〔ラケダイモーン人たちが〕自分たちの同盟者たちの大軍を結集しているときは、この者たち〔ボイオーティア人たち〕はむしろほかの者たちより権勢を誇った、かつはラケダイモーン人たちが近くにあることで、かつは、彼らのおかげで都市が多くの善行を受けたことで。さらに、テーバイ人たちにいたっては、……アテーナイ人たちとラケダイモーン人たちとの戦争が勃発すると、……すみやかに繁栄の絶頂へと発展した。というのは、アテーナイ人たちがボイオーティアに造反し始めると、エリュトライ、スカパイ、スコーロス、アウリス、スコイノス、ポトニアイ、そのほかそういった、市壁をもたない多くの諸地方出身の人たちがここ〔テーバイ〕に集住し、テーバイを2倍にしたのである。

"D".17.4.
 いや、それどころか、ラケダイモーン人たちといっしょになって、デケレイアをアテナイに対する攻撃要塞とするや、なおはるかに〔テーバイの〕都市はより善く繁栄した。というのは、奴隷人足もそのほかのものも、戦争で略取したものはすべて、わずかばかりの代金で引き取り、アッティカ産の調度類も、近隣に住んでいたから、材木から住居用タイルをはじめとして、すべてを自分たちのもとに移動させたからである。

"D".17.5.
 当時、アテナイ人たちの領地は、ヘラスの中で最も豪華に整備されていた。というのは、ラケダイモーン人たちによって少し前から侵略を受けていたとはいえ、それでも〔領土は〕アテーナイ人たちによってふんだんに飾り立てられ丹精されていたあまりに、……彼らのもとでは、家屋は……
居住され、あるいは、他の人たちのもとで、……

"D".18.1.
 アンドロクレイダスとイスメニアスの一派は、この民族〔ボイオーティア人たち〕を対ラケダイモーン人たちとの戦争に巻きこむことに真剣であったのは、ラコーニア贔屓の連中を通して、ラケダイモーン人たちによって堕落させられないよう、彼ら〔ラケダイモーン人たち〕の支配権を解体したいと望み、他方では、その実行は、以下の点で容易だと考えたからである。つまり、非ヘッラス人から遣わされた男〔ティモクラテース〕が公約したとおり、〔ペルシア大〕王は金を提供するであろうし、コリントス人たち、アルゴス人たち、アテーナイ人たちは戦争に参加するであろう、なぜなら、この人たちはラケダイモーン人たちの敵であるから、自分たちと協同して市民たちが準備にするであろうと臆断したからである。

"D".18.2.
 しかしながら、現状について以下のことを熟考した結果、公然と彼ら〔ラケダイモーン人たち〕に叛乱を起こすのは難しいと考えた。なぜなら、テーバイ人たちもその他のボイオーティア人たちも、ヘッラスの支配者たるラケダイモーン人たちと戦争することを決して聞き入れないであろうから。そこで、次のような策を用いて、これを戦争に引き入れることに着手せんと、ポーキス人たちの一部を説得して、いわゆる西ロクロイ人たちの領土に侵入させた、彼らには、次のような敵対の理由があったからである。

"D".18.3.
これら両民族には、パルナッソス山麓に係争の地があり、これをめぐって、以前にも何度か戦争をしてきたが、ポーキス人たちロクロイ人たち双方とも、この地にしばしば放牧し、いずれかがこれを察知すると、そのときには相手方が多数集結して、その家畜を掠奪するを常としていた。それでも以前は、こういった多くのことが双方から引き起こされても、いつも裁判と話し合いによってお互いどうしで解決していたが、この時は、失った家畜の代償にロクロイ人たちが掠奪し返したので、ポーキス人たちは、あの者たち――アンドロクレイダスとイスメニアスの一派が手配した連中――が彼ら〔ポーキス人たち〕を扇動したために、武器をたずさえてロクリスに侵入したのであった。

"D".18.4.
 対してロクロイ人たちは、土地が荒らされたので、使節団をボイオーティアに派遣して、ポーキス人たちの弾劾をなし、彼ら〔ボイオーティア人たち〕が自分たちを救援するよう要請した。当時は、自分たちに対して常に友好的だったからである。そこで、イスメーニアスとアンドロクレイダスの一派は嬉々としてこの好機をとらえ、ロクロイ人たちを救援するようボイオーティア人たちを説得した。対してポーキス人たちは、テーバイからの知らせが自分たちにもたらされるや、この時はロクリスから一度撤退させ、ただちに使節団をラケダイモーン人たちのもとに派遣し、自分たちに領土にボイオーティア人たちが進攻するするのを禁止するよう彼ら〔ラケダイモーン人たち〕に要請した。彼ら〔ラケダイモーン人たち〕は、相手が信用できぬことを言っていると思ったけれども、それでも人を遣って、ボイオーティア人たちがポーキス人たちに対して戦争を仕掛けることは許さぬ、もし〔ポーキス人たちが〕何らか不正されていると認めた場合には、同盟者たちの前で彼ら〔ポーキス人たち〕に償いをするよう命じた。しかし相手〔ボイオーティア人たち〕は、この策と事態をたくらんだ連中が彼らを扇動したために、ラケダイモーン人たちの使節団はなすところないまま送り返し、自分たちは武器を採ってポーキス人たちの攻撃に向かった。

"D".18.5.
 かくてすぐさまポーキスに侵入し、パラポタミオイ〔「川沿いの人たち」の意。ポーキス北東、ケピソス河畔の都市〕、ダウリス〔パルナッソスの東山麓、デルポイの北東の都市〕、パノテウス〔同じくポーキスの都市〕の土地を破壊し、これら諸都市への突撃に着手した。そしてダウリスに襲いかかったとみるや、すぐに退却した――何のなすところもなかったどころか、わずかな打撃さえ受けたからである。が、パノテウスの郊外は力攻めで攻略した。こういったことを為し遂げると、ポーキスへと前進し、エラテイア〔ポーキス北東部の有名な都市〕、ペディエイア〔ポーキスの都市〕、この都市の住民たちを蹂躙した上で、引き上げた。しかし、彼らはヒュアンポリスのあたりを撤退しながら、この都市を攻撃することに決した。が、この要塞はかなり堅固であった。それでも、市壁に突撃し、熱意に欠けるところはなかったけれども、ほかには何もなすところなく、他方では将兵のおよそ80を失って、再び退却した。かくて、ボイオーティア人たちはこれだけの悪行をポーキス人たちに働いたうえで、自分たちの土地に引き上げたのであった。

"D".19.1.
 一方、コノーンはといえば、ラケダイモーン人たちと同盟者たちの艦船はすでにケイリクラテースが引が継ぎ、ポッリスの後任の艦隊指揮官として着任していたのであるが、〔コノーンは〕三段櫂船20艘を完全艤装し、ロドスから船出し、カウノスに上陸した。そして、パルナバゾスとティトラウステースとに会見して、金銭を得んことを望み、カウノスから彼らのもとへと参内した。

"D".19.2.
 このころ、将兵たちには何ヶ月分もの報酬が未払いのままとなっていた。将軍たちによる報酬の支払い状況が悪かったからで、報酬は、戦士たちにその都度、ペルシア大王によって支払われるのが慣例になっていたのであるが、デケレイア戦争の当時でさえ、このとき〔ペルシア人たちは〕ラケダイモーン人たちの同盟者であったけれど、金銭の提供の仕方はまったく劣悪で、けちけちしていて、もしもキュロスの熱心さがなかったなら、同盟軍の三段櫂船部隊は、何度も解散していたことであろう。こういったことの責任は大王にあり、彼は、戦争を始めると、初めこそ、指揮官たちにわずかの金銭を下賜するが、それ以後は軽視し、作戦行動に従事する者たちは、私財から出費することができないものは、自分たちの戦力の解体を往々にして見過ごしにすることになったのである。

"D".19.3.
 とにかく、事情かくのごとき結果になることが通例であった。しかしティトラウステースは、コノーンが自分のところにやって来て、金銭の欠乏のせいで作戦行動はだめになる恐れがある、大王のために戦争しようとする者たちが、非道にも、その金銭を断たれているのだからと言ったので、将兵たちに報酬を与えるため、自分〔ティトラウステース〕の麾下の非ヘッラス人たち数名を遣わし、そのさい、銀子120タラントンを持たせた。しかしこの銀子も、ティトラウステースの財産から支弁されたものである。さて、ティトラウステースは、なお少しの間サルデイスに駐留したのち、大王のもとに参内したが、アリアイノスとパシペルネースとを作戦行動の将軍に任命し、これに戦費として銀子や金子の残置されたもの――明らかに700タラントンはあったと噂される――を引き渡した。

"D".20.1.
 キュプロス人たちのうち、コノーンとともにカウノスに上陸した者たちは、〔ペルシア人たちは〕未払いの報酬を自分たちには支払う気はない、〔未払い〕解消の用意があるのは、漕ぎ手たちや艦上戦闘員たちに対してだけだ、というふうに一部の者たちが離反させようとするのに説き伏せられて、総会に寄り合って、自分たちの将軍としてカルパトス生まれの男を選び、この人物の身の守護に、各部隊(taxis)から将兵二人をあてがい……
……
……コノーンを……
……出会し……
コノーンが下ってゆくと……
事態について話し合った。

"D".20.2.
 しかしコノーンは、……
ヘッラス人たちのうち……信じているのを放置せず、
……報酬は全員が平等に渡されると言ったが、この回答をした上で、他の者たちにも明らかにさせることを望むと主張した。そこで、キュプロス人たちの将軍のカルパトス人も、彼〔コノーン〕につて将兵たちの大衆のところに行こうとした。

"D".20.3.
 ところが、あの人〔コノーン〕がいっしょに出かけ、市門のところまで進んだとき、コノーンが、たまたま案内に立っているかのように、先に城壁から外に出るや、カルパトス人のやつが、市門を出ようとしているところを、普段からコノーンに随伴しているメッセニア人たちの数名が、あの人〔コノーン〕が認めたわけではないのに、取り押さえようとした、過ちを犯したことに償いをさせるため、都市の中に拘束しておこうとしたのである。しかし、キュプロス人たちのうち、同伴してきた者たちが、そのカルパトス人を奪い返そうとし、メッセニア人たちがこれを連行するのを妨害し、さらには外のキュプロス人たちの大衆も気づいて、その将軍に加勢した。対してコノーンは、……兵士たちを突入させ、都市の中へと……。キュプロス人たちの方は、カルパトス人をつかまえようとしたメッセニア人たちに突進して撃退し、自分たちは自分たちで、報酬の支払いに関して用意があるとコノーンが言ったのはすべてでたらめだと説得されて、こういった事態のせいで、三段櫂船に乗船した、一部の人たちの言によれば、ロドスからの〔キュプロス〕人たちを迎え入れて、キュプロスに航行せんとしたという。

"D".20.4.
 ……
キュプロスの望む者たちに呼びかけて、
アクロポリスに押し掛けた所以は、自分たちの諸悪の責任はひとり彼にのみあるとして、……支配を……解体するため、同様に、……して……
自分たちに……
……言葉……
……都市を……
……から出航して……
……三段櫂船の……を用いること……

"D".20.5.
 対してコノーンは、彼らが上陸している間に、陸軍の副官レオーニュモスのところに赴き、これに言った、――大王のこの事態を救えるのは自分だけである、なぜなら、カウノスの守備にあたっているヘラス人たちの守備隊と、カリア兵のできるかぎり多数を自分に与えることを望んでくれるなら、軍隊内の混乱を終息させられるのだから、と。そこで、将兵を望むだけ引き具してよいとのレオーニュモスの命を受けて、その日は延期にして――というのも、すでに日は沈みかけていたので――、次の日、夜明け前に、レオーニュモスカリア兵の大部隊とヘッラス兵全員を受けとり、これを都市から出陣させた。そして、一隊を軍陣のすぐ外側に、もう一隊を……艦船と海岸の近くに配備した。こうしたうえで、将兵の各々は自分の進路を進撃するよう、伝令官に伝令するよう命じ、キュプロス兵のうち、くだんのカルパトス人とその他の兵60を逮捕、後者は殺害し、将軍は磔刑に処した。

"D".20.6.
しかし、ロドスに残留した者たちは、……聞いて憤激し、コノーンによって就任した指揮官たちに対して剣呑となり、襲撃して陣地から放逐し、港を放置して、ロドス人たちに深甚な騒動と混乱をもたらした。しかし、コノーンがカウノスから到着し、彼らの指揮官たちを逮捕・殺害し、その他の者たちには報酬を支給した。かくて、かくも大いなる危機に立ち至った大王の陣営も、コノーンとその熱意によって混乱を終息させたのであった。

"D".21.1.
他方、アゲーシラオスの方は、ラケダイモーンと同盟者たちの軍に付き添って、軍隊と同時にヘッレースポントスに行軍し、リュディアを進んでいる間、住民たちに何の悪さもしなかったのは、ティトラウテースとの間に取り交わした取り決めを遵守することを望んだからである。しかし、パルナバゾスの領地に入ってからは、その土地を劫掠し破壊しつつ軍隊を先導した。そして、テーベー平野とアピア平野と呼ばれるところを越えて、ミュシアに侵入し、ミュシア人たちを強迫して、自分たちといっしょに従軍するよう彼らに命じた。ミュシア人たちの多数は、自主独立した人たちであり、大王の臣従者ではなかったからである。かくて、ミュシア人たちのうち、征戦に参加することを選んだ者たちに対しては、これに害悪を働くことをせず、残りの連中の土地を荒らした。

"D".21.2.
 前進を続けて、ミュシア・オリュムポスと呼ばれる地のど真ん中にいたって、通路が険阻で狭いのを眼にして、ここを安全に進軍することを望んで、ミュシア人たちのところへ人を遣わして、これと和議をなした上で、その地を通って部隊を導いた。しかるに、ペロポンネーソス人たちと同盟者たちの……容認したけれど、その最後尾に襲いかかり、隘路のために戦列も組んでいない将兵たちの……斃した。そこでアゲーシラオスは、部隊を宿営させ、戦死者たちのためにしきたりの儀式をしつつ、その日は平静を保った。将兵たちのおよそ50人が撃滅されたのである。そして次の日には、いわゆる「デルキュリダスの傭兵たち」の多数を待ち伏せさせておいて、軍隊を再び先導した。対してミュシア人たちのそれぞれの部隊は、前日の打撃のせいでアゲーシラオスは立ち去るものと思って、村々から打って出て、追撃した。同じ仕方で最後尾に襲いかからんとしたのだが、ヘッラス勢の伏兵が、相手が側にきたので、待ち伏せから躍り出て、敵勢と白兵戦に及んだ。ミュシア人たちのうち、嚮導し先頭きって追撃していた連中は、突然ヘッラス勢と合戦になったため戦死し、多くの者たちは、自分たちの先頭部隊が打撃を受けたのを見て、村々に敗走した。アゲーシラオスは、このことが自分に報告されると、方向を転じて、同じ道を再び部隊を引き返させ、ついに待ち伏せしていた兵たちと合流、前の日にも陣取ったところに軍陣を設営した。

"D".21.3.
 その後、ミュシア人たちのうち、戦死者を出した部隊はそれぞれ伝令官を派遣し、……休戦を申し入れて屍体を収容した。戦死者はおよそ130人以上であった。アゲーシラオスは、村々から何人かの案内人を受けとり、……日間、将兵たちに休息をとらせてから、部隊を前へと前へと導き、プリュギア人たちの領地へ――前年の夏侵入したところではなく、別の場所――と押しくだり、これを荒らし、その地に悪さをなしたのは、スピトラダテースとその息子とを案内人として持っていたからである。

"D".21.4.
 スピトラダテースとは、生まれはペルシア人であったが、パルナバゾスのもとで過ごし、これに臣従していたが、後にこれと敵対関係に陥ったので、捕らえられて何か悪いことを被るのではないかと恐れ、すぐさまキュジコスに逃亡し、さらに後には、若くて美しい息子メガバテースを伴って、アゲーシラオスのもとにやってきた。アゲーシラオスが、このことが起こったとき、彼らを起用したのは、何よりも第一にその若ゆえであった。というのは、その若者にすこぶる執心していたといわれているからである。しかし第二には、スピトリダテースのせいでもあって、政戦の案内人としても、またそのほかの点でも自分たちにとって有用だと考えてのことであった。

"D".21.5.
 さて、彼らを熱心に迎え入れたのはそういうわけであったが、みずからは軍隊を常に前へ前へと先導し、パルナバゾスの領地を劫掠しつつ、レオントーン・ケパライと呼ばれる要塞に到着した。この要塞に対して突撃を仕掛けたが、何のなすところもなかったので、部隊を支度させて前へと先導した、領地の手つかずの地を破壊し劫掠しながら。

"21".6.
 再びゴルディオン――丘の上に建造され、美しく装備された地――に到着し、部隊を宿営させて、6日間とどまった、敵勢に対しては突撃を仕掛けつつ、将兵たちに対しては、多くの善きものを約束して〔将兵を〕まとめつつ。しかし、この要塞を、ラタノス――生まれはペルシア人でありながら、ここを統治していた――の熱意のせいで屈服させることができなかったので、将兵たちを支度させて奥地へと導いた、スピトリダテースがパプラゴニアに進軍するよう頼んだからである。

"22".1.
 その後、ペロポンネーソス人たちと同盟者たちを、プリュギアとパプラゴニアとの〔境の〕山脈へと先導して、スピトリダテースをギュエーのもとに派遣した。彼〔スピトリダテース〕は前進して、これを説得して、連れて立ち返ってきた。

"D".22.2.
 そこでアゲーシラオスは、和議を講ずると、急ぎ、遠征軍をパプラゴニア人たちの土地から海の方へと連れもどった。冬になって、糧食に事欠くのではないかと恐れたのである。しかし、進軍をしつつも、もはや来たときと同じ道はとらず、別の道をとったのは、サンガリオンを通過するのは将兵たちにとって徒労だと考えたからである。ギュエーは彼に……騎兵およそ1000,陸戦兵2000以上を送って寄こした。

"D".22.3.
 かくて部隊をミュシアのキオス(Kios)に下らせ、先ずは、そこに10日間駐留し、ミュシア人たちに再び害悪を働いたのは、オリュムポス近辺で彼に対して策謀したことに対する報復で、その後で、ヘッラス勢を先導してプリュギアの海沿いの道を通り、ミレトゥ・テイコスと呼ばれる要塞に突撃したが、手に入れることができなかったので、将兵たちを退かせた。さらにリュンダコス河に沿って行軍を進め、ダスキュレイオン湖に到着した。この下流に位置するダスキュリオンは、すこぶる堅固な要塞で、大王によってこしらえられ、ここにはパルナバゾスも持てるかぎりの銀や金を貯えているといわれていた。

"D".22.4.
 そこに将兵たちを宿営させたうえで、パンカロスを呼び寄せた、この人物は、艦隊指揮官ケイリクラテースの艦上戦闘員として乗船し、三段櫂船5艘を率いてヘッレースポントスの管理にあたっている人物だった。そのパンカロスが急ぎやってきて、三段櫂船隊で湖に乗り込んでくると、アゲーシラオスは、この人物に命じて、略奪品のうちで高価なものはみな積み込んで、キュジコス近辺の……に運び、そこから軍隊に報酬が捻出できるようにさせた。他方、ミュシアからきた将兵たちの方は、カッパドキアに進軍する準備をこの冬の間に〔自分=アゲーシラオスが〕しておくから、春までに自分たちのところへもどってくるよう下知して解散させた。〔彼がこんなことを言ったのは〕耳にしていたからである、――この土地は、ポンティス海に始まって、キリキアとポイニキアまで、細長い帯のように延びており、この土地の長さは、シノペーから歩きだした人たちが、……ぐらいある、と。

2002.03.04. 訳了   

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