ヘルメス選集(CH) IV

混酒器ないし唯一者たるタトへ





[底本]
TLG1286
CORPUS HERMETICUM
vel Hermes Trismegistus, vel Hermetica
(A.D. 2?/4)
4 1
1286 004
Pro;V Ta;t oJ krath;r h] monavV, ed. A.D. Nock and A.-J.
Festugière, Corpus Hermeticum, vol. 1. Paris: Les Belles Lettres,
1946 (repr. 1972): 49-53.
5
(Cod: 918: Phil., Theol.)




ヘルメースの書、タト宛 — 混酒器ないし唯一者

1
 造物主(dhmiourgovV)は、手によらずしてロゴスによって、全世界を作ったのであるからして、今或る者、永遠に有る者、万物を作った者、ただ一人の者、有るものらを自分の意志(qelhvsiV)によって造物した者のごとくに想像せよ。それはすなわち、彼の身体(sw:ma)は触れ得ず、見えず、測り得ず、次元をもたず、他の何らかの身体とも似ていないということである。というのは、〔彼は〕火にあらず、水にあらず、空気にあらず、霊気にあらずして、万物が彼から出ているからである。すなわち、〔彼は〕善なるがゆえに、自分ひとりのためにこれ〔万物〕を奉納し、大地を飾ることを欲した<わけではない>のであり、
 神・神性・神的自然は、万物の栄光(dovxa)である。神は — したがって理性も自然も質料も — 、万物の顕示へと至らせる知恵だから、諸有の初め(ajrchv)である。初め(ajrchv)とは、神性・自然・作用力(ejnevrgeia)・必然・終極(tevloV)・更新(ajnanevwsiV)である。
 ところで、深淵に、はてしなき闇と、水と、微細で叡智的な霊とが、神的な力によって空隙の中に、あった。すると、聖なる光が昇り、†砂の下に†湿潤な有性(oujsiva)から元素(stoicei:a)が凝固し、あらゆる神々が実り多き自然を†あまねく関係づけた†。湿潤な砂の上に確定したのは、全体が火によって確定され、霊気にのしかかられるように〔性的意味あり〕ぶら下がったときである。こうして、天が7つの円環の中に目に見え、神々が星の姿で、そのあらゆる徴とともに見られ、


神的身体の飾りとして人間を、不死なる生き物の〔飾りとして〕死すべき生き物を下向させた、かくして、世界は、永遠の生き物という点で生き物たちを凌ぎ、<人間は>、ロゴスと理性の点で世界をも〔凌いだ〕。なぜなら、人間は神の業の観者となり、賛嘆し、作った者を覚知したからである。


 さて、ロゴスを、おお、タトよ、〔神は〕あらゆる人間どもの中に分け与えたが、理性はまだ〔分け与えて〕いない。誰々を妬んでのことではない。なぜなら、妬みはそこからくるのではなく、理性を持たぬ人間どもの魂たちによって、下界に成立したからである」。
 「すると、なにゆえに、おお、父よ、神は万人には理性を分け与えなかったのですか」。
 「彼の意志は、おお、わが子よ、それを褒賞として魂たちの間に設置することにあったのだ」。


 「いったい、どこにそれを設置したのですか」。
 「大きな混酒器をそれ〔理性〕で満たして下向させ、伝令を遣って、これに、以下のことを人間どもの心に宣布するよう命じた。『可能な〔心〕よ、この混酒器に汝自身を浸せ、混酒器を下向させたかたのもとに上れると信じる〔心〕よ、何のために生まれたかを覚知する〔心〕よ』。
 こうして、宣布(khruvgma)を聞いて、理性(nou:V)に浸されたかぎりの者たちは、覚知(gnwvsiV)に与り、全き人間どもとなった。理性(nou:V)を受けたからである。これに反し、宣布を得そこなったかぎりの者たちは、ロゴス的人間ではあっても、理性(nou:V)を獲得せず、何のために、また、何々によって生まれてきたのかを知らぬ者どもとなった。


 この者どもの諸感覚は、ロゴスなき動物どもに似ており、〔この者どもは〕激情と怒りの気質を持ち、観るにあたいするものらに驚嘆することなく、諸身体の諸快楽や情慾に心を寄せ、それゆえにこそ人間に生まれたのだと信じる連中である。これに反し、神からの賜物に与ったかぎりの者たちは、おお、タトよ、諸々の業(e[rga)を比較してみればわかるように、死すべき者ではなくして不死なる者であり、自分たちの理性(nou:V)によって万物を、地上のものら、天界のものら、また、天の上に何かがあるとしても、包みこんでいる。これほどまでに自分たちを高め、善を注視し、〔これを〕見たために、この世の暮らしを不幸(sumforav)と考えた。〔そこで〕あらゆる身体的なものら、非体的なものらすべてを軽蔑し、一にして唯一なるものを得ようと熱中するのである。


 これが、おお、タトよ、理性(nou:V)の知(ejpisthvmh)であり、神的なものらの†豊かさ†であり、神の観想(katanovhsiV)である。混酒器は神的なものだからである」。
 「わたしも浸されたいと思います、おお、父よ」。
 「先ず、汝の身体を憎まなければ、おお、わが子よ、自己を愛することはできない。そこで、汝自身を愛したら、理性(nou:V)を得るであろう、そして、理性(nou:V)を得たら、知(ejpisthvmh)にも与れよう」。
 「それはどういうことを言っているのですか、おお、父よ」。
 「というのは、おお、わが子よ、死すべきものらと神的なものら、これら両方に関わることは不可能だからである。というのは、有るものらには、身体と非体と2つがあって、この中に死すべきものと神的なものとがあり、どちらを選ぶかは、選ぼうとする者に残されている。†選択が残されているのは両方†ではなく、一方の劣性が、他方の作用(ejnevrgeia)を明瞭にしたのである。


 したがって、勝れたものの選択は、選ぶ者にとって、人間を神化するために最美であるばかりでなく、神に対する敬虔をも示しているのである。これに対し、劣ったものの選択は、人間を滅ぼし、ほかならぬ次のことのみが、神に対して罪を犯すことになる。つまり、祭の練り歩きそのものは何かに作用することもできないのに、真ん中に進み出て、人々の邪魔をするように、ちょうどそれと同じ仕方で、彼らも身体的な諸快楽に迷わされて、世界の内を練り歩くにすぎないということである。


 事情かくのごとくであるので、おお、タトよ、神からのものらはわたしたちのもとに現にあるのであり、これからもあるであろう。が、わたしたちからのものらは、〔神からのものらに〕聴き従わせ、欠けるところがないようにさせよ。神は無罪であるから、諸悪の罪は、これ〔諸悪〕を諸善よりも選んだわれわれにある。見えるか、わが子よ、わたしたちが一にして唯一なる者を得ようとすれば、どれだけの身体〔天体〕、ダイモーンたちのどれほどの合唱舞隊、星々の連鎖と走路を通過しなければならないかを。というのは、善は踏みこえられるものではなく、際限なく、終わりなきもの、これには始点もないものであるが、われわれには覚知(gnw:siV)という始点を有するように思われるからである。


 とはいえ、覚知(gnw:siV)はそれ〔善〕の始点として生じるのではなく、覚知されるであろうかたの始点としてわれわれにそなわるのである。だから、われわれは始点を受け取り、すみやかに全行程を旅しよう。というのは、慣れたことどもや現にあることどもを後に残して、昔のことどもや初めのことどもに立ち返ることは、極めて難儀なことだからである。目に見えるものらは喜ばしいが、見えないものらは不信の念を起こすからである。そこで、諸悪はより明らかであるが、善は、見える者らには見えない。それ〔善〕には姿なく形もないからである。それゆえ、〔善は〕自分には似ているが、他の何ものにも似ていない。非体が身体に見えることは不可能だからである。

10
 これが、似ていないものに対する似ているものの違いであり、似ているものに対する似ていないものの欠如である。
 ところで、唯一者は、万物の始原にして根源であるから、根や始原のように、万物の内にある。始原なくしては何ものもなく、始原は、いやしくも他のものらの始原である以上、何物からでもなく、自分自身から出ている。かくして、始原である唯一者は、すべての数を包みこみながら、何ものによっても包みこまれることなく、すべての数を生み出しながら、他のいかなる数によっても生み出されることがない。

11
 しかるに、生み出されたものは、すべて不完全にして分割されたもの、加えられたり引かれたりするものであるが、完全なものには、そういったことの何ひとつも起こらない。また、加えられたものは、唯一者から加えられたのであり、もはや唯一者を包むことができないので、その弱さに捉えられているのである。
 さて、これが、おお、タトよ、汝のために力を尽くして描かれた神の像である。これを心眼によってはっきりと観かつ理解するなら、 — わたしを信じよ、わが子よ — 、上方のものらに至る道を発見するであろう。いやむしろ、像そのものが汝を道案内するであろう。この観照は一種独特なものを持っている。〔すなわち〕すでに観照に達した者たちを捉え引き上げるのである、磁石が鉄を〔引きつける〕と謂われているように」。

2008.08.31. 訳了。


forward.gifCH V 不明瞭なる神が最も明瞭であること