ヘルメス選集(CH) XII

普遍的理性について





[底本]
TLG1286
CORPUS HERMETICUM
vel Hermes Trismegistus, vel Hermetica
(A.D. 2?/4)
12 1
1286 012
Peri; nou: koinou: pro;V Tavt, ed. A.D. Nock and A.-J.
Festugière, Corpus Hermeticum, vol. 1. Paris: Les Belles Lettres,
1946 (repr. 1972): 174-183.
5
(Cod: 2,103: Phil., Theol.)




ヘルメース・トリスメギストスの書、普遍的理性について、タトへ

1
 理性(nou:V)は、おお、タトよ、神の有性 — 神の有性のようなものがあるとしてだが — そのものから出ている。そして、それ〔有性〕がまさしくいかなるものであるか、これ〔神〕を正確に知っているのは、ひとりその〔理性〕のみである。だから、理性(nou:V)は神の有性性(oujsiovthV)から切り離されるものではないが、ちょうど太陽の光のように、いわば拡散している。だから、この理性(nou:V)は、人間どもの内にあっては神である。それゆえ、人間どもの内の一部の人たちは神であって、彼らの人間性は神性に近い。というのも、アガトス・ダイモーン(=Agaqo;V Daivmwn)〔善きダイモーン〕は、神々のことを不死なる<人間ども>と云い、人間どもを死すべき神々と〔云った〕のである。他方、ロゴスなき生き物たちにおいては、自然(fuvsiV)が〔理性に該当するものとして〕ある。


 すなわち、魂があるところ、そこに理性(nou:V)もあるのは、あたかも、命のあるところ、そこに魂もあるがごとしである。しかしロゴスなき生き物たちにあっては、理性(nou:V)はなくて、魂が命である。というのは、理性(nou:V)が魂たちの恩人となるのは、人間のそれに対してだからであるから。すなわち、〔理性は〕それら〔魂たち〕を善へと向けて働きかけ、ロゴスなきものらに対しては、おのおのの自然と協働するが、人間どもの〔魂たち〕とは対立するからである。というのは、あらゆる魂が、身体の内にあると、すぐさま苦痛と快楽によって虐待されるからである。すなわち、合成された身体の苦痛と快楽は、体液のように沸き立ち、これら〔苦痛と快楽〕に魂は浸されるということである。


 そういう次第で、理性はそういう魂たちの上に立ち、そういう〔魂たち〕が自分の先入観と対立するとき、それら〔魂たち〕に自分〔理性〕の輝きを現す。ちょうど、善き医者が、病気に取り憑かれた身体を、焼いたり切ったりして、苦しめるように、同じ仕方で理性も、魂を苦しめる、 — 魂のあらゆる病気の起因たる快楽からそれ〔魂〕を引き上げるためにである。魂の大病とは無神、次いで思念(dovxa)であって、これら〔無神、思念〕に諸悪は付き従い、善は何ひとつ〔付き従わ〕ない。結局、理性(nou:V)はそれ〔病気〕に対立することで、魂に善を得させること、医者もまた身体に健康を〔得させる〕がごとしである。


 しかし、人間の魂たちは、理性(nou:V)という舵取りを得られないかぎり、ロゴスなき生き物たちと同じことを経験する。すなわち、〔理性は〕それらの魂の協働者となり、諸々の欲望に解放し、〔魂たちは〕欲求の衝動によって、ロゴスなき状態へと導く諸欲望へと運ばれ、生き物たちのロゴスなき振る舞いと同様にロゴスなき様で怒り、ロゴスなき様で欲情することをやめないばかりか、諸々の悪に飽きることもない。なぜなら、怒りと欲望はロゴスなきものであって、はなはだしい悪であるから。こういった〔魂たち〕に対しては、いわば罰と吟味として、神は法を定めたのである」。


 「その点ですが、おお、父よ、以前わたしに詳述してくださった運命論(oJ peri; th:V eiJmarmevnhV lovgoV)は、覆るおそれがあります。というのは、姦淫することとか、神殿荒らしをすることとか、何か他の悪を行うことが、かくかくのひとに完全に運命づけられているなら、運命(eiJmarmevnh)の必然によってその業を行う人は、やはり懲らしめられるのですか」。
 「すべては運命(eiJmarmevnh)の業なのだ、おお、わが子よ、これ〔運命〕なくして身体的なことは何ひとつ存在しない。善も悪も起こることがない。美しきことをした者も、受苦するよう運命づけられており、行為する所以は、行為したことで、受苦することを受けるためなのだ。


 しかし、今は、悪と運命(eiJmarmevnh)についてロゴス〔議論〕があるのではない。それらについては別の機会にわれわれはすでに述べた。今は理性(nou:V)についてわれわれのロゴス〔議論〕がある、理性(nou:V)はどのような力を持っているのか、どのような点で — 人間どもにおいてはかくかくであるが、他の生き物たちにおいては変わる — どう異なるのか。さらにまた、他の生き物たちにおいては恩人だというのではなく、怒りや欲情を鎮めるという点であらゆるものにおいて不等なのであって、これらの中の或る者たちはロゴスに恵まれた者たちだと理会し、或る者たちはロゴスなき者たちと〔理会〕すべきであるが、しかし人間どもはみな運命(eiJmarmevnh)と生成と変化に服している — というのは、これら〔生成と変化〕は運命(eiJmarmevnh)の初めと終わりであるからだが — ということが〔議論の的である〕。


 そうして、人間どもはみな運命づけられた事柄を経験するのであるが、しかし、ロゴスに恵まれた者たち — 彼らは理性が嚮導するとわれわれは謂ったのだが — は、他の者たちと等しく受苦するのではなく、悪から解放され、悪人ではないのに受苦するのである」。
 「またまたどういう意味で言うのですか、おお、父よ。姦淫者は悪人ではないのですか。殺人者は悪人ではなく、その他のあらゆる者たちも?」。
 「いや、ロゴスに恵まれた者は、おお、わが子よ、姦淫したから受苦するのではなく、姦淫したかのごとく、殺人を犯したからではなく、殺人を犯したかのごとく〔受苦するのであり〕、変化の質は、生成の〔質〕と同様、これ〔変化の質や生成の質〕を回避することは不可能であるが、理性を有する者は、悪を回避することができるのだ。


 ゆえに、アガトス・ダイモーン(=Agaqo;V Daivmown)〔善きダイモーン〕はいつも言うのをわたしは聞いてきた、もしも、書きつけて公にしていたなら、人間どもの種族に大いに益したろうに。というのは、ひとり彼のみが、おお、わが子よ、初子なる神として、真に万物を究め、神的なロゴスを発言したのである。ある時、彼がこう言うのをたしかにわたしは聞いた、『万物は一(e{n)であり、とりわけ知性的身体〔複数〕はそうである。われわれが生きるのは、力(dunavmiV)と作用(ejnergeiva)と永遠(Aijw:n)によってである。そして、彼〔神〕の理性(nou:V)は、まさしくその魂でもあって、善である。事情かくのごとくであるから、知性的なものは何ら次元をもたない。だから、理性(nou:V)は、万物の支配者にして神の魂であるから、望むことを為すことができる』。


 そこでおまえは理会し、このロゴスを、先ほどわたしに尋ねた問いに供えなさい。わたしが言っているのは、[理性の]運命(eiJmarmevnh)についてである。論争的なロゴスをきれいに取り除くなら、おお、わが子よ、おまえは見出すであろう、万物を — 運命(eiJmarmevnh)であれ、法律であれ、その他の何であれ — を真に統御しているのは理性(nou:V)、つまり、神の魂であることを。そうして、これ〔理性〕にとって、人間の魂を運命(eiJmarmevnh)より上に置くことも、また、よくあることだが、不注意な〔魂〕を運命(eiJmarmevnh)よりも下に置くことも、不可能なことは何もない。そして以上で、アガトス・ダイモーン(=Agaqo;V Daivmwn)〔善きダイモーン〕の最善の〔教え〕は、言われたとしよう」。
 「じつに神的であり、おお、父よ、以上〔語られた〕ことは真実であり、有益です。

10
 しかし、次のことをなおわたしのために解き明かしてください。というのは、あなたは言いました、理性(nou:V)は、ロゴスなき生き物たちの中では自然のように、それら〔ロゴスなき生き物たち〕の衝動と協働して働く、と。ところで、ロゴスなき生き物たちの衝動とは、わたしが思いますに、受動(pavqoV)です。すると、理性(nou:V)も諸々の衝動と協働し、衝動が受動(pavqoV)なら、結局、理性(nou:V)も受動(pavqoV)ですね、受動(pavqoV)に染まっているのですから」。
 「でかした、おお、わが子よ。堂々たる質問である。わたしも答えるのが義しい。

11
 身体の内にある諸々の非体は、おお、わが子よ、すべて受動するものであり、まさしく受動そのものである。たしかに、『動かすものはすべて非体であるが、動かされるものはすべて体であり』、諸々の非体もまた理性(nou:V)によって動かされる。ところで、運動は受動(pavqoV)である。したがって、動かすものも動かされるものも、支配するものも支配されるものも、どちらも受動する。しかし、『体から解放されたものは、受動(pavqoV)からも解放されてあったろうに』。そのときは、むしろ、おお、わが子よ、受動しないものは何もなく、万物が受動する。しかし、『受動は受動性とは異なる。なぜなら、一方は能動し、他方は受動だからである』。『諸々の身体は、自身からも能動する』。要するに、動かされずにいるか、動かされるかである。しかし、どちらであろうと、それは受動であり、諸々の非体はたえず能動の対象であり、それゆえにまた、受動性である。だから、呼称をしておまえを惑乱せしめるなかれ。なぜなら、能動と受動は同じものなのだから。ただし、より意にかなった名称を用いるのはくるしくない」。

12
 「きわめてはっきりと、おお、父よ、ロゴスを伝授してくださいました」。  「さらに次のことも見よ、おお、わが子よ、つまり、神は、あらゆる死すべき生き物たちとは違って、人間にこれら2つのものを恵んでくださった、理性(nou:V)とロゴスである、これらは不死性に匹敵し、[こうして〔人間は〕口から出るロゴスを得たのである]。そこで、ひとがこれら〔理性とロゴス〕をふさわしい目的に用いるなら、不死なるものらと何ら異なるまい。それどころかむしろ、身体から抜け出て、両者に道案内されつつ、神々の浄福者たちの合唱舞踏隊に入るであろう」。

13
 「いったい、他の生き物たちはロゴスを用いないのですか、おお、父よ」。
 「〔ロゴス〕ではなく、わが子よ、音声を〔用いるの〕だ。しかしロゴスは音声とまったく異なる。というのは、ロゴスは万人に共通であるのに、音声はおのおのの生き物の主に固有なのである」。
 「しかしながら、人間どもにも、おお、父よ、それぞれの種族にとって異なったロゴスがありますね」。
 「たしかに異なっているが、おお、わが子よ、しかし人間は一つである。同様にロゴスも一つであり、翻訳されると、アイギュプトスやペルシスにおいても、ヘッラスにおいても、同一の〔ロゴス〕が見出されるのである。わたしにはおまえが、おお、わが子よ、ロゴスの徳と偉大さに無知であるように思われる。なぜなら、浄福の神、アガトス・ダイモーン(=Agaqo;V Daivmwn)〔善きダイモーン〕は、『魂は身体に宿る』と謂ったからだ、『理性(nou:V)は魂に、ロゴスは理性(nou:V)に、かくして神はこれらの父である』と」。

14
 こういう次第で、ロゴスは神の似像にして理性(nou:V)であり、身体はといえば、形相(ijdeva)の〔似像〕、形相は魂の〔似像〕である。ところで、質料(u{lh)の最も微細なものは空気、空気のそれは魂、魂のそれは理性(nou:V)、理性(nou:V)のそれは神である。そして神は万物をめぐり、万物を貫通し、理性(nou:V)は魂をめぐり、魂は空気をめぐり、空気は質料(u{lh)をめぐる。
 また、必然(ajnavgkh)と摂理(provnoia)と自然(fuvsiV)は、世界と質料(u{lh)の配列との道具である、 — じっさい、知性的なものらはおのおのが有性であり、それらの有性とは同一性のことである。これに対し、万有(to; pa:n)の諸身体のおのおのは多様である。すなわち、合成された諸身体は同一性を保ちつつ、互いに変化し合いながらも、たえず同一性という不滅性を保持するのである。

15
 さらに、他の合成されたあらゆる諸身体の中には、おのおののものの数がある。数なくしては結合とか合成とか分解とかは生じ得ないからである。つまり、一(eJnaV)たちが数を生み、増大させ、分解したものを再び自己の内に受け取るのであって、かくして質料(u{lh)も一である。
 そこで、この世界(kovsmoV)全体、大いなる神、より大いなるもの〔至高神〕の似像は、それ〔大いなるもの=至高神〕と合一もしており、父の配列と意志を遵守もしているので、命の充満(plhvrwma)であり、その〔世界〕の内にあるものは、全体にせよ部分にせよ、父によって回帰するあらゆる永遠(aijw:n)を通じて生きていないものは何もない。すなわち、死体は世界(kovsmoV)の中に一つとして、かつて生じたことも、いま有ることも、やがて有るであろうこともないのである。なぜなら、父は、自分が結び合わせているかぎり、それが生き物として有ることを望んだからである。ゆえに、〔世界は〕神でもあるのが必然である。

16
 そうとすると、おお、わが子よ、神の内に、万有(to; pa:n)の似像の内に、命の充満(plhrwvma)の内に、死体がどうしてあり得ようか。死(nekrovthV)は腐敗であり、腐敗は消滅である。すると、腐敗なきものの一部が、どうして腐敗し、あるいは、神のある部分がどうして消滅し得ようか」。
 「すると、死ぬことがないのですか、おお、父よ、それ〔世界〕の内なる生き物たちは、それ〔世界〕の部分であるのに」。
 「口をつつしめ、おお、わが子よ、生起することの名称に惑わされているから。すなわち、死ぬのではなく、おお、わが子よ、合成された諸身体として分解するのだ。しかし、分解は死ではなく、混合したものの分解である。分解はするけれども、その結果消滅するのではなく、その結果新しくなるのだ。命の作用(ejnevrgeia)とは何であろうか。運動ではないのか。それなら、世界(kovsmoV)の内に運動していないものが何かあろうか。何もないのだ、おお、わが子よ」。

17
 「地も運動しないものだとはあなたに思われないのですか、おお、父よ」。
 「思わない、わが子よ、しかし、ひとりこれ〔地〕のみは、あらゆる運動もし、平衡もしている。万物の養育者が運動しないというのは、万物を生えさせ生みなすものとして、どうしておかしくないことがあろうか。なぜなら、運動なくして、生むものが生むということは不可能だから。しかるに、第四の部分〔地〕が無為かどうかとおまえは尋ねたのだが、奇妙奇天烈なことである。運動しない身体とは、無為以外の何ものを意味するのでないからだ。

18
 それでは、知るがよい、おお、わが子よ、世界(kovsmoV)の内に有るものは、おしなべて、減少するにせよ増大するにせよ、運動しているものである。運動するものはまた生きてもいるのであって、生き物がすべて同一であることは必ずしも必然(ajnavgkh)ではない。すなわち、世界(kovsmoV)は全体として同時に〔見るときには〕不変であるが、おお、わが子よ、その部分部分はすべて変化する — ただし、何ひとつ腐敗したり消滅したりするのではない — が、諸々の名称が人間どもを惑わせるのである。というのは、命は生起ではなく、感覚〔の生起〕であり、また変化は死ではなく、忘却だからである。
 事情かくのごとくであるから、万物はふしであり、質料(u{lh)、命、気息、魂、理性、みなそうであって、これ〔理性〕によって結合したものがあらゆる生き物である。

19
 結局、あらゆる生き物はそれ〔理性〕のおかげで不死である。なかんずく人間は、神をも受容し、神と有性をともにするものとして〔不死である〕。というのは、神はひとりこの生き物とだけ、夜は夢を通して、昼は諸々の徴を通して、交わり、また、万象を通してこれに来たるべき未来のことを予言するのである、鳥類により、犠牲の臓物により、霊感により、樫木によって。ゆえに、人間は、すでに起こったこと、今起こっていること、やがて起ころうとすることを知っていると公言さえするのである。

20
 また、次のことをも見るがよい、おお、わが子よ、生き物たちのそれぞれは、世界(kovsmoV)の一部分にしか棲息しないということである。例えば、水棲動物は水の中に、陸棲動物は陸上に、空の動物は空中に、これに対し人間は、地、水、空気、火、これらすべてを用いる。さらに天をも見、感覚によってこれに触れさえするのである。
 しかし、神は万物をめぐりもし、万物を貫通もする。すなわち、彼は作用(ejnevrgeia)であり、力である。実際は、神を理会することは何ら難しいことではないのだ、おお、わが子よ。

21
 そこで、おまえが彼を観ることをも願うなら、見よ、世界(kovsmoV)の配列と、配列の整然たる様を。見よ、諸々の現象の必然(ajnavnkh)と、かつて起こったことや今起こっていることの摂理(provnoia)を。見よ、命に充満した質料(u{lh)を、あらゆる善美なものら、神々やダイモーンたちや人間どもとともに運動しているかくも偉大な神を」。
 「しかし、それらは、おお、父よ、作用(ejnevrgeia)にすぎません」。
 「総じて作用(ejnevrgeia)にすぎないとしても、おお、わが子よ、何ものかによって作用されているな。他の神によってであろうか。それとも、おまえは知らないのか、 — 天と水と地と空気が世界(kovsmoV)の諸部分であるように、同じ仕方で、命と不死と†血液と†必然(ajnavgkh)と摂理(provnoia)と自然(fuvsiV)と魂と理性(nou:V)が〔神の〕肢体であり、善と言われるものは、これらすべての不断性(dianomhv)であることを。そして、今起こっていることあるいはかつて起こったことのうち、神が存在しないものは絶えてないのである」。

22
 「それでは、質料(u{lh)においてはどうですか、おお、父よ」。
 「いったい、おお、わが子よ、質料(u{lh)が神なしに存在するとして、おまえはこれにいかなる場所を割り当てるつもりか。もしも作用されていないとしたら、それ〔質料〕は塊以外の何として存在すると思うのか。作用されているのなら、何から作用されているのか。すなわち、諸々の作用(ejnevrgeia)は神の部分であるとわれわれは謂った。すると、あらゆる生き物は何によって生かされているのか。不死なるものらは何によって不死にされているのか。変化するものらは何によって変化させられるのか。おまえが質料(u{lh)を謂おうと、体を〔謂おうと〕、有性を〔謂おうと〕、知るがよい、まさしくそれらこそが神の現実態(ejnevrgeia)であり、質料の〔受ける〕作用(ejnevrgeia)が質料性(uJlovthV)であり、身体の〔受ける作用〕が身体性(swmatovthV)であり、有性の〔受ける作用〕が有性性(oujsiovthV)である。これがすなわち神であり、全(to; pa:n)である、と。

23
 全(to; pa:n)の内には、彼〔全または神〕がそれでないようなものは何ひとつ存在しない。ここからして、大きさも場所(tovpoV)も質も形も時間も、神に関わりがない。〔神は〕全(to; pa:n)だからである。全(to; pa:n)は万物を貫き、万物をめぐる。このロゴスを、おお、わが子よ、拝み崇めるがよい。しかし、神を崇める〔道は〕ひとつ、悪ならざることである」。

2008.09.14. 訳了。


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