[略伝]
探検家。前325(?)-300活動。
マッサリア〔現マルセイユ〕出身の航海者。当時の人間が住むと思われていた世界の北限を越えて驚異的な航海をした。彼の航路で語られている地点のすべてが確実に位置づけられるわけではないが、おそらくジブラルタル海峡を抜けて、フランスの西海岸を北上し、イギリスのコーンウォールのランズエン ド岬を越えて、そこからブリテン島を右回りに周航しはじめる。北方の多様な島嶼を訪れ、さらに「トゥレー」という島を訪れた。これが現在のどの地であるかは不明だが、ブリテン島から北方に6日間航海したところにあり、真夏の夜の長さから判断して、北緯65度あたりとなる(ノルウェイ、アイスランド、 フェロー諸島?)。この航海の年代は確かではないが、すでにディカイアルコス〔前4世紀後期〕がその著述でビュテアスを論駁しているので、アレクサンドロス大王の頃と考えられる。
ビュテアスの航海が成功したということは、彼が卓越した科学的知識を持っていたことを示している。方位を天文観測により記録し、潮の干満に月が関係していることを書きとめているのだ。彼が発見した事物を記した著作は現存していないが、その内答は、ポリュビオスとエラトステネースも含めた数人の 著述家たちに、すべて信頼できるとは言えないまでも、一級の地理学資料として使われている。彼の旅行が事実であったかという疑問が古代にあったが、現在ではその疑いは不当であることが広く認められている。
(ダイアナ・バウアー編『古代ギリシア人名辞典』原書房)
Wiki「ピュテアス」の解説が、恐ろしいほど詳しい。
[底本]
TLG 1650
PYTHEAS Perieg.
(4 B.C.: Massiliensis)
1650 001
Fragmenta, ed. H.J. Mette, Pytheas von Massalia. Berlin: De
Gruyter, 1952: 17-29, 34-35.
frr. 1-9b, 14-15.
(Q: 3,713: Geogr., Perieg.)
断片集(Fragmenta)
1.1
ニカイアのヒッパルコス『アラトスとエウドクソスの「天象譜(Fainome&na)」の註解』IV_1:
北極については、エウドクソスは無知のため次のように言っている。「同じ場所に常にとどまっている星がある。この星は宇宙の極点である」と。〔エウドクソスが無知だ〕というのは、極点には一つの星もなく、そこは空所であって、そばにあるのは3つの星で、これらと極点とが形成する極点に至近の四角形が目印として〔極点を〕取り囲んでいるのだ、これはマッサリア人ピューテアースも主張しているとおりである。
地球の自転軸は首振り運動いわゆる歳差運動をしている。その周期は約2万5800年。現在、北極星はほぼ小熊座α星(ポラリス)の近くにある。
2.1
アエティオス『学説誌』III_17[潮の干満はいかにして起こるか], 3_5 p.383, 4 H.Diels (ストボイのイオーアンネス『学説誌抜粋』I 38, 3_5 p.252, 18 K.Wachsmuth...#116"PLUTARCHOS"『「自然学説の学説誌について」抜粋』III_17, 2f. ["116 "GALENOS"『哲学者、歴史家について』88 p.634, 14 H.Diels]):
マッサリア人ピューテアースは、それら〔潮の干満〕の各々の原因を、月の満ち欠けに帰した。ポセイドーニオス(87 F 81 F.Jacoby)によれば、月によって風が動き、この〔風〕によって大洋が〔動き〕、これによって上述の情態が起こるという。プラトーン(『パイドーン』p.11144_112a6)は水の動揺に帰した。すなわち、ある自然な動揺が、とある地下の穿孔を通って逆流を貫流させ、これによって大洋が逆巻くという。
3.1
ヘラクレイアのマルキアノス『ペルガモン人メニッポスが3巻本に著した「内海周航」の抜粋』2_p.565_23 K.Muler:
これら〔地理学上の諸問題〕を理論的に調べようと思った人々とは、ロードス人で、プトレマイオス2世の操舵長だったティモステネース、これの後では、ムゥセイオン注1)の保護者たちがベータと呼んだエラトステネース、かてて加えて、マッサリア〔マルセイユ〕人ピューテアース、カラクス〔ペルシア湾最奥の都市〕人イシドーロス……
4.1
ストラボーン『世界地誌』III_4_4(=Sphairopoiia F 30 S.225, 17_21):
……けれども、わたしに思われるところでは、これら(scil. ホメーロスの)所論を多くの点で弁護、修正することは可能であり、とりわけピューテアースの説を検証するさいにはそうである。この人物は、自分の説の信奉者たちが、西方の諸地域や太洋オーケアノス沿いの北寄りの地域について無知だったのをよいことに……
5.1
同上 II 3, 5:
……「そこで、わたしとしては」と彼(ポセイドーニオス『オーケアノスについて』87 F 28, 9ff. F.Jacoby)は謂う、「エウドクソスをめぐる体験談を辿ってここまできたが、これから後にどんな結果になったかについては、ガデイラ市をはじめイベーリア地方の出身者たちが知っていることだろう」。とにかく、彼〔ポセイドーニオス〕の謂うには、以上の話をまとめて考えてみれば、人の住む世界のまわりを大洋オーケアノスがぐるりと囲むようにして流れていることが証明される――
「大陸が鎖となって大洋のまわりに巻きついているのではなく、
大洋はいつ果てるともない間その水を注ぎつづけてきた。
何ひとつ大洋を汚すものはない」。
ポセイドーニオスこそ、すべての点で驚きあきれた御方だ。すなわち、著者は、〔ポントスの〕ヘーラクレイデース(F 56 O.Voss)が述べたマゴス僧の周航を証人なしとみなし、さらにまた、ヘーロドトスが記録する(IV 42)ダレイオス王派遣の一行の〔周航〕をも、〔証人なしとみなしながら〕、今述べたベルゲ人話〔ベルゲのアンティパネースの(A)&pista)流の驚異譚〕は、エウドクソス本人の創作か他人の創作を信用して伝えたのかはともかく、これを信用できる部類に入れたのである。しかし、何よりも先ず、インドス人の話にある「運命の思わぬ転変」にいったいどれほどの説得力があろうか。……しかし、ボゴス王のもとを逃れた後も、島へ移住できるほどの準備を整えて、再びリビュア大陸沿いに航海するのを、はたして〔エウドクソスは〕恐れなかったろうか。要するに、以上の話の内容は、ピューテアース、エウエーメロス、アンティパネースの嘘吐き話にくらべてほとんど遜色がない。しかし、これら3人はまるで手品師のように当の嘘吐きを仕事にしているのだから容認してもよい。しかし、今の話を述べた〔ポセイドーニオス〕は論証家で哲学者、それも一、二を争うといえそうな学者だから、誰だって容認するものはいないだろう。そこで、以上の話は当を得たものではない。
"6a".1
同上 I 4, 2_5:
引き続いて、人の住む世界の幅を確定しようとして、彼〔=キュレーネーのエラトステネース『世界地誌』F II C 2.18 H.Berger〕は謂う。メロエー市から、この〔市〕を通る子午線上に、アレクサンドレイア市に到る間の距離が、1万スタディオン、そこからへッレース・ボントス海峡へ約8100スタディオン、さらにポリュステネース〔ドニエプル〕河〔口〕へ5000スタディオン、そしトゥレー島を通る〔北極〕圏――ビュテアスの謂うには、ブレッタニア島から北方へ6日間の航海里程だけ離れ、氷海の隣りにあるという――までが、さらにおよそ1万1千500スタディオンとなる。従って、わたしたちが〔亡命〕エジプト人たちの住む島、キンナモーモポロス〔肉桂産地〕、タプロバネー島を得るために、メロエー市を越えて〔南に〕もう3400スタディオンをさらに加えるなら、〔幅の合計は〕38000スタディオンとなるだろう。
そこで、〔次の件より〕ほかの距離については、この〔著者〕によって与えられたとおりとしよう。充分な同意を得ているからである。しかし、ポリュステネース〔ドニエプル〕河からトゥレー島を通る〔北極〕圏へ至るまでの〔距離〕については、心ある人なら誰がこれを認めるであろうか。すなわち、トゥレー島のことを報告したビュテアスという人物が無類の嘘つきだということは、検証されたし、ブレッタニア〔ブリテン〕やイエルネー〔アイルランド〕島を見た人々でも、ブッレタニア島の周囲にある他の諸島のことは小さなものでも言っているのに、トゥレー島について何も言っていないからである。また、当のブレッタニア島も、その長辺がケルト地方にほぼ平行に伸びて、5000スタディオンを越えず、〔ケルト地方に〕向かい合った両端によって限られている。すなわち、〔島の〕東端が〔本土の〕東端に、西端が西端に互いに向かい合い、東端同士は島のカンティオン〔ケント〕岬と本土のレーノス〔ライン〕河口とが互いに見渡せるほどに近い。ところが、彼〔ビュテアス〕は島の長さが2万スタディオン以上に及ぶと言明し、カンティオン岬はケルト地方から海路数日間を要するほど離れていると謂う。また、オースティダイオイ族の地方についても、レーノス河の対岸にあたってスキュタイ族の地方にかけての地域についても、の何れのばあいも、地理上の位置についてことごとく嘘をついた。従って、誰にせよ、よく知られている諸地域についてこれほどにひどい嘘をついた者が、誰も知らない諸地域について真実を述べることなど、まず出来はすまい。
また、ヒッパルコス(『エラトステネースに寄せて』F V 13 d H.Berger)そのほかの研究者たちが、ポリュステネース河口を通る緯度圏がブレッタニア島を通るそれとおなじだと推測する所以は、ビュザンティオン市を通る圏がマッサリア市を通る圏と同じだからである。すなわち、〔ビュテアスは〕マッサリア市における日時計の棒とその影との比を述べたが、ヒッパルコスも、これと同じ日が廻ってきた時に、ビュザンティオン市で同じ比になったのを発見したと謂っている。そして、マッサリア市からブレッタニア島中央部への距離は5000スタディオンを越えない。しかも、このブレッタニア島の中央部から先へ進むと、4000スタディオンを越えないうちに、読者は、かろうじて居住できそうな場所――これがイエルネー島周辺の地域かも知れない――を見出すことだろう。従って、それを越えて先に、〔エラトステネース?〕はトゥレー島をそこに遠ざけるのだが、もはや居住できる地域はない。だから、トゥレー島を通る圏からポリュステネース河口を通る圏までの長さを11500スタディオンと言う際、いったいどんなふうに推測したのかさえ、わたしには見当がつかない。
また、〔エラトステネースは〕幅の数値を誤ったので、必然的に長さの数値をも的中させることができなかった。すなわち、一般に知られている世界はその長さが幅の二倍以上に及ぶ、という説には、後世の研究者たちだけでなく古代でも一番高い教養を積んだ人々が同意している。ここで、二倍というのは、インド地方の(東)端からイベーリア地方の(西)端までの長さが、エチオピア族の地方からイエルネー島に沿った圏までの(南北間)幅の二倍だ、ということである。しかし、〔エラトステネースは〕上記の幅、すなわちエチオピア族の地方の南端からトウレー島を通る圏までの数値を定めると、長さを上記の幅の二倍以上にするため、こちらをも正当な数値以上の距離に引き伸ばしている。とにかく彼〔エラトステネース〕の謂うのには、インド地方のうちで一番狭い区域はインドス河に到るまでの地域で、これが16000スタディオン――岬状になった地域へ伸びる区域がさらに3000スタディオン加わる――、また、インド地方からカスピアイ・ビュライに向って1万4000スタディオン、そこからエウプラテス河へ1万スタディオン、このエウプラトス河からナイル河まで5000スタディオン、ここからカノーボス河口までさらに1300スタディオン、そこからカルケードーン市へ1万3千500スタディオン、そこからヘーラクレースの柱まで少なくとも8000スタディオン。従って(合計では)7万を800越えるスタディオンの長さとなる。
さらに、ヘーラクレースの柱より外側にあたって、ヨーロッパ大陸のふくらみ区域があり、これイベーリア族の地方と向かい合い、西の方へ突き出ている。その区域が3000スタディオンをくだらぬが、これをも加えなければならないという。また、いくつかの岬状地域があるなかで、とりわけオースティダムニオイ族の地方の岬、一名カバイオンと、これに面した諸島がある。ビュテアスはこれらの島の一番外れにあるウゥエクシサメー島が(岬から)三日の航路里程だけ離れていると謂っているが、これらをも加えなければならない。以上の最果ての諸地点は、世界の長さ方向へはまったく何の足しにもならないと云いながら、(これらの)岬地帯、オースティダムニオイ族の地方、ウゥエクシサメーそのほか、この著者が名を列挙する諸島に関する数値を加えた。しかし、実際には、〔エラトステネースが〕謂うには、これらの地域はすべて北方に位置し、イベーリア地方でなくケルト地方に属し、あるいはむしろビュテアスの創作物である……
"6b".1
同上、II_1_12. 18:
……続いての問題も、大きな困難に満ちている。まず、インド地方の南端地域がメロエー方面の地域と〔同一緯度線上で〕対応していること、メロエーからビュザンティオンに面した〔黒海〕入口ヘ向う間の距離は約1万8000スタディオンであること、の二点を変更しないこととする。同時に、インド地方の南端地域から(北端の)山脈までの距離を3万スタディオンとすることとする。しかし、そうなるとどれほど奇妙な結論が生じるものか、読者もおわかりになれよう。すなわち、まず、ビュザンティオン市を通る緯度圏がマッサリア市を通る圏と同じだ、とする。これは、ヒッパルコス(『エラトステネースに寄せて』F V 13 bc H.Berger)がビュテアスを信用した上で述べる説でもある。また、ビュザンティオン市を通る子午圏がポリュステネース河〔口〕を通る圏と同じだとする。そして、まさしくこの説をヒッパルコスは自分でも認め、さらにまたビュザンティオンからポリュステネス河口へ向う間の距離が3700スタディオンであることをも認めている。従って、そうだとすると、マッサリア市から、ポリュステネース河口を通って、少なくともケルト地方の大洋オーケアノス沿岸地帯を通るはずの緯度圏へ向かう間の距離も、上記のスタディオン数と同じになるだろう。すなわち、ほぼこれだけの距離を通過すれば、大洋オーケアノスに出会うことになろう……
しかし、少なくともヒッパルコス(ebd. 16)の謂うには、ポリュステネース河口やケルト地方の一帯では、夏の間を通じて終始、太陽の光は夜間に日没の方角から日の出の方角へと廻る間も輝きつづけるが、冬至の頃になると、太陽は一番高く昇っている時でも9ペーキュスである。しかし、マッサリア市から6300スタディオン離れた諸地域――くだんの人〔ヒッパルコス〕は、この諸地域がなおケルト地方に属すると想定しているが、わたしとしては、これらはブレッタニア族の島であり、ケルト地方よりなお2500スタディオン北へ寄っていると思う――では、この現象はこれよりはるかに著しくなる。ともかく、〔今問題にした地域では〕太陽は冬の間の日中には6ペーキュスまで昇り、マッサリア市から9100スタディオン離れた地域では4ペーキュス、それを越えて向こうの諸地域では3ペーキュス以下になる。そして、わたしたちの所論によると、最後にあげた地域はイエルネー島よりはるか北に寄っていることになろう。ところが、この人〔ヒッパルコス〕はビュテアスを信用して、この居住地域をブレッタニア島より南の地帯に置き、このあたりでは昼が一番長い時には〔1昼夜を24等分した〕19標準時間になる、という。また、太陽が4ペーキュス昇る地帯では18時間になり、ここはマッサリア市から9100スタディオン離れていると述べている。従って、ブレッタニア族のうち一番南の住民でもこの地帯の住民より北寄りにいることになる……
"6c".1
同上、II_5_7f. 41:
……再び〔シュエネーを基点にとると〕ナイル河の流れの延長上をまっすぐにアレクサンドレイアからロドスへ向かう航路があり、そこ〔ロドス〕からはカリア、イオニア両地方の沿岸航路があって、トローアス地方、ビュザンティオン市、ボリュステネース河口に到ることは誰しも同意することである。従って、よく知れ渡り現に船が往来している区間の距離を算定した上で、この河口より上にあたって今のべた線に沿いながらまっすぐに伸びた地域が、どこまでの間で居住に適し、人間の住む世界の北側区域の境界がどこまでか、を調べるのがふつうである。ところで、ポリュステネース河口より上の方で周知のスキュタイ族のなかでも一番奥地に住むのはロークソラノイ族だが、これは、ブレッタニア島より上の方にあたってすでに知られている最果ての住民よりも、南に位置する。そして、その地方を越えた地域はすでに寒さで居住できない。マイオーティス湖より上の方にあたるサウロマタイ、スキュタイ両族も、東方スキュタイ族を含めて、これら〔ロークソラノイ族〕よりさらに南に位置する。
そこで、マッサリア人ビュテアスは、ブレッタニア諸島のなかで一番北寄りのトウレー島一帯が人間の住む世界の最果ての地域であり、この地域では夏至の回帰圏が北極圏と同一である、と説明する。しかしトゥレーという名のひとつの島が実在することも、ここでは夏至の回帰圏が北極圏となり、ここまでは居住に適しているかどうかについても、わたしはビュテアス以外の人から何ひとつ聞いていない。わたしの考えでは、人間が住む世界の北限はここよりはるか南に寄っているとおもう。すなわち、今日出ているさまざまな報告を見てもイエルネー島より先については説明できている例がひとつもなく、この島はブレッタニア島の北側前方にあって後者の島からは近く、住民はまったく未開人で寒さのためにひどい暮らしをしているから、ここを北限地としなければならない、とわたしは考えている。また、ビュザンティオンを通る緯度線が、ほぼマッサリアを通っているとは、ヒッパルコス(『エラトステネースに寄せて』F V 13f H.Berger)がビュテアスの説を信用して述べるているところで――すなわち、ビュザンティオンで日時計の棒がその影に対して持つ比は、ピューテアースがマッサリアにおける比として述べた数値と同じであると〔ヒッパルコスは〕謂う――、また、ポリュステネース河口を通る緯度圏は、上記の圏から約3800スタディオン離れているから、マッサリアからブレッタニアに向かう間の距離を基にすれば、ポリュステネースを通る圏は、ほぼブレッタニア島にあたるだろうともいうのである。しかし、ビュテアスはいったいにいたるところの土地について世間の人を欺いているが、このあたりの地域についてもすっかり嘘をついている。すなわち、〔ヘーラクレースの〕柱、ボルトモス海峡、アテーナイ、ロドスそれぞれの周辺地域へ向かう線が、同じ緯度線上に位置することは、多くの研究者たちによって一致承認されてきている。また、これも一致承認されていることだが、柱から海峡へ向かう線は、内海のほぼ中央を通ってもいる。さらに、船乗りたちによると、ケルト地方からリピュア地方へ向かう海路は、ガラティア湾を起点とする場合、5000スタディオンで、これが内海の最大幅にもあたる。従って、上記の緯度線から湾奥へ2500スタディオン、マッサリア市へはこれより短かい。すなわち、マッサリア市は湾奥より南に位置する。しかも、ロドス島からビュザンティオン市へは約4900スタディオンだから、ビュザンティオンを通る緯度圏は、マッサリアを通る圏よりはるかに北へ寄っていることになろう。また、後者の圏からブレッタニア島へ向かう間の距離を、ビュザンティオンからポリュステネース河口へのそれと合致させることは可能だとしても、この島からイエルネー島へ向かう間については、これをどれだけの距離とするか、これよりもっと先まで居住に適しているのかどうか、もいっさいよくわかっていない。そして、先に述べた批判に注意すればこれらを問題にする必要もない。すなわち、南側区域については、メロエー市より上の方で3000スタディオンの地点まで進むと、そこに居住に適した地方の限界を置くのが適当だった――この限界設定は、厳密きわまるものとはいえないかも知れないが、少なくとも、それにごく近い――、そこで、これと同じくブレッタニア島方面でもこの島より上の方に今あげた距離数以上の距離を置く必要はないし、もしあったとしても少しばかり長い、たとえば4000スタディオンを限界とすべきである……
……ビュザンティオン市一帯では昼間の一番長い日には15標準時間と四分の一、日時計の棒と影の比は夏至の時に120対42に五分の一だけ足りない値〔すなわち、120:41.8=600:209〕となる。そして、これらの地点はロドス島中央部を通る圏より約4900スタディオン、赤道からだと3万300スタデイオン、それぞれ離れている。
"6d".1
同上、II_5_43:
……大陽は、宇宙が回転する間中、大地より上方を運行しているから、あきらかに影も日時計の棒のまわりを円を描いてまわる。彼(ポセイドーニオス『オーケアノスについて』87 F 76 F.Jacoby)がこの地域の住民を「四方に影の落ちる人々」と呼んだのも、まさしくこの理由だった。ただし、地理記述にとってこのような住民のことはまったく無関係である。すなわち、これらの区域は寒さのため居住に適さないし、このことはわたしたちがビュテアスを批判したところで述べたとおりである……
"6e".1
同上、IV_4, 1:
オイシスミオイ族がいる――これをピューテアースはオースティダイオイ族と名づける――彼らは大洋オーケアノスの方へたっぷりと突き出たある岬〔ブルターニュ半島〕の上に住んでいる。ただし、この突き出しは、くだんの人物〔ピューテアース〕やその信奉者たちが謂うほど長くはない。
"6f".1
ビュザンティオーンのステパノス『地理学事典』p.712, 21 A.Meineke:
オースティオーネス族は、西方オーケアノスのほとりにいる、これをアルテミオドーロス(『世界地誌』F 34 p.206 R.Stiehle)はコッシノイと謂い、ピューテアースはオースティダイオイと〔謂う〕。「この左に、コッシノイ、いわゆるオースティオーネスがおり、これをピューテアースは『オースティダイオイ』と命名している」。
"6g".1
ストラボーン『世界地誌』IV_5, 5:
トゥレー島については、僻遠の地だから、その報告はなおさらはっきりしない。人々はこの島を地名のついた土地の中でもいちばん北にあるとしている。ピューテアースがこの島とこの方面にあたるそのほかの諸地域について述べているが、これがまったくの創作であることは、人びとに馴染み深い諸地域をもとにして考えれば明白な事実である。すでに述べたとおり、この著者は周知の諸地域のほとんどについて嘘をついている。したがって、僻遠の諸地域についてなおさらひどい嘘をついたことは、明らかである。
ただし、著者がこれらの問題を天空事象や数学理論に充分かなった仕方で扱っている、と思えないこともない。〔その話によると〕凍りついてしまった地域地帯に近い住民にとって栽培作物や家畜は種類によって完全に不毛であるか、あるいはほとんど育たないし、住民は、キビとそのほかの野菜、果実、根類を食べている。穀物と蜂蜜ができる地域の住民はこれから飲み物を作っている。〔収穫期には〕太陽が明るく照らす日がないから大きな建物の中へ穀物の穂を集めておいて、その中で叩く。日が射さず雨が降るから〔戸外の〕麦打ち床は役に立たない。
"6h".1
同上、VII_3, 1:
……上記の諸地域について〔現実には〕何もわからないために、リパイア山脈やヒュペルボレイオイ族について作り話を述べる人びとがいるし、マッサリア人ピューテアースが天空事象や数理的な知識に関わる報告で格好をつけながら大洋オーケアノス沿いの諸地域について人びとを欺いている例の嘘話がある。そして、これらの説が世にもてはやされているのは、。そこで、この連中のことは取りあげないでおく。……〔ポセイドーニオス『オーケアノスについて』87 F 104 F.Jacobyに続く〕
"7a".1
同上、II_4_1f:
ポリュビオス(『歴史』XXXIV 5 Th.Butner_Wobst)は、ヨーロッパ地域誌を著わした際に、古代の地理家にはふれないで、これを反駁した以下の人々の所論を検討する、と述べている。ディカイアルコス(F 111 Fr. Wehrli)しかり、地理記述についての労作を著わした最高権威エラトステネース(『地誌』F III B 1[I B 7]H.Berger)しかり、ピューテアースしかり。この人物〔ピューテアース〕には、多くの人たちが聴従し、この人物がブレッタニア島で足を踏み入れることのできるところを隈なく歩きまわったと主張し、島の周囲が4万スタディオンを越える、と説明したのを信じた。また、これに加えて、トゥレー島と例の諸地域についての事情を何かと報告したが、後者の地域内では陸地、海、大気のいずれも、もはや個別に存在することはなく、これら三者のいわば複合体となり海にいるくらげに似た姿のものになっている。陸地や海などあらゆるものがこのくらげのなかで「漂い」、くらげはあたかも全体を繋ぐ「鎖」にも似て、徒歩でも船でも通過できない状態になっている〔と云った〕。さらに、くらげに似た姿のものについては自分で目にしたが、そのほかのことについては(地元での)伝聞を基に言っている〔とピューテアースはいう〕。ビュテアスの話は以上だが、当人はさらにこの地域から帰ると、ヨーロッパ大陸の大洋オケアノス沿岸地帯全域をガデイラ市からタナイス川までつぎつぎに訪れた、とも〔述べている〕。
ところが、ポリュビオスの謂うには、一民間人で資力もないものに、これほど長い距離の間を船や徒歩で旅することができた、ということがそもそも信用できないという。ところが、エラトステネースは、以上の話を信用すべきかどうかに懸念を抱いたのに、ブレッタニア島についてもガデイラ市イベーリア地方一帯についても、この人物の話を信用してしまった。しかし、この男を信用するくらいなら例のメッセニア人〔エウヘーメロス〕を信用した方がよほどましであると〔ポリュビオスは〕謂う。たしかに、後者〔エウエーメロス〕は少なくともただの一地域バンカイアまでは航海したと説明するが、前者〔ピューテアース〕はヨーロッパの北方全域を世界の最果ての地までも見渡してきたと説 明する。こんな話ではヘルメースが語り手だったところで、信用する人は誰もあるまい。
しかし、〔ポリュビオスの謂うには〕エラトステネースは、「エウエーメロスの方をベルゲ人〔ベルゲのアンティパネースの流儀による〕」と呼びながら、ピューテアースの方を、ディカイアルコスすら信用しなかったくせに、信用しているという。しかし、ディカイアルコスですら信用しなかったという文句 は笑止なもので、これではまるで自分であれほど多くの反論を述べたてた当の相手を判定基準に利用しているようなものである。
また、エラトステネースには、ヨーロッパ大陸の西部および北部の両区域についての実地の知識が欠けていることは、すでに述べた。しかし、この〔エラトステネース〕とディカイアルコスとは、これらの地域を直接目にしなかったのだから、容認もできる。しかし、(実地に見たことのある)ポリュビオスとポセイドーニオス(87 T 17b F.Jacoby)を、誰が容認できよう。……
"7b".1
メガロポリスのポリュビオス『歴史』XXXIV 6, 15 Th.Butner_Wobst:
ベルゲ人アンティパネースが、無駄話に終始し、無駄話で凌駕し、要するに、後世の誰ひとりにも、愚かさで凌駕することを許さなかったと思われるいうことが、どうして当然でないことがあろうか。
"7c".1
ストラボーン『地誌』IV_2_1:
他方、レイゲール〔ロアール〕河はピクトネス、ナムニタイ両族の地方の間で海へ注ぐ。以前、この河畔に交易地コルビローン〔サン・ナゼール〕があって、ポリュビオスは、ピューテアースの作り話に触れた際、この市について述べている(『歴史』XXXIV_10_6f. Th.Butner_Wobst)。それによると、スキピオと交友関係にあったマッサリア市民は、スキピオからブレッタニア島について質問を受けたおり、とくに触れるほどの説明を誰ひとりすることができなかった。また、ナルボーン〔ナルボンヌ〕、コリベーローン〔コルビローンに同じか?〕両市のいずれもまさしくその地方でいちばん立派な市だったのに、これらの市から来た人びとも説明できなかった。ところが、ピューテアースは厚かましくもあれほど長々と嘘をついた。
8.1
同上、III_2_11:
……昔の人たちは、バティス〔グアダルキビル〕河を「タルテーッソス」と呼び、ガデイラ〔カディス〕と、これに向かい合う諸島を〔一括して〕「エリュテイア」と呼んでいたらしい。ステーシコロス(F 4 E.Diehl 2)が牛飼いゲーリュオーンについて次のように歌ったのもそのためだと考えられている。その詩によると、「牛飼いが生まれたのは――
名も高いエリュテイアの対岸のあたり、
タルテーッソス河の源、その限りなく湧き
銀の根を持つ泉のそばの、
岩陰の隠れた洞のうちだった」。
河口は二つあって、市は以前は両河口の間に築かれ、その名を河と同じく「タルテーッソス」といい、その一帯を「タルテーッシス」と呼んだ。この地方は今日ではトゥルドゥロイ族の居住地となっている。エラトステネース(『地誌』F III B 122 H.Berger)も、カルペー市に隣りあった地方は「タルテーッシス」、また「エリュティア」は幸島とそれぞれに呼ばれていると謂う。
アルテミドーロス(『地理書』F 11 p.201 P.Stiehle)によるエラトステネース批判――しかし、アルテミドーロスは前者に反論して、相手の上記の説明は誤りだという。同じようにして、前者はガデイラからヒエロン岬へ船旅で五日間の距離があるというが、実際には1700スタディオンを出ない。また、引き潮はこの岬までで終るというが、実際には人の住む大地全域のまわりで起っている。ケルト族の地方へ行くには、イベーリア地方の北寄りの区域を陸路で通る方が、大洋オケアノス方面を船で行くより容易だというし、そのほかのことでもビュテアスの説を信奉して述べ立てているが、いずれの説明もビュテアスのほら話がもとで誤まっている。
"9a".1
"ゲミノス"『天象学入門』6, 8f. (=Sphairopoiia F 37a 6, 8f. S.261, 11_263.3):
……プロポンティスよりもさらに北の住人たちにとっては、最長の昼は16標準時間に及び、さらに北の住人たちにとっては、最長の昼が17標準時間、18標準時間になる。
これらの諸地方には、マッサリア人ピューテアースも行ったことがあると思われている。じっさい、彼の研究に成る『大洋オーケアノスについて』のなかで、彼は謂っている。「……異邦人たちはわれわれに太陽の眠るところを示した……」。しなわち、それらの地方では、夜は短く、ある者たちには2時間、ある者たちには3時間になり、そのため、日没後、わずかな間隔を置いて、太陽がすぐに昇ることになったのである。
"9b".1
インド航行者コスマス『キリスト教地誌』II p.82, 18 E.O.Winstedt:
マッサリア人ピューテアースは、『オーケアノスについて』の中で謂っている。彼が極北の地に着くと、その地の異邦人たちが太陽の寝床を示し、ここで夜な夜な〔太陽は〕いつも彼らのところにとどまるといったと。
断片10〜13
欠番。
14.1
クレオメデース『天空の天体観察』I 7 p.68, 6_70, 22 H.Ziegler:
……それゆえ、日の長短も、これらの〔緯度〕では、最大の変化に達する。例えば、言われるところでは、ブレッタニアでは、太陽が蟹座にあり、昼間を最長にするとき、昼は昼夜平分時のおよそ18時間、夜は6〔時間〕になる。それゆえ、これらの〔緯度〕では、夜の時間帯にも光があるという。太陽そのものが地平線に沿って周回し、地上に陽光を射すからである……
14.10
それゆえ、ブレッタニアにおいても、夜間に光があり、読書さえできるほどである。というのも、それが当然至極であるのは、謂われているところでは、そのとき太陽は地平線に沿って進行し、大地のより深いところを通過するのではなく、これらの〔緯度〕では、大地の下にある夏至回帰圏の弧が最短になるからである。
また、トゥレーと呼ばれる島――マッサリアの哲学者ピューテアースが行ったことがあると謂われる――についていえば、話では、当の夏至回帰圏の全体が地上にあり、これらの〔緯度〕で北極圏となる(だから、そこでは、24時間が昼間である)〔Figure1参照〕。これらの〔緯度〕においては、太陽が蟹座にあるとき、少なくとも、これらの〔緯度〕において、蟹座の部分がすべて地平線上にある場合、さもなければ、その、地平線上に見える〔蟹座〕の部分に太陽がある間は、昼間は数ヶ月におよぶ。
しかし、この島からさらにほぼ北の方へ進む者たちにとっては、その度合いに応じて、蟹座に加えて、獣帯のさらに別の部分も地平線上に見えるようになる。そうして、こういうふうにして、それぞれの〔緯度〕で地上に現れる星座をその〔獣帯の〕太陽が通過する間が、昼間となる。だから、地上のクリマがあるのは必然で、そこでは、昼が2ヶ月3ヶ月、さらには4ヶ月5ヶ月になる〔Figure2参照〕。
そして、北極点そのものの下では、獣帯の星座のうち6星座が地〔平線〕上にあるから、これら地平線上にある星座を太陽が通過する間、昼となり、これらの〔緯度〕では、地平線も北極圏も昼夜平分圏も同じ圏となる。すなわち、トゥレーにいる人たちにとっては、夏至回帰圏は北極圏と一致する。なおもっと奥地の人たちにとっては、北極圏は昼夜平分圏を加えた部分にまで、相応の割合で夏至回帰線を押し上げる。そして、北極点そのものの下にいる人たちにとっては、昼夜平分圏は3つの位置を占める。つまり、それは北極圏と一致する。これらの緯度では、地平線上に現れる星たちを〔昼夜平分圏が〕取り囲み、〔星たちは〕どれも沈んだり昇ったりしないからである。地変線と一致する。地〔平線〕上にある宇宙の半球を、地〔平線〕下にある球体から分離させるからである。昼夜平分圏と一致する。それ自体が、これら〔の緯度〕では、昼と夜とを等分に分かつからである。この〔昼夜平分圏〕は、その他のどの緯度においても昼夜平分とはなっても、もはや地平線とも北極圏とも一致することはないのだが……
15.1
ロードスのアポッローニオス『アルゴナウティカ』IV_761への古注65a:
「それから、ヘーパイストスの鉄床が〔頑丈な槌で打たれている海岸〕へ行って……」というのは、アイオロスの7島のことである。このうち、リパラとストロンギュレーと呼ばれる島で、ヘーパイストスは暮らしていると思われ、火の爆ぜる音や槌の響きが聞こえると〔思われている〕。昔は、短剣を手に入れたい者とか、何か他の得物をこしらえたいときは、製錬しない鉄を運ぶと、次の日までに 報酬を払った。これを伝えているのは、ピューテアース『大地の旅』で、海も沸き立つと言う。アイオロスの島々とは、次の7つである。ストロンギュレー、エウオーニュモス、リパラ、ヒエラ、ディデュメー、エリコーデース、ポイニコーデース。
2006.02.14. 訳了。
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