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インド誌

メガステネース断片集






[略伝]
 アレクサンドロス大王は西紀前326年にインドに侵入し、西部インドを攻略したが、翌年、西方に帰還し、323年7月バビロンで客死した。その後、西北インドはしばらくの間ギリシア人の軍事的制圧下にあった。西紀前322年頃にチャンドラダブタという青年が挙兵して、マガダ王となり、マウリヤ王朝を創始したが、かれは西北インドからギリシア人の軍事的勢力を一掃し、インド史上はじめてインド全体を統一した。たまたまシリア王セレウコス・ニーカトールがアレクサンドロスの故地回復を志して、305年にインダス河を越えて侵入して釆たが、チャンドラグブタはその軍隊を撃破した。両王の講和成ってのち、セレウコスの大使としてチャンドラグプタ王の宮廷に派遣されたのが、このメガステネースである。

 メガステネースはギリシア人であり、イオーニアの純粋のギリシア人の家系の出身である。かれはシリア王セレウコス・ニーカトールの使臣としてアラコシアの太守であるシビルティオスの宮廷に来り、次に、そこから王の大使としてバータリブトラのチャンドラダブタ王の宮廷に派遣された。チャンドラグプタは当時のインドの支配者であったが、かれとしばしば会見したという。インドに滞在していた期間は不明であるが、チャンドラグブタ王とセレウコスとの講和は西紀前304年または303年であるから、そののち、まもなくインドに派遣され、292年頃にインドを去った。かれはおそらく305-290年の間の人であるから、したがって、後人のしるすように、セレウコス・ニーカトール(西紀前358-280年)とほぼ同時代の人である。

 メガステネースはつねに首都バークリプトラに滞在し、しばしばチャンドラグプタ王と会見したが、また閑暇には視察・調査の小旅行を行なっていた。ただしこの小旅行も、今日のビハールのベンガール以外の土地にほ及ばなかったらしい。ガンジス河以東については、かれは何も知っていない。また西方地域については、せいぜい往復の途中通過する際に、皮相の観察を行なったにとどまる。デッカン地方に関する記述もきわめて乏しい。(中村元『インドとギリシアとの思想交流』春秋社、昭和43年5月、p.264-266)



[底本]
TLG 1489
MEGASTHENES Hist.
(4-3 B.C.)
3 1
1489 003
Fragmenta, ed. K. M[u]ller, FHG 2. Paris: Didot, 1841-1870: 402-439.
frr. 1-43.
5
frr. 8, 14, 16, 31-33 verba Latina solum.
(Q: 13,144: Hist.)



[邦訳]
 以下の邦訳を利用させていただいた。
  中野定雄・里美・美代訳『プリニウスの博物誌』(雄山閣、昭和61年5月)
  飯尾都人訳『ギリシア・ローマ世界地誌』(龍渓書舎、1994.7.)
  飯尾都人訳『ディオドロス神代地誌』(龍渓書舎、1999.6.)
  アッリアノス(大牟田章訳)『アレクサンドロス大王東征記 付 インド誌』(岩波文庫、2001.6.)




"t1-43"
『インド誌』
(梗概)

断片1
Diodorus II, 35:

 [1]そもそも、インディケーはその形状が四辺形で、日の出の方角に面した辺と、南中の方角に〔面した辺〕とは大海が取り囲み、熊座の方角の辺は、エーモードン山がスキュティア――ここに定住しているのは、スキュティア人たちのうちのサカイと命名されている人たちである――との間を隔てている。第4の、日没の方角を囲繞している辺を限っているのが、インドスと命名されている河で、これはあらゆる河川の中でも、ナイルに次いでほとんど最大の大河である。
 [2]インディケー全域の大きさは、一般には、日の出の方角から日没の方角までが28000スタディオーン、熊座の方角から南中の方角までが32000スタディオーンといわれている。大きさがこれほどであるので、何よりも先ず、世界の夏至地帯〔夏至から秋・春分までに太陽が真上を通る地帯。緯度が23度27分までの熱帯地方〕を含んでいると思われており、インディケーの〔南端の〕岬地帯では、多くの場所で、日時計の影が消え、夜は、熊座が見えなくなるのを眼にすることができる。また〔南の〕最果ての地では、北極星そのものさえ姿を見せることがない。話によると、この地帯になると、影も南中の方角に落ちるという。

 [3]ところで、インディケーは山地が多く、しかも大きくて、多種多様な実のなる樹木にあふれ、また平野も多く、しかも大きくて、実り豊かで、美しさは秀抜で、河川の多さで区別される。また田舎の大半が潅概され、このため、年ごとの収穫が二度もある。動物は、陸棲にせよ、あるいはまた鳥類にせよ、大きさといい、勇猛さといい、秀抜な多種多様なのにあふれている。
 [4]またゾウも、最多・最大なのを産するのは、〔この地方が〕餌を無尽蔵に供給するからで、この餌のおかげでこの獣は、リビュエー産のそれよりはるかにすぐれている。それゆえ、インドイ人たちによって多数が狩られるが、これが戦闘用にも備えられ、戦勝のために大きな役割を果たすこととなっている。

 Diodorus II, 36:
 [5]同様にして、実り豊かな土地柄からして、人間たちも背丈と体重とでずば抜けたのを備える。彼らはまた諸術知にも長けているが、これは空気の清浄なのを吸い、水のこの上なく粒子の細かいのを飲むからであろう。
 [6]また、大地は栽培作物にあらゆる実りをもたらす上に、あらゆる種類の鉱物がいずれも豊かで、その地下鉱脈もある。すなわち、地下にあるのは、大量の銀や金、銅や鉄も少なからず、さらに錫や、そのほかにも、装飾用・生活用・戦闘用の武器に関連する鉱物である。
 [7]この地方には、デーメーテール女神由来の(小麦)穀物を別にしても、きびが多く生えるのは、河の流れが豊かなため灌漑できるからで、豆類も多く生え質も格段によい。さらに、稲や「ボスポロス(インドきび)」と、これらにつづいてそのほか数多くの食用穀物が生え、これらは大半が自然に生える。これらのほかにもかなりの数の食用植物を産し、これによって動物を養うことが出来るが、これらについて誌すと話が長くなるかも知れない。
 [8]それゆえまた、話によると、インド地方を飢饉が襲ったり、または、総じて文明社会で食べてゆくのに関連のある作物が欠乏したことは、絶えてなかった。この地方には降雨季が毎年2度生じ、1度は冬季で、これはほかの諸族の地でも同じ、この時期に小麦作物の種播が行われるが、もう一度夏至頃に稲とインドきびの種を播くことになり、さらに、ごまやきびの種を播く。ほとんどの場合インド地方民はこれら両方の穀物を収穫するが、(少なくとも)どちらかの種類の穀物が実るから、何ひとつ収穫できない、ということはない。
 [9]自生穀物や沼沢地帯に生える根類は格段に美味しく、人々はこれらの恵みをひじょうに豊かに受ける。この地方の平野ではほとんどすべてのところで、川からの水が美味しく、この点では雨水も同じで、降雨は毎年夏季に一種の循環周期に従い、その豊かなことは常識で考えられないほどになる。美味しいのは、大地を取り巻く大気から水の温かなのが落ちてくるからで、また、暑熱が沼沢地帯の根類とりわけ大型の葦のそれを、煮熟するからでもある。
 [10]さらにインドイ人たちの間では、自分たちの間に食料の欠乏がけっして起きることのないようにするための仕来りがあるのも、役立っている。ほかの諸族の間では、敵の軍勢が土地を荒らし尽して耕作できないようにするのに、この人々の間では農民は神聖不可侵の身分が許され、兵が対陣している近くで耕作していても、身の危険を感じなくてよい。すなわち、戦闘中の兵が両軍共に戦場で殺し合っているのに、耕作に従事している人々は被害を受けずにすむ。そのありさまは、まるで耕作者は双方に共通して功労者だとでもいうようであり、また交戦相手の土地に火をかけ果樹を切り払うこともない。

Diodorus II, 37:
 [11]インドイ人たちの地方は河川も多く、いずれも大きくて舟の往来が出来る。その源を北へ向いた地域の山々の中に発し、平野部を通って進むと、そのなかでもかなりの数の流れは互いに合流しながら「ガンゲス」河へ注ぐ。
 [12]この河は幅30スタディオーンに達して、北から南向きに進み、大洋オケーアノスに流れ出るが、その間東側地域へ向かってはガンダリダイ族の地を限り、流域にはゾウが数も一番多く一番の大型でもある。
 [13]それゆえ、異国出でこの地方を制した王も、ひとりとして出たことはなかったが、これは、ほかの諸族民がすべて、この地方の野獣(ゾウ)が数も多く力が強いのを、恐れたことによる。マケドニア出のアレクサンドロス大王も、アジア全土を制したのにガンダリダイ族とだけは戦わなかった。すなわち、全軍を率いてガンゲス河へ達し、そのほかのインド諸族を戦に破りながら、ガンダリダイ族がゾウ4000頭を戦闘用に装備させている、と聞いて、この族民へ向かって遠征するのを断念した。
 [14]ガンゲス河にほぼ匹敵するのが「インドス」河で、前者と同じく北方から流れを発し、大洋オケーアノスに注いでその間インド地方の(西の)境を限る。広大な平野地方を貫流しながら、かなりの数に上る支流の舟航可能なほどなのを迎え入れ、支流のなかで最も名高いのが、ヒュパニス、ヒュダスペス、アケシノスである。
 [15]また、これらを別としても、そのほかあらゆる種類の河川が数多く貫流し、そのおかげでこの地方には数多くの果樹園に果実が豊かに生る。[16]河川の数の多さとあり余るほどの水量の原因として、この族民の間の哲人や自然学者たち(physikoi)は、次のような点を持ち出す。その話によると、インド地方を取り巻く諸地方はスキュタイ族とバクトリア族の地方、さらにアリアノイ族の地方までもが、インド地方より高地となる。そのため、もっともな話だが、下方に位置する土地へあらゆる方角から流れが少しずつ集まると、これらの土地を水に潤ったものとし、数多くの河川を生む。
 [17]この地方に特有な現ゾウを示すのは、インド地方の諸川のひとつ「シラス」で、この川は同じ名の、とある泉から流れ出る。あらゆる河川のなかでこの川だけは、物を投げ入れると川面に浮ぶものは何ひとつなく、すべて川底へ沈んでしまうさまは、常識では考えられない事実である。

Diodorus II, 38:
 [18]話によると、インド地方は全体が並みはずれて広いから、あらゆる種類の部族が数多く住みつき、そのうちこの地方外起源の種族はひとつもなく、すべてがこの土地生え抜きのものと思われている。加えて異国からの入植団を受け入れたことも、ほかの族民の地へ植民団を送り出したことも、絶えてなかった。
 [19]この地の神話によると、最古の人々は大地から自然に生えた植物の実を食料とし、その地元に住む動物の皮を衣服としていた、という。ギリシア民の間でもこれに似た話がある。同じように、さまざまな技術そのほか暮らしに役立つ物の発明・発見も少しずつ行われた。それというのも、素質に恵まれ、あらゆるものを目指して両手、言葉、機転のきく魂、の助けを借りることのできる生き物の場合、必要をおぼえるだけで発明への道は開けるからである。

 [20]また、インドイ人たちの間でも言論の術に長じた人々が説く神話があり、これについては手短かに述べるのが適当かも知れない。話によると、最古の時代自分たちの間では、人々はまだ村落単位に住んでいたが、その頃ディオニュソスが、西方の地域から語りぐさとなるほどの軍勢を率いて、やって来た。そして、インド地方全域を攻めたが、その折、市といえるほどのものはひとつもないので、抗戦は不可能となった。
 [21]しかし、すぐに続いてひじょうな暑熱が生じ、ディオニュソスに従う兵たちは流行病にたおれたので、この指導者は抜群の知力の持ち主だったこともあり、陣営を平野地帯から山地へ移し去った。この地帯では冷たい風が吹き、水の流れは河川のほかならぬ源泉に近いため清浄なので、陣営の兵は病から解放された。山地内のこの場所はその名をメロスといい、ディオニュソスはこの地方で軍勢から病を取り除いた。
 まさしくそれ以来、ギリシア人もこの神について後世の人々に向かって、この神が高腿(メロス)のなかで育ててもらった、と伝えて来た。
 [22]この後、この指導者は果実の貯蔵に意を用いてインドイ人たちにこれを伝え、ぶどうの酒そのほか暮らしに役立つさまざまな物の、発明・発見の成果をも授けた。加えて、都市といってよいほどの市の創立が行われて、その際いくつもの村落を適切な場所へ移した。そして、神を祀ることを教示し、法と法廷を取り入れ、りっぱな仕事を数多く導入した人として、神と見なされ不滅の栄典を受けた。
[23]史書によると、この神は大勢の女人をまわりに引き連れ軍勢を伴って、戦場で敵と対陣する折に太鼓やシンバルを用いた。この頃サルピンクス笛はまだ発明されていなかった。
 そして、インド地方全域の王位にあること52年、老境に入って生涯を終えた。この神の息子たちが覇権を引き継ぐと、(それ以来)終始、自分たちから出た子孫に統治権を残して行った。そして、多くの世代を経て後ついにこの覇権が崩壊し、諸市は民主制下に入った。

Diodorus II, 39:
 [24]ディオニュソスとその子孫たちについて、インド地方の山地に住みついている人々は以上のような神話を伝える。また、その話によるとヘーラクレースも自分たちの許で生まれ、ギリシアの神話に似てこの英雄に梶棒と獅子の皮が付け加わる。英雄は、体力と勇武ではほかの人間たちよりはるかに卓越し、野生の生き物の住む陸地と海域を掃除した。[25]何人もの女人を妻にして数多くの息子と娘ひとりをもうけ、これらが成年に達すると、インド全土を子どもたちに均等に分け与えた。すなわち、息子すべてを王に任じ、ひとり娘を育てた後これも女王に任じた。
 [26]また、かなりな数の市の建設者となり、なかでも一番名高い最大の市をパリボトラと名付けた。そして、市内に金にあかせて王宮を築き、多数の住民を入植させた。そして、市の守りを固めるため大がかりな濠に河の水を満たした。
 [27]ヘーラクレースも、人間界から身を移して不滅の栄典を受けることができ、その子孫は数多くの世代にわたって王位につき、語りぐさになるほどの功業をやりとげた。しかし、国の境を越えての遠征を行わず、ほかの諸族の地へ植民団を派遣することもなかった。その後長い年月を経てほとんどの市が民主政をとったが、一部の族民は王政を維持したまま、アレクサンドロス渡来の時に至った。
 [28]インドイ人たちの間にはまったく常識はずれの仕来りがいくつかあるなかに、この族民の間にいた古代の哲人たちが教示した仕来りを、驚異の的と見なす人があるかも知れない。この族民の間では奴隷がただのひとりもいないので、(誰もが)自由人として、万事につけ平等ということを大事にする。学業を終えた人は、ほかの人々の上にも立たず下に伏すこともなく、どんな状況に際しても最も優れた暮しをすることができる。法を定めるにあたって万人に平等となるのを基としながら、実際の場では差をつけるようにするのは、愚かなことである。

Diodorus II, 40:
 [29]インドイ人たちの大衆は全体が七つの階層に分かれる。その第一は哲人たちの社会で、数ではほかの階層の人々に劣るものの、地位の高さではすべてのなかでも首位に立つ。哲人はあらゆる公共奉仕の負担を免除してもらい、ほかの人を支配することも、他人を主人としてこれに仕えることもない。
 [30]そして、一般の民間人から、ふだんの供犠式や死者の弔いを行うのに招き入れられる。これは、この人々が諸神の一番のお気に入りで、冥界のことについてもとりわけよく習熟しているとされているためで、この奉仕の御礼に受け取る供物や特典は、なかなかに大したものである。
 また、インドイ人たち公共の行事に大きな役割を果たし、新年を迎える度に大集会へ招かれて、大衆のため干ばつや豪雨について予言し、さらに風の吹きぐあい、病気、そのほか聞く人々の助けとなることのできる事項をめぐって、予言する。
 [31]大衆と王のいずれも、将来の出来ごとを何くれとなく予め耳に入れておくと、何ごとかが起りそうなのを何時でも逃げおおせ、有用なことがいずれ起るとなれば、常にそれを迎える準備をやってのける。哲人のなかでその予言が外れた人が出ると、蒙る罰はただひとつ悪い噂だが、ただしその後、一生ものいわぬまま過すことになる。

 [32]二番目の階層は農耕者で、数ではほかの諸階層をはるかに越えているように思われる。この階層の人々は、戦役そのほかの公共奉仕を免除してもらい、農耕にいそしむ。敵の兵でも、耕地の上で農民に出会ったところで、誰ひとり害を加えることはあるまいし、農民は敵味方共通に功労を尽してくれるものと見なされるから、不当な被害をいっさい免かれる。
 [33]だからこそ、耕地は荒らされることもないまま作物はずっしりと実り、人々は耕地から命の糧をもらってひじょうに喜ぶ。農民は耕地帯で子どもや妻と共に暮し、市へ立ち入るのを完全に避けて来た。
 そして、土地の貸借料を王に支払うが、これはインド全域が王の所有に帰しているからで、一般の民間人は誰ひとり土地を所有することが出来ない。そして、貸借料とは別に四分の一税を王に支払う。

 [34]三番目の氏族は牛飼い、羊飼い、総じて牧人すべてのそれであり、市と村落のいずれにも住まず、幕舎暮しをつづける。この同じ人々が、狩りを行って耕地から鳥やけもの類を駆除する。そして、この仕事に精を出し技を磨いて、インド地方が農民の播く種を喰い尽す、けものや鳥の類いでいっぱいにならないよう、安穏な土地にする。

Diodorus II, 41:
 [35]〔第4 職人〕四番目は職人たちの階層で、この人々のなかには武具造りもいれば、農民用またはそのほかの人々の仕事用に役立つ品をもあつらえる、職人もいる。この人々は課税を受けない上に、王の庫から食糧の給付をも受ける。

 [36]五番目は兵士集団で、戦には容易に応じ、数の上では二番目で、平時にはほとんどを何もしないまま遊びごとに耽っている。兵士、軍馬、軍ゾウ、の集団はいっさい王の庫から食料の給付を受ける。

 [37]六番目は見廻り役の集団で、あらゆる仕事にたずさわる。インド地方内での出来ごとを見廻っては王たちに報告し、または、自分たちの市が王政をとっていなければ、市の長たちに報告する。

 [38]七番目の階層は助言を行い、また公共の問題について出された助言をめぐって、評議を行う役で、数は一番すくないが、素姓の良さと思慮深いことでは驚異の的となっている。王の顧問、国務の統括、紛争事の裁判官は、いずれもこの階層の人からなり、総じてさまざまな行政・政務の長はこの階層から出る。

 [39]インドイ人たちの間で行われる社会構成上の区分による階層は、ほぼ以上である。なお、ほかの種姓から妻を迎えること、職や(職人の)技を取り換えること、たとえば兵士なのに耕作者となり、また、職人でありながら哲人となることは、いずれも許されない。

Diodorus II, 42:
 [40]インドイ人たちの地方には一番大型のゾウが数も一番多く、勇敢さと大きさ共に、はるかに群を抜いている。この生き物が交尾を行う様子は、一部にある説とは違って奇異なものではなく、馬そのほかの四足獣と同じようである。妊娠期間は一番早くて16か月、長くても18か月である。出産頭数は馬と同じく、ほとんどの場合1頭で生まれ、母ゾウが6年間育てる。そして、ほとんどが人間の一番長生きしたのと同じほども生き、最高齢となると200歳に達する。

 [41]インドイ人たちの間では、国外からの客人へも役人が配されるが、これは、客人が誰ひとり被害を蒙ることのないよう気を配るためである。客人に病人が出ると、医師を連れて来るとか、そのほかの世話をやき、死ぬと葬儀を行い、さらに財貨を遺していればその縁者たちに返してやる。
 [42]裁判官は判決を厳正に下し、罪を犯した者たちには厳しくあたる。インド地方とこの地方に伝わる古事談義について、本書では以上の話でじゅうぶんであろう。


"t2-20"
《第1巻から》

断片2
Arrianus Exp. Al. V, 6, 2:

 アジアの南側部分はこれをさらに四つに区分した場合、エラトステネースとメガステネースは中でもインドの地をもって、その最大部分としている。メガステネースはアラコーシアの太守シビュルティオスと生活を共にした人であって、インドイ人の王サンドラコットスのもとにもしばしば訪れたことを、みずから語っている人物だ。この二人によれば〔四つの区分のうち〕最も小さな部分をなすのは、エウプラテス河が〔東の〕境界となって〔そこから西〕、我らの内海〔地中海〕に至る地域である。残る2つの部分はエウプラテス河とインドス河とが〔それぞれ西と東の〕境界をなすその中間の地域で、2つを併せてもインドの地とはほとんど較べ得べくもない。彼らの説によるとインドイ人たちの地は、東および東風の方角ではずっと南まで大海によって仕切られ、その北側はタウロス山と合するあたりまで延々と続くカウカソス山によって限られており、西と北西風の方角では、〔南の〕大海に至るまでずっと、インドス河がその境界線をなしている。インドの大部分は平地であって、彼らはこれを河によって堆積したものと推測している。
 実際他の地方にあっても、海から程遠からぬ平野はその大方が、それぞれ平野を貫流する河川によって形成されたものだからである。土地の名前が古くから、そこを流れる河川の名に由来したのもそのためだ。例えばヘルモス平野と呼ばれる平野がある。ヘルモスは〔小〕アジアの地で母なるディンデュメーネーの山に源を発し、アイオリスの町スミュルナの近くで海に注いでいる河である。リュディアの平野に今ひとつ、カユストロス平野というのがあるが、これもリュディアの〔カユストロス〕河にちなんでいる。またミュシアにある別の平野の名はカイコス河に由来し、イオニアの町ミレトスまで延びているカリアの平野は、その名をマイアンドロス河に負うている。
 ……
 そのようなわけで、それぞれの地域にただ1本の河でもあれば、それがさして大きな河ではなくとも、水源がある上流地域から泥や土砂を絶えず下流へと運び流す時は、海に注ぎ入るまでの間に広い土地を形成することができるのであって、インドイ人たちの土地に関してもまたその大部分が、いったいどのようにして低平の土地をなすに至ったのか、その平地が諸河川によって形成された堆積地であることについては、およそ疑う余地はないのである。
 ヘルモスやカユストロスやカイコス、マイアンドロス、その他およそこの内海〔地中海〕に注ぐあらゆる〔小〕アジアの河川は、それらを全部集めて束にしても、水量の豊かさという点で、最大のガンゲス河は言うに及ばず、インドの他の河川のどの1本とくらべても比較にならないだけではない。そのガンゲス河にいたってはエジプトのナイル河の水量、さてはヨーロッパを貫流するイストロス〔ドナウ〕河にくらべてさえ、比較を絶するのである。ガンゲス河とくらべものにならないだけではない。上に挙げた河川はそれらを全部ひっくるめても、インドス河にすら匹敵し得ないのである。インドス河は水源を発するとすぐから、すでに大河の趣があって、15もの河川を取り集め(そのいずれもがすべて〔小〕アジアの河川より大きいのだ)、しかもおのが本来の名前をずっと保ちつづけながらこうして海に流れ入るのである。インドの地勢について私としては、さしあたりこれだけのことを述べておこう。その他のことは私の『インド誌』のために取っておくことにしたい。

断片3
Strabo XV〔I_11-12〕:

 インディケーを囲んでいるのは、北側からはタウロス山脈の先端部分。アリアネー地方から東方の海に至るまでは、地元の人たちが個別にパロパミソス、エードーモン、イマオンそのほかいくつかの名をつけているが、マケドニア人たちは(一括して)カウカソス〔名づけている山脈である〕。
 また、西側からはインドス河が境を限り、南と東の則辺はどちらもそのほかの辺よりはるかに大きくアトランティス海へ突出している。したがって、この地方は菱形になっていて、長い方の二辺はそれぞれ反対側の(西および北の)辺より3000スタディオーンも長い。
 そして、東側と南側の両沿岸に共通した岬があって、岬はどちらの側面でも等しく上記の距離だけ残りの海岸線から外へ出ている。
 西側辺についてはカウカソス山脈から南方の海へ向かってその長さ13000スタディオーンといい、この辺はインドス河源からその河口までにあたる。したがって、東側の沿岸はこの河と向かい合い、岬の長さ3000スタディオーンを加算すると16000スタディオーンとなる。以上がこの地方の幅のうち一番狭いところと一番広いところである。
 また、長辺は西から東に延び、そのうちパリボトラまではかなり確実な距離をいうことができる。すなわち、測量綱を使っての完全な測定がすんでいるからで、10000スタディオーンに及ぶ王の道がある。
 また、この王都より向こうの地域については海からガンゲス河を経由して王都に至る遡航里程を通して推測が行われ、その距離は6000スタディオーンといったところらしい。したがって、長さの辺は全体で、一番短いところが16000スタディオーンとなるだろうし、エラトステネースによるとこれは一番信頼が置ける宿駅表からとった数字である。メガステネースが示す数字もこれと一致しているが、パトロクレスではこれより1000スタディオーン短い。
 さらに、再びこの距離に、岬が東向きにさらに出ている分だけの長さを加算するから、この長さ3000スタディオーンを加えると、長辺のなかの一番長い部分になろう。この数字はインドス河口からそれに引きつづいての海岸に沿い上述の岬と岬の東端に至る間の距離で、岬地域には「コニアコイ族」が住む。
 また、上記以外の著者たちの説が上述の諸説とどれほど大きく違っているかを見ることができる。
 インド地方の広さは、まずクテーシアスによると、アジアの残りの地方とほとんど差がなく、オネシクリトスによると人が住む世界の三分の一である。マタ、ネアルコスによると当の平野を抜ける行程が4ヶ月、メガステネースとデイマコスの測量によるとそれ以上で、南の海からカウカソス山脈への距離を20000スタディオーン以上とする。

断片4
Strabo II.〔I_7〕:

 ヒッパルコスは『注釈書』第2巻のなかで主張する、エラトステネース本人が、インド地方の北側辺の長さについてパトロクレースとメガステネースと一致していないとして、前者の証拠を非難して、メガステネースは16000スタディオーンと説明するのに、パトロクレースによるとこれより1000スタディオーン少ないという。

断片5
Strabo II.〔I_4〕:

 デーイマコスとメガステネースとの二人が彼〔パトロクレース〕に反対証言している、すなわち彼らは、南方の海から(北端へ)の間が、所によっては20000スタディオーンあるいは30000スタディオーンになる部分もあると述べていると〔ヒッパルコスは〕いう。

断片6
Arrian. Ind. 3, 7:

 ところでメガステネースの場合は東から西へ、他の記録者たちが「長さ」としているところを、インドの土地の「幅」と見ているが、このメガステネースはその幅の最も短いところを16000スタディオーンと伝えている。北から南へというのが彼の場合、「長さ」となるわけだがその延長は、その最も狭まったところで22300スタディオーンにも及ぶのである。

断片"7a"
Strabo II.〔I_19〕:

 インドの南部では、熊座が隠れ影が反対〔南〕側に落ちると主張するメガステネースに……
断片"7b"
Strabo II.〔I_20〕:

 デーイマコスは、インドでは熊座が隠れ、影が反対〔南〕側に落ちるとメガステネースが想像したような場所はどこにもないと主張したので……

断片8
Plinius H.N. VI, 22〔69〕:

 これからさらに先の国は、モナエデス族とスリア族であるが、後者の領土にはマレウス山があって、その山上では、冬には影が北側へ、夏には南側へと、半年の期間交代で落ちる。バエトンによれば、この地域では大熊星座が年に1回だけ、それもたった2週間だけ見えるという。そしてメガステネースによれば、同様のことはインドの多くの他の場所でも起こるという。

断片9
Strabo XV〔I_20〕:

 また、メガステネースは、インド地方がいかに豊かな土地を持つかということを示すため、作物が年に二度熟れる二期作地帯だという点をあげる。エラトステネースの記述もこれと同じで、冬蒔きと夏蒔きがあり降雨も同じく二度あるという。両季節ともに雨の降らない年は一度として見あたらず、この結果、大地に実りをもたらさない季節がまったくないから(年中が)栽培適期となる。
 また、果樹にも豊かな実がつき、草木でもとりわけ大きな葦が根を張り、実も根もともにおいしいのはその本性によるが、煮熟するせいもある。ゼウスのもとから落ちる雨水も河の水も太陽熱で暖まるからである。
 確かに何かつぎのようなことを説明しようとしている。すなわち、ほかの地方の人々の間では果樹や草の根にある液が「熟する」というが、これをインド地方では「煮熟する」というのはなぜか、熟すると火を通して煮たのも同じほどに口当たりがよくなるのはなぜか、ということである。
 著者によると、この結果、木々の若枝はたわみやすく、これを使って輪を作るし、同じ理由から中には毛の花を突ける樹もある。

断片10
Strabo XV〔I_37〕:

 メガステネースによると、プラシオイ人たちの地方にはこのうえなく巨大なトラもいて、ライオンの2倍近くにもなる。力が強いので、馴らしたトラを1頭4人がかりで連れてゆく途中、トラは後足1本でラバを捕らえると力づくで自分のもとへ引き寄せたほどだ。
 オナガザルは一番大きいイヌよりも大型で顔以外は白く顔は黒い。ここ以外の地方では色が逆である。尾は2ペーキュス以上あり、きわめてよく人に馴れ人を襲ったり物を盗むなどの悪い癖はない。
 乳香のような色をした石が採掘され、石はイチジクやハチミツより甘い。  別の地域には、長さ2ペーキュスの翼でコウモリのように皮膜で出来たのをもつヘビがいて夜間に飛び、放尿し、時には汗をしたたらせるので、避け損なうと皮膚が腐る。サソリに羽があり、ほかのものよりも大型である。黒檀も生える。
 イヌも勇敢で、獲物に咬みつくと鼻の孔へ水を注ぎこまない限り放そうとしない。なかには懸命になって咬むあまり両眼が引きつり時には眼球が飛び出すイヌもいる。この種のイヌはライオンやウシでも押さえこみ、ウシなどイヌをふりほどく前に鼻面をつかまえられて死んでしまう。

断片11
Aelian. N.A. XVII, 39:

 プラシアイ地方――これはインドイ人たちの領地である――では、メガステネースの主張によれば、猿たちは最大のイヌたちよりも小さくはなく、尾も5ペーキュスもあるのを持つ。しかも、彼らには、前髪も、髭も垂れた濃密なのが生えついている。そして、顔は真っ白であるが、身体は見た目に黒く、おとなしくて人間好きであり、ほかの土地の猿のようないたずら好きの習性は持っていないという。

断片12
Aelian. N.A. XVI, 41:

 メガステネースの主張では、インディケーには、有翼で、大きさも最大級のサソリがいて、ヨーロッパのサソリと同じように針で刺す。当地には、またヘビ類もいて、これも有翼であるという。そして、出歩くのは昼間ではなく、夜間で、自分から尿をひっかける、ところがこれが身体のどの部位にかかろうと、たちまち腐敗作用を起こす。以上のこともまたメガステネースの話である。

断片"13a"
Strabo XV〔I_56〕:

 メガステネースによると、(インドの)カウカソス山脈地帯の住民は白昼公然と妻と交わり、縁者たちの身体の肉を食べる。オナガザルには石を転がす習性があり、崖の上に出没しては追ってくる狩人めがけて石を転がし落とす。わたしたちの世界では温順な生き物のほとんどがインド地方では荒々しい。
 著者の説明では、一角獣でシカの角をしたウマがいるし、葦のなかにはまっすぐに延びて草丈30オルギュイアにもなる種類や、地上を這って50オルギュイアも伸び、したがってその太さも直径3ペーキュスから時にはその倍にもなる種類もある。
断片"13b"
Aelianus XVI, 20:

 [20]インディアのある地方――わたしが言っているのは、最も中心部であるが――では、伝え聞くところによると、足を踏み入れがたく獣に満ちた山地があるという。そこにいる獣も、わたしたちの土地も養っているような動物だが、いずれも野生である。というのも、たしかに、ヒツジもかの地のものがいるが、いずれも獣であり、イヌもヤギもウシもそうで、草を食べ歩き、自由に徘徊して、牧人の支配は受けないといわれている。その数もかぞえきれないほど多いと、インド誌の著作者たちは主張しており、インドイ人たちの作者たち――もそうである。が、中でもブラクマナイがかぞえているのは意味がある。というのも、この人たちも、このことについては同じく同意しているからである。
 この地方には、単角の動物もいると言われ、彼らによってカルタゾーノスと名づけられているという。大きさは生長したウマぐらい、たてがみと、黄色い房毛を有し、脚の最善なのをわがものとして、敏捷で、その脚には生まれつき関節がなくゾウに似通っており、尾はブタのそれである。また、眉間の真ん中に生え出た角を有し、〔その角は〕滑らかではなく、一種螺旋状をして、すこぶる自生的で、色は黒色であるという。さらに言われているところでは、その角はきわめて鋭利であるという。また、わたしの耳にしているところでは、この獣は、どんな動物よりも調子はずれの朗々たる鳴き声を有するという。ほかの動物がこれに近づいても平気で、おとなしいが、ところが同類と〔遭遇すると〕なんとも喧嘩っぱやいという。伝え聞くところでは、雄に対しては互いに角の突き合いと闘争といったようなことが本能的に備わっているのみならず、雌に対しても同じ怒りをもっていて、勝利愛を持ち続けて、ついには負けた方を死に至らしめるほどだという。なるほど、身体中には力がみなぎり、その角の威力は無敵である。独り草をはむことを悦び、一匹で徘徊する。ただし、自分たちの性愛の時機には雌といっしょになって徘徊するばかりか、並んで草をはみさえする。次いでその〔性愛の〕時期が過ぎ、雌が妊娠すると、もとどおり野獣にもどり、このインドスのカルタゾーノスは一匹となる。さて、彼ら〔カルタゾーノス〕の非常に幼い仔は、伝え聞くところによると、アライシアイの王のもとに連れてこられ、祝祭のおりに、お互いの勇ましさを見せ物にするという。しかし、成獣が捕まえられたと言及した人はいまだかつていない。

Aelianus XVI, 20:
 インドイ人たちに隣接する山地を越えようとする、その中心部の辺に、話では、鬱蒼たる渓谷が現れるが、インドイ人たちにはコルウダ地方と呼ばれている。話では、この渓谷地帯で、何と!姿形がサテュロスに似た動物が捕まえられた、〔この動物は〕身体中が毛むくじゃらで、腰のところにウマの尾をもっている。自分たちだけでいて憂いなき時は、林の中で木の根や実を食べてすごしているが、狩人たちの物音を察知したり、イヌたちの吠え声を耳にすると、山の稜線まで駆け上るが、その速さにはついてゆけない。というのも、彼らは山歩きに慣れているからである。そして、山上から襲撃者めがけて岩を転がし落として戦うが、捕まえられると多くが殺される。これこそ、彼らが捕らえられにくい所以である。かつて、彼らの幾人かが、長い時間をかけてやっとのことで〔クレタ島の〕プライソスに連れてこられたことがあったと言う。もちろん、連れてこられたのは彼らの中でも病気をしている者か、雌の、それも妊娠している者にすぎなかった。彼らが狩られる結果になったのは、雄なら〔病気で〕のろまになったせいだし、雌なら、〔妊娠して〕胎の重さのせいだったのである。

断片14
Plinius VIII, 14, 1:

 メガステネースが書いているところでは、インドではヘビは生長して巨体となり、雄シカや雄ウシを丸呑みにするという。

断片15
Aelian. N.A. VIII, 7:

 メガステネースが言っているのをわたしの聞いたところでは、インドイ人たちの海には一種の小魚がいて、これは生きている間は、どこか海底の深くを泳いでいるので、目撃されることはないが、死ぬと浮き上がる。これに触れた者は、最初気絶して、顔は死人のようになったが、やがて本当に死んでしまったという。

断片16
Plinius H.N. VI, 24:

 メガステネースは(タプロバネ〔セイロン〕島を説明して)、これは1本の河によって2つに分かたれており、住民はパラエオゴノスという名前をもち、インドよりも多くの金と大きな真珠を産するという。

断片17
Antigonus Hist. Mirab. c.147:

 『インド誌』を書いたメガステネースは、インドの海には樹木が生えると記録しているという。〔アンティゴノス断片132〕

断片"18a"
Arrianus Ind. 4, 2_13:

 [4_2]メガステネースが記すところでは、ガンゲスとインドスと、この最大級の両河のうちではガンゲス河の方が、その大きさにおいてインドス河をはるかにしのいでいる。ガンゲス河についてふれているほかの記録者たちもみなそう書いている。
 [4_3]ひとの語るところではガンゲス河というのは、その源を発するとからすでに大きな河であってカイナス、エランノボアス、コッソアノスなどすべて就航可能なこれらの河川をまず受け入れ、次いでソノス、シットカティス、ソロマティスといったこれまた舟航できる諸河川を受け入れる。[4_4]ガンゲス河はさらにコンドカテス、サンボス、マゴン、アゴラニス、オマリスといった諸河川を取り込んだうえ、大きなコンミナセス河やカクティス、アンドマティスなどの河が、インドイ人たちのマデュアンディノイ人の土地から流れこんでき、[4_5]ややあってアミュスティス河がカタドゥペの町近くで、またオクシュマギス河がこれはパザライと呼ばれる土地で、さらにはエレンネシス河がインドイ人たちのマタイ人の土地で、それぞれガンゲス河に合流しているからである。
 [4_6]メガステネースがいうところによれば、ここに挙げた河川のいずれもが、舟航可能なあたりのマイアンドロス河〔の大きさ〕にも引けをとらないのだ。[4_7]ガンゲス河の川幅の広さはといえば、その最も狭まったあたりでも、およそ600スタディオーンはあり、湖水をなすこともまれではない。そのため平坦な土地、ちょっとした丘も小高くは顕れていないような所だと、対岸の一帯さえ見はるかすことができないほどなのだ。
 [4_8]インドス河についても事情は同じことだ。ヒュドラオテス河はアストゥリュバイ人の土地でヒュパシス河を、またケカイオイ人の土地から流れてくるサランゲス河と、カンビストロイ人の土地でアケシネス河に注ぐ。またヒュダスペス河はアリスパイ人の土地でシナロス河といっしょになったうえ、シュドラカイ人の土地でこれまたアケシネス河に注いでいる。[4_9]そのアケシネス河の方はマッロイ人の地でインドス河に合流するのだが、アケシネス河にはまた、トゥタポスという大きな河も注ぎこんでいる。[4_10]アケシネス河はこういったいくつもの河川でその水量を増やし、名前の点では堂々とおのが名を保ったまま、インドス河に流れこむのである。
 [4_11]さらにコペン〔カーブル〕河もマラマントス、ソアストス〔スワート〕、ガロイアスの諸河川を併せてから、ペウケライティスの地でインドス河に注ぎ、[4_12]そのうえなおパレンノスとサパルノス――この2本の河は互いにそれほど離れてはいないのだが、これらの河川もまたインドス河に流れこんでいる。ソアノス河もアビッサライ人の住む山地から、ほかの河川を集めることなく、これまたインドス河へ注いでいる。メガステネースはこれらの河川の大方が舟航可能だと言っているのである。
断片"18b"
同 〔5〕:

 インドの河川の数だとかその大きさだとかの、よってきたる所以を詳しく説明したい人には、好きなように説明してもらえばよい。わたしとしてこうしたことを、自分が聞き得たまま書き留めるだけにとどめよう。ガンゲス河やインダス河以外で、東の外海や南の外洋に注いでいるその他多くの河川については、メガステネースがその名前を記述しており、それによるとインドの河川はその総数58をかぞえ、それらはすべて舟航可能の河川だと言われている。しかしそのメガステネースといえども、確かにピリッポスの子アレクサンドロスにつきしたがった者にくらべれば、より見聞豊富とはいえ、考えてみればインドの土地の大方を踏破したというわけではない。けだし彼はインド人の大王サンドロコットス――ポロスよりは偉大なこの王の側近にあったと、みずから語っているからだ。
断片"18c"
Strabo XV〔I_35〕:

 〔ガンゲス河の〕河幅の最も狭いところを、ある人たちは30スタディオーンと言い、ある人たちはたったの3スタディオーンだと言う。しかしメガステネースによると、ふつうの所でも、幅は100スタディオーンに達し、水深は一番少な目に見ても20オルギュイアである。そしてこの〔ガンゲス〕河と〔もうひとつの河が〕落ち合うところに云々

断片"19a"
Arrianus Ind. 6, 2:

 実際メガステネースもインドの河については、次のような話を伝えているのである。シラスという河があってその河は、河と同じ名前の泉に始まり、シライイ人の土地をずっと流れている。そこの住民もまた河や泉からその名を得ているのだ。ところでその河水はこんな状態を呈するという。つまり河の水はどんなものも支えきれず、泳ぐことも浮くこともできずに、何もかも底に沈んでしまう。その水はそんなふうに、何にもまして縹渺としてつかみどころがないというのである。
断片"19b"
Strabo XV〔I_38〕:

 山岳地帯にシラスという河があって、この河には何ものも浮かばないという。しかしデーモクリトスは、アジア地方を広く歩きまわった人だが、この話を信じていない。アリストテレースも信じていない。


"t"
《第2巻から》

断片20
Strabo XV〔I_6〕:

 〔第1章6節 インドイ人たちは他国を攻めず攻められず〕しかし、わたしたちは、キュロスやセミラミスといった、こういう遠征の結果、インド地方の事情について、はたして信用しても間違いのない報告を手に入れたのだろうか。メガステネースも、インドイ人たちについての古代の報告を信用するなと戒めているところを見ると、わたしたちの〔疑問〕説にどうやら賛意を示している。
 この著者によると、インドからその国外へ遠征軍が派遣されたことはないし、国外から遠征軍が攻めてきて征服したことも、ヘーラクレースやディオニュソスの率いた軍勢と、近くはマケドニア人たちの軍勢のほかにはない。
 たしかに、エジプトのセソストリスとエティオピアのテアルコンはヨーロッパまで軍を進め、ナボコドロソスの方はカルダイオイ人たちの間ではヘーラクレース以上に評判が高く、ヘーラクレースの柱のあるところまで軍を進めた。テアルコンの方もこの柱まで達し、セストリスはイベリア地方からトラキア、ポントス両地方にまでも遠征軍を率いて行った。スキュタイ族のイダンテュルソスは長駆アジアからエジプトまで攻め入った。
 しかし、これらの遠征者たちも誰一人インド地方へ達した者はいなかった。セミラミスも攻撃にかかる前に死んだ。
 ペルシア人たちは、インド地方からヒュドラケス族を招いて傭兵にしたことはあるが、インド地方へ遠征したことはなく、キュロス王がマッサゲタイ族へ向かって兵を出した際に、インドのすぐ近くにまで達しただけであった。

 ところで、ヘーラクレースとディオニュソスをめぐる出来事について、メガステネースと少数の作家たちはこれを信用できる話と思っているが、これら以外の大部分の人々――その中にはエラトステネースも入る――は、信用できない作り話だと思っている。ギリシア人の間にある物語もこれと同じである。

断片21
Arrianus Ind. 5, 4:

 [5_4]このメガステネースが記すところによればインド人は、他のどんな種族にも攻撃を仕掛けたことはないし、外国のどんな種族もインド人を攻めたことはない。[5_5]エジプト人のセソストリスはアジアの大方を従え、軍勢を率いてヨーロッパにまで攻めこんだものの、〔インドには手をつけず〕そのまま反転帰国したというし、[5_6]スキュタイ人イダンテュルソスも、スキュティアから軍を起こしてアジア人の大部分を打ち靡かせ、勝ちに乗じてエジプトの地にまで侵攻したということだ。[5_7]アッシリアの女セミラミスの場合はインド進軍に着手したものの、その計画の目的を達しないうちに死んだと伝えられ、[5_8]かくてインドへ実際に軍を進めたのは、アレクサンドロスただひとりだというのである。
 [5_9]もっともディオニュソスに関して世上広く行われている説によると、アレクサンドロスより先にディオニュソスもインドに攻め入って、インド人を討ち従えたということだ。これに対してヘーラクレースに関する伝えの方は、それほどはっきりしてはいない。[5_10]少なくともディオニュソスの場合は、ニュサの町が、彼の遠征のひときわ目立つ記念だし、メロスの山〔腿山〕もその山に生えている木蔦も、それにまたインド人自身が太鼓やシンバルの響きに合わせて戦闘に出で立つ慣わし、さらには彼らがディオニュソスの信徒さながらに、斑縞の衣装を身につけるというのも、すべて彼の遠征のなごりなのである。
 一方ヘーラクレースについてはどうかというと、この方は記念となるものに乏しい。アレクサンドロスが力ずくで制圧したアオルノスの岩砦はじつは、ヘーラクレースがその力をもってしてもついに陥れることができなかったところだという話は、思うにマケドニアふうの法螺話であろう。[5_11]それと同じやり方でマケドニア人たちはパラパミソス〔ヒンドゥクシュ〕のことを、これとカウカソスとはまったく何の関係もないのに、カウカソスなどと呼んだのだ。しかし彼らはそのパラミサダイ人の土地に洞穴があるのに目をつけて、あれこそはティタン族のプロメテウスが火を盗んだ廉で吊されたという、かの洞穴だとも言ったのである。
 [5_12]そのうえマケドニア人たちはインドイ人たちのシバイ人の地で、住民が生皮を身にまとっているのを見ると、このシバイ人というのはヘーラクレースの遠征軍のうちから〔現地に〕取り残された者たちなのだと主張した。加えるにそのシバイ人は棍棒をたずさえており、彼らが飼っているウシどもには棍棒の焼き印が押されているというので、マケドニア人たちはこれをも、かのヘーラクレースの棍棒に付会したのであった。人々のなかにはあるいはこの話をもって、信ずるに足るとする向きがあるかも知れないが、このヘーラクレースはおそらく別のヘーラクレース、つまりテーバイのヘーラクレースではなく、テュロスのかエジプトのヘーラクレース、あるいはインドから程遠からぬ北の地方に居を構えた、どこかの大王のことなのであろう。

断片"22a"
Josephus Ant. Ind. X, 11, 1:

 [これらの諸王のうち、(scil. ナブウコドノソロスは)石造の壇を建造し、見た目を山々とそっくりにするため、〔樹木を〕植えて、ありとあらゆる樹木でその光景を現出させたが、それは、自分の妻が、メーディア地方で育ったために、家郷の暮らしぶりを懐かしんだからである。]メガステネースも『インド誌』第2巻の中で彼らに言及したが、その書を通して彼が表明しようとしたことは、この王は行動の勇敢さと偉大さで、ヘーラクレースを凌駕している。なぜなら、この〔王〕は、リビュエーの大部分とイベーリアとを征服したと彼〔メガステネース〕は主張した。ディオクレースも『ペルシア誌』第2巻の中で、この王に言及し、ピロストラトスもその『インド地方』の中に記録して、この王は10と3年間にわたってツロを攻囲したが、その盛時は、ツロのあのイトーバロスが王支配していたときである。
断片"22b"
Syncellus:

 ナブウコドノソールは、メガステネースが『インド誌』第2巻の中で表明しているところによれば、ヘーラクレースよりも勇ましく、大いなる勇敢さでもって、リビュアとイベーリアの大部分を征服したという。ピロストラトスも『歴史』の中で彼〔メガステネース〕と一致し、そこでは、ツロの攻囲や昔のポイニキア人たちについても〔言うことが一致している〕。この〔ピロストラトスの〕『歴史』は、ナブウコドノソールについて、シュリアとアイギュプトスとポイニキアの全土を戦争で征服したという内容を含んでいる。
断片"22c"
Euseb. Pr. Ev. IX:

 アビュデーノスの『アッシュリア誌について』という書の中でも、わたしはナブウコドノソールについて同じことを見つけだした。すなわち、メガステネースは主張している、ナブウコドノソールは、ヘーラクレースよりも勇ましかったので、リビュアとイベーリアに遠征した。そして、それらの地方を打ち負かして、そこからポントスの右岸までの領域に植民したという。

断片23
Arrianus Ind. c.7:

 [7]メガステネースが誌すところによると、インドの種族は全部で120に欠けるところ2である。[インドイ人たちの数が多いということでは、私自身もメガステネースと同じ意見だが、彼がいったいどんな風にしてその正確な数を知り記述したものか、私としては推測がつかない。メガステネースもインドの土地をあらかた踏破したというわけではないし、インド人種族の全部が全部、おたがいに接触交渉があるというのでもないからだ。]
 〔メガステネースによれば〕もともとインド人は、あたかも農耕をいとなまないスキュタイ人と同様、遊牧の民であった。スキュタイ人は彼らの荷車でスキュティアの地をここ彼処、転転としてその居場所を変え、町にも住まず神神の杜を祀ることもない。そんな風にインド人も(昔は)町を持たず、神殿を建てることもせず、殺した野獣の生皮を身にまとって、樹の皮を食用にしていたという。食用にするその樹はインド語で「タラ」と言い、樹上にはちょうどナツメヤシの天辺に見るような、糸玉様の実がつくのである。
 彼らはまた捕らえた野獣も食用にしたが、少なくともディオニュソスがインドの地にやってくるまでのあいだは、彼らはそれを生のまま食べたのだった。ディオニュソスはこの地にやってきてインド人の支配者になると、町を建て町のために掟を定めてやるとともに、ギリシア人にたいしてと同じく、インド人のためにもぶどう酒をさずけ、またみずから種子をあたえて土地に種蒔く業を教えてやったという。それというのも、プトレモスが〔女神〕デーメーテールの命を受けて、あまねく土地という土地に種子を蒔くよう遣わされた当時、彼〔トリプトレモス〕がこの〔インドの〕地にだけはやってこなかったものか、それともこのディオニュソスが、たとえその何者であるにせよ、インドの地に来って栽培作物の種子を彼らにあたえたのが、トリプトレモスよりも先だったのか、そのいずれかだったのであろう。ともあれディオニュソスはまず牛どもを頸木で鋤につなぎとめることから始めて、大方のインド人を遊牧民ならぬ農耕の民とし、さらに戦の道具でもって彼らを武装させたのだ。ディオニュソスはまたさまざまな神を崇めるよう教えたなかでわけても、シンバルを打ち鳴らし太鼓をひびかせながら、他ならぬディオニュソス自身を崇めさせ、ギリシア人のあいだでは「コルダクス」と称される、サテユロス風の舞踏を教えこむとともに、神を賛えて髪の毛を長くし、それをターバンでぐるぐる巻きにするよう手本を示す一方、香ばしい塗り油の用い方を教えてもやったのだった。インド人がアレクサンドロスにたいしてさえ、シンバルと太鼓のひびきに合わせて、戦闘にくりだしてきたのも、こうした事情からであった。

Arrianus Ind. c.8:
 ディオニュソスは住民にこれらの生活慣習をととのえてやったうえで、インドを離れるにあたって、信徒のなかでもバッコスの儀式にもっとも通じたスパテンバスという人物を、土地の王に据えた。スパテンバスが死ぬとその子ブデュアスが王位を受け継いだ。父親はインド人の王位にあること52年、息子の方は20年であった。次いで王位を継承しのはその子クラデウアスであり、その後はおおむね彼の子孫が王位を、父から子へと相承けて順に引き継いだ。直系の子孫が途絶えるとそのときは、インド人たちは名門有徳の人を王位に据えたのである。
 ところでこれもインドヘやってきたと、ひろく語り伝えられているヘーラクレースのことは、インド人たち自身からは「生え抜き」と呼ばれている。このヘーラクレースを格別尊んでいるのは、インドイ人たちのスラセノイ人である。彼らのところにはメトラ、クレイソボラというふたつの大きな町があり、舟航可能なイオマネス河が彼らの土地を貫流している。メガステネースが語るところによると、このヘーラクレースが身につけていた衣服は、インド人自身が説明する様子からして、テバイのヘーラクレースのそれに似ているのである。彼にはこの土地で生したたいへんな数の息子たちがあったが――このヘーラクレースも御多分に洩れず、大勢の女たちと結婚関係を結んだからだ――、娘はたったひとりしか生さなかった。
 その娘の名はパンダイアといったが、彼女が生まれ、また〔父の〕ヘーラクレースがその統治を彼女にゆだねた、その土地自体も、娘の名にちなんで「パンダイア」と呼ばれた。この地で彼女は父親から、戦ゾウおよそ500頭に騎兵約4000、それにおよそ13万にのぼる歩兵をあてがわれたという。インド人のうちのある人々はヘーラクレースについてまた、次のような話も伝えている。彼はあらゆる土地あらゆる海を踏破し、悪という悪を一掃したところで、海中に目あたらしい形をした女物の飾りを見つけたというのだ。
 [それは今日でもなお、インドからさまざまな商品をわれわれのところにもたらす者たちが、苦心して買い付けた末にやっと〔現地から〕持ち出すもので、昔のギリシア人にせよ今日のローマ人にせよ、財産あり富み栄えている人々がいずれも、いまだに大変な努力をはらって買い求める品、]インド語で海の「マルガリテス」〔真珠〕と呼ばれているものなのである。その飾りはヘーラクレースの眼にいとも美しくうつったので、彼はいたるところの海からこの種の真珠をインドに集めて、それをわが娘の飾りにしたという。
 メガステネースはまたこんな話も伝えている。真珠貝は網で採るのだが、海中ではたくさんの〔真珠〕貝もまるで蜜蜂のように、ひとつ所に群がって棲息している。しかも真珠〔貝〕にも蜜蜂の場合と同じく、やはり王とか女王がいるという。誰にせよたまたまうまくその王を捕まえれば、あとはたやすく残った真珠貝の群れのまわりに網を投げることができるわけだが、もしもその王の方がうまく網をまぬがれでもすれば、他の貝はもうどんなことをしても捕まえることはできないというのである。真珠採りは貝の肉の部分は放ったらかしにして腐るにまかせるが、骨の方はこれを身の飾りに利用する。インド人のあいだでも真珠は、純金にしてその目方の三倍もの値打ちがあるからだ。ちなみにインドでは、金もまた採掘されているのである。

Arrianus Ind. c.9:
 ヘーラクレースの娘が統治していたその土地では、女性は7歳にして結婚の適齢期に達し、男の方もたかだか40歳が生きる限度だという。このことについてインド人のあいだには、ひとつの話が伝わっている。年齢がいってから娘を生したヘーラクレースは、自分の死期が近づいたのを悟ると、わが娘を嫁がせるに然るべき男がいないためみずから、7歳になるわが娘と交わり、自分と娘のあいだにできた子が、インド人の王として後に遺るようにしたという。ヘーラクレースはこうして彼女を、〔その年齢で〕結婚の適齢期にしたわけで、パンダイアが治めるこの種族は以来すべて、ほかならぬこの恩恵をヘーラクレースから受け継ぐことになったというのである。しかし思うにもしヘーラクレースにして、これほどにも奇矯な振る舞いに出ることが実際できたとすれば、彼としては娘が十分に成人するのを待って彼女と交わるように、自分の延命を計ることもできたのではないだろうか。
 [ともあれかの娘の適齢に関するこうした話が、本当にそのとおりならそのことは、男一生の年齢について言われたことにも妥当するのではないか、と私には思われる。つまり男はもっとも長寿の者でも、まず40歳を一期として生涯を終えるという、そのことについてだ。けだし男には老いが、そんなにも速やかにやってき、死もまた老いにあい伴うとするならば、いずれにせよ人間一生の盛りの時期も、終わりのときに比例して、たしかにそれだけ早く花開くだろうからである。そう見れば男30はいずれにしてもすでに初老の域であり、20歳ともなれば若者も青春を過ぎ、青春の真っ盛りといえば、これは15歳前後ということになるわけで、同じように考えれば女性も7歳にして、すでに結婚できる年齢にたっするというのが、理屈にかなうことになるだろう。]それというのもメガステネース自身がまた、このインドの地では果物でさえ、他所よりは早く熟し早く傷むと誌しているからなのだ。
 ディオニュソスからサンドロコツトス〔チャンドラグプタ〕まで、インド人は153代、6042年の歳月をかぞえるが、その間全部で3回、自由に……2回目はおよそ300年間、三回目は120年間であった。ディオニュソスはヘーラクレースよりも15代前だとインド人たちは言っている。彼らによるとこれら以外には、誰ひとりインド人の地いくさに戦をしかけて攻めこんできた者はない。カンビュセスの子のキュロス――スキュタイ人に軍を進め、その他のことでもアジア中のどの王より活動的だった、かのキュロスでさえ、〔インドには〕進攻し来ってはいない。武力で攻め入って、少なくともその攻めた地域を征服したのは、ひとりアレクサンドロスだけなのである。その彼にしてもし将兵の側にやる気があったら、きっとあまねく全土を制圧してしまったことだろう。これに反してインド人の方は誰ひとり、戦目当てで郷国から外に軍を起こした者はいない。それもひとえに彼らが正義を重んずるからなのである。

断片24
Phlegon Mirab. c.33:

 メガステネースの主張では、パライアに住んでいる女たちは、7歳になると子を生むという。

断片25
Strabo XV〔I_36〕:

 この(ガンゲス河)ともうひとつの河が落ち合うところに(scil. メガステネースの主張では)パリボトラが築いてあり、市域は長さ80スタディオーン、幅15スタディオーンで平行四辺形をなし、木造の周壁があって壁に穴をあけ、それらの穴を通して矢を射るようにしてある。壁の前方に壕もあって、防御用であると同時に市から出る排水をも受けている。
 この市を含む地方の住民をプラシオイ族といい、ほかのどんな部族よりも際だって優れている。
 王位につくと市名を異名としなければならず、生まれた時についた当人の名に添えて、「パリボトラの」と名乗る。メガステネースが使節として派遣された際の相手サンドロコットスがその例である。

断片26
Arrian. Ind. c.10:

 [1]またこんなことも言われている。インド人は死者のためには記念に遺るものをふさわつくらず、当人の人徳とその人をたたえて歌われる煩歌とをもって、故人に十分相応しい思い出だと考える、というのだ。[2]インドの町の数はその数あまりにも多いために、正確にかぞえ上げることができない。町のうちでも川のほとワとか海岸沿いにある町は、いずれも木で建てられている。[3]煉瓦造りだと雨のため、それに川水がよく岸の土手を越もえて、平地を一面水浸しにするため、長年にわたって保たないからだ。[4]これに反して平地を見下ろす高台の、〔川筋から〕離れたところに建てられた町はどれも、煉瓦や粘土でできているのである。
 [5]インド最大の町はパリンボトラ〔パタリプトラ〕といってプラシオイ人の土地にあり、エランノボアス川とガンゲス川との合流点に位置している。ガンゲスは川という川のなくらいかでも最大の川であって、エランノボアスの方はインドの河川のうちでは三番目に位しよそよう。とはいえこの川でも他所の川にくらべれば、そのどれよりも大きいのだ。ただしこの川自体は、流れてその川水をガンゲスに注いでからは、これに〔その名を〕ゆずるのである。[6]メガステネースが語っているところによると、パリンボトラの町はその延長が、やな両側で家並みのもっとも長くつづくところをとった場合、およそ80スタディオーン、幅は約15スタディオーンある。[7]町のまわりには掘り割りがめぐらされていて、その幅は6プレトラ、深さの方は30ペーキュスある。また町の囲壁には570もの塔があり、64箇所に門がある。
 [8]これまたインド人の土地では大きな問題だが、インド人はすべて自由民であって、いかなるインド人といえども奴隷ではない。[9]このことはラケダイモン人のもとでもインド人と同じ事情にあるが、少なくともラケダイモン人の場合にはヘイロテスが奴隷でよそものあって、奴隷の仕事をしている。これにたいしインド人のあいだでは、どんな他所者も奴隷ではないし、ましてやインド人はひとりとして奴隷ではないのである。

断片27
Strabo XV〔I_53〕:

 [1]インド民は誰もが、その日常の暮らしが質素だし、戦場ではそれはなおさらである。また、過度の喧騒を好まず、だからこそ折目正しく振舞う。
 一番大きな特色は盗みに対する制御心で、とにかくメガステネースがサンドロコットス王の陣中にいた際の体験として述べるところによると、40万の大軍が滞在していたのに、200ドラクメ相当以上の品が盗まれたのが発覚したことは一日もなかった。
 [2]しかも、法を明文化しないまま運用している。人々は文字を知らずそれぞれの事例ごとに記憶に基づいて処理して行くが、それでも単純で質素な生き方をしているから幸せに暮している。その証拠に、ぶどう酒を飲まず、ただひとっ供犠の式には飲むがその時には大麦の代りに米から造って飲む。また、食べ物は大部分が米のかゆである。
 [3]法、契約ともに簡潔で、これはあきらかに人々が訴訟好きの民でないことから来る。抵当や預託をめぐる訴訟もなく、証人も印章も用がなく預かり人を信用している。家屋も大部分が無防備である。
 以上の諸点は思慮深さを示すが、これ以外のつぎのような諸点は容認できないかも知れない。すなわち、日常生活がいつでも個人本位で、午前午後の食事を誰もがいっしょで同じ時刻に取ることをせず、それぞれが好きなように食べる。お互いに連帯し合って国家社会を運営する暮しのためには、もっと別の暮しの方が優れている。

Strabo XV〔I_54〕:
  [4]体育ではとりわけ摩擦を高く評価し、その方法はさまざまにあるがとりわけ黒檀の薄くて小さなへらを使って身体をすべすべにする。
 葬いは質素で塚は小さい。
 しかし、いったいに質素に過しているのに装いぶりはまるで反対である。すなわち、黄金を身につけ宝石をあしらった飾りを使い、色どり豊かな亜麻布の衣服を着け、加えて日除けが付く。美しさを高く評価し、見た目を美しくしてくれるものなら何でも着飾る。
 また、真理や徳一に基くことがら一をいずれも受入れ、だからこそ、じゅうぶんに年を取った人でも、同時に思慮深さをも人並み以上に取っていなかったなら、特権を与えてもらえない。
 妻を数多く持ち、その際に妻をその両親から買い、牛二頭と交換してもらう。よくいうことを聞一いて働ら)かせるために迎える妻もあり、そのほか快楽や子を多く生ませるための妻もある。慎む必要がなければ客を取ることも許される。
 供犠の際に花冠を被らないし、香をくゆらし神酒を注ぐことをしない。犠牲獣の喉を切らないで窒息させるが、これは供物に損傷を加えず四肢満足の形のまま神に贈るためである。

 [5]偽証罪で捕われると手足を斬り落され、他人の身体を損傷すると同じ箇所に報復を加えられた上に手も斬り落される。手に職を持った人の手や眼を奪ったものは死刑になる。
 この著者によると、インド民は誰も奴隷を使役しない。[しかし、オネーシクリトスが表明しているところでは、ムシカノスの治める地方の住民にはこの使役が特有の習慣として存在し云々]
 
Strabo XV〔I_55〕:
 [6]王の身辺の世話は妻たちの手を通し、当の妻もその父親の手許から買取られて来る。館の扉の外側に王の身辺護衛の兵たちとその残りの部隊がいる。
 王が酔っているのをどの妻かが殺害すると、その妻は王の後を継いだ男と夫婦になる特権を持ち、この(二人の間の)子どもたちが次の王位を継ぐ。王は昼寝することはなく夜間でも陰謀を避けるため止むなく時に応じて寝所を変える。

 [7]王が出陣以外で出かける行事のひとつが裁判のためのもので、裁判にあたっては、たとえ身体の世話を受ける時刻になろうとも、やはり訴訟に耳を傾けながら終日坐っている。身体の世話とは小さなへらを使って摩擦する仕事で、摩擦役が四人王のそばに控え、王は訴訟に耳を傾けながら同時に擦ってもらう。
 もうひとつは供犠の式に出ることである。
 三つ目には、バッコス祭の行列のような出かけ方で狩りに行く。その折には女人たちが王のまわりに群がり、その外側に長槍を持つ護衛隊が展開する。途中の道には縄を張って仕切り、それより内側へ入って女人たちのところまで来たものは死刑になる。太鼓と鐘の楽士たちが先頭に立つ。
 柵のなかで狩りを行う際には王は壇上から矢を射かけ、そばには女人が二人か三人武装して立つ。囲いのない場所での狩りの際にはゾウの上から矢を射る。また、女人たちはそれぞれに戦車、馬、またはゾウにさえ乗り、あらゆる武器を取って訓練しているから王に従って戦場にも向う。

 Strabo XV〔I_56〕:
 [以上の風習はわたしたちの世界でのそれと比べるとひじょうに奇異なところがあるが、つぎの風習になると、その感がいっそう強い。]
 すなわち〔メガステネースが〕主張するところによると、(インドの)カウカソス山脈地帯の住民は白昼公然と妻と交わり縁者たちの身体の肉を食べる。ペトロキュリスタイ〔"Petrokylistai"「岩転がし」の意〕という尾長猿がいて云々

断片28
Athenaeus IV〔153DE〕:

 メガステネースが『インド誌』第2巻のなかで主張しているところでは、インドでは食事のとき、ひとりひとりに食卓をつける。この食卓は、われわれの食器台のような形をしていて、これの上にボールを置き、それへまず炊いた米を入れる。米というよりはわれわれの挽き割り小麦や大麦を炊いたのに似ていると言えばよいであろう。そしてそこへ次に、肉など、いろいろなおかずになるものを、インドのソースであしらって入れる。

断片29
Strabo II〔I_9〕:

 インド地方について書物を著した人々は誰もがほとんどの場合嘘つきになってしまい、デイマコスはことのほかひどい。メガステネースの説明はその次にひどく、オネシクリトス、ネアルコスそのほかこの種の人々になるとその説明もすでにたどたどしい。
 わたしどもはアレクサンドロスの諸功業を書き留めて一書にしたことがあって、そのおりにも上述の諸問題をさらに広く見渡すことができたが、(その経験から見て)デイマコス、メガステネース両名は格別に信用できない、と言われても仕方がない。
 すなわち、「自分の耳の中で休む種族」、「口無し族」、「鼻無し族」がいると報告したのはこの両名である。「一つ目族」、「長脚族」、「指を後ろへ反らせる種族」についても同じである。また、二人はホメロス詩にあるピュグマイオン族のツル戦争談をも復活させ、この種族は身の丈3スピタメだと述べている。また、金を掘り出すアリ、くさび型の頭をしたパン諸神、ウシやシカを角ごと呑み下すヘビをも報告した。
 以上の人間や動物については甲論乙駁のありさまで、エラトステネースもまさしくこの状態について述べている。すなわち、二人はパリンポトラ市へ使節として派遣され、メガステネースはサンドロコットス王のもと、デイマコスはこの王の息子アリストロカデス王のもとへ赴いた。そして、滞在中に書き留めた上記のような事柄を書にして残したが、いったいどんな理由があって著述の勧めを受けて書にしたのかわからない。
 他方、パトロクレスにはこのような経歴はないに等しい。また、これらのほかにもエラトステネースの利用した証言者たちがあって、これらの人々も信頼が置けないわけではない。

断片30
Strabo XV〔I_57〕:

 しかし、著者の説明はあまりに行き過ぎて神話めいたところにまで達し、それによると身長5スピタメや3スピタメの人間がいて、そのなかには「アミュクテル(鼻なし)人」をも含み、かれらには口より上に呼吸孔だけが二箇所付いている。
 また、ツルが2スピタメ丈の人間と戦い――ホメロスもこの戦のあることを示しているが――ガチョウほどもある山ウズラもこの小人と戦っている。小人はツルの卵を取り出してはこわしている。すなわち、ツルはこの地方で卵を産む。従って、ツルの卵はどこにも見つからず、だからツルの雛も見つからない。また、ツルはほとんどのばい、そこでの戦に傷手を受けブロンズの矢じりを体内に残したまま逃げて行く。
 「エノートコイテースejnwtokoivthV(自分の耳にくるまって寝る)人」や野生人そのほか途方もない人間たちについての話もこれに似ている。そこで、野生人がサンドロコットス王の許へ連れて来られたことはない。すなわち、(来るまでに)食を絶って自殺する。また、野生人はかかとが前向き、足の甲と指が後向きについている。
 他方、口なし人が連れて来られたが、かれらは穏和でガンゲス河の源泉一帯に住み、肉を焼く時に出る湯気と果実や花の香で身を養い、従って口がなく代りに呼吸孔を持っている。また、悪臭には耐えられないから、生き延びるのが難しく、軍の野営地ではとりわけ難しい。
 著者によると、哲人たちはこのほかの人間たちについても述べでいるが、その報告によると「オーキュポデス(速足)人」は馬より速く去って行く。また、エノートコイテース人は耳が足元まで垂れ、そのなかで眠れるほどだし、力が強いから樹木を引抜き弓の弦をちぎる。
 このほかにも「モノンマトス(ひとつ目)人」は犬の耳を持ち額のまんなかに眼がひとつ、髪は逆立ち、胸は毛深い。アミュクテール人は何でも食べ肉を生で食べ短命で老年に達しないまま死ぬ。上唇の方が下よりはるかに突出ている。
 著者は、1000年も生きるヒュペルボレウス人についてシモーニデース、ピンダロスそのほかの説話作者たちと同じ説明を行っている。[ティマゲネスも説話を語り、それによると銅が滴となって天から降り、流れて行く。しかし、メガステネースの方にはもっと信頼を置けそうで、それによると川が砂金を運んで下り、その一部を貢納物として王に納める。たしかに、イベリア地方でもこうしたことが起っている。]

断片31
Plinius VII, 2, 14〔22-23〕:

 またメガステネースの話では、ヌルスという名の山には足が後ろ向きについており、両足とも指が8本ある人々が住んでいる。[15]また多くの山々にはイヌの頭を持つ人間の種族がいて、それは野獣の皮衣を着、その言語は咆哮であり、獣や鳥の狩猟の獲物を食べて生きている。その狩猟のために彼らはその爪を武器として使うと言っている。彼によれば、彼が本を出版したころはそういう人々が12万人いたという。[クテシアスは書いている。インドのある人種では、女は生涯にたった一度しか子を生まない。そして子どもは生まれるとすぐ白髪になり始める、等々]

断片32
Solinus 52, 36:

  Ad montem, qui Nulo dicitur, habitant, quibus adversae plantae sunt et octoni digiti in plantis singulis. Megasthenes per di- versos Indiae montes sees scribit nationes capitibus caninis, armatas unguibus, amictas vestitu tergo- rum, ad sermonem humanum nulla voce sed latra- tibus tantum sonantes, asperis rictibus. [Apud Ctesiam legitur, quasdam feminas ibi semel parere natosque canos illico fieri, etc.]

断片33
Plinius VII, 2, 18〔25〕:

 [18]メガステネースはインドの遊牧者の仲間で、ヘビのように鼻孔の代わりにただ一つの孔しかなく、脚が鰐脚になっている種族について語っているが、それはスキリタエ族と呼ばれる人々であるという。インドの東部、いや、はての地域、カンジス河の水源の近くには、彼によれば、アストミ種族というがいて、彼らには口がなく、身体中毛に被われ、生綿をまとい、呼吸する空気と、鼻孔を通じて吸いこむ匂いのみによって生きている。彼らには飲み食いということはなく、ただ根や花や野生のリンゴのいろいろな香気のみで生きている。やや長い旅行をする時は、香気の供給が切れないように、そういう品々を携えて歩く。彼は言う、その連中は普通よりいくぶん強い匂いによって簡単に殺されると。
 [19]それらの先、一番外側の山岳地域には3スパン人と小人族がいるが、彼らは背丈が3スパンを越すことはない。そこは北側が山脈によって守られているので、気候は健康的で常春のようだと。ホメロスは、この種族はまたツルに取り巻かれていると記している。こういうことが報ぜられている。春になると全員隊を組んで、弓矢を帯し、雌雄のヤギに乗り、一隊となって海に下ってゆき、ツルの卵と雛を食べる。そしてこの遠出は3ヶ月かかる。こうしなければ彼らは生長するツルの群から身を守ることができなかった。彼らの家は泥と羽毛と卵からでつくられると。[アリストテレスは、それらの小人たちは穴居しているといっているが、彼の記述のほかの部分はほかの大家たちと一致している。]
 [22][クテーシアスは言っている。彼らの仲間にパンダエ族と呼ばれる一種族がいて、山地の谷間に住んでいるが、これは200年以上も生き、若い時分は白髪だが、年を取ると黒くなる。そうかと思うと、40歳を越さない人々がいる。長命族の隣にいる種族で、その女たちは一度しか子を生まないと。アガタルキデースもこれについて記している。彼らはイナゴを常食とし、きわめて駿足であると。]クレイタルコスは彼らにマンディという名を与えている。そして、メガステネースも彼らの村は300もあるという。そして女は7歳のとき子を生み、40歳で老境に入ると言っている。

断片34
Plutarch. De fac. in luna c.24:

 なぜなら、インドの「根」――メガステネースの主張では、〔口無し族は〕口がないのだから、これを食いもせず飲みもせず、蒸したり燻したりして、その匂いで養われるという――あの根にしても、月に雨が降らなければ〔生えないのだから〕、その生えたのをそこからいったい採って来られようか?


"t35-43"
《第3巻より》

断片35
Arrian. Ind. c.11:

 [1]すべてのインド人は概して七つの種姓に分かれている。その第一は賢者(sophistai)の種姓であって、数のうえでは他の種姓より少ないが、名誉や位階の点でもっとも尚ばれているのが彼らである。[2]肉体労働をせねばならないという必要にしばられているわけでもなく、働いて得たうちから公共のために、その一部を差っ引くこともしないでよいからだ。インド人共通の福利のために神神に供犠を行うこと以外、彼ら賢者たちにはまつたく何のつとめも強制されてはいないのである。[3]誰かが個人的に犠牲をささげようとする場合は、こうした賢者のうちのひとりがその供犠の導師をつとめる。そうしなければ神々が嘉納したまうような供犠を果たせないというのだ。

 [4]予言の術に長じているのも、インド人の中では彼らだけであって、賢者種姓以外の者には予言を行うことは許されていない。[5]予言は1年の季節に関することや、何らかの災難が社会一般のうえに降りかかるかどうかについて行われるもので、個個人のために私事に関して予言を行うことは、彼らの関知するところではない。予言の術は個人日常の些事にまでは及ばないかもしくは、賢者としてそういったことにまで、あえて心を労するにも当たらないというのである。[6]予言を行って過つこと三回に及んだ者は、そのことゆえに別段の処罰をこうむるというわけではないがただし、以後は口を慎まねばならず何人といえどもいったん口を慎むよう宣告された者に、強いて予言を行わせるということはできない。
 [7]彼ら賢者種姓の者は裸で日を送つており、冬場は屋外陽光のもとで過ごすが夏間、太陽が照りつけるときは草地や水辺の低地で大樹のもとに涼をとる。ネアルコスが語っているところでは、その樹蔭は、まわり四方およそ5プレトラにも及び、ひとつの緑陰にしてよく1万人もの人間を容れることができるという。この樹はそれほどにも大きいのである。[8]彼らは季節の実りと樹の皮を食用とするが、その樹皮というのは、ナツメヤシの実にも劣らぬほどの甘味があり、滋養分にも富んでいる。
 [9]これらに次いで第二番目にくるのが農民の種姓で、彼らが数の点ではインド人の最大多数を占める。農民たちは戦用の武器も持たず戦事にもあずからないで、ただ土地を耕すことにのみ専念し、王と自治を守る町とに貢租を納めるのである。[10]インド人相互のあいだに内戦騒ぎがもちあがっても、田畑で働く農民をその巻き添えにすることまた、土地そのものを荒らすことは御法度で、一方に敵味方の睨みあいがあってそこで、突発的におたがいの殺しあいが起ころうとも、そんな彼らのすぐかたわらでは農民たちが、のんびりと畑を耕したり果物を摘んだりあるいは、果樹の勇定をしたり取り入れをしたりしているのである。
 [11]インド人の三番目の種姓は牧人、羊飼いや牛飼いたちである。彼らは町にも村にも住まず、移牧の民であって、山で暮らしを立てている。この牧人たちも家畜のなかから貢租を納めるのであって、各地をまわっては鳥を捕ったり、野獣狩りをしたりしているのである。
Arrian. Ind. c.12:
 [1]第四番目は職人や小売り商人の種姓である。これらの者たちにも公共奉仕の義務があつて、それぞれの生業から貢租を納めるがただし、戦用の武器製造に従事する者だけは、このかぎりではない。これらは国から給料を受けているのである。この種姓にはまた船大工とか、船で川を往き来する水夫たちもふくまれている。

 [2]インド人の第五の種姓を成すのは戦士だ。数のうえでは農民に次いで二番目だが彼らは最大の自由と快適な暮らしとを享受して、戦事だけに専心これ努めているのである。[3]ほかの者たちは彼らのために武器をつくったり軍馬を調達したり、あるいは陣中で彼らに奉仕して彼らの乗馬の世話をしたり、武器を磨いたり、戦ゾウを嚮導したり、戦車を整備して運転したりするのである。[4]彼ら戦士種族の者は、戦うべき義務があるかぎりは戦闘に従事するが、世上ことなく平和なときには彼らは楽しく暮らす。国から十分な給与がまえるので、彼らはその給料のうちからも、第と他人をさえ養うことができるのである。

 [5]インド人の六番目の種姓は監督者と呼ばれる人々である。これらの人々は地方や町で起こったことどもを監督しその状況を、土地のインド人が王に統治されている場合は王に、自治の民である場合にはその筋の役所に報告する。彼らが虚偽の報告をすることは、いかなる場合にも許されないが、インド人にしてかつて嘘をついた廉で告発された者はひとりもいない。

 [6]第七番目は王とともにあってあるいは、自治の町でならば役所と協力して、公共のためにことを諮る人々である。[7]数のうえではこの種姓はわずかだが、知恵と正義の点では万人に卓越している。いろいろな役人――地方長官や次官、国庫や軍の監督官また、水師提督や財務官それに農事検閲官などが選ばれるのも、彼らのあいだからである。

 [8]他の種姓から娶ること、たとえば農民が職人から妻をむかえること、ないしその逆は法律で禁じられている。また同一人がふたつの技術をいとなむことも、ある種姓から別の種姓へ鞍がえすることたとえば、牧人から農民に移るとか、職人から牧人へ移るといったことも、掟で許されてはいない。[9]彼らのあいだでどの種姓からも移ることが認められているのは賢者(sophistes)種姓だけだ。賢者の仕事は決して柔弱なものではなく、数ある業のうちでももっとも辛苦の要るものだからである。

断片36
Strabo XV〔I_39〕:

 [1]インドイ人たちの大衆は七つの階層に分かれる。そして、社会的評価からいうと哲人の階層が第一位だが、数は一番すくない。人々がいずれかの神々や英雄たちに供犠する際には各人が私的に、また王たちが「大集会」を開く際には公式に、いずれも哲人たちに相談する。
 新年のこの大集会では哲人全員が王館の扉前に集まると、作物と家畜の増産のためまたは国制の運営について役立つことがらがあれば、それらのなかから何でも、各自で書にまとめるか、または注意して見守ってきた上でその成果を、集会の場へ提出する。そして、提案したことが誤まりだということが三度見つかると、その哲人は一生口をきいてはならないというのが法の定めで、正しかった場合には裁定により貢納や税負担を免除してもらう。

 [2]第二の階層は農民で、数も一番多くて地位も(前者に次いで)一番高く、その証拠に兵役義務を免除され耕作権を保障してもらう。その代り、およそどんな問題とりわけ社会的な紛争が起っても、市域には近付かない。とにかく、同じ時と所で、一方には兵が陣を張り危険を冒して敵と相対する状況なのに、他方ではそれらの兵に保護してもらいながら安全に耕作し畑に溝を掘っている人々がいるのは、珍らしくなかった。
 また、土地はすべて王領で、農民たちは貸借料を払い収穫の四分の一をそれに加えるという条件でその土地を耕やしている。
 [3]第三の階層は牧人と狩人で、狩猟と家畜の飼育、それらを売りに出すこと、貸借料を受取って荷馬車を貸すこと、はこの人々にだけ許されている。また、土地から野生動物や種をついばむ鳥を追出して、その見返りに王から一定量の穀物を受取る。受取るのは、この人々が諸方を渡り歩くテント暮らしをしているからである。
しかし、馬とゾウの飼育は一般人には許されず、所有物と見なされて、それらの飼育係がいる。
 [4]狩人と牧人の次に第4の階層として技術を使う人、小売商人、肉体労働をする人がいて、これらのなかには貢納分を支払い所定の公共奉仕額を提供する人々がいる。
 また、武器・武具作りと船大工には王から報酬と食料の供与があるが、これはこれらの職人が王のためにだけ仕事しているからである。そして、軍備監が兵士たちに武器・武具を提供し、船舶監は船乗りや交易商人に賃貸料を取って船を貸与する。

 [5]第五の階層は戦士たちで、この人々はふだん何も仕事をしないで酒を飲みながら日を送り、日用品は王からの支給でまかなっている。従って、いったん緊急の時がくれば迅速に出陣し、その際自分の手許からは身体以外何ひとつたずさえて行く物はない。

 [6]第六の階層は見廻り役で、この人々は領内で現に何が行われているかを見廻り、それらを内密に王へ申しあげることが許されている。また、遊女たちを助手に使い、市域内の見廻り役は市内の遊女を、戦場の軍では従軍慰安婦を、それぞれ使う。一番優秀で一番信頼の置ける人々がこの役に指命される。

 [7]第七の階層は王の顧問や幕僚たちで、そのなかから国務と司法の役人および財務全般を司る役人が出る。ほかの種姓から妻を迎えること、職種・職務を取りかえること、同一人がいくつもの仕事にたずさわること、はいずれも許されない。ただし、最後の項目については哲人たちの場合例外扱いとなり、この人々には(それを可能にする)徳があるので許される。

断片"36a"
Strabon XV〔I_50-52〕:

 [50]国務の長としては市場監・市域監・軍事監がいる。
 市場監は河川を整備しエジプトでのように土地を再測量し、さらに暗渠があってそこから水がいくつもの水道へ分配されるが、その暗渠を見廻って誰もが水を平等に使えるようにする。また、この同じ役人が狩人たちの監督にも当り、該当者にはそれ相応の賞罰を定める権限を持つ。
 徴税にも当り、土地に関係する技術すなわち木こり、大工、銅細工師、探鉱師たちの技術にも監督の目を向ける。道路を作り、10スタディオーンごとに標識を設けてそれに別れ道の道しるべや里程を表示する。

 [51]
 市域監は五人一組で六組に分れ、まず職人たちの仕事を監督する組と外来の客を接待する組がいる。後者は、さらにこれらの客に宿舎を割当てお伴をつけて日常の世話にあたらせ当人たちや、当人が死亡した際にはその財産を、送り出す。病気になれば看護し死ぬと葬儀を行う。
 第三の組は領民の出生・死亡についてそれらの日時と状況を調査する役で、調査は課税用のほかに、新生児が丈夫かどうかを含めて新生児と死者の有無をはっきりさせるために行う。
 第四の組は商晶の販売や交換を監督する役で、商品の計量と、季節の収穫物が一計量済みの一印をつけて売られるよう配慮する。同一人が複数の晶物を交換することは、税を二倍納めないかぎり許されない。
 第五の組は制作された商晶を管理し、刻印をつけた上で売る役である。その際新しい品と古物を区別し、混ぜていると罰金を課する。
 第六の組が最後の組で売上高の十分の一を徴税する役である。この税を自分のふところに隠すと死刑になる。
 〔共通の役目〕それぞれの組ごとに独自に以上の職務を行うが、そのほか共同で管理にあたる仕事としては私法上の諸問題、政治上の諸問題、公共施設の整備と、価格、市場、港、神域の管理がある。

[52]
 市域監のつぎに第三の部門は軍事を扱う長たちの集合体で、これも五人一組で六組に分れる。
 そのうちまず一組を船舶監に、つぎの組を牛車隊の監督役人に、それぞれ付ける。牛車隊を使って兵器、兵士と荷役獣の食料、そのほか遠征に必要な物資を運ぶ。この組の担当者たちは従軍要員としての太鼓打ち、鐘叩き、さらには馬廻り役、攻城兵器組立者とその部下をも調達する。鐘の役にはまぐさ集めの労働者を派遣し、(職務遂行の一迅速と安全を確保するため賞罰を使いわける。
 第三組は歩兵隊、第四組は騎兵隊を、第五組は戦車隊、第六組はゾウ隊を、それぞれ管理する。馬、ゾウともにそれぞれの畜舎があって、武器庫と共に王の所有になる。兵士は装備を武器庫へ、馬を馬屋へゾウも同じように、それぞれに返還する。また、兵士は馬やゾウを「はみ」なしで扱う。
 〔戦車と戦闘ゾウ〕戦車は、路上では牛に引かせ、馬には引き綱をつけて連れて行って足に擦り傷をつけないようにし、このようにして(戦場で)戦車を繋いだ際に馬の士気がゆるまないようにする。戦車の上には御者のそばに戦闘要員が二名立つのに対し、ゾウの方では御者は四番目で、ゾウから矢を射かける兵が三人いる。
断片"36b"
Aelianus XIII, 9:

 そもそも、インドスのウマが跳ねたり疾駆したりするのを、抑えたり控えたりすることは、子どものころから馬術を教えこまれた者たちでなくては、何びとといえどもよくすることはできない。なぜなら、これを発進させたり、これを躍らせたり、直進させたりするのに、銜を使うという習慣は、彼らにはないからである。そもそも、彼らは刺のついた口籠で〔ウマの〕舌を懲らしめることもなければ、口蓋を傷つけることもない。にもかかわらず、これら〔インドスの〕馬術の精通者たちは、ウマたちをぐるりと転回させたり、同じ所を回転して旋回させたりする、口輪なしでもそうするすべを彼らは知っているのである。こんなことをする者には、そもそも、両手の力も、馬術に対するの深甚の知識も必要である。この知恵の奥義に達した者たちのみが、〔二頭立て〕戦車をも同様にして、転回や周回を試してみる。さらに、暴れウマ四頭立て戦車を易々と転回させるにいたっては、それは侮りがたい技量ということになるであろう。戦車の場合は、陪乗者をさらに2人運ぶ。戦ゾウ(stratiotes elephas)の場合は、いわゆるトーラキオン"thrakion"〔"thorax"〔胴鎧〕の派生語で、戦ゾウの背にあって戦士が乗る籠のこと。「塔(pyrgos)」とも言われる。〕の上か、あるいは、何と!ゼウスにかけて、裸で〔馬具なしの〕自由な背の上に〔乗るが〕、戦士は3人――両側に投擲兵、その後ろに第三の〔戦士〕――である。さらに第4番目の者は、手に刺し棒(harpe)を持っていて、それによってこの動物が直進させること、あたかも、操舵手や船の副官が、舵板(oiax)で船を〔直進させる〕がごとくである。

断片37
Strabo XV, 704〔I_41-43〕:

 [41]しかし、ウマとゾウの飼育は一般人には許されず、どちらも王の所有物とみなされて、それらの飼育係がいる。
 [42]ゾウ狩りは次のようにして行う。裸地のまわりに約四、五スタディオーン長さの深い壕を掘り廻らし、入口をできるだけ狭い橋で繋ぐ。それから、とてもよく飼い馴らした雌ゾウ室二、四頭そのなかへ放ち、自分たちは隠された小屋に坐りこんで待伏せる。
 すると、野生のゾウは昼間は近付かず夜に入って一頭ずつ入ってくる。ゾウの群が入ってしまうと入口をこっそり閉ざし、それから戦闘用に飼馴らしたゾウのなかでも一番勇気のあるのを連れて入ると野生ゾウと戦わせ、同時に相手を飢えさせて痛めつける。野生ゾウがすでに弱ってきた頃、飼育ゾウの御者たちのなかでも一番勇敢なものたちが、こっそりゾウから下りるとそれぞれ自分の乗っていたゾウの腹の下へ潜りこみ、そこから走り出て野生ゾウの下へ潜ると四足とも縄で縛る。
 この仕事が終ると、飼育ゾウに命じて足を縛られたゾウが地面にたおれるまで打ちつづけさせ、たおれると剥いだままの牛皮で作った紐で野生ゾウの首を縛りそれを飼育ゾウの首に結びつける。そして、ゾウの背に登ろうとする人間を、体をゆすって振り払うことのないようにするため、首のまわりにぐるりと切れ目を入れ、切れ目に沿って紐を巻つけると、ゾウは痛がって紐を引張るとおりについて行き、おとなしくなる。
 捕えたゾウのうち、使役用には年をとり過ぎているゾウと若過ぎるゾウを選んで除くと、残りをゾウ舎へ連れて行き、足と足を結びしっかりと地面に打ちこんだ柱へ首を結びつけると、餌をやらないでおとなしくさせる。それから葦や牧草の柔らかいところを与えて元気を取戻させる。
 その後でいうことを聞くよう教えこみ、その場合ゾウによって言葉をかけるやり方と歌や太鼓を聞かせて心を奪うやり方があるが、馴れ難いゾウはめったにいない。というのも、ゾウは本性上穏やかにおとなしく行動し、この点で理性を持った生物にきわめて近い。戦闘中に御者が出血のあまり地上に落ちたのを拾いあげて戦場から無事に助け出したゾウや、前脚の間に潜りこんだ御者を防いで戦い無事に守り通したゾウもいる。  また、もしも飼育主や調教師を、腹を立てて殺したりすると、後でひじょうに恋しがって悲しみのあまり餌を取らなくなり、時には食べないまま死ぬこともある。

 [43]交尾と妊娠ゾウは馬と同じく、とりわけ春季に交尾し子を産む。雄はまるで気が狂ったように荒くなっている時が交尾によく、その時にはこめかみのすぐそばにある呼吸器官から一種の粘液を放出する。雌の適期は同じこの孔がちょうど開き切っている時である。
 妊娠期間は一番長くて18か月、一番短かくて16か月、母ゾウは六年間子ゾウを育てる。
 大半のゾウは一番長命の人間ほども生き、時には200歳に達するゾウさえいるが、ゾウには多種多様な病気があり治り難い。眼の治療には雌牛の乳をかけて洗い、ほとんどの病気には黒色酒を飲ませる。傷には飲用バターを使うが、これは鉄分を吸出すからである。傷が化膿すると豚の肉を張って暖める。

断片"38a"
Arrianus Ind. c.13:

 [1]インド人たちは概してギリシア人と同じやり方で野獣狩りをするが、彼らの像狩りだけは、他のどんな種類の狩りの仕方とも違っている。〔狩りの対ゾウとなる〕動物そのものが他の動物どもとはまったく異なっているからだ。[2]インド人たちはまず平坦で陽射しのきつい場所を選ぶと、大軍勢がその中で宿営できるほどの大きな濠を環状に掘りあげる。濠の幅はおよそ5オルギュイア、深さはおよそ4オルギュイアほどにするのである。[3]濠から掘りあげた土は濠の両側の縁に積みあげて、防壁代わりに利用する。
 [4]そのうえで彼らは濠の外縁にできた土山の下部に自分たち用の掘り抜きの隠れ場をくり、小窓を穿ち残してそこから〔内部の〕自分たちのところまで外光がとどくように、また動物〔ゾウ〕どもがやってきて囲いのなかに入りこむのが見えるようにする。[5]そこの囲いの内には格別手馴れた、気質もおとなしい牝を三、四頭ばかり置き、濠には橋を渡してそこに入る道を一本だけ残しておく。橋にたくさんの盛り土や草をかぶせておくのは、動物どもがその橋を遠くから見分けて、何かそこに罠が仕掛けられているのに、感づくことがないようにするためなのだ。[6]そうしておいて彼らはそこを立ち退き、濠の縁の隠れ場に身をひそめる。野生のゾウというのは昼日中、ひとの住むあたりに近づくことはないが、夜になるとちょうど牝牛が牡牛につきしたがうように、仲間うちでも最も大きくすぐれた牡の後にしたがって、いたる所を徘徊するものなのだ。
 [7]そのゾウどもは囲いに近づいて牝が蹄く声を聞き、その匂いを嗅ぎつけると、囲いこまれた土地目がけて突進してくる。そして濠の外縁沿いに回りめぐるうち橋のところに行き当たると、ゾウどもはそこを通って囲いのなかへと押し入ってくるのである。[8]さて人間たちの方は野生のゾウの群が入ってきたのを見とどけると、ある者たちはすばやく橋を取り除け、別の連中は近くの村村に駆け出していって、ゾウが囲いのなかに入ったことを知らせる。[9]知らせを聞いた方は元気一杯の、最も手馴れたゾウに打ち乗ると、そのなりで囲いに馳せ向かうが、馳せ向かったからとてすぐさま闘いにかかるわけではなく、野生のゾウどもが飢えに苦しみ渇きで苦しむがままに放ったらかしておく。
 [10]相手のゾウどもが体力消耗したと判断されると、そこではじめて彼らはふたたび橋をこしらえて、囲いのなかへ突入するのである。はじめのうちは激しい争闘が、飼い馴らされたゾウと虜となったゾウとのあいだにもちあがるが、やがてついには野生のゾウどもの方が予想どおり、意気沮喪と空きっ腹で疲労困憊したあげく圧倒されてしまう。[11]人間たちの方はその乗ったゾウから降りると、今はもう力尽きたゾウどもの脚先を縛り合わせ、そのうえで手飼いのゾウどもに命じて、相手が疲労の果て地上にくず折れてしまうまで幾度もくりかえし、その雄叫びで相手を打ちのめさせる。人間はかたわらに立つと、ゾウどもの頸のまわりに輪索を引っかけ、横倒しになったゾウによじのぼる。
 [12]彼らはゾウが乗り手を振り落としたり、その他むやみな荒れ方を仕出かしたりしないように、ゾウの頸筋に鋭利な短刀でぐるりと切り込みを入れ、その切り目沿いに例の輪索を巻きつける。頭や頸を、傷の痛みから振り動かせないようにするのである。[13]もし〔ゾウが〕不逞な考えを起こして頭をねじ向けようとすれば、縄目の下の傷が擦れることになるからだ。こんなふうにしてゾウはおとなしくなり、もはやこのうえは闘いに敗れたことを観念して、手飼いのゾウにつながれて曳かれてゆくのである。
Arrianus Ind. c.14:
 [1]まだほんの仔ゾウだとか、どこかに欠陥があって捕獲するだけの値打ちもないゾウはいずれも、ゾウどもがふだん出没する場所に放される。[2]捕獲したゾウを村へ曳いてきた者たちはまず、緑の芦荻や草葉を飼料として与えてやるが、ゾウの方はすっかり意気沮喪して何を食べる気力もない。[3]するとインド人たちはゾウどものまわりに円陣を組んで、歌をうたい太鼓やシンバルを打ち鳴らしながら、彼らをあやして眠りこませようとする。[4]というのも心の賢しい獣がもしいるとすればそれは、ゾウを措いて他にないからだ。実際あるゾウどもは己自身の乗り手が戦場で繁されてしまうと、みずから〔その遺体を〕拾いあげて、埋葬するために運び去っているし、あるゾウどもは地上に横たわった乗り手を庇いあるいは、傷つき倒れた乗り手を護ろうとして、己が身を危険にさらしてもいる。またあるゾウのごときは昂奮のあまり乗り手を殺してしまってから、後悔と気落ちのあまり、とうとう死んでしまったのである。
 [[5]この私自身もあるゾウがシンバルを打ち鳴らし、別のゾウどもが〔それに合わせて〕踊りをおどるところを見たことがある。[6]ふたつのシンバルがシンバル奏者〔のゾウ〕の両の前脚に結わえつけられ、別のもうひとつのシンバルが、鼻と呼ばれる部分に結わえつけられたわけだ。そのゾウは拍子をとりながら片方ずつの脚に交互に、鼻でシンバルを打ち合わせるのであり、踊り手〔のゾウども〕は輸になって踊るのである。踊り手のゾウどもの方もまた、シンバル奏者のゾウが彼らの音頭をとるのに合わせて、交互に拍子をとりながら、前脚を上げたり折り曲げたりして、ステップを踏むのであった。]
 [7]ゾウは牛や馬と同じく、春の季節に交尾する。その季節には牝のこめかみ近くにある通気孔が開かれて匂いを発散するのだ。牝が腹に仔を宿すのは最も短くて16か月、最も長い場合は18か月に及ぶ。仔を生むのは牝馬と同じく〔1回に〕1頭であり、母ゾウは仔が生まれて8年になるまで、母乳で育てるのである。[8]ゾウのうちで最も長生きのものは200年も生きる。多くはその年齢に達するまでに病気で死んでしまうが、老衰にまかせればその歳まで行くのである。[9]ゾウの眼の病気にたいする処方としては牛乳を点眼してやるが、その他の病気には濃いぶどう酒を飲ませる。また潰瘍の手当てには豚の焼き肉が、罨法としてあてがわれる。こういったところが、インド人がゾウに用いる薬なのである。
断片"38b"
Aelianus N.A. XII, 44:

 インドス地方で成長したゾウが捕らえられた場合、飼い慣らされるのは困難で、自由を渇望して人殺しさえする。また、この〔ゾウ〕を縄目にかけても、かえってますますよけいに激情に火をつけることになり、主人を〔主人として〕認めることをしない。けれども、インドイ人たちは、いろいろの食物でこれに阿諛追従し、様々な誘惑的な餌でおとなしくさせようとして、差し出し、胃の腑を満たしその激情を宥めようとする。しかし〔ゾウ〕は、それらに苛立ち、無視する。それでは、彼らはどんな工夫を凝らし、何をするか? 彼らに在所の音楽をあてがい、一種の、それも馴染みの楽器で彼らに歌ってきかせるのである。その楽器はスキンダプソス(skindapsos)と呼ばれている。すると、彼〔ゾウ〕は耳を傾け、宥められて、怒りも止み、激情はおさまって落ち着き〔原文"thornytai"(とびだす)では読めないので、LOEBに従って"stornytai"と読む〕、少しずつ食物にも目を向ける。こうなると、縛めを解かれても、音楽に縛られてとどまり、囚われの身の優雅な宴客として熱心に食事するようになる。というのは、韻律に対する渇望によって、もはや逃げ去ることをしないからである。
断片"38c"
同 XIII, 6:

 狩られたゾウたちの傷を、インドイ人たちは次のような仕方で治す。患部にぬるま湯で罨法を施すこと、美しきホーメロスの中でパトロクロスがエウリュピュロスのそれにする〔Il. XI_829〕がごとくである。次いで、患部にバターを塗りたくる。しかし深手の場合は、炎症をやわらげるため、豚肉のまだ温かくて血のしたたるのをあてがい、固定する。ゾウたちの眼炎を手当てする場合は、牛乳を温めて、患部に注ぎかける。ゾウたちは瞼を開いて、益されていることを悦び、人間のように察知する。こうして、洗い流しつづけて、眼のかすみが徐々に退くまでにする。それが、眼炎の治まる証拠である。他の仕方でかかった場合のゾウの病は、黒ワインが彼らの治療薬となる。しかし、こういった薬で悪いところがなおらなければ、彼らがたすかることはない。

断片"39a"
Strabo XV〔I_44〕:

 アリについてのメガステネースの話によると、インドの東部山岳地帯の住民の中にデルダイという名の大部族がいて、その地方内に周囲約3000スタディオーンほどの高原がある。その麓に金鉱があって、それを掘っているのはありだが狐に負けないくらいの大きさがあり、驚くほど速く走り、狩りをして生きている。
 冬の間に地面を掘り、「モグラ」がするように穴の入口そばに掘り土を積み重ねる。砂金をとるにはそれを少し溶解しなければならない。
 近隣の住民は荷役用の家畜を連れてこっそりこの砂金を取りに行く。これがアリたちの目につくと、アリは戦いを仕掛け、逃げても追跡し、捕らえると人間も荷役獣もともに殺す。そこで、アリの目をそらすため野生動物の肉を一切れずつ穴の前方に置き、アリがそちらの方に気を取られている間に砂金を奪い去る。
 そして、溶解法を知らないから精錬しないままの砂金を交易商人たちに相手の言い値で売り渡す。
断片"39b"
Arrianus Ind. c.15, 5:

 [5]アリに関する次のような話を、正真正銘の話として記録しているのはメガステネースだ。それらのアリは黄金を掘るアリなのだが、といっても別に金そのものが目当てで掘るわけではなく、穴に隠れ棲もうとして本性、地下を掘るのであって、それはわれわれのところの小さなアリが、地面に小さな穴を穿つのと異ならないというのである。[6]ただしこのアリというのは――じつは狐よりも大きいアリなのだが――その身体の大きさに見合って土地に穴を掘るわけで、土地の金を含んでいるため、インド人もそこ〔に掘り出された土塊のなか〕から金を採取するというのである。[7]しかしメガステネースは噂の聞き書きをしているにすぎない。

断片40
Strabo XV.〔I_58-60〕:

 [58]また、(sc. メガステネースが)哲人たちについて主張して、こう言っている、――彼らのうち山地にある者たちは、ディオニュソス賛歌の歌い手で、(ここにこの神がいた)証拠として、自分たちの住むところにだけ生える野生のブドウ、ツタ、月桂樹、テンニンカ、ツゲ、そのほかさまざまな常緑樹を示す。この種の常緑樹はエウプラテス河を(東へ)越えると何ひとつ見られず、例外として宮苑のなかで稀に、しかもひじょうな手数をかけて、生きのびている。
 また、亜麻布を身にまとう、頭飾りを着ける、香油を身に振りかけ(顔などを)色彩豊かに染める、王たちが出かける際の行列に合わせて鐘を鳴らし太鼓を打つ――これらはみなディオニュソスの祭儀風である。他方、平野地帯の哲人たちはヘーラクレースを祀る。
 [そこで、以上の話、とりわけ、ブドウとその酒にまつわる話は神話じみていて多くの人々から反論を受けた。その反論によると、エウプラテス河以遠には、アルメニア地方の大半、メソポタミア全域、それに引きつづいてはメディア地方がペルシス、カルマニア両地方にかけての間で、入る。そして、これら諸族の地方はそれぞれにその大半の土地で、ぶどうも豊かに採れその酒もじゅうぶん造っている]。
 [59]著者は哲人たちについてもっと別の分類を行う。それによると、哲人には二とおりあって、一方をブラクマナイ〔婆羅門、サンスクリット語"brahma[n]a"〕、他方をサルマナイ〔沙門、サンスクリット語"[s]rama[n]a"〕と呼ぶ。そこで、ブラクマナイの方が世評も高く、実際に教説の面でも後者よりよく世に容れられている。
 すでに子が胎内に宿るとすぐ、学識のある人々が胎児の指南役としてつき、母親と胎児に近づくと、噂では安産の呪文を唱えていると思われているが、ほんとうは思慮に富んだある種の助言や教訓を与えている。そして、これらの教えに一番よく喜んで聴き従うものがとりわけ母子ともに健康なお産を迎える、と信じられている。
 誕生後はさまざまな教師がつぎつぎに、それ以前の教師の後を引継いで教導に当たるが、その際、子どもの年齢が上るにつれて絶えず前任者より一段と教養の高い教師に就く。
 哲人たちは市の前方にある杜のなかの手頃な周壁の下で時を過ごし、枯草のしとねに敷皮を置いて質素に暮らし、心を揺り動かすこと特に色欲を避け、ひたすら真面目な論にだけ耳を傾け、教えを聴こうとする人々とも接触する。聴講する人はしゃべることも咳ばらいすることも、ましてつばを吐くこともしてはならない定めで、この掟を破ると自制心がないものとしてその日一日聴講の座を追われる。
37年間このような暮しをつづけた後、それぞれ自分の財産のあるところへ帰り、以前ほどの束縛や制約を受けないで暮す。従って、亜麻布を身にまとい耳や手には適度に金の飾りを着け、人間の仕事の手伝いをしていない動物の肉を食用にするが、香辛料や味付けしたものを避ける。
 できるだけ多くの妻を迎えて子どもをたくさんもうけようとするが、これは多くの妻を持てば真剣に生きる子も、それだけたくさん生まれようからである。また、哲人は奴隷を使わないから生れた子どもたちに世話してもらうのはもっとも切実な用件ででもあり、それだけになおさらその種の世話を受ける準備をしなければならない。
 しかし、ブラクマナイは結婚した妻たちといっしょに哲学を探求することはない。探求を共にしないのは、妻たちがたとえ悪心を抱いたとしても掟に背いたことをひとつでも俗世の人々に漏らすことがないよう、また、まじめに探求するようになっても夫を捨てることがないよう、用心するからである。誰にせよ快楽や労苦を気にもとめず同様にして生と死を気にとめなくなれば自分以外の人に従うことを欲しなくなるが、男女を間わず真剣に探求するとこのような人間になる。
 哲人たちが語る教説では死を扱った部分が一番多く、この人々の信じているところによると、この世の生はまさしくちょうど胎内にいる最中のようなものであり、死は真実の生への誕生、従って哲学を探求した人々にとっては幸福な生へと生れることである。従って、人は死へ臨むためできるだけ多くの訓練に従事しなければならない。
 人の身に起る出来ごとには善も悪もまったくなく、その証拠に同じ出来ごとでありながらそれに出会って悩む人もあれば喜ぶ人もいて、そのありさまは夢のなかで判断するようなものであり、また、同じ人が同じ出来ごとに出あいながら、時には悩み、時には考えが変って今度は喜ぶことがある。
 メガステネースによると、自然を扱った教説では考え方に素朴なところを見せている部分もあるが、それというのもこの人々は言論より実践の面でむしろ優れ、その場合大半の教説をば神話を介して信用しているからである。
 しかし、ギリシア人に似た教説を説くところも多く、たとえば宇宙は生成消滅するものだということは、ギリシア人たちも説くところである。このほかにも、宇宙は球体でこれを司りこれを造ったのは神であり、その神が宇宙全体に遍く行き渡っていること、万物の始元は(それぞれに)相異なっているが、宇宙を作っている始元は水であること、四元素に加えていわば第五元素として自然があり、それから天と星が生成すること、大地は万有の中央に位置すること、以上のことはギリシア人も説いている。
 種子と魂についてもギリシア人の場合と同じような教えを説き、このほかにもまだいくつかの教説を説いている。魂の不滅と冥府での裁きについて神話をも織込むところはプラトンとも似ているし、この種の教えもほかにいくつか存する。
 ブラクマナイについての説明は以上である。

 [60]メガステネースによると、サルマナイのうちで一番尊敬を受けている人には「森の行者(Hylobios)」の名がつき、その名のとおり森のなかで木の葉を敷き野生の果実を食べ樹の皮を身にまとい、色欲と酒を断って生きている。また、王たちと交渉を持ち、王は使いをやってさまざまな出来ごとの原因が何かをたずねさせ、行者たちを介して神的なものを祀り祈りを捧げる。
 森の行者のつぎに二番目に尊敬を受けているのは医療を施す人々で、いわば人間についての哲学を探求している。この人々は質素だが戸外では暮さず米と大麦で身を養い、この人たちが乞えば誰でもが親切に迎えてこれらの食を施す。また、薬草や呪文を用いて子をたくさん産ませ男女の産みわけをさせる力を持ち、医療にあたっては大部分食べ物を通して行い薬物に頼らない。薬物のなかでは塗り薬と湿布をとりわけ尊重し、そのほかの薬物は悪用されることが多い。
 この人々も森の行者たちもさまざまな苦行と不動の行に耐える訓練を積み、不動行では一日中ただひとつの姿勢をとったまま動かないで過ごす。
 このほかにも、予言と呪術にたずさわり死者たちについての教説と祀り方に経験の深い人々がいて、村や市をっぎつぎに乞食してまわる。女人をも含む行者団また、この人々よりもっと教養を積み洗練された人々がいるが、この当人たちも地獄についての通念のうち神を拝み神の掟に従う上で良いと思われる教えに無関心ではない。また、一部の行者とは女人たちもいっしょになって哲学探求に従事し、当の女人も色欲を避けている。

断片"41a"
Clem. Alex. Strom. I:

 セレウコス〔1世〕・ニカトール〔前358頃生-281年没。セレウコス朝の創始者〕と同時代の著作者メガステネースは、『インド誌』第3巻の中で次のように書いている。「しかしながら、古人の間で、またヘッラス以外の哲人たちの間で――あるいはインドイ人たちの間でブラクマネスたちによって、あるいはシュリアでいわゆるイウウダイオイ〔ユダヤ〕人たちによって――自然について述べられたことのすべてが言われている」と。
断片"41b"
Clemens 1, 1.:

 これらの種族は2つである。そのひとつはサルマナイ族、もうひとつはいわゆるブラクマナイ族である。サルマナイ族のうち、ヒュロビオイと命名されている人たちは、都市に住まず、住まいも持たず、樹の皮を身にまとい、堅果を喰い、水を手ですくって飲む。結婚を〔知ら〕ず、子どもを作ることを知らないこと、[あたかも現今エンクラティス派と呼ばれる人たち〔"Enkratetai"、「節制者たち」の意。すでに新約聖書にその存在が告げられている(第1テモ、4:3-6)。古代教会における禁欲運動。肉食と肉欲が禁じられ、結婚を罪とみなして、同棲しても<精神的結婚>として兄弟姉妹のように暮らすことを命じた。また葡萄酒を禁じ、聖餐式の際も水を用いた。おもな代表者はタティアノス〕のごとくであるが、〔ヒュロビオイ族は〕インドイ人たちに属し、ブッタ〔"Boutta"仏陀?〕――これを彼らは、威厳の極致ゆえに神のごとくに尊崇している――のお告げに心服している人たちである]。

断片42
Strabo XV〔I_68〕:

 しかしメガステネースによると、哲人たちにはみずからの命を絶つという教えはなく、このように振る舞う人は未熟者だと判定されている。自殺する人々のなかには、まず生まれつき一徹者で何かに我が身をぶつけたり、断崖へ突っ走る人がいる。苦労してこなかった人は淵へ飛びこむし、苦労を重ねてきた人なら首をつり、火のようにかっかとなる人は火の中へ飛びこむ。
 カラノスも最後に挙げた型の人間で、自制心がなくアレクサンドロスの食卓の美味の奴隷になりはてていた。だから、現にこの行者は非難を受けているが、マンダニスは称賛を受けている。
 すなわち、アレクサンドロスからの使いの者たちが、ゼウスの息子の許へ出向くよう〔マンダニスを〕召喚して、「承知すれば贈り物を受けよう」と約束した、「しかし承知しなければ、懲らしめに遭うことになるぞ」と。すると、相手は主張した、「あの者はゼウスの息子ではない。その証拠に、少なくともその統治は大地のほんの一部分にも及んではいない。またわたしはあの者から贈り物を受ける必要もなく、そのような贈り物からは何らの満足もおぼえない。
 また、脅しも恐ろしくない。なぜなら、生きている間はインディケーの養いで足りるし、死ねば、老齢に達して衰え果てた肉からは解き放たれて、もっと善く、もっと清浄な生へと往生できるのだからだ」。
 結局、アレクサンドロスは相手を讃えて引き下がった。

断片43
Arrian. Exp. Alex. VII, 2, 4:

 そこでアレクサンドロスとしても、その男〔ダンダミアス〕が自由人であることを認めて、それ以上無理強いしようとはしなかったが、現地の哲人たちの中にカラノスという者がいて、この男が説得の結果同行することになった。メガステネースの記すところでは、このカラノスは、わけても自制心を欠くとされており、仲間の哲人たちも彼が、自分らといっしょにいることの幸福を捨て、神ならぬ別の主人に仕えることにしたとして、カラノスを悪口したという。

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