Lysias弁論集・目次
[底本] リュシアスは、〔曾祖父〕ケパロスの子〔祖父〕リュサニアスの子〔父〕ケパロスの息子であった。〔父親ケパロスの〕生まれはシュラクウサイ人であったが、アテナイに移住した。それはこの都市が気に入ったばかりか、クサンティッポスの子ペリクレスが、友であり客友であり、ことのほか富裕であった彼を説得したからである。しかし一部の人たちのいうところでは、ゲロン〔在位491-478年〕によって僭主支配されたときに、シュラクウサイから亡命したためという。〔リュシアスは〕アテナイで生まれたが、それはプラシクレス〔プラシクレイデスの誤り。460/59年〕に次いで執政官となったピロクレスが執政官の年〔459/8年〕、第80オリュムピア紀年〔461/60〕の2年目で、初めはアテナイ人たちの最高貴顕といっしょに教育を受けた。しかし、シュバリス――後にトゥリオイと改名される――への植民団を国が派遣したときに、父親はすでに亡く、分割地に与ろうとして、長兄の(というのは、彼には他にも二人の兄弟、エウテュデモスとブラキュロスとがいたからである)ポレマルコスといっしょに出かけたが、このとき年齢は15歳、プラクシテレスが執政官の年であった〔444/3年〕。そこでもシュラクウサイ人ティシアスとニキアスとから教育を受けて過ごし、邸宅を所有するとともに分割地をも手に入れ、アテナイでクレオクリトスが執政官になる年〔413/2年〕まで、*63年間、市民として暮らした。しかし、翌年の*カリアス〔が執政官〕の年、第92オリュムピア紀年に、シケリアの事変がアテナイ人たちに結果し、動乱が他の同盟者たちのみならず、とりわけイタリアの住民たちの間に広がったため、アッティカ贔屓との責めを受けて、他の3人とともに亡命した。そして、アテナイにたどり着いたのは、クレオクリトスに次いでカリアスが執政官の年〔412/1年〕で、すでに「四百人」が国を掌握していたが、当地で過ごした。しかし、アイゴス・ポタモイの海戦が起こり〔405年〕、「三十人」が国を引き継いだ〔404年〕ので、7年間留まったのちに亡命したが、そのときには家産と兄のポレマルコスとを奪われてしまった。しかし、自分は邸宅から(両扉があったので)逃げ延びて、あやうく破滅させられるところを、この家のおかげで助かり、メガラで過ごした。しかし、ピュレからの人たちが帰還を企てたとき、彼が誰よりも最も有為の士と見られた所以は、財貨2000ドラクマならびに楯200張りを提供し、ヘルマスといっしょに派遣されると、増援部隊300人を雇い入れ、エリス人トラシュダイオスが彼の客友であったので、2タラントンを与えるよう説得したのであった。こういったことに対し、トラシュブウロスは、帰還後、エウクレイデスに先立つ執政官不在年〔404/03年〕に、彼のために市民権を上程し、その特恵を民会は決定したが、[836A]アルキノスが、〔評議会〕非先議の理由で違法提案の公訴を提起し、その決議は無効となった。かくして市民権を喪失して、余生を平等者(isoteles)として暮らし、当地で83歳の生涯を閉じた、あるいは、一部の人たちは76歳とも、あるいは、一部の人たちは80歳以上ともいうが、デモステネスの少年時代を見ての後である。生まれたのはピロクレスが執政官の年〔459/8年〕といわれている 彼の弁論は425編が伝存している。このうち真作は、ディオニュシオスやカイキリオスの一派の人たちの主張では、233編、このうち敗訴はわずかに2編といわれている。その一つは、例の決議のための弁論で、これに対してアルキノスが上程して彼の市民権を剥奪したもの、もう一つは、「三十人」告発である。しかし、彼はこのうえなく説得的で、簡潔で、多くの[素]人たちのために弁論を著した。彼によって書かれたものには、「弁論術」もあり、「民会演説」もあり、「書簡集」「賛辞」「葬送演説」「恋情論」もあり、裁判官たちに話しかけた「ソクラテスの弁明」もある。言い回しは平易だが、模倣しがたいように思われる。デモステネスは、ネアイラ告発弁論の中で、彼はネアイラの奴隷仲間メタネイラの恋人だと主張しているが、後には、兄のブラキュロスの娘を娶っている。プラトンも『パイドロス』の中で彼に言及し、語るに最も有能な文人で(228A)、イソクラテスよりも年長者だといっている(279A)。さらにまた、イソクラテスの弟子にして、リュシアスの仲間のピリスコスは彼のために追悼詩を詩作したが、これによって数歳年長であることは明らかであるが、このことはプラトンによって述べられていることからしても証明される。ところで、〔ピリスコの詩は〕次のごとくである。 今や、おお、カリオペの娘よ、雄弁のプロンティス(知慮)よ、 さらにまた〔リュシアスは〕イピクラテスのために弁論2編を起草したが、その一つはハルモディオンに対するもの、もう一つは〔イピクラテスが〕ティモテオスを売国の廉で訴えたものである。そしてどちらもで彼は勝訴した。しかし、イピクラテスがティモテオスの作戦行動を請け合ったとき、執務審査で売国の責任を問われたが、リュシアスの弁論によって弁明した。そして自分は無罪放免されたが、ティモテオスは莫大な罰金を科せられた。またオリュムピア祭の時にも、彼は大言をぶちあげた――ヘラス人たちは和解してディオニュシオスを打倒すべし、と。 |