第36話
ミズヘビ(hydrops zoion)について
ミズヘビと言われる動物がいるが、気性すこぶる荒く、[それが強いため]狩人は近づくことができないほどである。また[頭に]長い角を持ち、鋸の形をしているので、大きな天衝く樹をそれで引いて、地上に引き降ろすありさまである。のどが渇くと、ユフラテス河におもむいて水を飲む。ところが、そこにはエリカ〔学名: Erica arborea。ヒースのこと〕の疎らな薮があり、[その枝の中で]この動物は両角でエリカと戯れはじめるが、の枝に絡め捕られて身動きできなくなり、逃れようとして、吼えたけるが、〔逃れることが〕できない。[絡まっているからである]。そこで狩人は、その吼え声を聞いて、[身動きできないと悟って]やってきて、その動物ののどを掻き切るのである。
されば、あなたも、教区民よ、二つの角、つまり旧約と新約とを持ち、これによってあなたの敵ども、すなわち不品行、姦淫、金銭欲、大言壮語、つまりはありとある物質的欲念を突くことができるのだから、エリカの正義を保っているようなものらに絡められてはならない、さもなければ、邪悪な狩人があなたを亡きものにするのである。
註
ギリシア語"hydrops"は「水腫」のことである。これでは意味をなさないので、古来、"antholops"と修正し、"antelope"のこととされている。
"antholops"は、"anthos"〔花〕+"ops"〔眼〕の合成語とされるが、それがどうして"antholops"という語形になるのかは不明。
アンテロープと呼ばれる動物は種類が多いが、右図〔画像出典:ブラックバック族のレイヨウ類〕は最も代表的なトムソンガゼルである。螺旋状になった立派な角が眼を引くが、巨木を挽きたおすというには、体つきからしていかにも頼りない。
これに対して、わたしは、"hydrops"は、"hydor"〔水〕+"ophis"〔蛇〕という合成語を、写字生が写しそこねたのではないかと考える。そして、第36話全体の構想は、メソポタミアのティアマト神話を下敷きにしているとのではないかと思う。
古代メソポタミアの天地創造物語『エヌマ・エリシュ』〔出典は筑摩世界文学大系1〕によれば、太女神ティアマトは、息子マルドクの軍団と闘うべく、おどろおどろしい怪獣をつくり出す〔左図は、雷霆をふるってティアマトを撃ち殺すマルドク。アッシリアのニムルード宮殿跡から発掘された浮き彫りの一部(大英博物館蔵)。画像は、荒木俊馬『西洋占星術』p.52より〕。
あらゆるものをつくった母なるフブル〔瞑府の河の意。ティアマトのこと〕は
七岐の大蛇を生んで無敵の武器を加えた。
(その)歯は鋭く、仮借なく、〔?〕
彼女は血のかわりに毒液をその体一杯にみたした。
彼女は(またこの)狂暴な竜たちに恐怖をまとわせ、
おそるべき煌めきを身につけさせ、神々の片割れとした。
それらを見るものは
きっとぞっとして、へなへなと腰くだけになるだろう。
……
(また)彼女は毒蛇、
炎の竜頭サソリ尾獣、海の怪獣ラハム、
巨大なライオン、狂犬、サソリ人間、
激しく押しよせる嵐、魚人間、不思議な野牛をつくった。
(すなわち)仮借ない武具を身につけ、
戦いの怖れを知らないものたちである。
〔第I粘土板〕
しかし、闘いは母と息子の一騎打ちに持ちこまれる。
ティアマトと神々のなかでもっとも賢明なもの
マルドクが互いに衝突し合った。
かれらは一騎打ちでぶつかり、闘いながら互いに接近した。
主(ベール)はかれの網をひろげ、彼女を包みこみ、
うしろについてきた悪風(イムフラ)を前へ放った。
ティアマトはそれを嚥みこもうと口を開けた。
かれは悪風(イムフラ)を(彼女の体内に)送りこみ、
口を閉められないようにした。
荒れ狂う風は彼女の腹をふくらませた。
彼女の体内はふくれあがり、彼女は口を大きく開けた。
かれが矢を放つと、それは彼女の腹のなかを裂き、
内臓を切りさき、心臓を射ぬいた。
かれは彼女をしばり、彼女の生命を奪った。
かれは彼女の死骸を放りだし、その上に立った。
〔第IV粘土板〕
こうして、おそるべき強敵を倒したマルドクは、ティアマトの身体を二つに引き裂いて天と地とし、世界秩序の創出にとりかかる。
風が吹きだすこと、雨をふらせること、寒くなること、
霧をたちこめさせること、
彼女の唾液を(また)溜めることを、
かれはみずから(の権限)に定め、
自分の手中に掌握した。
またかれは彼女の頭を固定し、そのうえに山を築き、
地下水を開いて川を流れくだらせ、
彼女の両眼をユーフラテス河とチグリス河の源とし、
彼女の鼻孔をふさいで〔……〕を残すようにした。
かれは彼女の乳房のところに特に立派な山を築き、
豊富な清水を湧きださせるため大きな泉を掘りぬいた。
かれは彼女の尻尾をひねって、
天の《最高の結び目(ドゥルマハ)》につないだ。
〔第V粘土板〕
第36話の最後のくだり エリカの小枝に角を絡まれて捕らえられる場面は、イソップ寓話の「水辺の鹿」(Perry 74)を想起すべきであろう。奇しくも、この鹿を追いかけるのはライオンである。ライオンはマルドクの聖獣でもあった。
画像出典、Edward Topsell『History of Four-Footed Beasts and Serpents and Insects』第1巻(The History of Four-Footed Beasts)の冒頭。"Antalope"。