第39話

ノコギリと呼ばれる海獣(ketos kaloumenos prion)について


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 ノコギリと呼ばれる動物が海にいる、これは大きな翼〔鰭〕を持っていて、船が帆走しているのを眼にしたら、自分もその真似をして、自分の翼を掲げ、帆走する、帆走する船と競うようにして。しかし、30ないし40スタディオンも走ると、いやになり、[疲れて]翼を内に降ろして、波がこれを自分のもとの場所に運ぶのである。

 されば、海とはこの世、船は使徒たちや〔血の〕証人〔殉教者〕たちの顔に解される。この人たちは、海を渡るように、[大波小波、すなわち]人生の難儀[や第三波]をかぶったうえで、晴朗な港つまり天の王国にたどりつくのである。そしてその動物が譬えられているのは、市民の修練を始めた人たち、しかし、[この動物も、いっしょに帆走することができず、後に取り残されるように]この世のもとの行状に逃げ帰る人たちのことである。

 かく美しく、自然窮理家はノコギリについて言った。

 海はこの世、船は聖なる使徒たち、つまり、この世をおわらせ、反対の権力を終らせた人たちのことと考えよ。しかして、船といっしょに帆走することに踏みとどまれないノコギリとは、しばらくは市民生活を送るけれども、最後まではとどまれない人たちのことと考えよ。なぜなら、善行を始めながら、最後まではとどまれないのは、金銭欲や、うぬぼれや、姦淫や、強欲や、売春や、憎しみのせいであるが、要はそれは海の大波小波、すなわち反対の力であって、彼を瞑府まで運び降ろすからである。

 「げに、ノコギリが船をまねるように、そのようにげに人間どもも徳にしたがってこの海水の生(それはすなわち海)から外に出ようとするのだが、その後でだまされて、最後までとどまらず、[すなわち]よこしまな行動つまり海の大波小波に導かれて、再び永遠の業苦の中に運び降ろされてゆくこと明らかである。「なぜなら、最後までとどまる者は」と〔キリストは〕主張される、「救われるであろう」〔マルコ、第13章13〕。

                                 



 オットー・ゼールは、「イルカのことであることは明らか」と自信ありげに註しているが、納得しがたい。

 アリストテレスは、イルカもクジラも、そして"pristis"〔「ノコギリ」の意〕も胎生であると言っているだけで、3者を混同しているわけではない、まして、イルカすなわち"prion"〔ノコギリ〕だと言っているわけでは、さらさらない〔『動物誌』第6巻12(566b4)〕。

 さらに、ゼールは、「翼」とあるところから、カイダコ"nautilos"を連想して、あたかも自然究理家がイルカとカイダコとの合体生物を夢想しているかのように言っているのは、噴飯ものである。
 カイダコについては、『動物誌』第4巻1章(525a29)、同第9巻37章(622b5)、Antig., Mirab. 51; Plinius, IX, 47; Aelianus, IX, 34; Oppianus, Hal. I, 338 を参照。

Saw-fish.jpg アリストテレスが、『動物誌』第6巻12で述べている"pristis"とは、ノコギリエイ Saw-fish(学名Pristis antiquorum)だとされる。この魚の形状は、ノコギリザメにそっくりであるが、サメエイ科Squatinorajidaeに属するサメ形のエイで、吻がのこぎり状にのびているものである。

Sailfish.jpg  さらに、右図はSail-fishと呼ばれるマカジキ科(Istiophoridae)の魚である。
 ノコギリエイにも大きな背鰭があるが、こちらの背鰭はさらに巨大である。

 画像出典、Konrad Gesner『Historiae Animallum』IV。Pristis。
 博品社の挿絵は、どこにも「ノコギリらしさ」が見られないので、選定の間違いと考えられる。