[略伝]
ソークラテース学徒のアイスキネース(前4世紀)
アッティカのスペットス区の人、ソークラテースの心酔者で(D.L. II. 60-64)、その裁判のときも(Apol. 33E)、刑死のときも(Phaed. 59B)、立ち会った。いくつかの法廷弁論を代筆し、弁論術を教えたといわれる(しかし、弁論家アイスキネース(c.397-c.322 BC)とは別人)。
貧窮してシュラクウサイの宮廷に亡命したが、ディオニュシオスII世の追放(356 BC)後、アテーナイに舞い戻った。
ソークラテースの対話編の作者として知られるが、それはプラトーンのものよりもクセノポーンのものに似ており、アイスキネースは明らかに独創的な思想家ではなく、彼のソークラテースは、通俗的な道徳家にすぎない。現在、わずかな断片が伝存するのみであるが、「アルキビアデース」「アクシオコス」「アスパシア」「カッリアス」「ミルティアデース」「リノーン」「テラウゲス」の7篇は、古来、真作と信じられてきた。
このうち、最初の「アルキビアデース」は、裁判において、若き日のアルキビアデースの堕落の責めを問われたソークラテースを弁護する意図が部分的にうかがえる。アイスキネースの対話編は、ソークラテース学徒の作風、ソークラテースの性格と対話法に対する信頼を高く評価しているといわれる。
[底本]
TLG 0673 001
Fragmenta,
Dialog., Phil.
ed. H. Dittmar, Aischines von Sphettos. Studien zur Literaturgeschichte der Sokratiker [Philologische Untersuchungen,
vol. 21. Berlin: Weidmann, 1912]: 266-281, 283-296.
Alcibiades (frr. 1-5, 7-9, 11).
Axiochus (frr. 12-14).
Aspasia (frr. 15-30, 32-33).
Callias (frr. 34-36).
Miltiades (frr. 37-38).
Rhinon (fr. 39).
Telauges (frr. 40-48).
Fragmenta sedis incertae (frr. 49-58).
Fragmentum dubium (fr. 59).
(Cod: 3,834: Dialog., Phil.)
断片集(Fragmenta)
1-11t
『ΑΛΚΙΒΙΑΔΗΣ』
断片1/断片2
<アルキビアデースは>病気である。熱病が彼をして――いたるところに連れまわる、<リュケイオン〔アテナイの体育所〕からは>民会へ、民会からは海へ、海からはシケリアへと……
「われわれが椅子に腰掛けたのは、審判者たちが競技の進行をつとめるリュケイオンにおいてのみ」。
断片3
「人間どものうち、もっとも易々と50歳ぐらいになったやつ」
断片4
「あたかも、女小売り商人が仔ブタを飼うように」
断片5
やつ(sc. アルキビアデース)との対話が持たれたあと(sc. プラトン『アルキビアデース I』)――<アイスキネースが主張している>ところであるが、十二神にさえ少しも敬意をはらおうとしない、ということになった。それほどまでに彼には生意気さと、何びとにも何の価値も認めようとしないということが、甚だしくなった。
〔断片6 欠番〕
断片7
(Vgl. fr. 5) だから<あの人(sc. アイスキネース)の>作品においても、<ソークラテースは>同じ〔態度〕を変えようとはしなかった。では、何と主張するのか?
「そこで、彼がテミストクレスを羨望しているのをわたしは知って」。
相手がテミストクレスの称賛者であるところから、真理と、好機をつかむこととについて、この青年と対話をするのが、双方のためにふさわしいとわたしは思う。
断片8
(ソークラテース:)「それでは、テミストクレスの生き方をあなたは我がものとしようとしたのだから、いかなる人物に敬意を表するか考察することをあなたは求めたのだ。そこで、太陽はどこから昇り、どこに沈むかを熟考しなさい。
(アルキビアデース:)ちっとも、と彼は主張した、難しいことじゃありません、おおソークラテース、そんなことを知るのは。
(ソークラテース:)すると、あなたにとって今まで心にかかっていたのは、この領土は、太陽が渡りゆくぐらい、それほどの大きさがありながら、つまりアジアと呼ばれる領土だが、一人の人が支配しているのですね?
(アルキビアデス:)たしかに、と彼はいいました、大王が。
(ソークラテース:)ところで、ご存じのとおり、彼が当地とラケダイモン人たちのところへ出兵したのは、もしもこの二市を敗北させれば、その他のヘラス諸都市は自分の臣従者になるだろうと考えてのことです。そして、そういうふうにアテナイ人たちを恐怖に陥れた結果、〔アテナイ人たちは〕土地を後に、サラミスに逃れた、テミストクレスを将軍に選んでね、そして、自分たちのことを思い通りに扱うよう任せた。もはやこれのみが、アテナイ人たちにとって救国の最大の希望であった――彼が自分たちのために何を勧告してくれようとも。それゆえにまたテミストクレースも、艦船、陸軍、金銭の多さの点で、ヘラス人たちの事態がはるかに後れをとり、大王のそれが凌駕しているという現実にも意気阻喪することなく、彼にはわかっていたのである、――相手が策謀の点で自分を上回っていない限りは、その他のことが大きさの点でいかほどであれ、何ら大きな益にはならぬということを。また、次のことも彼は認識していた、――事態に当たる者たちが、徳の点でどちらよりも真剣であればあるほど、事態はそれ自身よりも優勢となるのが常であるということを。はたせるから、大王は自分の事態が劣勢であることを、自分よりも真剣な男と遭遇したその日に、実感したのであった。相手の事態がこれほどであったにもかかわらず、彼〔テミストクレース〕はいとも易々と取り扱い、その結果、相手を海戦で打ち負かしたうえ、大王が連結した船橋を断ち切るよう、アテナイ人たちを説得しようとした。ところが、それが出来なかったので、大王のもとにひとを遣り、国によって決定された事柄とは反対のことをいわせたのである、つまり、船橋を断ち切るようアテナイ人たちが命じたが、自分は反対した、それは、大王と、大王麾下の者たちを助けようとしてだと。だからして、われわれのみならず、他のヘラス人たちも、テミストクレースを救国の原因とは考えていないばかりか、敗戦の憂き目をみた当の大王までもが、彼のおかげで――人間たちのうちただひとり彼だけのおかげで助かったと思っているのである。〔だから〕あの人物は知慮によってこれほどのことになった。すなわち、彼が国からの亡命者となったとき、彼のおかげで助かったとして謝礼をし、他にも多くの贈り物を贈ったけれど、マグネーシア全土の支配権を贈った結果、亡命中の彼の事情は、家郷に留まり、美にして善なる人と思われていたアテナイ人たちのそれよりも大きかったのである。されば、あの時に、テミストクレース以外に誰が、最大の原因を持ち得たであろうか、――昇る太陽から沈む太陽までの地の住民の王支配者を、ヘラス軍の将軍となって、敗走させたテミストクレース以外に? そこで、思いを致してもらいたい、とわたしは言いました、おおアルキビアデース、このようなあの人には、知識がどれほどであっても充分ではなく、その結果、追放されるのはもとより、国によって市民権剥奪されることのないようにすることができず、むしろ不足していたということに。そこで、どう思いますか、――人間のうち邪悪にして、自分自身に対する世話を何ひとつしない人たちにたいして? 驚くべきことではありませんか、――小さなことでも矯正できるというのは? 少なくともわたしには何ひとつ、とわたしは言いました、おおアルキビアデース、自覚しているのです、偶然や神的事情に関して異なって無神的であるなら、為してきた事柄すべての知識があの人に付け加わっていないかぎり、それらの行為の原因は何ひとつ持たないとわたしは思う。わたしはあなたにもっとよく証明できるでしょう、わたしと反対のことを思っている人たちは無神的であり、邪悪にして有為の士たちにも偶然は等しく生じるのであって、美にして善なる人たちには、より敬神的であるからして、神々からより善いことが備わっているわけではないと思っている人たちが、わたしを〔反駁する〕よりは。
断片9
(Vgl. frgm. 7)そして彼〔アルキビアデース?〕がいるところでは、テミストクレースのことを彼〔ソークラテース〕が悪く言わないのは、それを耳にして、彼がなおもっと堕落しないためであり、さらには、彼〔アルキビアデース〕が無学と同居しているばかりか〔プラトーン『アルキビアデースI』118B 参照〕、国事を行っている者たちもみな同様であるということが、彼に対して激励の役割をはたすなどということのないためである。絶対に。むしろ彼は強制するのである――
「両膝の上に頭をおいて、落胆して、泣くようにと。自分はその才能においてテミストクレースの傍にも寄れないとおもって」。
かてて加えて、言葉を程々に誇張した。すなわち、どこか言葉〔議論〕の中程で言ったのである、――彼〔アルキビアデース〕の知識たるはこれほどであっても、まだ充分ではなく、欠けている(vgl. fr. 8_51)、と。その結果、呪詛は取り除かれ、両方から――好評からも、テミストクレースと同じだけでは充分でないという主張からも――あそこへと駆り立てるに役立つもののみが残ったのである。かくのごとく、たしかに多の点では<アイスキネースは>プラトンに後れをとっているけれども、少なくともこの点では、どうにかより善く処理したのであった。
〔断片10 欠番〕
断片11a
しかし、わたしは、何らかの術知によって儲けることができると思った場合は、すこぶる多くの愚行で自分を有罪判決したことであろう。しかし今は、神的運命によって、アルキビアデース目当てにこのことがわたしに与えられており、これらのことには何ら驚嘆に値することはないとわたしは思っている」
断片11b
「というのも、病人の多くが健康体となるのは、あるものは人間の術知によって、あるものは神的運命によってである。もっといえば、人間的術知によるかぎりのものは、医者たちによって世話されてであり、神的運命によるかぎりのものは、熱意が彼らを有利さに導くのである。つまり、嘔吐を熱望するときには、それがかれらに寄与するであろうし、狩りを〔熱望〕するときには、苦労することが寄与するであろう」。
断片11c
わたしとしては、たまさかアルキビアデースを恋したその恋のおかげで、バッコス信女たちと何ら異ならないざまに陥っていた。というのも、バッコス信女たちは、入神状態になるや、他の人たちなら井戸から水さえ汲むことのできないところから、彼女たちは蜂蜜や乳を汲み取るのです。かくてまたわたしも、ひとに教えたような学知を何も知らなくても、益されるでしょうし、彼と交わることで、恋によってより善い人物にできると思ったのです」。
12-14t
『ΑΞΙΟΧΟΣ』
断片12
<『アクシオコス』の中では>、〔ソークラテース学徒アイスキネースは〕アルキビアデスのことをひどく非難している――飲んだくれで、ひとの女房に横恋慕するやつだと。
〔アテナイオス、V_220c〕
断片13
「前者が後者より抜きんでている程度たるや、じつに、男が女よりもすぐれているほどだと彼らは考えていた」。
断片14
犬で追う、鳥もちでつかまえる。じきに、連中には「雄鳥飼いたち(a)lektruonotro/foi)」がふさわしくなるだろうよ――「雄鳥飼いたち(a)lektruonotro/foi)」とは、アイスキネースが『アクシオコス』の中で名づけたことばである。
15-33t
『ΑΣΠΑΣΙΑ』
断片15
その〔"paidei/a"〔「教育」〕の〕後、〔彼女は〕知恵(sofi/a)と分別(sune/sij)の生き写しとなった。
断片16
哲学者たちの大多数は、生まれつき、喜劇作家たちよりも口さがない連中である、いずれにしても、<ソークラテース学徒アイスキネースは、『アスパシア』の中で>カッリアスの子ヒッポニコスを馬鹿だと呼んでいる(vgl. Fr.24)。
〔アテナイオス、第5巻220b〕
断片17
あなたが知識(e)pisth/mh)を何にもまして尊んでいるということは、おおソークラテース、わたしは聞き知っております、――あなたがしばしば力説し、若者たちを各人各様の教師に紹介なさっているところからして。ミレトス女のアスパシアの館へも、婦人の夫のところへ、息子を遣るようカリアスに勧めているのがあなたですから。
断片18
ペルシア人たちの女王ロドギュネーは、<哲学者アイスキネースの主張によれば>、ペルシア人たちの王国を最大にしたという。すなわち、彼の主張では、彼女はあまりに勇敢にして、恐ろしい女で、あるとき、髪の毛を梳っている最中に、ある民族が離反したと聞き、編むのは途中でやめ、上述の民族をつかまえて服属させるまでは、〔髪を〕ゆいあげることをしなかったほどである。だから、奉納された彼女の黄金の肖像も、髪の半分は頭の上に結い上げられていたが、半分は垂れたままであった。
断片19
(Vgl. fr.17)年頃になったので、(sc. おお、ソークラテース)あなたは彼女のもとに通っている。
断片20
(Vgl. frgm. 16)イオニア出身の女たちは、総じて、ふしだらでずるがしこい[sc.と、<ソークラテース学徒アイスキネースは『アスパシア』の中で>呼んでいる]。
〔アテナイオス、第5巻220b〕
断片21
彼女(sc. ミレトス女のアスパシア)は、昔のイオニア人のタルゲーリアという女に憧れて、有力者の男たちの歓心をかおうとしたと言われている。というのも、タルゲーリアは、見目はうるわしく、才能と愛嬌を持っていたので、できるかぎり多数のヘラス人たちと同棲し、自分に接近する男をみな大王の味方につけ、彼らはみな最有力者にして偉大な男たちだったので、諸都市にメディア贔屓の支配権を植えつけたからである。
断片22
<ソークラテースの学統をひくアイスキネース>も、<『タルゲーリアについて』という書の中で>臆面もなくゴルギアスぶっている。すなわち、どこかで次のように主張しているからである。
「ミレトス女のタルゲーリアはテッタリアに行って、全テッタリア人たちを王支配していたテッタリアのアンティオコスと交わった」(Qarghli/a Milhsi/a e)lqou~sa ei)j Qettali/an sunh~n 0Antio/xw| Qettalw|~ basileu/onti pa/ntwn Qettalw~n)。
〔ピロストラトス『書簡』73〕
断片23col 1
アスパシアは、聡明にして政治的な女性として、ペリクレスを夢中にさせたと言う人たちがいる。
断片23col 2
〔アスパシアは〕ペリクレスをも民衆演説家に仕立てあげたと、<ソークラテース学徒アイスキネースが『アスパシア』という対話編の中で>。
断片24
ミレトス女のアスパシアも、ペリクレスの舌鋒を、ゴルギアスに倣って鋭くしようとしたと言われている。
〔ピロストラトス『書簡』73〕
断片25
この時期、アスパシアは、自由人の女たちが自分のところに通うのをペリクレスに認めさせとして追及し、告発に及んだ喜劇作家ヘルミッポスによる不敬罪の裁判を逃れている。とはいえ、<アイスキネースの主張によれば>、(sc. ペリクレスは)きわめて多額の保釈金でアスパシアを裁判から釈放してもらったという、彼女のために涙を流し、裁判官たちに懇願して。
断片26col1
<アイスキネースの主張では>羊商人のリュシクレスも、アテナイ人の自然本性たる卑しさとさもしさから、ペリクレス亡きあと、アスパシアの最初の顧客になったという。
断片26col2
ペリクレスの死後、羊商人のリュシクレスと再婚した――そしてリュシクレスをも、最も恐るべき弁論家に仕立てあげたと、<ソークラテース学徒アイスキネースが、対話編『アスパシア』の中で>。
断片27
そこで、ソークラテースは、言葉も事例もいたずらに用いることなく、リュシクレスと対話するときは、ヒツジや小売り商人たちのことに(sc. 言及した)。
断片28
「法廷において、自分自身のためや、他の人たちのために争訟する人たちを、彼女は明らかに羨んでいた」
断片29col 1
というのも、ソークラテースは知己といっしょに、何度も(アスパシアのもとに)通ったからである。
断片29col 2
ソークラテースがアスパシアのところに通いつめたのは、恋事を教わるためであった。
断片29col 3
アスパシア――ソークラテースのもとで愛知にたずさわった女。
断片30
〔アスパシアの〕話を聞きたがれば、馴染み客たちは女でも彼女のところへ連れて行った。
〔断片31 欠番〕
断片32
(クリトブウロス:)あなたがおっしゃるのは、彼らには善き妻がいるということですか、おおソークラテース、それとも、自分たちでこれを教育したのですか?
(ソークラテース:)考察するに如くはなしです。そこで、あなたにわたしは<アスパシアをも紹介したい、――彼女がわた以上の精通者としてあなたにそのすべてを明示してくれるでしょう>。
断片33
(クリトブウロス:)いったいどうして、とクリトブウロスは言った、そんなことをわたしに言うのですか、まるで、何でも望みのことをわたしに言うのが、あなたの意のままにならないかのように?
(ソークラテース:)ゼウスにかけて、思うようにならないのだよ、<かつてわたしがアスパシアから聞いたとおり。というのは、彼女は言ったのだ>善き取りもち女たちは、真理の点では、善いことだけを吹聴して、人々に婚姻関係を結ばせるに恐るべきものとなるが、虚言してまで称賛しようとはしない。なぜなら、騙された者たちは、お互い同士ばかりか、取り持ってくれた女をも同時に憎むようになるからだと。
〔クセノポン『ソークラテースの思い出』第2巻6_36〕
アスパシア(Aspasia)
ペリクレースの妻。 前450/45頃以降
ミレトス生まれ。前450/45年頃に妻と別れたペリクレースと結婚。哲学に関心があり、ソークラテースの仲間内で高く評価されていた。
アテーナイの指導的市民の妻として、喜劇詩人たちの根拠のない悪口の対象になりがちであり、例えばエウポリスの『方々の部族』ではヘタイラと呼ばれ、ヘルミッポスには不信心であると非難されている。
前441/40年にアテーナイがミレトスのためにサモスに干渉したのも、また、メガラ禁令でメガラ人の交易を締め出した(前432)のも、彼女のせいだとされた。
後世に伝えられる伝記によると、前430年代に政治的立場を確固たるものにしたペリクレースに対する民衆の憤懣が増大してきたころ、彼女は(哲学者のアナクサゴラスと同様に)涜神罪で告発された。
彼女はミレトス出身であったから、父と同じペリクレースという名の彼女の息子は、出生によりアテーナイ市民にはなれなかった〔皮肉にも、この法律を作ったのが、父親その人であった!〕。父ペリクレースと最初の妻との間の息子たちが疫病で死んだ(前430年)後、この息子に特別に市民権が与えられた。しかし、アルギヌウサイの海戦(前406年)で将軍として働いたが、この戦いの後でほかの将軍たちとともに処刑された。クセノポーン『ヘレニカ』第1巻7章
画像は、アスパシアの銘のある女の胸像。チヴィタヴェッキア近くの遺跡から出土。
前5世紀のギリシアの原作のローマ期の模作。
ヴァティカン博物館所蔵。
34-36t
『ΚΑΛΛΙΑΣ』
断片34
彼の(sc. <ソークラテース学徒アイスキネースの>)<『カッリアス』>は、カリアスとその父親との仲違いや、ソピステースのプロディコスやアナクサゴラスのお笑いぐさを述べ立てている。すなわち、プロディコスはテーラメネースを学徒に仕立て、もう一人の方〔アナクサゴラス〕は、エリュクシスの子ピロクセノスや、キタラ弾きのアリグノートスの兄弟アリプラデースを〔学徒に仕立てた〕と言うのだが、それは、〔ここに〕名指しされた連中のふしだらさや、つまらぬ物事に対する貪欲さをもとに、〔これを〕教育した者たちの教授ぶりを説明しようとしたためである。
〔アテナイオス、第5巻220b-c〕
断片35
外国の人たちに対しては、あなたが呼びかけるとおりに心にかけてきたし、区内に彼らの同調者がいれば、それがわたしたちの仲間のひとりなら、あなたにも懇ろにすることを通して、もっと熱心に奉仕すべしと主張したのが誰か、わたしは考察するを常としてきました。しかし、こと金儲けについてや、あなたが冗談半分に書いた事柄について、一部の人たちが非難攻撃するということは、おそらく何ら奇妙なことではないでしょう、――第一、他の人たちが富の獲得に真剣になっていたときに、わたしときたら貧しい者として生活することを選び、第二に、多くの人たちから多くのものを――存命の愛友たちからの贈り物はもとより、彼らが命終しての後にわたしに遺贈してくれるかぎりのものも――手に入れることがわたしにできるにもかかわらず、自らすすんで〔貧しい者として生きることを〕こいねがうというのですから。こういう生き方をする者が、多くの人たちから、気違いと思われても、何ら驚くべきことではありません。しかし、このことだけでなく、わたしたちの生活(bi/os)をもさらに観察すべきです、――金銭の有用性に関して、わたしたちが〔考えを〕異にしているからには、生計の立て方(porismo/j)に関しても隔たりがあるということに驚くにあたらないのですから。さて、そこで、わたしには、食べ物は最も質素なのをとり、着物は夏も冬も同じのを着れば充分満ち足り、履き物はまったく使わず、ただただ、慎み深くあり義しくあることを基準とする以外に、政治的名声(politikh\ do/ca)などさらさら目的とするものではありません。<これに反し、暮らしの華美さは何ひとつなおざりにせず>、同じ1年のうちどころか、同じ1日のうちにさえ、異なった着物を身にまとうことを追い求めるような人たちは、<諸々の秘密の快楽にも多くのもので懇ろにするのです。そして、自然な容色を堕落させて、舶来の肌色で飾り立てる人たちと同じ仕方で、この人たちも、徳にもとづく真実の名声(h( e)c a)reth~j a)lhqinh\ do/ca)――これは各人に当然のこととして備わっているのです――をだめにしてしまって、おべんちゃらにもとづく名声(h( e)k th~j a)reskei/as do/ca)に庇護をもとめるのです、――〔土地の〕配分(dianomh/)や全人民的饗応(pandh/mos e)stia/sis)によって、大衆からの好評(eu)fhmi/a)を呼びおこして。ここからして、彼らに多くの欠乏が結果するのは当然だとわたしは思います。なぜなら、自分たちは僅かなものによっては生きることができないだけでなく、自分たちが隣人として受け容れられることさえ拒否するのですから、――賛辞という報酬を得られないかぎりは>。こういった両方のことに対して、わたしにとって生活(bi/oj)は美しい情態にあります。さもなければ、真実なものごとの何かがわたしを避けていることになります。〔そうなれば〕わたしは〔次のように〕断言することができないでしょう。――なるほど、こういった〔生き方〕をより善いと主張するのは、より優れた人たちであって、多衆は前者〔の生き方〕を〔より善いと主張する〕ということは、はっきりとわかっている、しかし、しばしば、神についても、〔神が〕幸福であり浄福である所以を、自分で考えてみて、神がわれわれを超越しているのは、何ものにも欠乏するところがない故なのをわたしは見る。なぜなら、これこそは明白このうえなき自然本性に属することである、多くのものに欠乏していたのでは、享受する気にはならないであろうから――、と。じっさいのところ、最高の賢者に自分を似せるひとは誰でも、より賢者になり、最高の浄福者にできるかぎり同化するひとは、より浄福なひととなるのが、当然です。<そして、このことを実行できるのが、もしも富であったなら、わたしは富をこそ選ぶべきであったろう。しかるに、徳のみは〔初めから〕備わっていることが明らかですから、この善であるもの(to\ o@n a)gaqo\n)を放棄して、〔善と〕思われるもの(to\ dokou~n)を追い求めるとしたら、それはおめでたいこと(eu!hqhj)であろう>。そういうわけで、わたしの〔生き方〕が、かくかくしかじかで、より善い点を有していないといって、ひとが説得によってわたしに〔考えを〕変えさせることは、容易ではないでしょう。他方、子どもたちについては、先慮しておくべきだとわたしたちが主張していた当のことは、彼らについてわたしが考えているように、どんな人間にも理解できることです。<幸福の始源はひとえに、よく知慮すること(eu} fronei~n)にあるとわたしは信じています。ところが、理性を分有することなく、金や銀に信を置く人は、まず第一に、所有している当のものを、善いものを持っているとは思わず、第二に、他の人たちよりも惨めだと〔思えば思う〕ほど、ある者は貧しさに強制されて、今でなくても、いつかは再び知慮することもあるが、ある人は、〔所有物が〕ある程度あるという思いから、浄福者として、真実の利益(a)lhqinh\ w)felei/a)をなおざりにし、ある部分は合唱隊奉仕によって潰され、これら以外にはもはや不幸せな情態で、人間的に真に善であるものら(ta; o!ntwV ajnqrwpivna ajgaqav)の中から、将来のために役に立つ希望を詐取するのです。徳に関してこういうふうである人を救うことはできません、――交際することにかけて恐るべき人間たちの阿諛追従にとりつかれているひと、しかし、諸快楽の魔術にとりつかれているひとを……。それらの諸快楽は、ありとあらゆる感覚器官の部位で、魂に襲いかかり、その〔魂の〕内なるどんな美しいもの、あるいは、どんなに慎み深いものであっても、おとなしい部分を追い出してしまうからです>。それなら、子どもたちにとっての必然性とは、教育よりは、むしろ無知慮(ajfrosuvnh)の原因が残っていることなのか、そして〔こどもたちは〕、言葉のみならず、事実においても、<自分たち自身のなかに、あれら〔諸快楽〕に由来する諸々の希望を持ち、善き人となった者たちには、生きながらえることさえ〔許されて〕残されておらず、飢えによって破滅して、あわれにも命終するのだ、粗野さ(ajrgiva)に見合った罰を受けて、ということを明らかにする〔だけ〕なのか? ところで法はといえば、成年に達するまで、子どもたちは両親によって育てられるべしと命じているのです。けれども、あなたがたは、おそらく、政治的な男なら、自分の息子たちが相続人となることを熱望していることに腹を立てて言うこともできるでしょうが、〔あなたがたは〕わたしが命終した後、〔わたしから〕離れてゆくつもりなのはもちろん、生者であるあなたがたが命終者に養育を要求して、死者よりも詮なき生を生きても恥じないなんてことがあるでしょうか? いや、むしろ、わたしのことは、死後もゆとりがもてるよう他の人たちに要請するのです、あなたがたのことは、あなたがたにとって生きるにも充分ではないにしても>。ところが、先の男なら、おそらくは、自分の子どもたちに対して下手な言葉をふっかけることであろう、――政治術と同時に父祖伝来の直言を引用して、これに反して、わたしのこと〔生き方〕は、言葉の点ではまさしくより適正であり、事実としては富者たちからはるかに遠く隔たっているわけではない。ここからして、わたしが自分の子どもたちに残すつもりなのは、金ではなくて、金よりもより貴重な所有物たる適正な愛友たちなのである――この人たちが彼らを護って、当然必要なものに何ら欠けるところなきようにしてくれるのであり、愛友に関すること〔責務〕の取り扱い方が悪ければ、金銭の場合と同様、統治の仕方ははるかにより悪いことは、明白でしょう。さもなければ、ある一部の人たちに対する軽視を眼にしたに、わたしはつまらぬ忠告をしたことになるように思えるのです。〔つまり〕まず第一に、わたしが述べ立てているのは次のことです。すなわち、ひとは誰しも、愛友たち(彼らこそ、ひとが命終した後のことまで先慮してくれる人たちです)と同等ではないということ。次に、<そういうわたしたちの友だちは、当然ながら、わたしたちと低俗に交わるのでないのはもちろん>、今だけでなく、何時も、わたしたちのもとから少なからざる利益を失敬することもないということです。<要は、短命ではあっても、善行者たちには、時間が利益に等しい代わりを生むのです。そして、わたしのこと〔生き方〕は、進歩した仲間たちには、より美しいように見えるとわたしは予言します。だから、わたしが報酬さえさらさら取り立てようとしない所以は、愛知の悦び(ajntikatavllagma)として、友愛よりほかにふさわしいものを何ももたないからであり、また、わたしが与えてきたのは、ソピステースたちと同じく、わたしも私事のためではないのですから。というのは、古びゆくものどもは新しくなり、老年に至って再燃させられるのをむしろ愛するのです、ここからして、それらは、時に、学ぶ者たちによってことのほか慈しまれ、これを生んだ父親も渇仰されるのです。かくて、健在な間は名誉(timhv)に与り、命終しての後は記憶(mnhvmh)〔されること〕を要求するのです。そして家族の中に誰か生き残った者がいても、この者に、息子か兄弟のように関わり合うのです――ありとあらゆる好意をこれに示し、自然本然の同族関係とは別の仕方で、これに密接にかかわって。だから、たとえ望んでもできないことなのです。これが悪くなす(kakw:V pravttwn)〔=不幸せである〕のを座視するのは、あたかも、親類関係にある者たちをわたしたちが看過できないようなものです。というのは、魂において同族であるものは、同じ父親から生まれた兄弟のようなものですから、亡き人の息子を助けるよう彼らを強制するのです、――父親を思い出し、その子の不如意をおのが不名誉とみなして。そこで、見てください、あなたにまだ思われるかどうか、――わたし自身のことについての家政の仕方が悪いとか、わたしが命終した後、子どもたちが必要なものに事欠かないようにすることを軽視しているとか。〔わたしが〕彼らに財産を残さないどころか、財産や彼ら自身の世話人をも残さないからというので。じっさいのところ、銀によってより善いひとになったという者は、今日というこの日まで伝えられていないが、資格審査を受けた〔正真正銘の〕愛友や、同じようにして選ばれた者が、資格審査を受けた〔正真正銘の〕銀を手に入れるのは、求める者たちなら誰にでも従うのではなく、愛友たちのなかの最善の人たちに従い、生活の有用さだけでなく、所有者自身の魂を世話し、徳――これなくしては、人間的なものも何の役にも立たない――の言葉に最も多く協力するからであって、こういった事柄の詳細や概観を、わたしたちはお互いに出会って考察しようとしました。が、あなたが今探求していることに対しては、上述のことでも、程よく答えられたことで満足しています。
断片36
松明持ち(da|dou:coV)のカッリアスは、彼(sc. アリステイデース)と親戚関係にあった。このカッリアスを敵対者たちが死罪で追及せんとして、自分たちが公訴した件に関して程々の告発をした後で、外で裁判官たちに向かって次のような言葉を投げかけた。「アリステイデースを」と彼らは言った、「あなたがたは知っていよう、――リュシマコスの子にして、ヘラス諸邦において賛嘆されている人物のことを。この人の家の事はどうであるとあなたがたは思っているのか、――このような生業につきながら、彼が公事にたずさわっているのを目にしながら。いったい、眼にもはっきりと凍えている者が、家では貧しく、その他の必需品にも事欠いているのは、あたりまえではないのか? しかるにカッリアスときたら、この人が、従兄弟であるにもかかわらず、自分はアテナイ人たちの中でも最も富裕であるにもかかわらず、彼〔アリステイデース〕がその生みの子や妻ともども生活に事欠いているのを無視し、多くの点でこの人物を利用しながら、あなたがたのもとにある権力を彼から失敬することしばしばなのである」。これに対してカッリアスは、このとき、裁判官たちがことのほか騒ぎ立て、自分に対して腹を立てているのを眼にして、アリステイデースを呼び、しばしば自分が多くのものを与えようとしたり、〔アリステイデースに〕取るよう求めても、〔アリステイデースが〕拒んだということを、裁判官たちの前で証言することを求めたうえで、答えていうには、――富を自慢するのがカッリアスにふさわしいよりは、この男には貧しさを自慢するのがふさわしいのだ。なぜなら、富というものを、よいものだけれどもたしかに悪いもののように多くの人たちが扱っているのが眼にされるが、しかし、貧しさが高貴にふるまう人に遭遇することは容易なことではない。だから、心ならずも貧しくなった人たちは、貧しさを恥じるものだ、と。このことを、アリステイデースがカッリアスに味方して証言したので、これを耳にした者たちのうち、カッリアスのように富裕であることよりは、アリステイデースのように貧者であることよりも望んで、その場を立ち去らなかった者は、一人もいなかった。この話は、<ソークラテース学徒アイスキネースが>書き留めていることである。
37-38t
『ΜΙΛΤΙΑΔΗΣ』
断片37
「これこそが、ステーサゴラスの子ミルティアデースである、――彼は子どものころ、オリュムピア祭〔競技〕の練習をし、労苦〔激しい鍛錬〕をしたり、体育教師についたりして、強くなった。こうして、自分より体格の大きな子どもたちや、年長の子どもたちをうち負かし、花冠をかけて競技したが、不本意にも、体育教師のせいで外された。なおそのうえに、自分の監督者になったのが、同じ年齢層の者でもなく、同じ練習方法の者でもなかった。しかしこういったすべてのことを彼は聞き入れた。彼のお供をする家庭教師はまったく熱心ではなかったけれども、その家庭教師にさえ、彼はいまだかつて逆らったことはなかった。こういったことが、子どもの彼によって実践されたのであった。かくて、青年になり始めたころ、沈黙は美しいと彼は考えた。青銅の男子像よりも彼はもっと寡黙になった。身体を世話することこそ美しいと彼には思われた。身体を世話しつづけた結果、今もなお、同輩たちの中で最善の身体を保有しているのである」。
断片38
いかなる場合でも、若者にとって安全な飾りは沈黙である、とりわけ、次のような場合はそうである、――他人の話を聞いて、混乱させられるのでないのはもちろん、相手に八つ当たりするのでもなく、言葉が、あまりに受け容れがたいのが提起されても、対話者が話し終えるのを待ち、話し終えても、すぐに反駁に突き進むのではなく、むしろ、<アイスキネースが主張していることだが>、述べきたった相手が、言われた内容に何か付言したいと望むにせよ、変説や撤回を〔したいと望むにせよ〕、間をおく場合は。
39t
『ΡΙΝΩΝ』
断片39
「銀細工(ajrgurokopei:on)」、<アイスキネースが『リノーン』のなかで>。
40-48t
『ΤΗΛΑΥΓΗΣ』
断片40
ヘルモゲネースは守銭奴だといって<アイスキネースに>にからかわれているということ。もちろん、テーラウゲースは仲間であり親切であるのに、面倒をみてくれないと見誤っていたのである。
断片41
<ソークラテース学徒のアイスキネースは><『テーラウゲース』の中で>(vgl. frgm. 44)、当のテーラウゲースを、着物を着るのに、毎日洗濯屋に半オボロスの賃金を払っているとか、ヒツジの毛皮を帯にしているとか、履き物にはよれよれの鼻緒をつけているとか、相手は完璧な弁論家であるのに、その嘲弄ぶりは度を越している。
〔アテナイオス、第5巻220a-b〕
断片42
思慮分別のある人たちも、時には、時宜を得て――<例えば、宴楽のさい>や酒宴のさいに、さらにはまた、贅沢な人々を咎め立てする場合にも、滑稽な言い回しをするときがある。<テーラウゲースの身の皮(quvlakoV)がそうだが、クラテースの料理術も、救いがたい状況でひとはレンズ豆の皿の賛歌を知るだろう、といったたぐいである。犬儒学派(キュニコス)もたいていこういったやり方をする。こういったことは、用いる場所や意味の在処によって、滑稽になるからである。
断片43
そこで、ソークラテースは、言葉〔話の内容〕も事例も、ただ無目的に用いていたわけではない、そうではなくて――<テーラウゲースと>(sc. 対話する)ときも、「溲瓶(ajmidivwn)」やヒツジの毛皮(kwdivwn)に(sc. 言及するを常とした)。
断片44
<ソークラテース学徒アイスキネースは『テーラウゲース』の中で>クリトーンの子クリトブウロスを、その無学と暮らしの不潔さの点で茶化している。
〔アテナイオス、第5巻220a〕
断片45
テーラウゲースが生き方の点でソークラテースに勝ってはいなかったが、その所以をわたしたちは知っている。というのは、ソークラテースがより好評のうちに死に、ソピステースたちとより巧みに対話し、アレイオ・パゴスでより辛抱強く徹夜し、また、サラミス人を連行するよう命じられたときも、より気高くも逆らうべきだと判断し、道中もふんぞり返っていたとしても、充分ではない。そんなことは、真実であるにしても、ひとは重々知悉していることである。むしろ、考察すべきは次のことである、――人間どもに対することにおいては義人であり、神々に対することにおいては敬虔であるということで満足できたとしても、そこにおいて悪(不幸)に不平をかこつことのないのはもちろん、人の無知に隷従することさえなく、全体から切り離されたものの中から、何かをよそよそしいものののように受け取ったり、堪えられないもののように我慢することもなく、肉体の受難に同情するものとして理性を差しだすこともない――このソークラテースはいかなる魂を持っていたのか、と。
断片46
「あなたの精神状態が真剣なら、わたしたちは何か善いことを享受することになろう」
断片47
「ソローンも」とわたしは言った、「法習の制定者であったが、やはり亡くなったけれども、わたしたちは今もなお彼から大きな善きものを享受しているのだ」
断片48
じっさいのところ、好意的な人も、難点があるように思えて、いたるところで二途に迷う。<アイスキネースの事例でいえば、『テーラウゲース』がそれである>。というのは、『テーラウゲース』の叙述は、ほとんどすべてが、驚嘆すべき箇所であれ、おかしみのある箇所であれ、困惑をもたらすであろう。たしかに、皮肉でないのにやはり皮肉の外観を呈しているにせよ、こういう類は両義的なものである。
断片49
〔キュレーネー人〕アリスティッポスも、オリュムピアでイスコマコスに出会ったとき、ソークラテースが対話によってアテナイ人たちをあんな気にさせるのはなぜかと質問した。そして、相手の言葉のどんなに小さな片々までも、種や見本として受けとめて、あまりに感情移入したために、身体と衝突して、すっかり蒼ざめ痩せこけてしまった。ついには、渇望と興奮のため、アテナイへと航行して、源から水を引こうとし、本人と、その言葉と、その愛知を研究したが、その〔愛知の〕目的は、自身の内なる悪しきことどもを自覚し、これをのがれることであった。
断片50
さらに、陳述に際しては、感情をよく表す表現を用いて、〔感情に〕付随するものをも、知られていることをも、自分とか相手とかに付け加わっている独自のことをも、述べるのがよい。例えば、「彼はわたしをじろりとにらんで立ち去った」というように。<また、アイスキネースがクラテュロスについて〔言っている〕ことだが、「しゅーしゅー言いながら、両手をぶるぶる震わせながら(diasivzwn, toi;n ceroi:n diaseivwn)」というように>。なぜなら、〔これらは〕説得的であるからだが、その所以は、これら知られていることが、知られないあのこと〔内なる感情〕の符帳になるからである。
〔アリストテレス『弁論術』1417a-b〕
断片51
この1点において、このように、弁論術は諸法に優先し、〔諸法を〕教導するのが必然であるが、<しかし第二には、諸法そのものが、何と!神々にかけて、諸言語が、書かれた数だけ自余とは異なったものがあるほど、〔数多く〕存在することを認めなければならないのはなぜか? わたしがいささか記憶するところでは、ソークラテースも同じ思いだったとアイスキネースが証言している>。が、<この証言やソークラテースは>別にしても、考察すればひとは同じところに……着目する。すなわち、彼らが言うのは、いかにして、また、何を、為し、いかなることどもを差し控えるべきかということ、要は、諸都市において市民として終始することなのだから。
断片52
「適当以上に眠ることは、生者たちによりはむしろ死者たちに調和する」
断片53
美にして善であることが、人間にとって困ったことだなんてことはありませんよ」
断片54
「ぐっすり眠る(ejp j ajmfovtera ta; w[ta kaqeuvdein)」〔直訳すると、「両耳から眠りに落ちる」〕
断片55
「われわれは柱廊に腰をおろした」
断片56
驚嘆したという意味で、「瞠目した」とも、<ソークラテース学徒><アイスキネースは>言った。
断片57
「舌」とは、履き物の舌〔歯〕のことを意味したという、――<ソークラテース学徒アイスキネース>によれば。
断片58
刈り入れる(ajmh:sai)と取り入れる(qerivsai)。この仕事は、夏(qevroV)だけでなく、「収穫時(qerismo;n)」もだと<ソークラテース学徒アイスキネースが述べていた>。
断片59
「不当なこと(ajnepieikevV)」とは。「正当(ejpieikevV)」でないこと、すなわち「悪いこと(kakovn)」である。アリストパネースと<アイスキネース>が。
//END 2001.07.31. 訳了
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