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ルゥキアーノスとその作品

供儀について

Peri; Qusiw:n
(De sacrificiis)




[解説]
 内容と方法において、この短い戯文は、テレースの断片やエピクテートスのいくつかの部分に適例を有する犬儒派的 diatribe に密接な関係を有する。
 これは「埋葬について」という作品の中に対応箇所を有し、両者を、同一の長たらしい話の2つの部分だと信じる気にさせるほどに密接であるが、今では、ルゥキアーノスの作品中、いくらか隔たりを持っている。しかしながら、おそらくは、一方は他方の垂れ飾りであろう。両作品は確かにある意味で同類である。(A. M. Harmon)

 邦語訳出にあたっては、近藤司郎氏の訳を下敷きにさせていただいた。多謝。



027 t 1
供儀について

 [1] 供儀や祝祭や、神々に供奉する行列に際して、莫迦者たちが為すこと、つまり、懇願すること、祈ること、神々について認識することはといえば、行為者たちの愚かさを観察して、笑い出すこともできないほどまでに、目を伏せて憂いに沈んでいるひとがいるかどうか、わたしは知らない。大いにありうることは、思うに、笑い出すよりもはるか前に、連中を敬虔な者たちと呼ぶべきか、それとも正反対に、神々の敵にして悪霊に取り憑かれた連中と〔呼ぶべき〕かと、自問自答することであろう。連中こそは、神性を低俗なもの、生まれ卑しいものと受け取るあまりに、〔神性を〕人間どもを必要とするもの、阿諛追従する者を喜び、蔑ろにする者に憤慨するものにしている者どもなのだ。

 たしかに、アイトーリアの受難、カリュドーン人たちの災禍とあれほど数多の殺人、メレアグロスの破滅、これらすべては、オイネウスの供儀に呼ばれなかったことに、遺恨をいだいたアルテミスの仕業だと謂われている。それほどまでに犠牲獣に対する彼女の優先権は重大だったのである。わたしには、このとき、他の神々がオイネウスの〔館〕へ出かけてしまったあとで、天上でただ一人、いかなる祝祭に置いてきぼりをくらったか、彼女が不平たらたら愚痴をこぼすのを目にする思いである。

 [2] ところが逆に、アイティオピア人たちの方は、浄福者とも三倍幸福な者ともひとは云うことができよう。ゼウスに対して、しかも〔ゼウスが〕き連れて行った他の神々までも、12日間ぶっとおしで宴楽し、これに示した恩恵を、もしもゼウスが彼らのために思い出すならばだが。

 このように、どうやら、〔神々は自分たちが〕することの何ものをも、報酬なしにすることはなく、人間どもに善きものらを売りつけるのであり、彼ら〔神々〕から購入することができるのである。健康は、およそ、小牛1頭の値で、富は牝牛四頭の値で、王位は百頭の値で、イリオンからピュロスまでの安全な帰還は牡牛9頭の値で、また、アウリスからイリオンまでの渡航は、処女の王女の値で。ちなみに、ヘカベーは、都市が攻略されるまでのひとときを、アテーナーから牝牛12頭と一着のペプロスで購入したのである(Il.VI, 271 ff.)。しかし、多くのものは、雄鶏や花冠や乳香だけの値で彼らから購えると想像すべきである。

 [3] このことは、思うに、クリュセースも、神官であり、老人であり、神事の知者であるから、知っていた。だから、アガメムノーンの前から術なく退出すると、アポッローンに恩を前貸ししていたかのように、抗議し、代償を要求し、ほとんど罵らんばかりに言うのである。「おお、最善者アポッローンよ、わたしはそれまで戴冠されることもなかった御身の神殿にしばしば戴冠し、御身のために牡牛と山羊とかくも数多の腿を祭壇で焼いてきましたのに、かくも多くの苦難を受けているわたしを気にかけることなく、善行者に見向きもなさらない」(Il. I, 33 ff.)。そういうわけで、〔アポッローンは〕彼の言葉に恥じ入るあまりに、弓を引っつかむと、停泊地の軍船の上に腰を据えて、アカイア勢を、騾馬や犬たちいたるまでも、疫病で射倒したのである(Il. I, 50 ff.)。

 [4]いったんアポッローンに言及したからには、その他のことも言いたい。それは、彼について人間どもの知者たちが言っていることではあるが、恋に関する不首尾 — ヒュアキントスの殺害とか、ダプネーの狷介孤高とかではなく、キュクロープスたちを死なせた廉で何と有罪判決を受け、これを理由に天上から陶片追放され、人間的運命を経験すべく地上に送られたということである。まさしくこの時、何と彼は日雇い労働者となって、テッサリアのアドメートスのところと(Apollodorus 3.10.4)、プリュギアのラーオメドーンのもとで働いたのだ(Il. 7.452-3)。もちろん、後者のもとでは、〔アポッローン〕一人ではなく、ポセイドーンも一緒だったのだが、二人とも貧窮のために煉瓦作りや城壁造りに従事したのである(Il. xxi, 441 ff.)。おまけに、このプリュギア人からまともな賃金ももらえず、〔ラーオメドーンは〕彼らに、言い伝えでは、三十トロイア・ドラクマ以上の借りがあったとのことである。

 [5] そもそも、詩人たちは、神々についてこういったことを、また、こういったことよりもはるかに神聖な事柄をも、ヘーパイストスとかプロメーテウスとかクロノスとかレアーとか、ゼウスの一族全体について、厳めしげに語っているにすぎないのではないか。しかも、叙事詩の初めにムーサたちに唱和を呼びかけ、まさしく彼女たちのおかげで、尤もなことながら、神来状態となって歌うのである — クロノスは父ウーラノスを去勢するや否や、ただちに王位に就き、わが子たちを呑みくだした。アルゴスのテュエステースが後にしたように。これに対してゼウスは、石とすりかえたレアーに盗み出されて、クレータ島に捨てられてのち、雌山羊に育てられた。ちょうど、テーレポスが雌鹿に育てられ、ペルシアの先のキュロスが雌犬に〔育てられた〕ように。やがて〔ゼウスは〕父を追い払って牢獄に投げこみ、自ら支配権を握った。そして、他にも多くの女たちを娶ったが、ついには、ペルシア人たちやアッシュリア人たちの法にならって、姉妹と結婚した。 好色であり、性愛に流されやすいため、天上を子どもたちであふれかえらせ、〔子どもたちの〕ある者たちは、同じ位の者たちからもうけ、何人かの庶子は、死すべき地上の種族から、この叔父貴は、時には、金になり、時には、牡牛とか、白鳥とか、鷲とか、要するに、かのプーロテウスよりも多彩に変身したのである。 ただし、アテーナーだけは、自分自身の頭から、端的に脳みその中に宿して、生んだのである。ディオニューソスはといえば、言い伝えでは、まだ燃えている母親から未熟なのを取り上げて、持って来て〔自分の〕腿の中に埋め込み、やがて陣痛が起こったので、切り出したという。

 [6] これらと同じことは、ヘーラーについても〔詩人たちは〕歌っている — 夫との交わりなしに、彼女は風卵の子ヘーパイストスを生んだ。この者はすこぶる善運なく、青銅製品や鍛冶の職人となり、いつも煙の中で暮らし、まるでかまど番人のように火の粉〔煤〕に満たされ、さらに両足がまっすぐでさえない。というのは、ゼウスが天上から投げ捨てたとき、かれは墜落してびっこなったからである(Il. 1.590ff.)。じっさい、レムノス人たちが、運よく〔美しく為して(kalw:V poiou:nteV)〕、墜落中の彼を受け止めていなかったとしたら、われらがヘーパイストスは死んでしまっていたろう。ちょうど、アステュアナクスが塔から転落したように(Il. 24.734-5)。

 それにしても、ヘーパイストスのことはまだましなほうである。だが、プロメーテウスとなると、いかなる受難をこうむったか、知らぬ者がいようか。人間をあまりにも愛しすぎたからだというのだから。というのも、この者をもまたゼウスがスキュティアに連行して、カウカソス山に磔にし、彼のかたわらに鷲を配置して、日毎に肝臓をついばませたのだから。

 [7] たしかに、プロメーテウスは有罪判決をまっとうした。だが、レアーはといえば — これも等しく言うべきだからだが — 、どうして、無様な振る舞いにおよび、恐るべきことをしでかさないことがあろうか。すでにお婆んで、盛りも過ぎ、かくも数多の神々の母親だというのに、あいもかわらず少年を恋し、やきもちを焼き、アッティスを、それも、もはや〔去勢されて〕役立つこともできないのを、ライオンに乗せては連れまわるのだから。したがって、どうして、依然として非難できる者がいようか。アプロディーテーを、姦通しているからといって、あるいは、セレーネーを、軌道の途中から、エンデュミオーンのもとに降りて行くからといって。

 [8] では、さあ、この話はもはやそのままにして、天そのものへと昇ってゆこう。ホメーロスやヘーシオドスと同じ道によって、詩人として飛翔して。そして、天上界がどのように秩序だてられているのを観察しよう。むろん、外縁が青銅でできていることは、われわれ以前にもホメーロスが言っているのをわれわれは聞いている(Il. 17.425)。しかし、〔縁を〕越えて、上界に少し抜けだし、〔天の〕脊上に(Plato, Phaedrus 249C, 247C)すっかり達した者に、光はさらに輝いて見え、太陽はさらに澄んで(Plato Republic 616B)、星はさらにきらめいて(Apollonius Rhodius 2.1104)、全体が昼で(Il. 1.605)、床は黄金(Il. 4.2)。入ると、最初の住まいにホーラたちがいる。彼女たちが門を守っているからである(Il. 5.749)。次いでいるのがイリスとヘルメースで、これらはゼウスの奉仕者であり、触れ役である。続いて、ヘーパイストスの、ありとあらゆる術知に満たされた(Il. 1-607-8)鍛冶屋の仕事場。その後に、神々の館とゼウスの宮殿がある。これらはみな全美で、ヘーパイストスがこしらえたものである。 [9] 「諸神はいまやゼウスのもとに集い」(Il. 4.1) — 天上にいるからには、思うに、厳めしく言うのがふさわしいからだが — 、地上を見やり、屈み込んで、あらゆる方向を眺めまわす。どこかで火がつけられたり、焼ける香りが「煙の渦を輪に巻いて」(Il. 1.317)立ち上っているのが見えはすまいかと。そして誰かが犠牲を捧げていれば、全員が宴楽するのである。煙に向かってあんぐり口を開け、祭壇に注ぎかけられた血を、まるで蝿のように、飲んで。しかし、自宅で食事をするときは、食卓に上るのはネクタルとアンブロシアーである。昔はといえば、人間たちも彼らと一緒に飲み食いするのが常で、イクシオーンとタンタロスがそうだった。ところが、彼らは横暴で、おしゃべりであったので、この者たちは今もなお懲らしめを受けており、死すべき種族にとって天は足を踏み入れられぬ秘密となったのだ。

 [10] これが神々の暮らしである(Plato, Phaedrus 248A)。そういう次第で、人間たちも、宗教儀礼に際してこれらのことに唱和し、随伴することを行じるである。先ず第一には、森を仕切り、山々を奉納し、鳥類を生別し、植物の名を各々の神につけた。それから、族民ごとに割り当てた後、崇拝し、自分たちの同市民として表明した。デルポイ人は、またデーロス人も、アポッローンを、アテーナイ人はアテーナーを(実際、その名によって同族関係を証明している)、アルゴス人はヘーラーを、ミュグドーン人はレアーを、パポス人はアプロディーテーを〔同市民と表明している〕。これに対して、クレータ人たちは、ゼウスは自分たちのところで生まれ、育ったばかりか、彼の墓まで示す。すると、われわれも、これほどの間ずっと騙されてきたわけだ。ゼウスが雷を鳴らし、雨を降らせ、他にもあらゆることを実現すると思っているが、彼は往古にすでに死んでしまっていて、クレータに埋葬されていることに気づかれていないのだとするなら。

 [11] それからまた、彼ら〔人間たち〕が神殿を建てたのは、彼らが家なしになることはもとより、かまどなしにもならないためであるが、似像を彼らに似させるために呼び寄せたのが、プラクシテレースやポリュクレイトスやペイディアスで、この者たちは、どこで見たのかわたしは知らないが、ゼウスは顎髭を生やした者、アポッローンは永遠の少年、ヘルメースは薄ら髭の生えたての若者(Il. xxiv, 348; Od. 10.279)、ポセイドーンは黒髪の者、アテーナーは梟の目をした者に造形した。ところがそれにもかかわらず、神殿を訪れる人々は、インド産の象牙とかトラキアで採掘した金を見ているのではなく、クロノスとレアーの子そのものを目にしていると思うのだ — ペイディアスによって地上に移住させられ、ピサ人たちの荒野を監督するよう命じられ、まる5年〔四年目〕ごとに、オリュムピア祭のおまけとしてひとが自分に供儀してくれれば、悦んでいる〔ゼウスを〕。

 [12] で、祭壇、予告、浄めの場をしつらえると、〔人々は〕犠牲を供える。耕作牛は農夫が、子羊は羊飼いが、山羊は山羊飼いが、しかしある者は乳香や丸菓子を、貧しい人は、自分の右手に口付けるだけで神を宥める。ところが供犠する者たちときたら(前者に立ち返るからだが)、動物に戴冠して — それに先立って、〔動物が〕完璧かどうかをしげしげと吟味するが、それは、何か役立たずなものを屠殺するまでもないからである — 、祭壇に供え、神の目の前で殺害する。悲しげに咆え、想像するにどうやら祝福し、ついには半母音で供犠に伴奏する〔犠牲獣〕を。これを見て神々は喜んでいると想像できない者が誰かいようか。 [13] そして、公告は、手の清浄ならざる者は何人たりとも浄めの場を中を横切るべからずと謂っている。が、神官そのものが血にまみれて立っているのである。あたかもあのキュクロープスのように、切り刻んで、内臓を引きずり出し、心臓を取り出して、血を祭壇の周りに注いで……、何と敬虔なことを遂行しているではないか。そのうえさらに、火を点じ、皮もろともに山羊を、また羊毛もろともに羊を持って来て〔火の〕上に置く。すると、神々しく聖なる香りが立ち上り、天そのもののなかにほのかに拡散してゆくのである。

 少なくともスキュタイ人は、あらゆる犠牲獣を放棄して、みすぼらしいと考えて、人間そのものをアルテミスに捧げ、そういうふうにしてこの女神を満足させている。

 [14] これらは、そしてアッシュリア人によって行われていることも、プリュギア人やリュディア人によって〔行われている〕もとも、おそらくはまだしもましであって、もしもアイギュプトスにあなたが赴けば、数々の森厳なもの、真に天にふさわしいものらを目にするであろう。すなわち、ゼウスは牡羊の顔を持ち、最善のヘルメースは犬の顔をもち、パーンは全身が山羊、朱鷺であり、鰐であり、また別のものは猿であるのを。

しかして、これらをもよく知らんがために、学びたくば(Il. 6.150)

数多のソフィストや、書記や、髪を剃り落とした予言者たちの説明するところに耳を傾けるであろう — が、先ずは、諺に謂う「未入信の者どもよ、戸をたてよ」 — 然り、戦争つまりギガンテースたちの叛乱の頃、神々は怖れをなしてアイギュプトスにやって来た。ここにいれば、敵に気づかれまいとて。そのうえ、恐怖に駆られて、彼らのある者は山羊の中にもぐりこみ、ある者は牡羊の中に、ある者は獣や鳥類の中に〔もぐり込んだ〕。まさしくそういうわけで、今もなお、その時の姿形が神々によって守られているのである。もちろん、これは1万年以上も前に書かれたもので、内陣の中に保管されている。

 [15] 供儀は、かの者たちのもとでも同じである。ただし、彼らは犠牲獣を嘆き悲しみ、側に立っている者たちが、すでに殺害されたものを叩くことを除けば。さらにまた、喉を切り裂いて埋めるだけという者たちもいる。

 アーピスはといえば、彼らにとって最も偉大な神であるが、もしも死んだとしたら、髪を剃り落として、悲嘆を頭に剥き出しに見せつけることをしないほどに、髪の毛を大事に思う者が誰かいようか。その者が、たとえ、ニーソスの紫の巻き毛をもっていたとしてもである。しかし、アーピスは家畜から生まれた神で、先代に継いで選ばれたのは、並みの牛たちよりもはるかに美しく、厳かであった故である。

 このようになされることや、多衆によって信じられていることは、これを咎める人を誰も必要としないけれど、ヘーラクレイトスとかデーモクリトスといった人は〔必要であろう〕。前者は彼らの無知を笑うだろうし、後者は愚かさを嘆くことだろうとわたしには思われる。

//END
2011.11.27.

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