ルゥキアーノスとその作品
挨拶の際のしくじりのために
(+Upe;r tou ejn th/: Prosagoreuvsei PtaivsmatoV)
(Pro Lapsu inter salutandum)
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[解説]
言い間違いについてのパトロンへの言い訳が、「caivrein(ご機嫌よう)」「uJgiaivnein(ご健勝でありますよう)」「eu\ pravttein(ご清福のほどを)」という3つの挨拶形式についての論考をする機会を与えた。言い廻しの適切さに対するルゥキアーノスの繊細さについては、『偽評論家』のHarmonの解説を見よ。(K. Kilburn)
挨拶の際のしくじりのために
[1] 人間の身であるからには、一種のダイモーンの難癖をまぬがれることは困難でありますが、ダイモーンの干渉した道理に反したしくじりに対する釈明を見出すことは、もっと困難であります。まさしくそのような〔しくじり〕が両方ともにわたくしに結果したのであります。朝のご挨拶をしようと、閣下のもとにやって参りましたとき、いつものこの声を発し、「caivrein」と頼まねばなりませんのに、黄金の〔像のようにおばかな〕私は、うっかり、閣下が「uJgiaivnein」ことを願いました。もちろんこれも祝言ではありますが、時宜を得ぬ、朝にはふさわしくないものです。これがために私の方は、すぐに冷や汗をかき、赤面し、すっかり途方にくれ、居合わせた人たちはといえば、あるひとたちは、当然のことながら、馬鹿になったと〔思い〕、あるひとたちは歳のせいで耄碌したと〔思い〕、あるひとたちは、夕べの酒で私がまだ酔っぱらっていると思いました。たとえ、閣下は可能なかぎり適切に振る舞われ、あるかなきかの微笑で、舌の失策を表明さえされなかったとしてもです。そこで、私自身のために慰めのようなものを著すのが美しいように私には思われました。しくじりをあまりに苦にしすぎず、堪えがたいものと考えないためです。私のような年老いた男が、これほど多くの証人の前で、美しい情態からこれほど大きく躓いた場合には。というのは、このように祝言的祈りの中に滑りこんだ舌には、釈明は必要ないと思うからであります。
[2] さて、書き始めてみて、まったく行き詰まった問題に遭遇したように思いましたが、書き進めているうちに、言うべきことが数多く立ち現れてきました。しかしながら、「caivrein」「uJgiaivnein」「eu\ pravttein」そのことについて当然なことを先に述べないうちには、それらを先に述べるつもりはありません。
たしかに「caivrein」は古い挨拶ですが、朝の〔挨拶〕にかぎらないばかりか、初対面の〔挨拶〕にもかぎられず、最初に会ったらお互いにこれを言うのが常でありました、例えば、
ご機嫌うるわしゅう(ca:r=)、おお、このティリュンティスの地の権力者よ。
晩餐の後にも、すでに灌酒の会話に入る人たちは、例えば、
ありがとう(cai:r=)、アキッレウスよ、平等な饗宴に事欠くことはない。
これは、オデュッセウスが、彼〔アキッレウス〕に派遣された用向きを弁じたときのものです。またすでに立ち去るとき、例えば、
幸あれ(caivrret=)、私は不死なる神として、もはや死すべき者としてではなく、御身らの間を往く。
ただし、固有の時機はひとつとしてこの挨拶に割り当てられておらず、今のように朝の〔時機〕だけでもありません。その所以は、縁起のわるいことやこのうえなく忌まわしいことにもやはりこれを〔人々は〕使ったからです。例えば、エウリピデースの〔作品『ポイニッサ』の中の〕ポリュネイケースは、すでに生を終えんとして、
さようなら(caivret=)、もう闇がわたくしを覆い始めました。
彼らにとってこれは親愛(filofrosuvnh)の割り符であるばかりでなく、嫌悪(ajpevcqeia)や、もはやお互いにつきあわないことの〔割り符〕でもありました。とにかく、makra; caivrein〔長のお別れ〕と謂うことは、mhkevti frontiei:n〔もう気にしない〕ということを明らかにしています。
[3] 最初にこれを云ったのは、健脚家ピリッピデースだと言われています。飛脚だった彼は、マラトーンから勝利を報告せんとして、そのとき任にあって、戦闘の結果を気遣っていた執政官たちに向かって云ったという、「よろこべ(Caivrete)、我ら勝てり」と。そしてこれを云うや、報告とともに死に、caivreinとともに息を引き取ったと。書簡の冒頭では、アテーナイの民衆指導者クレオーンが、スパクテーリアから、そこでの勝利と、スパルタ兵の捕獲の吉報を伝えるとき、caivreinを第一として前に置きました。しかるに彼の後では、ニキアスがシケリアから書簡を送るとき、書簡の古習を踏襲し、用件そのものから始めました。
[4] ですが、驚嘆すべきプラトーンは、こういうことの信頼にあたいする立法者であって、caivreinと願うことは、具合わるく、何ら真剣味を表明していないとしてことごとく失格と審査し、これの代わりにeu\ pravtteinを、身体と魂に共通に善き情態の割り符として導入し、ディオニュシオスに書簡〔第3書簡〕を送って、彼がアポッローンに寄せて、この神にcaivreinと詩作していることで彼を責め、ピュティアに対して不適切であり、神々にはもとより、右利きの〔怜悧な〕人間たちに対してもふさわしくないと付言しています。
[5] 神的なピュタゴラスにいたっては、彼に帰せられるもののうち、固有のものは何ひとつわれわれに残すことを自らは求めませんでしたが、レウカニア人オケッロス、アルキュタス、その他彼の弟子たちに証言されているところでは、caivreinもeu\ pravtteinも前書きせず、uJgiaivneinで書き始めるよう命じました。とにかく彼の学統を引く人たちはみな、お互いに書簡をやりとりするとき、何か真面目なことを書く場合には、冒頭すぐにuJgiaivneinと励ましたのは、これこそは魂と身体とに最も調和的であり、人間の諸々の善をすべて包括的に含意しているとしてです。そして少なくとも、自分たちの三重の三角形相互によって形成された五芒星形(pentavgrammon)(これを彼らは学派の割り符として用いた)をば、自分たちの間でヒュギエイア〔健康〕と名づけました。要するに、uJgiaivneinには、eu\ pravtteinもcaivreinも帰属するのですが、eu\ pravtteinにも、caivreinにも、uJgiaivneinが帰属するわけではまったくない、と彼らは考えたわけです。で、こういう人たちがいます。四元数(tetraktuvV)こそが自分たちの最高の誓いであり、これは自分たちにとって完全な数を成就するものであって、もはやヒュギエイア〔健康〕の初めとも呼んだ人たちです。ピロラオスもそのひとりです。
[6] いったい、閣下に古人たちを言う必要がありましょうか、エピクゥロスという人は、caivreinをとても歓迎し(caivrwn)、より真面目な書簡(その数は少ないのですが)の中では何よりも快楽(hJdonhv)を選抜し、最も親愛な人たち宛の〔書簡の〕中ではとりわけ、uJgiaivneinを冒頭すぐに配置していますのに。さらに、悲劇の中でも古い喜劇の中でも、uJgiaivneinが真っ先にすぐに言われているのを閣下は見出されるでしょう。例えば、詩行としては、
めでたい、ほんにご機嫌よく(ou\lev te kai; mavla cai:re)〔Od. xxiv, 402〕〔呉茂一訳〕
はっきりと、caivreinよりもuJgiaivneinを前に配置されたものとして持っているのです。またアレクシスは、
おお、ご主人さま、ご健勝のほどを(uJgivain=)、やっとやって来られました。〔Frag. 297 K〕
アカイオスは、
わたしは辛い有様でやって来ましたが、あなたはどうぞご健勝でありますよう(uJgivainev)。〔Frag. 44 N2〕
ピレーモーンも、
わがこいねがうは、第一に健康、次に幸せ(eujpraxiva)、
第三にはcaivrein、次に、何びとにも負い目のないこと。
というのは、この人は酒宴歌を書いており、これはプラトーンも言及しているものですが、この人物も何と謂っているか。「uJgiaivneinこそ最善、次善は美しいひとであること、第三は富めること」と、しかし、caivreinにはまったく言及していないのです。まして、あの最もよく知られた、人口に膾炙していることは、閣下に申し上げるまでもありません。
健康よ、浄福なものらのうち最年長の方よ、御身とともに、生涯の残りの日々を
住まわん。
結局、健康が最年長であるなら、uJgiaivneinというその働きも、自余の諸々の善の前に配置しなければなりません。
[7] 他にも無量の〔例文〕を、詩作者たちや史伝作家たちや哲学者たちから、彼らがuJgiaivneinを尊重しているのを、閣下のために明示することができますが、次のことはお願いいたします。つまり、私のこの書き物が、若年向きの一種の美感欠如に陥り、私たちが「他の爪で爪を叩き出す」危険をおかすことのないようにということです。しかし、昔の歴史から、私の記憶にあるかぎりは少し、閣下のために目下のことに近しいこととして、附記するのが美しいと私は理解しました。
[8] アレクサンドロスが、イッソスにおける戦いを闘い抜こうとしたとき、カルディア人エウメネースがアンティパトロスに宛てた書簡の中で言っているところでは、早朝、彼の天幕に入ってきたヘーパイスティオーンは、うっかりしてにせよ、私のように混乱したにせよ、またいずれかの神がそれを強制したにせよ、私と同じことを謂ったのです、「uJgivaine、王よ、すでに対抗布陣する好機です」。居合わせた人たちは、挨拶の意想外さに狼狽し、ヘーパイスティオーンは恥ずかしさのためにすんでのところで死にそうでしたが、アレクサンドロスは、「吉兆を受けた」と云いました、「戦いから助かって帰ることが、すでに余に約束されたのだから」と。
[9] また、アンティオコス・ソーテールは、ガラタイ族と交戦しようとしたとき、夢で、アレクサンドロスが自分の傍に立って、軍勢に「uJgiaivnein」という合い言葉を授けるよう命じたように思われました。そしてこの合い言葉のおかげで、あの驚くべき勝利を勝ち取ったのです。
[10] さらに、ラゴスの子プトレマイオスも、セレウコスに手紙を書くとき、はっきり順序を逆にして、手紙の初めに彼がuJgiaivneinと挨拶し、終わりには、「お元気で(ejrrw:sqai)」の代わりに「caivrein」と書き添えたと、彼の書簡を蒐集したディオニュソドーロスが謂っております。
[11] また、言及にあたいするのは、エーペイロス人ピュッロス。将軍の中でアレクサンドロスの次席に甘んじ、運命の無量の転変を甘受した人物です。さてこの人物は、神々に祈ったり供犠したり奉納したりするときいつも、断じて、勝利とか王位の増大とか、名声とか富の莫大さとかを彼ら〔神々〕に願うことをせず、健康であること(uJgiaivnein)、この一事を祈ったのですが、それは、これさえ持てば、他のことがそなわるのは彼にとって容易だからです。じつに最善の事を思慮したと私は思います。あらゆる善のうち、健康であること(uJgiaivnein)のみが不在であれば、何の役にも立たないと思量したのですから。
[12] 然り、とひとは謂うでしょう、今こそそれぞれの〔挨拶語に〕固有の時機がわれわれによって明示されたのに、おまえはそれを入れ替えてしまった。たとえおまえが他に躓いたことが何もなかったとしても、義しい言葉に対して過ちを犯したことと無関係ではあり得ないのだ。ちょうど、ひとが脛に兜をつけ、あるいは、頭に脛当てをまとった場合のように。いや、おお、最善のひとよ、と私も彼に謂うでしょう、君がそう言うのは尤もだ、健康を必要としない時機というものが一般的にあるとしたならば。しかるに今も、朝も、昼日中も、夜も、健康は常に必要である。とりわけ、支配し、多事多端の閣下がたには、多くのことのためにも身体を必要とするかぎりは。なおそのうえに、cai:reと云うひとは、祝言を初めに用いているにすぎず、行為としては祈りであるが、uJgiaivneinと〔云う〕ひとは、励ましているのであり、何か有用なことを為し、健康であるために実現すべきことを想起させているのです。[13] では、どうか。指令書の中でも、閣下がたがいつも帝国から受け取るもの、それはまず第一に、閣下がた自身の健康に気をつけるようにという、閣下がたに対する指令ではありませんか。大いに尤もなことです。なぜなら、閣下がたがそういう情態にあること以上に有益なことは何もないからです。いや、閣下がた自身も、もし私もローマ人たちのことばに通じているところがあるとすると、挨拶する相手に、しばしば健康という語で返して、挨拶を交わすのです。
[14] そして、以上すべてのことを云ったのは、caivreinを棄てて、これの代わりにuJgiaiveinと云う実践をするという先慮からではなく、これこそは心ならずも陥った事態です さもなければ、私が外国人でありながら、挨拶の時機を入れ替えるなど、滑稽でありましょう。[15] 私は神々に感謝の念をもちます、私の躓きが、他のはるかにもっと縁起のよいものに切り替わり、より善いものに滑りこみ、おそらくは、uJgiaivneinを約束してくれるヒュギエイア〔「健康」の女神〕あるいはアスクレーピオス本人の息吹によって、私を通して閣下にそれが実現されることでしょうから。少なくとも私が〔そう確信する〕所以は、これまで長い人生の中で似たような混乱に陥ったことはいまだかつてないのですから、こんな目に遭ったのが神〔の干渉〕なしにということがどうしてありましょうか。
[16] しかし、生起した〔しくじり〕のために、何か人間的な釈明を云わねばならないというのは、何ら奇妙なことではありません、私が、閣下に認められるという最善なことに熱中して、熱心さのあまりに、混乱して、正反対の事態に陥ったというのは。しかし、また、あるひとたちは押し進み、あるひとたちは、挨拶の順番を待機することのない軍勢の多さが、たぶん、正しく思案する人たちの一部を仰天させることでしょう。[17] ところが閣下は、私はよく存じあげているのですが、他の人たちなら、行為を愚かさとか、無教養とか、精神錯乱とかのせいにするところですのに、これを羞恥や、純真や、何ら世間ずれしたところや小賢しいところを持たない魂の割り符となさいました。このような〔所行〕においてひどく大胆であることは、向こう見ずや無恥と無縁ではありません。願わくは、そういった躓きが少なくとも私には何もありませんように、しかし、もしも起こるとしたら、それが祝言へと向け変えられるますように。
[18] 実際、初代セバストスの御代〔アウグストゥス。在位、前37-後14〕にも、何かこのようなことが起こったと言われております。この方が、たまたまある訴訟を正しく裁き、最大の容疑で不正に誣告されていたひとを無罪放免しましたところ、その人物が大声で感謝の念を表して、「閣下に感謝いたします」と謂いました、「おお、皇帝よ、悪く、そして不正にお裁きになったことを」と。そこでセバストスの取り巻きたちは憤慨して、その人物をばらばらに引き裂こうとしたところ、「怒りをやめよ」とあの方が謂いました。「彼の舌をではなく、気持ちを吟味すべきなのだから」と。あの方はそういうふうでしたが、閣下は、気持ちを考察なされば、好意を見出されるでしょうし、舌を〔考察〕なされば、それもまた祝言でありましょう。
[19] どうやら、すでにここまで達しましたからには、他に何か恐れるのが尤もだとすれば、私が意図的に、つまり、この釈明を著したいがために、過失を犯したのだと、どなたかに思われはしないかということです。せめては、おお、最も親愛なるアスクレーピオスよ、この言葉〔小著〕が、釈明ではなく、演示(ejpideivxiV)の動機ありと思われるほどのものに見えますように。
2012.07.13. 訳了。
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