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異界としての沙漠

キリスト教初期修道制文献における沙漠のイメージ





[出典]

 鈴木順『古代末期禁欲論とエヴァグリオス』(LITHON、2009.12.)所収。
 鈴木順は、2008年1月12日、35歳の若さで逝った。その遺稿が、遺族、師友の働きで一冊の書となった。その中から、「異界としての沙漠 — キリスト教初期修道制文献における沙漠のイメージ — 」を採録しておく。




1 はじめに:本稿の課題

 キリスト教修道制の勃興は、4世紀の地中海東部において広範囲に確認される宗教現象であり、古代末期宗教史を大きく特徴づけるものである。修道制の勃興自体は、〈ローマ帝国における心性の禁欲化〉と同一視されるべきものでもなく、〈禁欲的キリスト教霊性の起源〉と理解されるべきものでもない。事実、ヘレニズム哲学諸派における「愛智(フィロソフィア)」とは、多くの場合〈禁欲実践による生の彫琢〉を含意していた。また、キリスト教の伝統においても、修道制の勃興をはるかに遡る1世紀末以来、禁欲者の存在は連綿と続いていたのである。「牧会書簡」は、厳格な禁欲(終生にわたる独身生活の選択・肉食や飲酒の否定等)を実践する少なからぬキリスト教徒 — これら人々の宗教性は研究史上「節制主義(エンクラティズム)」と呼ばれる — の存在と彼らをめぐる初期キリスト教内部での葛藤を伝えている。彼らは、救済の必須条件として婚姻の否定を提唱したため、既存の社会倫理との協調を重視する「牧会書簡」筆者から厳しく断罪された。しかし、彼らを断罪した正統主義内部においても、独身・寡婦に留まり性的禁欲を実践する人々が存在し、時として、共同体からの経済的支援や典礼における特権的礼遇を享受していた。これらのことを踏まえるならば、修道制の勃興とは、〈キリスト教における禁欲実践の起源〉ではなく、〈キリスト教における禁欲実践の変容〉の一環として理解されるべきものである。では、修道制以前と修道制における禁欲をめぐる決定的な差異は、何に求められるべきであろうか?

 一連の外典使徒行伝は、エンクラティズムの周辺で成立したと推測される[1]。これらが共通して描くのは、救済の要件として〈性生活の全面的放棄・既存の社会的紐帯の否定〉を説く放浪の宣教者達であるが、彼等の活躍の場は常に都市の内側に留まっている。正統主義教会の内部における禁欲者達(「処女(おとめ)」・「寡婦(やもめ)」等)もまた、都市の教会共同体もしくは家庭の内部で禁欲生活を送る存在であった。ヘレニズム的伝統における禁欲者達についても事態は同様である。キュニコス派の祖シノぺのディオゲネスは、文明のあらゆる利便を放棄することで究極の自由の獲得を目指したが[2]、そのエキセントリックな文明否定も都市自体の否定・放棄には至らず、アテナイで終焉の時を迎えている。新プラトン主義者達も、食餌・性行為における節制・官職からの自発的引退[3]を実践しながらも、都市の否定・放棄には至らなかった。むしろ、プロティノスと弟子達は、「プラトンの法制によって統治される都市の建設」を皇帝に請願すらしている[4]。禁欲実践を通じての徳の探求が展開される場所とは、キリスト教の内外を問わず、都市・村落に他ならなかった。これとは対照的に、修道制における禁欲は、都市・村落からの離脱そして沙漠へ隠遁というラディカルな形で従来のあり方を越境した。修道制における修行形式は、独住型・半独住型・共住型の3類型に大別されるが[5]、タベンネシのパコミオス(287年頃-347年)の共同体に代表される共住型を除いては[6]、いずれも沙漠の只中での隠遁を中心にすえるものとなっている。従来の禁欲実践と修道制との差異とは、さしあたって、禁欲の実践される場所の違いに求められると言える。

 では、修道者達は、沙漠・荒野の彼方に何を見出し、沙漠での禁欲修行を選択したのか? 換言すれば、「異界」としての沙漠に対して、彼らがいかなるイメージを抱き、それが彼ら独自の禁欲生活の様式(沙漠への隠遁)の内的動機付けといかに連動しているのか? この問いを、初期修道制の周辺で成立した資料群に依拠しつつ探求すること。これが、本稿の課題である。

2 「沙漠」と「この世」

 「修道者になる」あるいは「修道者である」とは、何を意味するのか? 修道者達自身の表現を借用するならば、それは端的に「この世(kosmos)を離れる」ことである。では、ここで言う「この世」とは何を指すのか? 修道者たらんと欲する者が向かう「沙漠(erêmos)」の彼方から「この世」を振り返ることで、この間いは明らかになる。沙漠と対を成す「この世」とは村落・都市なのであって、形而上学や宇宙論の伝統が想定する〈天・地・地下の3層構造〉を備えた「宇宙(コスモス)」を意味するのではない。このことは、修道文献における「この世」の同義語群によって、より一層明らかになる。修道者にとっての「この世」とは、ナイル河の両岸に展開する豊穣な耕作地たる「エジプト」[7]、生活者の「居住地(oikoumenê)」、「人々の只中(to meson tôn anthrôpôn)」[9]なのである。つまり、修道者が離脱するべき「この世」とは、既存の共同体における人的紐帯に他ならない。修道者にとっての沙漠が持つ異界性とは、この人的紐帯の不在にまず求められるのである。

 修道者の歩みの第一歩は、この紐帯の切断から始まる。アントニオスを例に挙げてみよう。彼はこの切断を、都市・村落の周縁 — 都市と沙漠の接点 — に広がる墓場、より具体的に言うなら、墓穴の中での閉居修行によって本格的に開始する[10]。さて、『アントニオス伝』が伝える墓穴から再び現れるアントニオスの姿と[11]、ピュタゴラス主義的禁欲修行者の理想像に関するポルピュリオスの記述[12]との並行関係がすでに指摘されているが[13]、これに依拠しつつ、一部の社会史家達は、修道者達の〈象徴的・擬似的な死〉をシャーマン等に見られる〈儀礼的死・再生〉との類比・比較によって解釈することを試みている[14]。墓穴から再び現れる修道者と、彼に奇跡的力を期待する人々の視線。確かにこの光景は、地域住民とシャーマン的聖者との関係を連想させる。しかし、儀礼的再生を遂げたシャーマンが地域社会に定住するのとは対照的に、修道者アントニオスは沙漠の彼方へと一層隠遁の度を深めていった。コプト語で修道者の居住地はTOOYと呼ばれるが、元来この語は、「山」そして「沙漠」を意味し、さらには「墓地」をも意味する[15]。修道者が極める隠遁は、より一層の「死」の領域への沈潜・参入なのである。

3 霊的現実が可視化される場としての「沙漠」

 象徴的死によって修道の歩みをはじめた者は、〈死の領域〉たる沙漠に何を見出すのであろうか? 『師父の金言』は[16]、スケーティスの師父モウセスについて、次のように伝えている。ある時モウセスは、心理的葛藤に耐えかねて、修屋での閉居修行からの退転の危機に直面した。相談を受けた師父イシドロスは、高台の上にモウセスを連れてゆき、西と東のそれぞれを見るように言った。西を眺めると「大騒ぎをしている無数の悪霊の群」が、逆に東を眺めると「栄光をたたえる無数の天使の大群」が見えた。イシドロスが言うには、西の悪霊よりも東方に布陣して聖人達を助ける天使の群が多い。そこで、モウセスは、神への感謝のうちに再び修道の決意を新たにする[17]。モウセスとイシドロスが、沙漠の只中で見たものは、修道者を助ける天使が「神・生命」を象徴する東に、誘惑者たる悪霊が「罪・死」を象徴する西に、相対して布陣するというヴィジョンである。〈中空に跳梁する悪霊の大群〉というイメージは『エフェソ書』(2: 2)を踏襲したものだが、ここで注目すべきは、修道者の視点が上下(地上と空中)ではなく、むしろ水平方向(東と西)へと展開されている点である。彼らの住まうスケーテイスから見て、天使が布陣する東とはナイル河畔の耕作地帯であり、悪霊が跳梁する西とは広大なリビア沙漠に他ならない。

 多くの研究者は、沙漠とは悪霊の跳梁する領域であると解釈する[18]。確かに、修道文献の伝える逸話の多くが、悪霊との遭遇・誘惑の場を沙漠の只中に設定していることは、事実である。しかし、沙漠を一義的に〈悪霊の領域〉として理解することは、修道者達の沙漠観を過度に単純化したものである。先に引用したモウセスとイシドロスの逸話が示すものは、このような沙漠理解ではない。この逸話における沙漠とは、世俗的環境では見えない誘惑と恩寵、悪霊と天使との対立が如実に実感される場所なのである。

4 祝福・安息の場としての「沙漠」

 アントニオスの弟子アンモナスの名で伝わる書簡は[19]、修道者にとっての沙漠の意義について示唆的な発言をしている。沙漠で修行に励む修道の先駆者達は、悪霊からの誘惑を体験したにもかかわらず、「寂静」という神の恩恵・祝福のゆえに、悪霊に屈することなく聖性の高みへと到達した。この恩恵・祝福の与えられる場とは何処か? それは、沙漠の只中に他ならない。これゆえに、修道の先駆者達は、古の預言者達同様に沙漠の奥深くへと隠遁したのだという[20]。つまり、沙漠とは、〈悪霊の跳梁する場所〉であると同時に、〈神の恩寵に浴する祝福の場所〉でもあるのだ。

 このような沙漠観は、アンモナスだけに留まらない。パラディオスによれば[21]、その預言者的カリスマで有名であった4世紀中葉の師父リュコポリスのヨアンネスも[22]、このような沙漠観を抱いていたという。ある時、パラディオスはヨアンネスの許を訪問し面談指導を受けていた。まさにその時、当地の高官が師父の祝福を求めて突如来訪した。ヨアンネスはパラディオスへの面接指導を中断し、高官の願いに応じて祝福とアドバイスを与えた。これに不審の念を抱いたパラディオスに師父は、以下の様に答えたという。

 なぜ君は立腹するのか? 私が間違っているか? 何故、君は、私にも君自身にもふさわしくないことを考えたのか? 君は知らないのか、聖書にこう書かれているのを? 「健康な者は医者を必要としない。病める者こそ医師を必要とする」。【ルカ5.31】(中略)私が君に慰めを与えなくても、君には他の師父達がいる。この世の事柄で悪魔に引き回されている長官殿は、あたかも逃亡奴隷のように束の間の安息を楽しんだに過ぎない。彼は、救われるためにここへ来たのだ。君の望みのままに長談義をして、彼を捨て置くのは見当違いなことだ。なぜなら、魂の救済に関して君はいつも自由だが、長官殿はそうではないのだ。[23]

 ヨアンネスにとって、高官が多忙を極める「この世」とは、悪魔が人間を虐待する場所である。対称的に沙漠とは、悪魔から逃れた俗人が、逃亡奴隷の様に束の間の安息を享受し、師父によって癒される解放の場所なのである。

 癒しと救済の場としての沙漠というイメージは、修道文献における師父達の事跡を記した聖人伝的逸話群においても、頻繁に見出されるものである。師父達の治病奇跡を記す逸話の大半は、重病や憑依に苦しむ都市・村落の住民が、沙漠の師父達のもとで奇跡的治癒の恵みに浴するというパターンで構成されている。沙漠における奇跡と癒しの可能性は、高度の哲学的・神学的素養を備えた修道者、例えばエヴアグリオス・ポンティコスにとっても期待しうるものであった[24]。彼は虚栄の誘惑の指標として、奇跡的治癒を求めてやって来る巡礼者達についての夢・妄想に言及している[25]。ここで彼が厳しく否定するのは、〈巡礼者の大群を奇跡的に治癒し喝采を浴びる光景の妄想〉に耽溺することであって、奇跡そのものの可能性ではない。深い神学的素養を持つエヴアグリオスのごとき修道者にとっても、沙漠とは奇跡を期待し得る場所なのである。このことからも、修道者達の沙漠理解が、一義的に沙漠を〈悪霊の領域〉とするもので、はなかったことは明らかである。

5 悪霊との闘い

 沙漠とは、世俗の日常生活においては感知し得ない悪霊の存在を顕にする場所である。では、この沙漠において顕になる悪霊に、修道者はどの様に対峙するのであろうか? 修道文献が伝える伝説的・カリスマ的修道師父の聖者伝的資料は、憑依現象や難病に苦しむ巡礼者に対する癒しの奇跡を伝えているが、指導的修道者達自身の著作や彼らに直接由来すると思われる語録資料は、修道者の心に去来する想念に潜む悪霊の誘惑とその対処法を専ら論じている[26]。アントニオスによれば、悪霊の攻撃を察知することは、心身における自然な衝動と不自然な衝動との識別に基礎を置く。大半の想念は身体の自然な動きへの不注意の結果に過ぎない[27]。しかし、これらの間に悪霊に由来する想念がまぎれ込んでいるのである。

 師父アントニオスは語った。「私の考えによると、体にはそれにふさわしく、しかも魂が望むことなしに生じる自然の動きがある。それは専ら情念を欠いた働きを体に示すだけである。また、別の働きがある。体が飲食物に充たされ温められ、続いて血液の熱が体を動かすことからくるものである。だから、使徒は言っている。『体を持ち崩すものとなる葡萄酒に酔いしれてはならない』。さらに福音のなかで主も弟子たちに命じている『あなた達の心が放蕩や深酒に鈍らないように注意せよ』。また、霊的に闘う人々には悪魔の計略と嫉妬からくる別の動きもある。それゆえ、肉体に三つの動きがあることを知らなくてはならない。即ち、第ーは自然的なもの。次は過度の食事から来るもの、第三は悪魔から来るものである。」[28]

 それゆえに、修道者の第一の仕事が、想念の識別であるとされる[29]。さらには識別そのものが、悪霊との対峙に他ならないとの理解さえ示されるのである[30]。

 修道文献における悪霊に関する叙述が情念論の文脈によってなされることから、少なからぬ研究者は、修道文献における悪霊論の「非神話化」・「内在化」を主張してきた。例えば、社会史家 P ・ ブラウンは、『師父の金言』の伝える語録資料を解釈し、「多くの偉大な師父達にとっては、直接的な悪霊体験というものは遠い予想であった。師父ポイメンは以下のように強く主張した。『我々の意志が悪霊になるのだ』」と述べ、修道文献における悪霊論の「非神話化」・「内面化」の側面を強調した[31]。彼のこのような判断は、果たして妥当なのであろうか? 問題となる箇所の全文は以下の通りである。

 師父アガトンの弟子である師父アブラハムは師父ポイメンに尋ねた。「どうして悪霊どもは私を攻撃するのでしょうか。」師父ポイメンは語った。「悪霊どもがあなたを攻撃すると言うのか。我々が自分の意思を行うのであるから、彼らが我々を攻撃するのではない。我々の意思が悪霊になるのである。意思を実現するために我々を攻めるのは、我々の意思なのである。しかし、悪霊どもがどんな者を攻撃するかを知りたいか。それはモウセスや彼と同じような者を攻撃する。[32]

 この語録資料は、修行の途上にある修道士の告白と、師父によるアドバイスを伝えるものである。自己の心理的葛藤を悪霊からの攻撃と判断した修道士は、師父に霊的指導を乞う。これに対する師父ポイメンの指導を敷衍するなら、以下のようになる。悪霊の攻撃対象とは、霊的に未熟な者ではなく、霊的な達人のみである。未熟な者の心理的葛藤とは、悪霊に由来するものではなく、本人の我意に過ぎない。この我意こそが悪霊としての機能を果たしているのだ。このような師父ポイメンの教えは、明らかに悪霊の外在性を前提としており、「悪霊の非神話化」という要素を見出すことはまったく不可能である。確かに、現代の我々の目から見れば、修道者が闘争を挑む相手とは、彼ら自身の心理的葛藤である。しかし、彼ら自身にとっての最終的に対峙するべき敵とは、想念を突破口として攻め寄せてくる悪霊に他ならないのである。

6 霊的向上の契機としての悪霊体験

 修道者にとって、想念を突破口に誘惑をしかける悪霊は、必ずしも単純に否定されるべき存在ではないとされる。このことは注目に値する。アントニオスの弟子の一人パウロスは、修練期間を優秀に満了した後、師父の住まいから離れた沙漠の只中に建てられた修屋に導かれて、次の様に言い渡されたという。「見よ、おまえは修道士になったのだ。悪霊達に試みられるために、ここに一人で留まれ」[33]。もし、悪霊の誘惑が否定的な側面のみを帯びるならば、修道者達は沙漠からこそ退去しなければならない。しかしアントニオスは、霊的基礎訓練を積んだ弟子に、悪霊の誘惑に直面せよと命じるのである。同様の理解は、先ほど見た師父ポイメンの語録資料や、アンモナスの書簡にも見られるものである。

 もし、見えるものであれ見えぬものであれ、誘惑が諸君に課せられなければ、諸君はすでに到達した境地以上には、進歩しないであろう。(中略)なぜなら、誰かが神から祝福を受けるなら、神からの祝福を奪おうと望む敵達が、即座に誘惑を投げかけてくるのである。事実、悪霊達は、祝福された魂が進歩するのを知って、密かにまた公然と敵対するのである。愛する者達よ、諸君に主の祝福が到来するなら、誘惑はそれに続くのである。だから、誘惑を克服するまで忍耐せよ。誘惑の克服は、諸君に大いなる進歩と諸徳の増大をもたらし、さらには、諸君の知らないような天的な大歓喜をも与えるであろう。[34]

 神からの祝福を受けた者には、悪霊が即座に誘惑を投げかける。誘惑とは、それを体験する者が有する高いカリスマを示す指標であり、その克服は、より一層の霊的向上にとって不可欠の契機ですらある。このような理解は、以下に引用する語録資料にも明確に示されている。心理的葛藤の減却を喜んで報告する者に、長老はそれを再び体験するようにと指導するのである。

 師父ポイメンが師父ヨアンネス・コロボスについて話していたところによると、彼は神に願い、自分の情念が除かれると、もはや、心配はしなかった。そうして、ある長老の所に行って言った。「私は気が静まり、何の闘いもありません。」すると長老は語った。「行って、あなたがまえに持っていた悩みと謙虚と同様に、闘いがふたたび、戻ってくるよう神に願いなさい。魂が進歩するのは闘いによるからです。」そこで、彼は神に願い、闘いがやってくると、もはやそれが除かれることを祈らず、こう言った。「主よ、闘いに際して忍耐をお与えください。」[35]

 修道者の営みとは、誘惑に対する不断の克服であり、それは終生にわたる絶え間ない戦いの過程である。このような教えは枚挙に暇がないが[36]、不断の闘いを勝ちぬくには、戦況を明確に見定めることが必要とされるはずである。アントニオスは、日常生活における感覚的刺激のもたらす葛藤のない沙漠の環境が、悪霊との霊的戦いを先鋭化させると主張する[37]。エヴァグリオスも同様に、隣人との葛藤のない沙漠においてこそ、悪霊は修道者の精神に直接襲いかかってくると主張する[38]。不可視の霊的現実が顕在化されるゆえに、沙漠は、悪霊との戦いという修道者の使命を果たす上で、最も望ましい場所なのである。

7 むすび:「世界」への配慮・「沙漠」からの慈眼

 悪霊との闘いを先鋭化するべく、「この世」から離れ沙漠の彼方へと隠遁する修道士。彼らの言動は、時として、世界否定や人間嫌悪に基づくかに見えることがある。例えば、修屋での閉居修行を貫徹するために夜道に迷う者の助けを拒絶した修道士ナタナエル[39]、「修行の妨げ・わずらわしさ」を理由に聖職叙任を謝絶せよとパラディオスにすすめるリュコポリスのヨアンネス[40]、主教職就任を懇願する近隣住民の懇願に対して耳を削ぎ落としてまで拒絶を貫く者や[41]、修屋からの外出と都市・村落への訪問を致命的な危険とするアントニオス[42]や隣人との交際を危険視するフェルメの師父テオドロスの発言[43]などは、一見すると、宗教的利己主義の表明であるかのようにも見える。

 しかし、「この世を捨てた」真の修道者は、決して宗教的利己主義者ではない。アントニオスと並ぶ修道の先駆者、エジプトのマカリオスに帰せられる語録は、このことを雄弁に伝えている。ある時、訓話を懇望された師父マカリオスは、自分はまだ修道者とは言えないが、かつて本当の修道者に会ったことがあると言い、沙漠の彼方で遭遇した2人の隠修者について語った。孤独な修行生活を送る裸形の2人は、40年前に周囲の承諾を得て「世のすべてのものを捨て」、酷寒酷暑に耐えつつ究極の隠遁修行に入ったと告白した。マカリオスの願いに応じて身の上を語った後、彼らはこう尋ねたという。「世間はどうですか? 雨は適当な時期によく降りますか? 世間は繁栄していますか?」[44]

 マカリオスにとって、沙漠の彼方で孤独な修行生活を続けるこの裸形の苦行者達こそ、「世のすべてのものを捨てた」真の修道者である。しかし、この裸形の苦行者達は、「世間」つまり俗世間の人々の仕合せ、それも宗教的なそれではなく生活者としての仕合せを真っ先に尋ねている。「世のすべてを捨てる」ことと、世俗の人々に対する慈愛にみちた関心を抱くこととは、矛盾しない。いや、むしろ修道の理念の核心においてこれらは両立するのである。

 聖職者として都市・村落の俗人の世話をすることを「修行の妨げ・わずらわしさ」と退けたはずのヨアンネス自身も、沙漠の隠遁所の傍らに百人もの巡礼者を収容可能な面会室を設け、週末ごとに訪問者の求めのままに、面談指導や相談あるいは祈祷治療などを行なった[45]。修道者の外出を誡めたアントニオスも、沙漠に点在する修道者の共同体を準定期的に巡回し、後進への指導と同時に一般人へのカウンセリングや祈祷治療を行なった[46]。さらに彼は、教会政治にも積極的に介入し、アタナシオスの側に立ちアレイオス派への論難を行なっているのである[47]。閉居修行を貫徹したナタナエルにしても、悪霊からの誘惑(パラディオスによれば、件の迷子は悪霊の化身であった)を受けたのは、彼が隣人愛に大きな価値を置いたがゆえであった[48]。また、人間嫌いであるかに見えるフェルメの師父テオドロスも、隣人への尊敬を第一の徳であるとし、修屋への閉居が隣人蔑視に基づいてはならないことを主張しているのである[49]。これらのことを踏まえるならば、彼らもまたマカリオス同様の理解を有していたことは、明らかである。

 では、この世に対して慈愛の眼差しを注ぐことと、この世から離れて沙漠に留まることは、どの様に両立するのか? 換言するならば、日常世界としての〈この世〉に対する異界としての〈沙漠〉は、修道者にとってどの様な意味を有するのか?

 本論文のはじめで、沙漠への隠遁は〈死の領域〉への沈潜で、あると述べた。しかし、このことは、単に静的な〈死〉の状態に留まることを意味しない。古代キリスト教の象徴体系において、〈死〉は常に〈復活〉と表裏一体のものとして認識されていた。キリスト者のアイデンティティーを形成する洗礼の儀式が、このことを示唆する。洗礼水槽の水底へと沈潜することは、悪魔の力を滅ぼす〈イエスの死〉への参入であり、そこから浮上することは〈イエスの復活〉を共有することである[50]。洗礼水槽が象徴する〈死〉は、聖にして大いなる可能性を秘めた秘儀の領域である。〈死〉の体験は、洗礼で完結するものではない。洗礼を受けることは、「イエスの死」を告げる聖餐儀礼[51]への参入をも意味する。〈死の秘儀〉への沈潜は、継続されるべきものなのである。アタナシオスは、悪霊の誘惑を打破して墓穴から姿を現したアントニオスの姿を「秘儀を授けられて神殿から出て来た者」に譬えている[52]。この箇所における「秘儀」の比喩の背景には、洗礼のイメージがあると思われる。洗礼による〈死〉の体験が、聖餐によって継続されるべきものであるのと同様に、象徴的死によって〈この世〉から離脱した修道者も、離脱としての〈死〉を継続すべく沙漠の彼方へと隠遁の度合いを深めて行った。この〈死〉は、彼らの沈潜する「イエスの死」がそうであったのと同様に、悪霊との戦いを意味するものであった。したがって、自己の修道の営みを「この世を神と和解させる世界規模の悪魔払い」[53]と理解する彼らにとって、「この世」は慈愛の対象である。「この世」が慈愛の対象であるがゆえに、これを救うべくここから自己を引き離し、聖にして大いなる可能性を秘めた秘儀の領域たる沙漠に留まるべきである、と彼らは理解した。初期キリスト教修道制の修道者達にとって、異界としての沙漠とは、〈生活世界とのより根源的な関与を実現させる象徴的空間〉であったと理解することができるであろう。



略号
PG.  Patrologia Graeca
PO.  Patrologia Orientalia
SCh.  Sources Chrétiennes


[1] エンクラティズムと一群の外典使徒行伝(特に『アンデレ行伝』・「ぺトロ行伝』・『パウロ行伝』・「トマス行伝」・『ヨハネ行伝』)との関係については、大貫降『グノーシス考』岩波書店、1999年、34- 47頁を参照のこと。
[2] Diogenes Laertius, Vitae Philosophorum, VI. 37.
[3] Porphyrius, Vita Plotinii, 7.
[4] Porphyrius, Vita Plotinii, 12.
[5] 独住型は、沙漠の只中で「修屋(ケリオン)」と呼ばれる小屋に一人閉居し、断食・手仕事・祈り・沈黙に専念する修行形態で、アントニオス(251年頃-356年頃)やその弟子達に代表される形式である。半独住型は、師父と見なされる修道者のまわりに若干名が集まって指導を仰ぎつつ、各自の修屋で隠修者同様の修行に専念するもので、ナイル下流西岸の沙漠地帯に展開した修道者集落ニトリア・ケリア・スケーティスにおいて一般的であった。スケーティスは、『師父の金言(Apophtegmata Patrum)』においてしばしば「大いなる沙漠(panerêmos)」とも呼ばれ、アレクサンドリアの南方約65kmに位置し、現在のワディ・ナトルンにほぼ相当する。330年頃、エジプトのマカリオスによって開かれた。その名は、「心を吟味すること」を意味するコプト語の表現shi hêtに由来するという。ニトリアは、同地で産出する天然ソーダ (ナトロン)にその名が由来し、アレクサンドリアの南東約65km、現在のダマンブールから約16km南方に位置する低地で、隠修士アムーンによって、325年から330年頃に開かれた。ケリアは、ニトリアの南西約20kmに位置し、そこに多く存 在した「修屋(ケリオン)」からその名を得た。これらの修道者集落に関する地理的・考古学的な研究については以下を参照。H. Evelyn-White,The Monasteries of Wadi'n Natr[u]n, Pt. 2,The History of the Monasteries of Nitria and Scetis, N. Y., 1932; C. Aerled,“Scetis" in The Coptic Encyclopedia, ed., A. S. Atiya (N. Y.,Macmillan, 1991)7: 2102-2106; A. Guillaumont et aI.,“Kellia" in The Coptic Encyclopedia, ed., A. S. Atiya (N. Y., Macmillan, 1991) 5: 1396-1410; A. Guillaumont,“Histoire des moines aux Kellia." in Aux origines du monachisme chrétien: pour une phenomenology du monachisme (SO. 30) Bégrolles-en-Mauges: Abbaye de Bellfontaine, 1979, pp.151ー167; idem,“Nitria" in The Coptic Encyclopedia, ed., A.S. Atiya (N. Y., Macmillan, 1991) 6: 1794-1796; P. Miquel, ed., Désert chrétiens d'Egypte, Nice, Culture Sud, 1993; W. Harmless, Desert Christians: An Introduction to the Literature of Earley Monasticism,Oxford, 1994, pp.173-186,278-304.
[6] 複数の修道者が上長のもとに共同体を構成し、塀と門扉で隔絶された境内地(複数の大型修屋と農園・工房からなる)の内側で、高度に分業化・システム化された労働と礼拝で構成される日課による修道生活を送った。パコミオスの共同体については以下を参照。A.Veille山, ed., Pachomian Koinonia: the Lives, Rules, and Other Writings of Saint Pachomius. (Cistercian Studies 45-47) Kalamazoo, MI: Cistercian Publications, 1980-1982. V. Deprez, "Pachomian Cenobitism," American Benedictine Review 43,1992, pp.233-249, 358-394. J. E. Goehring, Ascetics, Society, and the Desert: Studies in Early Egyptian Monasticism. Trinity Press International, Harrisburg, PA, 1999. Ph. Rousseau, Pachomius: The Making of a Community Egypt. (Transformation of the Classical Heritage 6, rev. ed.) Berkeley: University of California Press, 1999
[7] Apophtegmata Patrum, Achilas 3 (PG. 65, 124C-D); Apophtegmata Patrum, 187 (Nau, ed., pp.272f.).
[8] Historia Monachorum in Aegypto, 1, 2 (Festigère, ed., pp.31, 37).
[9] Ammonas, Ep. 1,2 (Nau, ed., pp.l02王).
[10] Athanasius, Vita Antonii, 8 (G. J. M. Bartelink, ed. Athanase d'Alexandrie, Vie d'Antoine, Introduction, texte critique traduction, notes et index. SCh. 400, Paris, Cerf, 1994, pp.156ff). 同様のモティーフは他の修道者伝にも散見される。cf. Ps-Athanasius, Vita Synctericae, 11 (PG. 28. 1492D-1493A), etc.
[11] Athanasius, Vita Antonii, 14 (Bartelink, ed. pp.l72ff.).
[12] Porphyrius, Vita Pythagorae, 35 (A. Nauck, ed., Poryphyrii Philosophi Platonici Opuscla Slecta, Teubner, 1886, pp.35f.).
[13] R. Reizenstein, Des Athanasius Werke über das Leben des Antonius. Ein philologischer Beitrag zur Geschichte des Mönchtums (Sizungsberichte der Heidelberger Akademie der Wissenschaften, Philophisch-historische Klasse, Jahrgang 1914, 8 Abhandlung), Heiderberg, 1914, pp.14-19.ただし、戸田の指摘の通り、『アントニオス伝』と『ピュタゴラス伝』との並行性はこの1箇所のみに見られるものである。戸田聡「古代末期におけるキリスト教修道制の成立 — 詳論」(豊田浩志編『キリスト教修道制 — 周縁性と社会性の狭間で』上智大学、2003年、1-40頁) 23頁 以下参照。
[14] E. Patlagean, “Ancienne hagiographie byzantine et histoire sociale." Annales, E. S. C. 23, 1968, pp.106-126, esp. pp.112ff. 及び、足立広明「『聖人伝』に現れる沙漠の苦行僧 — 古代末期東地中海世界の社会変容におけるその役割 — 」『史林』72、 1989年、765 - 807頁、特に779頁以下を参照。
[15] W. E. Crum, ed., Coptic Dictionary, Oxford, 1939, pp.440f.
[16] 『師父の金言(Apophtegmata Patrum)』は、様々な修道者の逸話や名言を収録した語録集である。成立時期については、諸説あるが概ね4世紀末から5世紀と推測されている。収録された逸話の配列や異同によって複数の集成に分かれており、各集成の本文伝承や依存関係についてはいまだ未決の問題が多いが、これについては本論文の目的ではないので割愛する。本論文では、ギリシア語版アルファベット順集成(PG.65. coll. 71-440に収録)と、Nauの校訂によるギリシア語無名集成(F. Nau, “Histoire des solitaires égyptiens," Revue d'orient Chrétien, 12, 1907, pp.48-68, 171-181,393-404; 13, 1908, pp.47-57, 266-283; 14, 1909, pp.357-379; 17, 1912, pp.204-211, 294-301; 18, 1913, pp.137-146)を資料として考察を進める。
[17] Apophtegmata Patrum, Moyses 1 (PG. 65, 281B-C)テクストの翻訳が本書、117 頁に引用されているので参照。
[18] I. Keimer, “L'horreur des Égyptiens pour les démons du désert", Bulletin de l'Institut d'Égypte, 26, 1944, pp.135-147; A. Guillaumont,“La Conception du désert chez les moines d'Égypte", Revue de I'Histoiredes Religions, 188, 1975, pp.3-21. esp. pp.12f.; K.Heussi, Der Ursprung des Mönchtums, Tübingen, 1936, pp.111ff.
[19] アンモナス(生没年不詳)は、アントニオスの弟子の一人。師の没後、ナイル中 流域のピスピル地方に散在する修道者達の上長となり、後に主教に推戴されたともいう。彼の名を冠する書簡集が、シリア語版とギリシア語版で伝わっている。この書簡集がアンモナスの真作であれば、成立時期は350年頃から370年代中頃となるが確証はない。Klejnaの推測によれば、現存するギリシア語版は、大幅な事後的編集にもかかわらず、原著者の用語法をある程度正確に伝えている。なお、本稿では、Nauによるギリシア語批判版(F. Nau, ed., Ammonas: Successeur de Sanite Antoine, PO. 11. 4, Paris, 1913)を参照した。この書簡集の著者問題・テキスト伝承等については以下を参照。F. Klejna, “Antoniusund Ammonas: Eine Untersuchung über Herkunfit und Eigenart der ältesten Mõnchsbriefe", Zeitschrift für katholische Theologie, 62,1938, pp. 309-348.
[20] Ammonas, Ep. 1. 1-2 (Nau, ed. pp.103f.).
[21] パラディオス(365年頃-432年以前)は、ガラテイア出身の修道士。388年頃から400年の間エジプトで修道生活を送った後、400年頃ビテュニアのへレノポリスの主教に推戴された。エジプト滞在中は、高名な修道神学者エヴアグリオス・ポンテイコスに師事していた。主著『ラウソスに献じる修道者列伝(Histaria Lausiaca)』は、エジプトでの修行時代に見聞した修道者達の逸話・伝記を、テオドシウス2世の式部官ラウソスの求めに応じて集成したもの。作者不詳の『エジプト修道者列伝(Histaria Manachorum in Aegypto)』と並んで、4世紀における修道制の展開に関する一級資料である。本稿では、Butler (C. Butler, ed., The Lausiac history of Palladius. II. TheGreek Text edited with Intraduscian and Notes, Cambridge, 1904)及びFestigère (A. -J. Festigère, ed., Histaria Monachorum in Aegypto, Edition Critique du Texte Grec, Subsidia Hagiographica 34, Bruxelles, 1961)による校訂本に依拠して考察を進める。
[22] アウグスティヌス(De Civitate Dei, V, 26)は、ヨアンネスによる〈テオドシオス 2世の戦勝〉の預言について言及している。
[23] Palladius, Historia Lausiaca, 35 (Butler, ed., pp.102f.).本書、121頁も参照。
[24] エヴアグリオス(345年頃 399年または400年)は、小アジア・ポントス州出身の神学者である。没後の異端宣告にもかかわらず、東西キリスト教の神秘思想・修道理論に多大な影響を及ぼし続けたことで知られる。少年期に、カエサリアのパシレイオスやナジアンゾスのグレゴリオスから教育を受け、後者によって輔祭に叙任された。パシレイオス没後、コンスタンティノポリスの大主教として栄転したグレゴリオスに仕え(380年頃)、グレゴリオスの引退後は(381年)、後任者ネクタリオスに仕えたが、382年突如出奔。エルサレムを経て、383年頃エジプトへ移住。ナイル下流域沙漠地帯の修道集落で隠修生活に入り、オリゲネス主義を奉ずる修道者達と交友しつつ著作活動を行なった。オリゲネスの神学に基づく特異な神学的形而上学のゆえに、生前から教会当局によって危険視された。没後断続的に繰り返された断罪 — テオフィロスとエジプト教会会議による断罪(400年)、ユスティニアヌス帝と第2コンスタンティノポリス公会議による異端宣告(553年)等 — によって、神学的形而上学を扱った著作群はシリア語訳などを残してギリシア語原典は散逸し、修徳書はアンキラの聖ネイロス等の偽名による伝承を余儀なくされた。
[25] Evagrius, Practicus. 13 (A.Gu出aumont, et al., eds., Traité pratique ou Le Moine, II, edition critique du texte grec, traductian, commentaire et tables. SCh. 171, Paris, Cerf, 1971, pp.528ff.). 「虚栄心の想念はきわめて微妙な代物であり、立派に生活してい る者たちにも容易に忍び寄るものである。つまり、その想念は、内面の戦いを人々の前に公表することを欲し、人間の誉れを求め漁り、また声を挙げている悪霊どもや、癒された女や、彼ら修道者の衣服に触れようとする群集などを思い描くのである。……」(佐藤研訳、上智大学中世思想研究所編訳『中世思想原典集成3 — 後期ギリシア教父・ビザンティン思想』平凡社、1994年、41頁)。
[26] エヴアグリオスの修徳神学的著作『想念について(De Malignis Cogitationibus)』や『修行論(Practicus)』等は、まさにこの問題を主題としている。
[27] S. Rubenson, The Letters of St. Antony: Monasticism and the making of a saint Minneapolis, Fortress Press, 1995, pp.87f.
[28] Apophtegmata Pat叩m, Antonius 22 (PC. 65, 83A-B)訳文は、古谷功訳『沙漠の師 父の言葉』あかし書房、1986年、32頁。本書、133-134頁も参照。
[29] Apophtegmata Patrum, 93 (Nau, ed., p.402). 「ある人が長老に尋ねた『修道士がすべきこととは、何でしょうか?』長老日く『識別である。』」
[30] Apophtegmata Patrum, 99 (Nau, ed., p.402). 「長老達が言った。君にやってくる全ての想念に対してこう言え。『おまえは我々のものか? それとも敵のものか?』そうすれば想念は、自らの素性を自白するであろう。」
[31] P. Brown, Body and Society: Men, Women and Sexual Renunciation in Early Christianity, Columbia Univ. Press, 1988, p.226. 大貫(前掲書、57頁)は、悪霊に関する非神話化・内面化が行なわれている事実を指摘する一方、悪霊論の内面化のみを一面的に強調することを戒めている。本書、135-137頁も参照。
[32] Apophtegmata Patrum, Poemen 67 (PC. 65, 557B-C).訳文は、古谷前掲書338頁以下。
[33] Palladius, Historia Lausiaca, 22 (Butler, ed. p.73)
[34] Anmmonas, Ep. IV. 1-2 (Nau, ed., pp.139f.)
[35] Apophtegmata Patrum. Johannes Colobus 13 (PC. 65, 207B-C).訳文は、古谷前掲 書179頁。
[36] Apophtegmata Patrum, Antonius 4-5 (PC. 65, 77 A); Anmmonas, Ep. IV. 3 (Nau, ed., pp.149f.), etc.
[37] Apophtegmata Patrum, Antonius 11 (PC. 65, 77C).
[38] Evagrius, Practicus. 5 (A. Cuillaumont, et aI., eds., pp.504f.).
[39] Palladius,Historia Lausiaca, 16 (Butler, ed. ppA2f.).
[40] Palladius,Historia Lausiaca, 35 (Butler, ed. pp.104f.).
[41] Historia Monachorum in Aegypto, 20 (Festigère, ed. pp.122f.)古代の教会は、去勢・身体の毀損を自発的に行なった者の聖職叙階を禁止する法令を断続的に制定していた。この問題に関しては以下の論文を参照。D. Carner,“The Practice and Prohibition of self-castiration in Early Christianity",Vigiliae Christianae, 51, 1997, pp.369-415.
[42] Apophtegmata Patrum, Antonius 10 (PG. 65, 77B-C). 「魚が乾いた所にいつまでもいるならば死んでしまう。同様に修屋の外をうろつき、世間の人と暇をつぶしている修道者たちは寂静の状態を捨てる。我々は外をうろついて内心の見張りを忘れるのを恐れ、海に戻る魚のように、自分の修屋へと早く戻らなければならない。」訳文は、古谷前掲書、26頁。
[43] Apophtegmata Patrum,官leodorus Phermensis 5 (PC. 65, 188A). 「人がフエルメの師 父テオドロスについて話していたところによると、彼が他のものよりも重要と見なしていたものは、清貧、苦行、人闘を避けることである。」訳文は、古谷前掲書、156頁; ibid. 15 (194A). 「私が同情の気持ちを断ち切らなければ、それは私を修道 者にさせない。」訳文は、古谷前掲書、159頁。
[44] Apophtegmata Patrum, Macarius 2 (PG. 65, 260B-D).訳文は、古谷前掲書、245頁以下。本書、131-142頁も参照。
[45] Palladius,Historia Lausiaca, 35 (Butler, ed. pp.102f.)
[46] Palladius,Historia Lausiaca, 21 (Butler, ed. pp.65ff.).
[47] Athanasius,Vita Antonii, 69 (Bartelink, ed. pp.314ff.).
[48] Palladius,Historia Lausiaca, 16 (Butler, ed. pp.42f.).
[49] Apophtegmata Patrum, Theodorus Phermensis 13, 14 (PG. 65, 189D-192A).
[50] ロマ書6 : 3-14 ; Cyrillus Hirosolymitanus,Catecheses Mystagogicae, 2:4; Cregorius Nyssenus,Oratio Catechetica, 35-36, etc.
[51] 第一コリント書11 : 23-26、Joannes Chrysostomos,Homiliae in Heb., 17: 4, etc.
[52] Athanasius, Vita Antonii, 14 (Bartelink, ed. pp.172ff.)
[53] 大貫前掲書、60-62頁。
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