『修道者に寄せる規定ないし勧告(Institutio sive Paraenesis ad monachos)』
短言の列挙 (recensio brevior)



[底本]
TLG 4110 025
Institutio sive Paraenesis ad monachos (recensio brevior), MPG
79: 1235-1240.
(Cod: 737: Eccl.)





79.1236."1t"
聖徒たちのうち、わたしたちの同じ師父
79.1236."2t"
ネイロスの
79.1236."3t"
『修道者に寄せる勧告』

79.1236.7
 食べ物の不節制を切除するのは断食、邪淫の放縦除去するのは、祈りをともなう節制。

79.1236.10
 愛銭、つまり、偶像礼拝の母をいっしょに抑えるのは無所有(aktemosyne)、身体的思いわずらいを切除するのは、「神」に対する希望。

 さまよい出る理性をいっしょに抑えるのは、「神」の語録の朗読と、祈りをともなう徹宵とである。

 しかし気性の突撃をやわらげるのは、気長さと詩篇唱和。

 怯懦をよく知るのは堅忍と落涙、しかしこの世の悲しみを沈黙させるのは、諸々の快楽に対する憎しみ。

79.1236.20
 客人歓待〔心〕を所有するのは、支配愛とか卓越した地位とからの離反であるが、傲り、すなわち支配的悪、すなわち「主」の面前において忌まわしいもの — 「神」もこれに反対さなる — を阻止するのは、はかり得ないへりくだりである。これ〔=へりくだり〕は言う。「わたしは土くれであり灰にすぎない」〔Gen. 18:27; Job 30:15, 42:6〕。さらにまた、「「主」が家を建てられるのなければ、建てる者の勤労はむなしく」〔Ps. 126:1〕、守ろうとすることも〔むなしい〕。

 濁らされた水は、じっと揺り動かされないままでいなければ、浄化されることができないように、修道者の境涯は、寂静なしには、悟ることができない。

 競技者は、角力をとることなしには、花冠を受けることができない〔2Tim. 2:5〕。そのように、闘いなしに、クリストス教徒たることはできない。

 天秤の棹は等しくなく、一方の部分が重いように、「神」のいましめがまっすぐになることはない。肉の思い(phronema)が優勢であるときには。

 注意深く専心しなければ、術知を学ぶことはできないように、直き心によって「神」のために自制しなければ、祈りを所有することはできない。

 清浄な祈りを所有していない人は、戦争の武器を所持しない。

 「神」の諸徳から離れて飾りつけられ、掃き清められているものは、ダイモーンたちのすまいである〔Matt. 12:44〕。

 貧乏人の家に王は住むことができないように、クリストスは、罪に汚された魂の中に住めないであろう。

 馴致していない場所は、注意深い愛労によって馴らされるように、諸々の罪のせいで野性的となった魂は、「神」の律法にしたがって行住坐臥をすれば、馴らされる。

 海中にある岩は固定しつづけ、波浪にもまれても揺るぎないように、諸徳を修得し、それ〔諸徳〕によって完全に確保されれば、悪魔に揺るがされることがない。

 医者が、情念〔病状〕の治療のために薬を思案するように、「神」の覚知も、保持されれば、これ〔覚知〕に与る者に教える。いかにすれば守り通され、より大きく前進できるかを。

 奔流は、みずからの通路をつくりだすように、受け継がれた罪も、その〔罪の〕所有者の破滅をつくりだす。

 網にかかったシカが、簡単には逃れられないように、諸々の欲望を遂げ、この世に舞い戻る人は、罪を逃れられることは決してない。なぜなら、諸々の邪悪なる欲望や快楽は、ほどきがたい鎖だからである。

 ブドウは、美しき実を結ばなければ〔Matt. 3:10〕、切り倒される。その場所を疲弊させないために。そのように、聖なる「霊」の実を結ばない人も〔Gal. 5:22〕、すべて、「主」から根こそぎにされるであろう。

 人間が、矢弾に撃たれながら、害されないですむ術がないように、修道者が、邪悪なる想念を受け容れながら、傷つがずにすむことはできない。

 まっすぐな道を外れた者は、どこを進んでいるのか識らなければ、よその土地をさまようように、人間も、同質の「三位一体」を信じなければ、道に迷う。

 あるものが多数に分割されても、自然本性は一つであるように、聖なる「三位一体」も、諸々の名前や実体(hypostasis)に分割されても、自然本性は一つである。「神」の自然本性をあなたは理解しない、たとえ翼で飛ぶことができても〔あなたは理解しない〕。「神」は理解不可能である。これこそ、わたしたちの創造者である所以である。

 こしらえられた容器は、こしらえた人の初めや自然について無知であるように、人間も、「神」の自然ないし初めを見いだすことはできないであろう。

 「三位一体」を詮索するな。むしろ、ただ信じ、跪拝せよ。なぜなら、詮索する者は、信じないのだから。

 知恵(sophia)を所有せよ。銀子を所有するな。わたしたちの「主」、クリストスの光り輝く着物ををば、いかなる亜麻布をも超えているとせよ。〔亜麻布は〕所有しても、死の日に役に立たないのだから。

 火が雑木林を焼き尽くすように、罪人はみな、永遠の火に焼き尽くされ、終わることができない。なぜなら、不死にして、拷問を受けるからである。わたしたちが義人であるとしても、何ら大したことではない。わたしたちは「神」によって最初に造られ、はなはだ美しい〔Gen. 1:31〕ということ、そういうことにわたしたちはなったのだから。???

 自然に反して生きる人は、「神」のいましめを守らない。

 まったき知恵とは、「主」を畏れることである〔Ecclus. 1:14〕。「主」の律法を教えない教育はすべて、愚であり、無知慮である。

 信と、永遠の火の洗礼は、義の働きなしには、救いとならない〔Jas. 2:14-26〕。なぜなら、クリストスと共に配置につこうとするなら、その〔クリストスの〕いましめを守れ、そして、招来のことを信ずるなら、永遠の栄光のために努力し、炎の剣を畏れよ〔Gen. 3:24〕。しかし、「神」の下知をまっすぐに行わないなら、あなた自身を信実な者と言うな。

ありとあらゆる被造物は、「神」の下知に聴従するが、人間のみは、聴従しない。万物が彼のために生じたので。

 わたしたちが自分自身を聖者として守ろうとするなら、「神」に何ものをももたらさず、自分自身を命でもてなし、永遠の善きものらの言語に絶する享楽で〔もてなそう〕。

 云うなかれ、 — 父のせいで、あるいは母のせいで、あるいは妻のせいで、あるいは子どものせいで、あるいは他の何びとかのせいで、「神」のいましめを守ることができない、と〔Luke 14:20〕。なぜなら、かの人々は、さし迫った怒り、不滅の蛆虫から〔Isa. 66:24, Mark 9:48〕あなたを救うことはないのだから。だから、「神」と諸徳の成就(katorthosis)に反対するものすべてをして、あなたにとって忌まわしいもの、憎むべきものとせよ。こういうものとは、いっしょに食事をすることさえ美しくない。

2005.03.08. 訳了。


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