title.gifBarbaroi!
back.gif

原始キリスト教世界

全異端反駁(巻5)





5.26

(1) この者〔ユスティノス〕が謂う。万物の不生の始原が3つ、すなわち二つの男性的なのと一つの女性的なのがあった。男性的なののうち、一つの<>が善と呼ばれ(これだけがそう呼ばれる)、万物を予見するものであるが、別の方のは「生まれた万物の父」と呼ばれ、予知せざるものとか<知られざるものとか>、見られざるものとか〔呼ばれる〕。他方、女性的なのは、予見せざるもの、怒り易いもの、二つの心を持つもの、二つの身体を持つもので、全体にへーロドトスの物語〔IV,8-10〕の<少女に>酷似していて、隠部に至るまで処女であるが、 (2) 下部は蝮であると、ユスティノスは謂っている。この乙女の方はエデムとかイスラエールと呼ばれる。これらが、彼〔ユスティノス〕の謂うには、万物の始原、根元、源泉であり、そこから有るものらが生じた。これなしに何ものも存在しなかった。ところで、父は、かの半処女すなわちエデムを見、予見せざる者であるので、彼女への欲情に陥った — 欲情に燃えた — エローエイムと呼ばれるのはこの父のことだと彼〔ユスティノス〕は謂う —。<片や>エデムも劣らずエローエイムに欲情し、欲情が彼らを (3) 愛の一つ思いへと結びつけた。このような結合により、エデムから自身のために生んだのが、12柱の天使であったが、父系の天使の名とは、以下のものらである。ミカエール、アメーン、バルゥク、ガブリエール、エーサッダイオス、 (4) <*> また、エデムが造った母系の天使たちの〔名〕の名も同様に伝えられていて、以下のものらである。バベル、アカモー卜、 ナアス、ベール、ベリアス、サタン、サエール、アドナイオス、力ウィタン、パラオート、カルカメノース、ラテン。 (5) 以上、24柱の天使のうち、父系の天使たちは父を補佐し、万事その意思どおりに行なうが、母系の天使たちは、母エデムにそうした。これらすベての天使の集団こそが、彼〔ユスティノス〕が謂うには、パラデイソスであり、これについてモーセースが言っている。《神はエデムの東にパラデイソスを樹立したもうた》。すなわち、エデムの前に、エデムがパラデイソスを — すなわち、天使たちを — (6) いつでも見つめられるためにである。<というのは>このパラデイソスの天使たちは寓意的に樹木と呼ばれており、生命の樹<とは>天使たちの3番目のもの、すなわちバルゥクであり、美と邪悪の知を知る樹とは、母系の天使たちの第3のもの、ナアスである。というのは、〔ユスティノスは〕モーセースの〔言葉〕を解釈すべくこういうふうに受け取って曰く。モーゥセースがこれらのことを包み隠して云ったのは、万人が真理を受け容れるわけではないので」。

(7) しかし、彼〔ユスティノス〕が謂うには、エローエイムとエデムと<の>共通の満悦からパラデイソスが生じたとき、エローエイムの天使たちが、最美の土から — すなわち、エデムの獣的部位からではなく、隠部の上にある、土の人間的にして温和な区画高貴な区画から — 取って、人間を造った。他方、獣的部位からは、彼〔ユスティノス〕が謂うには、 (8) 獣と自余の動物たちが生じた。さて、彼ら〔エローエイムとエデム〕はは人間を自分たちの合一と好意の象徴として造り、その中に自分たちの力能を、すなわちエデムは心魂を、エローエイムは霊を据えた。かくて、彼らにとって一種の封印のごとく、エデムとエローエイムとの愛の記念とも結婚の永遠の象徴ともなったのが (9) 人間、つまりアダムである。エウァも同様に、と彼〔ユスティノス〕は謂う、モーセの書に書かれているとおり、エゥアの似像にして象徴、永遠に守護する封印となった、似像たるエゥアの内にも、エデムからは心魂が、エローエムからは霊が据えられたからである。そして彼らに訓戒が与えられた。《増えよ、満ちよ、そして地を嗣げ》つまりエデムを〔嗣げ〕、と。 (10) そのように書かれていると彼〔ユスティノス〕は思っているからである。すなわち、自分の全力能を、あたかも財産のごとく、結婚に際してエデムはエローエイムにもたらした。ここからして、彼〔ユスティノス〕が謂うには、あの最初の結婚を記念して、今日に至るまで女たちは男たちに持参金を持参するのである、エデム<から>10エローエイムのもとに一種神的にして父祖伝来の律法にしたがって。

(11) さて、天と地と、それらの中にあるものらすべてが、モーゥセースの書に書かれているところであるが、創造されたとき、母の12柱の天使たちは「四つの始原に」分けられ、それらの1/4部分がそれぞれ川と呼ばれた。ペイソーン、ゲオーン、ティグリス、エウプラテースがそれであると、彼が謂うには、モーゥセースがそう言っている。<また>これら12柱の天使たちは、<互いに>4つの組をなし、この世を巡廻し司る、エデムからこの世に対する一種の太守的権力を保持しているからである。 (12) というのは、彼らは常時同じ場所に留まることはなく、輪舞する合唱隊のように<全地を巡り>、場所から場所を変えて、諸々の時間のなかを<互いに>避け合いつつ、自分たちに割り当てられた諸々の場所に分かれているのである。しかし、ペイソーンが諸々の場所を支配する時、<彼〔ユスティノス〕が謂うには、>飢え、艱難、困窮が大地のその部分に (13) 生じる。吝嗇がこれらの天使たちの任務だからである。同様に、四つの各部分<に>も、それぞれの<川の>カ能と自然本性に応じて、悪しき時機と諸々の病いの状態が<生ずる>。これこそが、あたかも悪の流れのように[永遼に]1/4の川の意志に応じ、エデムの意志に従って、絶えることなくこの世を巡っているのである。

(14) ところで、悪の必然性は次のような一種の原因から生じたのである。エローエイムは共通の満悦からこの世を拵え造化したうえで、天の高い部分に昇って (148) 、創造において欠けるところが何かなかったか観ようと思ったのだ、〔そこで〕自分の天使たちを伴ない、上方に向かった — <しかし>エデムは下に残して — 無駄だったからである、なぜなら大地なる彼女は、上方へ伴侶に随伴しようとしたが、 (15) <できなかった>からである。— さて、エローエイムが、上方、天の境界に至って、自分が造った光よりも勝った光を観て云った。《わたしに門を開けよ、参内して主に感謝するために。わたしは〔自らを〕主と (16) 思っていたからである》。<すると>彼に光から声が与えられた、曰く。《これが主の門、義人たちがここから入る》。そしてただちに門が開いた、そこで父は<自分の>天使を伴なわずに善なる者のもとに参内して、《目が見ず、耳が聞かず、 (17) 人の心に思い浮ばなかったこと》を見た。このとき、彼に善なる者が言う。《わたしの右に座りなさい》。しかし父が善なる者に言う。「わたしに、主よ、わたしが造ったこの世を覆滅させることをお赦しください。わたしの霊が (18) 人間たちの中に縛られており、それを取りもどしたいのです」。このとき善なる者が彼に言う、「お前はわたしのもとに居るのだから、いかなる悪しきこともすることができない。というのは、共通の満悦からこの世を造ったのがお前とエデムだ。されば、エデムが被造物を保持することを、彼女が望むかぎり任せよ、おまえはわたしのもとにとどまれ」。

(19) この時エデムは、エローエイムに見捨てられたと知り、苦悩し、自分の天使たちを勢揃いさせ、自らは綺麗に飾り立た、 (20) もしやエローエイムが欲情に陥って、自分のところに降りて来はすまいかと。しかしエローエイムは善なる者に捉えられて、もはやエデムのところに降りてくることはなかったので、エデムはバベル — アプロディテーのことである — に、人間どもの中に姦淫と離婚をこしらえるよう命じた、自分がエローエイムから離されたように、人間どもの内にあるエローエイムの<霊>も同様にそのような離別に苦しめられ、 (21) 見棄てられたエデむが苦しめられと同種の事を受苦するためである。さらにエデムは自分の第三の天使ナアスに、大いなる権力を与えた、人間どもの内なるエローエイムの霊を、あらゆる懲らしめによって懲らしめるため、そ〔の霊〕を通して彼の間に生じた契約に反して伴侶を見棄てたエローエイムが懲らしめられるためである。<しかし>これらの事を見て父なるエローエイムは、自身の〔天使たちの〕中の第三の天使バルゥクを派遣した、あらゆる人間の内なる<自分の>霊を (22) 援助するためである。そこでバルゥクはやって来て、エデムの天使たちの直中に < すなわちパラデイソスの真ん中に立った。彼がその真ん中に立ったパラデイソスこそが天使たちだからである — そして人間に告知した。《パラデイソスにあるどの樹からでも食べ物として喰ってよい、ただし、美と悪とを知る樹からは喰うべからず》、こ〔の樹〕こそがナアスである。すなわち、エデムの自余の11柱の天使たちには聴従するよう、<しかしナアスにはもはやそうではなく> というのは、11柱は情欲を持ってはいるが、不法は (23) 持ってはいないが、ナアスばかりは不法を持っていた。というのは、彼はエウアに近づいて彼女をだまし、彼女と姦通をした、これこそが不法行為だからである。さらにはアダムにも近付き、彼を少年のように扱った、これもまた不法行為だからである。<そして>そこから姦通と男色が生じ、その時から、悪が人間どもを支配し、(24) 父なるひとつの始原から生じた善事が <譲歩した>。なぜなら、父は善なる者のもとに昇って、上昇せんとする昇ることを欲する者たちに道を示す一方で、エデムを棄てたことで、人間どもの内なる[父の]霊に諸悪の始原を造ったからである。

 ところで、バルゥクはモゥセのもとに遣わされ、彼を介して (25) イスラエールの息子たちに、善なる者のもとに立ち帰るようにと語った。しかるに<エデムの>第三の <天使>ナアス<は、エデム出自<の>心魂(あらゆる人間どもの内と同様、モーセの内にも住む)を介して、バルゥクの戒めを暗くし、独自の〔戒め〕聞くように仕向けた。この故に<こそ>心魂は霊に、霊は心魂に対立するのである。なぜなら、心魂はエデムであり、霊はエローエイムであり、両方があらゆる人間、(26) 男どもにも女たちにも内在しているのである。さらにその後、バルゥクは預言者たちのもとに遣わされた、人間どもの内に住む霊が、預言者たちを介して聞き、エデムと邪悪な造形物をば、父エローエイム〔が避けた〕ように避けるためである。<しかし>、ナアスもやはり同じ目論見を持って、[預言者たちを介して]父の霊と共に人間どものなかに内在する心魂を介して預言者たちを躓かせ、またひとみな躓いて、エローエイムが言いつけたバルゥクの言葉は聞かれることがなかった。

(27) 最終的に<は>、無割礼者〔=異教徒〕の中からエローエイムは預言者としてヘーラクレースを選んで遣わした、エデムの12柱の天使たちを打ち負かし、父の<霊>が解放されるためである。これ<こそが>ヘーラクレースの12功業であるが、ヘーラクレースが最初から最後まで順次打ち倒したのは、ライオン、ヒュドラ、猪等々である。 (28) というのは、これらは、彼〔ユスティノス〕が謂うには、諸々の族民の名称であり、母系の天使たちの活動に由来して改名されたものだという。<しかし>打ち負かしたと思われるや、オムパレー— これこそがバベル、あるいはアプロディテーでもある — が彼に取り憑き、ヘーラクレースを躓かせ、その力 — <すなわち>バルゥクの戒めであり、エローエイムが言いつけたこと — を脱ぎ捨て、彼女〔エデム〕の独自の戒め — すなわち下方からの力能であるエデムの力能 — に着替え、じつにこうしてヘーラクレースの預言もその功業もはかなくなったのである。

(29) しまいには、《ヘーローデー王の時代に》〔ルカ1章5〕バルゥクが遣わされ — エローエイムによって再び遣わし下された。— ナザレにやって来て、イオーセープとマリアの息子、羊飼いの12歳の少年イエースゥスを見つけ、始原から、<すなわち>エデムとエローエイム<と善なる者>から (30) から起こったかぎりの事と、その後起こった事柄もすべて彼に告げ報せた。「お前より以前の預言者たちはみな躓いた。だからイエスゥスよ、人の子よ、躓くなかれ、むしろこの言葉を人間どもに宣べ伝え、父に観する事と善なる者に観する事を彼らに告げ報せ、善なる者のもとに昇り、万物なるわれらの父エローエイムと共に (31) そこに座れ」。そこでイエースゥスは天使に聞き従った、曰く。「主よ、私 はすべてをします」。そして宣べ伝えた。そこでナアスはこの人をも躓かせようとした<,が、できなかった>。〔イエースゥスは〕バルゥクに忠実でありつづけたからである。そこでアスは、彼を躓かせられなかったことに腹を立て、彼を十字架にかけようとした。しかし、彼はエデムの身体を木に残し、善なる者のもとへと昇って行っ た。 (32) すなわちエデムに曰く。「女よ、汝の息子 — すなわち心魂的にして土から成る人間 — を受け取りなさい」。しかし彼自身は父の手に霊をゆだね、善なる者のもとへと昇って行った。

 善なる者とは、<彼〔ユスティノス〕が謂うには>、何かが在る前に創造したプリアポスである。プリアポスとも (33) 呼ばれる所以は、万物を先駈けて創造した(priopoiei:n)からである。この故に、と彼〔ユスティノス〕は謂う、あらゆる神殿、あらゆる道々に立ち、あらゆる被造物に崇められて、自身の上に果実を、つまり被造物という果実を担い、先には存在しなかった被造物を先駈けて創造した者として (34) それらの原因となっている。ところで、と彼〔ユスティノス〕は謂う、白鳥がレーダーにのしかかって彼女から子をもうけたと人間どもが言うのをあなたがたが聞いたとき、白鳥がエローエイムでレーダーがエデムである。また、鷲がガニュメーデースに襲いかかったと人間どもが言う場合、鷲がナアスで、 (35) ガニュメーデースがアダムである。また、黄金〔の雨〕がダナエーにのしかかって彼女から子どもを儲けたという場合も、黄金がエローエイムで、ダナエーがエデムである。

 同様に、神話に類したこのような物語は (36) すべて、対比して教えているのである。されば、預言者が、《天よ、聞け、地よ、耳傾けよ。主はおっしゃった》と言う場合、と彼〔ユスティノス〕は謂う、人間の内なるエローエイム由来の霊を天、その霊と共なる、人間の内なる<エデム由来の>心魂を地、他方、バルゥクを主と言っているのである。<主が言う>、と彼〔ユスティノス〕は謂う、《イスラエールはわたしを知らない》と。イスラエールとはエデムのことを<言っている>— なぜなら、エデムはイスラエールとも言われ、エローエイムの伴侶だからである。— なぜなら、<と彼〔ユスティノス〕は謂う、>わたしが善なる者のもとにいることを〔彼女が〕知っていたら、<わたしの>霊、父の無知ゆえに人間どもの内に委ねられた〔霊〕を懲らしめることはなかったであろう。

5.27.

(1) ところで、バルゥクという題名を付けられた<彼らの>第1の書には誓いも書かれており、この誓いは、これらの奥義に傾聴し、善なる者[のもと]で完徳に至らんとする者たちが誓うものであるが、この誓いは、彼〔ユスティノス〕の謂うには、我らの父エローエイムが善なる者のもとに生まれたときに誓い、誓ったことを後悔しなかったところのものである。こ〔の誓い〕についてこう書かれている、と彼〔ユスティノス〕は謂う。《主は誓い、(2) そして後悔することはなかった》。その誓いとはこうである。《万物の上にまします方、善なる者に誓います、これらの奥義を守り、何者にも口外せず、善なる者から被造物へと決して背き去らないことを》。で、この誓いを誓ってから、善なる者のもとに参内し、《眼が見たことなく、耳が聞いたことなく、人間の心に思い浮かばなかったかぎりのものら》を見、《活ける水》から呑んだが、これこそが彼らにとって沐浴であり、(3) 彼らの信ずるところでは、《湧きいづる活ける水の源》〔ヨハ4章14〕なのである。なぜなら、彼〔ユスティノス〕が謂うには、水と水との間には分け隔てがあり、土台の下のは邪悪な被造物の水で、泥的・心魂的人間どもがこれで沐浴するが、善なる者の土台の上のは活きて<ある>水で、霊的に活ける人間どもがこれで沐浴し、<また> (4) エローエイムがこれで沐浴し、沐浴しても後悔することがなかったのである。しかし、彼〔ユスティノス〕が謂うには、預言者がこう言う場合、《淫行の女を娶れ。地は主から背離し — すなわち、エデムはエローエイムから〔ということである〕—、淫行に淫行を重ねている故に》〔ホセ1章2〕、ここにおいて、と彼〔ユスティノス〕は謂う、預言者は全き奥義をはっきりと語っているのであるが、ナアスの悪意によって聞き入れられないのである。

 (5)この同じ仕方で、自余の預言者の<書き物>も—、より多くの書物を通して同様に譬えているのである。しかし彼らには、バルゥクという題名を持つ書物が先駈けてあり、この中で読者は彼らの神話の講釈全体を知るだろう。もちろん、数多くの異端に遭遇しても、(6) 愛する者たちよ、その悪しき手に出くわす者はいなかった。しかし真実には、彼<自身>が最も親しく言っているように、<我々は>[その]ヘーラクレースを模倣して、アウゲイアスの糞を、いやむしろ溝を綺麗にしなければならないのだ、これを甘受する者たちは、その溝に陥って、浚うことが決してでき<ないのみならず>、立ち上がることもできないだろうからである。

2018.12.01.

back.gif全異端反駁(巻6)
back.gif表紙にもどる