[ニュムペーたちの洞窟]訳註
- 「一定の形をとって」
原文はmorfovwを中動相で。morfhvは、シンプリキオスによれば、「色、形、表面の大きさ」を含む。
- 「ニュムペーたち」
ニュムペーとは、とヘルミアースはその「プラトーンの『パイドロス』註解」の中で言う、再生を司る女神であり、バッコスの奉仕者、セメレーの子孫である。だから水の傍に住む、つまり、生成の精通者である。しかしこのバッコス信女は、全感覚界の再生をもたらす、と。
- 「太陽も、簡潔に言ってみながそうなのである」
マルティアヌス・カペッラは、『De Nuptiis Philologiae et Mercurii(文献学とメルクリウスとの結婚)』第2巻の中で、太陽について言う:
"Ibi quandam navim, totius naturae cursibus diversa cupiditate moderantem, cunctaque flammarum congestione plenissimam, beatis circumactum mercibus conspicatur. Cui nautae septem germani, tamen suique consimiles praesidebant, etc.……"
ここで7人の航行者とは、もちろん、7惑星のことである。
- 「織り姫と伝えられ」
オルペウス教のこの神学的意味は、プロクロスによって次のように美しく展開されている:
オルペウス[frg. 211]は謂う 分配者たちの生命創造の因〔すなわちペルセポネー〕は、上天に留まって、諸天の秩序を織っているニュムペーである、汚れなく、しかもゼウスと結びついているからであり、親らの習慣のうちにとどまっているが、その織物を未完のまま後に残して、おのれの家から進み出て、結婚すべくかどわかされ、結婚して出産した、余所余所しい生命を有するものらをも有魂とするためである。つまり、未完の織物が立証しているのは、わたしの想うに、全体(to; pa:n)というあの永遠の生命体も未完だということである。だからプラトーンも謂うのである、ひとつの造物主は多数の〔造物主〕たちに、「不死なるものらに死すべきものらを織り足すよう」〔Tim. 41D〕よう督励する、死すべきものらの付加こそ、全体の機織的生命の完成であることをわれわれにある意味で想起させ、オルペウス的神話と未完の織物の解釈の思いつきをもたらすからである。
(Proclus, In Platonis Timaeum commentaria, Volume 3, page 223)
ペルセポネーの「未完の織物」は、やはり、クラウディアヌス(c. 370 - c. 404 AD)の詩 "De Raptu Proserpinae" の次の詩行に出てくる。
Sentis adesse Deas, imperfectumquw laborem Deserit
付言すれば、〔機織りの〕杼、生命の杯、支配の王笏、守護者の権力の鍵は、分離の徴だと古の神学者たちに考えられていたのである。
- 「ネクタルとアムブロシアー」
ネクタルとアムブロシアーの神学的意味は、ヘルミアースの「プラトーンの『パイドロス』註解」の中で美しく展開されている。そこで彼が述べているのは、アムブロシアーは乾燥した栄養の譬えであること、このため、それは二次的自然に対する神の摂理的注意を意味していることである、後者は、可死的・堕落しやすいものの剥奪によって、前者は、葬送的・埋葬的なものの剥奪によって呼称される。そうして、神々が活動的なものとして表現されるとき、摂理上、ネクタルを飲むと云われるのである。かくして、ホメーロスはその『イリアース』第4巻の初めに
諸神は今やゼウスのもとに会議を催し、黄金を延べた床の上に
おのおのの座に就く、間をめぐって女神ヘーベーが
ネクタルを注いでまわれば、神々は黄金の高坏をとって
互いに酌しかわしていた、トロイエー人らの城市を見下ろしながら。
(Il. IV, 1-4)
というのは、このとき、〔神々は〕摂理によってトロイエー人ら注意を向けているのである。だから、神々による不易の摂理の所有は、彼らがネクタルを飲むことで意味されている。この摂理の発揮は、トロイアを注視することで、摂理的活力によって互いに交流し、お互いから盃を受け取ることで表される。
- 「酩酊している」
古の神学者たちによって酩酊が神的自然に帰せられるとき、それが意味するのは神的=超本質的な活力、つまり、知性を超越した活力を意味する。だから、クロノスが蜂蜜ないしネクタルに射たれたとオルペウスに言われるとき、〔クロノスは〕神的にして超知性的仕方で、摂理によって活力を持った、という意味である。
- 「交合の欲望のせいで」
ポルピュリオスは、哲学的にすぐれていたけれど、神学的知識に欠けていた。クロノスとウゥラノスとの去勢について彼が言っていることは、いたく興味深い。というのは、古の神学者たちが神々の超越的自然を表すために用いた手段は、非合理的で、いかなる合理よりも神的な力、明らかに卑しくて、実態のない美によってであった。したがって、ポルピュリオスがここで寓意している神話的報告において、生殖器は多産の力の象徴と考えられたにちがいない。そしてその去勢は、服従の秩序へのこの力の進発(progression)を意味していた。だからこの神話が意味しているのは、クロノスの多産力はゼウスによって、ウゥラノスのそれはクロノスによって進発したということ、ゼウスは〔多産力の点で〕クロノスに劣り、クロノスはウゥラノスに劣る、ということである。
- 「その茎の節にとまることなく」
ピュータゴラースが、ソラ豆を食べないよう弟子たちに禁じた所以は、生成界への持続的永劫の降下に気をつけるようにということを含意する意図からである。
- 「上昇に適す」
マクロビオスは、「『スキピウスの夢』註解」第12章の中で、ここでポルピュリオスが言っている内容の幾つかを引用した。彼が付け加えた内容は、上記の箇所と関連してすぐれているので、ここに訳しておこう。
ピュータゴラースは、プルートーンの帝国が天ノ川〔milky way〕から下向きに始まったのは、魂たちがそこから墜ちてすでに神々から退行したように見えるからだと考えた。ここからして彼は主張する、乳の栄養が乳児たちに提供されたのは、彼らがこの世の身体に落下し始めたとき、彼らの最初の動きが乳から始まったからだ、と。その結果、下降しかかった者たちはいまだ巨蟹宮にあって、天の川を後にしていなかったので、彼らは神々の序列に列せられていた。しかし、落下によって、彼らが獅子宮に達したとき、この星座の中で彼らは将来の状態の端緒についた。そうして、獅子宮の中で、誕生の萌芽と、人間性の一種始原的な発揮が始まった。しかし宝瓶宮は、現在でも獅子座の後に昇る組と反対である。だから、太陽が宝瓶宮にあるとき、離別した魂たちに葬送儀礼が執行される、それは、彼〔太陽〕が人間の生に反対、あるいは逆である徴の中に運ばれているからである。それゆえ、獣帯や天の川が互いに接する境界から、魂は、唯一神聖な形である円形から降下して、そのdenuxionによって円錐の中に生み出される。そうして、線が点から生成され、分割できないものから長さへと進むように、魂は、おのれの点(これがモナドである)から、2(これが最初の広がりである)へと通過する。そしてこれが、プラトーンが『ティマイオス』の中で、この世の魂の自然について語るときに、参与し且つ参与しないものと呼ぶ有性である。世界の魂は、人のそれと同様、神的な自然の単純さが考察されるなら、ひとつの観点では分割なしとわかるが、別の観点では、分割的とわかる、もしわれわれが世界を通して前者の散乱を、身体の四肢を通して後者の散乱を視るならば。
それゆえ、魂は、自身の最初の産出において、身体の方へ下降するやいなや、質料的な乱れ、つまり、質料が〔魂の〕本質へと流れるのを経験し始める。そしてこれこそが、プラトーンが『パイドーン』の中で、魂が新しい酩酊でよろめいて身体の中へと引っ張られると注意した事柄である。これによって意味しているのは、質料の衝動的流れを新しく飲むことで、魂は否定され重くなって、土的情況へ引っ張られる、ということである。しかし、巨蟹宮と獅子宮との間に置かれた星きらめく酒盃は、この神秘的真理の象徴であって、これが意味するのは、沈む魂たちは、質料の流れを通して、諸天のあの部分において酩酊を最初に経験する、ということである。だから、酩酊の仲間たる忘却が、魂の窪みに黙ってもぐりこみはじめるのである。というのは、魂たちが諸々の身体へと降下するさいに、彼ら〔魂たち〕が諸天において意識していた神的な諸関係の記憶を保っていたなら、ひとびとのあいだに神性についての意見の不一致はなかったであろうから。しかし、実際には、降下の際にあらゆるものが、降下の際に酩酊を飲み干すのである。或る者はより多く、或る者はより少なく。その結果、真理は地上のあらゆる人々に明らかなわけではなく、それについてあらゆる人々がその意見を披露するのである。記憶の弱さが意見の初め。しかし、酩酊するほどにはほとんど飲まなかった人たちが見出すのは、諸天においてかつて知っていたことを容易に思い出すからである。
それゆえ、その魂は、その重さのために獣帯と天の川から、それぞれの支配下にある球界に落下しつつ、相続した輝く身体をまとうのみならず、各自の球体において実修する固有の動きを産出する。かくして、それ〔身体?〕が活動するのは、土星においては議論好きで知的な力に応じて、木星の球界では、実践的力に応じて、太陽の球界においては感覚的・想像的自然に応じて、しかし欲望の動きに応じては金星という惑星において、水星の球体において受けるのは、発言し解説する〔活動力〕、植物的・野菜的自然や、身体に働く力に応じては、それが月の球に入ったときに〔活動する〕。そうしてこの球体は、これは神的な秩序の最後であるので、これが最初の動物的実体である。そして土的〔身体〕と天的な身体(わたしがこうしゃに包含させるのが、諸天、諸星辰、さらに高尚な諸要素である)との違いこそ、後者は上方では魂の座と呼ばれ、その層の当の自然と荘厳さの模倣から不死性に益する。しかし、この魂はこれらの土的身体に引きずり降ろされ、その結果、この没落した層、つまり、可死性の座に閉じこめられるときに、死ぬと言われている。〔魂は〕不死であるとわれわれは主張してきたが、その魂の死にあまりにしばしば言及したとしても、いかなる差し障りもない。というのは、魂が消滅するのは、その固有の死によってではなく、暫し圧倒されるにすぎないからである。一時的な消滅によって永生の益を失うことでもない。悪徳の感染から浄化されるに値するとき、身体からの完全な純化によって、永続的な生命の光へと修復され、その無垢の無欠性と完全性へと回帰するだろうからである。
(Macrobius, Comentum Macrobii Ambrosii in somnium Scipionis, )
しかしながら、幾つかの惑星空間における魂の諸々の活動の原因たる諸惑星の力は、プロクロスの驚くべき『ティマイオス註解(Proclus, In Platonis Timaeum commentaria)』の中で次のように述べられている。
よければこう言ってもよい、7惑星のなかで、月は、自然の死すべきものらにとっての原因で、源泉的自然の自己啓示的神像であり、太陽はあらゆる感覚的なものらの造物主である所以は、視ることと視られることとの原因だからである、水星は幻想の諸運動の〔原因である〕(なぜなら、感覚と幻想とがひとつであるかぎり、幻想的有性そのものの基体は太陽だからである)、しかし金星は欲性的衝動の〔原因〕であり、火星は、おのおののものらにとって自然な気性的動きの〔原因〕であるが、あらゆる生き物の諸力に共通の〔原因〕はゼウスであり、覚知的〔諸力〕の〔原因〕はクロノスである。なぜなら、言葉なき〔=非理性的〕あらゆる形相はみな、それら〔諸惑星〕に分割されるからである。
(Proclus, In Platonis Timaeum commentaria, Volume 3, page 69)
- 「造物主であるミトラスは、生成の主人でもあって」
それゆえ、パネース、あるいは、プロートゴノスは世界の範型であり、ゼウスに吸収され、この造物主は、これを飾る自余の頭の中に牡牛の頭を持つものとしてオルペウスに表象されている。プロートゴノスに寄せるオルペウス諸神讃歌の中では、「牡牛の唸り声をあげるもの」と呼ばれる。
- 「オーレイテュイアを彼〔ボレアース=北風〕がかどわかして」
この神話は、プラトーン『パイドロス』(229b-d)で言及されているが、ヘルミアースのこの対話編の註釈の中で、以下のように美しく展開されている。
ひとはこの神話に2つの解を与えることができる、ひとつは史実からより倫理的な〔解〕、もうひとつは〔部分から〕全体へと視点を変える人たちの〔解〕である。で、前者は以下のごとくである。 オーレイテュイアはエレクテウスの娘であったが、彼女はボレアースの女神官であった。というのは、風のおのおのにも守護神がいて、これに完徳的な女が奉仕していたからである。さて、このオーレイテュイアは、この神の好意をことのほか受けるあまり、彼はその地方の豊栄のために吹きならわしていた。実際また、海戦するアテーナイ人たちにも援助したと言われている〔前492年、ペルシア軍はギリシア本土を攻撃しようと出航したが、アトス半島を周航のさいボレアース(つまり神風)に遭遇し、船は大破して敗走した。ヘーロドトスVI-44〕。そういうわけで、彼女は神来状態となり、親しい神であるボレアースに憑かれ、もはや人間として活動することができず(というのは、超越的な原因に捕らわれた生き物は、自分たちの固有性にしたがって活動することはもはやできないから)、憑依のうちに命終した、そういう次第で彼女はボレアースにかどわかされたと言われるようになった。これこそが、この神話のより倫理的説明である。
これに対して第2の、話を全体に転換する〔説明〕は次のごときもので、こちらは前者の〔説明を〕完全に否定するわけではない。というのは、神話は起こった出来事のようなものや史実を用いて、全体の教説に役立てることしばしばだからである。そこで、言われるところでは、エレクテウスは3元素つまり大気・水・土を支配する神で(時には唯一の大地の神、時にはアッティカのみを領有した神である)、その娘がオーレイテュイアである。彼女こそ、大地の産出の力であり、明らかにエレクテウスという語と同義である。この名前の説明もそのことを示している。すなわち、大地の季節ごとに花咲き枯れる産出の力である。他方、ボレアースの方は第二のものら〔自然〕を上から照らす神々の摂理である。というのは、〔人々が〕世界内における神々の摂理をボレアースによって明らかにするのは、ボレアースも高いところから吹くからである。他方、神々の引きあげる力をノトスで〔明らかにする〕のは、低いところから高いところへ吹くからである。このほかに、ノトスに〔位置する〕ものらはより神的である。だから、大地ないしアッティカの産出的力を神々の摂理は上昇させ、目に見えるものにさせるのである。
オーレイテュイアとは、上方にあるものらを渇望する魂であろう。……されば、このような魂は、上方から吹きおろすボレアースにかどわかされる。しかし、崖から運ばれたとしても、それもまたふさわしい。というのは、摂理による死を命終したのであって、自然的な〔死〕を受け取ったのではなく、自然的な生を生きつつ、摂理による生を放棄したのだからである。哲学も、〔『パイドーン』のソークラテースによれば〕死の修練にほかならない。
(Hermias, In Platonis Phaedrum scholia, Section 1, page (30)-(31))
- 「前者は理性の〔甕〕、後者は非理性の〔甕と考えられている〕」
ポルピュリオスがここで引用しているプラトーン『ゴルギアス』の本文は以下のとおりである。
ソークラテース:しかし、それはそれとしてもだよ、君が言ってるような、そういう意味でなら、〔石や屍に劣らず〕生だってまたひどいものなのだがね。というのは、いいかね、エウリピデースが次の詩句で言ってることが、よし真実だとしても、ぼくは別に驚きはしないだろうからだ。つまり、彼の言ってるのは
誰か知る、生はすなわち死にして
死はまた生なるを。
というのだ。そして、われわれはおそらく、ほんとうは死んでいるのかもしれない、としてもだよ。というのは、ぼくはかつて賢者たちの一人から、実際、こんな話を聞いたことがあるからだ。 われわれは現在死んでいるのであり、身体(sw:ma)がわれわれの墓(sh:ma)である。また、魂の中の、欲望が宿っている部分は、説得にまけて、あれこれと考えを変えるような性質のものである。そごで、或る才智にたけた人が それは多分、シケリアの人だったかと思うが、あるいはイタリアの人だったかもしれない その人が、それについてこんな物語を作ったというのである。すなわち、その部分は、たやすく信じさせられて(piqanovV)、説得されやすいものであるところから、言葉を少しもじって、その部分に甕(pivqoV)という名をつけ、また、思慮の足らない間拔けな連中(ajnovhtoV)のことを、孔のあいた抜け作(ajmuvhtoV〔「祕儀にあずかっていない人」の意)と呼んだのである。そうして、その思慮の足らない連中の魂のなかの、欲望が宿っている部分、つまり、その放埒でしまりのない部分を、貪欲で滿ち足りるということがないところ.から譬えて、孔のあいた甕であるというふうに言った、というのである。
(Pl. Gorg. 492e-493b)
ここでプラトーンが言っていることは、オリュムピオドーロスの『ゴルゴアス註解』の中で、次のように美しく展開されている。
エウリピデースは(『プリュクソー』の中で)、生は死にして、死は生だ、と言う。なぜなら魂は、生を身体に宿らせることで此岸にやって来るが、それはいわば生の剥奪に与ることである、なぜなら、身体は悪の原因になるからである。だからして、身体を服従させることが必要なのである。
しかしながら、ここでプラトーンに紹介されているピュータゴラースの神話の意味は、こうである:
われわれが死んだと言われるのは、魂が生命の欠如に与るからである。しかし、われわれが持ちまわる墓とは何であるかを、彼〔プラトーン〕自身が説明している。すなわち、墓は墓標であるが、墓標とは身体だと彼は言う。ところで、見えないものをハーデースと言うのは、魂が身体に隷従することで、われわれは見えざるところにいるからである。また、諸々の欲望を甕と彼が言うのは、甕もそうであるが、諸々の欲望を満たすことに熱心であることからか、欲望は美しいとわれわれ自身を口説くことからである。それゆえ、完徳者が健康にあるというのは、完全な覚知を有する者であるということである。この者たちこそが、満たされた甕を有すること、換言すれば完全な徳を有するということだからである。これに対して、完徳者でない者たち、換言すれば何ら完全なものを有さない者たちが、孔のあいた甕を有する者たちである所以は、欲望に隷従する者たちはいつも満たそうとして、いよいよ燃えあがり、あたかもけっして満ち足りることのないもののように、底の抜けた甕を有するからである。しかし、非ロゴス的魂と交わるロゴス的魂は笊である。なぜなら、〔ロゴス的〕魂は、おのれを探究し、おのれを発見し、おのれが発見される故に、円と呼ばれるが、非ロゴス的〔魂〕は、円とは異なり、おのれ自身へ転向することがないから、直線を真似ているからである。されば、笊は円いから、魂と解されるが、視覚から生ずる諸々の欲望に覆われるので、非ロゴス的〔魂〕と解される。だから、視覚の最中にあるものらは直線的である。だから、非ロゴス的〔魂〕に覆われたロゴス的〔魂〕を笊によって特徴づけたのである。しかし水は自然の流体である。というのは、ヘーラクレイトスが謂ったように、水っぽさは魂の死である〔Fr. 〕、からである。
(Olympiodorus, In Platonis Gorgiam commentaria, Chapter 30, section 2)
この引用によって、明敏な読者は容易に理解するであろう、「甕」の神秘的意味は、ポルピュリオスよりもオリュムピオドーロスによって、もっと科学的に展開されている、ということを。
- 「ポルキュス」
ポルキュスは、プラトーン『ティマイオス』によれば、生成神話を有する9神の中の1神格である(40e)。この神格はプロクロスによれば、「9つの元素において、諸形相の分割・分離がクロノスによってははっきりしなかったのをゼウスがはっきりさせ、これをヘーラーが運動と生成界に呼び出したので、これをポルキュスが物質の中に植えつけ、感覚的自然を生み出し、可視的本質で飾った。かくして自然界と魂たち、そしてこれらにとって先験的な知性的本質の中のみならず、同じく感覚界に〔諸形相の〕産出的原理の分割が生じることになった。これこそが神話の本質である」(Proclus, In Platonis Timaeum commentaria, Volume 1, page 177)。
- 「神々の瞋恚」
「神々の瞋恚とは」とプロクロスは言う、「その中にいかなる情動の徴候もなく、その啓示にわれわれが与ることは不可能なことを示している」。