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原始キリスト教世界

ギリシア人への勧告(2/ 2)






[Ⅴ.神に関する哲学者たちの見解]

5.64
(1.) では、よければ、哲学者たちの見解をも、神々に関して自慢するかぎりを、概観することにしよう、哲学そのものが、虚妄のせいで質料を心象化しているのをどうにかわれわれが発見するかどうか、一種のダイモーンたちを神格化しているにすぎないのに、真理を夢想しているのだと立証しうるかどうかを。
(2.) 実際、始原の讃美者たちは諸元素を措定した。ミーレートス人タレースは水を、同じくミーレートス人アナクシメネースは大気を、このひとには、後にアポッローニア人ディオゲネースが追随した。また、エレア派のパルメニデースは、火と土を神々として唱導し、しかし、これら2つのうち1つだけを、つまり火を神と解したのが、メタポントス人ヒッパソスと、エペソス人へーラクレイトスであった。というのは、アクラガース人エンペドクレースは、多元素説に陥り、これら4つの諸元素に加えて、「妬み」「友愛」を算入したからである。
(3.) 無神論者といえばこの人たちこそであるが、一種知恵なき知恵でもって、質料を跪拝し、石や木を尊重することはないが、それらの母体である大地を神格化し、ポセイドーンこそは造形しなかったが、水そのものは崇敬したひとたちである。
(4.) というのは、Poseidw:nとは、液体(povsiV)を語源とする一種の実体(oujsiav)以外の何であろうか。それは、例えば、軍神!ArhV)が、上昇(a[rsiV) と亡き者にする(ajnairevsiV)にちなんで呼ばれたのと同様である。
(5.) 多衆が剣1本を突き刺し、これをアレースとして供犠するのは、主としてこのゆえであるようにわたしには思われる。また、スキュタイ人たちにこのような風習があることは、エウドクソスが『地球の回転』第2巻の中で言っているとおりである。スキュタイ人たちの中でもサウロマタイ族は、ヒケシオスが『秘儀について』の中で謂っているところでは、直短剣(ajkinavkhV)を崇敬するという。
(6.) まさにヘーラクレイトス派の人たちもそれで、火を始原(ajrcevgonon)として崇拝してきたのである。というのは、この火を他の人たちがペーパイストスと名づける羽目に陥っているからである。

5.65.
(1.) また、ペルシアのマゴス僧たちや、アシアに住む人々の多くもは火を尊敬するが、これに加えてマケドニア人たちもそうであると、ディオゲネース が『ペルシア誌』第1巻で謂っている。どうしてサウロマタイ人たち(ニュムポドーロスが『異国の法習』の中で、火を崇拝すると記録している)とか、ペルシア人やメーディア人やマゴス僧たちで話を長くする必要がわたしにあろう。この連中は、神々の神像は火と水のみだとみなして、野外で供犠すると、ディオーンが言っている。
(2.) この連中の無知を、わたしは曝きたくても曝けなかったわけではない。というのは、迷妄からほぼ完全に逃れていると考えているとしても、実際には彼らは他の迷妄に陥っているからである。彼らは、ヘッラス人たちと違って、神々の聖像は木や石ではないと解し、またアイギュプトス人たちとも違って、朱鷺やマングースでもないと解しているが、哲学者たちのように、火と水であると〔解している〕のである。
(3.) もちろん、ベーローッソスが『カルデア誌』第3巻の中で、年の数多の周期の後に、彼らは人間の姿をした聖像を崇拝したと記し、これを導入したのがダレイオス〔2世〕の子でオーコス〔アルタクセルクセース3世〕の父であるアルタクセルクセス〔2世ムネーモーン〕であり、この人物が初めてアナイティス・アプロディーテーの聖像をバビュローンとスーサに建立し、エクバタナではペルシア人たちに、バクトリア人たちにはダマスコスとサルディスでも崇敬するように指示した。
(4.) されば、哲学者たちをして、自分たちの教師がペルシア人たちとかサウロマタイ人たちとかマゴス僧たちであることを同意せしめよ、彼らから自分たちにとって畏れ多い諸元素の無神論を学んだという。彼らは万物の初めである創造者、つまり、初めそのものらのらの造物者つまり無始の神を知らず、使徒の謂うところの、これら「貧弱」にして「弱い」、人間どもに仕えるために創造された「諸元素(stoicei:a)」〔Gar. iv. 9〕を崇敬しているのである。

5.66.
(1.) その他の哲学者たちのうち、諸要素を看過したかぎりの一派は、より高貴にしてましな或るものを詮索したが、その或る者たちたちは「無限(to; a[peiron)を歌いあげた、例えば、アナクシマンドロス(ミーレートスの人であった)や、クラゾメナイ人アナクサゴラスもアテーナイ人アルケラオスもそうである。後者は二人とも理性を無限性に優先させたが、ミーレートス人レウキッポスとキオス人メートロドーロスは二人とも、どうやら、充溢と欠乏という二つの元素を伝承したらしい。
(2.) で、これら2つを偶像に帰したのが、アブデーラ人デーモクリトスであった。というのは、たしかにクロトーン人アルクマイオーンは、星辰を有魂の神々と思ったからである。彼らの恥知らずさを黙っておくことはすまい。クセノクラテース(カルケードーン入であった) は、惑星は7体の神々であり、宇宙は、あらゆる恒星から構成されている8番目だ、とほのめかした。
(3.) 無論、ストア派の人々をもやり過ごさないでおこう、彼らは、あらゆる質料に、それも最も安価な質料にさえも、神性が浸透していると言って、彼らは無様にも哲学を辱めているのである。
(4.) この点では、ペリパトス派の人々を想起するのも難しくないとわたしは思う。実際、この派の父祖〔アリストテレース〕ときたら、万物の父を思考するのではなく、いわゆる「至高者」を万物の霊魂と考えている。すなわち、世界の霊魂を神と解して、自分で自分の剣に刺し貫かれている。というのは、彼は先ず摂理を月にまで及ぶと定義し、しかる後に世界を神と考えて、神は神に与かっていないと説明して、自家撞着をおこしているのである。
(5.) また、アリストテレースの知己であるあのエレソス人テオプラストスは、片や天を、片や気息を神と想定する。ただし、エピクゥロスだけは、わざと失念しよう、彼は全体にわたって不敬で、神には何の関係もないと思ったのである。いったい、ポントス人ヘーラクレイデースが何であろう。いかなる方向であれ、デーモクリトスの偶像へと引きずられているに過ぎないのである。


[Ⅵ.哲学者たちの神的霊感は、時として真理を衝く]

6.67.
(1.) このような群衆がまさしく大挙してわたしに押し寄せる、いわば、ダイモーン的な余所者のお化けのようなものを、場違いな肖像として導入し、老婆のたわごとのように神話しながら。そのような話に耳を傾けるよう成人にまかせるなど、もってのほかである、おのれの子どもたちにさえ、これは例えばの話だが、彼らが泣いているときに、御伽話をして慰めるという習慣を持たない、思いの上では賢者だが、じつは幼児以上に真実を知っていない者たちから告げ知らされ、無神論で彼らを養育することに恐れおののくからである。
(2.) なぜなら、どうして、おお、真理にかけて!、あなたを信じている者たちを、恐ろしく無秩序な「破滅」や「堕落」に巻き込まれているのだと示すことがあろうか。どうして、わたしに、この人生を偶像で満たすことがあろうか、風を、あるはまた大気を、あるいは火を、あるいは土を、あるいは石を、あるいは樹木を、あるいは鉄を、要はこの世界を神々にこしらえあげ、惑星の星辰をも神々にこしらえあげて、人間どものうち本当に迷妄に陥っている者たちに、天文学ではなく周知のこの占星術によって、空論し、無駄口をきいて。わたしが熱望するのは、諸霊の主、火の主、世界の制作者、太陽の光をもたらす者である。わたしが探究するのは神であって、神の作品ではない。

6.68.
(1.) いったい誰を、探求の協働者としてあなた側から得ようか? というのは、あなたにまったく失望したわけではないのだから。よければ、プラトーンに〔まったく失望したわけではない〕。されば、いったいどのようにして、神にたどりつくべきなのか、おお、プラトーンよ。「というのは、この全体の父にして創造者を見出すこととは一仕事であり、見出しても万人に述べ伝えることは、不可能だから」〔Pl. Ti. 28C〕。いったい、どうして、おお、あのひとにかけて。「そもそも言葉で語り得ないものであったからである」〔Epi. vii. 341C〕。
(2.) 然り、おお、プラトーンよ、あなたは真理に触れた。しかし、そこで放棄してはならない。わたしとともに、善に関する探求に参加せよ。なぜなら、およそすべての人間にとって、とりわけロゴスに携わる者たちにとっては、一種神的な充溢が滴るからだ。
(3.) まさにそのためにこそ、神は唯一であり、これは消滅することも生成することもなく、上はどこか天の背に、自らに固有の観想のうちに、永遠に在りて在るということを、心ならずも認めているのである。

わたしに云え、神とはどのような存在であると考えるべきかを。
すべてをみそなわし、かつ、自身は目に見えない存在である神とは。
     〔Euripi., Fr. 1129〕
と、エウリピデースは言っている。

(4.) 実際メナンドロスが迷妄に陥っているようにわたしに思われるのは、こう謂っている点においてである —

太陽よ、神々の最初のものとして、あなたに拝跪しなければならないのだから、
あなたを通して、自余の神々を観ることができるところの。
      〔Menander Fr. 609〕

というのは、太陽が真実の神を指し示すことなどけっしてなく、健全なロゴス(それが魂の太陽である)、つまり、これによってのみ、それが内に昇る時、理性そのものの深みにその瞳が輝くのである。
(5.) それゆえ、デーモクリトスが謂うのは不都合ではない、「学識のある人々のなかでわずかの者たちが、われわれヘッラス人たちが今日大気と呼んでいる場所へと両手をさしのべて、『ゼウスは万物を斟酌し、またこの〔神〕は万物を承知し、与え、奪う、そしてこの〔神〕は万物の王である』〔Democr. Fr. 30〕と〔いう〕」。プラトーンもほぼこのように神を思惟して、「万物の王のまわりに万物はあり、これを万物の原因と呼んでいる」とほのめかしている。

6.69.
(1.) それでは、万物の王とは誰か。諸有の真理の尺度である。されば、計測されたものらが尺度によって把握されるがごとく、神を思惟によって計られ、真理が把握されるのである。
(2.) しかるに、真に聖なるモーゥセースは謂う、「おまえの頭陀袋の中に、大小二つの重りが入っていてはならない。おまえの家に、大小二つの升があってはならない。おまえのところには、正確で正しい重りがなければならない」〔Deu. xxv. 13-15〕と。ここで頭陀袋とか升とか万物の尺度とかを、神だと把握して。
(3.) というのは、不義・不公正な偶像は、家の中の布袋の中に、つまり、いわば汚れた魂の内に隠されている。片や、唯一の義しい尺度、唯一有りて有る神は、同じものらに対して常に等しく、同様であって、万物を計り量ること、あたかも、均等に包摂し持続する全体の自然を、義しさを平衡とするがごとしである。
(4.) 「神こそは、古の言葉にもあるように、万有の初め・終わり・中間を保持し、その本性にかなった円周運動を行いながら、まっすぐに進んでゆく。また、常にこれに随行するが、神的律法をないがしろにする連中への復讐者たる正義である」〔Pl. Lg. iv. 715E〕。

6.70.
(1.) どこからなのか、おお、プラトーンよ、あなたが真理をほのめかすは? 言説の惜しみない供給が敬神を預言するのはどこからなのか? 異邦人たちの族民は、これらの人々よりも賢明である、と彼は謂う。わたしはあなたの教師たちを知っている、よしやあなたが隠そうとしようとも。あなたは、幾何学はアイギュプトス人たちから、天文学はバビロニア人たちから、健康の呪文はトラキア人たちから習得し、アッシュリア人たちも多くの事柄をあなたに教えてきたが、真実である限りの律法と神の栄光とは、当のヘブライオイ人たちに益されたのだ。
(2.)

これらの者は空しい欺きごとによって、人間の
金や銅の作品、また銀のわざ、象牙のわざ、
木や石の、赤く土を塗った死んだ神像、また画像を、
これらは人々が空しい望みによってうやまうものだが ― うやまわない。
かえって彼らは天に向かって聖い手を差し伸べ、
いつも床から早く起きて水で身を聖め、
ひたすら不死なる永遠の支配者を、
そして次に両親をうやまう。
     〔Oracula Sibyllina iii. 587-594〕

6.71.
(1.) まさしくわたしのためにも、おお、哲学よ、ひとりこのプラトーンのみならず、他にも多くの者たちを引証することに熱中せよ、彼らがいかほどか真理を掴んでいるなら、本当に唯一なる神を、その〔神の〕霊感によって、神と声高く呼ぶ者たちを。
(2.) というのは、アンティステネースは、キュニコス派のこの〔学説〕には考えいたらず、ソークラテースの知己であったがゆえに、「は誰にも似ていない」と謂う、「だからこそ、何者も似像から彼〔神〕を学び取ることはできない」〔Antisth. Fr. 40a〕と。
(3.) 他方、アテーナイ人クセノポーンは、彼自身もまた真理について何事かをソークラテースのように証言して書き記したことであろう、もしもソークラテースの毒〔盃〕を恐れることがなかったならばだが。とはいえやはり、ほのめかしてはいる。「されば、万物を揺るがせ、〔みずからは〕静止している方の、いかに偉大で有力であるかは、明らかである。しかし形姿においていかなるものかは、明らかでない。実際、明白と思われている太陽も、誰にもその姿を見つめることを許さず、むしろ誰か恥知らずにも見つめようとする者があれば、その視力を奪うがごとくである」〔X. Mem. iv. 3. 13 ff.〕。いったい、グリュッロスの〔子〕が賢明になったのはどこからなのか、あるいは、ヘブライ人たちの託宣する女預言からであることは明白ではないか、

(4.) それは以下のごとくである。
いったい、いかなる肉が、天上にあって真実なる
死すべからざる神、天蓋に住みたもう方を、眼で見ることができようか。
いやそれどころか、太陽の光線に向かってさえ、
立つことができぬのが人間ども、可死的存在として生まれた者どもが。
     〔Oracula Sibyllina Fr. i. 10-13〕

6.72.
(1.) また、ストア派の哲学者、ペーダサ〔カリアの都市、ハリカリナッソスの北東〕人クレアンテースはといえば、詩的な神統ではなく、真実の神学を示した。彼は神について、それがいかなる存在であると考えているか隠さなかった。
(2.)

善とは何であるかとわたしに尋ねるのか? では、聞くがよい。
秩序あり、義しく、神法に適い、敬虔で、
自らを制し、有用であり、美しく、畏れの念を持ち、
重厚で、独立独歩、常に有益、
恐れを知らず、苦痛を知らず、利得し、無痛、
有益で、喜ばしく、安全で、親愛、
尊敬され、同意的で……
謙虚で、高ぶらず、注意深く、
虚飾を知らず注意深く,柔和で,力強く, 永続的で,非の打ち所がなく,永遠に留まる。 栄誉から何か美を予にしようとして, 栄誉に目を注ぐ者はみな,自由を失う J
     〔Cleanth. Stoic. Fr. 75〕

(3.) まさしくここにはっきりと教えている、とわたしは思う、神とはいかなるものであるか、そして、一般的な思念と習慣が、神を探究するのではなく、それら〔思念と習慣〕に追随する連中を、いかに奴隷化するか、を。
(4.) また、ピュタゴラス派の人々も隠されるべきではない、彼らは、「神は唯一であり、ある人々が想像しているのとは違って、この世界秩序の外にではなく、その内にあるのであり、この周期のうちに完全に収まっていて、あらゆる生成を見守り、あらゆる時代の混交、自らの諸力の起動者、天にあるすべての業の照らし、万物の父、あらゆる回転にとっての理性にして霊魂、万物の運動である」。
(5.) 以上の事柄も、片や、神の霊感によって書かれた彼らの書き物に、片や、われわれによって選択された事柄に加えて、少しは真理を詮索できる者にとって、神の覚知のために、用を為すであろう。


[Ⅶ.詩人たちもまた真理について証言する]

7.73.
(1.) さらに、(哲学だけでは充分でないから)万事において虚偽に従事する作詩術 — 真理を証言すること滅多になく、神話的逸脱を神に告白するところのもの — をしてわれわれに来たらしめよ。では、何びとであれ真っ先に望む詩人をして登場せしめよ。
(2.) されば、アラトスこそは、神の力が万物に及んでいると思惟する、

それゆえ万事はしっかりと生みなされ、
それゆえに、初めと終わりでこの神はいつも敬意を表せられる。
謹んでご挨拶を、御父よ、大いなる驚異、人間どもには大いなる福。
     〔Aratus 13-15) 。
(3.) 同様に、アスクラ人へーシオドスも、神を示唆している。
彼こそは万物の王にして支配者。
不死なる者らのうち他の誰も、彼の力と張り合うことはできない。
     〔Hes. Fr. 195〕

7.74.
(1.) もはや、舞台の上でも、彼らは真理を暴露している。天空でも天上でも見上げて、「これをしも神と考えよ」と謂うのが、エウリピデース。
(2.) 片や、ソピッロスの子ソポクレースはといえば、

真に一人、神は一人である、
そのかたが造りたもうは、天と遙かに広がる大地、
海の青灰色のうねり、そして力ある風。
されど、われら死すべきものの多くは心惑い、
悲惨事の慰めに建立するは、
神々の聖像をば、石から、あるいは青銅から、
あるいは黄金造りや象牙造りの型。
これらに犠牲や虚しき全祭を
捧げ、かくすることで敬神なりと考えている。
     〔[Sopho.] Fr. 1126.?〕
かく大胆にも、舞台上で観衆に真理を紹介したのであった。
(3.) だが、トラーキアの大祭司であると同時に詩人、オイアグロスの子オルペウスは、狂宴の啓示と偶像の神学の後、真理の改詠詩を導入、再謡をなした。それはまさしく聖なるものであり,ロゴスとも言える歌 であった。
(4.)
r適わしき事柄を述べ伝えよう。神聖ならざる者たちよ, みな一様に扉を立てるがよい。汝は聞け,光を放つ月の商, ムゥサイオスよ,わたしは真理を述べよう。これまで汝の胸に 現れていた事柄が,愛しき生涯からあなたを奪い取ることの ないように。 神的なロゴスに目を向けて,そのロゴスに座を占めよ。 心の知的な空洞をただすがよい。小路によく 歩み入り,宇宙の不死なる主のみを見つめるがよ pJ
     〔Orph. Fr. v. 1-11)
(5.) 次いで、はっきりと付け加える。
「その方はーにして自足し 万物はその- 者の子孫として生まれた。 彼らの中にあって彼は取り囲まれ,死すべき人間の誰一人,この方を 自にすることはできないが 彼自身はすべての人々を見ている j
     〔Orph. Fr. v. 9. xi. 15-17〕
これまでのところ、オルペウスはしばらくさまよったあげく、ついに悟ったのであった。 (6.)
しかし、さまざまに思い計る人よ。汝はなそうとしてためらうことなく、
身を翻えして神と和解するがよい。

     〔Oracula Sibyllina iii. 625-6〕

(7.) というのも、神的な言葉のいわば最高の閃光を受けとりながら、ヘッラス人たちは真理のほんの少しを発言したながら、その隠れなき力を証言できたのに、自分たち自身を弱き者として反駁するのである、究極に達しないからである。

7.75.
(1.) というのは、わたしは思う、真理の言葉なくして何事か活動したり、あるいはまた発言したりする人たが、歩行なくして歩行することを強制される人たちに似ていることは、万人に明らかになった、と。そこで、詩人たちが真理に強制されて喜劇化するところのあなたがたの神々に関する吟昧をしても、救いへとあなたを恥じ入らしめよ。
(2.) 例えば、喜劇作家メナンドロスは、『馭者[取り替えっ子]』という劇の中で(彼は謂う)、

老婆とともに外を歩きまわるいかなる神も
わたしは好まない、また小さな板に乗って
家にこっそり入ってくる乞食神官(mhtraguvrithV)も。
     〔Menander Fr. 156〕

(3.) こういう連中こそ乞食神官たちである。ここから当然、アンティステネースは施しを求める彼らに言った。「わたしは神々の母は養わない。神々が養ってくれるだろうから」〔アンティステネース断片?〕。
(4.) さらにまた、同じ喜劇作家が、『女祭司』という劇の中で、慣習に憤慨しつつ、迷妄の無神論的な傲りを反駁しようと試みている、厳かに宣言する

なぜなら、もし人間がシンバルで神を
自分の望むところへと引き寄せられるなら、
それを行う者は神よりも力があることになる。
そうではない、あれは人生を物笑いの種に作り上げるために、
恥知らずな人間たちによって発明された
厚かましさと乱暴の道具だ。
     〔Menander Fr. 188〕

7.76.
(1.) また、メナンドロスのみならず、ホメーロスやエウリピデスや、他にもおびただしい詩人たちもまた、あなたがたの神々を徹底吟味し、それらをいかほどでも悪罵することを恐れない。すなわち、アテーナーは「犬蠅」、ヘーパイストスは「脛曲がり」と呼び、アプロディーテーに対しては、へレーネーが謂う、

二度と再び御御足を オリュムポスへはお向けにならず」           〔Iliad, iii. 406〕
(2.) そしてディオニューソスについては、ホメーロスがあからさまに書いている。
あるときは、狂乱のディオニューソスの乳人らを、神さびたる
ニューサの山中追いかけたもの、その女らはみな一ことに
祭の杖を地面に振り落とした、人殺しのリュコエルゴスの
牛撃ち斧に打ちのめされて。
     (Iliad, vi, 132-134)
(3.) ソークラテース的対話術に真に相応しく、エウリピデースは真理に注目し、観衆を見下しつつ、時にはアポッローンを
大地の臍に御座を占め、
人々に最も確かな神言を告げられる
     〔Euripi., Or. 592〕
と吟味しながら、
(4.)
その仰せのまま、わたしは生みの母を殺したのです。
道に背いたのはこの神だと考えて、この方を殺すといい。
あやまちをおかしたのはこの神で、わたしではない。
美と義に無学だったので。
     〔Euripi., Or. 590〕
(5.) 時には、狂ったヘーラクレース、他の箇所では酩酊し、貪欲なそれを登場させる。どうしてそうでないことがあろうか? 彼は食事する際、牛肉に
まだ熟れていない無花果を添え
調子外れに喚きたてた。夷狄にも〔異様なことが〕わかったほどだ。
     〔Euripi., Fr. 907〕
(6.) いや、それどころか、『イオーン』という劇でも、神々を厚かましくも舞台に登場させている。
人間に法を定められた方ご自身が、
無法の罪を問われてよいものでしょうか。
ひょっとして — いや、これはただ仮定として申すだけで、そういうことはありますまいが —
神様方が女を手籠めにした罪を人間に償うようなことにでもなれば、
あなたとしてもポセイドーンにしても、また天空を統べるゼウスにしても、
無法の償いを支払うために、お社を空にしておしまいになりましょう。
     〔Euripi., Ion 442-447〕

[Ⅷ.真の教説は預言者たちに求められるべきこと]

8.77.
(1.) それでは、順番上われわれによって先に仕上げられた他の事柄のうち、預言者の書に関説する刻になった。というのも預言は、敬神への端緒をもっともあからさまにわれわれに提供して、真理を確立する。神的な諸書や慎み深い行住坐臥は、救いの近道である。ならば虚飾や外面的な美辞,鏡舌,迎合などを排し,悪 事にあえぐ入関を立ち上がらせ,この世のはかなさを看過し,唯一の同じ声でもって多くを癒し,災いをもたらす迷妄よりわれらを遠ざけ,線前の救いに向 けではっきりと勧告する。
(2.) 例えば、女預言者、先ずはシビュッラをして、われわれのために救いの歌を歌わしめよ。

見よ、この方はありとあらゆるものらにとって確実で、迷いなき方である。
来たれ、いつまでも影と暗黒を追い求めてはならぬ。
見よ、太陽の甘くめくばせする光がさんさんと輝いている。
そして、知れ、汝らの胸の中に知恵をたくわえることを。
神はひとり、雨、風、地震を遣わせる方、
稲光、飢饉、疫病、惨めな心配事、
また、降雪、霰をも〔遣わせる方〕。いったい、どうして一つひとつあげつらうことがあろう。
彼は天を嚮導し、地を統治し、みずから存在したもうのである。
     〔Oracula Sibyllina Fr. i. 28-35〕

(3.) 強烈な霊感のうちに、迷妄を闇に、神の覚知を太陽と光に譬え、双方を比較対照させて、選択を教える。というのは、虚偽は、真理の単なる臨在によって消散し、真理の有用性によって、仕方なく追い払われるからである。

8.78.
(1.) 預言者ヒエレミアースはといえば、全知者、というよりむしろヒエレミアースの中で聖霊が神を披瀝した。「わたしは近くにある神である」と〔主は〕謂われる、「遠くの神ではない。もし人が何かを隠れて行ったとして、はたしてわたしは彼を見つけられないとでもいうのか。わたしは諸天と大地を満たしているではないか」と主は言われる」〔Jer. xxiii. 23-24〕。
(2.) さらにまたヘーサイアースによっても、「測るのは誰か」と謂われる、「掌をもって天を、手をもって大地を」〔Isa. xl. 12〕。神の偉大さを見よ、驚倒せよ。この方に跪拝しよう、預言者が「あなたの前に山々は震える、火を前にして蜜蝋が溶けるように」〔Isa. lxiv. 1)と謂う方に。この方こそ、と彼は謂う、神である、と。「天はその玉座、大地は足台」〔Isa. lxvi. 1〕 、「もし天を開けたまえば、戦慄がおまえをとらえるであろう」。
(3.) 偶像に関しても、この預言者が何と謂っているか、聞くを望むか? 「彼らは陽の下に曝され、その亡骸は天の鳥類、地の獣どもの餌となって、自分たちが愛し、自分たちが隷従した太陽や月の下で腐敗し、彼らの都市は焼き尽くされるであろう」〔Jer. viii. 2、xxxx. 20、iv. 26〕。
(4.) 諸元素も宇宙も、それらもろとも破滅するであろう、と彼は言う。「地は」と彼は謂う、「古び〔Heb. i. 11〕、天は過ぎ行くだろう〔Matt.24:35〕」、「だが、主の言葉は永遠に留まる」〔1Ep. Pet. 25〕。

8.79.
(1.) では、どうか、今度は神が、モーゥセースを介しておのれを示そうとする場合は? 「おまえたちは知るのだ、知るのだ、わたしが存在することを。そして、わたしの他に神のいないことを。わたしは殺すこともできれば、命を与えることもできる。わたしは撃つこともできれば、癒やすこともできる、そしてわが手から逃れうる者はいない」〔Deut. xxxii. 39〕。
(2.) さぁ、他の神託にも傾聴する気があるか? あなたが預言者の全合唱隊、モーゥセースの朋友を持っている。オーセーエを介して聖霊は彼らに何と謂っているか? わたしはためらわない。「見よ、わたしは雷霆を奪い、風を起こす」〔Amos, iv. 13〕) 、その両の手は天の軍勢を打ち立てた。
(3.) もう一度、ヘーサイアースを介しても(あの声もあなたに思い出してもらおう)。「わたしは在りて或るもの」と謂われるる。「主であり、正義を語り、真理を告げる者。集い来たれ。ともに思いを致せ、族民どもから救われた者たちよ。木を取り去る者たちはおのれの印を知らず、彼らを助けることのできない神々にぬかずいている」〔Isa. xiv. 19以下) 。
(4.) さらに続いて、「わたしは」と謂う、「神である、わたしをおいて義なる者はおらず、わたしのほかに救い主はいない。地の果てなる諸人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われよう。わたしは神であって、ほかに神はない。わたしは自分をさして誓った」〔Isa. xlv. 21-23〕。
(5.) 他方、偶像崇拝者たちには、嫌悪をあらわにする、いわく。「あなたがたは主を何になぞらえようとするのか。あるいは主を何の似像に似せようとするのか。職人は似像を鋳て造り、金細工師は、金を鋳て金箔をかぶせるではないか」〔Isa. xl. 18-19〕云々。
(6.) されば、あなたがたもやはり偶像崇拝者であってはなるまい。いや、今も脅迫には留意せねばならない。なぜなら、彫られた像や、手で作られた像が叫び出し、むしろそれらに信を置く人々が、そうするかも知れない、質料は感覚を持っていないからだ。〔預言者は〕さらに謂う。「主は人の住む町々を揺るがし、全世界をその手で巣のごとくに取り上げる」〔Isa. x. 14〕。

8.80.
(1.) どうして、知恵の秘密や言葉を、知恵を受けたへブライの子どもから〔引いて〕あなたに告げるのか? 「主は、その業をなすとき、その道の初めとしてわたしを創造なさった」〔Pr. viii. 22〕、そして、「主は知恵を与え、知識と悟りは、その御顔から来る」〔Pro. ii. 6〕。
(2.) 「いつまで、怯懦な者よ、寝ているのか? いつ眠りから目覚めるのか? もし怯懦ならざれば、あなたの刈り入れは泉のようにあなたに来たるであろう」〔箴言6:9、11〕。これは父祖伝来の言葉、善き灯光、光を、つまち、万人のために信仰と救いをもたらす主である。
(3.) なぜなら、「主は、その力をもって大地を創造した方」とヒエレミアースは謂う、「その知恵をもって世界をうち建てられた」〔Jer. x. 12〕からである。偶像の前に身を投げ出すわれわれを、その御言葉である知恵が、真理へと直してくださるのである。
(4.) これこそが、逸脱からの最初の復活である。ここから、あらゆる偶像崇拝を避けさせるべく敬神者モーゥセースが全美に叫んだのである。「イスラエールよ聞け。おまえの神、主は、唯一の主である」〔申命記6:4〕、さらに、「おまえの主、神に跪拝し、これにのみ仕えよ」〔Deut. vi. 13、x. 20〕。
(5.) されば、もはや、悟るがよい、おお、人間たちよ、ダビドによるかの浄福なる詩篇を。「子どもらを抱擁せよ、主が決して怒らぬよう、おまえたちが義の道を外れぬように、その怒りは瞬く間に燃え上がる。浄福なるかな、彼に聴従する者たちはみな」〔Ps. 2:10-12〕。

8.81.
(1.) しかしすでに、主はわれわれをいたく憐れみ、救いの歌を、いわば行進の律動のごとく、われらに与えた。「人の子らよ、いったいいつまでおまえたちは心頑ななのか。何のために虚しさと虚偽を愛し求めるのか」〔Ps. 4: 3〕。しからば、虚しさとは何か? 虚偽とは何か?
(2.) 主の聖なる使徒が、ヘッラス人たちを責めて、あなたに説明してくれる。「なぜなら、彼らは神を知りながらも神として栄光を帰することをせず、感謝もせず、自分たちの議論の中で空虚になた、そして神の栄光を、滅びるべき人間の形に似せて取り換え、創造者に代えて被造物に仕えた」〔Ep.Rom. i. 21、23、25〕。
(3.) もちろん、「初めに天と地を創造したもうた」〔Gen. i. 1〕ところの、このかたこそが神である。しかるにあなたは、この神は思惟せず、天に跪拝する、いったいどうして、不敬でないことがあろうか。
(4.) もういちど、次のように言う預言者に耳を傾けよ。「片や、太陽は翳り、天は影さされるが、片や、全能者は永遠に輝き、諸天の諸勢力は揺らぎ、天は皮のごとくに引き伸ばされて、揺らされ縮み上がる」〔Isa.xiii. 10、Ez. xxxii. 7、Jl. ii. 10、xxxi. iii. 15 etc.〕(これらこそ預言者の発言である)「そして大地は主の御前から逃げ去る」。


[Ⅸ.神の有りがたい召命を軽蔑し拒む者たちの嘆かわしい罪]

9.82.
(1.) わたしはあなたに万巻の書でも引用することができる、その「一点一画たりとも、過ぎ去ることはない」〔Matt. v.18〕し、不完全のままになることはない。「なぜなら、これを云っているのは主の口であり、聖霊である。「されば、わが息子よ」と〔主は〕言われる、主の教えを軽んじではならぬ、また主によって吟味されても倦んではならぬ」(箴言3 ,11) 。
(2.) おお、何という溢れんばかりの人間愛であることか。弟子たちに対する師のごとくでもなく、家僕たちに対する主人のようでもなく、人間どもに対する神のようでもなく、「温厚な父親のごとくに」〔Iliad, xxiv. 770、Odyss. ii. 47, 234. v. 12, xv. 152〕神は息子たちに訓戒するのである。
(3.) 次いで、モーゥセースは、御言葉を聞きながら、「恐れ戦いています」と告白する〔Heb. xii. 21、Deut. ix. 19〕が、あなたは神的な言葉を耳にしながら、恐れないのか。奮闘しないのか。恐れると同時に、学び尽くすことに努める、すなわち、救いに努めないのか。怒りを恐れ、恩寵を愛し、希望を求めて、そうやって裁きを避けるために。
(4.) 来たれ、来たれ、おお、わが若者らよ。「万一、もう一度子どものようになって生まれ変わらなければ」と〔聖〕書は言う、有りて有る父を受けることはできず、「諸天の王国に入ることは決してできない」〔Matt. xviii. 2、John iii. 5〕。いったいどうすれば、入ることが異邦人に許されているのか?
(5.) それでは、いざ、わたしが思うに、あなたが登録され、市民となって、父を受けたなら、そのときに、「父のもとにあるものらの中に」〔Luke ii. 49〕入り、そのときに受け継ぐにあたいする者とされ、そのときに父祖伝来の王国を、嫡出の子、「愛された子」〔Eph. i. 6〕とともに共有するであろう。
(6.) これこそが、数多の善き子らより成る初穂の教会である。これこそが「諸天に書き記された初子」であって、「幾万の天使たち」とともに祝祭に参加する者たちなのだ。
(7.) 初子たる神の秘蔵っ子たるわれわれは、「初めに生まれた」嫡出の友であり、自余の人間どもに先駆けて神を悟り、最初に罪を免れ、最初に悪魔と絶縁した者たちなのである。

9.83.
(1.) 今や、或る者たちは、神が人間愛に満ちているのと同じだけ、神無き者たちである。というのは、片や、われわれが奴隷から息子たちとなることを望んでおられるが、後者はすでに息子となっていると高ぶっているのである。おお、何たる大いなる愚かさよ。あなたがたは主を辱めているのだ。
(2.) 自由を約束なさっているのに、あなたがたは隷属へと逃げ去る。救いを恵みとなさっているのに、あなたがたは人間とに耐える。永遠の生命を授けられるのに、あなたがたは懲罰を待っているが、あなたがたが待っているのは「火」であり、「それは主が悪魔とその使いたちのために備えられたものである」〔Matt. xxv. 41〕。
(3.) それゆえ、浄福なる使徒は、「わたしは主において証言する」と謂う、「あなたがたは決して異邦人が自分のむなしい理性によって歩んでいるような仕方で歩んではいけない。考えることによって彼らは暗くされており、自分たちの中にある無知のせいで、また自分たちの頑なさのせいで、神の生命からひどく疎外されるのである。異邦人は無感覚になっていて、放縦に身をゆだね、貪欲にも、あらゆる類の汚れを行っている」〔Eph. iv. 17-19〕。

9.84.
(1.) このような証人が、人間どもの無知を反駁し、神を叫んだのだから、不信者たちに、裁きと断罪以外のいったい何が残されていようか。また、主は勧告し、威嚇し、励まし、目覚めさせ、訓戒して倦むことがない。ともかく、眠りから覚めさせ、闇そのものから迷える者たちを立ち上がらせる。
(2.) 「目覚めよ」と謂われる、「眠っている者よ、死人のうちから復活せよ、そうすれば主クリストスがあなたを照らすだろう」〔Eph. v. 14〕、「明けの明星よりも」先に生まれ〔Ps. 110:3〕、固有の光線で生命を賜る方が。
(3.) されば、ひとをして御言葉を蔑ろにせしめてはならない、人知れず、おのれを軽視せしめてはならない。なぜなら、〔聖〕書がどこかで言っているからである。「今日、もし主の声を耳にしたなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。荒野での試みの日に反抗的であってはならない。あなたがたの父祖たちは, その砂漠で試みを受けたのだ」〔Ps. 95:9-10〕。
(4.) では、試みとは何か、あなたが学ぶことを望むなら、聖霊があなたに説明してくれよう。「そしてわが業を見た」と〔は〕謂う、「四十年の間。この故に、我、この種族に対しいらついた。かつ、云った、彼らは心においてずっとさまよい続けるであろう、と。だが彼ら自身は、我が道を認識しなかった。それは我、我が怒りにおいて、誓ったとおりである。彼らは決して我が休息に入ることがない、と」〔Ps. 95:9-11,Heb. iii. 7-11〕。
(5.) この威嚇を見よ。 この勧告を見よ。この敬意を見よ。されば、いったいどうして、さらに恵みを怒りに取り換えたりしようか、開いた聴覚に御言葉を受け入れ、聖なる霊魂のうちに神を客遇しないでいられよう。というのは、その約束の恵みは偉大だからである、もし今日、彼の声に耳傾けるなら。しかるにこの「今日」は,、もし「今日」と名づけられる間は、日ごとに増大してゆく。
(6.) 完成の日まで, 「今日」と「学び」とは持続するであろう。そしてそれから、真の「今日」すなわち欠けることなき神の日が永遠に伸びる。されば、神的な言葉の声に聴き従おう。なぜなら、今日とは永遠である。永遠の時代の似像であり、一日は光の象徴、御言葉は人間どもにとっての光、それを通じてわれわれは神を仰ぎ見る。

9.85.
(1.) そういう次第で、当然にも、信じる者たちや聴従する者たちにとっては恩寵が有り余るほどであるが、不従順なる者たちや、心に主の道(これを真っ直ぐにし、準備するようイオーアンネースが告げた)を悟らぬ者たち、この者たちには神が憤り、脅迫するのである。
(2.) そして実際、脅迫の目的を暗示的に理解したのが、ヘブライ人たちの古の放浪者達である。というのは、不信心ゆえに彼らは安らぎに至ることはないと言われていたからである、ついに彼ら自身がモーゥセースの後継者に聴きしたがい、イエースゥスに信を置く以外には救われえないということを、事実をもって学び取るまでは。
(3.) しかし、主は人間愛のある方であるので、人間どもすべてを「真理の覚知へと」〔〕招いておられる、弁護者を派遣する方として。では、覚知とは何か? 敬神である。パウロスによれば、「敬神はあらゆることの役に立つ。それは今の時の、また来たるべき時の生命の約束をもつものである」〔1Tim. iv. 8〕。
(4.) その値はいかほどかを告白せよ、おお、人間たちよ、永遠の救いが売りに出され、あなたがたが買うとしたら? 誰かがパクトーロス全体、神話上の黄金の流れをもってしても、救いに見合うだけの報酬を計上することは不可能であろう。

9.86.
(1.) だが、思い屈することなかれ。あなたがたには、その気があれば、高値な救いを、固有の宝庫に買い取ることができるのである、それは愛と生命ある信仰によってであり、その価格は適切なものである。このような崇敬を、神は快く受け取る。「なぜなら、われわれは、すべての人間の救済者、特に信者たちの救済者である生ける神に希望を托したのだから」〔1Tim. iv. 10〕。
(2.) しかるに、それ以外の、さながら海中の岩に生える海藻のごとくに、この世に固執し、不死牲を軽んじる人々は、ちょうどイタケの老人〔オデュッセウス〕のように、真理や天にある祖国、かてて加えて有りて有るかたの光ではなく、単なる煙を慕い求めるのである〔Odyss i. 57 ff.〕。これに対して敬神は、可能な限り人間を神に似せ、神を相応しい師として描き出す。このかたのみが、ふさわしくも人間を神に譬えることのできる方なのである。

9.87.
(1.) この神的なる教えを、使徒は真に知り尽くして、「あなたは、おお、ティモテオスよ」と謂う、「幼児期から聖なる文書を知っている。〔聖なる文書は〕あなたに、クリストスにおける信仰による救いへと至るよう知恵を与え得るものである」〔2Tim. iii. 15〕。なぜなら、真に聖化し神化させる文書は聖であるから。
(2.) これらの聖なる文書や音節から構成されている書を、この同じ使徒は結局「神的に霊的な」著書と呼ぶ、「教えのために、糺すために、矯正のために、また義に基づく教育のために有用である。神の人がきっちりとして、あらゆる善い行いへと備えられるためである」〔2Ti. iii. 16-17〕。
(3.) 自余の聖なる人々の勧告も、人間愛に満ちた主自身に対して驚倒するほどに驚倒するひとはいないであろう。というのは、ほかでもない、人間が彼によって救われるのは、まさしくこの業によってのみなのだからである。それゆえ、ご自身が救いへと駆りたて、「諸天の王国は近づいた」〔Matt. iv. 17〕と、畏れへと近づいた人間どもを回心させているのである。
(4.) 同じようにして、主の使徒も、マケドニア人たちに呼びかけ、神的な声の解釈者となり、「主は近い」〔Phil. iv. 5〕と言う、「われわれは虚しい者と解されぬよう用心せよ」。だが、あなたがたはあまりに恐れ知らず、否むしろ不信仰なので、主御自身にも、パウロス(それもクリストスに縛られた)にも聴従しない。

9.88.
(1.) 「昧わいかつ見よ、神は善き方なることを」〔Ps. 33:9〕。 信は導き、試みは教え、〔聖〕書は教導するであろう、「こちらへ来たれ、おお、わが子たちよ」と言う、「わたしの耳を傾けよ、主に対する畏れをあなたがたに教えよう」〔Ps. 33:12〕。しかる後に、すでに信の域に達した者たちに簡潔に付言する。「生命を望む人、善き日々を見ることを愛する人は、誰か」〔Ps. xxxiii. 13〕。わたしたちです、とわたしたちは謂うであろう、善の跪拝者、諸善の渇望者です、と。
(2.) されば、聞くがよい、「遠くにある者たち」よ、聞くがよい、「近くにある者たち」よ。御言葉は何びとに対しも隠されてはいない。光は共通であり すべての人間どもを照らす。御言葉にキムメリオイ人は出てこない〔Odyss. xi. 14 ff.〕。 われわれは救いに向けて、再生に向けて急ごう。われわれ多衆は、単一なる有の一体性にしたがって、一つの愛に結集されるべく急ごう。善を為すことで、相似的に善なる単一を探究して、一体性を追求しよう。
(3.) しかるに、多から成る一体性は、多声や分散から調和を受け取って、神的な一つの和声となる、一人の指揮者や、教師としてロゴスに従い、真理そのものに安らって、「アッバー(ajbba:)」つまり「父よ」と言って。神は、自分の子どもたちからのこの真なる声を、最初の果実として歓ばれるのである。


[Ⅹ.彼らの父祖の習慣を棄てるのは義しくないという脅しの問題に答える]

10.89.
(1.) だが、父祖たちからわれわれに伝えられた習慣を覆すのは道理に合わぬ、とあなたは謂う。それでは、いったいどうして、最初の養分、つまり、誕生の時から乳母たちがわれわれに慣れさせた母乳をわれわれは用いないのか? また、父祖伝来の家産を増やしたり減らしたりして、われわれが受け取ったのと等しい状態を守り通そうとしないのは、どうしてなのか? また、父祖の懐に嘔吐したり、あるいは他にも、幼児期に母親に養育されながら笑いを誘っていた事柄をさらに完成させたりせず、善き家庭教師たち出会わなかったとしても、むしろ自分たち自身を矯正しようとするのは、いったいどうしてなのか?
(2.) それから、通路において逸脱することはたしかに物騒で危険なことであるが、それでもどうにか諸々の快楽が偶発することがあるが、人生においては、邪悪で情動的で無神的な習慣を棄て、父祖たちが不機嫌になろうとも、真理に寄りかかり、有りて有る父を探し求めようとするのではないか、致命的な毒薬のように習慣を打ち捨てて。
(3.) なぜなら、これこそが手がけるべき仕事のうちで最美なものだからである、敬神が、狂気と三重に悲惨なこの習慣によってどれほど憎悪されているかを、あなたがたに警告することこそが。なぜなら、〔この敬神の念は〕これまで神から人間の種に与えられてきた賜物のうち、これよりも偉大なものはないほどの善きものが、かつて憎悪されたり禁じられたりしたことはないからである、習慣によって強奪されない限りは、それなのに、われわれの耳を塞ぎ、ちょうど言うことを間かない馬のように、あなたがたは手綱を拒み、はみを噛み切って、御言葉から逃れた、あなたがたの人生の御者たるわれわれを振り落とすことを渇望し、無知ゆえに破滅の断崖へと連れ行かれて、神の聖なる言葉を呪わしきものと受けとめて。

10.90.
(1.) そういう次第で、ソポクレースによれば、選びの褒賞があなたがたに伴う、

理性は消え去り、耳は役に立たず、思慮は虚しい
     〔Sopho. Fr. 949〕

そしてあなたがたは、何にもましてこれこそが真実だということを知らない、つまり、善にして敬神の徒は、善を尊重するかぎり、善き報いに与るが、その反対に邪悪な者たちは、相応の罰に〔与り〕、悪の首謀者には懲罰がのしかかる、ということを。
(2.) 実際、預言者ザカリアースは彼を脅している。「ヒエルゥサレームを選んだ主はおまえを責めるのだ。見よ、これは火の中から取り出した燃えさしではないか」〔Zech. iii. 2〕。されば、故意の死に対する渇望などというものが人間どもに関係しようか。彼らが焼きつくされるであろう死をもたらすこの燃えさしに、どうして彼らが逃避することがあろうか、習慣にしたがってではなく、神に従って美しく生きることができるというのに。
(3.) なぜなら、神は生命を恵むが、悪しき習績は、この世からの解放の後、虚しい後悔と同時に罰を科されるのだ。「幼稚な者は痛い目に遭って、初めて悟る」〔Op. 218〕、迷信が破滅させ、敬神が救うことを。

10.91.
(1.) あなたがたの何びとかをして、偶像に仕える者たちは、髪は汚れ、きたなくぼろぼろの衣服ゆえに侮辱され、泳浴にはまったく無経験で、爪の先は獣のように尖り、恥部さえその大部分は切り取られ、この事実でもって、偶像の神域とは墓か監獄に等しいということを示しているのだ、ということを知らしめよ。この連中は、嘆いているのであって、神々を畏れているのではなく、敬神よりもむしろ憐れみに値することを被っているようにわたしには思われる。
(2.) これらのことを目にしても、あなたがたはなお盲目のまま、万物の主人にしてあらゆるものの主である方を仰ぎ見ようとしないのか? この世の監獄から脱出して、天来の憐れみに庇護を求めようとしなのか?
(3.) なぜなら、神はその豊かな人間愛により、人間を助けるからである、あたかも、巣から落ちた雛鳥の母親が飛びまわるように。もしや地を這う獣でもその雛に大口開けはすまいかと、

母鳥は愛しい子を悼み嘆いて、あちこちと飛びまわる
     〔Iliad, ii. 315〕

片や、父なる神の方は、被造物を捜し求め、墜落を癒し、獣を追い払い、雛を再び取り上げるのである、巣に向かって飛び立つよう促すために。

10.92.
(1.) 次いで、すでにさまよっていた犬たちは、臭いを嗅いで主人の後を追い、馬たちは、笛のひと吹きで騎乗者を振り落として、主人に聴従する。「牛はその飼い主を知り」と彼は謂う、ロバはその主の飼い葉桶を知っている。けれどもイスラエールはわたしを知らない」〔Isa. i. 3〕。では、主とは何か。遺恨を持たず、それどころか憐れみ、さらには悔い改めを求める方である。
(2.) わたしがあなたがたに問いただしたいのは、あなたがた人間は、神の被造物として生まれ、彼から霊魂を授かり、まったく神のものでありながら、他の主人に隷従し、かてて加えて王の代わりに僭主に、善のかわりに悪に仕えるというのは、あなたがたにとって奇妙だと思われないかということだ。
(3.) いったい誰が、おお、真理にかけて、善を知慮しながら、悪に意識を置き去りにするであろうか。神の許を離れ、ダイモーンたちとともに生活するような者がいようか。いったい誰が、神の息子でありうるにもかかわらず、隷従を快とするであろうか。あるいは誰が、天の市民でありえるのに、暗黒を求めるであろうか、楽園を耕し、天を闊歩し、生命の無雑の泉に与り、エーリアスのように、あの光り輝く雲の跡を疾駆して、救いの雨を観照することができるにもかかわらず。
(4.) ある者たちは、蛆虫どものように、沼や泥、つまり快楽の流れのまわりを這いまわり、返す返すも愚かな放縦を飲み干すのだ、一種豚のごとき人間どもは。というのは、豚どもは、と〔ヘーラクレイトスは〕謂う、清浄な水よりはむしろ「泥を快とし」〔Heraclit. Fr. 13〕、デーモクリトスによれば、「屑の上で暴れまわる」〔Democr. fr. 147〕。
(5.) されば、無論、人足奴隷になってはならないのはもちろん、豚のようになってはならず、嫡出の「光の子として」〔Eph. v. 8〕見上げ、光を見つめよう、あたかも太陽がワシたちをそうするように、主がわたしたちを庶子として咎めることのないように。

10.93.
(1.) そこで、悔い改めよう、そして、無学から知識へ、無思慮から思慮へ、無節度から節度へ、不正から正義へ、無神から神へと立ち返ろう。
(2.) 神へと脱走する冒険は美しい。また、正義の愛者たちは、他にも多くの善きものらを享受するのであるが、それは永遠の生命を追求するわれわれであるが、これこそは、神ご自身がエーサイアスを通してほのめかして語っておられるとおり、「主に仕える者たちにとっての嗣業である」〔Isa. xliv. 17〕。
(3.) まことに嗣業は美しく慕わしく、それは黄金にあらず、銀にあらず、衣裳にあらず(これらは大地に属し、この世で衣魚や盗人が羨望の眼差しもぐりこむ対象である)、あの救いの宝物は、これをわれわれが御言葉を愛する者となって憧れるべき対象であり、この世で雅やかな為業がわれわれとともに船出し、真理の翼によって飛翔するものなのである。

10.94.
(1.) この嗣業は、神の永遠なる契約が、永遠の贈り物として伝えて、われわれに手渡されたものである。この優しく愛するわれわれの父は、本当の父として、勧告し、戒め、教育し、愛してやまぬ。なぜなら、救いを止めぬどころか、最善のことを忠告なさるからである。「あなたがたは義人たれ」と主は言われる。「渇いている者たちは水に来たれ、銀子を持たぬ者たちも来たれ、購え、そして銀子なしに飲むがよい」〔Isa. liv. 17, lv. 1〕。
(2.) 沐浴へ、救いへ、照らしへと呼ばわりたもう、ほとんど叫びながら、いわく。「そなたに大地と海を授けよう、わが子よ、天と、それらの内なるすべての生き物もそなたに恵む。ただひとつ、おお、わが子よ、父を渇き求めよ、神はそなたに無償で示されよう。真理は売りに出されるものではない、神はそなたに、飛ぶものらも、泳ぐものらも、大地に住むものをも与えられる。これらをそなたの感謝に満ちた喜びのために造物なさったのが、神である。
(3.) 銀子で購われるものは庶子であり、それは破滅の子であり、「マモーンに隷従すること」を選び取る者であるが、そなたにはそなたのものをゆだね、父を愛する嫡子、これを通して今なお働き、この者のみを約束なさる、いわく。「地は永代には売ってはならない」〔Le. xxv. 23〕。なぜなら、堕落に定められているわけではない からだ。「大地はすべてわたしのもの」であり〔Le. xxv. 23〕、あなたのものでもあるから、あなたが神を受け入れるならば。
(4.) ここから、〔聖〕書は、当然ながら、信じた者たちに福音を述べ伝える。「主の聖なる者たちは、神の栄光とその力を受け継ぐであろう」。おお、浄福なる者よ、いかなる栄光なのかを、わたしに云え。「眼が見ず、耳が聞かなかったこと、人間の心に浮かばなかったことを。しかし彼らの主の王国に、永遠に喜びに生きるであろう。アメーン」〔Cf. 1Cor. ii. 9〕

10.95.
(1.) おお、人間たちよ、あなたたちは恩寵の神的な福音を持ち、懲罰とは異なる威嚇に耳を傾けるがよい、それらを通して、主は救い、恐れと恵みによって人間を教導なさるのだ。どうしてためらうことがあろうか。どうして懲罰を回避しないでいられようか。どうして賜物を受け取らずにいられようか。また、どうしてより善きものらを選び取り、悪に代えて神を、そして偶像崇拝に智恵を優先させずにいられようか、死に代えて生命を。
(2.) 「見よ、わたしはあなたがたの前に」と彼は謂われる、「死と生命とを置いた」〔Deu. xxx. 15〕。主は、生命を選び取るようあなたを試み、父として神に聴従するようあなたに忠告したもう。「なぜなら、わたしにの聞きしたがい」と彼は謂われる、「望むなら、あなたがたは地の善きものらを喰らうだろう」〔Isa. i. 19〕 ,これが従順の恵みである。「しかしもしあなたがたがわたしに聴き従わず、望みもしないなら、剣と火があなたがたを食い尽くす」。これが反逆に対する裁きである。 「というのは、主の口がこれらの事柄を語ったのだから」〔Isa. i. 20〕。主の言葉は真理の法である。あなたがたは、わたしが菩き忠告者となることをお望みであろう、ね?
(3.) それなら、いざ、あなたがたは傾聴しなさい。わたしは、でき得れば、指し示そう。あなたがたの為すべきは、おお人間たちよ、善そのものに思いを致し、内生する信仰を唱導することである、これはわれわれにとって内発的な信頼できる証人であり、一目瞭然に最善を選択し、それを追求すべきかどうか、<善>に辛労すべきかどうか求めることもない。
(4.) というのも、謂おう、ひとが酩酊すべきかどうかは、異論のあるところである。しかるにあなたがたは、考察するよりも前に酩酊しているのだ。また、侮辱すべきかどうかも、詮索するのではなく、さっさと侮辱しているのである。だが、敬神の念をもって行動すべきかどうかは、ただ求め、この智慧ある神つまりクリストスに聴従すべきかどうか、これこそは、熟考と考察にあたいするとしているのである、それが神にふさわしいか、いったい何であるかも思惟することなく。

10.96.
(1.) あなたが酩酊している時のように、われわれを信じるがよい、それはあなたが思慮深くあるためである。侮辱する時のように、われわれを信じるがよい、それはあなたが生きるためである。しかしもし、ことばに言い表せぬものらの鮮明な信仰を監察して、これに聴従することを望むなら、いざ、御言葉に関する説得をわたしがあなたがたに提示しよう。
(2.) ところが、あなたがたときたら、父祖伝来の習慣が、あらかじめ教育されたあなたがたを今もなお真理に勤しませないので、以下のことがどうであるか、もはや聞き取れよう。じっさい、この名前に対する一種の羞恥「人々にてひどい仇をなすもの」〔Iliad xxiv. 45、Hes. Op. 318〕をして、あなたがたに取り憑かせてはならない、救いから逸らせてしまうからである。
(3.) されば、真理の競走場にお いて公然と衣を脱ぎ捨て、正々堂々と競い合おう、聖なる御言葉が審判員であり、総体の主人が主催者であるところで。なぜなら、われわれに懸けられているのは、小さからぬ褒賞つまり不死性なのだから。
(4.) されば、市場のごろつきのような連中が、あなたがたにどんな値をつけようと、もう少しも気にかけるな、迷信に取りつかれた無神論者ども、無知と狂気のために、当の処刑抗にまで追い詰められている連中、偶像の製作者や石の跪拝者たちが。例えば、この連中は、人間どもを神格化しようと躍起になってきた、マケドーニア人アレクサンドロスをば、「バビュローンを死人と証した〔Oracula Sibyllina vi. 6, xii. 6〕として、13番目の神として登録するために。

10.97.
(1.) そういう次第で、わたしはキオス島のソフィストに驚嘆する、その名はテオクリトス。アレクサンドロス亡き後、テオクリトスは、人間どもが神々に関して有する虚しき思いなしを、市民たちの前で嘲笑し、「諸君」と彼は云った、「元気を出せ、人間たちより先に神々が死ぬのを見届けるまで」〔〕。
(2.) 実際、目に見える神々や、これら作られたものらのでたらめな群を、跪拝しつきあう者は、あの当のダイモーンたちよりもはるかに惨めである。なぜなら。「神というものは」、ダイモーンたちとは違って、「どのみち断じて不正者ではなく、可能なかぎり最も義しい者であって、われわれの中の何びとであれ、やはりできるかぎり義しい者となるよりほかに、彼〔神〕に似たところは何もないのである」〔Plato Theae.176B-C〕。
(3.)

いざ進め、職人衆よ。
ゼウスの娘、眼鋭き技芸の女神に
籠をかかげ、鉄床のかたわらで重い鉄槌を持ち
崇敬するあなたがたは。
     〔Sopho. Fr. 844〕。

石の制作者にして跪拝者たちは、阿呆である。

10.98.
(1.) あなたがたのペイディアス、ポリュクレイトス、さらにプラクシテレースにはたまたアペッレースをして来たらしめよ、そうすれば職人的術知に与るであろう、地上的であるから大地の働き手として。というのは、或る預言の書が謂っているからである、この地上の事物は、聖像に信を置くとき、不幸である、と。
(2.) されば、再度、というのはわたしは呼ばわることをやめるつもりはないからして、卑小術知者たちをして来たらしめよ。彼らのうち誰一人として、呼吸する似像を制作した者はかつてなく、無論、土から柔らかい肉を柔らかくした者もいない。誰が骨髄を液化させ、あるいは、誰が骨を硬くしたか? 誰が神経を張り、誰が血管をめぐらせたか? 誰がそこに血を注ぎ、あるいは、誰が皮膚を広げたか? 彼らのうちの誰が、視力を持つ眼をかつて作り得ただろうか? 誰が魂に呼吸させたであろうか? 誰が正義を賜物とし得たろうか? 誰が不死性を約束しただろうか?
(3.) 総体の造物主、「最善の術知者たる父」のみが、そのような有魂の像として、われわれ人間を創造したもうた。対してあなたがたのオリュムポスの主、似像の似像は、真理からは遙か遠く隔たって、劣悪なアッティカ人たちの唖の作品なのだ。
(4.) なぜなら、「神の似像」とはその御言葉(理性の嫡出の息子こそが神的な言葉であり、光の範型たる光だから)であり、御言葉の似像が、真の人間、人間の内なる理性、神の「似像に従って」、それゆえ、「同質に」〔Gen. i. 26〕なったと言われる者、心のうちなる思慮によって、神的な言葉になぞらえられ、これによって理性的なのである。しかるに、目に見える大地生まれの人間の似像、人像の聖像は、明らかに真理からは遠く離れ、つかの間の型にすぎない。

10.99.
(1.) されば人生は、質料をめぐってかくも多大なる熱心さで従事されるが、狂気に満ちたもの以外の何ものでもないようにわたしには思われる。また習慣は、虚しい栄光によって浪費され、あなたがたを隷従と非理性的な余計事とを味あわせるものである。
(2.) 他方、不法な儀礼と欺瞞的な偽善の原因たる無知、これこそは人間どもの類に破滅的な死神と呪わしい偶像を具えさせたものだが、ダイモーンたちの数数の格好を案出し、これに従う者たちに、永きにわたる死の刻印を刻み込んだ。
(3.) されば、理性的な水を受け取れ、汚れきった連中をして入浴せしめよ、真理の滴によって自分たちを習慣から清祓せよ。清浄な者たちは、諸天に昇らねばならない。あたりまえのことだが、あなたは人間である、あなたを造物したかたを求めよ。最も固有なこととしては、あなたは息子なのだ、父親を認知せよ。
(4.) しかるに、あなたは今なお諸々の罪に留まり、諸々の快楽に身を委ねているのか。主が、「諸天の王国はあなたがたのものである」〔Matt. v. 3〕と語りかけておられるのは誰に対してなのか? もしその気があるなら、あなたがたのものであるのだ、神に向けて選択を持つならばだが。あなたがたのものである、ひたすら信じ、宣教(khrugma)の眼目に従う気があればだが、これに聞きしたがって、ニネウィテース〔=ニネヴェ〕人たちは予想された捕囚のかわりに、嫡出の悔い改めによって、美しい救いを受け取ったのである〔Jn. iii. Matt. xii. 41,Luke xi. 29〕。

10.100.
(1.) されば、いかにすればわたしは、と彼は謂う、諸天に昇れるのか? 主とは「道」である、「狭い」が、「諸天に発し」、狭いが、諸天に通じる〔Matt. vii. 13-14、John iii. 13. 31.〕。地上では狭く蔑まれるが、諸天においては広く、跪拝されるところの。
(2.) そこで、御言葉の不聞者は、無知を迷妄の容認として有するが、耳では闘いていても、魂ではその知から<逸れている者>は、不従順をもたらし、思慮ある者のように見えれば見えるほど、その賢しさが彼にとって悪を増す、思慮を非難者として用いて、最善を選ばなかったからである。人間として本性的に神に親しく生まれついているからである。
(3.) されば、われわれは馬が耕作したり、牡牛が狩猟したりするように強制することなく、それぞれの動物が生まれついている方向へと誘導するように、もちろん人間も、天を観照するために生まれついていて、真に「天上的植物」なのであるから、神の覚知へと呼びかける、これはその本來の、卓越した、固有のことであって、自余の動物を凌駕する点であり、敬神の念を永遠の十分な路銀として備えるよう忠告しながら。
(4.) 耕せ、とわたしたちは謂う、もしあなたが農夫なのであれば、いや、耕しつつ神を覚知せよ、また、航海の恋者をして航海せしめよ、いや、天上の操舵手に呼びかけよ、と。出征するあなたを捉えるのは覚知である。義の徴をもった将軍に耳を傾けよ。

10.101.
(1.) されば、眠りと酩酊とに重くされたひとたちのごとく、素面になれ、そして少し凝視して気づけ、跪拝されている石があなたがたに何を望み、あなたがたが質料のために下らぬ事に熱心に浪費しているかを。あなたがたは財産を無知に向けて、またあなたがたが生きるための生命を死に向けて消尽して、これのみをあなたがたの虚しき希望の限度と見なして、自分自身を嘆くこともできず、またあなたがたの迷妄を憐れむ人々に聴き従う備えもなく、悪しき習慣に隷従し、それに立脚したまま、息吹の最期に至るまで、自発的に破滅への道を突き進んでいるのだ。
(2.) 「すなわち、光が世に来たのだが、人間どもは光よりもむしろ闇を愛したということである」〔John iii. 19〕、〔この光は〕救いにとって障害となるもの、つまり傲り、富、恐怖などを拭い去ることができる、このことを喝破しているものこそ、次の詩句である。

いったいどちらへ、こうたくさんな財宝を運ぼう、またどちらへ私
自身が脚を向けたものか
     〔Odyss. xiii. 204.〕

(3.) されば、これら虚しき幻影を打ち棄て、習慣そのものに別れを告げることをあなたがたは望むのではないか、虚しき思いなしにこう言って。

嘘つきの夢よ、さようなら、やはりあなたは何でもなかったのね。 〔Euripi. IT. 569〕。

10.102.
(1.) いったい、何ゆえあなたがたは、おお、人間どもよ、ヘルメース・テュコーンやアンドキデースのそれ、口にしてはならぬヘルメースのことを考えるのか? ヘルメース〔像〕もそうであるように、石であることは万人に明らかではないか。そして光輪が神ではなく、虹が神ではなく、大気や雲の情態に過ぎず、また日が神ではなく、月も年も、またこれらから織りなされる時間も神ではないのと同様に、太陽や月も、これらによって規定される上述のものらも神ではない。
(2.) されば、審査や懲罰や正義や応報を、善く思慮する者にて誰が、神々だと解しようか? なぜなら、復讐も運命も宿命も〔神では〕なく、国制も栄光も、画家たちが盲目として描き出す富も神ではないからである。
(3.) だが、もし羞恥や恋情や性愛をあんたがたが神格化するならば、恥辱、衝動、美、性交をして、それらに付随せしめよ。したがって、当然、眠りと死とが双子神であるとはもはやあなたがたが考えられないであろう、それらは自然本性的に動物に生じる情態だからである。まして、運も宿命も運命も、女神たちというのは正しくない。
(4.) そして、喧嘩や戦いが神でないとすれば、アレースもエニュオーも〔神〕ではない。さらには稲妻や雷霆や雷雨も神でないとすれば、どうして火や水が神であろうか。さらには、流れ星や彗星や、大気の情態によって生じたものらがどうして〔神でありえよう〕? 運命を神と言う者あらば、行為をも神と言わしめよ。

10.103.
(1.) されば、これらのどれ一つも、また、手でつくられたあの無感覚な塑像はもとより、神とみなされないにもかかわらず、神的な力の一種の摂理がわれわれに関して明白であるならば、残るは次のことに同意する以外にない、つまり、神は本当に唯一であり、唯一の神のみが本当に実在するということである。無理解な連中は、もちろん、マンドラゴラスとか何か他の薬を飲んだ人間どもに似ている。
(2.) で、神は、あなたがたに、いつかその眠りから目覚めて、神は黄金とか石とか樹木とか、行為とか、情動とか、病気とか、恐怖とか、何ぞが神に似ているだと理解しないよう考えている。「すなわち、万物を養う地上には」真に「三万ものダイモーンたちがいる」〔Hes. Op. 252〕が、彼らは「不死なる者」ではなく、「死すべき者」でもなく(というのは、彼らは感覚にも、その結果死にも与かっていないのだから)、人間どもの石製・木製の主人であり、習慣によって人生を損ない、侵害するのである。
(3.) 「しかし、大地は主のもの」と彼は謂う、「その充溢も」〔Ps. 23:1〕。それなら、どうして、主のものらの中にありながら、その主人を敢えて知らずにいられようか。わが大地を去れ、と主はあなたに云われる、わたしが与えた水に触れるな、わたしが収穫した実りに与ってはならぬ。人間よ、神に食糧を返すがよい。 あなたの主人を認知せよ。あなたは神固有の被造物なのだ。そのみずからのものが、無縁な者となってどうして義でありえよう。なぜなら、盗まれて異化されたものは、真理の固有性を盗まれるからである。
(4.) さもなければ、例えば、その仕方においてニオベーのように、いやむしろ、あなたがたにもっと神秘的に表現するなら、へブライ女性(古の人々は彼女をロートの〔妻〕と呼んだ)のように、無感覚状態に陥るのではないか。この女が、ソドムを愛したがために、石に化してしまったことをわれわれは伝承している。ソドム人たちとは、無神論者で、不敬に陥り、心頑なで阿呆であった〔Gen. xix.〕。

10.104.
(1.) これらの声が、神からあなたに語りかけられていると考えよ。「というのは、石や樹木や鳥類や蛇どもが神聖だと考えてはならない、片や人間どもを〔神聖だと考えては〕ならない」。しかし、正反対に、人間どもを真に神聖なるもの、獣どもや石はありのままに理解せよ。
(2.) というのは、人間どもの中の惨めで阿呆な連中は、オオガラスやコクマルガラスによって神は叫ぶが、人間を通しては沈黙すると信じ、オオガラスは神の使者として崇敬するが、神の人は、カアカアと鳴かずホーホーと鳴かぬとして、これを迫害し、わたしが思うに、発言者をば、理性的に、人間愛を持って叫ぶ者を非人間的に殺戮しようと企てる、正義へと呼びかける者を、上方からの恵みを受け容れることもなく、懲罰を受けることもせずに。
(3.) というのは、彼らは神を信じず、その力を学び取ろうともしないからである。その人間愛は語りつくすことができず、その悪を憎む思いは容赦がない。その怒りは、罪に対する懲罰を育む一方、人関愛は悔い改めに対して善く為す〔親切である〕。神からの援助を奪われることほど、憐れなことはない。
(4.) されば、眼の欠損、聴力の鈍麻は、邪悪の自余の貪欲以上に痛ましい。なぜなら、その前者は、天上的視覚を奪われ、後者は神的な学びを盗まれるからである。

10.105.
(1.) ところがあなたがたときたら、真理に対して不具で、理性において盲目、洞察において愚鈍であるので、苦しむことなく、憤ることなく、天と天の創造者を見ることを欲することなく、万物の創造主にして父なる方を聞いたり学んだりすることを求めない、選択を救いに結びつけることをしないからである。
(2.) というのは、神の覚知に真剣な者には、無教養であれ、貧困であれ、無名であれ、無所有であれ、何ものも障害にはならない。本当に財産のなさも真実な知恵を、「青銅〔の槍〕で殪す」〔Iliad, viii. 534〕ことも、鉄〔器〕で幽明境を異にすることを祈る者もあるまい。何よりも次の詩句こそが善く陳べられている。
(3.)

有用な者は、どこででも救いをもたらすもの。
     〔Menand. Fr. 786?〕

なぜなら、正義を渇望者は、欠けたるところのない方の愛者、欠けるところ少ない者として、他ならぬ神自身に浄福を蓄え、そこに虫なく、盗人なく、海賊なくして、善きものらの永遠なる与え主がおられるだけである〔Matt. vi. 20, 21〕。
(4.) されば、呪文を唱える者たちに対して、その両耳を塞いだあの蛇どもに、あなたがたはなぞらえられて当然である。「というのは、彼らの心は」と〔聖〕書は謂う、「蛇に似て、耳しいで耳を閉ざしたコブラのように、呪文を唱える者の声に耳を傾けない」〔Ps. 58, 4- 5〕。

10.106.
(1.) しかしながら、あなたがたをして、粗暴さを調伏せられしめ、柔和さと、われわれのロゴスを受け容れせしめ、有害な毒を唾棄せしめよ、あの者ら〔〕にとって老齢を脱ぐように、あなたがたにできるかぎり破滅を脱ぐことを許すがごとくに。わたしの言葉を聴き、耳を閉ざすことなく、聴覚を塞ぐこともなからしめ、むしろ言われる事を理性に留めよ。
(2.) 美しきかな、不死の薬。ついには爬虫類の這い跡にとどまれ。「というのは、主の敵勢は塵を舐めるだろうから」と〔聖書は〕謂う〔Ps. 72:9〕。地面から空を振り仰げ、天を見上げ、義人たちの踵を待ち望んで、「真理の道」〔2Pet., ii, 2〕を邪魔することをやめよ。
(3.) 思慮深き者、害なき者となれ。きっと主は、単純さの翼を速やかにあなたがたに与えてくださるだろう(地上的なものらは飛翔することをあらかじめ奪われている)。洞窟を棄てて、諸天に住むためである。心の底からただ悔い改めよう、そうすれば心の底から神を受け容れることができるのだ。
(4.) 「あのかたを信頼せよ」と謂う、「民のすべての集いよ、その御前にあなたがたのすべての心を注ぎ出せ」〔Ps. xli. 9〕。邪悪の空無な者たちに向かって言われる、「憐れみ、正義で満たされる、と。信じよ、人よ、人でありかつ神であるかたを。信じよ、人よ、受難者にして跪拝されるかた、生ける神を、
(5.) あなたがた奴隷たちは死んだかたを。人間はみな、あらゆる人間どもの神のみを信じよ。信じ、救いを報酬として受け取れ。「神を求めよ、そうすれば、あなたがたの霊魂は生かされるだろう」〔Ps. 68:33) 。神を求める者は、固有の救いに心を砕く。神を見出せ、生命を得よ。

10.107.
(1.) されば、求めよう、生きるためにも。発見の報酬は神における生命である。「あなたを歓び好機嫌となりますように、あなたをたずねる者は、みな。常に言いますように — 神をして偉大ならしめよ、と」〔Ps. 70:4〕。不死なる人、正義の上に建てられた人間とは、神への美しき讃歌であり、この人のうちに真理の語録は刻印されている。いったい、慎慮ある魂以外のどこに、正義が書き込まれえようか。愛はどこに?  慎しみはどこに? 柔和さはどこに?
(2.) これらの神的な文字を魂に刻み込まれた者たちは、思うに、 み,智慧を美しき l出発点と見なして,人生の一部がどのような浮沈にさらされ ようとも,同じ知恵が救いの防波堤であり波除けだと考えるべきであろう。
(3.) この〔知恵〕によって、父のもとに駆け寄る子どもたちは、子どもたちの善き父親、息子を思惟してきた者たちは、両親にとって善き息子、花婿を記憶している者たちは、妻たちにとっての善き夫、最悪の奴隷状態から解放された者たちは、家僕たちの善き主人となるのである。

10.108.
(1.) おお、獣たちは迷妄の裡にある人間どもより何と浄福なことか。彼らは、あなたがたのごとく無知にとどまるが、真理を装うことをしない。彼らの中に追従者の族はおらず、魚類は迷信に陥ることなく、鳥類は偶像崇拝することなく、ただ天1つに満足する、ロゴスに値するものとされていないため、神を思惟することができないからである。
(2.) そうであれば、あなたがたは、自分たち自身をロゴスなきものらよりもロゴスなき者としてきたことを恥ずかしいと思わないのか。これほどの長い期間、無神論のうちに消尽してきたあなたがたは? あなたがたは子ども、次に少年、次に青年、次に成人となってきたが、しかし決して有用な人物であったことはない。
(3.) 老齢を敬うなら、人生の日没にあたって慎慮せよ、人生の終極であろうとも、神を知れ、あなたがたにとって人生の終極を救いの初めとして取り上げよ。あなたは迷信のうちに年老いてきた、若返って、敬神へと到達するがよい。無悪な子どもたちを神は算入してくださる。
(4.) もとより、アテーナイ人をしてソローンの法に、アルゴス人をしてポローネウスのそれに、そしてスパルテー人をしてリュクゥルゴスのそれにしたがわしめよ。だがあなた自身を神の戸籍に記入するなら、天があなたの祖国、神が立法者である。
(5.) では、その法とはいかなるものか? 「殺すな、姦淫する、子どもを墜落させるな、盗むな、偽証する、あなたの神である主を愛せ」〔Ex. xx. 13-16、Deut. vi. 5、『十二使徒の遺言』2:,2〕。これらの〔法の〕成就、すなわち御言葉の法、聖なる法は、心そのものの中に刻み込まれている。「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せ」〔Le. xix. 18〕、そして、「あなたの頬を打つ者に、もう一方の頬をも差し出せ」〔Luke vi. 29〕、さらに、「欲情を起こすな、欲情を抱いただけで、あなたはもう姦淫を犯したのだ」〔Matt. v. 28〕。

10.109.
(1.) いったいどれほど、人間どもにとって、必要のない事柄を初めから欲しようともしないということは、欲望に与ることよりも、より善いことであろう。いや、あなたがたは、救いの厳しさに耐え忍ぶことを堅持せず、快楽の心地よさを優先させて、感覚を苦くさせる苦味がわれわれを癒し、健康にするが、病人たちの胃を強くするのは薬剤の厳しさであるように、そのように習慣は快くさせ、くすぐるが、後者の習慣は処刑抗に押しやるが、前者の真理は天へと引き上げ、最初は「塩辛い」が、「若者の訓導者」である。
(2.) そして、この女部屋は厳粛であり、長老会は知慮深い。近づきがたいこともなく、捉えることが不可能でもなく、むしろわれわれに最も近く宿っていて、万知のもウゥセースが暗示して謂うには、われわれの3つの部分、「手と口と心」〔Deut. xxx. 14〕に内在している。
(3.) これこそ、全部で3つの部分、つまり思い、行い、言葉で満たされる真理の嫡出の割り符である。だがこれを恐れることはない。また幾多の楽しい想像をして, あなたが智慧から引き隊されるのはよくない。あなた自身が自分で習慣のたわごとを超越するがよい、あたかも子どもたちも成人して玩具を投げ棄てるように。

10.110.
(1.) 神的な力は、凌駕しえない好意と親しみやすさで、大地を速やかに照らし、救いの種子で万物を満たした。というのは、これほどわずかな間に、これほど業を、神的な補給なしに果たすことはできなかったろう、主、外見的には軽んじられ、業においては跪拝され、清浄なる者にして救主にして慰め主、神的な御言葉、本当にこのうえなく輝かしき神、あらゆるものの主人に等しき方が。あの方の息子にして、神の内なるロゴスだった〔John i. 1〕のだから。
(2.) 最初に予告された時信じられないこともなく、人間の顔をとって肉の姿に形づくられて、人間性救出の役割を演じた時、知られずにいるということもなかった。
(3.) なぜなら、彼は嫡出の闘技者であり、被造物の共闘者だからであり、太陽よりも速く、父祖伝来の計らいそのものから身を起こして、われわれのために極めて迅速に神を照らし出して見せた、自分がどこから来たったか、何者であるかということを通じて教え示して、伝令であり仲介者であり、われわれの救い主、生命を与える平和な泉として、大地の表すべてに注ぎ出した。彼を通していわば万物がいまや善きことどもの大洋と化したのである。


[Ⅺ.クリストスの到来によって人間にもたらされる恵みの偉大さ]

11.111.
(1.) では少し、よろしければ、神的な働きを上から数えあげていただきたい。最初の人間は、楽園において自由に戯れていたときは、まだ神の子であった。だが、快楽に負けて(蛇とは、腹に這い寄る快楽、質料に転ずる悪しき大地が寓意されたものだ)欲情にそそのかされた時、この子は不従順のうちに成人し、父のいうことに背いて、神を恥とするようになった。快楽の何と強力であったことか。無垢のゆえに自由であった人間が、罪に縛られる者となったのである。
(2.) この緊縛から彼をもう一度解放せんとして主は、肉をまとい(これこそ神的な秘儀である)、蛇を手なづけ、僭主つまり死を隷従させ、さらに、あまりにも意想外なことではあるが、あの、快楽のうちにさまよい、破滅に捕縛されている人間を、広げた両手でもって自由な者として示したのである。
(3.) おお、驚嘆すべき神秘かな。主は倒されたが、人間は立ち上がり、楽園から落ちた者は、従順のさらに大いなる褒賞つまり諸天に与るのである。

11.112.
(1.) それゆえ、わたしに思われるところでは、ロゴスそのものが天からわれわれのところへやって来たのだから、われわれはもはや、人間的な学びのために、アテーナイとか他のヘッラス、かてて加えてイオーニアで詮索する必要がないということである。なぜなら、もしわれわれにとっての師が、万物を聖なる力つまり造物、救い、慈悲、律法、預言、教えによって満たす方であるならば、今やこの師はすべての事柄を教授し、アテーナイもヘッラスも、もはやすべてがこのロゴスのものだからである。
(2.) 例えば、クレータ王ミノースをゼウスの親友であると記す詩的な神話〔Odyss. xix.179〕をあなたがたは信じなかった一方、わたしたちが神の弟子となり、本当に真実な知恵 — 愛知を窮めた者のみがほのめかし、クリストスの弟子たちが理解し、布令する — を解き明かすわれわれをも信じない。
(3.) いやそればかりではない、クリストスは、いわば、分かたれることがない。異邦人でもユダヤ人でもヘッラス人でもなく、男性にあらず、女性にあらず。だが、聖なる霊によっ塑造しなおされた神の新しき人〔Gal. iii.28, vi.15〕なのである。

11.113.
(1.) そのうえ、他の忠告や戒めであれば、苦痛で、部分的な事柄 — 結婚すべきかどうか、政事にたずさわるべきかどうか、子をもうけるべきかどうか — に関わる。だが、勧告のみは普遍的なものであり、明らかに人生全体に関わるものであり、あらゆる時宜、あらゆる情況にあって至高の目的つまり生命に向かって緊張するのが、敬神である。われわれが永遠に生きるために必要なのは、これに従ってのみ生きることである〔Cf. 1Tim. vi.6, 1Tim. iv.〕。しかるに愛智とは、長老たちが謂っているように、長期にわたる忠告であり、永劫に記憶された知恵に対する恋情である。「主の掟は遠く輝き、両眼を照らす」〔Ps. xviii, 9〕。
(2.) クリストスを受け容れよ、凝視することを受け容れよ。あなたの光を受け容れよ、

神かそれとも人間か、あなたがはっきり見分けがつくように。
     〔Iliad, v.128〕

 われわれを照らすロゴスは、黄金や高価な石よりも甘美であり、蜜や蜜蝋よりも望ましい」〔Ps. xix. 10. xviii. 11〕。どうして望ましくないことがあろうか、闇に埋もれた理性を、光り輝くものとし、「光をもたらすものとして」魂の眼を研ぎすますものが」〔Pl. Tim. 45B〕。
(3.) というのも、「太陽がなければ、その他の星辰はすべては夜である」〔Heraclit. Fr. 99〕ように、もしわれわれがロゴスを悟らず、それによって照らされることがなければ、食用にされる鳥類に異なるところなく、闇のうちに肥育され、死に養われることになる。
(4.) 光を容れよう、神を容れるために。光を容れ、主の弟子となろう。「あなたの名をわが兄弟に語ろう。集会のうちで、わたしはあなたを讃えよう」〔Ps. xxii. 22〕。讃えよ、あなたの父なる神をわたしに語れ。あなたの語りが救いとなり、その歌がわたしに教えるだろう〔Cf. Eph. v. 14〕。わたしは今に至るまで、神を求めつつ、今に至るまでさまよってきた、
(5.) だが、あなたが、主よ、わたしを照らして下さっ たので、わたしはあなたを通して神を見出し、あなたから父を受け取り、あなたの共同相続人となった〔Rom. viii. 17〕、あなたは兄弟を恥とはなさらない方であるから〔Heb. ii. 11〕。

11.114.
(1.) されば、取り除こう、真理の忘却を取り除こう。無知と闇とを視覚の霞のように引きずり降ろして、有りて有る神を見つめよう、この方に先ず「ようこそ、光よ」というこの声で讃歌したうえで。闇に埋もれ、死の陰に閉じ込められたわれわれに、天 から太揚よりも清浄、この世の生命よりも甘美なものが輝いた。
(2.) その光は永遠の生命であり、これに与かるかぎりのものは生きるが、夜はこの光 を警戒し、恐怖の故に沈んで、主の日の前に道を譲る。〔今や〕不眠の光が万物に行き渡り、日没が日の出に譲位した。 (3.) これこそ「新しき創造」〔Gar. vi. 15〕として望まれていたものである。なぜなら、万物を踏みしだく「正義の 太陽」〔Ma. iv. 2〕は、父を真似て、人間性を等しく巡行し、「自らの太陽をすべての人々の上に昇らせ」〔Matt. v. 45〕、真理の露を滴らせる。
(4.) この方が日没を日の出へと移し、死を生命へと十字架に懸け、人間から破滅を奪い取って、霊圏に懸けた、腐敗を不朽性へと植え代え、地を天に変容させて、この神の農夫は、「幸いを示し、民を」善き「業へと目覚めさせ」、真なる「生を思い起こさせて」〔Arat. 6 ff.〕、まさに偉大にして神的、取り除き得ぬ父の遺産をわれわれに賜り、天上的な教えによって人間を神化させ、「人々の思いに法を授け、その心に法を書き記す」〔Heb. viii.10-12、Jer. xxxi. 33, 34〕方である。
(5.) いかなる律法を記しているのか? 「小さき者から大きな者に至るまで、万人は神を知るべし、そうすればわたしは」と神は謂う、「彼らに対して憐れみ深くなり、彼らの罪を思い起こすことはすまい」〔同上〕。

11.115.
(1.) 生命の律法を受け容れよう、勧告してくれる神に聴従しよう、神が、憐れみ深いかたであることを学知しよう、報酬を要求なさらないけれども、感謝として、従順さを、そこに住まわしていただく一種の借り家[敬神]をその神に返礼しよう。

青銅の物の具に換え、黄金のを、九牛のに百牛の値のものを。
     〔Iliad, vi. 236〕
つまり、わずかな信仰の地に代えてあなたにお与えになった、かくまで大きな〔地〕は耕すために、水は飲むため、他の〔水〕は航行するために、大気は呼吸するために、火は仕えるために、世界は住むために。此岸から天上に移民することをあなたにお許しになった。これらの、またこれほど大いなる造物と恩寵を、あなたのわずかな信仰に対する報酬となさったのである。
(2.) そのうえ、魔法を信じる者たちは、護符や呪文を実際救済力があるとして受け入れるのだが、あなたがたはといえば、まさに天上的なもの、救いの御言葉に触れ、神の呪文に信を置いて、魂の病にほかならない情動から解放され、罪から引き離されることを望むのではないか? 罪とは永遠の死だからである。
(3.) 実際、完全に歯なしで盲目、あたかも土竜のように、あなたがたは食べる以外は何もせず、闇の中で暮らし、破滅へと盲進している。しかし真理がある、真理は、「闇から光が照る」〔2Cor. iv. 6〕と叫んだかたである。
(4.) されば、人間の中の隠された部分つまり心の中に、光をして照さしめよ、そうして、覚知の光線をして、内面に隠されたものが出現し、放射するよう昇らしめよ、人間を、光の学徒を、クリストスの弟子にして共同相続人を。とりわけ、敬虔で善き子に、最も貴重で畏れ多いものとして、子どもに優しさを課し、救済を命じるところの、善き父の名が覚知に至ったからには。
(5.) で、彼に聴従する者は、万事においてまさしく豊かである。神に随従し、父に聴従し、さまよって彼を知り、神を愛し、隣人を愛し、戒めを満たし、褒賞に憧れ、約束を主張する。

11.116.
(1.) しかし、神にとっての常在の課題は、人間どもの群を救うことである。このために善き神は善き羊飼いをさえ遣わした。そしてロゴスは真理を単純化して、悔い改めた者たちは救われるとか、聞き従わない者たちは裁かれるとかするよう、人間どもに救いの高みを示した。これこそが正義の告知であり、聞き入れる者たちにとっての福音であり、聞き入れない者たちにとっての裁きなのである。
(2.) いざ、大音響の喇叭が鳴り響いて将兵たちたちを集合させ、戦闘開始を告げる。だが、クリストスは、大地の果てまで平和の謁べを吹き送って、いったい、ご自身の平和の将兵たちをお集めにならないなどということがあろうか? よろしい、おお、人間よ、血と御言葉によって、流血をもたらさぬ軍勢をお集めになり、諸天の王国を彼らの手に委ねられたのだ。
(3.) クリストスの喇叭はその福音であり、これを彼が吹き、われわれは聞いた。平和的に完全武装しよう、「義の胸当てを着て」、信仰の楯を執り、救いの兜をかぶって「霊の戦刀、つまり、神の御言葉を」研ごう〔Eph. vi. 14-17〕。 かくして使徒がわれわれを平和的に整列させる。
(4.) 以上がわれわれの不壊の武具である。これらで完全武装し、邪悪に対抗布陣しよう。邪悪によって点火された矢弾を、御言葉によって浸された水したたる切っ先で消し止めよう、善行には感謝の祝福を報い、神は神的な言葉で讃えて。「なぜなら、あなたがなおも語りかける時、のべられる」と謂う、「『見よ、わたしはここにいる』と」〔Isa. lviii. 9〕。

11.117.
(1.) おお、この力の聖にして浄福なことよ、依って以て神が人間どもとともに行住坐臥なさるところの力の。されば、在るものらの最善の有性の模倣者にして同時に奉仕者となることこそ、結構でより善いことなのだ。というのは、敬虔に奉仕する以外に、ひとは神を模倣することはできないのであり、また、模倣する以外に、奉仕し敬神することもできないからである。
(2.) 少なくとも、本当に天上的で神的な恋情は、こうして人間どもに付け加わり、きっと魂そのものの中に、神的言葉によって再燃する本当の美が輝きでることができる時に。そして最大の事柄、つまり、救われることが、真にそう望むことに同時に伴走する、自由意志と生命とがいわば軛につながっているからである。
(3.) だからこそ、真理のこの勧告のみが、友たちのうち最も信頼に足る者たちに譬えられる、〔これは〕最期の息を引き取るまで傍にいて、魂の全体的で完全な霊にとっての善き導師として、天上へと昇る者たちに生じるからである。いったい何をあなたに勧告しようか? わたしはあなたが救われることを熱望している。それをクリストスは望んでおられる。一言でいえば、彼は生命をあなたにお恵みになる。
(4.) それはいったい何者であるのか? 端的に学び知るがよい。真理の言葉、不滅の言葉、人間を生まれ変わらせ、これを真理、すなわち、救いの突き棒へと連れ行き、破滅を駆逐し、死を追放し、人間どもの内に神殿を築く方である、人間どもの内に神を据えるために。
(5.) 神殿を清めよ、そうして、諸々の快楽や無頓着をば、1日限りの花のように、風や火に任せよ、対して慎みの果実の方は、思慮深く耕せ、あなた自身を初物として神に供えよ、業であるのみならず、神の恩寵でもあるために。クリストスの知己には、王国に現れる価値があること、王国に値すると認められること、どちらも必要なことだからである。


[Ⅻ.古い過ちを棄て、クリストスの教えに聴従することへの勧め]

12.118.
(1.) されば、習慣(sunhvqeia)を逃れよう、難所の岬とか、カリュブディスの威嚇とか音楽的なセイレーンたちに対するごとくに逃れよう。それは人間を窒息させ、真理から引き離し、生命から遠ざけ、罠、処刑抗であり、深淵であり、悪しき篩であるのが習慣である。

あそこに見える煙や波から、外へしっかりこの船を引き離して
     〔Odyss. xii. 219-20〕。

(2.) 逃れよう、おお、同船者たちよ、この波から逃れよう、それは火を吐く、骨や屍体が積み重ねられているのは、悪しき島であり、そこでは麗しき遊女、つまり快楽が歌っている、野卑な音楽を喜びとして。

さあさあこちらへ、評判の高いオデュッセウスさん、アカイア勢の
たいした誉れの。お船をどうかお寄せください、私たちの声を聞いていただけるように
     〔Odyss. xii. 184-5〕。
(3.) 彼女はあなたをたたえる、おお、船人よ、そして名も高き者と呼んで、この遊女は、ヘッラス人たちの誉れをわがものとしようとする。彼女には屍の世話をさせておくがよい、おまえには天上の霊が来援する。快楽は見過ごすがよい、〔快楽は〕欺く。
尻振り女がおまえの心を瞞すことがあってはならない、
追従事を喋りたて、おまえの納屋を窺って。
     〔Hes. Op. 373-4〕。
(4.) 歌の傍は通り過ぎよ、〔歌は〕死をもたらす。その気になりさえすれば、破滅に打ち勝ったのだ、材木に身を縛り付け、あらゆる破滅から解かれる、あなたの舵とりをするのは、神のロゴスであり、諸天の港に入港させるのは、聖なる霊である。そのとき、あなたはわたしの神をまのあたりにし、その聖なる神秘に入信させられ、諸天において闡明されたものら、わたしのために蓄えられたものら、ひとの「耳が聞いたことも、心に思い浮かんだこともないものらを」〔1Cor. ii. 9 〕享受するであろう。
(5.)
太陽が、太陽が二つに見える。
テーバイもまた二つ。
     〔Eurip., Bacch., 918〕。

偶像を狂信した或る者はそう言った、まぎれもない無知に酩酊して、しかしわたしは、酔って語った者もある。だがわたしは、この酔っぱらいを憐れみ、このような非理性な者を、慎み深い救済へと説き勧めたい、主も歓迎なさるのは、罪人の悔い改めであって、死ではないからである。

12.119.
(1.) 来たれ、おお、狂える者よ、テュルソス杖を突くことなかれ、キヅタの冠を戴くことなかれ、ミトラを投げ捨てよ、鹿皮を投げ捨てよ、慎み深くせよ。わたしは御言葉と、御言葉の神秘をあなたに示そう、あなたの似像に合わせて説明して。これは神に愛された山であって、キタイロンと違って悲劇の主題になることなく、真理の演劇に捧げられ、素面の山、聖なる木々の陰濃やかな山である。ここでバッカスの秘儀を行うのは、「雷霆に撃たれた」セメレーの姉妹たち、マイナスたち、汚らわしい肉の分配に精通した女たちではなく、神の娘たち、美しき雌羊たち、御言葉の崇高な狂宴を予言し、慎み深い合唱舞踏隊を召集する女たちである。
(2.) 義人たちは合唱舞踏隊であり、歌は、万物の王への讃歌である。乙女たちは弾じ、天使たちは栄化し、預言者たちは語りかけ、音楽の響きは流れ出、駆け足でティ アソスを追いかけ、召命された者たちは、父を受け容れることを渇望して急ぐ。
(3.) わたしのもとに来たれ、おお、年長者よ、あなたも、テーバイを後にし、占卜術やバッコスの熱狂を打ち捨てて、真理へと手招きされるがよい。見よ、頼れる〔十字架という〕材木をわたしはあなたに与える。急げ、テイレシアースよ、信じよ。あなたは見るだろう。クリストスは太揚よりも明るく照らし、彼のおかげで盲人たちの眼は視力を回復する。夜はあなたから逃げ、火は恐れ、死はなくなるだろう。あなたは諸天を見るだろう、おお、老人よ、テーバイを目にすることのなかった者よ。

12.120.
(1.) おお、真に聖なる秘儀よ、おお、紛うことなき光よ。わたしは松明をかかげて諸天と神とを観入し、秘義に与って聖なる者となったが、主は大祭司となって、秘義に与った者を光で導いて封印し、信を得た者を永遠に守られる者として父に供える。
(2.) これが、バッコスの祭である。お望みなら、あなたも入信せよ、そうすれば、あなたは天使たちとともに合唱舞踏する、不生・不滅にして有りて有る唯一神のまわりを、神のロゴスがわれわれといっしょに讃歌する時に。このイエースゥスは永遠であり、同じ一にして父なる神の一なる偉大な大祭司であって、人間どものために祈り、人間どもに迫りたもう、「聞きたまえ、よろずの族よ」〔Iliad, xvii. 220〕、否むしろ、異邦の民人であれヘッラス人たちであれ、人間どものうち思量あるかぎりの者たちよ。わたしが呼びかけているのは人間どもの全種族だが、神の意志によってわたしがその造物者となったところのものである。
(2.) わたしのもとに来たれ、一なる神と、神の一なるロゴスに配置されるために、そうして、ロゴスの点で、言葉なき生き物たちよりもより多くを取れ、だが、あらゆる死すべきものらからは、そなたらにのみ不死性が結実することを許す。なぜなら、わたしは望む、この恩寵に与ることをもあなたがたに望む、完全なる親切つまり不朽性を豊かに供給することを。つまり、あなたがたにロゴスを、神の覚知を恵み、完全なるおのれ自身を恵もう。
(4.) これがわたしであり、これが神の望むところであり、これが協和であり、これが父の調和であり、これが息子であり、これがクリストスであり、これが神のロゴスであり、主の腕、全体の力、父の意向である。おお、すべては似像であったが、すべてが適切であったわけではない。わたしはあなたがたが原型めざして矯正されることを望む、それはあなたがたがわたしに似てもいる者になるために。
(5.) わたしはあなたがたに信仰の香油を塗油しよう、それによって腐敗を打ち棄てよ、また、わたしは義のありのままの姿を示そう、それによって神に向かって昇れ。「労苦している者、重荷を負っている者はみな、わたしのもとに来るがよい。わたしがあなたがたを休ませるであろう。わたしの軛を自分で担い、わたしから学びなさい。わたしは柔和であって、心の謙った者であるのだから。そうすれば、あなたがたの魂に休息を見出すであろう。わたしの軛は穏やかで、わたしの荷は軽いからだ」〔Matt. xi. 28-30〕。

12.121.
(1.) 急ごう、走ろう、おお、ロゴスの神の友たる・神らしき聖像[人間ども]よ。急ごう、走ろう、あのかたの軛を担おう、不死性に専心しよう、人間どもの美しき馭者、つまり、クリストスを愛そう。彼は古きものとともに仔驢馬を軛に繋いで導かれた〔Cf. Matt. xxi. 1-7〕。そうして人間どもの一対を軛に繋ぎ、不死性に向けてその戦車を導く、ほのめかしていたことをはっきりと成就するため、神めざして急がせて、かつてはヒエルゥサレームめざして、今は諸天へと追い入れて、父にとって最美の見物は、勝利をもたらす永遠の息子である〔Cf. Isa. lxiii. 1.〕。
(2.) されば、われわれは美しきものらを愛名する者、神の友たる人間となろう、そうして、善きものらの最大のものら、つまり、神と生命とをわがものとしよう。助け手は御言葉である。これによって勇み立とう、そうすれば、銀や黄金に対する渇望はもとより、名声に対する渇望がわれわれを駆りたてることはけっしてない、真理に対するロゴスそのものに対する渇望ほどには。
(3.) なぜなら、当の神にとってさえ決して嘉されることではないからである、もしわれわれが最も価値ある事柄を最小のものとなす一方、無知・無学・無頓着・偶像崇拝という明白な暴慢や極端な冒涜を、より価値あるものとして選び取るならば。

12.122.
(1.) というのは、哲学者たちの子どもたちが、無分別な連中が為すかぎりのことはみな、神法に悖る振る舞いであり、不敬行為であると看做すのは場違いではなく、あまつさえ、無知それ自体を狂気の1種と素描して、多衆は狂っている以外の何ものでもないと認めている。
(2.) されば、慎慮することか狂気に陥ることか、彼らにとってどちらがより善いか、ロゴスの選択に異論の余地はない。そこでわれわれの為すべきは、真理をしっかと持して、慎慮して全力で神に追随すること、そして万物を、あるがまま、あのかたのものとみなすこと、かてて加えて、われわれもあのかたの弟子であるから、その所有物の中で最美のものとして、自分たち自身を神に委ねることである、主なる神を愛し、これを全生涯における仕事と考えて。
(3.) もしも、「友のものは共有」〔Plato Phdr. 279C〕であり、また、人間は神の友(というのも、実際、ロゴスの仲介によって神の友になったのだから)であるなら、万物は人間のものとなる、万物が神のものであり、万事が双方の友たちに共有であるからには。
(4.) されば、われわれにとって、敬神的なクリストス信者のみが裕福であり、慎慮深く、生まれ善く、またこのようにして同質的に神の似像であると言うべき時であり、また〔次のように〕言いかつ信じるべき時である、「クリストス・イエースゥスのおかげで「慎慮を持って義にして神法にかなった者」〔Plato Theae. 176C〕となり、そのかぎりにおいてすでに神にも等しい者となった、と。

12.123.
(1.) とにかく、預言者は〔次のように〕言って、この恵みを隠していない。いわく、「わたしは云った — おまえたちは神々、おまえたちはみな至高者の息子たち」〔Ps. lxxxii. 6〕と。いうのは、われわれを、われわれをこそ養子にしたまい、ひとりわれわれのみの父と呼ばれることを彼は望んでおられる、聴従しない者たちの〔父ではなく〕。むろん、これこそが、クリストスの随伴者たるわれわれの在りようである。諸々の望みがかくあるように、ロゴスもしかあり、ロゴスがかくあるように、行為もしかあり、所行がかくあるように、人生がしかある。クリストスを知った人間どもの全生涯は有用である。
(2.) 行論は、思うに、充分である、たとえ人間愛から行論を長々と進めたとしても、わたしの持てるものを神から注ぎ出すのみである、あたかも、善きものらの中の最大のもの、つまり、救いを目指して勧告して。というのは、もちろん、終止をいかようにも断じて有することなき生命に関しては、密儀解説するロゴスでさえ決して終わろうとはしないからである。しかしあなたがたにはまだ次の結論が選ぶべく残されている、裁きか恩寵かいずれを選ぶべきかが。わたしとしては、そのどちらがより善いか、異論の余地はないと思う。むろん、生命が破滅に対比されることさえ神法にもとることだが。

2016.09.09.

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