[天上位階論]訳註
- 「ティモテオス」
使徒パウロの弟子の一人であるテモテのことを指していると思われる。使16:1以下および1テモ、2テモ参照。De mystica theologia Ⅰ.,1にも出てくる。
- 「降りて来るのである」
『新共同訳聖書』では「降りて」という言葉はないが、表現を正確にするために補った。「もろもろの光の父」の部分は新共同訳では「光の源である御父」である。非物質的な光は分割されることなく空間に広がり、広がりながら自分自身においては不変不動のままであり、知性によって知ることができるものの輝きそのものをその放射によって表す。そのよぅな光の概念はプラトーン主義や新プラトーン主義の常套概念であ る。Plato, Respublica 507E (『国家』藤沢令夫訳、岩波書店、1976年);Plotinus, Enneades IV, , 10; IV, 5, 3; V, 9, 1; VI, 4, 8 (『エネァデス』田中美知太郎・水地宗明・田之頭安彦訳、中央公論社、1986-87年);Proclus. In Platonis Rem publicam commentarii, ed. W. Kroll, Leipzig 1889-1901, I, 277; In Platonis theologiam libri sex, ed. E. Portus, Hamburg 1681, VI, 12; Procli Gommentarium in Platonis Parmenidem, ed. V. Cousin, Paris 1864/Hildesheim/New York 1980, 1044.
- 「神化的」
「神に化する」といっても文字通りの意味ではなく、神が被造物を自分の近くへ限りなく引き寄せることである。
- 「還帰させるのである」
第1節に取り上げられている新プラトーン主義の「発出」と「還帰」のテーマは聖書の二つの引用で支えられている。このテーマは元来「止留」と「発出」と「還帰」の三要素が相互に連関して一つのまとまった働きないし構造をなすもの(これを「卜リアス」〔triavVと呼ぶ)もので、後期新プラトーン主義の基本 的な概念の枠組みである。プロクロス(Proklos 410/12-85年)は先輩のイアンブリコス (lamblichos 250頃―325年頃)とシュリアノス(Syrianos 431/32年頃以降アカデメイア学頭)からこのテーマを継承し、簡潔に要約している 「すべての結果はそれの原因に止留し、それから発出し、それに還帰する」(Institutio theoogica 35〔『神学綱要』田之頭安彦訳、中央公論社、1976年〕)。発出と還帰は、時間的運動でも空間的運動でもない。ディオニューシオスはこの枠組みをとりわけ神の啓示を表現するのに使っている。神の啓示はそれを受け取る人々に「下降し」(発出)、彼らを「引き上げる」(還帰)。
- 「聖なる言葉」
ここの「言葉」は単数形(ロゴス〔lovgoV〕)で、聖書に語られている言葉、すなわち聖句を意味するが、知性によって把握される深い神秘的な意味を秘めている「言葉」というニュアンスがある。
- 「神に向かっている」
聖書の「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」とあるうちの、「神によって保たれ」の部分を省略することによって、相反的方向性をもつ「発出」と「還帰」の運動構造をより明確に示すことになっている。
- 「この方によって」
ロマ5:2「このキリストのおかげで、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光に与る希望を誇りにしています」が念頭に置かれているであろう。
- 「聖書」
「聖書」と訳した元のギリシア語は複数形(ロギア〔logiva〕)で、一般に「言葉」を意味するが、新約聖書では「ロギア」は神の言葉を意味した。ギリシア教父はこの語でそのほかに預言者やキリス卜の言葉も含めて聖書ないし聖書に記されている言葉を意味し、ディオニューシオスは基本的にはそういう新約聖書や ギリシア教父の用法に従っている。しかし他面で、ポルフュリオス(Porphyrios 232/33-305年頃)、イアンブリコス、プロクロスなどの新プラトーン主義者が神秘的な意味を秘めていると受けとめていたプラトーンやカルデア神託の言葉を指すのに「ロギア」という語を使っており、新プラトーン主義からの大きな影響下に著述したディオニューシオスはそのようなニュアンスをもこの「ロギア」に込めている。
- 「天上の知性」
天使のこと。
- 「観想しよう」
ここで使われている「観想する」(ejpopteuvw)は神秘主義思想において一般的にも使われている用語であるが、キリスト教神秘主義においては最高段階の神秘の認識に関する用語である。
- 「純一なる輝き」
万物を自らの一性へと統一する神の根源的一性の輝きである。
- 「統合するために」
「統合」は弁証法の用語であって、「分割」の反意語である。ディオニューシオスにおいて弁証法は単に論理であるだけでなく、存在の運動構造そのものでもある。
- 「発出」
神による万物の創造は一性の多性化、内面性の外化、発出の側面をもつ。
- 「照らす」
ニコ3:18「われわれは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていきます」。
- 「別のことではありえない」
神性の根源の光はわれわれに対しては、「帳(とばり)」に隠れつつ現れる。「帳」とは、本書第1章の残りの部分
とDe divinis nominibus 1, 6に示されているように、聖書であり典礼である。第2節全体は止留、発出、還帰という新プラトーン主義的動的存在構造がよく反映している。
- 「聖なる位階」
「われわれの位階」とは、教会の位階のこと。
- 「芳香」
「芳香」は、天使が神から直接その発散を受けるものであり、人間の行う典礼では秘跡の油を象徴する。De ecclesiastica hier-archia IV, 3, 5 参照。香りの識別については本書XV, 3 参照。
- 「配列の秩序」
教会の位階のこと。天上の位階との対応関係についてはDe ecclesiastica hierarchia I, 3 参照。
- 「天上の諸存在」
「天上の諸存在」とは天使たちのこと。
- 「与えられたのである」
知性で捉えることのできる天上界と感覚で捉えることのできる地上界、天使の次元とわれわれ人間の次元、ひいては『天上位階論』と『教会位階論』とが関係づけられうることが示唆されている。
- 「述べなければならない」
この第1節は本書全体を概括している。位階の目的は本書第Ⅲに、「聖なる形象」の議論は本書Ⅾに見られる。
- 「神のことば」
「神のことば」(原語は単数形で「テオロギア」〔qeologiva〕)と訳した元のギリシア語を文字通りに訳すると、最も一般的な現代語では「神学」となるであろう。そしてこの用法を「より広義の神学」と見る見解もあるが、それは採らない。ディオニューシオスはその語で「聖書」あるいは「聖書に記されていることば」を指している。もう一つの用語「ロギア」も形は複数形であるが同様に聖書を意味しているから、「テオロギア」は「ロギア」と同意語と見てよい。神に関わる言葉のうち、本訳では「聖書」の意味での言葉を「ことば」と訳し、それ以外の意味での言葉は「言葉」と訳した。
- 「記述者たち」
「神のことばの記述者」とは聖書記者のこと。
- 「理由がある」
神秘に対する畏敬と秘密の保持についてDe divinis nominibus I, 8 には「それゆえ、親愛なるテモテよ、いとも聖なる教示に従って、いまだ神秘を教示されていない人々に神に属する事柄を語ったり漏らしたり しないよう気をつけなければならないJ、De mysticatheologia 1,2 には「これらのことがいまだ神秘を教示されていない人々にけっして聞き知られることのないよう注意しなさい」と語られている。
- 「表現した」
ダニ10:5以下、マタ28:3、本書XV,2, 328D; 4, 333A 参照。
- 「聖なる人々」
一般的な現代語で直訳すると「神のことば」が「神学」となるのと同様に、「神について教えている人々」は、「神学者」となるが、ここでは主としてイザヤ、エゼキエル、ダニエルそのほか天使について述べている聖書記者たちのことを指している。
- 「美しかった」
新共同訳では「すべてのものはきわめてよかった」であるが、原文の文脈から本文のように訳した。
- 「知性を有している者たち」
「知性によって捉えることのできるものであって、しかも知性を有しているものたち」とは天使を指す。天使は普通、単に「知性」として表現されることが多いが、思惟するものとしての知性は自分自身を思惟することから、「知性によって捉えることのできるもの」というように知性の対象としても表される。
- 「神の愛」
ディオニューシオスは神の「愛」を表すギリシア語として本書では「エロース」(e[rwV) しか使っていないが、『神名論』ではほかに「アガぺー」(ajgavph)という語も使っている。特にDe divinis nominibus IV,12 では神の愛として「エロース」と「アガぺーJという二つの名称が同じ意味と価値をもっていることが解説されている。ディオニューシオス以前の神の愛(エロース)についての見解の例としては、たとえばニュッサのグレゴリオス(Gregorios 335頃-94年)の『雅歌講話』(In Ganticum Canticorum homiliae 宮本久雄訳、本集成第2巻『盛期ギリシア教父』1992年、所収)第六講話(邦訳475四七五頁)参照。
- 「正義の太陽」
Cf. Pseudo-Dionysius Areopagita, Epistulae 9, PG 3, 1104C; 1105B.
- 「輝く光」
1ヨハ1:5「神は光であり、神には闇がまったくない」。マタ5:14-16参照。
- 「輝く火」
出3:2「そのとき、柴のあいだに燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない」、知18:3「あなたは、御民には燃える火の柱を与えて、未知の旅の案内者とし、栄えある放浪の旅の、彼らを苦しめることのない太陽とされた」。神と天使の象 徴としての「火」については本書XV, 2, 329A および Epistulae 9, PG 3, 1108C 参照。
- 「水」
ヨハ7:38「私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになるJ、箴18:4「人のロの言葉は深い水。知恵の源から大河のように流れ出るJ、ヨハ4:14 「しかし、私が与える水を飲む者はけっして渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」。ほかに De ecclesiastica hierarchia I, 3, PG 3, 373C; De divimis nominibus I, 6, PG 3, 596B; Epistulae 9, PG 3, 1104B 参照。
- 「香油」
雅1:3参照。『教会位階論』第4章はキリストの象徴としての香油を論じている。
- 「隅石」
イザ28:16「私は一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い隅の石である」、エフェ2:19-21「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられている。その要石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」。
- 「伝えたのである」
詩22:7「私は虫けら、とても人とは言えないJ。この「虫けら」とは神のことではなく、ダビデを指すであろう。「虫けら」というのは「蚯蚓」や「蛆虫」などの蠕虫のこと。
- 「聖なるもの」
文字通りにはエルサレム神殿の聖所の中のさらに特定の場所で、「契約の箱」が置かれた「至聖所」を意味するが、ここではその文字通りの意味ではなく、神性の根源の神秘を意味している。王上8:6、代下 4:22、5:7、ヘプ9:3参照。類似表現として、出26:33、レビ16:33、ヘプ9:1-15参照。
- 「わが子よ」
「子」への奥義の伝授は魔術や錬金術のテクストで頻繁に言及されるが、そこでは「子」は血縁上の子、あるいは賢者の神秘の継承者、あるいは師匠の後継者である。ここの表現もそうした当時の思想界の環境を反映していると思われる。
- 「隠れ家」
「知性にふさわしい隠れ家」とは、知性による観想はそれ以下の段階の認識にとっては隠れているから、知性そのものが、知性によって知られる聖なるものの隠れ家となるという意。
- 「似たもの」
知性の観想によって知られるものが「一なるものに似たもの」であるのは、それが一なるものたる神そのものに近いものとして類似性を有しているからである。しかし、それは依然として一なるものそのものではなく、それに類似したものにすぎない。
- 「群衆」
「一なるものに似たもの」と「群衆」との対比表現にはプラトーン以来の一と多の哲学的対比概念の伝統が反映している。特に新プラトーン主義においては、一と多の対比は善と悪、優れたものと劣ったものの対比と相関性をもつ。
- 「活動」
この位階の定義以外の一般的規定については本書III, 2, 165B-C; De ecclesiastica hierarchia I, 3, PG 3, 373C; V, 1-2, PG 3, 500D-504A 参照。
- 「合一することである」
この神への同化と合一の思想はプラトーン以来追究されたものであるが、ディオニューシオスの時代の思想環境はその思想を継承した新プラトーン主義に主導されており、すでにその影響下にギリシア教父はキリスト教思想を展開していた。ディオニューシオス自身にとっても、彼に先行するギリシア教父にとっても、その新プラトーン主義的思想の解釈は聖書の「主に結びつく者は主と一つの霊となる」(1コリ6:17)という言葉を基礎にしている。
- 「汚れなき鏡」
知7:26「知恵は永遠の光の反映、神の働きを映す曇りのない鏡、神の善の姿である」。
- 「神の働きを助ける者」
1 コリ3:9「われわれは神のために力を合わせて働くものであり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」。
- 「完成そのもの」
浄化、照明、完成のトリアスの適用は『教会位階論』における助祭、司祭、司教という三つの教会の位階の議論において特に顕著である。
- 「ためなのである」
聖書的解釈に関するこの叙述と De ecclesiastica hierarchia IV, PG 3, 472D の典礼的解釈に関する叙述は相似している。
- 「誰も見た者がいない」
ヨハ1:18「いまだかつて、神を見た者はいない」。出33:20-23、1テモ6:16、1ヨハ4:12、Epistulae 1, PG 3, 1065A 参照。
- 「教えているのではないのだろうか」
ガラ3:19「律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです」。ここでは、律法はモーセ に対しては神から直接与えられた(出31:18)のに対して、われわれにはその律法にもとづいて「神のことば(聖書)」が天使の仲介によって与えられたとされているので、モーセが律法を神から直接に与えられたのか、それとも天使を介して与えられたのかということが問題になっているのではない。
- 「理解している」
イエスの人間愛あるいは人類に対する愛が直接受肉と結びついていることは、ここの文脈からだけでなく、 ほかの著作の多くの用語からも明らかである。
- 「祭司」
祭司」と訳した語iJeravrxhV は「位階」という語と派生関係にある語であって、ディオニューシオスにおいては一般的には天上の位階と教会の位階において神に関する事柄を自分より下位の階級に伝え、その階級を司令し、支配する「司令者」のことを意味している。それは天上の位階においては天使としての「司令者」、教会の位階においては人間としての「司令者」であるが、本訳では後者の場合は旧約と新約の時代的背景を考慮してそれぞれ「祭司」ないし「司教」と訳し分けた。
- 「教示したのであり」
ここは洗礼者ヨハネの誕生の予告のこと。ルカ1:11-20 参照。
- 「天の大群」
天使の「群れ」は聖書の表現(たとえばヨシュ5:14)に従ってギリシア語で「軍隊」を意味する語 stratiav で表される。
- 「伝えたのである」
ルカ2:8-14 参照。羊飼いの隠遁生活は修道生活を象徴している。
- 「告げられ」
マタ2:13「占星術の学者たちが帰っていくと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。〈起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、私が告げるまで、そこにとどまっていなさい。へロデが、この 子を探し出して殺そうとしている〉」、同2:19-23「へロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。〈起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命を狙っていた者どもは死んでしまった〉。そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰ってきた。しかしアルケラオが父へロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引き籠り、ナザレという町に行って住んだ」。
- 「もろもろの伝承」
ルカ22:43では、イエスがオリーブ山で祈っていると、「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた」。マタ4:10-11では、イエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受けたときのことがこう書かれている 「すると、イエスは言われた。〈退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある〉。そこで、悪魔は離れ去った。すると天使たちが来てイエスに仕えた」。
- 「偉大なる助言の使い」
新共同訳では「驚くべき指導者」。
- 「知らせたのであるから」
ョハ15:15「私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」。
- 「引き上げるのである」
本書 X,1, 272D-273A 参照。
- 「言う者はいないだろう」
天上の諸存在がすべて「天の諸力」と呼ばれうるのかということについては、本書XI,1-2, 284B-285A 参照。
- 「ヒエロテオス」
「聖なる事柄の伝授者」(iJerotelesthvV)とは、ディオニューシオスの師ヒエロテオス(Hierotheos)のことを指す。この語は聖書の記述者を意味することがあるが、ヒエロテオスは「いわば第二の神のことば 〔聖書〕」(De divinis nominibus III, 2)の著者である。
- 「区別している」
天使の九つの名称のトリアス的な位階構成は後期新プラトーン主義との密接な関係を示している。De divinis nominibus III, 2でもその構成が聖書にもとづくものではなく、ヒエロテオスにもとづくことが示唆されている。天使の位階の三つのトリアスはDe ecclesiastica hiesrchia I, 2, PG 3, 372Cにも出てくる。
- 「たくさんの翼」
第一の卜リアスは本書第VII章の主題である。セラフィムとケルピムの両方に「たくさんの目」と「たくさんの翼」があるとされているが、イザ6:2では六つの翼、エゼ1:6では四つの翼となっている。
- 「階級である」
第2と第3のトリアスは以下の本書第VIII章と第IX章でそれぞれ論じられる。
- 「表し」
「セラフィム」は聖書ではただ一回イザ6:2-6 に出てくるだけである。この節の議論は本書第XIII章で詳論される。「セラフィム」に関しては本書X, 2, 273B と XV, 2, 329Ass.で論じられ、ここでは火のイメージがさらに詳論される。
- 「知っている」
「ケルピム」の語源についてはこれ以下で繰り返され、本書X,1,272DとXIII, 3, 304Aにも反映されている。「ケルピム」については本書VIII,2,241A-BとXII,1-2,292C-Dでも論じられる。ディオニューシオス はエゼ1:4-28を使ってケルピムについて述べるが、そこではその名前が明示されているわけではない。聖書で「ケルピム」が言及されているのは創3:24、出25:18-22、37:6-9、民7:89:、サム上4:4、王上6:23-28、8:6-7、詩18:11、80:2、99:1、イザ37 :16、エゼ10:1-22である。
- 「溢れる沸騰」
「溢れる沸騰」とは存在を付与する力を象徴する表現である。
- 「開かれているのである」
次を参照。詩80:2「イスラエルを養う方、ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ、耳を傾けて下さい。ケルピムの上に坐し、顕現して下さい」、詩99:1「主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルピムの上に御座を置かれる」、コロ1:16「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も王権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです」(「支配」〔ajrxaiv〕と「権威」〔ejcousivai)は本訳ではそれぞれ「権勢」、「能力」と訳している)。
本書XV, 2, 329Aでは「燃えている」「王座」に言及している。「王座」についてはほかにEpistulae 8, PG 3, 1100C; 9, PG 3, 1105B 参照。
- 「戸口に配置されて」
「戸口に配置されて」はプラトーンの『ピレボス』(Philebus 64C〔田中美知太郎訳(「戸口」は「玄関先」と訳されている)、岩波書店、1975年〕)以来プロティノス(Plotinus 205頃-70年)、ブロクロスなどに用いられた新プラトーン主義の常套語で、善という根源ないし始源に対して知性を位置づける表現である。ディオニューシオスにおいては知性たる天使たちのうちの最高位の天使の神性の根源に対する位置を示すための表現として使われている。同様の表現が De divinis nominibus V, 8 にある。
- 「清浄であるということ」
浄化、照明、完成のトリアスは本書111,2,165B以下に言及されたが、そこで述べられたように、「照明される者は、知性の完全に純粋な目によって観想の状態と観想の力へと引き上げられることによって、神の光で満たされる」 (165D)と言うことによって、「照明」は「観想」に置き換えられる(208B)。
- 「三重に輝く」
神性の三位格性に関わるからである。
- 「共有している」
イエスはあらゆる位階の根源だからである。
- 「照らされる」
多性から一性へ向かうことは被造物の多様性から創造者の純一性への、被造的結果から創造的原因への、特殊から普遍への遡源であり、還帰であり、上昇である。この運動そのものが発出ないし下降に対する還 帰ないし上昇の弁証法である。
- 「私がそれだ」
イザ63:1。新共同訳での該当個所は「私は勝利を告げ、大いなる救いをもたらすもの」とあるが、同訳ではディオニューシオスの七十人訳のギリシア語の文意と大分かけ離れるので、次に七十人訳にもとづいてイザ63:1-2 を試訳しておく。なお、イザ63は語り手が示されていない対話体で記されているが、ディオニューシオスはその対話をイエスと最高の天使たちとの会話と見ている。
63:1「〈エドムから来る者、深紅の衣を着てボツラから来る者、装いは力強く、力をもって、かくも美しい。この者は誰か〉。〈正義と救いの裁きを語る私がそれだ〉」。63:2「〈なにゆえあなたの装いは赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏んだように赤いのか〉」。
- 「イザ63:2」
前註74参照。
- 「知識」
最上位の天使は神の神秘に関する教示を与えられることによってそれに関する知識を自分自身の本性的な知識として所有することになる。したがって、最上位の天使においては、その知識を所有していることは 自分自身の本性的な状態であり、性質であり、能力である。
- 「完成するのだからである」
浄化、照明、完成は霊的知識を構成する三つの段階である。
- 「回転している」
黙4:4「また、玉座の周りに24の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠を被った24人の長老が坐っていた」。イザ6:2参照。
- 「エゼ3:12」
エゼ3:12「私は背後に、大きなとどろく音を聞いた。主の栄光が、その御座から昇るときの音である」。
- 「エゼ1:24」
エゼ1:24「それら〔天使たち〕が移動するとき、翼の羽ばたく音を私は聞いたが、それは大水の音のように〔中略〕聞こえた」、黙14:2「私は大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた」、同19:6「私はまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや激しい雷のようなものがこう言うのを聞いた」。
- 「イザ6:3」
イザ6:3「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」。黙4:8参照。
- 「神の讃歌」
Peri; tw:n qeivwn u{mnwn. 失われたか、あるいはおそらくは存在しないのに虚構された書。
- 「善に類似した」
「善に類似した」(ajgaqoeidhvV 善に似た)という用語はブラトーンの『国家』 (509A)以来、プラトーン主義や新プラトーン主義の常套語である。神たる善そのものが存在と認識の彼方のものであるのに対して、知性界の諸存在は神を模倣することによって「善に類似した」ものとなる。ディオニューシオスにおいては神性の根源は善そのものであるのに対して、知性である天使は「善に類似した」ものである。それゆえ、天使の働きも「善に似たものとして(善に似た仕方で)」行われる。
- 「安息の場であるのだから」
神のいる場所は旧約聖書にしばしば語られており、またたとえばイザ66:1の「何が私の安息の場となりうるか」を承けて、新約聖書でも使7:49に引用されている。その場所が天上であれ、モーセの十戒を刻んだ石板を納めた「契約の箱」であれ、いずれも神の安息の場所である。
- 「一性であって」
「三位格」とか「三基体」(trisupovstatoV)という表現は三位一体の用語である。De divinis nominibus 1, 4, PG 3, 592A; De ecclesiastica hierarchia II, 7, PG 3, 396D 参照。
- 「観想するのである」
第二の卜リアスを構成する主権、力、能力については、エフェ1:21、3:10、コロ1:16、2: 10、1ぺト3:22、ロマ8:38参照。
- 「不類似」
「不類似性」の概念はプラトーンの『ポリティコス』 (Politicus 273D6〔水野有庸訳、岩波書店、1976年〕)に発する。プロティノスは「不類似性」は「暗闇に覆われた泥沼」であり、そこにはまり込んだ魂は劣悪なものに変わり、「死んでいる」とするが(Enneades I, 8,13)、それはプラトーンの『パイドン』 (Phaed0 69c6〔松永雄二訳、岩波書店、1975年〕)の「秘儀によって浄められることなしにハデスに至る者は泥土の中に横たわり、秘儀を受けて浄められてからかの地に至る者は神々とともに住むであろう」を承けている。プロクロスによれば、堕落した魂は「専制的な狂った生」に向かい、「不類似の海」 で破滅する(In Platonis Alcibiadem II, 90。ここの「不類似性」はそのような伝統を承けて、生成消滅する可感的な世界の内に翻弄される魂を象徴し、「専制君主」は悪魔を象徴する。
- 「善に似たものとして」
前註83参照。
- 「解放し」
イザ61:1「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私を捉えた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕われ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」。ルカ4:18にこの節が引用されている。
- 「ゼカ1:13」
この「慰めの言葉」は、預言者ゼカリヤに語りかけた主の御使いに対して主が語った言葉で、ゼカ1:14-17七に述べられている。
- 「エゼキエル」
エゼキエルは旧約の四大預言者の一人。預言者も「神について教えている人」と呼ばれる。
- 「言っている」
エゼ10:18「主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルピムの上にとどまった」。
- 「斧をもっていた」
「斧」の象徴は本書XV, 5, 333Bで採り上げられる。
- 「付けよ」
エゼ9:4「主は彼に言われた。〈都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額にしるしを付けよ〉」。
- 「ダニ9:23」
ダニ9:22-23では天使ガブリエルが来て、「ダニエルよ、お前を目覚めさせるために来た。お前が嘆き祈り始めたとき御言葉が出されたので、それを告げに来た」と言ったとある。
- 「受け取った」
エゼ10:7「すると、ケルピムのひとりが、手をケルピムのあいだから、ケルピムのあいだにある火に向かって伸ばして火を取り上げ、亜麻布をまとった者の両手に置いた。その人は火を受け取って、出ていった」。本書XV, 4, 333A参照。
- 「第一の者自身」
本文のすぐ後にある「聖なる衣をまとった者」のことである。この者はケルピムのあいだにある火を取るよう神に命じられた(エゼ10:2)ために、ディオニューシオスは「第一の者」(この表現は「エゼキエル書」にはない)と呼んだと思われる。だが、この者にその火を取って渡したのはケルピムのひとりであった(前註96のエゼ10:7参照)。エゼ9:11参照。
- 「言うべきであろうか」
ダニ8:15-16「私ダニエルは、この幻を見ながら、意味を知りたいと願っていた。そのとき、見よ、私に向かって勇士のような姿が現れた。すると、ウライ川から人の声がしてこう言った。〈ガブリエル、 幻をこの人に説明せよ〉」。
- 「階級である」
「権勢」という訳語の元のギリシア語ajrxhv はこれまで「根源」と訳してきたものと同じであるが、それは天使の名前としては一般に「権勢」と訳されているので、この章ではその語の名詞形だけでなくその派生語もそれに従って、「根源」とはせずに「権勢」と訳した。しかし、新共同訳では多くの場合「支配J
という訳が当てられている。「支配」についてはエフェ1:21、3:10、コロ1:16、2:10 参照。そのほかの訳語については、ルカ12:11「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたとき」では「役人」と訳されているし、テト3:1「支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならない」では、人間としての「支配者」が意味されている。1コリ1524:「次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されますJ、エフェ6:12「われわれの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」、コロ2:15「〔神は〕もろもろの支配と権威の武装を解除し」などでは、「支配」は敵対する勢力である。
「大天使」については1テサ4四:16一とユダ9 参照。
- 「中間」
卜リアスにおける「中間項」は典型的な新プラトーン主義の概念である。De ecclesiastica hierarchia V, 2, PG 3, 501Cでは、「われわれの」位階は律法の位階と天使の位階の中間項である。ほかの中間項については De divinis nominibus V, 3, PG 3, 940A; XI, 2, PG 3, 952A 参照。
- 「還帰し」
前註99に述べたように、「超存在的な権勢へ権勢をもって還帰し」は「超存在的な根源へ根源的に還帰し」とも読むことができる。
- 「知られるもの」
「天使」は純粋に知性的存在として可知的世界の最下端に位置づけられる階級であるが、それは可知的世界を可感的世界に伝達することによって可感的世界にも関わり、両世界を媒介する。「天使」はその意味でほかの天使たち以上に可感的世界に深く関与する。また、天使の諸階級のすべてが神性の根源の隠れた神秘なる秘密に関与するけれども、彼らの階級が神性の根源に近いほど彼らの存在自体も働きもより隠れたものとなり、逆にそれから遠ざかるほどより明らかなものとなる。
- 「呼んでいるのである」
「ミカエル」はダニ10:21 では「大天使長のひとりミカエル」、同10:21では「天使長ミカエル」、同12 にも「大天使長ミカエル」という呼び方が見られ(そこではユダヤ人の守護者とされている)、また同10には「ペルシア王国の天使長」、「ペルシアの天使長」、「ギリシアの天使長」という呼び方が見られる。ただし、これらの新共同訳の天使の呼称は七十人訳のギリシア語に正確に対応しているわけではない。
- 「申32:8」
申32:8は新共同訳では「いと高き神が国々に嗣業の土地を分け、人の子らを割り振られたとき、神の子らの数に従い、国々の境を設けられた」となっている。
- 「述べている」
ホセ4には、主が預言者ホセアに向かって、「お前が知識を退けた」(ホセ4:6)、あるいは「彼ら〔イスラエルの人々〕は淫行を続け、主を捨て、聴き従おうとしなかった」(同4:10)とイスラエルの背信を告発している。
- 「必然性の下にある」
「必然性の下にある」と訳した元のギリシア語 hjuagkasmevnwV は一般的には「強制される」という意味であるが、ここの用法ではそのギリシア語の元来の意味が表されている。
- 「自身の力」
「自身の力」と訳した元のギリシア語 aujtecousiothvV は一般的には「自由意思」という意味であるが、ここの用法も前註56の場合と同様にギリシア語の元来の意味が表されているので、被造物の有する「自分の力」と訳した。
- 「泉」
神性の根源は「善」と呼ばれ、それがしばしば「泉」に喩えられる(De divinis nominibus IV, 2)が、「泉」は特に三位格のうちの父としての神性の比喩となっている(ibid. 11,7)。これらの比喩表現もとりわけプロティノス以来の新プラトーン主義、特にプロクロスに由来するものである。
- 「異なったものにするのである」
ここの議論は不完全性がどうして生じるのかという問題(それは悪の問題につながる)に関係している。それは本書 XIII, 3, 300Dss.で再論される。De ecclesiastica hierarchia II, 3, 3, PG 3, 397DSS.; 111, 3, 440Css.; De divinis nominibus IV,34, PG 3, 733Dss.参照。この問題に対する考え方は基本的に新プラトーン主義にもとづいている。
- 「メルキゼデク」
サレムの王であり、祭司であった。創14:18、ヘプ6:20 以下参照。
- 「祭司」
「司令者」とは位階において下位の階級に属するものに司令するものの意味で、この場合はわれわれ人間のあいだに成立している位階、つまり教会の位階における旧約の「祭司」を意味しているが、「司令する」という動詞を使っている文脈の中でわかりやすいように「司令者としての祭司」とした。前註51および110参照。
- 「君主」
君主とはネブカドネツァルのこと。
- 「開示されたのである」
ヨセフについては創41:1-32、ダニエルについてはダニ2:1-45、4:1-27 参照。
- 「考えるべきではない」
ダニ10:13以下の記述が念頭に置かれていると思われる。
- 「申32:8」
本書IX, 2, 260B で引用。
- 「言った」
ダニ10:21「しかし、真理の書に記されていることをお前に教えよう。お前たちの天使長ミカエルのほかに、これらに対して私を助ける者はいないのだ」。
- 「結論」
解説でも触れたように、この章題は後世の加筆であるが、確かに本章ではすでに本書第6章と第9章第1節で言及された天使の位階の三区分が繰り返される。天使の三つの位階はそれぞれがそれぞれの階級的位置に応じて止留、発出、還帰というトリアスの運動構造において機能する。この考え方はブロクロスの考え方(Institutio theologica 148)と照応し合う。
- 「注ぎ出される」
「注ぎ出される」というのは、本書VII,一,205B-Cで示された「知恵の注ぎ出し」という「ケルピム」(第
一階級に属する天使)の名前にもとづく。Epistulae 8, 2では「ここで近いというのは空間的な意味にとるべきでなく、むしろ神を受け入れるのにふさわしいという意味に解すべきです」0092B)とも述べら れている。
- 「ゆえんである」
「光の賜物」は「賜物」である限りですでに神性の根源の「発出」の位相に属しているけれども、発出するものは、発出のすべての段階において、その段階に応じた度合いにおいて、「隠れている」という側面と「明らかである」という側面の対立的ニ面性を常に有している。というのも、発出はどの段階においてもそれが発出であるがゆえにその由来性と展開性を必然的に有し、そのことによる隠れと現れのニ面性を有しているからである。すなわち、発出は一方では、その始源を最高度に暗く秘められた神性の根源の隠れに有していて、そこから発出して遠ざかるほど隠れる度合いが薄れつつも、存在する位階に応じて常にそれなりに隠れているのであり、他方では、神性の根源は発出を展開するほど逆に明らかに顕現する。したがって、神性の根源は発出したそのつどの位階において常に最も隠れから遠ざかり、明るみへ出てくることになるが、そのこと自体がそれの隠れを秘匿することになる。すなわち、神性の根源は明るく輝くほど自らの隠れから遠ざかるが、そのことによつてそれ自身がますます隠れることになる。
- 「使い」
ここの叙述はアリストテレースの「第一の不動の動者」と「第一の天界」との関係についての考え方が反映している。つまり、「第一の不動の動者」は「〔白分自身は〕動かされないで〔他のものを〕動力す」ところの究極的存在である。それはその下に存在する「第一の天界」(恒星を動かす諸天球のうちの第一の天球)を、「永遠に動かされつつ休みなき運動をする」(この運動は円運動と考えられている)ように動かしている。ディオニューシオスでは「第一の不動の動者」が神に、「第一の天界」が最高位の天上の知性に比せられている。Cf. Aristoteles, Metaphysica XII, 7-8. (『形而上学』出隆訳、岩波書店、1968年)
- 「天上の諸力」
「諸力」(dunavmeiV)は原文ギリシア語としては、天上の諸存在の位階を構成する三階級のなかの中間の階級に属するものの名称「力〔複数形〕」(力天使)と同じであり、しかも天上の諸存在の総称でもある。一方、「天使」という名称も同じく天上の諸存在の位階を構成する三階級のなかの最後の階級に属するものの名称でありながら、同時に天上の諸存在の総称である。そこで、以下の論述では、「力天使」すなわち「諸カ」が天上の諸存在の総称である理由と「天使」£77£;12)がそうである理由は同様のものなのかということが問題にされる。「天使」と「万軍」つまり「諸カ」との使い分けについては本書 V, 196B 参照。
「諸力」とは、聖書で「万軍の主」(詩24:10、46:12)と言われている「万軍」のことであり、それはまた「天の万軍」(王上22:19)、「主の軍」(ヨシュ5:14-15)とも訳される。創32:2-3 参照。
- 「3つに区分」
このトリアスもおそらくはポルフュリオスの頃には新プラトーン主義において一般的に受け入れられていたと想定される。
- 「言葉」
ここの「言葉」とは特に知性によって把握される深い神秘的な意味を秘めている「言葉」を指している。
本書1, 1 の前註5 および 1, 2 の前註8 参照。
- 「祭司」
われわれの教会の位階における「司令者」とは「完成する者」としての「司教」を指すが、このすぐ後で七十人訳からそのまま引用される「全能の主の使者」とは、その七十人訳では旧約の「祭司」のことである。その点の説明を補う意味でここでは「司令者〔である祭司〕」と訳した。
- 「マラ2:7」
新共同訳では「万軍の主の使者」となっている。マラ3:1参照。ガラ4:14 では使徒パゥロは自分が「神の使いのように」受け入れられたことを記している。
- 「前に規定された」
本書 V, 196B および X, 2 参照。
- 「唯一の交わり」
「交わり」koinwniva はブラトーンの『ソピステス』 (Sophista 250B〔藤沢令夫訳、岩波書店、1976年〕)以来、弁証法の基本用語であり、分有と分与をもたらす運動ないしそれらの関与関係を意味する。ディオニューシオスにおいてはそれは同時に新プラトーン主義と同様に、発出と還帰における上下の階層間の存在の関わり合いを意味する。
- 「神のごときもの」
神性の根源の本来(止留の局面)から言えば、「神は知性活動をもたない」(De divinis nominibus VII, 2, PG 3, 868D)が、発出の局面で言えば、「天使たちの知性の力と活動は可能な限り神の超越的な知恵と知 性と理性に似せて形づくられている」(ibid., 868B)。それゆえに、天使の知性は「神のごときもの」と言われる。
- 「神々」
人間について「神々」と呼ばれたことに関しては、出4:16、7:1、詩82:1、82:6、95:3、ヨハ10:34 が想定されるが、天使については創32:29-31 が考えられているかもしれない。
- 「理性を有するもの」
それぞれ、前々文の「われわれの上にいる天の諸存在」と「われわれの許でこのうえなく神を愛している聖なる人々」のこと。人間はその最高の完成段階においては天使に似たものとなると考えられているから、人間にも天使に似た知性的能力が認められている。その点についてはDe divinis nominibus VII, 2, PG 3, 868C を、天使と人間の相違については本書 IV, 2参照。
- 「全面的に」
全面的に」とは、自己の全存在を挙げてということである。
- 「遣わされたと言われる」
イザ6:6以下「するとセラフィムのひとりが、私のところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼は私のロに火を触れさせて言った。〈見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された〉。そのとき、私は主の御声を聞いた。〈誰を遣わすべきか。誰がわれわれに代わって行くだろうか〉。私は言った。〈私がここにおります。私を遣わして下さい〉。主は言われた。〈行け、この民に言うがよい〉云々」。以下の叙述についてもこの個所が念頭に置かれている。
多くのギリシア教父と同様に、ディオニューシオスが「セラフ」(Seravf)という単数形をー度も使っていないのは、彼がへブライ語をまったく知らなかったことを示唆している。本書VII, 1, 205B; De ecclesiastica hierarchia IV, 3,10, PG 3, 481C; IV, 3,12, PG 3, 485B 参照。
- 「伝達者」
「伝達者」という語は「解釈者」、「通訳者」、「代弁者」などと訳せるが、この語は聖書記者(本所と本書 II, 5,145A)と司教(De ecclesiastica hierarchia VII, 3, 7, PG 3, 564A)と司祭(Epismlae 8, PG 3,1088C) に対して使われている。
- 「告白した罪」
イザヤは「私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」(イザ6:5)と告白し、その後でセラフィムにより彼の罪が赦された(イザ6:7)。
- 「すべての者に見えない」
知7:24「知恵はどんな動きよりも軽やかで、純粋さゆえにすべてに染み込み、すべてを貫く」。
- 「最初の質料」
ここでは神性の根源が「太陽」と「火」に、天使は、そこから出る「光」と「熱」を最初に受ける「最初の質料(物質)」に喩えられている。しかし、天使はDedivinis nominibus IV,1,PG 3,693Cによれば「あらゆる質料から自由である」から、たとえそれが比喩であるとしても天使を「質料」に喩えることがどうしてできるのかが問題になろう。おそらくその理由の一つには、天使といえども被造物である限りにおいて質料と共通していることがある。また、ディオニューシオスにとっては質料それ自体はけっして「悪」ではない。「質料も、秩序と美と形相を分有している」(ibid. IV, 28, PG 3, 729A) のである。それゆえ、「善」である「太陽」からの光を受ける「善に似たもの」である天使を「質料」によって喩えることには基本的に矛盾はない。
- 「王座の特性とをもっている」
本書 VII,1, 205B-C 参照。
- 「神に属するもの」
「神に属するもの」(中性単数形)とは具体的には「神性の根源の光」を意味しているであろう。
- 「止留」
i{dursiV、新プラトーン主義の用語で、不変、不滅、不増、不滅、永遠にそれ自身であり続けること。
- 「探究しよう」
本書 XV,1, 328Css. 参照。
- 「最後の思惟によって」
本書X, 3, 273C参照。
- 「見ることによって」
イザ6:2の「上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼をもち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた」という記述によれば、上の二つの翼で顔を覆い、下のニつの翼で足を覆い、真中の二つの翼で飛び交っていたことになる。
- 「認識する」
これは知性によってのみ把握される知識で、XIIの冒頭の「知性によって把握することのできる言葉」という言葉に対応している。
- 「畏敬の念」
VIIに、「すべてのものをはるかに超えている、天上の諸存在のなかの第一の諸存在でさえも、中位の諸存在と同様に、畏敬の念をもって神性の照明を欲する」(209B)とある。
- 「永遠の飛翔」
翼のィメージについては本書XV, 3, 332D も参照。
- 「讃美歌」
前註81参照。
- 「隠れ」
神性の隠れは光を超えた、光の根源としての闇である。この闇からすべての光が発し、そこへすべての光
が終極する。神秘的上昇の最終目的は『神秘神学』では「神の闇の光」(1,1,PG 3, 500A)と表現されている。
- 「神によるもの」
たとえば、その位階は洗礼のために「助祭により〔を介して〕」洗礼志願者の衣服を脱がせる(De ec-
clesiasticap-ierarchia II, 2, 6, PG 3, 396B)。Cf. ibid. V, l, 6, PG 3, 508A.
- 「万の数万倍」
ダニ7:10では「幾千人」、「幾万人」とあり、黙5:2では「万の数万倍、千の数千倍」とある。
- 「浄福なる群」
元来は「軍隊」を意味する。本書 IV, 4, 181Bの「天の大軍」参照。
- 「認識のうえで」
天使の数はこの世的な物質的次元で数えられる数ではなく、天的な知性的な次元で把握される数である。
- 「終極」
「初め(始源にして原因) - 中間(保持力) - 終わり(目的)という、新プラトーン主義のいわゆる神に関するトリアス概念の一つである。
- 「戻ろう」
ここには発出と還帰の弁証法、すなわち一性から多性への下降的分割(発出)と、その逆の上昇的統一(還帰)という弁証法のモティーフがあるが、しかしこの場合は一般的な発出と還帰の考え方とは違って、天上的知性に対する解釈者たるわれわれが解釈において下降し、また上昇する。
- 「ふさわしいものである」
天使的知性は自己自身を直観する。
- 「回ること」
天使は自分たち自身の周りに集まって、自らを統一する。本書 XV, 4, 333A-B 参照。
- 「しばしば述べたように」
本書 X, 2, 273Ass.; XI, ,2, 285A; XIII, 3, 304A 参照。
- 「探究しなければならない」
Cf. Epistulae 9, 2, 1108C-1109A.
- 「車輪」
ダニ7:9「その車輪は燃える火」。
- 「燃え上がる動物」
エゼ1:13「生き物の姿、彼らのありさまは燃える炭火の輝くようであった」。王下2:11「火の戦車が火の馬に牽かれて現れた」。
- 「輝く人々」
マタ28:3「その姿は稲妻のように輝いた」、ルカ24:4「輝く衣を着た二人の人」、エゼ1:4-7「私が見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、號珀金の輝きのようなものがあった。またその中には、四つの生き物の姿があった。そのありさまはこうであった。彼らは人間のようなものであった。それぞれが四つの顔をもち、四つの翼をもっていた。脚は真直ぐで、足の裏は仔牛の脚の裏に似ており、磨いた青胴が輝くように光を放っていた」、ダニ10:6「体は宝石のよう、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった」。
- 「炭火」
エゼ1:13「生き物の姿、彼らのありさまは燃える炭火の輝くようであった」、同10:2「ケルピムのあいだにある燃える炭火を両手に満たし、それを都の上に撒き散らせ」。
- 「燃えさかる川」
ダニ7:10「その前から火の川が流れ出ていた」。
- 「語っており」
ダニ7:9「その王座は燃える炎」。
- 「意味」
本書 VII, 1, 205B 参照。
- 「セラフィムのものであるとしていて」
イザ6:6「するとセラフィムのひとりが、私のところに飛んできた。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった」。
- 「よく表している」
プラトーンの,『ティマイオス』(Timaeus 31B〔種山恭子訳、岩波書店、1975年〕)に、「火を欠いては、どんなものもけっして可視的なものとはなりえないでしよう」とある。以来、新プラトーン主義を通じて神との類似性として特に火が重視されるギリシア思想の伝統がある。前註164参照。
- 「描写している」
申4:24「あなたの神、主は焼き尽くす火であり、情熱の神だからである」。0f. Epistulae 2, 2, 1108C-D.
- 「存在していて」
前註166参照。
- 「起こるように」
ブラトーンの『国家』(435A)に、「おそらくは、そのようにして〔国家の場合と個人の場合〕をつき合わせて調べ、両者を擦り合わせていくうちに、やがてあたかも火切り木から火花が出てくるように、〈正義〉を明らかにして輝き出させることができるだろう」とある。
- 「突如として」
Cf. Plato, Symposium 210E (『饗宴』鈴木照雄訳、岩波書店、1974年);Pseudo-Dionysius Areopagita,
Epistulae 7, PG 3, 341C-D; Plotinus, Enneades V, 3, 17, 29; V, 7, 34,13; 36,18.
- 「描いている」
一般に身体の形について最も多く引用される聖句はダニ10:5以下であり、次いで多いのはエゼ1:5-10である。そのほかの個所としてはマコ16:5、ルカ24:4、黙4:7、10:1以下が含まれる。それらの解釈にはギリシア教父の先例がある。ここで論じられている特殊な力や特徴はすべてではないがほとんどのものは明らかに聖書によるものである。
- 「姿勢をしていて」
ブラトーン『ティマイオスJ (90A-B)に「なぜなら、〔われわれの〕神的なる部分は、魂が最初に生まれたそのところ〔天〕に、われわれの頭でもあり根でもあるものを吊るして、身体全体を直立させているわけなのですからね」とある。
- 「力を有している」
創1:26「われわれにかたどり、われわ.れに似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」。
- 「平静に」
天使の認識の仕方については本書IV, 2 参照。
- 「言いうるであろう」
この照明は、人間には把握できない神の最も深い秘密の神秘的意味を神によって人間に開示する元になるものである。
- 「嗅ぎ分ける力」
トビ6:17-18と8:3では悪魔は嗅覚をもっている。前註171参照。
- 「聴力」
詩103:20「御使いたちよ、主を讚えよ。主の語られる声を聞き、御言葉を成し遂げる者よ」。
- 「味覚の力」
天使たちがアブラハムやロ卜といっしよに食事をしたことを意味しているのかもしれない。創18:1-8、19 : 3 参照。
- 「触覚の力」
創32:26「ヤコブの腿の関節を打った」。
- 「眉毛」
「瞼と眉毛」は聖書的典拠によるものではない。前註171参照。
- 「年齢」
マコ16:5に、イエスの墓の中にいた「白い長い衣を着た若者」がイエスの復活を告げたことが記されている。
- 「歯」
前註171および178参照。
- 「手」
申6:21、詩91:12(マタ4:6に引用)、エゼ1:8、10:8、10:12、ダニ10:10、12:7(黙10:5に引用)。
- 「胸」
心臟と胸については前註171参照。
- 「翼を付けたのである」
翼は人間の足のような形で考えられている。イザ6:2、エゼ1:6、1:23、10:5-6。Cf. De eoclesiastica hierarchia IV, 2, 5, PG 3, 480Bss.
- 「裸足であること」
創18:4と19:2の「足を洗う」ということに裸足が含意されているであろう。イザ20:2-4の「裸、裸足」は天使に関することではない。
- 「炎の衣」
黙9:17、15:6、ルカ24:4。本書XV, 2, 328D 参照。しかし、聖書は天使の衣をしばしば「白」としている(マタ28:3
、マコ16:5、ヨハ20:12、使1:10、黙4:4)。
- 「司令者の衣服」
エゼ9:2、10:6-7、黙1:13、本書VIII, 2, 241B-C 参照。
- 「槍と斧」
本書VIII, 2, 241Bおよびイザ10:15 参照。
- 「道具」
エゼ40:3「麻縄と測り竿」、アモ7:7「下げ振り」、ゼカ2:5「測り縄」、黙21:15「金の物差し」。
- 「論じたように」
ディオニューシオス自身は『象徴神学』(Sumbolikhv qeologiva)を自分の著作としているが、伝存せず、失われたものか、そもそも架空の著作なのか不明。この著作についてはDe divinis nominibus I, 8, PG 3, 597B; IV, 5, PG 3, 700C; IX, 5, PG 3, 913B; XIII, 4, PG 3, 984A; De mystica theologia III, PG 3, 1033A-B; Epistulae 9, PG 3, 1104B で言及されている。『第九書簡』は『象徴神学』の内容を要約したものと見られる。
- 「誘導しうる」
知性的生命の誕生に関する比喩表現はおそらくブロクロスに依拠していると思われる。ハイル(G. Heil は In Platonis Alcibiadem 44, 99,11; In Platonis theologiam V; XI; In Platonis Timasm commentarii III, 175, 23 を参照するよう指示している(解説参照)。
- 「牡牛」
エゼ1:10と黙4:7は「牡牛」に言及しているが、ともに七十人訳の用語(movsxoV)はディオニューシオスの用語(bou:V)とは異なる。
- 「御しやすい」
天上界における馬のイメージはプラトーンの『パイドロス』(Phaedrus 247B〔藤沢令夫訳、岩波書店、1974年〕)参照。
- 「摂理することによって」
ここにも新プラトーン主義の「発出」と「還帰」の運動の思想が表れている。上位のものから下位のものへの運動は摂理の「発出」の運動で、下位のものから上位のものへの運動は神的なものへの「還帰」の運動である。
- 「力を表している」
ゼカ1:18(赤毛の馬、栗毛の馬、白い馬)、6:2以下(赤毛の馬、黒い馬、白い馬、まだらの馬)、黙6:48(赤い馬、黒い馬、青白い馬)。ディオニューシオスの馬のさまざまな色は聖書の馬の毛色と厳密には一致しない。
- 「原理」
「不類似の類似性」あるいは「似ていない似姿」という表現については本書II, 2, 137C; 140A; II, 3, 141B; II, 4, 144A; II, 5, 145A 参照。
- 「神の愛に帰せられる」
勇気と欲望に関しては本書II, 4, 141D 参照。
- 「火の川」
ダニ7:10、エゼ47:1(黙22:1に引用)。「火」については本書XV, 2, 328D-329C 参照。
- 「車輪」
エゼ1:15-21、10:1-13参照。ダニ7:9には「その車輪は燃える火」とある。
- 「必要なのである」
エリウゲナは『天上位階論註解』(XV, 9)においてこの叙述を著者ディオニューシオスの謙遜表現であると解釈している。すなわち、「このことは表現を和らげて次のことを述べているのだと思われる。すなわち、パウロ自身および教えの知恵においてパウロと同等な人々のほかに、いったい誰がパウロの弟子よりも明敏な者があるだろうか、と」。ここで言われている「パウロの弟子」とはディオニューシオス自身のことにほかならない。