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back.gifカルデア人の神託

堀江聡

『カルデア神託』と神働術




[出典]

新プラトン主義協会編+水地宗明監修『ネオプラトニカ:新プラトン主義の影響史』(昭和堂、1998.3.、所収)





 近年、本邦でも古代ギリシア哲学研究は、プラトン、アリストテレスに集中していた時期を後にし、その研究成果を踏まえて古代末期の新プラトン主義にも関心を向けるようになってきた。しかし、プロクロス研究に資する貴重な一書を別とすれば[1]、古代ギリシアの新プラトン主義はプロティノスに代表されるという理解が一般の暗黙の了解であり、プロティノス以降の新プラトン主義の発展史は、いまだ古代哲学の専門家の研究の射程にさえ入っていないのが現状であろう。

 古代末期の新プラトン主義の始まりを、紀元三世紀半ばにプロティノスがローマで教え始めたとき、ないしは執筆活動を開始したときとするならば、その終焉は529年にユスティニアヌス帝の勅令によってアテナイのアカデメイアが閉鎖されたときとおくことは妥当であろう。このおよそ三百年の間、新プラトン主義の歴史はプロティノスを創始者とし、後は亜流が連なる一つの教団の歴史では決してない。研究の拠点もローマ、アテナイ、アレクサンドリア、ベルガモン、コンスタンティノポリス、アパメアなど東地中海沿岸部に広くまたがり、相互交流があるため截然とその中心都市を基準に学派を区分すること(たとえば、シリア派、アレクサンドリア派、ローマ派、アテナイ派など)は、もはや流行遅れになった感があるが、それでも新プラトン主義が多様な思想の潮流を 内蔵したものであることは、今後の研究がますます明らかにするものと予想される。

 新プラトン主義内部に引かれうるさまざまな分割線のうちで、すでに識者の意見の一致をえており、いまわれわれの関心を引くものは、プロティノス、ポルピュリオス等の思想と、プロクロス等を含むイアンブリコス以降の思想を分かつ線である[2]。両陣営を分かつ一つの指標は、神働術(qeoirgiva)を重視するか否かという点であり、ひいては神働術を提唱した『カルデア神託』(Oracula Charldaica, Lovgia Caldai&kav)を聖なる書物として認めるか否かという点にかかっている。これが、イアンブリコス以降の新プラトン主義研究の前提として、『カルデア神託』研究が先行しなければならない理由である。

 『カルデア神託』とは、紀元後二世紀後半、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の治下[3]、カルデア人ユリアノスと、その息子神働術者ユリアノス、あるいは後者一人によって記されたヘクサメトロンの韻文の集成のことである。その成立年代から過ぐる1世紀の、紀元3世紀に生きたプロティノスは当然『カルデア神託』を読んでいた可能性が高いが、思想上ではむしろ相容れないものを察知していたと思われる[4]。プロティノスの高弟ポルピュリオスは、魂の非理性的部分の浄化に関してのみ神働術の効果を認める[5]というかたちで、師よりも『カルデア神託』に若干歩み寄っている。しかし、この善が「末期新プラトン主義者たちの聖書」(the Bible of the last meo-Platonists)[6]と呼ばれるようになるのは、ポルピュリオスに敵対したイアンブリコス以降のことなのである。イアンブリコスは『カルデア神託』に関して少なくとも二八巻の註釈を書いたと伝えられている[7]。

 さて、この『カルデア神託』は、トランス状態(変成意識状態)になったユリアノスが神から与えられた啓示 の記録であるという性格のゆえに、相矛盾する思想を内包していることこそ神託としての権威を高める効果があ るともいえるし、また現今まで伝承された限られた量の断片からその思想を再構成しなければならないという制 約もあって、不整合な点を多々示すが、ともかくも、最初にその体系の輪郭を一解釈として素描してみることに したい。それは、哲学史的には紀元前1世紀のアスカロンのアンティオコスから、紀元後3世紀のプロティノスの登場以前の中期プラトン主義と類似の内容を呈し、グノーシス主義との関連性も色濃く窺わせるものである。そしてその後で、神働術の原型を『カルデア神託』に探り、イアンブリコスの『エジプト人の秘儀について』によって、いささかなりともそれに肉付けをしてみようと思う。


[I]カルデア神学における諸階層

(A)父 — 『カルデア神託』の存在階層で頂点を冠するものは、「父」(pathvr, Frr.3; 7;14; 25;81;87;107;115;<211> et al.[8])「父的知性」(patriko;V nou:V, Frr.39;49;108;109)、「神」(第一の知性」(nou:V prw:toV, Frr.7)、「父的始原」(patrikh; ajrch), Fr.13)、「神」(qeovV. Fr.19)、「父的深淵」(patriko;V buqovV, Fr.18)、「父的源泉」(phgh; patrikhv, Fr.37)などと呼ばれているものである。この父は他のものから隔絶している。

『それ自身、全体として(すっかり)外にある』(aujtovV pa:V e[xw uJpavrcei, Fr.5) 『父は自分自身を連れ去った』(oJ path;r h{rpassen ejautovn, Fr.3)

それゆえ、「端的に彼方のもの」(oJ a{pax ejpevkeina, Fr.26;35;169)、「第一の彼方の火」(pu:r ejpevkeina to; prw:ton, Fr.5)と性格づけられている。


(A1)(A2)(A3)父と力と知性

 父はまた、プロティノスの場合のように「一者」(unum, Fr.9;9a)、「善そのもの」(tajgaqo;n aujtov, Fr.11)とも呼ばれている。ただし、この一者は「父的な単子」(patrikh; monavV, Fr.11)という別名とともに、父、力(duvnamiV)、知 性(nou:V)の「三つ組」(triavV, Frr.27;29)へと展開する緊張を孕んだものとして捉えられている。

 「父と力と知性があるとするにせよ、これらに先立つものとして、この三つ組に先立つ一なる父が存在するであろう。『というのも、あらゆる世界に三つ組が輝き、その三つ組を単子が支配しているからだ』」(panti; ga;r ejn kovsmw/ lavmpei triavV, h|V mona;V a[rcei, Fr.27)

したがって、父は単子としての父でもあり、三つ組の一分肢としての父でもある。

 「プロクロスは端的に彼方のものに関して次のように述べている。
 『世界はあなたを三つ組の単子と(monavda.....triou:con)見て敬った』」(Fr.26)

 父、力、知性の三つ組内の関係については、次の断片が示唆的である。

 「いたるところで、力が中位を割り当てられている。知性的なものどもにおいても、力が父と知性を結びつけている。
 『力はかの知性とともにあるが、知性はかの父から出たものである。』」(hJ me;n ga;r duvnamiV su;n ejkeivnw/, nou:V d= ajp= ejkeivnou, Fr.4)

知性と力のうち、まず知性の方を考察することにしよう。この断片四では、知性が父から派生したものであることが暗示されているから、両者を区別すべきであることが当然導かれてくる。

 『父はすべてを完成させて、第二の知性に引き渡した。この第二の知性のことを人間の族はみな第一の知性と呼んでいるのだ』(Fr.7)

父は第一の知性であったから、父から派生した知性は第二の知性としなければならない。父である第一の知性が「端的に彼方のもの」と呼ばれていたのに対して、第二の知性は知性的な世界と感性的な世界の双方と関係をもつ(Fr.8)がゆえに、「二重性格をもった彼方のもの[9]」(oJ di;V ejprvkeina, Fr.125)と呼ばれている。第一の知性は創造 の業に関与せず、超越性を保持し続けているのに対し、第二の知性はイデアにもとづいて世界を形造るデーミウールゴスである。

 『第一の彼方の火は、(直接的な)[10]働きによってではなく、知性によって質料のうちに自らの力を封じ込めた。なぜなら、浄火界の工作者は知性から出た知性だからである。』(Fr.5;cf.Fr.58)

この引用の「第一の彼方の火」というのは、第一の知性を指し、「知性から出た知性」というのは、第二の知性 を指している。

 次に、父と知性と力の三つ組のうちで力について見てみよう。父から派生した知性と違って、力は父とともにあり、知性と父の中間にあって両者を媒介すると先の断片四で述べられていた。力(hJ duvnamiV)はギリシア語で女性名詞であり、男性原理である父と対比された女性原理であると言える。女性原理はグノーシス主義においてと同様、産出には不可欠の原理とみなされている[11]。この女性原理は世界霊魂と結びつき、さらには女神ヘカテー(Fr.52)、またはレアー(Fr.56)として登場してくる。その際、あらゆるものを育み、生命を与える豊饒の座として女神の子宮がイマージュとしてたびたび現れるのが印象的である。

 「すべての生命 — 神的な生命、知性的な生命、魂的な生命、世界内の生命 — がそこから産み出される、生命産出の源泉レア一について、神託は次のように語っている。
 『実にレアーは、浄福で知性的なものどもの源泉であり、流れである。というのも、レアーは力において第一のものなので、その語り得ない子宮のうちで、すべてのものの誕生を受けとって、それが急ぎ行くゆえ、万有へと注ぎ出すのである。』」(Fr.56;cf.Frr.32;37)

 また断片三七によれば、第一知性である父が直知することを通じて(nohvsiV, Frr.37;39)イデアを稲妻のようになげうつと、多種多様なイデアが女神の子宮のうちにで懐胎され、蜂の大群のように動き、四方八方に輝きを放つことになる。女神はデーミウールゴスが自然界を創造するために用いるイデアを自らの子宮のうちで養い、変容させるのであるが、その意味するところは、イデアを測ること(metrei:n, Frr.23;31)、すなわち、イデアを分割し、境界を与えて構造化することである[12]。

 以上の父、力、知性の三つ組がカルデア神学の高次の存在階層であるが、これらと最低次の質料の間を満たすさまざまな存在者がある。神々が超越的に描かれて人間の世界から隔離されればされるほど、両者を媒介する中間的存在者の必要が感ぜられるのである[13]。

(B1) イウンクス

 「イウンクス」(i[ugx)、複数形で「イウンゲス」はもともと「アリスイ」(wryneck)と呼ばれる地中海地方の鳥を意味していた。あるいは、魔術師が不実な恋人の気を引くために用いる、この鳥が結びつけられた車輪を指す語であったという[14]。『カルデア神託』においては、イウンクスは第一に、神働術者が神やダイモーンを呼び出すための、やはり車輪状の魔術的装置を意味していた。それは子どものおもちゃのコマのようなもので、速い速度の回転を与えられると、うなり叫ぶような音を発したという。i[ugxが派生したもとの動詞ijuvzwが「叫ぶ」という意味であることは、イウンクスの機能に関してその動きとともに、音が重要視されていたことを示唆している。神働術者がイウンクスを動かすと、その運動は天上において対応する運動を共感反応として惹起する。そしてまた、イウンクスが発する音は、その車輪の大きさやのこぎり状の歯の大きさを変えることによって、天球の音楽の音調に適合し、個々の天球に影響を及ぼし、天球を支配できるようになる[15]。

 第二に、イウンクスは父の直知対象であるイデアと同一視されている。

『父によって直知されるそれら(イウンゲス)は、それ自身もまた直知する。 語られざる(父の)意志によって直知するように動かされているのだから。』(Fr.77)

 第三に、イウンクスは父から質料へ、また逆に質料から父への伝令(diapovrqmioi, Fr.78)の役割を果たす。

 以上三つの多様な意味のイウンクスを統一的に理解するためには、背景をなす世界観を了解しておく必要がある。『カルデア神託』においては、世界は三つの同心円でもって表象されている。それは直知的なものから構成される浄火界、恒星や惑星からなるエーテル界、月下の世界を含む物質界の三界であり、それぞれ超世界的太陽、世界内の太陽、月によって支配されている[16]。

 第一の魔術的装置としてのイウンクスは、物質界とエーテル界の両世界を結びつける役割を果たし、第二のイデアとしてのイウンクスは、浄火界におけるイウンクスを指し示し、第三のイウンクスは、物質界と浄火界の伝令としてのイウンクスを暗示している。イウンクスは神働術者によって呼び出されると、さまざまな惑星天に宿ると信じられていた(cf. Fr.79)から、三界の中間を占めるエーテル界を拠点にして、イウンクスは直知界と物質界の通行を可能にしているということができる。あるいは、もう一歩踏み込んだ表現をするならば、直知界からエーテル界を経て物質界に至り、再び物質界からエーテル界を経て直知界に向かう円環運動の担い手ということこそ、イウンクスの本質をなすと言えるだろう[17]。

 カルデア神学の体系構築において、三つ組化(triadization)が主要なモーメントになっていることは、すでに父、力、知性において、また、浄火界、エーテル界、物質界の三つ組でわれわれはみてきたが、イウンクスも結合者、秘儀支配者と三つ組をなしているので、残りの二者についても、簡単に触れておくことにする。

(B2) 結合者(sunoceuvV

 「それゆえまた、神々の神託によれば、結合者たちは知性的諸階層を『統一するもの』(oJlopoioi:)である。」(Fr.83)

結合着たちの役割は、宇宙の諸部分を自らのうちに包括し、保持する(Fr.83)ことによって調和させることに ある。

(B3) 秘儀支配者(teletavrchV

 秘儀支配者たちは、浄火界、エーテル界、物質界それぞれの支配者と一致するので、超世界的太陽である永遠(アイオーン)、世界内の太陽(ヘーリオス)、月と一致し、さらに愛(e[rwV)、真理(ajlhvqeia)、信(pivstiV, Fr.46)の三つの徳性がそれぞれの属性となっている。これらが秘儀支配者たちと呼ばれるゆえんは、物質界から上昇する魂を浄化し、光線によって導き助けるからである[18]。

 「第一のもの(秘儀支配者)は『火の翼を』手綱で導き、真中のもの(秘儀支配者)はアイテールを完成し、第三のもの(秘儀支配者)は質料を完成させる。」(Fr.85)  「エーテル界の上に立って『魂を支配するものは、秘儀支配者』である。」(Fr.86)

(C)天使(a[ggeloV

 天使たちは、魂を照明し火で満たすことによって、質料から解放し、魂を天使階級まで上昇させる役割を担っている。

 「天使たちの一団は、どのように魂を上昇させるのか。『魂を火で輝かせることによって、…』と神託は語る。これすなわち、あらゆる方向から魂を照らし、汚れなき火で満たされた状態にすることによって、という意味である。その汚れなき火は、魂に揺るぎなき秩序と力を植えつけ、それらによって魂が質料の無秩序に突進せず、神的なものたちの光と結びつくようにするのだ。」(Fr.122)

このような天使的な火によって、天使階級へと上昇せしめられた魂をもつものは、神働術者である。

 「真に聖職者であるひとはみな、『力のうちに生き、天使として輝く』と神託は語る」(...qevei a[ggeloV ejn dunavmei zw:n, Fr.137)

(C0) 大天使(ajrcavggeloV

 残存する断片に証拠はないが、後世の証言から、カルデア神学では天使の上位に大天使がおかれていたことはほぼ間違いがない。というのも、プセッロスによれば、カルデア人ユリアノスは、息子の神働術者ユリアノスが生まれるに際し、大天使の魂が受肉することを懇願したと伝えられているからである[19]。

(D) ダイモーン(daivmwn

 ダイモーンには善きダイモーンと悪しきダイモーンとの二種があって、善きダイモーンは天使と同様に魂の上昇の手助けをし、魂が悪しきダイモーンの攻撃に対して戦うための味方となる[20]。他方、悪しきダイモーンは、地上、水中、空中、月下の世界の至るところに住みつき、魂を生涯誘惑し続け、神的なものとの結合を妨げる恐ろしいものとみなされていた。

 「非理性的なダイモーンが存立し始めるのは、空気の領域より下方である。それゆえに、神託は語る。『空気の犬、大地の犬、水の犬を駆り立てるもの(自然)』」(Fr.91)

 『カルデア神託』では、悪しきダイモーンは、「恥知らずの(ajnaidhV)犬」と呼ばれて恐れられ、忌避されていた。

 「(悪しきダイモーンの類は)魂を引きずりおろす、それはまた『獣のようで恥知らず』と呼ばれている、というのも、自然(fuvsiV)の方を向いているから」(Fr.89;cf. Fr.90;135)

 ここで、「自然」が言及されているのは、自然が世界霊魂であるへカテーから区別され、悪しきダイモーンの導き手としてヘカテーの下位におかれているからである。それゆえ、次のような警告が与えられることになる。

 自然が自己を現す像(au[topton a[galma)を呼び出してはならない』(Fr.101)  『自然を見つめてはならない。彼女(自然)の名は運命(eiJmarmevnon)である。』(Fr.102)

 ここで、自然がさらに運命と結びつけられているのは、人間にとっては自然が引き起こす情念や欲求を制圧することが、運命の支配を逃れて父の方へ魂を上昇させることにつながるからである。それゆえ、悪しきダイモーン、自然、運命などとさまざまに呼ばれるものは、人間の魂の救いにとって敵対者という様相を帯びているのだが、この敵は魂にとって必ずしも外的な実体ではなく、悪しき情念、欲求を引き起こすという仕方で魂の内側を浸食し、人間そのものを恥ずべき犬と化してしまうような勢力として理解すべきである。

 「『大地の獣が、あなたの器を占領してしまうだろう。』  器というのは、われわれの生命の混合体であり、他方、大地の獣というのは、地をさまようダイモーンのことである」(Fr.157)  「『彼らは、理性を欠いた犬たちと大差ない』と、神託は邪悪な生を生きる人々について語っている」(Fr.156)

(E) 英雄(h{rwV

 英雄は、残存する断片には登場しないが、神、天使、ダイモーン、英雄というイアンブリコスの分類や、プセッロスの証言などから、『カルデア神託』においてもダイモーンの下位に英雄という階層がおかれていた可能性が非常に高い[21]。

[II]神働術(qeouggiva

 「神働術者」(qeourgovV)とは、ユリアノス父子の造語であり、『カルデア神託』の残存断片においては、た だ一度だけ断片153に現れている。

 『神働術者たちは、運命に服する大衆の下に落ち込むことはない』(Fr.153)

 神学者(qwolovgoV)が神的なことを語る人々(oiJ ta; qei:a levgonteV)であるのと対比して、神働術者は神的なことを行う人々(oiJ ta; qei:a ejrgazovmenoi)であるとも言われる[22]。たしかに、神々についてただ語るだけで、それがそのまま救いの道とはなりにくい神学に対して、救いの道を積極的に切り拓く手段として、批判的なメッセージをこめて「神働術」という語が造語されたことは想像に難くない。「神働術」(qeourgova)という語を分析すれば、二つの構成要素、神(qeovV)と働き(e[rgon)が容易に見出されるが、この二つの成分が互いにどう関係するかは、文字面だけでは直ちに明らかではない。神は働きに関して主語として振る舞うのか、あるいは目的語として振る舞うのであろうか。つまり、神を働かせるのか、神が働くのかという問いが浮上してくるのである。

 ここで、神を働かせるという方の選択肢をとるならば、神働術は魔術と区別がつかなくなりかねない。というのは、魔術を白魔術と黒魔術に分けた場合、神働術は妖術(gohteiava)である黒魔術ではないのはもちろんのこと、恋人の気を引いたり、雨を降らせたりするような白魔術とも異なるからである。魔術と神働術との相違は、その目的に関して魔術が卑俗な目的を目指すのに対して、神働術の方はあくまでも魂の救済を目指すところにあ る。また、魔術は神に働きを強いるが神働術は神の自由意志による恩寵的働きを強調する。したがって、神働術においてはたしかに術である以上、人間から神への働きかけが必要なことは自明であるが、神々を強制的に引きずり降ろす降神術としてではなく、神の能動的関与により魂の方が神へと高められることを目指す、儀式を伴った手法であると理解するのが正当なのである[23]。

 それでは、震動術の具体的な儀式はどのような手順に沿って行われるのであろうか。この方法は大別して二通りに分けることができる[24]。一つ目は、生命なき彫像に神的なものを臨在させて生気づける、エジプト起源の「聖化の術」(telestikhv)と呼ばれるものであった。10世紀末の古辞書『スーダ』によれば、神働術者ユリアノスはTelestikavという書物を執筆したと伝えられている[25]ので、この書物が後世の新プラトン派において、聖化の術の手引きになったと推定される。では、どのようにして神像を生けるものにするのかと言えば、神像の空洞の中に特定の宝石や香草や小動物を入れて、これらと神々が共感的感応を起こすようにさせたらしい。

 「どのような仕方で、どんな材料から彫像をつくるべきか、(神々)自身さえ助言を与えているということは、ヘカテ一に関する以下の言明から明らかである。
 『さあ、彫像を完成させよ、私があなたにこれから教えるとおりに(その像を)浄めたうえで。
 野生のヘンルーダで型をつくり、家のまわりに棲むとかげのような小さな動物でさらに飾りたてなさい。小動物とともに、没薬、ゴムの樹脂、乳香の混合物をこすりつけたうえで。
 そして、戸外で満ちつつある月の下、あなた自身が次の祈りを捧げながら、(像を)完成させなさい』」(<Fr.224)

 或る特定の神格は、鉱物界、植物界、動物界の或る特定のものと感応するので、その共感関係を利用して、たとえば女神ヘカテーを呼び出すときには、神像の空洞に女神のシンボルとなる質料的似像を作り上げて、祈りを捧げ、イウンクスを用いたりして女神の顕現を招来するのである。捧げられる祈りの文言は、『ギリシア魔術文書』に伝えられているような、意味不明である一方、一定のリズムのパターンに則った音の吟唱であったり、呼び出す対象である神格の名を含んだものであったと推定される。だが、その昔の連鎖や聖なる神名は、翻訳不可能なものであって、強いてギリシア語に翻訳してしまうと、祈りの効力が喪失すると考えられていた。

 「『異国起源の名を決して変えてはならない。』(ojnomata bavrbara mehvpot= ajllavxhV)  これすなわち、各々の民族のもとに神から与えられた名は、秘儀に際し、語りえぬ力をもっているからという意味で ある」(Fr.150)

このようにして神的なものが呼び出されると、神働術者はその神格に質問を投げかけ、将来の出来事の予言や、魂を神に結びつけるためのさらなる手順を答えとしてえることができたらしい。

 次に、神働術の第二の方法は、神像ではなく、人間を神の受容器にするものである。受容器としての人間は、いわゆる霊媒であり、神働術者と術をかけられる霊媒とが別の人間である場合と、神働術者が同時に霊媒を兼ねる場合とがあった。それはともかく、霊媒が脱魂したり、神的なものに憑依されるためには、しかるべき衣を身にまとったり、海水で身を浄める等の準備を経て、先の聖化の術と類似した祈りを捧げる必要があったであろう。

 「この秘儀を主宰する神働術者でさえ、浄めと潅水から始めるのである。
 『火の業を司る神官自身が、最も重要なこととして、重く轟く海の凝固した波(塩)[26]を身に振りかけるようにせよ』」(Fr.133)

 そして、実際に神的なものが霊媒に憑依すると、空中浮揚、声音の変化、火に対する無感覚など刺激に対する感受性の減退、顔や身体のさまざまな自動運動や、逆にまったくの不動状態などの現象が霊媒に生じる[27]。それに加えて、たとえばヘカテーは多様なダイモーン、英雄などを伴って形なき火として輝き、自らの啓示の声に耳を傾けるよう命ずるというようなことが起こる(Fr.147;146;148)[28]。

 さて、ここに紹介したような神働術に関して、その詳細と理論的正当化の試みにわれわれが出会うのは、イアンブリコスの『エジプト人の秘儀について』(De mysteriis)においてである。この書名は、1489年頃ラテン語へのパラフレーズを試みたフィチーノが同書に与えたタイトル『エジプト人、カルデア人、アッシリア人の秘儀について』に由来するものであるが[29]、その正確な書名は、『(エジプトの神官)アネボーに宛てたポルピュリ オスの手紙に対する(アネボーの師である大神宮)アバモンの答えと、その手紙で提起された諸問題の解法』という長いものである。アネボーがイアンブリコスの弟子として実在しようが、架空の人物であろうが、ポルピュリオスはイアンブリコスに対して『アネボーへの手紙』という公開質問状を突きつけたことは事実である。ポルピュリオスは、次第に神働術への傾斜を強めるイアンブリコスに対して、自分と自分の師であるプロティノスの哲学から逸れて非合理主義を喧伝している疑念を抱いたと思われる[30]。一方、アネボーを透かして己れに向けられた批判を正面から受けとめたイアンブリコスは、アバモンという擬名で批判の論点を逐一論破する。擬名を用いた理由は、師弟関係にあったとされるポルピュリオスに対する遠慮というよりは、ギリシア人より太古の知恵を有するエジプト人に自己の思想を仮託して代弁させたかったからだと考えられる。また、「アバモン」という名は「エジプトの神アモーンの父」という意味で、「神働術者」を指していると推測されている[31]。ここでわれわれが確認できることは、二人の新プラトン主義の代表的思想家の衝突の記録である本書をもって、非プロティノス的新プラトン主義が明確な形をとったということである[32]。本書に「非理性(合理)主義の宣言書」(manifesto of irrationalism)[33]というレッテルが貼られたことは、命名者の意図とは独立に、ポルピュリオスと同じ否定的な立場からのみ本書が受け取られ、イアンブリコス研究の歩みを鈍らせることにもなった。それゆえ、われわれは近年の研究の趨勢に沿って、なるべく肯定的にイアンブリコスの思想を捉えてゆくべきだと思う。

 さて、エジプト人の役を演じるイアンブリコスは、ポルピュリオスにギリシア人を代表させて批判する。イアンブリコスによれば、ギリシア人は新奇さを好み、移り気から絶えず古きものを革新してしまうのに対して、エジプト人、アッシリア人、カルデア人は太古の神与の言葉を無傷で保存している。それゆえ、これら聖なる民族の伝える神名は人間の理性を越えた仕方で神々と接点をもっている。ポルピュリオスは、言葉が他国語に翻訳されても、聴き手はその概念、意味に注意を払うはずだという理由から、わざわざ他国語の神名を用いる神々への 呼びかけの効用を疑問視した。それに対してイアンブリコスは、用いられる言葉に関わりなく、人がその意味だけに注目するのは正しくないのであり、言葉は他言語に移されると、まったく同じ力をもつとは限らないと主張した。とりわけ、聖なる民族が保存してきた神名は、翻訳されることによって力を失うと考えられた。というのも、われわれにとって無意味の神名でも、われわれには知られざる仕方で神々にとっては有意味でありうるからである。こうして、感覚対象から抽象された概念は、名付けられた対象の全存在を開示することがないので二次的なものとされ、神々の個別的神顕である異国起源の神名が祈りの際に優先されたのである。もちろん、この神名は神聖なものであるから、何も付け加えてはならないし、何も削ってもならないものなのである[34]。

 次に、ポルピュリオスにとっての疑問点は、神働術の祭儀において上位のものがあたかも下位のもののごとくに呼び出しによって顕現を強制されるのは、不合理ではないかという点である。それに対してイアンブリコスは、神々が非受動的であることに関しては異存がないので、神働術とは神々を強制的に降下させることであるという誤った理解の方を訂正する。神働術においては、むしろ神々の方が自らの善意志によって自発的に魂に光を照らし、魂を上方に引き上げ、神々自身と合一させるのである。その際、魂は肉体の中にありながら、肉体から分離した状態になるので、人間の階層を超えた階層に移ってしまう[35]。この神的狂気といわれる状態では、神々が人間の活動を道具として用い、照明によって人間の意識を根絶するのであり、人間は「狂える口もて」理解不可能な言葉を発するようになる[36]。また、そのとき人は火によっても焼かれないし、金串で刺し貫かれても痛くないし、斧で肩を殴られようが、ナイフで腕を切り裂かれようが気づかない。というのは、人間の生を神々の生と交換してしまったので、かれらの活動はもはや人間的なものではないからである[37]。

 このようにイアンブリコスは、神働術において徹底的に神々に主導権を預けるのであるが、もちろん人間の側で何もしなくてよいと主張するのではない。神々を分有するためには、人間はたとえば沐浴し、隠棲し、断食を 行ったうえで、犠牲と祈りを捧げるなどして、自己を聖なる受容器に仕立て上げなければならない[38]。聖なる器になった人間は神々を引き下ろすのではなく、潜在的に万物に臨在している神々に適合した状態になり、直ちに顕在的に神々に満たされることになる[39]。人間は潜在的に魂の内に天使や神々などあらゆる種類の形態を含んでいるという表現も使われているところを見ると[40]、神々が主導的に人間を引き上げるという事態と並んで、人間の方にも神々を自己の魂の内から外に導くための実践が要請されているように見える。しかし、この顕在化のための実践を人間の神々に対する能動的働きかけとか、いわんや神々の顕現への強制と捉えることをイアンブリコスが否定するのは、彼が人間の無力を強調し、自力救済の不可能性を訴えたかったからに他ならない。

 「人間の種族は弱く、取るに足らない、また近視眼的であり、無(oujdevneia)を生まれつきもっている。人間の内にある迷い、混乱、絶え間ない転変の唯一の治療法は、できる限り神的な光に幾ばくなりとも与ることである[41]」

 もしわれわれ自身の力で神々を分有することができるならば、神々の崇拝も必要ないし、宗教(的儀式)も必要ないであろうとイアンブリコスは考える[42]。「似たものは似たものによって(捉えられる)」という古来からの定式に徹底的に忠実であろうとする彼には、神々は人間的なものによっては動かされず、神々は神々自身によって動かされるとする道以外残されていない。そこで、われわれの内にしるし(sunqhvmata)として先在している神々が、しかるべき神名と祈りによって喚起されるということは、われわれの思考とは無関係に神々が神々自身と結びつき合一している活動へと、魂が他律的に参与せしめられるという意味に理解されなければならないだろう。人間の魂の内に神々は先在すると言われても、これはプロティノス的意味においてではない。プロティノスにおいては、魂は自らのまなざしを自力で上方に向け、ヌースや一者と合一することが可能であった。その意味で「内」とはまさに自己の力の「内」であった。それに対して、イアンブリコスにとっての「内」とは自己の力 の「外」で展開されている神の業へと、神働術を通じて救われる可能性を示す以上のものではない。

END.



[註]

(1) 岡崎文明『プロクロスとトマス・アクィナスにおける善と存在者 西洋哲学史研究序説』晃洋書房、1993年。
(2) K・Praechter,Richtungen und Schulen im Neuplatonismus, Kleine Schriften, Hildesheim,1973, S. 165 「「イアンブリコスとともに転機が始まった」;Paulys Realenzyklopaedie der klassischen Altertumswissenschaft X, S. 650「イアンブリコスは、新プラトン主義の発展において境界石の意味をもつ」;R. T. Wallis, Neoplatonism, London, 1995 (1972), p.100「後期新プラトン主義の方向を定めたのはまさにイアンブリコスであるということに疑いは全くない」;cf. E. R. Dodds, The Elements of Theology, Oxford, 1963, Introduction, pp. xvii-xxiii;J. Dillon, Iamblichus of Chalcis, Aufstieg und Niedergang der roemischen Welt, Teil II, Band 36, 2. Teilband, Berlin, 1987, p.880「イアンブリコスは多くの仕方でポルピュリオスより複雑な神学と形而上学を考え出し、あらゆる重要な点で後のアテナイ派の哲学の基礎を据えた」。
(3) Suidas Lexicon, paris II, ed. A. Adler, Teubner, Stuttgart, 1967, p.642.
(4) J. Dillon, Plotinus and the Chaldaean Oracles, Platonism in Late Antiquity, ed. by S. Gersh and C. Kannengiesser, Norte Dame, 1992, pp.131-140は、プロティノスの用いる九種類あまりの用語は『カルデア神託』の影響下にあると推測している。
(5) H. Lewy, Chaldaean Oracles and Theurgy, Mysticism Magic and Platonism in the Later Roman Empire, Nouvelle édition par M. Tardieu, Etudes Augustiniennes, Paris, 1978, p.452.
(6) F. Cumont, The Oriental Religions in Roman Paganism, Chicago, 1911, p.279, n.66;cf. W. Theiler, Die ChaldĠischen Orakel und die Hymnen des Synesios (1942), Forschungen zum Neuplatonismus, Berlin, 1966, S.252;P. Merlan, Religion and Philosophy from Plato's Phaedo to the Chaldaean Oracles, Journal of History of Philosophy I, 1963, p.175;H. -D. Saffrey, Les Néoplatoniciens et les Oracles Chaldaïques, Revue des Etudea Augustiniennes 27, 1981, p.209.
(7) J. Dillon, Iamblichi Chalcidensis in Platonis Commentariorum Fragmenta, Leiden, 1973, p.15;E. des Places, La religion de Jamblique, De Jamblique à Proclus, Genève, 1975, p.71.
(8) 『カルデア神託』からの引用は、R. Majercik, The Chaldean Oracles, text, translation, and commentary, Bill, Leiden, 1989を底本とし、E. des Places, oracles Chaldaïques, text établi et traduit, Les belles lettes, Paris, 1989 (1971)も適宜参照した。226の断片のうち、1から186までは真性と認められうるものが、187から210までは『カルデア神託』特有の語桑が、211から226までは疑わしき断片が所収されている。疑わしき断片を私が引用する際には、番号に〈 〉を付した。神託そのものの翻訳部分は『 』で囲み、神託の前後の文脈は「 」で括った。
(9) H. Lewy, op.cit..,pp.318-320. (10) Des Places, op.cit., p.66 の訳と A. J. Festugière, La révélation d'Hermès Trismégiste III, IV, Paris, 1990, p.55 を参照して、括弧内の語を補った。
* (11) この女性原理である力が男性原理である父とともにあると述べられていたことから、両者併せて一つの両性具有の第一神とみなすこともできる。cf. R. Majercik, op. cit., Introduction, pp.7-8. (12) S. I. Johnston, Hekate Soteira A Study of Hekate's Roles in the Chaldean Oracles and Related Literature, American Classical Studies 2l, Atlanta, 1990, pp.57-58.
(13) ibid.,p.71.
(14) Majercik,op. cit., p.9.
(15) Johnston, op. cit. pp.93-10l.
(16) Majercik, op. cit., pp.16-17.
(17) F. W. Cremer, Die Chadäischen Orakel und Jamblich de Mysteriis, Mannheim, 1969, S.74.
(18) Lewy, op. cit. p.417; Majercik, op. cit., pp.11-l2.
(19) Cremer, op. cit., SS.63-64; Lewy, op. cit., pp.223-225.
(20) Majercik, op. cit. p.14; Lewy, op. cit., p.260.
(21) Johnston, op. cit., p.124; Majercik, op. cit., p.14.
(22) Lewy,op. cit. p.461.
(23) Majercik, op. cit., pp.22-24.
(24) ibid., pp.26-29; E. R. Dodds, The Greeks and the Irrational, Berkeley,Los Angeles, London, 1973(8) (1951).
(25) op. cit. p.642, n.434.
(26) Johnston, op. cit., p.81, n.14.
(27) Majercik, op. cit., p.28.
(28) Johnston, op. cit., pp.111-133; id., Riders in the Sky: Cavalier Gods and Theurgic Salvation in the Second Century A.D., Classical philology 87, l992 にしたがって、断片の順序は、147→148と理解する。
(29) H. D. Saffrey, Les libres IV aà VII du De Mysteriis de Jamblique relus avec la Lettre de Porphyre à Anébon, The Divine Jamblichus, ed.H. J. Blumenthal and E. G. Clark, Bristol, l993, pp.l44-5.
(30) H. D. Saffrey, Pourquoi Porphyre a-t-il édité Plotin?, Porphyre, La vie de Plotin II, Paris, l992, pp.50-56 は、ポルピュリオスが師プロティノスに著書の公刊を委ねられていたにもかかわらず、270年の死からなぜ30年経ってようやく約束の実行に踏み切ったか、その理由を推測している。その説によれば、ポルピュリオスはプロティノスを自己の陣営の領袖に祭りあげ、『エネアデス』をイアンブリコスに対して戦うための武器に仕立て上げたのだという。
(31) H. D. Saffrey, Abamon,Pseudonyme de Jamblique, Recherches sur le Néoplatonisme après Plotin, Paris, 1990, pp.234-9; G. Shaw, Theurgy and the Soul, The Neoplatonism of Jamblichus, Pennsylvania, 1995, p.22, n. I.
(32) 古代末期の新プラトン派の哲学者自身が自らの属する思想潮流に二つの異なる傾向を認める、よく知られた証言として次のようなものがある。「ポルピュリオス、プロティノスや他の多くの哲学者たちは哲学を優先したが、他方イアンブリコス、シュリアノス、プロクロスや秘儀に通じた人々はすべて秘術(神働術)を優先した」。 The Greek Commentaries on Plato's Phaedo, vol.II Damascius, ed. L. G. Westerink, Amsterdam, Oxford, New York, p.105, l72. I-3 (l23. 3-5 Norvin).
(33) E.R.Dodds, op. cit., p.287.
(34) Iamblichus, Jamblique: Les Mystères d'Egypte, texte établi et traduit par E. des Places, Paris, 1966, VII 4-5.
(35) Iamblichus, op. cit.,I 12.
(36) Iamblichus, op. cit.,III 8.
(37) Iamblichus, op. cit.,Ill 4.
(38) Iamblichus, op. cit., III 9.
(39) Iamblichus, op. cit., I 8-9.
(40) Iamblichus, op. cit., II 2.
(41) Iamblichus, op. cit., III 18 (144.12-17).
(42) 1amblichus, op. cit., III 20.

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