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(伝)Xenophon



アテナイ人の国制






[底本]
TLG 0032 015
Atheniensium respublica [Sp.],
ed. E.C. Marchant, Xenophontis opera omnia, vol. 5.
Oxford: Clarendon Press, 1920 (repr. 1969).
*1.1-3.13.
5
(Cod: 3,252: Hist., Phil.)





第1章

[1]
 さて、アテナイ人たちの国制についてであるが、国制のこの在り方を彼らが選んだことは、わたしの称揚するところではない。そのわけは、これを選んだことで、無為の徒(poneroi)にとっての方が、有為の人士(chrestoi)にとってよりも、羽振りがよい(ameinon prattein)からである。まさしく、そういうわけで、わたしはこれを称揚するものではない。しかし、これが彼らによってこのように決定されてよりこのかた、彼らがこの国制をいかによく安泰にしているのかということ、および、その他、過ちを犯していると他のヘラス人たちに思われている点をも〔いかによく〕克服・成就しているのかということ、これをわたしは明示しよう。

[2]
 そこで、先ず第一に、次の点をわたしは述べたい。すなわち、当地において、貧困者たち(penetes)や民衆(demos)の方が、高貴な人たちや富裕者たちよりも幅を利かす(pleon echein)のが義しいと思われている所以は、艦船を操り、国家にその力を賦与するのが民衆だからということ、これである。つまり、操舵手たちや、水夫長たちや、50人指揮官たちや、見張り番たちや、船大工たちがそうであるが――国家にその力を賦与するのはこの人たちの方なのである。重装歩兵たちや、高貴な人たちや、有為の人士よりもはるかに。したがって、事情かくのごとくであるからして、抽選や挙手採決によって公職に参加すること、および、市民たちのうち望む者には発言することができるということが義しいことだと万人に思われているのである。

[3]
第二に、公職のうち、行使に効験があれば安泰をもたらすが、効験がなければ民衆全体に危難を〔もたらす〕かぎりの――そういった公職には、民衆は参加することを要求しない。つまり、将軍職にも騎兵指揮官職にも、抽選によって自分たちが参加すべきだとは思っていないのである。なぜなら、民衆は自分がこれらの公職に就くのではなく、最も有力な人たちが就くのを認めることによって、より多く益されるということを知っているからである。これに反し、報酬や家の利益のためになるかぎりの、これらの公職には民衆は就任することを求めるのである。

[4]
第三には、これは驚く人たちもいるところであるが、あらゆる場面で、有為の人士によりも、無為の徒や貧困者たちや民衆派の人たちにより多くの役割をあてがうということ、まさにこのことによって彼らは明らかに民主制を安泰にしているのである。なぜなら、貧困者たちや平民(demotai)やより劣悪な連中の羽振りがよいことで、したがってまたこういう連中が多数になることで、彼らは民主制を拡大することであろう。これに反し、富裕者たちや有為の人士の羽振りがよければ、民衆派は自分たち自身とは正反対のものを強化することになるからである。

[5]
たしかに、いずれの地にあっても最善者制は民主制とは正反対である。なぜなら、最善者たちの間では、放縦(akolasia)と不正は最少、有用な物事に向かう厳格さ(akribeia)は最多に内生するものだが、これに反して民衆の間にあっては、最多なのは無学(amathia)、ふしだら(ataxia)、無為(poneria)である。というのは、貧困がより甚だしく彼らを醜行へと導くのであるが、一部の人たちにあっては、無教育や無学もまた金銭がないために生じるからである。

[6]
そこで、ひとは次のように言うことができよう、――発言したり、まして評議することは、彼らがみなこぞってするのを認めるのではなく、最も利口な人たちや最善者たちが為すべきであった、と。ところが、この点において、つまり、無為の徒にさえ発言を許すことで、彼らは最善の評議を行っているのである。なぜなら、もしも有為の人士が発言し評議したなら、それは自分たち自身に同類の人たちにとっては善いことであろうが、しかし民衆派にとっては善いことではないであろう。ところが、現実には、起って発言するのは望む者、つまり無為な人間であって、自分ならびに自分に似た者たちにとっての善を見つけだすのである。

[7]
ひとは言うであろう、「そんなやつが、自分とか民衆にとって、何が善かをはたして知っていようか」と。だが、彼らは知っているのである、――その人物の無学、無為、好意(eunoia)は、有為の士の徳(arete)、知恵(sophia)、悪意(kakonoia)よりもむしろ利するということを。

[8]
なるほど、このような在りさまから最善の国家が生まれることはないであろうが、しかし、かくすることで民主制は最もよく安泰であり得る。なぜなら、国家が善き法に支配されていても、民衆が望むのは、〔それに〕自分が隷従することではなく、自由であること・支配することであって、悪しき国制(kakonomia)は民衆にとってあまり気になるところではない。というのは、善き法に支配されていないとあなたが信ずるところ――まさしくそこにおいてこそ、民衆は強力かつ自由だからである。

[9]
ところで、もしもあなたが善き国制(eunomia)を求めるなら、〔そこでは〕あなたは先ず第一に、最も利口な人たちが連中に対して諸々の法習を制定するのを目にすることであろうし、第二には、有為の人士は無為の徒を懲らしめるであろうし、有為の人士が国家について評議するであろうし、狂った連中が評議するのを許さないのはもちろん、発言することも民会を開くことさえも〔許さないことであろう〕。そうなれば、こういった善きことどもの結果として、民衆はたちまちにして隷属状態へと陥ることであろう。

[10]
 ところが逆に、アテナイには奴隷たちや寄留民たちに最多の放縦があり、しかも、当地では殴ることもできず、奴隷があなたにへりくだることもない。そこで、こんな風潮がなにゆえ生じたのか、わたしが話そう。奴隷は――あるいは寄留民とか解放奴隷(apeleutheros)とかは――、自由民によって打擲さるべしという法習がもしあったとしたら、アテナイ人を奴隷だと思って殴ることしばしばであったことだろう。というのは、当地では、民衆は奴隷たちや寄留民たちよりもより善いものは何も身にまとっていないばかりか、姿形も何らより善くないからである。

[11]
さらにまた、当地では奴隷たちが安楽に暮らしているばかりか、一部には豪勢な暮らし向きをすることさえ許しているということ、このことに驚くひとがいるなら、これもまた明らかに彼らは知ってそうしているのである。なぜなら、海軍力のあるところでは、われわれが〔奴隷の〕賃貸金をとるために、奴隷人足たちに金銭的に隷従したり、あるいはまた自由にさせざるを得ない。そして、奴隷たちが富裕であるところ――そこでは、もはや、わたしの奴隷があなたを恐れたとて、何の得にもならないのである。これがラケダイモンなら、わたしの奴隷はあなたを恐れたことだろう。そして、あなたの奴隷がわたしを恐れるなら、おそらく、〔あなたの奴隷は〕自分の財産を差し出して、自分の身を心配しないですむようにすることであろう。

[12]
とにかく、こういうわけで、われわれは自由民たちに対する奴隷たちにも平等な発言権(isegoria)を実現し、また町衆に対する寄留民たちにも〔実現した〕のであるが、国家が寄留民を必要とする所以は、商工業の多さと艦隊のためである。とにかく、こういうわけで、当然ながら、われわれは寄留民たちにも平等な発言権を実現したのである。

[13]
 さらに、当地では、体育修練者たちや音楽に従事する者たちを民衆はなくしてしまった。それが美しいことではないとみなしているからであるが、それは、それらに従事するのは不可能だと知ったからである。そのかわり、合唱隊奉仕や、体育祭奉仕や、三段櫂船奉仕においては、合唱隊奉仕するのは富裕者たち、合唱隊奉仕されるのは民衆、また、富裕者たちは体育祭奉仕や三段櫂船奉仕をし、対して民衆は三段櫂船奉仕や体育祭奉仕されることを知っている。とにかく、民衆は、歌ったり走ったり踊ったり艦船で航行したりして金をもらうことを要求し、かくして、自分は取得し、富裕者たちはより貧しくなる。また法廷においても、彼らは自分たちの利益になるものほどには、正しいことは気にしないのである。

[14]
 さらに、同盟者たちについていえば、なにゆえ〔アテナイ人たちは〕出航していって、有為の人士に対して評判どおりの告訴屋家業をし、憎むのか――それは、支配者が被支配者に憎まれるのはやむを得ないことであるとともに、諸都市の富裕者たちや有為の人士が強力になれば、アテナイ民衆の支配はごく短期間しか存続しない、ということを彼らが知っているからである――、とにかく、そういうわけで、有為の人士を市民権剥奪にし、財産を没収し、追放し、死刑にする一方、無為の徒はふやすのである。これに対して、アテナイ人たちの中の有為の人士は、同盟諸都市の有為の人士を保護するのであるが、諸都市の最善者たちを常に保護するのは、自分たちにとって善いことだと知っているからである。

[15]
ところで、アテナイ人たちの強さは、同盟者たちが金銭を貢納するのが可能なればこそだと言うことのできるひとがいよう。だが、もっと大きな善だと民衆派に思われているのは、同盟者たちの金銭をアテナイ人たちの一人ずつが取得するにしても、相手が生活でき、しかし策謀する余裕もないくらいに働く限度内で、ということである。

[16]
 さらに、アテナイの民衆は、次の点でも評議の仕方が悪いように思われている。それは、裁判のためにアテナイに来航するよう同盟者たちに強制しているということである。だが、このことでいかほど善きことがアテナイの民衆に内生しているかと言って、彼らは逆に数え立てる。先ず第一に、供託金の中から一年を通じて〔裁判官としての〕報酬を受け取ること。第二に、船で出航することなく、家郷に座ったままで同盟諸都市を管理し、しかも、民衆の仲間を救済する一方、反対者たちを法廷において破滅させる。これに反して、〔同盟者たちが〕それぞれ自分の家郷で裁判を受けたとしたら、アテナイ人たちに腹を立てているから、自分たちの中で、アテナイの民衆に最も親愛であるような、そういう連中を破滅させたことであろう。

[17]
さらに、これらに加えて、同盟者たちに対する裁きがアテナイで行われることから、アテナイの民衆は次のような利得を得ている。すなわち、先ず第一に、ペイライエウスにおける100分の一税が余分に国にもたらされる。

[18]
第二に、集合住宅(synoikia)を持っている者は、より羽振りがよくなる。第三に、役畜とか奴隷人足を所有している者は、賃貸で稼げる。第四に、伝令吏たちは同盟者たちの在留期間、より羽振りがよくなる。さらに、これらに加えて、もしも同盟者たちが裁判のためにやってこないなら、彼らが尊敬するのは、アテナイからの来航者たちだけ――将軍たちや三段櫂船指揮官たちや使節たち――になることであろう。ところが実際は、同盟者たちのそれぞれ一人一人が、アテナイの民衆に阿諛追従せざるを得ない。それは、アテナイにやってきて、償いをするにも償いを受けるにも、ほかならぬ民衆の前でしなければならない――これこそがアテナイの法習である――ということを知っているからである。かくて、法廷において嘆願し、誰であれ入廷してくる者の手にすがらざるを得ない。とにかく、こういうわけで、むしろ同盟者たちがアテナイの民衆の奴隷となりはてているのである。

[19]
 さらに、これらに加えて、外地に所有地があるゆえに、また、外地での公職に就くために、彼らはみずからも、またその従者たちも、知らず知らずのうちに櫓を操ることを習いおぼえた。というのは、しばしば航行する人は、自身も家僕も櫓をとらざるを得ず、繰船術に関する名称を習いおぼえるざるを得ないからである。

[20]
かくて、諸々の航海の経験によって、あるいはまた修練によって、善き操舵手たちも生まれる。そして、ある者は商船を操舵し、ある者は貨物船を〔操舵して〕修練し、ここにおいて、ある者たちは三段櫂船の任に就く。そして、多くの者たちは艦船に乗船してもすぐに走らせることができるのであるが、それは、それまでの人生においてあらかじめ修練してきたからである。


第2章

[1]
 これに反し、彼らの重装歩兵隊は、アテナイ人たちにとってまったくよろしくないと思われているが、そういうふうに決められているのであって、彼らは自分たちでも、敵たちよりもより劣り、数もより少ないとみなしているが、年賦金を納める同盟者たちよりは、陸上においても強大であり、重装歩兵隊は同盟者たちよりも強ければ、それで充分だと彼らは考えている。

[2]
そのうえ、偶然によっても、何か次のようなことが彼らに起こっているのである。すなわち、陸上で支配されている者たちは、諸々の小国が結集して一丸となって闘うことができるが、海上で支配されている者たちは、島民であるかぎりは、諸都市を同じ一カ所に集結させることができない。なぜなら、間には海があって、強力な者たちが海の覇者になっているからである。また、たとえ、島民たちが同じところに、つまり一つの島にひそかに寄り集うことができたにしても、〔海の覇者に攻囲されたら〕飢えによって破滅するであろう。

[3]
他方、本土にあってアテナイ人たちに支配されているかぎりの諸都市は、その大きなものは恐れによって支配され、その小さなものはまったく必要性によって支配されている。なぜなら、何かを輸入するとか輸出するとかを必要としないような都市は、一つとして存在しない。ところが、海の支配者たちに服従しないかぎりは、そんなこと〔輸出入〕は都市にとってあり得ないことであろう。

[4]
次にまた、海の支配者たちには、陸上の支配者たちにはたまにしかできないことを、つまり、より強い相手の領地を荒らすということであるが、〔いつでも〕実行できる。というのは、敵が一人もいないところ、あるいは、わずかしかいないところを沿岸航行し〔ながら荒らし〕、もしも〔相手が〕攻撃してくれば、乗船して引き揚げることができる。しかも、この作戦行動は、陸路救援に駆けつける人ほどにも困らないのである。

[5]
次にまた、海上の支配者たちには、自分たち自身の領地から、あなたが航行したいと望むだけ遠方まで出航することができる。これに反して陸上の〔支配者たち〕には、自分たち自身の領地から、多くもない日数の道程を離れられるにすぎない。なぜなら、行軍は鈍く、陸路を行くには多くの日数の食糧を携行できない。しかも、陸路を行くには、友好によって進むか、さもなければ闘って勝利するかしなければならないが、航行する者は、相手よりも〔自分の方が〕強ければ、下船すればいいが、<強くなければ、その領地内には下船せず>、友好的な土地か、自分よりも弱い者のところに到着するまで、沿岸航行すればいいのである。

[6]
次に、ゼウスに由来する収穫物の病害に遭う場合も、陸上の覇者たちはひどい目に遭うが、海上の〔覇者たち〕は容易である。なぜなら、全地が同時に病害にかかるわけではない。そのため、〔穀物は?〕繁栄した土地から海の支配者たちのもとに到着するのである。

[7]
 さらに、もっと細かなことにも言及さるべきであるなら、海の支配のおかげで、先ず第一に、他国の他の人たちと交わることによって、種々の贅沢の仕方を彼らは発見した。その結果、シケリアの快楽であれ、イタリアのであれ、キュプロスのであれ、アイギュプトスのであれ、リュディアのであれ、ポントスのであれ、ペロポンネソスのであれ、他のいずれかの土地のであれ、これらすべてが、ひとつところに集中したのは、海の支配のおかげである。

[8]
次に、彼らはありとあらゆる国言葉を聞いて、これはこちらから、あれはあちらからと抽出した。かくて、ヘラス人たちというものは、国言葉でも暮らしでも格好でも、固有のものをよりいっそう用いるものだが、アテナイ人たちときたら、ヘラス人たちと異邦人たちとのすべてから混合しているのである。

[9]
 さらにまた、生け贄や神殿や祝祭や神域についても、貧困者たちのおのおのには、供犠したり供応したり神殿を建てたり、美しくて大きな都市を建設したりすることはできないと民衆はさとって、それができるようになる仕方を見つけだした。つまりは、国家が多くの犠牲獣を公的に供犠し、民衆が供応を受け、犠牲獣を当籤するのである。

[10]
また、体育場や浴場や着替え部屋を一部の富裕者たちは私的に所持しているが、だが民衆はみずからが多くの角力場や着替え部屋や浴室をみずからのために特設する。そして、群衆(ochlos)は少数者たちや幸福な人たちよりもより多くそれを享受するのである。

[11]
 まこと、このような富裕さを手にすることができるのは、ヘラス人たちや異邦人たちの中で、彼らだけである。というのは、いずれかの国が造船用の木材に富んでいるとしても、海の支配者を説得できないかぎり、はたしてどこに処分できるであろうか。あるいはまた、どうであろうか、――鉄なり銅なり亜麻なりに富んだ国があるとしても、海の支配者を説得できないかぎり、どこに処分できるであろう。しかるに、わたしにとってとりわけて艦船は、まさしくこういったものから出来ているのである、ここからは材木を、ここからは鉄を、ここからは銅を、ここからは亜麻を、ここからは蝋を〔手に入れて〕。

[12]
さらに、これらに加えて、彼ら〔アテナイ人〕は、誰であれわたしたちの対立者が他所に運ぶことを許さないか、あるいは、〔そもそも〕航海をさせないであろう。かくして、わたしが、何もせずに、陸に産するこれらすべてを手に入れられるのも、海のおかげなのである。よその国であれば、これらのうち二つを手に入れられるところは一つもなく、また、同じ国に材木と亜麻とが産するところもなく、亜麻が最も豊富なところでは、土地が平坦で材木がない。また、銅と鉄も同じ国から産出せず、その他のものも二つないし三つのものが同じ国に産することもなくて、一つ一つが別々の国に〔産する〕のである。

[13]
 なおまた、これらに加えて、いずれの本土にも、突き出た岬とか、沖合の島とか、いくぶん狭い個所とかがある。その結果、海の支配者たちはそこに投錨して、本土に住んでいる者たちを蹂躙することができるのである。

[14]
しかし、彼らに欠けるものが一つある。すなわち、アテナイ人たちが海の覇者として島に住んでいたなら、望みとあらば、悪くなして〔=仇を成して〕、しかも、海を支配しているかぎりは、何も――自分たちの領土を荒らされることも、敵国人たちの〔侵入を〕許すことも――被らなくてすますことが彼らにはできたことであろう。ところが実際は、アテナイ人たちのうち、農民たちや富裕者たちは、ますます敵たちに取り入るようになっているが、これに反して民衆は、自分たちには〔敵が〕焼き払うものは何もなく、〔敵が〕伐採するものもないことをよく知っているので、恐れることなく生活し、敵に取り入ることもないのである。

[15]
さらに、これらに加えて、別の恐怖からも彼らは解放されていたことであろう――もしも島に住んでいたなら、少数者たちによって国が売り渡されることのないのはもちろん、城門が開かれることも、敵国人たちがなだれこんでくることもないであろう。はたして、島に住んでいたなら、どうしてそんなことが起こり得ようか? 逆にまた、島に住んでいたなら、民衆に対して党争するということも何もないことであろう。なぜなら、党争するとしたら、実際のところ、敵国人たちを陸路手引きするつもりで、これに希望を託して党争するのである。しかし、島に住んでいたなら、こんなことも彼らは恐れないですんだことであろう。

[16]
ところが、原初よりたまたま島に住んでいなかったので、彼らは実際には次のことを実行している。つまり、財産は島々に託す一方(それは海上支配を信頼しているからであるが)、アッティカの地が伐採されるのは見過ごしにする(これに心を奪われては、別のより大きな善きものを失うということを知っているから)ということである。

[17]
 なおまた、少数者支配されている都市は、同盟や誓約を遵守せざるを得ない。もしもこれらの条約を堅持しないとか、何らかの原因で不正が起こるとかすれば、〔悪〕名は、成約をなした少数者たちのせいということになろう。これに反し、民衆が成約した場合には、その責めを発言者や評決に付した者一人のみに帰して、その他の者たちは否認することができる、――わたしは出席していなかったし、満場の民会で何が合意されたかを聴き知って、わたしとしては満足どころではない、と。しかも、それらがそうなったのがよくないと思われたら、彼らは望まぬことは実行しないための無数の口実を見つけだすのが常である。そして、民衆が評議した事柄から何か悪いことが結果した場合には、民衆は少数者たちが自分に反対したから台無しになったといって責め、逆に何か善いことが〔結果した〕場合には、自分たち自身にその原因を帰するのである。

[18]
 逆にまた、民衆を喜劇化したり悪く言ったりすることを彼らは許さず、自分たちが悪く〔言われるのを〕聞かないですむようにしているが、私的には、誰かが誰かを〔喜劇化したり悪く言うことを〕望むなら、奨励する。それは彼らがよく知っているからである、――喜劇化されるやつは、たいていは、民衆の仲間ではなく、ましてや大衆(plethos)の仲間なぞではなく、富裕者とか、高貴な人とか、権勢者であって、貧困者や民衆派の人たちで、喜劇化されるのは一部の少数であり、また、この連中とて、お節介や、民衆よりもかなり幅を利かすことを求めないかぎりは、〔喜劇化されることもなかった〕ということを。だから、こういう連中が喜劇化されても、彼らは立腹しないのである。

[19]
とにかく、わたしの主張するところは、アテナイの民衆は、市民たちのうち誰が有為の人士で誰が無為の徒なのかを知っているということである。知ってはいるけれども、自分たち自身にとって好都合で役に立つ相手なら、たとえ無為の徒であっても愛するけれども、有為の人士はむしろ憎む。なぜなら、彼らの信ずるところでは、彼ら〔有為の人士〕に徳が生まれつきそなわっているのは、自分たち〔民衆〕に善くするためではなく、害悪を及ぼすためだからである。ところが、これとは正反対に、一部ではあるが、真に民衆の仲間でありながら、自然本性のうえでは民衆派ではない人たちもいるのである。

[20]
ところで、わたしとしては、民衆自体には民主制を是認している。なぜなら、自分が羽振りを利かす(eu poiein)ということは、誰しも是認さるべきことだからである。しかし、民衆の仲間でないのに、少数者制国家よりもむしろ民主制国家に住むことを選んだような者は、不正する下心のある者であり、また、悪人である者にとっては、少数者制国家よりもむしろ民主制国家の方が、気づかれないですますことができる場合がより多いということを知っている者である。


第3章

[1]
 要するに、アテナイ人たちの国制について、その在り方をわたしは称揚するものではない。けれども、民主制を採ることが彼らによって決められてよりこのかた、わたしが開示した上述の仕方を採用して、彼らは民主制をよく安泰にしてきたようにわたしには思える。  なおまた、次の点でも一部の人たちがアテナイ人たちを非難するのを眼にするのであるが、それはつまり、当地では、時として一年でも、座っているだけでは、評議会はもとより、民会とも折衝することができない、というのである。こんなことがアテナイに起こるのも、

[2]
ほかでもない、事案のあまりの多さに、折衝したうえで全員を引き取らせることができないからである。いったい、どうしてそんなことができようか、――先ず第一に、ヘラスの諸都市のいずれもが成就することのないほどの祝祭を挙行しなければならず(しかもこの期間中は、国事のいくつかも遂行しがたい)、第二に、私訴や公訴や執務審査や、人間が総掛かりになっても裁決できないほどの裁きを裁決しなければならず、さらに、評議会においては、戦争に関する多くの事柄、金銭の調達に関する多くの事柄、法習の制定に関する多くの事柄、都市において常時起こることに関する多くの事柄、さらに、同盟者たちの間に起こることに関しても――年賦金の徴収や、艦船および神殿の管理に関しても多くの事柄を評議しなければならない人たちであるのに? だから、これほどの事案があるのに、すべての人々と折衝することができないからとて、それがはたして何か驚くべきことであろうか?

[3]
しかし一部の人たちは言うであろう、「金を持って評議会なり民会に赴けば、折衝してもらえよう」と。なるほど、わたしはその人たちに同意しよう、――アテナイでは金銭次第で多くのことが成就され、また、もっと多くの人たちが金を贈与すれば、もっと多くのことが成就されるだろう、と。しかしながら、次のことをわたしはよく知っている、――ひとがどれほどの銀や金を彼らに贈与しようとも、必要とする者たち全員のためにこの国が遂行するには充分でないということを。

[4]
さらに、艦船を艤装しなかったり、何らかの公有地に建造したりする者がいたら、このことにも裁定を下さなければならない。さらに、これらに加えて、毎年、ディオニュシア祭や、タルゲリア祭や、パンアテナイア祭や、プロメティア祭や、ヘパイスティア祭に寄せる合唱隊奉仕者たちのために裁定を下さ〔なければならない〕。また、三段櫂船奉仕者400人が年毎に任命され、しかも、この人たちの中で望む人たちのために毎年裁定を下さなければならない。さらに、これらに加えて、公職者を資格審査し、裁定を下し、孤児たちの資格審査をし、囚人たちの看守を任命しなければならない。

[5]
ところで、これらもまた毎年のことである。その合間には、出兵や、他に何か突発的な不正事が起こったら――尋常ならざる暴虐を働く者たちがいる場合や、涜神する連中がいる場合には、裁判をしなければならない。これでもまだきわめて多くのことをわたしは省略しているのである。が、しかし、最大なことは述べられたとしよう。ただし、年賦金の査定は別である。そして、これが行われるのは、通常、第5年目〔4年〕ごとである。それでは、さあ、これらのことすべてのことは裁定を下すに及ばないと考えてよいであろうか?

[6]
はたして、ここで裁定を下すに及ばないことが何かあるなら、言ってもらおう。むしろ逆に、すべてに裁定を下さなければならないと同意すべきだとするなら、〔それが〕1年を通じてであるのはやむを得ない。現在でさえ、1年を通じて裁判しても、人間のあまりの多さゆえに、不正者たちを阻止できないでいるのである。

[7]
それでは、さあ、主張するひとがいよう、――なるほど裁判しなければならないが、より少ない人数で裁判すべきだ、と。そうなれば、当然、開廷数を少なくしないかぎりは、それぞれの法廷には少数者しかいないことになろう。そうなれば、少数の裁判官たちに対して策を巡らすことも、ひっくるめて買収することもより容易で、義しく裁判することははるかに少なくなることであろう。

[8]
さらに、これらに加えて、アテナイ人たちは祝祭を挙行しなければならないが、祝祭の期間中は裁判ができないということも考えるべきである。しかも、彼らが挙行する祝祭の数たるや、その他の人たちの2倍である。もっとも、わたしが〔比較に〕挙げたのは、最少の祝祭を挙行する国家のその祝祭の数であるが。
 とにかく、これらがこういうふうであるからには、アテナイでは現状あるようにしか事態はありようがないとわたしは主張する。ただし、かなり細かな点で、ある部分を取り除きある部分を付け加えることは別である。が、しかし、民主制からかなり〔本質的な〕部分を取り除くことなしには、大幅な変革はできないのである。

[9]
なぜなら、この国制がより善くなるために、多くのことを見つけだすことはできるが、しかしながら、民主制が存続できるために、いかにして彼らがより善く為政するようになるかということ、これを満足のゆくように見つけだすのは容易なことではないからである。ただし、先ほど言ったことではあるが、かなり細かな点で付け加えたり取り除いたりすることを別にしてである。

[10]
 さらに、次の点でもアテナイ人たちは正しく評議していないようにわたしには思われる。つまり、党争状態にある諸都市に対して、より劣悪な連中を支持しているということである。しかし、彼らがこれを実行しているのは見識を持ってである。というのは、もしも、より善い人たちを支持していたなら、自分たち自身と同じ見解を有する人たちを支持しないことになろう。なぜなら、いずれの都市においても、最善者層(to beltiston)が民衆に好意的であるところは一つもなく、それぞれの都市において、民衆に好意的であるのは最悪者層(to kakiston)である。要は、似たものは似たものに好意的なのである。だから、そういうわけで、アテナイ人たちは自分たち自身に似つかわしいものごとを支持しているのである。

[11]
逆に、彼らが最善者たちを支持しようとしたたびごとに、彼らの得になったことはなく、むしろ、短期間のうちに、ボイオティアの民衆は隷属することになった。同様にまた、ミレトス人たちの最善者たちを支持したときも、短期間のうちに、〔最善者たちは〕離反して民衆を壊滅させた。同様にまた、メッセニア人たちをではなくラケダイモン人たちを支持したときも、短期間のうちに、ラケダイモン人たちはメッセニア人たちを服属させて、アテナイ人たちに戦争を仕掛けてきたのである。

[12]
 さらに、口をさしはさむ人がいるであろう、――結局のところ、アテナイでは不正に市民権剥奪された者は一人もいない、と。だが、わたしは主張する、――不正に市民権剥奪された人たちが何人かはいる。しかしながら、その数はわずかである。しかるに、アテナイの民主制を打倒せんとするには、少なからざる人数が必要なのである。

[13]
実状かくのごとくであるからして、思いを致すべきは、市民権剥奪されたのが義しかったのはいかなる人たちかということではなく、不正に〔剥奪された〕者たちがいるのかどうかということである。ところが、アテナイでは多くの人たちが不正に市民権剥奪されたと思えるひとがあり得ようか、――民衆が諸々の公職を支配しているところで? つまり、公職を義しく遂行しないことから、また、義しいことを発言せず、実行もしないことから、こういうことからアテナイでは市民権剥奪が生じる。このことを勘案すれば、市民権剥奪者たちから何か恐るべきことがアテナイに出来すると考えるには及ばないのである。
                         1998.04.02.訳了
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