蝉の哭く夏
旅立ち
それは、暑い夏の日だった。野球部が早くも、次の甲子園に向けて練習をしていた。その喧噪に紛れて小さな音がした。その音の原因が分かったのは、2日後の事だった。
夏休みの中程にある登校日、生徒達が文句を言いながら学校にやって来た。成績に関係ないせいか、遅刻する者も多かった。それでも気がひけたのか、一人の生徒が中庭を横切って教室への近道を通ろうとした時、2日前の小さなの音の原因を見つけた。
その10分後に学校は騒然となった。出席をとっていた担任が一人足りない事に気づき、生徒に尋ねた頃に職員室から呼び出しがあり教室を出た。
一人足りない生徒。彼は、中庭に冷たく横たわったままだった。小さな音、それは屋上から飛び降りた音だった。
「今谷 幸司」目立たなく大人しい、という以外は教師達にさえ認識のない生徒だった。教師達が隠そうとしても隠せるものではなく、事実はより多くの尾鰭を付けて伝わった。進路の事、女にふられた、いじめられた、理由は無限に広がっていった。こうなると、少数人数で生徒を押さえられるものではなくなった。
中庭を封鎖して、生徒を下校させる事になった。
夏休み中の登校は取り消され、9月の新学期まで一般生徒は登校しなくてよい事になった。それというのも表向きは生徒に動揺を与えない為だったが、本音はテレビなどのワイドショーに、あれこれ聞かれるのを嫌ったからだった。雲一つ無い空にうるさい程、蝉が鳴いていた。
旅立ち・2
次の日、テレビは今谷の事で埋め尽くされていた。たった十数時間で、よくもこれだけ調べたな、と僕・高岡 聡は思った。クラスメートの自分でさえ知らない事ばかりだった。もっとも、知りたいとも思わなかったが。
それにしても、と朝食のパンをかじりながら考えた。テレビで知っている奴等が何人かインタビューに答えていた。アナウンサーは、部活に行く途中だと言っていたが、そんな奴等ではない。テレビ局が来るのを、見越して行ったに違いない。
朝食を済ました後、応援するつもりもなかったが、地元の高校が出場しているので、高校野球を見た。
俺・真田 浩也は今までにない早起きをして、新聞を見た。一面に今谷の事が載っていた。やはり、いじめではないかと報じられていた。大文字だけを読んで俺は新聞をポストに放り込むと、夏にも係わらず布団を頭まで被って寝たふりをした。
さすがに10時を過ぎてからババアが起こしに来た時には起きたが、俺は一階に行くのが嫌だった。ババアは、待ちかねた様に尋ねて来た。
「この自殺した今谷とかいう子、あんたと同じ学年なんだねえ。なんか、知らないの?」
あからさまに何かを期待していた。知っていれば、井戸端会議でのスターの座を射止める事ができるからだ。
「知らねえよ。」
残念そうな顔をしながらも、「まあ、この子も大変だったのね。」と言って、俺の遅い朝食の準備に取りかかった。俺は野球は嫌いだったが、今日だけは高校野球が見たいと思った。
旅立ち・3
高校野球の第三試合が中盤に差し掛かった頃、僕は毎週買っている雑誌を買いに家を出た。遠くに入道雲があって、蝉の声が聞こえる標準的な夏だった。町中は日陰が少なく、クーラーの室外機から吐き出される熱風のせいで、陽炎ができていた。一番近い本屋は売り切れで置いていなかった。後4分位歩いた所にコンビニがあった筈だ。そこになら、置いてあるかもしれない。
俺は時間つぶしに高校野球を見ていたが、やはり暇になり家を出た。暑い中を長時間歩く気にもなれず、ゲーセンに行く事にした。知り合いが来ているかもしれないし、なによりクーラーがきいているからだ。
休みは嫌いだった。それも、長期の休みになるとイライラした。顔を見れば勉強しろと言う親。ことある事に馬鹿にする姉。家にいるのが嫌だった。途中でビックサイズのコーラを買って、冷気の漏れるゲーセンの扉を開けた。
旅立ち・4
何軒が廻って、やっと目当ての雑誌を買った僕は消しゴムが小さくなってきていた事を思い出してコンビニに寄った。ついでに、お菓子も買おうとカゴを持って店内を歩いた。文房具のコーナーに見た事のある顔があった。確か、同じクラスだったと思う。人の顔を覚える事に熱心でない僕は、全クラスメートの顔を覚えた頃には進級するという悪循環を繰り返していたので、自信はなかった。向こうは、どうやら知っているようで近付いて来た。
「チクんなよ。」
「何が?」
手にはガムが握られていた。どうやら、「万引きしようとしたのを、言うな。」という事らしい。
「面倒臭い。」
気が付きもしなかった事をわざわざ教えられ恨みをかってまで、報告する気もなかった。さっさと消しゴムをカゴに入れ、菓子をいくつか入れてレジに並んだ。いつも思うがレジにある防犯カメラなんて、動きは速いわ、映像は小さいわで、脅しにもなってないと思う。名前も知らないクラスメートは、何故か万引きする筈のガムを買って後をついてきた。
旅立ち・5
「何か用?」
店を出てもついてくるクラスメートに声をかけた。顔は知っていても名前は知らないので、名前を呼ぶ事はできなかった。そいつは、もごもごと口の中で何かを言ってから僕に言った。
「俺の事、知らないのか?」
どうやら、そいつは有名人らしい。
「確か、同じクラスだよね。僕、名前覚えるの苦手なんだ。」
「そうか。」
と、言ったきり何も言わなかった。気が付くと、学校の近くまで来ていた。遠くからでもテレビ局の車が停まっているのが分かった。
「暑いのに、大変だねえ。」
僕は、ついそう言った。こいつは僕と何を話したいのか分からなかったから、当たり障りのない事を言った。
「今谷の奴、いじめられてたんだ。」
テレビ局の車を見ながら、そいつは言った。
「そうみたいだねえ。」
僕の気のない返事に、そいつはむきになって言った。
「同じクラスの奴が自殺したんだぜ?気にならないのかよ?」
「だって、友達じゃないから。」
その答えは、やはりそいつの気に触ったらしい。地面を踵で、トントンと蹴っていた。何かを言いたいみたいだが、あえて尋ねなかった。少し考えてから、そいつは僕に言った。
「あいつ、いじめられてて、時々皆の方を見ていただろ?どうして、助けなかった?」
本心を言おうかどうか迷った。僕の答えは、こいつの疳に触るらしかった。それでも、本心以外は嘘っぽかったので本心を言った。
「メリットが無いから。」
「金が欲しいのかよ?」
やっぱりねえ、と思った。
「メリットって言っても、お金だけじゃないよ。例えば、話していて楽しいとか、何か、面白い事を一緒にするとかね。」
「良心は、痛まないのかよ。」
「でも、今谷君を庇って、いじめグループに目をつけられたら、今度は自分がいじめられるかもしれないじゃないか。そんな危険と引き替えにしても、手に入るのは内申書に「正義感が強い」って、書いてもらえる位さ。」
「お前は、自分にとって得か損かしかないのか?」
「よく、分かんないよ。」
さすがに、この返事には戸惑ったらしく次の言葉は出てこなかった。そうこうしている内に、校門前に居たテレビ局のリポーターが僕達に気づいたらしく、近付いて来るのが見えた。後で先生達に色々言われるのも面倒なので家に帰ろうと、来た道を歩き出した。その時、今まで青空で頑張っていた入道雲が耐えきれずに雨を投げ出した。ここから、家まで走って帰っても5分は懸かる。仕方なしに、近くにあった児童公園に逃げ込んだ。公園の真ん中にあるコンクリートでできたドームで雨宿りする事にした。
旅立ち・6
「帰らないの?」
まだ後を付いて来ていたクラスメートは、髪にかかった雨を払いながら返事をした。
「家まで、10分位かかるんだよ。」
考えてみれば、おかしなものだった。同じクラスになって4カ月、名前も覚えていない相手と長い間話をしている。それに、できれば知り合いにはなりたくないタイプと話しているのだから。雨が止むまで、30分はあるだろう。ただ、黙っているのも息苦しかったのでコンビニで買ったお菓子を取り出し袋を開けた。
「食べる?」
夕立の湿った空気の中で、ポテトチップスは乾いた臭いをドームに充満させた。さすがに手持ちぶさたなのか、そいつは手を伸ばし何枚か取っていった。
「俺さ、今谷の事いじめてたんだ。」
そいつは、突然言い出した。名前さえ知らない僕に、わざわざ言わなくてもいい事を。いや、だからこそ話しやすかったのかもしれない。
「だったら、学校の近くとか来ない方がいいんじゃないの?」
「・・・スゲー、不安でさ。いつ、テレビ局の奴等が来るか分かんねえから。」
今度は、僕が色々と尋ねる番だった。
「いじめたら、自殺するとか思わなかった?」
「最初は少し思ったな。でも、2、3カ月たつと腹がたってきた。どうして、抵抗しないのかって。でも少しでも嫌な顔すると、生意気だと思った。」
「今谷のくせに、生意気だぞって?」
返事の代わりに、ポテトチップスを一枚食べた。大体、そういう事だ。最初は、面白くていじめていたのが、抵抗されると腹が立ってくる。何が気に入らないかといって、存在自体が気に入らないのだ。抵抗しても、されるままになっていても。
「死んで、どう思う?ざまあみろって、思う?」
「そんなに嫌だったのかって、思う。だったら、思いっきり抵抗すればいいじゃねえか、とか、先公に言わないのかとか。」
「言える訳ないじゃない。抵抗しても、言っても殴られるんだよ?どっちにしても、いじめるのを止める気はなかったんだろ?」
「・・・多分。」
「殴られたり、蹴られたりするのって、恐いんだよ?喧嘩した事ある?」
うつむいて首を振っているのを見て、少しはこたえているのかと思った。
「一緒に、いじめてた人達は?」
「何も言ってこねえよ。黙ってるつもりなんじゃねえかな。」
僕が、いじめている側だったら、そうするだろう。ばれない限り、しらばっくれる。もし、ばれたら穏便に済ます為に反省している風を装うだろう。殴られるのが恐い様に、社会的に批判される事を恐れているからだ。
「雨、もう少しで止みそうだね。もう少し食べる?」
「ん、サンキュー。」
彼が今谷君をいじめていたのを覚えていないせいか、一緒に居ても恐いという感じはなかった。
近くの道路を通る車が、水しぶきを立てながら走って行く音が聞こえる。それと、雨に濡れたアスファルトの臭い。小さい頃は、長靴をはいて雨の中を走り回った筈なのに、いつ頃から雨の中で遊ばなくなったのだろう。
「小さい頃さ、雨降ってるのにわざわざ溝の中に入ってさ、長靴の中に水入れるんだよね。それで、ガポンガポンて音するのが面白くて家に帰ったんだ。」
「で、結局、怒られるんだよな。それが分かっていても、遊んで帰ったな。あの頃は、勉強は嫌いでも学校に行くのは好きだったな、親も何も言わなかったし。」
「競争が始まるとね、親は自分の面子の為に子供をけしかけるから。よくさ、誰に食わせてもらってるんだって、言うじゃない?でもさ、自分だって親に育ててもらったのにね。親のいう事全部こなしてたら父さん達、今頃大人物になってるよね。」
「だったら、俺達も楽に暮らしてるだろうな。」
お菓子と雑誌の入ったビニール袋を置くと、僕は立ち上がった。
「長靴じゃないけど、遊ぼうか?」
「夏だから、風もひかないだろうし?」
二人して何か分からない事を叫びながら、雨の中を飛び出した。滑り台を駆け上がり、幅の狭い斜面を滑り降り、砂場を駆け抜ける。ジャングルジムは小さくて登ってみてもと、余り遠くまで見えない事が分かってガッカリした。小さい頃は、山に登ったみたいでワクワクしたのに。
「俺らって、絶対あやしい奴だよな!」
「補導されるんじゃない?」
「大丈夫だよ、こんな大雨の中、真面目に仕事してる奴なんていねえよ。」
前髪から水滴が落ちて目に入る。靴はぐしゅぐしゅで、砂が入った。重くなった靴を脱いで、高くほり投げた。右と左は別々の場所に飛んでいった。両方を、一度に取る事はできない。自分のしたい事と親がしてほしい事は、一度にできはしないのだ。
「雨、止んできたね。」
空は薄オレンジ色をしていた。雲は凄い勢いで流れていって、あっと言う間に空は晴れ渡った。
旅立ち・7
「帰ろっか。」
「そうだな。」
砂だらけの足と靴を水飲み場で洗い、きしきしする靴を履いて立ち上がった。もう、傘を差している人はいない。
僕はドームの中からビニール袋を取り出して、帰る準備をした。風は涼しくなって夜がやって来るのが分かった。
「早く風呂に入らないと、風邪をひくな。」
「そうだね。」
公園から出ると、道路を走る車はヘッドライトを点けていた。僕等は黙って歩いていたけれど、道は別れていた。僕等は同じ場所へは、帰れない。
「どうするの?」
「明日、今谷の家に行く。」
「そう。えっと・・・。」
「名前か?」
「うん。」
「浩也、真田浩也。」
「そっか。じゃあ、またね、真田君。」
僕等は手を振って別れた。当分、会う事もないだろう。もしかしたら、一生会わないかもしれない。でも、「またね。」と言える程、僕等は友達だったのかもしれない。
蜩が鳴き声だけが、耳に残った。
終
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