信じる者しか救われない

信じる者しか救われない・第1回〜
 世紀末を過ぎ、人々は不安定な平和の中、意味も無く伸びていく平均寿命と付き合いながら過ごしていた。
 神の審判も無く、堕落した神官と高潔な悪人が、同じ街で暮らしていた。神は滅びたのか?信仰を失い、陰に潜む浮浪者として暮らしているのだろうか?
 否、神は生きていた。例え善神であれ、悪神であれ人を超越した神は。

 太平洋に大陸が現われた。大きな、ユーラシア大陸よりも広大な大陸だった。その大陸を「楽園」として民に集うよう、呼びかけた男がいた。
 処女である母親から生まれた、一人の男だった。医学的に言えば、それは男ではなかった。母親の卵細胞が突発的なショックにより、分裂したコピーであった。そして、その奇跡的偶然に拍車をかける様に遺伝子配列が異常を起こし、彼女のXX配列をXY配列に、組み替えてしまったのだ。かくして「彼女」は「彼」になり、そして「神」になった。

 広大な大陸を、各国が指をくわえて見ていた訳ではない。領地の分配として、近隣諸国が会議のテーブルに着いた時、最初の一報が届いた。「大陸の支配者現われる。その名は神。」

 各国の長は、突然現われた狂人を諭す為に使者を送った。しかし、その全てが帰って来なかった。殺された訳ではなかった、殺された方が対処はしやすかった。全ての使者は、神の元に留まったのだから。
 国内情勢が、劣悪の一途を辿っていた某大国は、大陸に埋まる資源を得る為にプライドを捨てて、行動に出た。彼を国際法違反者として、逮捕を命じたのだった。しかし、それはなし得なかった。なぜなら、見えざる障壁によって誰一人として彼のもとへは辿り着けなかったからだ。彼は奇跡によって、生まれた。彼は、神の力を行使しただけなのだ。
 そして、彼はマスメディアを通じて、世界に宣告した。 
 「全ての民よ、我が元に集まれ。我を信じる者は、全て救われるだろう。」
 神々しい姿は、全ての人間の網膜に焼きついた。慈愛に満ち、公平を知り、悪を裁く意志を持つ彼を全ての民は、神と認めた。そして、民の未来を憂う神は言った。
「集え、我が民よ。我は世界を浄化する。月が満ちた時、楽園の外は原始の世界に戻る。」
 世界は叫び声が轟いた。神を賛える声、神を呪う異教の民の声、信じるものを見つけた喜びの声。そして、国境は崩れた。楽園へ赴く為のチャーター船が領域侵犯し、各国高官が全財産を持ち、空港を飛び立った。

 大陸の西端、船で8時間の場所に有る国、日本。宣告から3日、無節操な宗教心を誇る国民性を発揮し、8割の国民が大陸へと脱出を図った。
「百合子、お前は、どうするんだ?」
 乾いた声が、古惚けたマンションの一室に聞こえた。家具らしい物は、何も無くガランとした雰囲気がする。声と一緒に吐き出された煙草の煙に顔をしかめながら、百合子と呼ばれた女は答えた。
「私は行くわよ。健次は?」
 窓から無機質な街を見下ろしながら、健次は言った。
「俺は行かねえ。それにしても、人が居ねえな。」
 すでに、通信、治安、全てが麻痺状態だった。大陸の神を信じない者は、全て殺されるといった、噂が流れていた。いや、噂ではないかもしれない。
「世界中の奴等が、野郎にひれ伏しても、お前だけは突っ立ってると思ってたぜ。」
 残り少なくなった煙草を大事そうに吸いながら、健次は言った。親友と言っていいのか、恋人なのか分からないが、目の前に立っている誇り高い百合子を見た。
「それは、買いかぶりだわ。私は、生きる為に生きているのよ。」
 肩にかけた鞄から煙草を1カートン取り出すと、健次に投げてよこした。ベットで軽く跳ねて、壁に当たった。
「近くの煙草屋が、店じまいするところだったの。あげるわ。」
 カートンを拾って、銘柄を見た。健次の好きな銘柄だった。
「悪いな。俺の方が餞別、貰ってよ。」
 健次は、ベット脇に置いてあったジャケットから、小さな箱を取り出した。プロポ−ズしようと思って、3ケ月前のクリスマスに買った指輪だった。
「やるよ、安物だけど。」
 箱を開けた百合子は薬指にはめてみた。サイズが大きくて、くるくる回った。
「ありがとう。じゃあね。」
 それだけ、言うと百合子は部屋を出ていった。ドアの透き間から、春の臭いが滑り込んできた。そして、部屋は沈黙と煙草の煙に支配されていた。

 その日は、あっけなくやって来た。世界各国に残ったのは、貧しい者や動けない病人、そして国を愛する老人達が主だった。各宗教を信仰する者ですら、彼の奇跡の力を見せられては、屈服するしかなかった。
 大陸からの、衛星放送が流れた。
「神に従うを良しと、しない者よ。その罪と共に、罰せられるがよい。」
 神の弟子であろう男の声と共に、世界は白光に包まれた。しかし、世界に叫び声は響かなかった。誰一人、死ななかったのだから。消えたのは、人間の作り出した罪、兵器を始めとする文明機器、全てだった。そして、世界に残ったものは山、森、川、そして畑だった。都市は死に絶え意味を無くし、自然だけが全てだった。神の罰は平等だった。自然を毒さぬ者は、自然に守られていたのだった。
 では、大陸も文明機器を捨て去ったのだろうか?いや、大陸の文明は自然を毒さなかった。必要なエネルギーは全て、人々の心の力を利用していた。大陸では、世界の物理法則が適用されなかった。大陸では神の与える法則が全てなのだ。清浄なエネルギーを使い、全ての機器が動いた。そして、大陸に集まった神の民達は、神より頑健なる体を与えられた。その全てが神の慈悲なのだから。

「どうして、俺は生きているんだ?」
 健次は地面に、大の字になっている自分に気づいた。視界を染める白い光を感じた瞬間、気を失った。特別変化の無い体を起こして、辺りを見回した。
「物だけが消えてやがる。神サマってのは、慈悲が有るのか無いのか分かんねえな。」
 健次は目は悪い方ではない。しかし、その視力をもってしても見える場所には人はおろか、物も何一つ無い。遠くに山が有るだけだ。
「東京砂漠、か。原始時代に逆戻りだな。」
 体についた砂を払って立ち上がると、健次は川が有るだろう方向に向かって歩き出した。恐ろしい程の静寂が体を包む。訳も無く叫びだしたくなって健次は大声で歌った。口をついて出てきたのは、「赤とんぼ」だった。

 「楽園」と呼ばれる大陸は広大な面積を持っていた。緑に溢れ、それでいて現代の機能性に富んだ機器が存在した。その上で医療機器は、全く必要なかった。神の慈悲の力によって、病気も怪我も一瞬で回復するからだ。ただ、一言「神よ。」と祈るだけで。
 食物も生産する必要はなかった。立ち並ぶ木々は収穫の時期に合わせて実を付け、畑は作物をふんだんに育てた。何一つ、人間が手を加える必要は無かった。全て、神のありがたい力で成長した。人々は肉を食べたいとは、思わない。それは殺生に繋がるからだ。
「植物の命は、いいのかしらね。いつかは腐る実だからって取っていいなら、動物だって、いつかは死ぬのに。」
 百合子は与えられたマンションの部屋にいた。次々と起こる奇跡に驚くのに疲れた体を休める為、ベットに横たわった。明らかに、神の教えを批判しているのに、罰っせられる気配は無い。
 大陸に来てから、信じられない事ばかりが起こった。交通機関は全て、未来風のリニアモーター系になっていたし、エレルギーの説明を聞けば、神を信じる「心」をエネルギーに変換しているという。
 病気も事故も死の心配さえも無い。ここは楽園、パラダイスなのだ。それでも、百合子の口から出た言葉は、冷めたものだった。
「ここには、空が無い。」
 大陸は薄いベールに包まれていた。世界からの侵入者を阻む為に、バリアーを張っているのだ。排気ガスに包まれた東京ですら、空は自分の上にあった。楽園の空は人の所有物ではなかった。いや、大陸に人の所有物は何一つ無いだろう。
 与えられた物を食べ、与えられた部屋で暮らし、平和で慈愛に満ちた楽園で暮らし、死の恐怖に脅える事もない。求めれば、与えられる。しかし、自分で手に入れる事はない。
「贅沢な悩みかもね。」
 百合子は起き上がり、食事を取る為にセンターへ行った。自分で作るのが面倒だったからだ。センターには、ボランティアで調理、配膳、洗浄と全て賄われているからだった。
「今日も天気いいなあ、雨でも降らないかな。」
 水の心配は、全く無かった。


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