マスターズ・ドッグ〜第1回〜


 蒸し暑い夜、湖面を渡る風は涼やかだった。舟はゆっくりと暗闇を滑るように進んでいた。時折、魚の跳ねる音が聞こえる。
 広い湖の中ほどで舟は動きを止め、座っていた神官姿の男がゆっくりと立ち上がる。船頭は黙って、それを見守り舟の動きを安定させた。
 男は櫃に納めされた供物を静かに湖に浮かべた。ゆらゆらと夜の水面に浮く供物を確認し、男は船頭に岸への帰還を促す。船頭は櫂に手をかけ、ゆっくりと 漕ぎ出した。水の重さを手に感じながら、船頭は先へと固定していた視線を後ろへと向けた。破られた禁忌の向こうに見えたのは暗い揺らぎの下からのぞく 九つの影だった。


 その日、東京は猛暑だった。通勤ラッシュを乗り切ったサラリーマン達は、こぞってオフィスに逃げ込み、上がった体温をエアコンで下げている。
 千代田区にある建物の一室に逃げ込んだ青年も愚痴をこぼしていた。
「ったく、暑いんだよ。何とかなんねえかなあ、岳人?」
「俺に言ってもしょうがないだろう?三郎は文句が多い」
 青い目を眼鏡の向こうで光らせ、岳人と呼ばれた青年は振り向いた。
「八月頭だから暑いのはわかるけどよ。腹たつ位、暑いんだもんよ」
 しめていたネクタイを豪快にゆるめると、三郎は椅子をひき勢い良く座った。椅子のバネが軋み、キャスターが体を移動させる。
「汗がひいたらネクタイを直せよ」
「お前、汗腺あるのか?全然、汗かいてないだろ」
「心頭滅却すれば、というやつさ」
「あーあー、俺はできてませんよ」
 三郎は涼しげな顔をした岳人を見た。眼鏡にかかる前髪の向こうにある目は切れ長の青い瞳で、それが余計に岳人を涼しげに見せる。それに対して、 短く刈り込んだ三郎の髪は汗でしっとりと濡れている。わずか数メートルの距離なのに季節が違うようだ。
「足立さん、課長は?」
 岳人が既に仕事を始めていた後輩の足立に問うと、軽やかにキーボードを叩いていた指が止まった。
「西の方から連絡が入って、今、別室で」
 視線だけで示した先にあるドアの内側では、確かに話し声がしていた。
「長くなりそうかな?」
「そうですね、そんな感じでした」
 足立は頷くと課長である新田の様子を思い出していた。
「じゃあ、報告は帰ってからにしようぜ」
 三郎は現在続けている調査の資料を手に岳人を促した。
「そうだな。何かあったら、連絡をお願いするよ」
「わかりました」
 足立の見送りを受けて、三郎と岳人は平均気温が例年より二度高い日が続く街へと踏み出していった。

今、三郎達が担当しているのは都内で起こっている野犬の傷害事件だった。通常なら保健所の仕事であるが、どれだけ情報を集めても居る筈の野犬を探し ても姿が見えないという事で三郎達の所属する課に話が回ってきた。
「これで単に保健所の怠慢だったら目も当てられなかったけどな」
「最近、ちょっと便利屋ぽく使われてるからな」
 野犬の話を聞いた途端、上司である新田は見当をつけて三郎達に仕事を言いつけた。「おいたの過ぎる犬が居るみたいなんだよ。もっとも飼い主が悪いん だろうけどね」と。
 数日かけて調査を続けた結果、連続して起こっている野犬騒動の正体が判明した。
「あー、もう狗神探しなんか、さっさと終わらせたいぜ」
 狗神とは日本古来から伝えられている呪法のひとつだった。己の欲望を満たす為に呼び出す怪と言われている。
「雪達の報告もあがっている。術者の特定もすぐだ」
「あ、それなんだけどよ。寅が術者は素人らしいって話してだぜ」
「やっぱりそうか。最近は厄介だ。昔なら流派の線から術者の特定も楽だったのにな」
「ネットらしい、情報の元は」
 文明の進化に伴って、生活は格段に進歩した。良くも悪くも。  今までオカルトとして、闇の領域に所属していた事ですら簡単に日の当たる場所へと這い出てきてしまう。偏見がなくなると共に、その偏見を作っていた ある意味でストッパーとなっていた部分への警戒が薄れている。
 
歴史と現代の境目に当たる明治初頭、政府の重鎮の一人が闇に分け入った。そして、領地安堵と引き換えに日の国を守る手伝いをしてほしいと、ある妖怪の 一党に願い出た。
国全体をカバーするネットワークを持つ数少ない妖怪、それは天狗であった。
協力を願い出た重鎮は天狗の頭領に一喝された後、深い山奥の大杉のてっぺんに吹き上げられた。
しかし、国を守りたいという思いを三日三晩、切々と訴え続けた。その声は頭領のもとまで届き、その熱意に打たれ、国を守るという一点においてのみ 協力すると答えたという。
 それが本当かどうか、三郎達にはわからなかった。長命の天狗の中で、三郎達はまだまだ嘴の黄色い雛といった若者だったからだ。
まつろわぬ神、そして妖怪に対抗できるのは、やはり人外のモノであった。
 国に騒乱を起こそうとする者達の案件を解決するのが三郎達、『林野庁整備部調整課』の仕事だった。何故、その部署を天狗のものとしたかというと 自分達、天狗の暮らす山岳や森を管理する部署を人間に渡す訳にはいかなかったからだ。
 そして、今回の様に妖怪が起こした事件以外に人間が起こした案件にも調整課が借り出される事がある。普段、こういった案件は市井の霊能力者が 解決する事が多い。しかし、霊能力者に支払う報酬が高い事もあり、国から月給が払われている調整課にお鉢が回ってくるのだ。
 案件を解決して、支払われるのは国家公務員T種の給料。いわゆるキャリア官僚と呼ばれるランクの給料だから決して安くはないのだが。
「もう少し給料上げてくんねえかなあ」
「何か欲しい物でもあるのか?」
「バイク欲しいんだよな、バイク」
「貯めておけば買えない物でもないだろう?」
「んな事言っても、結構高いんだぜ。知ってるか?ハーレー」
「知らないし、知らなくていい」
「冷たいなあ。後ろ乗っけてやろうと思ってたのに」
「恋人でも乗せておけ」
「お前、いちいち可愛くねえなあ。俺に彼女居ないの知っててよ」
 ぶつぶつと文句を言う様は普通の若者であり、公務員である事を疑う者は居ないだろう。その暑苦しい文句とは対照的な涼やかな声がかかった。
「お待たせしました」
 すっと岳人の横に並ぶと、声の主は主に封筒を手渡した。
「御苦労、雪」
 ねぎらいの言葉に雪と呼ばれた部下である木の葉天狗は美しい笑みで返した。そして、大きくはないが聞き取りやすい声で岳人に報告した。
「術者等の情報は報告書にある通りですが、少々問題が起こりました」
「何だ?」
「実は呼び出された狗神が支配から離れたようです」
「言わんこっちゃない」
 三郎が肩をすくめる。力量の及ばない者が術を使った時に起こる状況だった。支配を離れた狗神は使役された恨みを晴らす為に術者を襲う。インターネットや 書物等で得た中途半端な情報しかもたない者が狗神を祓う事などできる筈もない。大抵が命を奪われ息絶える。
「支配から離れた狗神に命を狙われて、まだ生きてるって?しぶといね」
「はい。どうやら結界を張っているようです」
「それも、ネットかい?」
「そのようです」
「どこから流れるんだか」
 三郎の呆れ声に岳人も同意する。三郎達のような天狗だけでなく、大抵の霊能力者は口伝で後継者を育てていく。卓越した術者は素人が術を使う事の危険 性を知っているだけに、その伝達には神経を使う。
 その為、こんな風に不特定多数の人間に広がるような管理をする事は、まず無い。
「書式で残したものが流出したんだろうな。元を辿れば、どこからのものがわかるだろう」
「その調査は干支達に任せていいな?」
「問題無いだろう。俺達は術者の保護だな。雪、引き続き調査を頼む」
「承知しました」
 雪は軽く一礼すると、美貌を人込みの中へと消していった。岳人が従える木の葉天狗である雪、月、花の三人はどれもが美人といって差し支えの無い容貌 であったが、気配を隠すという術に長けている。誰の記憶にも残らず行動する事ができた。
 三郎達は車に乗り込むと、雪から渡された資料に目を通す。
「徳田敬二、三十二歳か」
「ここからだと一時間という所だな」
「エアコンいれるぜ」
「冷房病になるぞ」
「ならねえって」
 冷気を吐き出して車内を冷やすエアコンの風を自分に向け、三郎は前を見る。八月に入って気温が急激に上がり、関東内の道路には陽炎が昇っている。あ まりの熱にアスファルトが溶け、どこかしら黒い沼に見えた。
「こんなに暑くちゃ仕事やる気も起きねえな。どこかの馬鹿が騒ぎを起こさなきゃ、エアコンの下で涼んでられるのによ」
 どこかの馬鹿と呼ばれた徳田の家に向けて車を走らせる。平日とはいえ、都内は渋滞が続き、思うように進まなかった。
「三郎、徳田の情報を読んでくれ」
「ああ。えっとだな、職場は区役所だな。結婚はしてない、恋人もいない。アパートでの一人暮らし」
「狗神に襲わせた相手は?」
「あー、同僚あり、窓口に来た市民ありだな」
「ちょっとした恨みを晴らすってところかな?」
「そんな感じだな。だけどな、回数重ねる度に被害が大きくなってやがる」
「調子に乗ったな」
「みたいだな」
「狗神が科学的に認められていない限り、警察が傷害罪で徳田をあげる事はできない。それだけに、少し位は痛い思いをしてもらいたいところだな」
「俺も、そうは思うけどよ。でも殺されるのを見逃すってのは気が引ける」
 厳しい修行を積んだ身としては、どんな流派のものであっても、覚悟無しに術を使われるのは腹が立つ。とはいえ、結局のところ人のいい三郎が人の死を 見過ごす事はできなかった。


続く


「その道を入った方が近い」
岳人はナビゲートをしながら、資料を封筒に戻した。
強い太陽光の下、不満顔の人々が歩いている。しかし、その不満も命の危険を感じているものではない。自然への不満は一般人でも何とか対処はできる。
そういった事ばかりだといいと思いながら、三郎は車を目的地に到着させた。
「ここだな」
 車が到着したのは日当たりの良いアパートの前だった。スピードを落とし、ゆっくりと様子を見る。場所を確認した後、車を駐車場に止める。
「暑いな」
「我慢しろ」
「へいへい。徳田居るかな」
 三郎の言葉を聞いていたかのように人影が現れる。Tシャツにジーンズといった少年が自転車で近づく。
「徳田、中に居ます。三日、欠勤しているようです。同僚にも顔を見せずにドア越しに対応しているようです」
「狗神は?」
「何度か攻撃をしかけたものの、部屋に入れずにいるようです」
「確かにな。今も、周回している」
 岳人は徳田のアパートの上空を見た。一般人には風が砂埃を吹き上げているようにしか見えなかったが、岳人の青い目には狗神の存在が見えた。
「どうする?ドアを開けないみたいだしな」
「ぶち破るか?」
「警察に通報されるだろ?遊んでないで、もう少し考えろ」
「わかってるっての。辰、鍵は開けられるか?」
「大丈夫です。シリンダ錠ですから」
 三郎の従える木の葉天狗は、それぞれに専門を持っていた。今居る辰は張り込みと鍵あけを得意としていた。
 辰は自転車から降りると、辰は足音を落として階段を上がっていった。三郎達は周囲を警戒しながら、合図を待つ。徳田の部屋の前に辰が立ち止まり、 腰の辺りで手が動く。
 時間にして数秒、辰は鍵開けを終えると三郎達を振り向いた。
「よし、行くか」
 辰と入れ違いに階段を昇ると三郎達は徳田の部屋の前に立った。室内で物音はしない。術者である徳田が死んでいるなら、呼び出された狗神は元居た世界に 還っている。しかし、いまだアパート上空を周回していたから、徳田の生存は確かだった。
 ドアノブを引くとわずかに抵抗を感じる。内側から急造の護符が貼られているのが見えた。
「よっと」
 三郎は力をいれ、ドアを開けた。乾いた音をさせて護符が破れ、人が入れるだけの隙間ができた。三郎と岳人は素早く部屋に入ると、ドアを閉めて新たに 結界を張った。
 風に姿をやつした狗神が部屋に入ろうとしたが、結界にはばまれ悲鳴をあげた。
「徳田、居るんだろ?」
 三郎は靴をはいたまま、部屋に上がりこんだ。きちんと片付けられた部屋であるのに、どこか不健康な雰囲気が漂っていた。
カーテンは閉められ、陽光は申し訳なさそうに差し込むだけだった。
「だ、誰だ」
 パソコンのモニターの光に照らされた顔は無精ひげがうき、目が落ち窪んでいた。
「一応、保護しに来た者だけどな」
「どうやって、入ったんだ。妖怪が人間に化けてるんだなっ?」
 昔から妖怪のカテゴリーに入れられてきた天狗であるだけに返答に一瞬つまる。それを肯定と受け取った徳田は一枚の紙をかざし、叫んだ。
「すぐさま現れわが敵を滅せよ!」
 叫びと共に紙が徳田の指から飛び出し、黒い鳥となって三郎達に襲いかかった。甲高い鳴き声と共に鋭い嘴が前に立っていた三郎の目を狙う。
 狭い部屋の中、真正面から襲いかかる嘴を三郎はしゃがんで避ける。攻撃を避けられた鳥は部屋の影に飛び込み、姿を消した。
「し、式神が居るんだ。俺を殺そうとしても無理だからな」
 震える声で徳田は二人に宣言する。あきらかに精神は壊れ、敵味方を判別しようという理性は失われていた。
「狗神だけじゃなくて、結界が張れて式神まで呼べるのか。隠れた逸材だな、もったいない」
 平然とした顔で言う岳人に三郎が怒鳴る。
「もったいないじゃねえだろっ。もう少しで目ん玉くりぬかれる所だったんだぞ!」
「簡単に避けたくせに何を言っているんだ。それにしても正式な修行をせずに、これだけの術が使えるんだ、どうだ、転職しないか?」
「本気かよっ?」
 反感を持って言う三郎を、ちらりと見た後、岳人は徳田に話しかけた。
「今回、あなたがした事は傷害罪に相当します。しかし、狗神等での犯罪は現在の法律では裁かれる事はない。存在の確認がされていませんから。それに、 人を傷つけようなんて最初は思っていなかったんでしょう?」
 落ち着いた岳人の声に徳田は唾液の絡んだ声で答えた。
「毎日毎日、苦情ばっかり持ち込みやがるんだ。俺がした失敗じゃないのに、延々と文句ばかり言いやがって。しかも調べれば来やがった婆ぁの方が問題 起こしてやがるんだ。それを早くなんとかしろって課長の奴が。自分では何もしないくせに文句ばっかり一人前に垂れ流しやがる」
「あなたが努力家で真面目だから、余計に重荷を背負うんでしょうね」
 不満を聞き続けた徳田にとって、目の前の岳人は得がたい理解者だったようだ。表情はわずかに緩み、不満が爆発した。
「ちょっと仕返ししてやろうと思っただけなんだ。できればいいな程度のさ。相手は、いつでも自分が正しいって思っている奴らばっかりだったから、まと もに反論しても聞きやしない。それで犬の声がうるさいって苦情を持ち込みやがった奴に」
「狗神をけしかけたと」
「そ、そうだ。インターネットで呼び出し方が書いてあったから、それで」
 徳田はパソコンにモニターに目をやり、自分のした事を思い返していた。
「狗神を呼び出す為に生贄に使った犬は・・・苦情の元になっていた柴犬ですね?」
「そうだ・・・。山ん中で首だけ出して埋めて、それで」
「呼び出し方のご教授は結構。俺達も知っていますから」
 岳人の声が低くなっている事に徳田は気づかない。鬱屈した不満を吐き出し、今までしてきた事を声高に語った。
「そろそろいいだろ、十分だ」
「まあ、な」
 三郎は周囲を警戒したまま、岳人に言う。二人の会話に徳田は声を震わせる。
「何を考えている、俺を騙したのか?」
「騙す?別に何も騙してはいないでしょう?単にあなたのしてきた事を聞いただけじゃないですか。それに一応、公的機関の者なんですよ」
「警察に突き出すとでもいうのかっ!俺は法律違反はしてないぞ、お前だってさっき言ったじゃないか!」
 取り乱す徳田に岳人が言った。
「言ったでしょう?俺達も狗神の呼び方は知っていると。犬を首まで埋め、そして首を切り落とす。呼び出した狗神での傷害事件は立件できなくても、他人 の飼い犬を盗み、殺すのは立派な罪です」
「騙したな!」
「騙したも何もなあ」
 三郎がやれやれと肩をすくめると、徳田は影に隠れていた式神に命令した。
「こいつらを殺せ!」
 二人の背後から飛びかかった式神が三郎のうなじに爪をめりこまそうとした時、目標が一瞬消えた。
「旋風」
 短いが三郎の口から出た言葉が室内につむじ風を起こす。重ねられていた新聞が飛び、舞い上がったカーテンの向こうにあったガラスに式神が叩きつけら れる。
 壁を揺らす衝撃の後、ガラスが派手に割れ飛んだ。
「馬鹿、やりすぎだ」
「んな事、言ったってよ」
 強烈な攻撃を受けた式神は元の符に戻り、入り口を見つけた狗神が上空より急降下してきた。式神を失い、結界を破られた徳田はうろたえ腰をぬかした。
「石礫」
 岳人の一声と共にアパートの庭から小石が撃ちあがる。聞こえる筈の無い犬の鳴き声が響いた後、無数に撃ちあがった石はゆっくりと地面へと落ちていっ た。
「誰が、やりすぎだって?お前も充分、目立ってるっての」
 吹き込んできた砂ぼこりと小石を払いながら、三郎は皮肉を言った。
「万全を期しただけさ。保護対象が怪我しては問題だろう?」
「ああ言えば、こう言う野郎だ。に、しても後が面倒だな」
 荒れ果てた部屋を見て三郎は溜息をついた。保護対象であった徳田を守ったはいいが、結構な物音をたてたとあって、外には既に人の話し声が聞こえてい る。
 ドアスコープで外の様子を見る三郎の背後で岳人が木の葉天狗に連絡をとった。
「月、後を頼む」
「なんだ、月に頼むのか?」
「じゃあ、お前が後片付けをするか?」
「んな、面倒な事するかよ」
 携帯電話で木の葉天狗に事後処理を任せると、三郎と岳人は破れた窓から様子をうかがい、人気がないのを確認して飛び降りた。
 足早に車に戻ると、三郎は大きく伸びをした。
「ま、徳田の野郎も反省してたみたいだし、事件も解決したしで一件落着だな」
「反省というか、呆然としてたって感じだけどな」
 気温があがっていた車内でエアコンのスイッチを押すと、三郎は課長の新田へと報告をいれた。
「飯綱です。狗神の件は解決しました。これから戻ります」
『ごくろうさん。暑い中、大変だけど、ちょっと遠出しもらう事になるかもしれないんだよね』
「遠出?」
 三郎の不満げな声に新田が受話器の向こうで言葉を濁す。
『実はねえ、うーん』
「何ですか?」
『飯綱は蕎麦と味噌カツどっちが好きかな?』
「どっちも好きですけどね。休暇でもくれんですか?」
『どっちも好きか、良かった良かった』
 新田ののんびりした話し方にだまされる人間は多い。しかし、三郎と岳人は付き合いが長い。
「面倒事ですか?」
『よくわかったね』
「課長とは付き合い長いですからね」
『じゃ、はっきり言おうか。八本杉が爆散して、草薙の剣が消失しちゃった』
「何ですか、それはっ!」
 確かに八本杉のある島根は蕎麦処だし、草薙の剣がある愛知は味噌カツが有名だった。しかし、名物を食べるついでの仕事にするには、あまり大きかった。
『困ったねえ、ヤマタノオロチが復活しちゃったぽいよ?』
 困ったという新田の声に緊迫感は無かった。切り落としたヤマタノオロチの八つの首を埋めた八本杉が吹き飛び、その身から出てきた草薙の剣、本来の名を 天群雲とする剣が消え去った。本来の主の下へ帰った可能性がある。
「とにかく戻ります」
『そうしてくれるかい?資料を用意しておくから』
 三郎は電話をきると、岳人に肩をすくめて見せた。
「島根か愛知に出張だとよ」
「良かったじゃないか、蕎麦も味噌カツも好きなんだろ?」
「聞こえてんじゃねえか」
 三郎はシートに背を預けると、乱暴にアクセルを踏んだ。

 道路から暑さでかげろうが昇る午後、タケルは陰を求めて森に入っていた。眼前に広がる湖面は太陽の光を受けて、まぶしい程に輝いていた。日向にいれ ば恨めしいだけの太陽の光も、涼しい森の中に居ればゆっくりと鑑賞しようという気になる。
 八月に入ったばかりの今日、タケルは家の手伝いから逃げ出していた。小さな旅館を営んでいる家は、慢性的に人手が不足している。そんな中、高校生の タケルは夏休みに入り時間ができたからと毎日こき使われていたのだ。
「貴重な青春を無駄に消費できないっての。折角、観光客が来るってのにさ」
 街にやってくる観光客の中から好みのタイプを見つけ、今年こそは彼女を作ると意気込んでいるタケルにしてみれば、家の手伝いなどやっている暇はない。 もっとも、家に来る宿泊客の中に好みのタイプがいるかもしれないという事には気づいていない。
「こっから、駅に出るかな」
 森の小道をはずれ、駅へと向う下り坂に足を向けた時、タケルの鼻に嫌な臭いが届いた。
「焦げ臭い」
 晴れた日が続き、空気が乾燥していた。それに昨日は湖岸で祭があり、花火も上がった。その時の燃えカスが風にのって飛んできているとも限らない。
 タケルは辺りを見渡し、どこで火事が起こっているのか探した。ボヤならいいが、大火事になろうものなら折角来た観光客が帰ってしまうかもしれない。 そんな風にいまだタケルの頭の中はのんきなものだったが。
「どこだ、火事は」
 臭いをかぎ、風向きを調べ火の元を調べた。涼しい森の中に居て、汗を流し小走りに移動するタケルはようやく舞う火の粉を見つけた。
「あ、あった」
 タケルは鞄から携帯電話を取り出すと消防署に通報した。二度の呼び出しの後、返事があった。
『119番、消防署です。火事ですか、救急ですか』
「火事、火事です」
『あなたのお名前と住所を言ってください』
「稲田タケル。火事があるのは家の近くじゃなくて、携帯からかけてます」
『何か目印になる物はありますか?』
「えっと、湖の東の森です。近くに神社があって」
『わかりました。山火事は危険ですから、その場から離れてください』
「わかりました」
 タケルは通話を終えると、ちろちろと燃える繁みを何度も振り返りながら走り出した。できるだけ早く火の元から離れようと道を外れ、繁みを抜け斜面を 下った。
 熊笹で肌を切りながら斜面を滑り降りると、一息ついて森を見上げた。
「まだ火は大きくなってないみたいだな。昨日の花火か煙草の不始末か。ったく、面倒な事してくれるよな」
 涼しい森を駆け抜け、火から逃れたのは太陽の下の湖岸だった。走った事もあり、タケルの体温は上がり、汗が流れていた。
「ちょっと、涼むか」
 木陰を探し、湖岸を歩くと水面に揺らぐ物に目がとまった。
「ゴミか?結構、でかい・・・」
 ゆらゆらと動く物が何かわかった時、タケルは走り出した。湖岸に打ち上げられていたのは白木でできた櫃だった。蓋は開き、中から赤飯がこぼれて出し ていた。
「これ、いいのかよ。こんな所に浮かんでて」
 タケルは櫃に巻かれた注連縄を見て、こんな所にあるべきではない物だと判断した。
「神社に・・・、でも話したら馬鹿にされるかな。っと、そうだ、中井の兄ちゃんだ。兄ちゃん、船頭したから、何か知ってるかも」
 タケルは恐ろしい物から逃れるように後ずさりし、櫃から充分離れると一目散に走り出した。
太陽の位置が頂点から、わずかに西に傾いた頃、三郎達は調整課へと戻ってきた。
「課長、何があったんですかっ?」
 エアコンのきいた車内に居たというのに三郎の額からは汗が流れていた。駐車場から部屋まで走ってきた結果だった。
 荒々しく開けられたドアから飛び込んで来た三郎を見て、課長の新田は書類から顔を上げた。
「ああ、お帰り。いやあ、大変な事があったみたいでね」
「それは聞きました。だから、何が」
 デスクに両手をつき、新田に噛み付かんばかりの勢いで迫る三郎に声がかかった。
「三郎、焦りすぎだ」
 遅れて部屋に戻った岳人は落ち着いた面持ちで新田のデスクに歩み寄る。
「大変でしたよ、課長。三郎の奴、車の中でうるさくて。法定速度を何度オーバーしそうになったか」
「そりゃ、大変だ。一応、三郎はゴールド免許だからねぇ、違反したらもったいない」
 のんびりとした返事をする新田に、三郎はデスクを叩く。
「だからっ、何があったんですかっ」
「わかった、わかった。足立、ちょっとお茶くんない?冷たいの。三郎の頭冷やさないと」
「わかりました」
 書類整理をしていた足立は給湯室に向うと冷やされた麦茶と共に戻ってきた。
「どうぞ」
「ああ、サンキュ」
 水滴のついたコップを受け取ると、三郎は一気に麦茶を飲み干し、新田に向き直る。
「で、何が?」
「まったく飯綱は仕事熱心だね。上司としては心強い限りだよ」
 新田は机の上にあった書類を三郎に渡すと、説明を始めた。
「大体の内容は電話で話した通り。遥か昔に退治されたヤマタノオロチ、それが復活したらしいという事だね。それと、愛知にある草薙の剣が姿を消したん だ。元の持ち主ともいえるヤマタノオロチが復活したからじゃないかって推測が出てる」
 有識者との意見交換で出た推測を新田は口にした。
「で、西の分室と相談した結果、ヤマタノオロチ関係の島根は都度さんが居るから、二人の出張は名古屋に決定。ま、味噌カツでいいよね?お薦めの店、チ ェックしてあるから」
 そう言って、新田は三郎に名古屋のガイドブックを渡した。どこまで本気なのか、新田の顔に悲壮感はなかった。ヤマタノオロチが復活したのなら、もっ と真剣味をもって当たるべきではないかと三郎は脱力する。
「このクソ暑いのにトンカツですか」
「若い人が、そんな事じゃダメだねぇ。栄養つけないと夏バテするよ?」
「わかりました、食ってきます。でも、今回の件は神社庁の管轄じゃないんですか?宝剣なんですし」
 ガイドブックを資料に重ねて持つと三郎は新田に質問した。こういった宗教を含んだ案件の場合は、対処する部署が変更される事もある。ヤマタノオロ チは神道の神に退治された邪龍とされるし、消失した草薙剣は神の持ち物として扱われていたからだ。
 妖怪として扱われる天狗が下手に手を出せば、後で問題が起こりかねないと三郎は言っているのだ。それに対して新田は肩をすくめる。
「忙しいんだってさ。ここんとこ、晴れ続きで日照りが起こってるじゃない?雨乞いの依頼が入ってさ」
「雨乞いって。ヤマタノオロチが暴れて、日本壊滅なんて事になったら意味無いでしょうが」
「まあね。でもヤマタノオロチを退治できるような人でないと、雨乞い成功させられないでしょ。雨降らないと、農作物が全滅。それは、それで日本壊滅だ よ。だから、雨乞いはできないけど、ヤマタノオロチを倒せるだろう僕達にお鉢が回ってきたと」
「頼りにされてるって事にしておきます」
「そうしておいて。ま、こんな時でもないと神宝を見る事もできないんだしさ」
「祟られませんかね?」
 神宝と言われるその剣は、その姿を見ただけで命を奪う事もあるという。今回、消失した草薙剣も、大正時代にその姿を盗み見た者は次々と死んだと言われて いる。奉じている神主ですら、箱に納められている状態でしか接していないと言われていた。
「ま、大丈夫じゃない?死ななかった人も居る訳だし」
「気楽に言ってくれますね。労災で訴えますよ」
「んー、それは困るね。国庫も豊かじゃないし」
 冷えた麦茶を飲みながら、新田は笑って見せた。その顔に悲壮感は無い。
 三郎は資料をまとめると、黙って会話を聞いていた岳人を振り返った。
「何か聞いておく事あるか?」
「特には。課長、土産は何がいいですか?」
「そうだねえ、ゆかりせんべいがいいね」
「わかりました。行こう、三郎」
 わずかの間、涼しい部屋に居た二人は再び猛暑の街へと出て行く。官庁街にあるオフィスを抜け、移動手段である新幹線に乗る為に二人は東京駅へと向っ た。

 夏休みという事もあり、切符売り場はいつにも増して混雑していた。その人込みの中から、岳人の木の葉天狗である雪が姿を現した。
「チケットです。グリーン個室を用意致しました」
「御苦労。新しい情報は?」
「今のところは。花が先に出ております」
「わかった。雪は東京に残り、自己の判断で行動してくれ」
「承知しました」
 切符を受け取ると、二人は出発間近の新幹線に乗り込む。個室のドアを閉めると、テーブルの上に資料を並べる。太古の昔、神と渡り合った邪龍が相手と いう事もあり、三郎の頬は紅潮している。
「どんな奴かな。やっぱりでかいんだろうな」
「文献で見る限りは、その様だな」
 八つの首に巨大な体、苔むした背には杉の木が生えていると言われている。スサノオノミコトによる策略で戦う事無く倒されたが、それはヤマタノオロチが 強いからだとも言える。武勇でならした神ですら正面から当たれば危険だったという事だ。
「八本杉の方は、どうかな」
「気になるか?都度さんが調べてくれるんだ、何かあれば連絡もくる」
 島根の都度は三郎達の先輩に当たる年配の天狗で力量としては申し分のない人選だった。それでも、かってない相手だけに三郎は、どこか楽しげな顔で 言った。
「気になるね。悪いけど、俺はわくわくしてる」
「手に負えないかもしれない、とは考えないのか?」
「ま・・・それは思うけどよ」
 神なる身と渡り合った怪物相手に自分の力がどれだけ通じるのか。血気盛んな三郎にしてみれば、またとないチャンスと言えた。しかし、自分の好奇心を 満たす為に周囲を危険にさらす程、愚かではなかった。
「ヤマタノオロチが復活したとして、何故、今なのかな。理由がわからない」
 資料を拾い上げ、内容を確認する岳人の呟きに三郎も応じた。
「まあな。でもよ、たまたま今って思ってるけど、もっと前から何かあったかもしれねえじゃん」
「水面下で何かがあったという事か。そうとしても、何か前兆があってもいいんだがな」
「それにしても、どうして俺達が愛知まで出張るんだ?あっちには人数居るだろ」
 林野庁整備部調整課は東京の本部と京都に分室がある。愛知なら京都からの方が近かった。
「今は何月だ?」
「八月だろ。いくら暑くても、そこまでボケちゃいねえよ」
「八月の大仕事である盆が近い」
「寺の仕事に借り出されてるのか?」
「僧として暮らしている人も居る。天狗は仏教から派生しているところもあるからな」
 天狗はその出生は由来がいくつか伝えられている。山の精霊を形づくったもの、増長した破戒僧が変化したものなどだ。遥か昔に出現しただけに、世間に 伝わるイメージは混乱している。
「そう言われてるだけじゃねぇか」
「世間のイメージを利用して姿を隠す事もできるさ。三郎は妖怪だと公言して暮らすのか?」
「できるかよ。そんな事すれば頭がおかしいと思われるのがオチだ」
「天狗もヤマタノオロチも生まれが伝えられる事はない。いつ生まれたかより、どういう悪さをしたかの方が重要なのさ」
「じゃ、悪さをしない俺達は影から影へって事だな」
「退治されるよりマシさ。それに世界は変わりすぎた」
 人が力を持ちすぎた今、妖怪だと知られれば退治されるか利用されるしかない。妖怪として、あるがままに人間と共存していくのは至難の業と言えた。 三郎達の様な若い天狗は自分達妖怪が超能力を持つ人間として分類され始めている事に薄々気づいていた。
「妖怪が居なくなるのは退治されるだけじゃねえのかもな。妖怪じゃなくなるのかもしれねえ」
「俺達のような見た目が人間に近い者は特にな。噂では鬼も同じような状態らしい」
「妖怪愛護団体ってできないもんかね?絶滅しそうなら大事にしてくれんだろ」
 皮肉をこめて言う三郎に岳人が応えた。
「好きでもない相手と子供を作って、狭っくるしい檻に入れられてカメラで四六時中観察されたいか?」
「そりゃ、勘弁してほしいね。悪趣味だ」
「だったら、まずは仕事だな。自立するのが生きていく方法だ」
 軽口をたたきながらも、二人は資料を読み続けた。



 資料を数ページめくった時、三郎が呟いた。
「なあ、神宮には連絡いってるんだよな」
「課長が言っていただろう?」
「ん、まあな。でさ、俺たちの事を知ってるのかなと思ってさ」
「天狗だって事か?知っているのは上層部の人間だけだとは思うが。何かあるのか」
「なんていうかさ、天狗だっていったって普通は信用されないだろ。別に鼻も長くなけりゃ、顔も赤くないし」
 三郎の心配に岳人は何事かと心配していた表情を緩めた。
「心配する必要はないだろう。最近は天狗のイメージも変わった。さっきも話していただろ」
「そうなんだけどよ」
「俺としては、あっさり天狗だと信用される方が問題だと思うがな」
「どうして?」
「考えてもみろ。天狗とヤマタノオロチだぞ?どう見ても負けは確定だ」
「・・・まあな」
「なら、『天狗らしいぞ』といった程度の認識で扱われた方がいい。でなければ、『国も何を考えているんだ、国家の大事に天狗ごときを送って』と思わ れる」
「なんか、腹立つぞ」
 三郎は口をとがらせた。岳人の自分達を卑下した物言いが癇に障ったらしい。
「現実だ。信仰の対象になっているといっても、扱いが高い訳じゃない」
「知ってるよ。俺だって、信仰の対象だ」
 山岳信仰において、天狗は守護神守護仏として扱われる。つまり、三郎達も神であり仏なのだ。だが、時代と場所によって神仏であるか妖怪であるかの ブレがある。
「地元じゃ神仏だが、都会に来れば妖怪だ」
「地元で神仏扱いされて増長すれば、それこそ『天狗』になってしまう」
「違いない」
 苦笑して三郎は資料をめくる指を動かした。
 新幹線は街をぬけ、いくつものトンネルをくぐった後、名古屋へと到着した。
「東京より涼しいな」
 新幹線から降りた三郎はホームの気温を感じた。
「そうだな」
 岳人も降りたホームで気づく。天気予報でも気温の違いは知っていたが、温度の違いだけではないものを感じた。
「湿度の違いって訳でもないだろうし、気になるな」
 腕時計に示される湿度を確認し呟いた。
「草薙の剣がなくなったから涼しくなったって訳でもないだろ?名古屋以外も、こんなもんだしな」
「・・・島根にも平年との違いは無かったな。どちらかといえば東京が異常なのか」
 考えこみそうになる岳人の肩をたたき、三郎は先をうながした。
「ほら、花が待ってるぞ」
 三郎の視線の先に居た花が二人に近づいてきた。
「移動を考え、車を用意しました」
 花の案内に従い、車に乗り込んだ二人は現状を聞いた。
「何か、新しい事は?」
 ハンドルを握る花は正面に視線を向けたまま答えた。
「今回の件ですが設置されている物理的な警戒網は反応していません」
「全くか」
「はい」
「じゃあ、何故なくなったのがわかったんだ?」
「神社庁から連絡があったそうです。島根での件が伝えられ、ヤマタノオロチに関する神宝等を持つ神社寺院は確認をとるようにと言われ、神剣のもとに 向かったところ箱が軽かったと」
「で、恐々開けて見たら何も無かったって事か」
「はい」
 見た者の命を奪うと言われる神剣は、そこには無かった。
「草薙の剣が無い事を確認し、神社庁に返答したそうです」
「大騒動だな」
「今も混乱は続いています。剣が無くなった事実は上層部のみしか知りませんが、やはり違和感は神宮全体がもっているようです」
 花の説明を聞き終えたタイミングを狙ったかのように携帯電話が着信を告げた。


続く


 着信を告げる携帯電話を取り出し、三郎が答えた。
「はい、飯綱。ああ、都度さん」
 その声に岳人も視線を向ける。
「何かわかりましたか?」
『そうだなぁ、少ないなぁ』
「少ない?」
 携帯電話ごしの都度の声は手ごたえの少なさを表していた。
『八本杉が裂けた、祠が弾けたって事は間違いないんだ。だけど、こっちじゃそれ以外の何かは見つからないんだなぁ』
「自然現象じゃないのは確かなんですよね?」
『それは無いなぁ。それと何者かが杉や祠に手を出したって事もない』
「え?ヤマタノオロチが内部から破壊したんじゃないんですか?」
『それも九分九厘ないなぁ。あれだけの神怪が動くなら、わしも気づくさ』
 封じられていたヤマタノオロチが己の力で結界を破壊したのだと思われていた。しかし、都度の報告はそれを覆している。
「自然現象でもなく、ヤマタノオロチ自身の力でもなく何者かが封印を解いた」
『そう思うね。わしも、こっちの関係している場所の調査は続けるさ。でもなぁ』
「何か気にかかる事が?」
『お前さん方ははやく帰った方がいいかもしれん』
 都度の助言に、三郎は続きを待った。
『島根で何の前兆も無く八本杉が弾けた。京都の御大将も気づかなかった。すると島根より西、京都より東に原因があるんだろう。だとすると、関東を守る お前さん達は重要な何かを見落としている可能性がある』
 三郎は都度の指摘に目を見開き、答えた。
「そうですね・・・。でも、こっちでも前兆らしきものは」
『オロチが封じられていた場所から離れているだろ?きっかけが小さいものなら気づかんよぉ』
 ぞわ、と背中が総毛立った。ちろちろと長い舌を出し、関東を取り巻く蛇の姿が頭をよぎる。
『新田にも連絡は入れたけどよ。あいつ仕事できるくせに動かんからなぁ』
 苦笑と共に都度は三郎達の上司を評した。
『なんにせよ、オロチが動き出したなら剣は必要になるかもしれんなぁ』
「十握剣ですか」
『オロチ倒すにゃ、それしかないだろよ。借りられるかわからんが、あたってみるよ』
「よろしくお願いします」
『借りるまでの骨はおるから、それから先は若いもんががんばれよ。じゃあな』
 都度はそう言って、通話をきった。
「なかなか大変そうだな」
 通話内容を聞いていた岳人が話しかける。
「あー、早く帰りたくなった」
 携帯電話を胸ポケットにしまいながら、三郎はぐちる。関東にも三郎達の所属する調整課以外の天狗はいる。新田もすでに連絡を入れ、調査依頼をしてい るだろう。
 しかし、ホームグランドを自分で調査できないのはもどかしい。
「いざとなったら調査は京都分室に任せればいい。ここまで来ているんだ、調査を続けよう」
「ああ」
 東の空へ視線をやる三郎を乗せた車は熱田神宮へと到着した。
 車から降りた三郎達は境内の神社庁支部へと説明を求めた。元々本庁から連絡があったからか、二人の若さへの躊躇はなかった。
「ご存知の通り、その、神宝が姿を消しまして」
 かってない事態に神宮の長である男の体は小さく震えていた。
「大正時代に宮から姿を消したとは言いましても、不埒者が盗み出したという事ですし」
「監視カメラにも不審者の姿はなかったという事ですが」
 岳人の問いに神主は何度も頷いた。
「はい。神宝が納められている部屋へ続く廊下や出入り口の監視カメラには一切不審者の姿は映っていません」
「何日分の映像が残っていますか?」
「一週間です」
「それ以前に何か気になるような事はありませんか?」
「いえ・・、特には。しかし、毎日納めている箱は点検していますし、見回りもしていますから誰かが盗み出すという事は難しいか、と」
 宮の宝、国の宝と言われている草薙の剣が姿を消した。管理責任を問われるのではという恐れから、草薙の剣が姿を消した原因が超常現象であってほしい という口ぶりだった。
 神宮の長であっても神怪と関わる事は少ない。実際、神怪の関わった状況に確信がもてないのも仕方の無い事だった。
「そうですね。今回の件は神怪が関係していると思われます。現在、こちらでも捜査をしていますが草薙の剣がどこへ消えたかは特定していません」
「そ、それは困ります」
 顔面を蒼白にして神主は身を乗り出す。
「もちろん全力で捜査する事をお約束します。ただ、今回は相手が大きい」
「大きい?」
 神主の目を見開いた顔に岳人が頷く。
「はい。私が言うまでもない事ですが、草薙の剣の本来の持ち主はヤマタノオロチです。そのヤマタノオロチが封じられていた八本杉と祠が破砕したという 報告がありました。調査の結果、人の手によるものでも自然によるものでもない事がわかりました」
 そこで言葉を切り、しばらく沈黙した後、宣告するように続けた。
「ヤマタノオロチが復活した為、草薙の剣は持ち主のもとに戻ったと思われます」
「そんなっ。そんな事が起こったら日本はどうなるか・・・」
「ヤマタノオロチを見た事のある者はいませんから、予測はつきません。現況の武器、軍備でどうにかなるものなのかどうかも」
 部屋は沈黙した。いくども神怪の起こす事件を解決してきた三郎達でさえ、相手の大きさに困惑している。ましてや、神を奉じてはいても事態に対応する 特殊な力をもっていない神主は怯えを隠さなかった。
 その怯えを取り去るように三郎は明るい声を出した。
「ま、ここで話してても仕方ないですよ。それに案外、簡単に何とかなるかもしれません。ほら、酒甕に首つっこんで酔っ払ってしまうような奴でもあるし」
 スサノオ命がしかけた罠にかかり、酔って眠り込んでいるところを退治された逸話は神主の不安を軽くした。
「そ、そうですね。退治する方法もあるかもしれませんね。では、剣の安置されていた場所へご案内します」
 社務所を出て、案内されたのは本宮だった。青々とした境内の木々の間に神気ともいえるものが満ちていた。しかし、それも風の流れや人の息吹で少しず つ薄まっているように感じられた。
(やっぱり草薙の剣がないからか)
 三郎は本宮の御神体が鎮座する場を見た。鏡を御神体とする神社が多い中、熱田神宮の主神である熱田大神は草薙の剣を御神体としている。
 その剣も人の目に触れぬよう常に箱に収められている。
 その箱を遠くから参拝し、手をあわせる人々の多い事に三郎は顔を曇らせた。
(御神体が存在しないのに熱心な祈りを捧げてる・・・。急がないとな)
 神主に許可をもらい、剣が納められていた箱を開けた。すでに姿を消しているにも関わらず、草薙の剣が発していた神気は三郎達を圧倒した。
「あんまり長い時間触れてるとまずいな」
「気にあてられておかしくなる」
 蓋を閉じ、二人は顔を見合わせた。
「本体はしゃれにならない程の力をもっているだろう。それがヤマタノオロチに戻ってるとなると、な」
「でも、蛇がどうやって剣を使うんだ?」
 素朴な疑問、しかしそれを解明する時間はなかった。
「一度、課に戻るか」
「そうだな。都度さんも気になる事を言っていたしな」
 二人が熱田神宮を後にし、東京に戻ろうとしていた頃、新たな事態が起こっていた。
 熱波に包まれた東京で足立が電話を受けていた。
「はい、林野庁整備部調整課。はい、はい」
 しばらくの応答の後、電話はきれた。そして、メモを持って課長である新田の前に立った。
「ただいま、飯綱さんのところの卯さんから連絡が入りました」
「ああ、あの可愛い子」
「そうです、あの可愛い子です」
 新田の軽口をいなし、足立は続けた。
「島根の都度さんからの指摘を受けた飯綱さんが関東での異変を調べさせていたところ、箱根で気になる事を見つけたとの事です」
「その事は、三郎達は知ってるの?」
「はい、連絡は入っているそうで、直行するそうです」
「じゃあ、大丈夫だね」
 湯気のたつ茶を口に運び、新田は椅子に体を預ける。そして、一度目をつむった後、口を開いた。
「箱根でこの時期か・・・、なるほどね」
「湖水祭ですか?」
「うん。そうか、だからか。そりゃ、ヤマタノオロチも目覚めるよ」
 確信を得たのか、新田は何度も頷いた。その頷きに足立は理解の足りない部分を求めた。
「箱根の湖水祭は九頭竜を鎮める為のもので、ヤマタノオロチとは直接関係はないのでは?」
「んー、僕もそう思ってたんだけどね」
 湯飲み茶碗を茶托にもどし、新田は説明した。
「ヤマタノオロチと九頭竜、その両者は自然を形にしたものだって言われてる。この辺りは有名な話だよね」
「はい」
「どっちも里を荒らし、人身御供によって大人しくなるって話。で、結局は退治されたり法力によって大人しくなったりする。で、頭が九つあったら股は?」
 新田の言わんとしている事をさとり、足立は言葉をのんだ。
「そう。股は八つある訳だ」
「では、ヤマタノオロチと九頭竜は同一のものだと」
「まあ、可能性の問題だけど、結構いい線いってない?」
 新田はブラインドをすり抜け照らす太陽光に目をしかめた。今年の熱波は並大抵ではない。
技術レベルが上がっている現代だから「今年は不作」程度ですんでいる農作物の出来も、昔なら大飢饉として多くの者が命を落とすだけのものだった。
 毎日の天気予報で伝えられるのは水不足と異常な暑さ。それは世界規模の温暖化の影響だと繰り返される内に、警戒がゆるくなっていたのかもしれない。
「九頭竜とヤマタノオロチが同一のものだとして、どうされるつもりですか?」
「そうだねぇ」
 椅子をゆらゆらと揺らしながら、新田は方策を考えた。
「九頭竜は高僧の法力で鎮められたんだから、各総本山に連絡いれてみよう。で、ヤマタノオロチとしては酒で酔わせてといっても警戒してるだろうから、 剣を用意しておくか」
「十握剣ですか」
「うん。さーて、どれがいいかな」
 スサノオ命がヤマタノオロチを退治した時に使用したとされる十握剣は複数存在している。十握剣は天羽羽斬とも天蝿研剣、伊都之尾羽張、天之尾羽張 等々。
「どれも寺宝、社宝だから簡単には貸してもらえないだろうなぁ」
 こつこつと机を指で叩きながら、新田は考えを巡らせる。その間、足立は沈黙したまま待った。沈黙がなければ気にならない時間が過ぎた後、新田は立ち 上がった。
「ちょっと出てくる」
「どちらへ?」
「ん?大阪。京都支所に連絡入れておいて」
「どのように伝えておきましょう」
「古道具屋紹介してって」
「古道具屋ですか」
「そう。巴なら有名所は押さえてるだろうしね」
「わかりました」
 充分な説明ではなかったが、足立はそれ以上の質問をする事無く新田を送り出した。
「もう早く気づけば、三郎達に取りに行かせたのになぁ。やれやれだ」
 刺すように照らす太陽に顔をしかめながら、新田は愚痴た。


続く


数日前に芦ノ湖で行われた湖水祭り。それは箱根に暮らすタケルにとっても楽しいものだった。
普段から観光客が多い箱根ではあったが、一年の中でも最も人手が多くなる時期だった。家業である民宿の手伝いは忙しかったが、行きかう観光客の中か ら未来の彼女を探す楽しみもあった。
しかし、その祭りが終わった今になってタケルを焦らせ、走らせる出来事があった。
「なんで、お櫃が流れ着いてるんだよ」
 湖水祭りにおいて、供物を入れたお櫃は重要な物だった。芦ノ湖に封じられた九頭竜を鎮める為に必要な供物を湖に浮かべる。九頭竜がそれを受け入れ れば、供物は湖に沈む。
「お櫃が沈まないと九頭竜が出てくるって・・・」
 走りながら呟くタケルは自分が子供じみた空想を口にしているのではないかと不安にもなった。しかし、走る足を落ち着かせる事ができなかった。
 湖水祭りで九頭竜に供物を捧げる船の船頭をしたのは幼馴染の青年だった。何か変わった事がなかったか聞こうとタケルは青年の家へと走った。
 ずるり、そう音を聞いたと思ったタケルは足を止めた。
 垣根の向こうに船頭を務めた青年の家がある。後少し進めば門をくぐる事ができた。しかし、タケルの足は動こうとしなかった。
 夏の日差しでかく汗ではない、じっとりとした冷たさ。それが背中を伝い落ちた。そんな汗をかいたのは初めてだった。
 かさかさと垣根を揺らす音が背後に聞こえた。猫や犬の大きさではない何かが固い葉をかき分けていた。
 地面に貼りついたようになっている足を引きずり、一歩進んだ。その時、垣根から這い出した何かがタケルの背後に立った。
 視線をつむじに感じたタケルは首をすくめる。脂汗がこめかみを流れた。悪い事は何もしてない。しかし、恐れが体を硬直させていた。
 緊張で気を失いかけた時、視線が途絶えた。アスファルトを蹴る足音と共に視線の主が去るのが分かった。膝の力が抜けて、地面に座り込んだ時、声がか かった。
「大丈夫?熱中症?」
 明るく好奇心に満ちた声はタケルの体調を心配していた。
「え、いえ、そういう訳じゃ」
 タケルは首を振り、そっと背後をうかがった。アスファルトにただよう陽炎の向こうに視線の主が見えた。ぶれる輪郭の中心に男の影があった。
(あれが、さっきの)
 唾を飲み込み、恐怖が去った事を確認した。
「ほんと大丈夫?」
「はい」
 立ち上がるとタケルは心配する声に応えた。タケルをのぞきこむように声をかけたのは二十歳を少し過ぎた女だった。
「さっきの人に何かされたの?」
「そういう訳じゃないんです。あの、どんな人でした?」
「どんなって・・・、そうね」
 声の主は眉を寄せ、首をかしげた。
「若い男の人だったわ。冷たい感じの・・・。で・・・、後はよくわからないわ」
 思い出せない事に苛立ちを感じつつ、女はタケルに聞いた。
「体調が悪いなら家まで送るけど?車、近くに止めてるし」
「いや、この家に用があるんでいいです」
「あら、知り合い?私もここに用があるの」
「ここの兄ちゃんに」
「兄ちゃんって貴明て人?」
「はい。この間の湖水祭りの事で。あなたは?」
 タケルにきかれ、女は名刺を出した。
「林もなみ。オカルト雑誌の記者してるの。湖水祭りの禁忌について取材してるの」
「禁忌、ですか」
「何か知ってるの?」
 うかがう目で、もなみはタケルを見た。

 じゃわじゃわと蝉が鳴く中、タケルは知り合ったばかりのもなみの問いに答えた。
「湖水祭りの禁忌ですか」
「そう。あ、私も知ってるんだけどね。一応、下調べはしてるし」
 短く切った髪を揺らし、もなみはファイルを鞄から出す。インターネットの画面をそのまま印刷したのか、フォントの異なる文章が並んでいた。
 目的の文書を見つけ、タケルに読んでみせた。
「えっとね、供え物を湖に浮かべて沈まないと九頭竜が怒るんでしょ?それと・・・供え物を浮かべた後に振り返っちゃうと大変な所になるって」
「そういえば、聞いた事ある」
「本当!じゃあ、早速聞かなきゃ」
「聞くって、何を?」
「浮かべた後、見てみてって頼んだのよ。で、君は?」
「え?」
「え?って。何か聞きに来たんでしょ?」
 もなみの勢いに押され、タケルは来訪の意味を忘れかけていた。
「あ、そうだ。お櫃が流れ着いてたんだ」
「それ、本当!?うわ、九頭竜って本当にいるのかしら」
 嬉しそうに言うもなみに、タケルは眉を寄せた。
「本当に居たら、どうするんですか?九頭竜が怒って暴れたりしたら」
「えーっ、信じてるノ?」
 からかいの気持ちを隠さないもなみにタケルは鼻に皺を寄せた。タケル自身、九頭竜が居るとは思っていなかった。しかし、好奇心で騒動が起こる事を 期待されるのは腹がたった。
「九頭竜が居る、居ないは関係ないでしょ!爆弾があって、爆発したら楽しそうだって言ってるのが問題なんですよ!」
「何よ、居もしない怪物の事で怒っちゃって」
 怒りの理由を理解できないもなみは、タケルの反論を理不尽に感じたようだった。
「どうしたの?」
 もなみとの会話を打ち切り、中井家の門をくぐろうとしたタケルに声をかけた。怒らせた相手に躊躇せず声をかけるもなみの無神経さにタケルは溜息を ついた。
「話を聞きにきたんだよ、俺は」
「じゃあ、私も。約束してたし」
「勝手にしろ」
 ぞんざいな物言いに怒らないもなみに余計腹をたてたまま、タケルは中井家の呼び鈴を鳴らした。湖水祭りの祭事に関わる旧家である中井家は離れを もつ広い敷地を所有していた。その広さをかんがみても長いと思える時間、返事が無かった。
「留守かな」
 再び呼び鈴を押したタケルに、もなみが言った。
「それはないと思うけど。この時間に来るの約束してたから」
 呼び鈴の音が吸い込まれるように響いた後、タケルは庭へと歩き出した。
「誰か居ないのかな」
 刈り込まれた芝生の上を歩きながら、タケルは家人を探した。幼馴染である貴明を訪れて中井家に来るのは何度もあった事だった。
 庭でキャッチボールをした事もあったし、縁側でスイカをご馳走になった事もある。大体の部屋の間取りを把握していたし、家族構成も知っている。
 この時間なら家族全員が留守という事は少なかった。
「こっちが兄ちゃんの部屋だから」
 そう視線を移した時、タケルは足を止めた。不自然な隙間を残して開いた窓。その窓と垣根をつなぐ一本の溝。芝生を削り、うねるように続く溝はかなり の太さがあった。
「なんだ、これ」
 疑問を解消する為に近づけと頭は指令を出していた。しかし、本能が知りたくないと叫んでいた。
「何かあったのかな」
 臆する事無く、もなみは空いた窓に近づいて行った。その足音を聞きながら、タケルは垣根へと目をやった。折れた枝はタケルの身長を越えた高さまで 跳ね上がっていた。
「ここ・・・、さっき誰かが出てきた」
 一歩、垣根に近づいたタケルの耳に叫び声が突き刺さった。
「いやーっ!死んで!殺されてるっ。食べられてる!」
 もなみの狂気をにじませた声が響いた。



続く


 振り返ったタケルの目に映ったもなみの背中。ぺたんと地面に座り込み、見て分かるほどに震えていた。子供を生む時のように短く吐き出される呼吸に 叫びが混じっていた。
「こっ、ころ、殺されて。食べらっ、あんなの人じゃな」
 もなみの叫びにタケルは状況を理解した。
 会おうと思っていた貴明は何者かに食われていた。そして、その何者かは、さっき自分が背後に感じた影なのだと。
 覚悟を決めたタケルは窓へと近づいた。見る必要は無い。警察に連絡すればいいのだとわかっていたが、確認したかった。自分が感じた影は人外の存在 だったと。
 もなみが開いた窓から部屋へと光が差していた。粘りのある液体が広がり、畳を染めていた。
 血だとわかる液体の広がりの中、転がっていたのは手と足先、そして脳みその食われた頭だった。
 美味い所を食べつくされた残骸は単なるゴミとして捨てられていた。
「はは、確かに、食べられてる」
 死体を見たのは初めてではない。数年前に祖母の葬儀の際に遺体と対面している。しかし、今、目の前にあるのは死体ではなく食べ残しだった。
「警察に連絡・・・」
 タケルは携帯電話を取り出しながら、警察に通報していいものかと迷った。人が殺されているが、これは警察が扱う事件なのかと。解決できる事件なのか と。
 番号を押す指が動きかけた時、タケルの背後から音がした。かさかさと垣根を揺らす音。もなみの気配は足元にある。
 貴明を食べた影が食べ足りないと戻ってきたかと前進をこわばらせた。
「すみませーん」
 聞こえたのは明るい声だった。届け物を持ってきた子供のような声だった。
 恐る恐る振り返ると枝の折れた垣根からのぞいていたのは小学生だった。
「あの、ここ中井さんの家ですか?」
「え、・・・うん」
「何かありましたか?」
 髪に葉っぱをつけて庭に入ってきた小学生はタケルに聞いた。その問いに答えず窓の方を見たタケルに、小学生はポケットから携帯電話を取り出した。
「あー。何か、ありましたか」
 異様な状況に動揺する事もなく、突然現れた小学生は番号を押し始めた。
「あの、誰?君」
「あ、僕ですか」
指を止め、タケルの問いに姿勢正しく答えた。
「卯月蓮です」
「・・・そう」
 名前を聞いた訳ではなかったのだが、こう答えられてはそれ以上の質問もしづらい。蓮と名乗った少年はタケルの質問は終わったと判断したのか、携帯で 連絡を始めた。
「蓮です。中井さんのお宅まで来たのですが、すでに問題が起こっているようです。これから調べてみます。はい、・・・はい、わかりました」
 水色の可愛らしい携帯電話をポケットにしまうと、蓮は開いた窓から家へと入ろうとした。
 躊躇する様子のない行動にタケルは見送ってしまった。叫び声が聞こえると身構えたが、聞こえるのは畳を踏む足音だけだった。
 できるだけ死体から目をそむけ様子をうかがうタケルには写真を撮るフラッシュが見えた。部屋の電気がつけられ、蓮は手にしたデジタルカメラで死体の 撮影をしていた。
「何してんの」
 まるで警察の鑑識がするような仕事を続ける蓮に声をかけた。
「仕事です」
 短いが、それ以上の質問をしづらい答えがまた返ってきた。
「小学生だよな」
「はい」
 写真を撮り終えた蓮は情報を携帯で送信し、更に道具を取り出した。
「何してんの」
 さっきと全く同じ質問をした。
「仕事・・・、えっと残留物の採取です」
 質問の意図を理解し、蓮は答えた。黙々と仕事を続ける蓮を見ている内にタケルの恐怖心が薄まっていった。
「怖くないの、こういうの?」
「馴れました」
 けろっと答える蓮にタケルは驚いた。惨殺死体を見るのは初めてだったが、何度見れば馴れる事ができるのだろうと。
「何の仕事してんの」
「えーと」
 蓮は初めて困った表情を見せた。
「その・・・お手伝いです」
「誰の?」
 蓮の表情はますます曇った。今までの子供らしからぬ行動力とは違い、対応に困る幼さを見せた。
「えっと、その」
 答えられないと言えば収まる状況だと気づかないまま、蓮は視線をさまよわせた。
「悪い。言えないのか?」
「言っちゃいけないとは言われてないんですけど、その・・・」
「いいって。よくわからないけど、大切な事なんだろ?」
「はいっ」
 答えられる質問に落ち着いたのか、蓮は元気よく答えた。そして、仕事の手を止めてタケルに聞いた。
「あの、この方のお知り合いですよね?」
 殺された貴明をそれとなく指した蓮にタケルは答えた。
「幼馴染だったんだ。それで聞きたい事があって」
「何ですか?よかったら教えてもらえませんか?」
 いまだ放心状態のもなみに視線をやった後、タケルは言った。
「湖水祭りの事なんだよ。さっき、お櫃・・・。あ、湖水祭りの事は知ってるか?」
「はい、大体は。・・・お櫃って、お供えの」
「うん。それが流れ着いてるのを見つけてさ。あれって沈まなきゃいけないのに、流れ着いてるって不吉じゃん。だから、船頭やってる兄ちゃんに話を 聞きに来たんだけど」
 言葉を切った事で重要な証言が聞けなかったのだと蓮は悟った。
「こちらの方は」
 呆けたようにブツブツと繰言をつぶやくもなみの素性を聞いた。
「雑誌記者だってさ。わざわざ禁忌を破りに来てくれたよ」
 吐き出すようにタケルは言った。貴明が湖水祭りの禁忌を破ったから殺されたのかは、まだわからなかった。しかし、確信に似た思いがあった。
「禁忌を」
「うん。供え物を浮かべた後って振り向いちゃいけないってのに、確認してくれって頼んだんだってさ」
 タケルの説明に蓮は眉を寄せた。
「そうですか。少しお話を聞きたいです」
「でも、こんなじゃ話は聞けないんじゃないか?」
「大丈夫です。仲間に治せる人が居ますから」
 精神に異常をきたしたもなみに微笑みかけた後、蓮は携帯で連絡をとった。
「すぐ来てくれるそうです」
「すごいんだな」
 タケルに言われ、蓮はきょとんと見上げた。
「すごくないですよ?僕、一番すごくないです」
「一番って事は他にも人数居るのか?」
「えっと」
 答えようとした蓮にびしびしと垣根の葉が突風と共に貼りついた。
「何、部外者に話してんだ」
 気づくと庭に人影が増えていた。


続く
 タケルと蓮、そして精神に異常をきたしたもなみの居る庭に人影が2つ増えた。
「ピョン、お前何部外者に話してんだ」
「猿田さん、犬飼さん」
 蓮が名前を呼んだ二人はタケルより年上の大学生くらいに見えた。蓮を叱った青年は、もなみの前にしゃがみ顔をのぞきこんだ。
「あーあー、キレーな顔してんのに、イッちゃって」
 手をひらひらとしてみせたが、もなみの目は焦点が合わなかった。
「じゃ、話を聞く為に治すか。っと、ワンコ、お前はこの跡を追え」
 ワンコと呼ばれた青年は頷いた後、庭から芝生を削る跡をたどり姿を消した。
「ワンコって」
「あ、犬飼さんのあだ名です」
 タケルを見上げ、蓮が答えた。
「だから、お前はなぁ」
 猿田は蓮をにらんだ。
「でも、こちらの方は殺された中井さんとお知り合いで」
「こういうのは部外者の範囲なんだよ」
 ため息まじりの猿田はタケルを見た。
「えーと、名前は?」
「稲田タケル、だけど」
 猿田を警戒しながら猛は答えた。精神異常を治せるという猿田に何かされるのではないかと思ったからだ。タケルの警戒心に気づいた猿田は手を振って なだめた。
「別に、どうこうしようと思ってねえよ。ここであった事をベラベラしゃべらなきゃいいだけの話なんだから」
「しゃべったら?」
 上目遣いの猫が威嚇する様な声で聞いてくるタケルに猿田は鼻で笑った。
「反抗的な答えをどーも。どうなるかっつーと、人口が一人減るだけの話だよ」
猿田の答えをタケルは疑わなかった。幼い蓮、無口な犬飼、そして目の前の猿田が自分とは明らかに違う存在であると感じたからだ。
「猿田さんっ」
 短く叫んで蓮がタケルの前に立った。口をへの字にまげて、蓮は猿田をにらんだ。その勢いに猿田は肩をすくめた。
「例えの話だろ?そいつだって例えばって事なんだしよ」
「でも、駄目ですっ。三郎さんは口にした事は言霊になって自分を縛るって言ってました!」
 爪先立ちになって唾をとばす蓮に猿田は頭をかかえた。
「だから、お前はどうしてそう部外者にだなぁ」
 猿田の注意も聞こえていないのか、蓮は鼻息が荒かった。
「駄目ですっ」
「わかった、わかった。だから落ち着け」
ぐりぐりと蓮の頭をなでながら、猿田はタケルを振り返った。
「こいつがうるさいから、この話はここまでにしようや。で、聞きたい事があるんだ」
「なんですか?」
「今回の件に関する事を全部。それと最近、箱根で起こってる事」
 タケルを守る様に立つ蓮を間に挟み、二人は休戦した。そして、猿田の問いに答えた。
「お櫃が沈んでないって事と・・・火事があったな。最近ちらちら聞く」
「いつ頃から?」
「祭りの後、だな。観光客の煙草のポイ捨てかって話になってた。うちに泊まりに来た客も庭に吸殻捨てたりするしな」
「お前んち宿なのか?」
「小さいけど旅館やってる」
「ふうん。部屋空いてるか?」
「今日?」
「ああ。調査するなら基地は欲しいしな。お前なら事件を知ってるから、話も早い」
「聞いてみる」
 タケルは携帯を家へとつなげた。
『はい、稲田屋旅館です』
「あ、姉ちゃん?」
 タケルの声に反応して、携帯電話から平坦な声が聞こえた。
『タケル、どこに居るの?夏休みの間は忙しいから手伝ってお願いしたわね?』
 音量は小さかったし、穏やかな言葉使いだったが怒っているのが丸分かりだった。
「いや、その、ごめん。あの部屋空いてるかな?うちに泊まりたいって人が居てさ」
『ご宿泊?』
「うん。急に仕事でこっち来たらしくて」
『いつまで?今日は一部屋空いてるけど』
 客が関係しているからかタケルの姉の声は柔らかくなってきた。
「えーっと、何日間?」
 視線を猿田に向けて聞いた。
「とりあえず3日」
「3日だって」
 パソコンのキーを叩く音が聞こえた後、答えがあった。
『今日は一部屋空いてるけど、明日、明後日は・・・。宴会部屋での雑魚寝なら、できるけど。何人いらっしゃるの?』
 受話器からもれ聞こえる声に猿田が答えた。
「5人だ。雑魚寝でかまわない」
「5人だって。雑魚寝でいいって」
『じゃあ、用意するわね』
「うん、お願い。じゃあね」
 タケルが通話を終えようとすると、携帯から冷ややかな声が聞こえた。
『この後、ご案内して帰ってくるのね?』
 そのまま遊びに行くなという脅しを含んだ姉の質問にタケルは早口で答えた。
「いや、観光名所を案内してほしいって話だから。それ終わったら宿に案内するよ」
 タケルは話を打ち切り、携帯電話をしまった。
「怖い姉ちゃんだな。マジで怒ってたな」
 猿田のからかいにタケルは肩をすくめた。
「大学が夏休みだけど、若女将の仕事してるからイライラしてんだよ」
「その姉ちゃんの仕事を手伝わずに、ぶらぶらしてる弟もいるしな。ま、若女将の顔を拝む為にも、さっさと仕事するか」
 猿田は、もなみから話を聞く為に行動を開始した。


続く


 凄惨な死体を見た事で精神に異常をきたしたもなみ。その精神異常を治そうと猿田が手をかざす。今までの皮肉げな表情は消え、目に真剣な光がともった  口の中に響く聞き取れない言葉があった。タケルは聞き取ろうと耳をすますが、どうやっても聞き取れなかった。何かが邪魔するような感覚があった。
「よし」
 言葉の聞き取りに集中していたタケルが視線をもなみに戻すと、明らかに表情に変化があった。
「あ・・・」
「落ち着いたか?」
「何が・・・」
 辺りを見回すもなみの視線をさえぎるようにして、猿田が答えた。
「びっくりするようなもんを見ただろ?」
「・・・っ」
 再び叫びそうになるもなみの気をそらすように猿田が質問をした。
「びびんなくてもいいさ。犯人が戻ってきたら逃がしてやるから。で、殺された中井って人と何を話した?」
「何って」
「全部話してくれよ。でないと犯人にたどりつかないしな」
「はん、にんっ」
 ぶり返す震えに拳を握るもなみに猿田は続けた。
「情報が少なきゃたどりつかない。そうなれば、いつまでも怯える事になる。あった事を話してくれ」
「えっと・・・」
 もなみは猿田ににじり寄ると、切れ切れに思い出せる事を話し出した。
「オカルト雑誌に記者をしてるのね。それで・・・派手な話がないかと思ってたら九頭竜の言い伝えを聞いて。箱根だから温泉もあるしと思って」
 もなみは鞄から取材の為の資料を取り出した。それはインターネットに流れる九頭竜伝説を印刷した数枚の紙だった。
「いくつかホームページ見てたら、お供えを浮かべた後は振り返っちゃいけないってあって。それで船頭をしてる人を調べて」
「どうなるかって試したのか」
「う、うん。お礼するからって頼んだの」
「試した結果がこれか」
「で、でも迷信でしょ?九頭竜って自然災害の例えだって。土砂崩れだとか山火事だとか」
 インターネットで調べた事柄を並べ、もなみはすがるように見た。しかし、それには猿田も蓮も首を振った。
「迷信が真実だった時代もある。今も場所と時によっては真実だ」
「だけど、九頭竜って大きいんでしょ?こんな所に来るなんて、そんな」
「それはわからない。眷属だって事もありうるしな。さて、こんなところか」
「待って!」
 立ち上がる猿田の腕をひき、もなみが叫んだ。質問が終わり、ここから立ち去ろうとしているのを察知したのだ。
「私どうなるの?来るの?九頭竜が」
「さあな。来るかもしれないし、来ないかもしれない」
「来たら殺されるっ。ねえ、守ってよ!死にたくない!」
 必死に頼むもなみに猿田は冷笑を浮かべた。
「殺された奴も死にたくなかっただろうな。まあ、そいつも自業自得ではあるけど?仮にも神事に携わる人間が禁忌を破ったんだから」
「だって、そんな、思わなかったんだもん。幽霊とか見た事ないし、心霊スポットに行っても何もなかったし」
「じゃ、大丈夫なんじゃないか?」
 取り付く島無しといった答えに、もなみはタケルと蓮を振り返った。
「ね、ねぇ」
 タケルには答える事はできなかった。この家を訪れる直前に感じた恐怖を思い出すと、もなみを助けるどころか自分の命さえ守れるかわからないからだ。
「俺は・・・」
「何とかします」
 タケルが躊躇する隣で蓮が言い切った。
「でも、あなた子供・・」
 もなみがそこまで言った時、猿田が返した。
「なら、自分で何とかしろよ。助けろって言ったり、文句言ったり」
「猿田さんっ、いい加減にしてくださいっ」
 蓮は怒気をはらんだ声で言った。
「こんなの三郎さんが怒りますよ!」
 その名前を聞いた途端、猿田の動きが止まった。何か言い返そうと口をもごもごさせたが、結局猿田は言葉を飲み込んだ。
「・・・わかったよ。保護要請すりゃいいだろ」
「少し待ってくださいね。連絡取りますから」
 猿田のふくれっ面を見た後、蓮はもなみに言った。安心した表情をするもなみに猿田が手をかざした。
「あんた、ちょっと危なっかしいからな」
 何事かと猿田の掌に目をやった途端、視点がゆらいだ。そのゆらぎに合わせ、猿田が再び何かを呟いた後、もなみはふらふらとその場を歩き出した。
「何したんだ?」
「ここでの記憶を封印した。そこらへんを散歩してる間に保護要請を出す。重要な目撃者なのは確かだからな」
「その間に襲われたりしないか?」
「襲うなら、とっくに襲ってるだろ。お前ら、遭遇したんだろ?」
「ま、まあ、結構近くで」
 タケルは、また背中に冷や汗をかいた。
「目に付くような事をしなきゃ大丈夫だろ」
 猿田の見通しにタケルは足にからみつく恐怖を振り払おうと地面を踏みしめた。


続く


 ふらふらと歩き去るもなみを見送った後、タケルは猿田達と中井の家を後にした。一旦、敷地から出てみればいつもと変わらない箱根だった。蝉も鳴くし、 太陽の日差しも毎日の強いものだった。
「これから、どうする?」
 タケルの問いに猿田が頭をかいた。
「んー」
 猿田は空を見上げ、立ち止まっていた。生返事の後、次の言葉が続かない。後ろの家では、まだ死体が転がっている。早く立ち去りたいというのに、その 気配はない。
 いらいらと、そしてびくびく辺りを見回すタケルの肩が叩かれた。
「うあっ」
 髪が逆立つ程、驚き跳び上がった。
「何びびってんだ」
「驚くだろっ、フツウ!!」
 肩に置かれた猿田の手を振り払い、タケルは荒くなった息を整えた。
「で、何だよ」
「ワンコと合流する」
「・・・え、犬?」
「犬飼さんですよ。ほら、さっき居た」
「あ、ああ」
 無口な鋭い目をした青年を思い出した。猿田の指示で九頭竜と思われる影を追っていた犬飼と合流するという。何かわかったのかとタケルは身を固くした。
「行きましょ、こっちです」
 蓮に服を引かれ、タケルは歩き出した。通り過ぎた民家からは高校野球の実況放送が聞こえ、応援する声が聞こえた。
「普通なんだよな」
 いつもと変わらない風景にタケルは戸惑い、暑さに頭を振った。さっき感じた恐怖は、まだ腹の底に溜まっている。
「あのさ、いつもこんな感じなのかい?」
 蓮に訊くと首をふる事で返事が返ってきた。
「いつもより、でかい事件・・・なんだよな?」
「はい。僕は、まだこの仕事を始めて短いですけど、こんなのは。猿田さんは、どうですか?」
 蓮の質問に猿田は不機嫌そうな表情を見せた。答えはない。
「無いのか、こんな事」
「ない。こんな大物相手は初めてだ」
 ぼそりと答えた声は、さっきまで見せていた強気さは感じられなかった。虚勢を張る余裕は無いようだった。
「三郎さんも、無い・・・かな」
 蓮が尊敬し、猿田が不満を飲み込む上司の名前。その人物も相対した事がなければ、不安は増大する。
「知らねぇよ」
 ぶっきらぼうに答え、猿田は路傍の地蔵の前で立ち止まった。ブナの木が五本並ぶ日陰で犬飼を待った。
「暑い」
 しゃがみこんで足元に視線を落とした時、砂利を踏む音が聞こえた。軽く視線を上げると、犬飼が戻ってきていた。
「何かわかったか」
「湖に」
「潜っていったってのか?」
「足跡はそこまでだった」
「潜っていくって事は、ずっと息が続くって事かな?」
 タケルの疑問に猿田が嫌な顔をした。
「面倒くさいな。向こう岸も見張れってか」
「でも、人が多い所は使わないだろ?」
「どれ位ある。目立たない所は」
 ばっと広げられた地図を前にタケルは絶句した。長年暮らしてきた町であったが、どこに何があるかを全て把握している訳ではない。
「どうした」
「よくわからない」
「なんだよ、それ。住んでんだろ、ここに」
 あきれた色をにじませる猿田の声にタケルは切れ気味の答えを返した。
「しょうがないだろ!湖がどうなってるかなんて興味無いんだからっ。湖なんか、いつでもそこにあって、いつも変わらなくて!」
「チル。仕方ない事だ。知らないという事は幸せだったという事でもある」
 擁護の声は犬飼のものだった。必要以上の言葉を発しない犬飼がかばった事でタケルは目を丸くした。
「チルって?」
「未散。だから、チル」
 犬飼は猿田を指差していた。
「幼馴染だからって、そんな名前で呼ぶなって言ったろうが」
「じゃあ、サル」
「おまっ、根に持ってんのか?」
 三人の力関係が、ようやくタケルにもわかってきた。指示を出している猿田がリーダーなのだと思っていたが、必ずしもそうではないようだった。確かに 作戦遂行の計画を練り、指示を出しているのは猿田なのだが、いざ言い合いとなると蓮に勝てない。では、犬飼になら勝てるかというと、短い会話に含まれ る圧力に負けてしまうらしい。
「姉ちゃんに聞いてみるか?俺よりは知ってると思う」
 偉そうにしている割に勝てない猿田に少しの憐憫を感じ、タケルは口を開いた。
「そうするかっ、若女将ってのも見てみたいしな。なんだよ、その顔」
「なんでも?じゃ、行くか」
「へらへらしてんじゃねぇよ、馬鹿」
 不機嫌そうな声も、今は年相応のふてくされにしか聞こえなかった。
 うだるような暑さの中、汗一つかかない美人が箱根の駅に立っていた。
夏の温泉地は幾分人が少ないものだが、山間という事と都心から日帰りができる距離とあり、箱根の風景は人であふれていた。
「姉さん」
「どうしたの?」
 涼しげな声で聞き返したのは岳人の木の葉天狗である雪だった。
「トイレが満員なの」
 それだけ聞けば腹を下し、トイレに駆け込みたい危機を訴えているような内容だった。しかし、雪を姉と呼んだ花の表情は曇っていたが生理現象によるも のではない事は見て取れた。
 雪は花に視線で続きをうながした。
 声をおとし花は言った。
「どうも、皆、下痢と嘔吐のようなの。団体旅行なら食中毒という事も考えられるけど、見たところ個人旅行の人も多いみたい」
「他に気になる事は?」
「今のところは」
 雪は細い指を顎にあて、思案顔になった。しかし、その思案もすぐに終わり、携帯電話を開いた。番号を押しながら、花に指示を出した。
「厚労省に連絡を。コレラかもしれない」
 雪の指示に花は合点がいったという顔をし、自身の携帯電話を手にした。
 二人の携帯電話は、まず雪のものが繋がった。
「雪です。箱根で九頭竜が行動を始めたかもしれません。下痢、嘔吐に苦しむ者が急激に増えています」
 相手は主である岳人だった。
『早いな。・・・いや、遅いくらいか。祭りの夜に復活していたなら、事を起こすのはもっと早くてもいいからな』
「はい。花に厚労省の方に連絡をさせていますが、今後はどうしましょうか」
『三郎の干支と合流して調査を続けてくれ。俺達もすぐに向かう』
 岳人との連絡を終え、顔を上げた雪にはトイレに駆け込む人の波が見え、早く替われと怒鳴る声が聞こえた。
(私達はあらゆる伝染病のワクチンを接種しているからいいけど、このままじゃパニックになる)
 コレラを日本国内で発病するといったニュースは今でも聞く事はある。しかし、それは海外旅行をした者が感染し持ち込むといった形が多い。
 だが、核家族化と清潔志向の進んだ日本では広域に感染が広がる事は少ない。そして、一度コレラだとわかれば治療方法は確立しているから重篤化する 危険も低い。
 今、雪の視界内にある駅舎、みやげ物屋、レストランなどはトイレを求めて右往左往する者があふれていた。すでに子供などは我慢できずに、もらして 泣いていた。
 感染者の排泄物や嘔吐物にうかつに触れれば、その者も感染してしまう。
 目の前の騒動をコレラだと雪が判断したのは、箱根に救う九頭竜が起こす疫病はコレラであるという伝説からであった。
雪としては予断を持って指示を出した事に若干の不安はあったが、心構えをしておく必要はあった。九頭竜に関して、他に何かなかったかと思い返す雪に 声がかかった。
「すぐに動くそうよ」
 厚労省への状況伝達を終えた花が雪を見た。
「ごくろうさま。干支と合流するわ」
 歩き出した二人とすれ違う人々の大半はげっそりとした表情だった。すでに病を発しているようだった。
 駅から離れ、騒ぐ声も小さくなった頃、二人の側に車が止まった。
「始まりましたね」
 顔を見せたのは三郎の部下である干支の一人だった。うなずいた雪は花と共に車に乗り込んだ。主である岳人と干支の主である三郎がコンビを組んでい る事もあり、互いをよく知っている。
「鳥井さん、そちらは何かわかりましたか?」
「ええ。猿達が興味深い人物と接触する事に成功しました」
「これから向かいますか?」
「いえ、逆さ杉に向かいます」
「逆さ杉?」
「犬飼からの連絡で九頭竜と関係すると思われるモノが湖に姿を消したようです。そこで九頭竜が封印されていた逆さ杉と九頭竜神社を確認しようと思い ます」
 犬飼はハンドルをきり、湖へと車を走らせた。


続く


三郎の木の葉天狗である鳥井と合流した雪達は九頭竜神社へと赴いた。この神社の程近くに九頭竜が封じられていたという逆さ杉があるからだ。
 車から降りた雪達は湖へと足を向けた。
 湖水近くの道から鳥井が眼をこらし、水中を見る。透明度が高いとは言えない芦ノ湖で湖底に沈む逆さ杉を見る事は普通の人間にはできない。
「どうですか?」
 雪の問いかけに鳥井が答えた。
「確かに・・・居ませんね」
 逆さ杉に九頭竜が封じられていたのは神となる前の毒龍の頃の話である。鳥井は振り返り、九頭竜神社を見る。
「あちらも」
 神となり、人々を守護する龍神としての九頭竜も居ないと続けた。
 鳥井の視力に限らない『眼の良さ』を雪は信じた。自分の主である岳人も、そういった種類の『目』を持っているからだ。
 封じられていた毒龍、祭られていた水神。そのどちらも姿を消した芦ノ湖は、水面を不気味に波立たせている。
 その波のうねりに合わせたように、鳥井の携帯電話が鳴った。静かな湖畔には不似合いな電子音だった。
「辰か。・・・ああ。すでに4人。わかった」
 短いやりとりの後、鳥井の説明があった。
「ここ数日で箱根町では少女の行方不明事件が4件発生しているようです」
「4件ですか」
「はい。辰の調査では、箱根町周辺で暮らす少女および観光客です」
「人身御供、という事でしょうか」
「本来、人身御供は差し出されるものであって、自分で調達するものではない筈ですが。せっかちなのでしょうかね、九頭竜は」
 鳥井は肩をすくめた。
「警察の方はなんと?」
「まだ家出などの通常案件として扱っているようです。夏休みという事もありますしね」
 雪の問いには至極真っ当な答えが返ってきた。
「さきほど犬飼から連絡があり、九頭竜と思われる人物は湖に姿を消したとの情報を得ました」
「人物?」
 冷静な雪の顔に驚きが混じった。
「青年だそうです。ただ人物を認知したのは一般人の少年であって、犬飼はその情報を元に追跡したのですが」
「でしたら、どこへ?」
「封じられていた逆さ杉へ戻る事はないでしょう。これから湖を一周して、跡が残っていないか探すつもりです。その後、町へ向かい姿を消した少女達の 捜索に当たります」
「では、お手伝いします。女手もあった方がいいでしょうから」
「お願いします」
 鳥井達の車は夕焼けのちかづく芦ノ湖をめぐり始めた。


続く


 鳥井達の車が芦ノ湖畔をめぐり始めた頃、箱根湯本の駅に長身の影が二つ立った。
「報告どおりだな」
 九頭竜の撒く疫病が辺りに満ちていた。嘔吐と下痢の症状を叫ぶ観光客を前に岳人が呟いた。
「便所の数も足りねぇ。俺としては命も心配だけど、そっちが心配だ。トラウマんなるぞ、人前で吐いたり漏らしたりよ」
 三郎の隠さない物言いに岳人は顔をしかめたが、確かに事態はその通りだった。伝説として記されている疫病はコレラといわれている。その症状は嘔吐と 下痢。そして、その排泄物に素手で触れたりする事によって病は伝染していく。
 今も子供の面倒をみる親や、排泄物の掃除をする駅員も気づかぬうちに伝染源に触れている可能性がある。そうなれば、伝染範囲は更に広がるだろう。
「ともかく離れようぜ。臭くて仕方ない」
 三郎はそう言うと息を止め、駅から離れる為に歩き始めた。
 灼熱の光が降り注ぐ道を歩き、人影が少なくなってきた場所で二人の側に自転車が止まった。
「どうだ、追加情報は」
 三郎の呼びかけに自転車に乗った少年、辰が答えた。
「姿を消した方達の写真が入手できました。現在は捜査は停止しています」
「理由は?」
「伝染病です」
「警察まで掃除に借り出されてるってのか?」
 三郎の問いに辰は首を振った。その生真面目な態度に三郎は頭をかいて、言った。
「伝染病にかかったのか?」
「それもあります。ですが、それ以上に動いているのは、この伝染病の出所を探しています」
「バイオテロ、って事か?」
「急激ですし、規模が大きすぎる部分が理由の様です」
 辰の報告を聞き、岳人が言った。
「まだ雪達の報告が伝わっていないようだな」
「しょうがねえよ。伝説の化け物が撒き散らす疫病だなんて説明できないだろ」
 三郎の言葉は共に居る岳人達の意見と同じものだった。
「で、さっき言ってた写真てのは?」
 情報収集を担当する辰は電子的、物理的に目的の場所へ侵入し目的の物を入手していた。
「これです」
 差し出された四枚の写真。デジタルカメラからのデータを拡大したのか、何枚かは鮮明さの低いものだった。
「結構、可愛いな。九頭竜は面食いか?」
「さあな」
 続いて差し出された資料を読み進めながら、岳人は相槌をうった。
 蝉の鳴き声が遠くから響く中、辰が眉をしかめた。情報を精査している二人は気づかなかった。その辰の表情が和らがないまま、数分が過ぎた。
「大事になりそうです」
 辰の控えめな声に二人は視線を向ける。イヤホンから流れ続ける情報を聞き分けながら、辰は報告する。
「病の伝播を止める為、封鎖が開始されました」
「封鎖?車、電車がか?」
「はい。徒歩もだそうです」
「確かに大事になりそうだな。俺達はどこからでも出て行けるとして、閉じ込められた側はパニックを起こすな」
「宿泊施設も限られる」
 ぱくん、と携帯電話を開き、ワンセグ映像でニュースを見た。そこに流れるのは速報として伝えられた状況だった。
「まだ封鎖の情報は入っていないな。辰、マスコミは居たか?」
「報道系は数社が到着しているようです。また旅行関係の番組制作会社は二社入っています」
「ライブ中継できる社は?」
「今のところは一社です」
「とはいえ、もう今は携帯電話でもそこそこの画素で動画が送れるだろ。静止画なら性能がよきゃ、カメラと代わらないしな」
「一億総特派員時代だな」
 これから起こるだろうパニックに三郎達はため息をついた。


続く


 疫病を拡散させない為の地域封鎖は、すぐにパニックの様相を見せた。誰が言い出したかわからないが、住民全てを焼き殺すといった噂が流れたからだ。
 確かに過去には、そういった方法がとられた事もあるだろう。しかし、ほとんどの伝染病に対して治療方法の確立した現在は、そんな事は少なくとも先進 諸国を名乗る国ではありえない。
 恐らく、この噂の発生原因は過去に上映された映画だろう。致死率が90%を越えるエボラウィルスが題材となった映画だが、そのエボラウィルスでさえ、ワクチンが開発されつつあるという。  つまり、今回の疫病がコレラである事や治療法がある事が正確に伝われば、このパニックを鎮めるのは難しくないだろう。
 そういったパニックを苦々しく思いながら、三郎達は情報の整理をしていた。資料と流れるニュース、そして辰が傍受する警察内部の情報。それらを付き 合わせる内、岳人が顔を上げた。
「空白域があるんじゃないか?」
 コレラ発病の報告地域を地図で確認していた手を止め、指で示した。
「伝染が報告のあった範囲の中に、ほら」
 とん、とんと叩く。
「地区って言っていいほどだな」
「・・・行方不明の少女達の資料をくれ」
 渡しながら、三郎が言った。岳人の着想の理由に気づいたのだ。
「生け贄の代償か?」
「可能性がある」
「確かに空白域の数は合うな」
 コレラが蔓延しつつある状況で、ぽっかりと空いた場所があった。
「行方不明になった少女達の家、宿泊していたホテルや宿。多分、確定でいい」
「昔なら集落って言っていい範囲か」
「そうだな。大小はあるが、地図を見るにある程度の集落といえる大きさだな」
「どうする?発病していない人間を、ここに避難させるか?」
「救護所を作るという手段をとるのがいいだろうな。そうでないと、また違う面倒な噂が立つかもしれない」
「空白域で、そこそこの広さのある場所か。学校か、運動場・・・」
 三郎がチェックを入れていく。それを確認し、岳人は厚生省の知己に連絡を入れた。
「富士です。花から連絡が行っていると思いますが。はい」
 現在、届いている情報の精度を互いに確認したが政府が把握しているものは、どれも頼りないものだった。情報の精査を行った後、岳人は救護所という 名の避難場所設置を提案した。
「行方不明になっている少女達には申し訳ないが、疫病の被害者数を抑える事に利用させてもらいましょう」
 地図を確認しながら使える場所を伝えていた時、辰が無言で地図の一点を指差した。その行動の意図を汲み取った岳人は携帯電話ごしに言った。
「ありがたい事に救護所に使える場所が増えました」
 冷静な声には事態に追いつけない怒りが滲んでいた。



続く


 湖に姿を消した九頭竜を追う為の情報を集めようと、タケル達は一軒の宿に足を向けた。その宿は箱根の中心地から少し離れており、広がりを見せる疫病の 魔の手から逃れていた。
「ただいま。お客さん連れてきたよ」
 タケルの実家である宿屋も疫病騒ぎの余波が感じられた。狭いロビーに置かれたテレビからは流れ続けるニュースが画面に映し出されていた。
「いらっしゃいませ」
 そう言って現れたのはタケルの姉、栞だった。タケルの後ろに客が居るという事で冷静な表情を見せていたが、発せられる言葉の端々に落ち着きの無さが 感じられた。
「あの、街で起こっている事はご存知でしょうか?」
「この事件ですか?」
 初対面を慮ってか、いくぶん改まった話し方の猿田が答えた。
「はい。ですから、念の為、宿に入る前に靴と手の消毒をしていただきたくて」
 客である猿田達が気分を害しないかと気にしている栞に蓮が応じる。
「あ、ここのたらいですか?」
 玄関先に置かれたたらいには刺激臭のする液体が入っていた。
「ええ。ニュースで言うにはコレラじゃないかって事なんです。申し訳ありませんが、ひしゃくで消毒液を靴の裏にかけていただいて、手は殺菌せっけんで 洗っていただいて」
「わかりました」
 蓮はたらいに近寄ると、ひしゃくに手を伸ばした。
「タケル。外の手洗い場にご案内して」
「わかった」
 タケルは自分も靴を消毒すると、駐車場にある手洗い場に3人を連れて行った。
「まだ、この辺にはコレラ来てないんだな」
 タケルはほっとした顔で言った。宿までの道中、携帯電話でやりとりされる情報を耳にし、箱根がとんでもない状況になっている事を再確認したからだ。
「とはいえ、伝染源が移動するから飛び火する可能性もあるから安心できないぜ」
 猿田は念入りに手を洗いながら言った。
「それはそうだけどさ。九頭竜に限らず、チル達みたいな客が持ち歩く事もあるだろうし」
「チルって言うな」
 猿田は膝でタケルを蹴った後、犬飼に訊いた。
「この辺りに九頭竜の跡は無いんだな?」
「ない」
 短いが断言する犬飼に猿田は頷いた。能力を信用しているのだろう。
「とりあえずのベースキャンプは確保できたとして、姉ちゃんに話は聞けそうか?」
 道々話していた湖から上陸しやすい場所の確認をする為、栞から話を聞こうと考えていた。
「今の時間なら手は空いてると思う。夕飯には時間があるし、チェックインするなら大体終わってる時間だから」
 タケルに続き戻ってきた猿田達に、栞が言った。
「あの、本日は大広間を使っていただく予定でしたが、お部屋をご用意できますので、そちらへご案内します」
「なんで?」
 大広間へと足を向けかけていたタケルが言った。客前でのタケルの言葉使いに、ちらりと視線を送った後、栞は説明した。
「ご予約をいただいていたお客様が今回の伝染病にかかられまして、救護所の方に泊まられるとお電話があって」
「キャンセルが出たって事か」
「タケル、言葉使い悪いよ」
 そう嗜めた後、栞は猿田達に向かって言った。
「そういう訳でして、お部屋が空いていますので、そちらにお泊りください」
「それは助かるな。な?」
「はい。三郎さん達もそう思うと思います」
「あ、5人って言ったけど、もう少し増えても大丈夫かな?」
 キャンセルが出て売り上げ減少を覚悟していた栞にとっては朗報だった。
「はい。何人様ですか?」
 人数の計算に指をおりながら数え、猿田は蓮に訊いた。
「雪姉ぇ達も来てるんだよな?」
「はい。あ、でも月さんは東京だったと思います」
「じゃあ、後4人は来るか。とりあえず男7人、女2人かな」
「では、お部屋は3つという事でよろしいでしょうか」
「それで」
「はい。では、こちらへ」
 案内された部屋へタケルも入った事に栞は眉を寄せた。
「何してるの」
「え、何って」
 箱根で起こっている事件について話し合いをするつもりだったタケルは当然のように部屋に入った。しかし、栞にしてみればタケルの仕事は観光地の 案内までであって、部屋に入る理由が無いと思っていたようだった。
「お邪魔になるでしょう?」
「いえ、こちらがお願いしてるんです」
 ちょこんと座布団に正座した蓮が言った。
「あら、弟が役にたってますか」
 驚いたように言う栞の言葉に猿田が笑った。
「タケル、お前役立たずか」
「そんなんじゃ」
 言いかけたタケルの声に栞の声がかぶった。
「ええ、もう。あ、いえ、役立たずという以前に家の手伝いを全然しなくて」
「だって、夏休みだから」
「そういう事は普段、手伝いしてる人が言うものなの。あんた普段も全然じゃない」
 最初は若女将として振舞っていた栞も段々と年相応の顔を見せていった。
「折角だから、この方達のお世話しなさい。いいわね?」
「世話って」
「布団の上げ下ろしにお食事の用意。他にも色々あるわよ」
「わかったよ」
 ふてくされるタケルを横目に栞は猿田達に言った。
「こんな弟ですけど、どうかよろしくお願いします。一人前にする為にも、どんどん用事を言いつけて下さいね」
「そりゃ、もう」
 にやにやする猿田にタケルはそっぽを向いた。
「では、お茶をお持ちしますので」
 席を立とうとする栞に猿田が言った。
「その時に少し話聞けますか?」
「はい。では、失礼します」
 栞が部屋から離れたのを確認して、猿田は机の下でタケルを蹴った。
「美人だな」
「普通だよ。着物きてるから、そう見えるんだよ」
「んな事ねえよ。まあ、雪姉ぇ達のが少し上かな」
「・・・その雪って人達、綺麗なのか?」
「かなり。な、ワンコ」
 言われた犬飼は頷くだけだった。だが、世辞などを言いそうも無い犬飼が頷くのだから、かなりの美人なのだろう。その、かなりの美人達と姉である栞が 競えるとはタケルには思えなかった。兄弟ゆえの辛い評価だった。
「だから、気をつけろ」
 今までの声色を潜めた猿田の言葉にタケルは視線を合わせた。
「九頭竜に攫われたと考えられる人間が5人でてる。その全員がかなりの美人らしい。狙われる可能性がある」
 タケルは首筋の産毛が逆立った気がした。
 路上での情報交換の後、三郎達は移動を開始した。ヤマタノオロチと思われる存在と最接近遭遇した少年の家へと向かったのだ。
「そういや、そのタケルとかって奴は疫病にはかかってないのか?」
「そういう報告は無いな」
「オロチは疫病の発現を意志によって決められるって事か」
「どうだろうな。その遭遇した場所でも疫病は起こっている。これは伝播したものではないようだ」
「発生源のひとつか?」
「そうだな」
「なら、やっぱり意志によって・・・。まあ、疫病とはいえコレラだから抵抗力が強かったって事かもな」
「だとしたら、かなりの強さだろう。神怪ともいえる存在と遭遇しているのに、抵抗できたんだから」
 車を運転する三郎の横で周囲を警戒していた岳人が声を落とした。
「あれは」
「何だ?」
 三郎は車の速度を落として岳人の視線を追った。山と住宅地の端境に人影があった。
 そこには一人の男が立っていた。
 だが、岳人に言われなければ気づかない距離だった。
「大丈夫か?」
「・・・ああ」
 視線は外さず、しかし握る拳は血の気を失うほどだった。耐えているのだ。
「あいつか」
「多分。だけど」
「だけど、どうした?」
「あの程度なのか?」
 あの程度。恐怖を感じている筈の岳人の口からこぼれたのは、そんな言葉だった。
「どういう事だ」
「確かに危険だと思う。だけど、これ位の恐怖なら何度か感じた」
 何度か感じた恐怖。そして、今ここに生きて存在しているのなら、それは乗り越えてきているという証だった。
 岳人の特殊能力である遠見と存在の属性を見抜く力が情報との差を感じさせ、戸惑いを与えていた。
「一度当たってみるか」
 車を止め、三郎が提案する。気負いは無い。
「一撃離脱。それで、どうだ」
「俺達は大丈夫だろう。ただ、この辺りがどうなるか」
「暴れるって事か?」
「可能性の問題だ」
「なら、俺達に眼が向くようにするか」
 三郎は車の運転を辰と交代した。
「俺達は一度当たった後、離脱する。それを迎えにきてくれ」
「はい」
 辰はゆっくりと車を動かし、二人から離れた。
「さて、行くか」
 家と家の間を抜け、山へと向かう道を歩く。道端に生える雑草は風にそよいでいた。
「なるほど」
 岳人程の眼力がないとはいえ、三郎にも異常な力が感じられた。じわじわと近づく毒気。足元に生えていた雑草も徐々に枯れ腐っていった。
「よお」
 三郎のかけた声に男は振り返った。
 その姿は拍子抜けするほどに普通だった。確かに着ているものは、どう見ても現代の洋服ではなかったが、それでも神怪だと頷く程の仰々しさは無かった。
 髄に響くほどの視線を向けられた二人は身構え、一気に仕掛けた。
「飛礫」
 岳人の呟きと共に無数の石が打ち出された。四方八方、姿が消える程の石礫を隠れ蓑に三郎が切りかかった。手の中に凝縮された風が刃になった。
 振り下ろす刃はぶれる事なく神怪の急所に吸い込まれていった。
 一撃離脱。
 回避、防御、そして反撃。それらを予想しての一撃だった。しかし、三郎の風刃は神怪の喉を貫き、息の根を止めた。
「何?」
 三郎の驚きと疑いの声と共に神怪は崩れ、存在を消した。
「岳人」
「倒した。術の類じゃない」
「ヤマタノオロチじゃなく眷属か?」
「いや、眷族のレベルじゃない」
「とはいえ、簡単すぎるよな」
「ああ」
 自分達の見込み違いか、それとも未だ気づかぬ何かがあるのかと三郎達は困惑した。


続く


 ヤマタノオロチと思われる存在を倒した。しかも、一撃で。その状況に三郎と岳人は困惑していた。決して弱かった訳ではない。自分達に圧倒的な力量が あったからでもない。
 岳人の飛礫と三郎の風刃。その二手により、ヤマタノオロチは討ち取られた。
「幻でもなし、眷属でもなし」
 三郎は足元の枯れ腐った草花を見た。生物を毒気で殺せるのは、かなりの力をもった存在だけである。
 二人が視線を合わせていたところに辰が運転する車が近寄った。一撃離脱を目的とした攻撃の後、車で逃走。しかし、想定していた状況にならなかった為に 辰は自身の判断で行動した。
「これから、どうしますか?」
「予定通り、タケルってやつの家に行ってくれ。もう一度、情報を整理した方がいい」
 車に乗り込んで三郎が辰に指示した時、岳人の携帯電話が鳴った。
 走る車の中、雪から持たされたのは一つの情報だった。
「わかった。危険のないように調査してくれ」
「なんだって?」
 助手席に座っていた三郎が肩越しに訊いた。
「さっき、俺達がヤマタノオロチと思われる存在を倒した時、異常を感知したそうだ」
「鳥井がか?」
「ああ。鳥井君の言う事には大きな気が爆発したかと思った途端、散じたそうだ」
「それは・・・俺達の居た場所か?」
「そうだな。方向、距離としては間違いないようだ」
「それなら、俺達が調べた方がいいんじゃないか?」
「いや、気は飛び散ったらしい」
 岳人はわずかに開けた車窓から外を見ていた。流れる風景の中には岳人の特殊な眼に留まるものはないようだった。
「ここからはわからないのか?」
「駄目だな。実を言うと、今は眼がおかしくなっている」
「近すぎたか」
「ああ。気の大きさにやられたらしい」
 見えないものを見る目は、時に三郎と異なる傷を受ける事がある。閃光を間近で見た為に残像が網膜に焼きついたかのように、今の岳人の眼は使い物に ならなくなっている。
 瞼を閉じ、シートに体を預けると岳人はため息をついた。
「まあ、お前ほどじゃないが鳥井の眼もそこそこいい。心配すんなよ」
「鳥井君の力を信用してない訳じゃないさ。ただ、いつも見えるものが見えないのが不安なだけだ」
 薄く開けた眼はルームミラーに映る三郎を見ていた。視力が奪われた訳ではないのだ。
人に見えぬものが見える眼力が麻痺していた。
「焼きつきが収まるまでは俺がフォローするさ」
「ああ、頼む」
 空が薄暗闇に包まれた頃、三人は目的地に到着した。車のヘッドライトを確認し、駆け寄ってきたのは蓮だった。駐車場に止められた車にまとわりつくよ うにして、蓮は三郎の到着を喜んだ。
「三郎さん、お疲れ様」
「ああ、お前もな。猿達は?」
「中です。この辺りの土地情報を整理しています」
「そうか」
「えっと、靴と手を消毒してから宿に入ってくださいって、若女将さんが」
「わかった」
 蓮の案内で消毒を終えた三郎達は客室へと向かった。部屋では地図を座卓一杯に広げた状態で書き込みを行っていた猿田達が居た。
「ごくろうさん」
 軽く手を上げて部屋に入った三郎は見知らぬ少年と女性に目を留めた。
「稲田タケル君か?そっちは若女将かな?」
「あ、はい」
 タケルは姿勢を正して返事をした。気さくそうな青年に見える三郎だったが、どこかそうせざるを得ないものを感じた。蓮達から聞かされていた情報が あったからかもしれない。
「すみません、急に部屋を用意していただいて」
 続いて部屋に入った岳人が栞に頭を下げた。
「いえ、そんな。急なキャンセルがありましたものですから、こちらとしても」
 そう答えて、わずかに視線を外した。頬が赤い。
 それを見て不思議そうな表情をしたタケルの耳に猿田の小さな含み笑いが聞こえた。
「なんだよ」
「別に。よくある事だから」
「何が」
 と言った後、思い当たった。
「姉ちゃんが、あの人に惚れたって事?」
「あの人、無頓着だからなぁ。自分が惚れられるって思ってないから」
 タケルは改めて岳人を見た。整った顔立ちと立ち居振る舞いから猿田の言う事がデタラメでないと思えた。いわゆる「イメケン」などというレベルを 遥かに超えているのだ。
「そんなに、よくある事なのか?」
「まあな。街を歩いてると、道できるぜ。女の人が立ち止まって振り向くから」
 コソコソと話す猿田の頭にこつんと消しゴムが当たった。犬塚が投げたのだ。口をとがらせ、何か意思表示しようとした猿田はすぐに首をすくめた。
岳人が横目で見ていたからだった。
 すでに栞からは湖に関する説明はすんでおり、地図には書き込みが充分にされていた。
「ありがとうございます。これで調べ物がしやすくなった」
「お役にたてれば何よりです。じゃあ、夕飯の用意をいたしますので」
 立ち上がり、部屋を出ようとした栞はタケルに言った。
「タケル、あなたも手伝いなさい」
「俺?俺は・・・えっと」
 タケルは猿田達の上司である三郎と岳人を見た。その視線の意味を受け、三郎が言った。
「よかったら、タケル君には残ってもらいたいんですが。聞きたい事もありますし」
「それでしたら、構いませんが」
「すみません。おい、猿。お前、代わりに手伝ってこい」
 なんという事のない指示だったが、猿田は間髪いれずに立ち上がり栞の側に寄った。
「でも、お客様にそんな」
 慌てる栞に三郎が言う。
「気にしないで下さい。お話を聞けば、客は俺達だけ。家で手伝いさせるようなものですから」
「さ、行きましょう」
 猿田が部屋を出るのに引きずられるように栞も続いた。
「さて、君の話を聞かせてくれるか?」
 体を正面に向け、岳人はタケルに尋ねた。


続く


 蓮達の上司である三郎と、その相棒である岳人。二人がタケルの前に居た。
「君は今回の事件について、かなりの情報をもっていると聞いているが」
 静かな声だったが岳人の言葉にタケルは背筋を伸ばし頷いた。
「た、多分ですけど。気のせいとか・・・」
 蓮達と出会い、様々な情報を聞かされた事で自分が見てきたものが九頭竜、そしてヤマタノオロチであると思っていたが単に思い違いや勘違いであった らどうしようと思ったのだ。
「あー、そんな固くならなくていいから」
 がちがちになっているタケルに三郎が言った。少し困った顔をしていた。
「いや、確かに事が大きいから不安になるのはわかる。でも、そういう判断をするのは俺達だからタケル君は見た事を話してくれればいい」
 安心させようと説明する三郎にタケルは固くなっていた。
「三郎は強面だから」
「んな事ねーよ。お前にくらべりゃ、誰でもそうなるっての」
「そうですよっ。三郎さんは強面なんかじゃありません!岳人さんがかっこよさすぎるんですっ」
 ぱんぱんと音をさせて卓を叩く蓮に犬飼が言った。
「緊張を解くジョークだろ」
 ぼそっとした声に蓮が目を丸くした。慌てて岳人達を見ると二人は苦笑していた。
「す、すみませんっ」
 蓮はぺこぺこと全員に頭をさげた。その様子にタケルは少し緊張をといた。
「そろそろ大丈夫かな?」
 タケルの表情がほぐれたのを見て、岳人は言った。タケルはうなずき、質問を待つ。
「タケル君はヤマタノオロチと思われる存在と最接近した訳だけど、何かおぼえている事はあるかな?」
「えっと・・・、いえ何も。ものすごく怖かったのは確かですけど。振り返るのも怖い位で。固まってたら雑誌記者の人に声をかけられて」
「雑誌記者?オカルト雑誌だったかな」
「はい。林・・・もなみ?とかいう人です」
 確認をとるように蓮を見た。視線を受けて蓮が発言する。
「はい、そうです。持ち物を確認したので名前と肩書きはその通りで間違いないと思います」
 タケルと蓮の説明が続く中、犬飼が注意をひいた。
「あれ」
 その短い言葉に全員がふりむく。無口な犬飼が言葉を発する時は重要な内容である事が多いからだ。
 犬飼が指差したのはつけっぱなしにしておいたテレビ。そして、その一点を指差す。
「あ、林さん」
 まさに今、説明をしていた人物がテレビに映っていた。箱根の状況を伝えるニュースだった。唯一、封鎖前に箱根に入る事ができた放送局だった。
 そのライブ中継の光景の片隅に林もなみが映っていた。ヤマタノオロチに惨殺された船頭の死体を見て、精神に異常をきたしたもなみだったが猿田の術の おかげで問題の無い程度まで回復した。そして、彼女自身の安全を守る為に記憶の封印を施し、解放していた。
「保護要請とか何とかってチルが言ってたけど、普通に避難所に居るじゃん?」
 タケルはてっきり箱根から離れているか、もっと堅固な建物に保護されているのかと思っていた。
「蓮、誰に保護要請を出した?」
「馬場さんです。あ、ここに」
 蓮が指差した場所に一人の男が立っていた。もなみとは、それほど離れていない。
「なら、ここに呼んで情報を聞こう」
「間に合わないかもしれないな」
「え?」
 携帯電話に手をかけた三郎が顔を上げる。岳人の視線はテレビに釘付けになったままだった。
「何が、・・まずい!」
 岳人への問いは叫びに変わった。携帯電話を操作する指はせわしなく動いた。一発で相手の番号を入力する機能を使った。呼び出し音も鳴っている。
 だが、テレビに映る受信側の男はもなみへと手を伸ばし、その場から離れようとしていた。三郎の電話の意図が伝わったかのようだった。
 テレビ画面から二人の姿が消える。そして、もう一つ。ぞわっと、タケルの背から汗が噴出す。見た事の無い恐怖の姿。
 次の瞬間、女の悲鳴と大勢の悲鳴が響いた。ただでさえ伝染病の恐怖におびえていた者達が、もっとわかりやすい恐怖を見た。
「あれがヤマタノオロチ、ですか」
 蓮は呟くように言った。
「多分、そうだと思う。なんで、テレビ越しでこんなに怖いんだよ」
 タケルは震える手を握り締め、言った。テレビに映っていたのは一人の青年。確かに、もなみが言っていた冷たい感じのする容貌だった。歩く姿もどこか、 するするといった感じの足運びだった。
「大丈夫かっ」
 つながった電話に三郎は怒鳴った。テレビからも携帯電話からも悲鳴は聞こえていた。
「駄目か。いい、お前はその場を離れろ。犬飼を向かわせる」
 短いやりとりの後、三郎は犬飼に指示を出した。
「目撃者の林もなみは殺害された。今映っている避難所は多分、閉鎖になる。お前は現場に行って跡を追え」
「はい」
「深追いはするな。車に辰が居るから、足に使え」
 部屋を出る犬飼を見送った後、岳人が口を開いた。
「まずい事になったな」
「ああ」
「これで伝染病だけでなく、連続女性誘拐殺人事件が発生する」
「連続・・・?」
 タケルが訊く。
「すでに数人の女性が行方不明になっている。そして、その女性達の自宅や宿泊先は伝染病の汚染を受けていない。それはヤマタノオロチに生け贄を出した からだ」
「生け贄って、家族が差し出したっての?」
 タケルは驚いて声をあげた。
「いや、知らない筈だ。生け贄を差し出すなんて解決方法がある事はとうの昔に忘れられている」
「に、してもだ」
「俺達が倒したのは頭の一つだったって事か」
「倒した?」
 タケルの問いに三郎が答えた。
「ああ。ここに来る前に、ふらふら歩いてるのを見かけてな。様子をみようと仕掛けたら、倒しちまった。簡単すぎるから、変だとは思ったんだが」
「現在、わかっている伝染病回避地域は五つ。さっき殺された林さんが生け贄であるなら、回避地域は六つになる。彼女が宿をとっていた場合だが」
「自宅は都内だったら?」
「その周辺が伝染病回避地域になるだろうな」
「俺達が倒した奴が生け贄をとっていたかどうかで、行方不明になる人間の数が変わる」
「九頭竜って事で相手は九人いるとして、今は六つ回避地域ができた。生け贄は六人だ」
「じゃあ、後三人殺されるかもしれないって事?」
 答えは迷いの感じられるものだった。
「どうだろうな。さっき言ってた殺された船頭は生け贄じゃない。神の眠りを妨げた怒りの罰だ。で、今回殺された林って人が生け贄じゃなく、眠りを妨げ た件の片棒を担いだと判断されていたなら罰だ」
「それなら、四人?」
「そうなる」
 場の空気が重くなる。もなみが公衆の面前で殺された事で警察も行方不明になっている女性達が単なる家出などではないと考えるだろう。そうなれば警戒、 捜査する為の人員が配置され、単独で行動する女性が減る分、被害者は出にくくなるかもしれない。
 しかし、相手は人が大勢居る場所に乗り込み平然と殺人を犯した。警察や個人の警戒がどれだけ役立つがわからない。
「もどかしいな」
「まあ、焦んなよ。目の焼きつきが収まれば嫌だろうと働いてもらうから」
 ニュースで流れる情報に爪をかむ岳人に三郎が言った。
 確実にテレビに映った恐怖の姿。今まで何千回、何万回とテレビは見た。しかし、これほどの恐怖を感じた事は無かった。
 確かにリアルタイムで殺人が行われたという恐怖はある。そして、殺された相手が面識のある相手だったという事も恐怖を増していると思う。
 だが、それは大した理由ではなかったようにタケルは思った。
 殺人が行われたのは画面の外。視聴者へのショックを考え、遺体が直接映る事は無かった。今は犯人である青年を捜す映像が映っている。
「どこにも居ない」
 せわしくなく視線を動かしヤマタノオロチの姿を探すタケルの耳に砂利を踏む音が聞こえた。
 びくっと体を震わせたタケルに岳人が言った。
「辰と犬飼だよ」
 確かに砂利を踏む音は駐車場から出て行く車のものだった。
 この音は何度も聞いたものだった。普段、客が宿を後にする時に度々聞こえる。しかし、今のタケルには神経を刺激するだけのものだった。
 遠くなっていく音を確認して、タケルはようやく伸びていた首を縮めた。まだ心臓の鼓動は早いままだった。
「それにしても公の場に出るとはな。状況がわかってなかったのか?」
「湖水祭からしばらく間は小さな火事程度があっただろ。だから、その間に情報収集をしたのかもしれない」
「長い間、湖底に封印されていたのに優秀なことだな」
 三郎は右往左往するマスコミの様子をテレビで見ながら、煙草を取り出した。
「行方不明になってる子達が心配だな」
「殺されているかは不明、だな。今回とは状況が違う」
「行方不明だからな。とはいえ、アジトにしている場所も不明か」
 その時、岳人の携帯電話が鳴った。
「ああ、見た。鳥井君はどうだ?」
 どうやら、岳人の部下である雪達からの連絡であるようだった。
「さっきの事件は見えたか。いや、俺はまだ目が見えないから鳥井君と犬飼君に頼るしかない」
 皆の会話を聞けば聞くほど、タケルは自分が場違いな人間ではないかと不安になってくる。
「俺・・・役立たずだな」
 ぼそっと呟いた言葉に三郎が応えた。
「そんな事はないだろ」
「でも、なんていうか。わかんない事だらけだし、皆みたいにできる事もないし」
「俺達はできる事をしてるだけだ。できない事なんて、いくらでもある」
 そう言われ、タケルは自分ができる事を思い返した。蓮の現場調査、猿田の精神医療、犬飼の追跡技術、そういった特殊なものではなく、もっと身近なも の。
 そう考えたが自信をもって言えるものは何もなかった。
「できる事ないです。勉強もクラスで真ん中より下だし、スポーツだって授業でした程度の事しかできないし。部活にも入ってない」
「気づいたんなら、これから始めればいい。気づいたのに何もしないってのは、いただけないからな」
 三郎は加えていた煙草の灰を落とした。ちらちらと灰皿に降った灰は薄く広がった。
「何か、がんばってみます」
 その何かが思い浮かばないまま、タケルは頷いた。
 その頷きが終わるのを狙ったように部屋のふすまが開き、猿田が立っていた。
「夕飯できましたよ。どうします?部屋に運びますか、それとも広間に用意しますか」
「部屋で食事できるのか?」
「栞さんは、どっちでもいいって言ってましたよ」
「なら、部屋に運んでくれ」
「あ、じゃあ、俺も」
 タケルは立ち上がり、言った。
「とりあえず、これ位はできますから」
 特別なことはできないが家業である旅館の仕事ならできる。姉の栞ほどではないが、食器の場所や手順は覚えているからだ。
 テレビから絶え間なく流れるニュースを背中で聞きながら、タケルは部屋を後にした。



続く


 夕食の用意をした後、タケルは調理場の隣にある居間に行った。
「仕事のお手伝いきちんとできたの?」
 まかないの皿を卓に置きながら栞が聞いてきた。
「うん、まあ」
 曖昧な返事をしながらタケルは箸をとった。ぼろを出さないように栞の言葉に注意した。
「あの人達って不思議ね」
「ふしぎ?」
 タケルはイントネーションをおかしくしながら聞き返した。何かばれているのかと思ったからだ。
「だって、これだけ伝染病が広がってて、殺人事件すら起きたのに、とても落ち着いてるんだもの」
 どう答えたものかとタケルは黙る。今起こっている伝染病や殺人事件の理由を知っていて、対処に奔走しているからだとは答えられない。そうなれば、 何者だと問われるし、続いて危ないからやめなさいと言われるのが目に見えている。
 女将だった母が死んでから学生と女将の二足の草鞋を履いている姉に心配をかけたくないとタケルは思う。今までも大して勉強をせず、家の手伝いもしな いという心配をかけているが、それは棚に上げていた。
「確かに落ち着いてるよなぁ。でも、話してて思うけど、なんか強そうだよ?それに伝染病の調査もしてるから専門家なんじゃないかな」
「保健所の方?」
「いや、なんかもっと上の方みたい」
 タケルは言い過ぎず、しかし不審を抱かれないようにと栞の顔色をうかがいながら答え続けた。
「そう、専門家なの。なら心配ないかしら。でも、あんたに手伝いができるとはね」
 栞は安心できる単語だけを選び取り、息を吐いた。タケルが言ったのは、あくまで「らしい」という憶測だったのだが。
 ともかく、栞の追求はそこで止まり、テレビから流れるニュースを見ながら夕食をとった。
 相変わらず、どのチャンネルもニュースが流れ続けていた。伝染病はどこまで広がるのか、突如浮上した連続女性失踪事件。そして、公衆の面前で起こっ た殺人事件。
 どれか一つでも数日、いや一週間は騒ぎになる内容のものだった。それが一斉に起こったのだ。関連はわかっていないものの、箱根で何かが起こっている のではないかというニュアンスのコメントが相次いだ。
 確かにこれらの事件は共通した原因でもって起こっているが、それらを関連付けて正しく推測できる人間は少ないだろう。
「バイオテロ、ね」
 栞は箸を止め、画面に見入った。
「タケルはどう思う?」
「どうって?」
 質問はもうこないと思っていただけにタケルは慌てた。栞にしてみれば単に夕飯時の会話だったのだが、タケルには虚をついた尋問のように思えた。
「バイオテロっていうけど、箱根でするものなのかなと思って。だって、テロって都会であるイメージじゃない?箱根でたくさん人が死んだとして、どこに 影響が出るのかなって」
「そ、だよね」
「VIPが来てたとしても暗殺するっていうなら、もっとこっそりできると思うのよね。こんな騒ぎを起こす必要も無いし。逃げにくいじゃない?」
「うん」
「さっき殺された人も、テロと関係あるとは思えないし。でも、犯人が別人だったら怖いわよね」
「え、何が?」
「だって、テロだったとしてよ。テロリストと人殺しが別人だったら犯人は複数居るわけでしょ?怖い人が何人も居るんだもの」
「ああ」
 口に入れた料理も味を確かめられないまま飲み込んだ。
「タケル、あんたも気をつけるのよ。どこに誰が居るかわからないんだから」
「うん。姉ちゃんも気をつけろよ。うち、旅館だから顔知らない人が来ても相手しなきゃいけないんだし」
「だったら、あんたも家に居ればいいじゃない。ふらふらしてないで」
「俺が何とかできる相手じゃ」
 そこまで言ってタケルは言葉を飲み込んだ。相手である犯人の事を知っているのかと突っ込まれないかと身構えた。
「まあ、それもそうね。あんた喧嘩弱そうだもんね」
 栞は笑うと手早く夕食を食べ終えた。客が三郎達だけとはいえ、客からの要望が何かあるかもしれないと待機する習慣がついているからだ。
 調理場へと消えた栞を確認するとタケルは大きく息を吐いた。自分が関わっていると、ばれなかった事に安堵したからだ。
(大丈夫だと思うけど、一応誰か家に残ってもらって)
 自分がヤマタノオロチと遭遇している事から、自宅が狙われる危険がないかと心配になったからだ。夕飯をかきこみ、三郎達の部屋へ行こうと立ち上がっ た時、視界の隅に何かが映った。
 窓の外の暗がり。
 弾かれるようにして窓へ駆け寄り、勢いよく開けた。
 おかしなモノは何もなかった。いつも通りの庭とその向こうの山肌。
「どうしたの?」
 勢いよく開いた窓の音を聞いて、栞が顔を出した。
「ん、いや、何でもないよ」
 タケルは慌てて窓を閉め、障子をひいた。
「いや、ちょっと何か居たような気がしてさ」
「もう、タケルは怖がりね」
 栞はあきれたように言うと再び帳場へと戻っていった。
「チル達の仲間かな」
 後から仲間が来ると言っていた事を思い出し、確認する為にタケルは三郎達の部屋へと足を向けた。


続く


 少し遠くに聞こえる喧騒。それを聞きながら、辰は車を止めた。喧騒は殺人事件を目撃した住民、観光客のものであり、現場の混乱を収拾しようとする警 察のものだった
「犬飼さん、気をつけて」
 頷くだけで応える犬飼を見送り、辰は周囲を警戒した。
 三郎の部下である木の葉天狗達、十二人はそれぞれ特化した能力を持っている。
 その中で辰は機械、器械に関してずば抜けた能力を持っていた。シリンダ錠であろうと最先端の電子ロックであろうと、人が作動させられる物であれば 解除できたし、車に限らずヘリコプターや戦車であろうと操縦できる才能を持っていた。
 しかし、力技は駄目だった。もちろん、一般人相手なら何ら問題はない。恐らく、名の通った格闘家でも何とか相手になる筈だった。
 それでも、戦闘というものに対して苦手だという意識は持っていた。生き物は、わからないのだ。
 武道には型というものがある。辰も護身術としてならった武道には型があった。他の武道、格闘術の基本となる型は学んだ。しかし、同僚である木の葉天 狗十一人に勝てた事は、そう無かった。
 反応速度で勝てる相手ならいいのだが、技の読み会いになると途端、辰は勝てなくなる。技の組み立て通りに対応していると、思いがけない技をかけられ 負けるのだ。人には機械のような整然とした流れが無い。
 だから、辰はヤマタノオロチという生き物が怖かった。

 エンジンを止めず、辰は待ち人の姿を探した。思い通りに動かせる手足となる車の中で。
 ちらと見える影にハンドルを握る手をこわばらせ、その影が庭で飼われている犬のものと知り、力を抜く。そんな事を何度か繰り返し、現れた影にドアを 開ける。乗り込んできたのは一人の男だった。
「お疲れ様です」
 現れた影にドアを開ける。乗り込んできたのは一人の男だった。
「ねぎらわれるような事はしてねぇさ。面目ねぇ」
 乱暴にシートにもたれかかった馬場は、それだけ言うと手で進んでくれと示した。
 その通りに辰は車を走らせた。殺人犯が姿を消した事で警察は大通りに検問を敷いている。とはいえ、絶対的な数が少ない為、慎重にルートを選べば問題は 無かった。
「馬場さん、血が出てますよ」
「血?別に戦闘になった訳じゃ。返り血か?」
「唇。噛んでます」
 殺されてた林もなみの血かと悔恨の表情を浮かべた馬場だったが、辰に言われ口に手をやった。
「馬場さんは悔しいとすぐ唇を噛む」
「ガキんころからの癖だ。よく見てんな」
「見てわかるものは安心します」
 その言葉が辰の自分というものを表す表現だとは気づかないまま、馬場は血をぬぐった。
「不甲斐ねぇな。蓮から情報ももらってたってのに、すぐ近くに現れるまで気づかなかった」
 馬場の吐き捨てるような言い方に辰はかける言葉がなかった。同僚である干支の中で馬場は戦闘に特化した木の葉天狗だった。戦闘面で三郎と岳人をサポ ートできる数少ない人材だった。
「馬場さんで駄目なら、他の誰でも駄目ですよ」
「頭と岳さんなら気づいただろ、もっと早く」
「それは」
 その通りだった。主である三郎、岳人と部下である木の葉天狗達の能力には、かなりの隔たりがある。
辰のような日々新しいものが生まれる分野なら習得に従事する時間があるかどうかで挽回も効くが、結局のところ人と人がぶつかりあう格闘においては 三郎達に勝てる木の葉天狗はいない。
 それほどに大天狗と木の葉天狗の間には生まれ付いての差がある。
「それによ。気づいてから逃げるまで、時間がかかったんだよ。怖くて体が強ばった。一歩が蹴りだせなかったんだ」
 馬場は太ももを拳で殴った。
「それで、あの子が殺されたのを見て『目標は俺じゃない』ってわかった途端、体が動いた。最低だ、殺されたくなくて動けなかったんだ」
 馬場は、また唇を噛む。ルームミラー越しにそれを見て辰はハンカチを差し出す。
「いいよ、汚れちまう」
 馬場は血を舐め取ると、車外に視線を動かした。家々の明かりは減り、根拠地としている旅館へと車は走った。


続く


「困りましたね」
 携帯電話のワンセグ映像を見ていた雪はため息をついた。避難所で殺された林もなみのニュースが流れ続けているからだ。
「面目ない」
「鳥井さん・・・」
 雪はルームミラーで鳥井を見る。護衛対象である林もなみについていたのは鳥井の同僚である馬場だった。三郎の部下である木の葉天狗、干支衆は互いを 兄弟のように思っている。鳥井にしてみれば馬場の失態は自分の落ち度と同じように感じられていた。
「馬場は強いが察知能力という点では他の者と変わりありません。それを考えれば私か犬飼の方が適任でした」
 しかし、居場所のわからないヤマタノオロチを探すには、目には見えぬ気を探せる鳥井や微少の残留物を見分ける犬飼の能力は必須だった。
「これから、どうしますか?」
 雪の問いに鳥井は考えた。単なる行動指針を問うたものではないと思ったからだ。
「これから・・・ですか。雪さん達を旅館へ送った後、もう一度箱根を回ってみようと思います」
「わかりました」
「三郎さんと岳人さんには報告をお願いします」
 自分より能力の高い索敵能力を持つ岳人の目が焼付けを起こしている以上、大人しく拠点となっている旅館に戻る訳にはいかない。それに馬場が起こした 失態のカバーをしたいと思っていた。

 三郎達の待機する旅館に到着した雪と花は鳥井を見送り、玄関へと向かった。
「えっと、お待ちして」
 車のエンジン音を聞き、なれない対応で出迎えたタケルは言葉を失った。客として現れた二人の女性があまりに美人だったからだ。
「え、あ、雪さんと花さんですか?」
「はい」
 たおやかといった風情の雪が答え、利発さを感じさせる花が頷いた。
「あの、一応、靴の裏を消毒してもらって。えーっと」
 猿田から美人だと聞いていた二人だったが、予想の上をいく容姿にタケルは緊張した。消毒液の入ったタライを示し、手順を踏んだ後、部屋へと案内した。
 雪と花の主である岳人もかなりの美形といえるが、そこに雪と花が加われば目立つだろうなと考えながらタケルは歩いた。
「やっぱり、雪姉ぇと花姉ぇだ。鳥さん、どうしたの?」
 部屋から顔を出した猿田が聞いてきた。
「もう一度、箱根を回るそうよ」
「鳥さん真面目だから」
「じゃあ、俺はここで」
 タケルは雪と花を部屋に案内すると、自室へ戻った。それを確認すると雪は今までの報告を始めた。正確な現状報告を終えた後、雪は一言付け足した。
「鳥井さん、少し無理をするかもしれません」
「馬場の件か」
「はい」
 三郎の答えに雪は頷いた。二人とも鳥井の性格をよく知っているからだ。生真面目な鳥井は仲間のフォローをする為に無理をする事が多い。今回の保護対 象を失った件は鳥井にとっては、かなりの重さを持っていた。
「鳥井君は無理もするけど、見極めはできる人だから心配しすぎる事はないと思う。もうすぐ俺の眼も元に戻りそうだ。そうすれば、一度出ようと思う」
 岳人の言葉に三郎は顔を向けた。
「悪いな、俺の木の葉達は未熟者そろいで」
「充分だろう。三郎の木の葉達が未熟なら、他の大天狗が従えている木の葉天狗は未熟者以前になる」
「えらく持ち上げるな」
「お前相手にお世辞を言う義理はないよ」
 岳人の評価に頭をかきながら、三郎は木の葉天狗達に言った。
「馬場達が戻ったら、調査方法、範囲を想定しなおす。岳人も褒めてくれてんだ、気合入れていけよ」
「はいっ」
 背筋の伸びた返事に場は活気を取り戻した。



続く


 自室に戻ったタケルは落ち着かない心持でベッドに寝転んだ。美しい木の葉天狗を見たという事もあるが、事件に関係する人物が次々と自分の前に現れ、 その面々の表情が明るいものではなかったからだ。
 ヤマタノオロチと呼ばれる有名な怪物がうごめいているという恐怖。確かに箱根には九頭竜という名の悪竜が封じられているという。それらが同一のもの ではないかと想定しての捜査。
 九頭竜は僧侶が封印した相手。それはそれで怖い。しかし、自分と同じ人間が封じる事もできた。しかし、今回その九頭竜と同一のものではないかと思わ れているヤマタノオロチを退治したのは神だった。
 しかも、強さの余り、正面きっての戦いではなく、酒で酔わせた後に退治するという策を使わざるを得ない相手だった。
 そんな相手が自分の暮らす街に存在しているかと思うと、そわそわと落ち着かず何度もベッドの上で寝返りをうつ。
 客室にいる天狗達も捜査の為の打ち合わせをし、街に散っている者は命の危険をおかして情報収集しているのだろう。
(ヤマタノオロチって何をしたいんだろう)
 タケルは天井を見上げながら、考えた。供物を捧げる儀式で決まりが守られなかった。それが怒りを買い、疫病をふりまく理由になったのか。
 何かが違う気がした。それはあくまで九頭竜の封印がとかれる理由であって、ヤマタノオロチとは関係無いように思えた。
(ヤマタノオロチってスサノオに退治されて・・・、えーっと)
 退治された理由は土地を荒らし、娘を生け贄として奪っていったのだとタケルは憶えていた。それは確かに九頭竜と似ているが。
(生け贄にされた女の子達って、どうなったんだろ。食べられたのかな)
 神とはいえ、その姿は竜や蛇であったから生け贄は食べる為だと思い込んでいた。しかし、今晩殺された林もなみは無残に殺されただけだった。
(食べなくていいのかな。人が多かったから?)
 そう考えてタケルは首を振った。ニュースの映像を見たが、人が多いからといって焦っている様子はなかった。何度唸っても答えは出なかった。
 その時、わずかなざわめきがタケルの耳に届いた。
「なんだ?」
 今、居る客は事件を捜査する三郎達だけ。なら、そのざわめきは何か危険なものを表している筈だった。
 タケルはベッドから飛び起きると、客室へと小走りで駆けつけた。
「何か、あったの?」
 廊下に出ていた蓮に声をかけ、タケルは状況を聞いた。
「あの、その・・・」
 歯切れの悪い蓮にタケルは緊張した。ちら、と部屋を見れば、木の葉天狗である猿田も力量ある三郎達も周囲を警戒する態勢をとっている。
「タケル君」
「あ、はい」
 部屋の窓から外を見ていた岳人に名を呼ばれ、タケルは振り向いた。
「危険が近づいているかもしれない」
「それって」
「旅館の敷地内にオロチが出た」
 目を見開き、歯を食いしばる。
「目の焼きつきが治ってみれば、この始末だ。向こうが、その気なら当の昔に全滅させられていた」
「すまないな」
 岳人の説明に続き、三郎が頭を下げる。頼りにしていた者達が見抜けなかった事態。
「それって、あっちですか?」
 タケルが指差したのは庭と山肌。夕食を終えた後で何かの視線を感じた場所。まさかとは思ったが、確認を取らなければ落ち着かなかった。
 その場に居た全員の顔色が変わる。
「見たのか?」
「見たっていうか。何か居たような気がして・・・。窓を開けてみたけど、何も居なかったし。仲間の人かなと思って」
 タケルの返答に三郎が眉を寄せる。
「何者だ、タケル君は?」
「へ?俺?何者って言われても」
 突然、自分の存在を問われタケルは戸惑った。
「三郎、聞き方が悪い」
 助け舟を出したのは岳人だった。
「こういった特殊な存在を探査する能力を持つ者がいるのは知っているね?」
「はい。えっと、犬飼さんなんかですよね」
「そうだね。僕も、そういった力を持っている。今、ここに居るメンバーの中では一番の能力を持っているけど、それを差し引いても、皆、それなりには探 知できるんだよ」
「はぁ」
 タケルは気の抜けた返事をした。その返事に苛々したのか、猿田が言った。
「わかんねぇ奴だな。修行してきた俺達がわかんなかったのに、なんで一般人のお前が気づいたかって話だ。まぁ、俺達みたいな木の葉天狗はいいとしてだ な。大天狗である三郎さんより先に気づいたかって事なんだよ」
「そう言われても。ほんとに何か居るかもって思っただけだし」
 皆の視線を受けて、タケルは身をちぢこめた。
「そんなに恐れ入らなくてもいいんだよ。普通に暮らしていても、そういった方面で力を発揮する人はいるからね。今は君の能力の出自は問わないでいいだ ろう。聞きたい事は、殺気などを感じなかったかという事だ」
「殺気ですか?」
 岳人の青い目がタケルを見ていた。その目で見通せないものを感じた自分自身が不思議だった。
「感じなかったと思います。昼間に中井の兄ちゃんの所で感じたのが殺気だとしたら、今回は全然です。感じなかったから、皆の仲間かなって思った訳だし」  タケルの説明に皆は納得の表情を見せた。
「なら、ここには何をしに来たんだ?偶然か?」
 三郎の自問に岳人は首を振った。
「偶然ではないだろう。仮に偶然だとして、俺達がいるのに何もしないというのは合点がいかない。気づかれていないのだから、不意打ちのチャンスだっ たに違いんだし」
「そうだよな。木の葉達だけだったのなら、歯牙にかけなかったって事もありうるだろうけど・・・」
 数時間前に三郎達はヤマタノオロチと思われる存在を倒した。もっとも、その後に同じ姿をしたものが公衆の面前で殺人を犯しているのだが。
 倒した筈のヤマタノオロチが復活したとして、復讐の機会があったにも関わらず何もせずに立ち去るとは考えにくかった。
「何を考えているかはわからないが、運が良かったと考えるしかないな。場合によっては明日以降は宿を変える事も検討するが、今晩は予定を変更せず宿泊 させてほしい」
 頭を下げる岳人と三郎にあわて、タケルは手を振った。
「いや、そんな頭下げるなんて。もう、箱根は大変だし、居てもらった方がかえって安全かもしれないし」
「助かるよ。これからは僕が見張りに立つから事前に接近を察知できると思う。木の葉達も見回りに出すから、何かあったら避難できるよう手配するよ」
「ありがとうございます」
 タケルは礼を言い、窓の外を見た。優れた察知能力を誇る岳人が反応していないというのに、広がる闇に誰かが居るような気がしてならなかった。


続く


 ヤマタノオロチが自分の家の敷地に現れた。その事実はタケルを驚かせるには充分なものだった。ましてや、能力者である天狗達が気づく前に自分が気づ いたという事もタケルを落ち着かなくさせていた。
 今は優れた探査、察知能力を持つ者が本来の力を取り戻したから、タケルの力が必要だといった事態ではない。
(でも、なぁ)
 部屋に戻ったタケルはベッドに寝転がる事もできず、床に座り込み体を丸めた。ヤマタノオロチに見つからないようにしているようだった。
 明かりも落とし、薄暗い部屋で膝をかかえる。目を閉じて神経を集中する。気配と呼ばれるものを感じられるかと四方に意識を向けてみたが、耳に届く 音にしか反応できなかった。
(やっぱり気のせいかな)
 しかし、岳人に指摘された方向に視線を向けてみたが何も感じなかった。
 ゆっくりと立ち上がり、窓に近づく。ガラス越しに見えるのは、やはり夜闇だけだった。
(何しに来たんだろ)
 そして、ふと恐怖に襲われた。
(あれ?伝染病は?)
 話にきいた限りではヤマタノオロチが振りまく災厄の一つに疫病があり、それは現在も箱根を取り巻いている。中心地は住民、観光客を問わず疫病にか かっていた。
(避難所になってる所は大丈夫だけど、オロチが現れた所って伝染病起こるんじゃなかったっけ)
 三郎達に聞いた情報とは異なる事実。
(じゃあ、やっぱり違うのかな)
 ガラスに映る自分の顔を見ながら、タケルは首をひねった。
「でも、うーん」
 オロチと思われる存在と遭遇している岳人達が同じものだと断言していた。なら、それは疫病を撒き散らすモノの筈だった。
 闇が動いた。びくっと体を震わせたタケルだったが、その影が蓮と岳人である事に気づいた。
「調べてるのか」
 息を吐き、緊張を解いた。
タケルは裏口から出ると、2人に声をかけた。
「何かわかりましたか?」
 タケルの接近に気づいていた岳人が振り向いた。
「やはり、ここに来ていたのは間違いないね。あ、あまり近寄らないほうがいい」
 そう言われ、タケルは立ち止まった。何事かと辺りを見回す。
「暗いからわかりにくいと思うけど、瘴気が残っているからね」
 足元を見ると雑草が色を変えて枯れていた。二、三歩下がった後、タケルは訊いた。
「あの、伝染病って、この辺りは大丈夫ですか?」
「大丈夫みたいだね。不思議な事に」
「どうして、でしょう」
 辺りを見回しながら、タケルは言った。昼間に遭遇し、また自宅に現れた神怪。何が目的なのか。
「わからない、というのが今のところかな。疫病を回避するには生け贄を用意しなくちゃいけない。この辺りで少女が姿を消していたなら、その結果だろう けどね。今、情報を集めているよ」
 タケルは今日一日で起こった事を思い出し、ため息をついた。
「なんか・・・、疲れました」
 今まで平凡に暮らし、その平凡を嘆いていたタケルは後悔していた。うっすらと分かっていた平凡のありがたさを、はっきりと認識していた。
「非日常的な事ばかりだからね。不謹慎な話だけど、バイオテロだと聞かされている方がストレスとしては少ないかもしれない」
 暗い林の中、視線を飛ばし周囲を見渡す岳人はタケルに言った。
「あの、でも、皆はこういうのが普通なんですよね?」
「まあね」
「つらくないですか?」
「こういった暮らしが普通だと思うように育ったからね。大変だとは思うし、一般的な暮らしに憧れる事もあるけれど逃げ出す訳にもいかないよ。できる 人間の限られた仕事だから」
 そう言い切った岳人から目をそらし、タケルは蓮にも訊いた。
「蓮は?」
「僕、普通に小学校に通ってるんです」
 地面から草や土を採取していた蓮は顔を上げた。
「本当は木の葉天狗に選ばれた子供って親元から離されるんです、天狗隠しっていうのですね。それで世間とは離れて修行するんです。でも、三郎さんは 学校に行って、たくさん友達を作れ、たくさん遊べって言ってくれました。幸せでない奴が誰かを幸せにするのは難しいからって」
 満面の笑みで答える蓮は元気良く言った。
「今、学校休んでるんだよな?」
「はい。仕事の時は学校は休んでます。でも、クラスの皆は僕が休んでる間、ノートとってくれたり、何があったか話してくれたりするんです。大好きで すっ」
 そして、はにかみながら蓮は言った。
「だから、楽しい事をたくさんしろって言ってくれた三郎さんも大好きです」
 自分ががんばる理由はそこにあると、蓮の笑顔は言っていた。
「家族と離れてるのか?」
「はい。でも、三郎さんはきちんと両親に木の葉天狗に選んだ理由を話してくれたし、了解もとってくれたし、今も連絡とってます」
 タケルは面倒見の良い親分肌を思わせる三郎の顔を思い出していた。
「こういうやり方は俺達世代が初めてでね。最初は古老方に叱責されてたんだよ。でも、三郎は噛み付くは京都の大天狗が後押しするはで古老方も折れてね」
 岳人は苦笑し、林の一点を見つめた。
「さて、方向も大体わかった。俺は跡を追う。蓮は分析を頼む」
「はい」
「三郎達が残るから心配はいらないと思うけど、タケル君も注意はしておいてほしい」
「わかりました」
 じわじわと闇が迫るように感じ、タケルは背筋を伸ばした。
 すっと、一歩を踏み出した岳人は林の中を葉擦れの音一つさせずに姿を消した。
「じゃあ、僕達は戻りましょう」
「ああ」
 タケルは自信に満ちた蓮達をうらやましく思いながら、歩き出した。



続く


 暗闇の中、確かな足取りで歩く影があった。細身の青年だった。明かりが月光だけというような場所でも迷う様子は無かった。
「複数の気が・・・」
 その声は緊張し、進むか留まるか決めかねているようだった。
 山道の先に青年の目指す場所はあった。
(連絡をとるか?)
 ポケットに入った携帯電話に触れながら、鳥井は考えた。
ようやく捜し求めるヤマタノオロチの所在を突き止めたのだ。逃がす訳にはいかなかった。自分一人で何とかできる相手だとは思っていなかった。しかし、 連絡をとり合流を待っていては移動される可能性があった。
数時間前に一人の女がヤマタノオロチに殺された。仲間である木の葉天狗の目の前での事だった。偶発的なものではなかった。ある程度の予測はあったか ら、それは鳥井達の責任でもあったのだ。
目に見えないものを視る力を持つ鳥井は自分がヤマタノオロチの居場所を特定できていれば、この事件は起きなかったと思っている。
それだけに現在の状況には強いプレッシャーを感じている。
一歩、無意識に足が進んだ。
 月明かりの下、鳥井は息を潜め神経を集中した。虫の声がやけに響き、足元の小石が転がる音が耳に付いた。緊張をやわらげる為、小さくつばを飲み下す。
 その時、声がかかった。
『ぬるいな』
 鳥井は声の方向を見る。何も居なかった筈の場所に影があった。
 地面を蹴り、脱兎のごとく走る。声から逃げる判断は正しかった。背中に感じるのは突き刺すような悪意。
(気づかれていた)
 鳥井は飛ぶように走ったが気配から距離を取れているとは思えなかった。それどころか、少しずつ距離が縮まっているのがわかった。
 流れる風の中、近づく空気があった。見えないモノを視る鳥井には背後から迫る悪意が鉤爪を形作り、広がっていた。
 遮蔽物を利用しようと林へと視線を向けた鳥井に絶望が見えた。
 もう一つの悪意がゆっくりと近づいていたのだ。
(無理か)
 今まで多くの怪異と相対した鳥井は彼我の差を感じ取っていた。
(場所だけでも)
 閃光と爆音を響かせる小型グレネードを取り出し、放とうとした。しかし、ピンを抜く手は止められ、グレネードはもぎとられた。
 湿った冷たさを手首に感じ、観念した鳥井の視界に閃光が広がった。
 冷たい恐怖がわずかにゆるんだのに気づき、鳥井は振り払った。
「鳥井さんっ」
 小さな、しかし切迫した声を聞きとめ、鳥井は跳んだ。着地すると、鳥井は腕を引かれた。突然の閃光に目をしばたかせていると、そこには犬飼の姿が あった。
「できるだけ遠くに逃げます」
 犬飼に腕をひかれ走る鳥井は恐怖と緊張で呼吸が乱れていた。力が抜けそうになる足を叱りつけ、犬飼の背中を追い続けた。
 その背中が急に迫ったかと思うと、突然抱え上げられた。一瞬、とまどったが理由はすぐにわかった。
 逃げる先にたたずんでいた気。それは遠ざかろうとしてるものと同じ気だった。戦うには大きすぎるそれを回避する為、犬飼は鳥井を肩にかかえると大き く跳躍した。
 木々の枝を擦り折り、影の頭上を越えると犬飼は逃走を続けた。
「もう大丈夫だよ」
 鳥井の声に犬飼は止まった。犬飼の肩から降りると、鳥井は周囲を確認した。
「さっきの場所から、そう動いていないみたいだ」
 そして、訊いた。
「どうして、あそこに?」
「追っていたので」
「避難所に出たモノかい?」
「林の中に居た影です」
「跳んだ時に居た影は?」
「把握してません」
 短く答える犬飼の息はあがったままだった。鳥井より体格が良く、運動能力が高いとはいえ成人男性一人を抱えて走り続けるのは無理があった。
「迷惑をかけたね」
「いえ」
 それだけ答えると犬飼は道路へ向かう方向へ足を向けた。
「辰が居ます」
 林に差し込む月明かりを頼りに歩く犬飼は続いて歩く鳥井に呟いた。
「あまり無理しないで下さい」
 草を踏む音に消えそうな声に鳥井は顔を上げた。
「しかし、急がないと一般の人達に危険が」
 勢い込む鳥井に犬飼は振り返った。
「鳥井さんが傷つくのも嫌です」
 殺された被害者に対して責任を感じていた鳥井は犬飼の心配に抵抗しようとした。しかし、必要外の言葉を口にしない犬飼の心配を退ける事はできな かった。
「・・・わかった。少し焦っていたようだよ」
「富士さんの眼も戻りました」
「なら大丈夫だね」
「俺もいます」
「そうだね」
「チルも蓮もいます」
「大丈夫。・・・もう大丈夫だよ」
「はい」
 苦笑する鳥井に返事をすると、犬飼は再び歩き出した。
 背後に点在する大きな気は揺らいだまま、二人を見逃すと決めたようだった。


続く


 暑いと言われる京都の夏に新田が降り立った。それでも異常と言われる今年の関東に比べれば涼しい位だった。
「お、火野。ひさしぶり、元気だった?」
 出迎えたのは新田が会おうとしている天狗の部下だった。
「はい。新田様もお元気そうで」
 薄紺の留袖を着た三十半ばの女は静かに頭を下げた。
「あちら様との連絡はついております。主は先に向かっておりますので、車でお送りいたします」
「じゃあ、お願いするよ」
 火野の案内で向かった駐車場には一台の黒塗りが止まっていた。エアコンのきいた車は二人が乗ると静かに走り出した。
「今回、新田様からのお話は主の薬師だけではなく、鞍馬様、愛宕様にも伝わっております」
「ありゃ、御大まで知ってんの。何か言ってた?」
「はい。新田様のご見識、間違いないと」
「やだねぇ、気のせいだって言ってほしかったよ」
 新田の軽口に火野は笑って見せた。
「主は新田様のおっしゃった骨董店で交渉に入っております。しかし、物が物なだけに」
「まあ、簡単にはいかないよね。値段は?」
「それが値段は口に出してないのです」
「て、事は爺さんか、交渉相手」
「ご存知なのですか?」
「まあ、あそこは色々置いてるから何度か行ってるんだ。あー、面倒だな〜。孫の方なら話通じるのに」
 新田は困ったように頭をかき、ぶつぶつとぼやいた。
 今回、新田が入手しようとしているのは古代神話でヤマタノオロチを退治した時に使われたという十握剣だった。
 しかし、十握剣と呼ばれる剣は意外と数が多い。神話を当たれば両の手の指で足りないと言われる。名の通ったものだけでも天羽羽斬とも天蝿研剣、 伊都之尾羽張、天之尾羽張等々。
 その上、長いというだけで十握剣と呼ぶ事を許される事もある。だが、そのどれもが寺宝、社宝である為、簡単に持ち出す事はできない。
 そこで新田は水面下で伝えられる逸話に注目した。岡山のとある神社に祭られていた十握剣が時の天皇により、京都に運ばれた。だが、その十握剣は 幾多の人物の手に渡り、大阪の神社に奉納される事となった。
 しかし、幕末に盗まれ、古物商に持ち込まれたという。
「大体ね、不審者が神社の神宝を持ち込んだのをあっさり買ったり、どかーんと店頭に並べてみたり、あの店ってセンスがおかしいんだよ」
「大丈夫でしょうか?」
「ん〜、どうかな。駄目な時は駄目だし、大丈夫な時は驚くほど簡単だし」
 ちらっと新田は脇に置いた鞄に目をやると、眉を寄せた。
「これで何とかなればいいんだけどな」
 新田の悩みを他所に大阪に入った車は静かに止まった。そこには一軒の小さな骨董店だった。逸話は作り事ではなかったようだった。
「相変わらず古いなぁ、店が骨董だよ。あーあー、品物野ざらしじゃないか」
 新田と火野はきしむ木製の引き戸を開けると、湿った店内へと足を踏み入れた。薄暗い店内に並ぶのは骨董と呼ぶより、古道具やガラクタと言った方が 似合う物だった。
「こんにちは」
 新田の声に顔を出したのは年若い青年だった。
「こんにちは。すんません、祖父がご迷惑をかけて」
 その第一声に新田は苦笑し、手を振った。
「いやいや、いつもの事だから。じゃ、巴も苦労してるんだ」
 青年に案内され通された座敷に老人と黒髪の美人が向かい合って座っていた。
「どうも、お世話になります」
「おう、坊主か」
「新田君」
 骨董店の主と友人に声をかけられ、新田は頭を下げた。
「難航してるみたいだね」
 勧められた席に腰を下ろすと新田は薬師に訊いた。
「そうなんよ。こちら、なかなか首を縦に振ってくれはらへんのよ」
「薬師が出した条件じゃ駄目ですか」
 短くなった煙草を大きく吸うと老人は言葉と共に煙を吐いた。
「うちの看板やから売れんな」
「まあ、まさに看板ですね。野ざらしで売りに出されてた事もある訳ですし。でも、楯原さんとこに売ったんじゃなかったですかね、剣は」
 十握剣を盗まれた神社の名前を出した。その神社の関係者が十握剣を見つけ、買い戻したのだ。
新田に言われ、老人は鼻を鳴らす。
「違う。神主が確認に来たんで、『これで、よろしいか』て聞いたら、『間違いない』言うたから売ったんや」
 老人は腕を組んで答える。
「報じてた神社の神主が神宝を誤認する、か。まあ、そこはいいでしょ」
 新田はポケットから煙草を出すと、火をつけた。
「でも、あちらは盗まれた神宝を買い戻しに来た訳だ。なのに、別物を提示するのは詐欺じゃないですかね。盗人が持ち込んだ品を売らなきゃいけない。 つまり、これだ」
 三人の間に置かれた一つの直刀。紫色の布に包まれ古ぼけた箱から顔をのぞかせていた。
「十握剣、これはただの骨董品じゃない。訴えれば勝てますよ」
 新田の言葉に老人は顔色を変える事はなかった。
「ただの骨董品やない。そやから、物の本質のわからん奴には売れん」
「わかってますよ。それに買いに来た訳じゃない」
 新田は鞄から一つの包みを置いた。
「これを質草に貸してもらえませんか。無事、事件が解決したらお礼もします」
「礼、なぁ。まあ、見せてもらおか」
 老人は包みを手に取り、広げた。
「天狗の葉うちわか。今まで渋ってたやないか」
「それだけ大変だって事です」
「まあ、担保程度になら、これでええわな。で、礼ってのは何や。十握剣がのうなっても大丈夫な位の代物でないとな」
 老人が目を光らせる。欲ずくでの言葉ではない。部屋に飾られている品がそれを物語っている。単なる好事家なら鼻にもかけない古道具。しかし、知る 者が見れば億が兆でも支払って欲しい物ばかりだった。
「十握剣が無くては手に入らない剣でどうでしょう?」
 口の端を持ち上げる笑みで新田は訊いた。一瞬の沈黙の後、老人は大声で笑った。
「ほお、そらええな。おもろいやないか、礼には充分すぎる位や」
 二人の会話を黙って聞いていた巴が小声で言った。
「それて草薙の剣の事やないの?ヤマタノオロチを退治したら、尾から出てきたていう」
 三種の神器の一つ、草薙の剣。それは天皇家の宝であり、新田一人の思惑でどうこうできる物ではなかった。
「大丈夫でしょ。また買い戻してもらえばいいじゃない」
「新田君たら」
 巴はあきれたように言うと、同意するように笑った。
「どちらにしろ、この剣がなければ取り戻す事もでけへんし、しょうがないんかなぁ」
「じゃあ、借りていきますよ」
 神気を噴出す十握剣を箱に納めると新田は巴と共に立ち上がった。その新田に偏屈な骨董店店主は大きな袋を渡した。
「これ、持ってき」
「何ですか?」
 受け取った新田が開けた袋には煤けた蓑が入っていた。
「お前の先代が持ってきた天狗の隠れ蓑や。役に立つやろ」
「すみません」
「この件が解決せんかったら、礼をもらいそこねるからな」
 老獪な笑みを浮かべ、煙草を吸いきった。神宝、呪宝を扱って命を落とさないだけのものを、この老人は持っていた。
「坊主は大事なお得意さんや。長生きしてもらわんと困る」
「ご期待に沿えるように、がんばりますよ」
 新田は笑い、老人は新しい煙草をくわえた。
「さあて、急いで届けてやらないとね」
 骨董店を出た新田は巴達と共に車に乗り込んだ。


続く


 夜が明け、うとうとするのがやっとの睡眠からタケルは目を覚ました。疫病が広がり、恐ろしい神怪がうろつく闇に怯えていたからだった。
(大丈夫かな)
 タケルは客室の方をうかがう。昨晩、部屋の明かりが消える事はなかった。日付が変わる頃、車が戻り少しざわめきが起こった。そして、再び静かではあ るが熱心なやりとりが続いているのがわかった。
 事の次第を知るタケルではあったが、何かを手伝えるとは思えず自室にこもっていた。
「五時か」
 いつもなら、まだ寝ている時間だったが、じっとしているのも息がつまるとタケルは調理場へと向かった。
「手伝おうか」
「あら、珍しい」
 すでに朝食の用意を始めていた姉、栞は振り向いて笑った。
「客に出すんだ、手を抜くなよ」
 包丁を握る父がタケルに釘をさす。小さな旅館ではあったが誇りをもって営業している父は、いつも厳しかった。子供であるからという言い訳を許さな かったので、タケルは何かを始めるから尻込みして旅館の仕事を手伝わなかったのだ。
「わかってるよ」
 いつもなら拗ねて引き下がるところだったが、今回は踏みとどまった。料理を出す相手の事を知っているからだった。客というよりは友人、そして尊敬で きる相手だったからだ。
 父親は少し意外そうな顔をした後、配膳する料理を指示していった。
「朝食は部屋がいいかしら、それとも広間の方がいいからしら」
 通常は広間に用意されるが、観光客ではない事がわかっているので気を利かせたのだ。
「じゃあ、聞いてくるよ」
「お願いね」
 タケルはエプロンをはずすと客室へと向かった。部屋からは話し声とテレビの音が聞こえ、起きているのがわかった。
「おはようございます」
 タケルの足音に気づいた雪が顔を出した。
「は、はい」
 昨日見たスーツ姿ではなく、動きやすいカジュアルな服に着替えていたが、それでも美しさは相変わらずで間近に見たタケルは返事をするのがやっと だった。
「何か、御用ですか?」
「あの朝食なんですけど、広間と部屋どっちにしましょう」
「よかったら、部屋にしてくれ」
 雪の後ろから声が聞こえた。座卓に並べられた書類から視線を外した三郎が答えた。うっすら髭が伸び、元々のワイルドさに拍車がかかっていた。
「わかりました」
 タケルは戻りかけてから立ち止まり、おずおずと聞いた。
「何か、わかりましたか?」
「いくらかね」
 手招きされ、部屋に入ると地図が示された。
「現在、鳥井の報告を元に岳人が調査に出ている。オロチと思われる存在は八体確認されている」
「大丈夫・・・ですか?」
「まとまって来られると問題だけど、一体ずつなら俺と岳人で何とかなるだろう。後は、どっちが先に動くかなんだが」
 三郎は言葉を切った。
「俺達はオロチ達の居場所を察知できる。しかし、向こうがどうなのか不明なんだ。鳥井と犬飼が遭遇し、接近が知られていた事がわかった。だが、それは 視覚なのか、聴覚なのか、それ以外なのかが、な」
「そうですか」
 頼りにしている三郎に確定的な答えが無いことにタケルは不安を感じた。
「情報は上に報告しているから、今日はもう少し援軍も来るさ」
「援軍ですか?」
「さすがに自衛隊の戦車という訳にはいかないけど、相手が相手だから」
 援軍と聞き、タケルは肩の力を抜いた。
 それを見て短く笑った三郎にタケルは聞いた。
「えと、何か?」
「いや、わかりやすいと思って。こんな仕事をしてると海千山千の猛者を相手にするからな。タケルみたいにわかりやすい人間を見ると安心する」
 わかりやすいと言われて、普段なら文句の一つも言うところだったが安心すると続けられたからか怒る気は起こらなかった。
「そんなもんですか」
「そんなもんだな。時々、自分ができる事は他人もできる。そんな風に考えてしまって、他人にも戦う事を強要しそうになる。でも、戦わないんじゃなくて 戦えないんだという事を肝に銘じてかないといけない」
 少し間をおき、三郎は言った。
「だから、こんな風に俺達とは違う暮らしをしている人達と触れ合った方がいい」
 真正面から言われ、タケルは戸惑った。そして、思い出したように立ち上がった。
「そ、そろそろ朝食持ってきます」
「ああ、頼む」
 何もできない事が大切な場合もあるのだと、タケルはこそばゆい思いをしながら調理場へと向かった。  朝霧がかかる森の中、目を凝らしても存在を確認できない影があった。いくつもある影は、苛立ちに似た空気を生み出している。
 言葉は無い。しかし、揺れる空気はぶつかり合う毎に熱気を生み出し、陽炎がたっていた。
 その陽炎がぶつかりあい、うねる大蛇を一瞬映した時、地鳴りのような声がした。
『何故、戻らな』
『あれが、そういう』
『一つ、消されたと』
『天狗ごときに』
 ぼっ、と火が浮かび、近くの木の葉が燃える。
『もう捨て置け』
『坊主が出て』
 その陽炎に、ゆらゆらと答える影があった。
『あのような坊主は、もうおるまい』
 どす黒い陽炎だった。
『あの頃、すでに法力の強い坊主は少なかった』
『今は、おらぬと』
 数ある陽炎が視線を送る。
『おれば、とうの昔に来ておるさ』
 ゆらゆらと話す陽炎は過去を吐き出した。その過去に、その場の陽炎全てがゆらめく。
 沈黙の中、遠くで鳥が鳴いた。
 その声が消えた後、陽炎の一つが揺れた。そして、続いた。
『ならば、もう』
『様子見は』
 熱さを感じさせる声は、ちりちりと木の葉を焦がしながら広がって行った。しかし、2つの影が残った。
『行かぬのか』
『何故』
『待っておるか』
 窺う声に、残った陽炎が揺れる。
『一人減れば、力も増える』
『道理。が、足元をすくわれぬようにな』
 残った陽炎も下草を枯らしながら、離れて行った。
 山肌を離れた太陽は空気を熱しながら昇り始めた。
 その日、箱根は騒然となった。
蔓延していた伝染病がコレラとわかり、何とか治療も進み始めた。
 現場は目の回るような忙しさであり、住民にも不安はあったが理由がわかった事で落ち着きを取り戻しつつあったところに入った報せだった。
 その報せは箱根の方々で火事が起こったというものだった。
 今年は自然発火と思われる火事が、あちらこちらで起こっていた。しかし、それも小火で終わっていた。だが、今回の火事は小火で終わらなかった。
 突然の複数の火事に放火かと憶測がとんだ。
 消防車がサイレンを響かせ走り回る。元々日照り気味だった今年の夏は防火用水も少なく消火に手間取っていた。
 伝染病を広めないようにと封鎖されていた箱根だが、山火事で人死にを出す訳にもいかず、封鎖を解除。避難指示を出す事になった。
「まったく突然何してくれんだ」
 連絡を受けた三郎は愚痴をこぼした。油断していた訳ではないが、いきなりの攻勢に部下の木の葉天狗に指示を出していた。
 その時、携帯電話が鳴った。偵察に出ていた岳人からの連絡だった。
「なんだ?」
『今から確認できた位置を報せる』
「オロチの居場所か?」
『ああ。一箇所に集まっていたのが別れた。各個撃破なら・・・』
「どうした?」
 電話の向こうにいる岳人の気配に躊躇が見られる。
「気になる事があるのか?」
『俺達が倒した時より、力が強くなっている気がするんだ』
「どういう事だ」
『俺達が遭遇したオロチは2人で倒せたな』
「ああ」
『向こうが油断していたという事もあるだろうが、倒せた。だが、今行動を起こしているオロチは』
「勝てない?」
『いや、策を使えばいけるだろう。勝てるだろう・・・』
 やはり口ごもる。
「なら、やるしかないだろ。それから考えろ。強くなったのが時間経過か、他に要因か。どっちにしろ向こうは待っちゃくれないだろ?」
『そうだな、すまない。データを送る』
 岳人はそう言った後、オロチの現在地を送信した。三郎はその場所を確認すると木の葉天狗達に指示した。
「居場所の確認、追跡だけでいい。仕掛けてきそうなら逃げろ。いいな」
 各自チームを組み、姿を消す。残った岳人配下の木の葉天狗が指示をあおいだ。
「三郎様、私達はどういたしましょう?」
「そうだな。ここに残って司令塔になってくれ」
「はい」
「に、しても」
 三郎は岳人が送ってきたデータを見て、首をひねる。
「七つ、か。俺達が一つ倒した。なら、残り八つじゃないのか?岳人が見逃すとは思えない」
 しかし、それもわずかな時間だった。
「まずは岳人と合流しないとな。干支達に退治は無理だろうからな」
 消防車のサイレンが鳴り響く中、三郎は宿を飛び出した。



続く


 箱根各地で起こった火災。夏の乾燥と暑さが起こした自然発火とされていたが、本当の理由を知っている者は大人しく鎮火を待っていられなかった。
「大丈夫かな」
 自宅が避難地域に指定されていないタケルはテレビから流れる情報を見ながら、そわそわと窓の外を気にした。山の向こうには幾筋かの煙が立ち上り、 音なのか声なのか例えようのない響きが聞こえていた。
(三郎さん達ががんばってくれてるんだし)
 山を焼き尽くそうとしている火災を起こしている存在を追っている三郎達。彼らが追う存在が巨大である事は知っていたが、三郎達の実力と努力する姿も 知っていた。
(避難指示出るまで手伝いでもするか)
 タケルは家業である旅館仕事の手伝いをする為に立ち上がった。常に山林火災の情報が聞けるようにラジオを探した。しかし、いざ探すとなると見つから なかった。
「そういや、ラジオってあんまり使わないな」
 何か知りたい情報を探す時はテレビをつけるか、携帯電話でネット検索をする事が多くラジオをつける事は少なかった。
 部屋のコンポは持ち歩けるタイプではなかったので、携帯ラジオがあるかを姉の栞に聞こうと姿を探した。
「調理場か、洗濯か」
 いつもの時間なら居るだろう場所を探しに足を向けた時、話し声が聞こえた。一人は栞のもの。もう一人は男のものだった。
 避難指示を伝える人間でも来ているのかと話に耳をそばたてたが、そういう内容ではなかった。
「ええ、小さいけど結構、続いているんですよ」
 タケルの実家である旅館は四代にわたって営まれている。
「避難した方がいいんでしょうけど、お客様もいらっしゃるし」
 栞の心配そうな、しかし客をもてなす気概を感じさせる声に男が応えていた。
「この辺りは大丈夫なんですか。じゃあ、安心ですね」
 何か違和感を覚える会話。消防署員や役所の人間とするには、どこかのんびりとしていた。しかし、宿泊を希望の客とする会話とも、どこか違う。
 三郎達の言っていた増援かとも思ったが、それならこんなにのんびりと会話しているとは思えない。
 タケルは和やかに話す二人に、そっと近づいた。
 柱の陰から見えるのは動きやすい服を着ている栞。そして、もう一人はよく見えない。思えば、どこか声も聞き取りにくかった。
 もどかしさを感じながらも、盗み聞きしているという後ろめたさでタケルの足は、なかなか前に進まなかった。
 一歩進もうとした時、背後から声がかかった。
「何をしてるんだ?」
 タケルは飛び上がらんばかりに驚いたが、その声が父親のものである事に気づき振り返った。
「あ、いや、ラジオ探してたんだけど、姉ちゃんが話中だったから」
 まんざら嘘でもない言い訳をする。
「ラジオ?」
「ラジオだったら仕事しながらでもニュース聞けるし」
「手伝いするってのか」
 今までのタケルなら言い出さない話に父親は意外そうな顔で答えた。
「・・・他にする事ないし」
 折角のやる気に水をさされた気になり、タケルはぶっきらぼうに答えた。確かに今までなら、家を抜け出し遊びに行ったり、部屋でごろごろしているのが 常だった。
そして、今回家業を手伝おうと思ったのも家族を思ってというよりは、三郎達にもっと認めてほしいからという気持ちの方が強かった。そういう引け目も 有り、タケルはけんか腰になる事もなく、軽くうつむくだけだった。
「ラジオなら釣りに行く時に使うのがあるぞ」
 父親はタケルの頭をぱんと叩くとラジオの在り処へと歩き出した。
 タケルの父親は客に出す料理に使う鮎やヤマメなどを自分で釣ってくる。その時に持ち歩くラジオを貸そうと言っていた。
 そして、その釣り道具一式を置いてあるのが、栞達のいる洗濯場脇の物置だった。
(姉ちゃんと話してたの、誰だろう)
 父親に続き、勝手口から出ると、そこには栞がいるだけだった。
「あれ・・・?姉ちゃん、一人?」
 栞が答えた。
「一人よ?」
「さっき、誰かと話してなかった?」
「ああ。話してたわよ。調査に来てたって人」
「調査?」
「うん」
「そう」
 タケルは周囲を見回し、違和感を与えた影を探した。
 調査に来ていたという男。その姿はどこにもなく、洗濯機の脇に栞がただ一人居るだけだった。
「調査・・・って、何を調査してんの?」
「火事とか伝染病らしいわ。この辺りは少し町から離れてるでしょ?だから、あんまり心配する事ないって」
 調査員を名乗る男から聞いたからか栞の顔色は悪くなかった。
「どこの人?市役所とか保健所の人?」
「そういえば、どこの人って話はしなかったわね。大丈夫ですか、って聞いてきたから、そういう仕事の人かと思ったけど」
「どんな服、着てた?」
「どんな服って。どうしたの、いやに食いつくわね」
 そう言われ、タケルは言葉を飲み込む。
何度もヤマタノオロチが訪れるとは思いたくない。それに、客室にいる天狗達が何の反応も起こしていない。なら、単に思い過ごしかと視線を栞からは ずす。
 その時、来訪者が何者かわかった。
「草」
「え、何?草がどうしたの」
 足元に落とした視界に枯れた草が入った。
「あら。雨が降らないから枯れちゃったのね」
 栞は草むしりの手間がはぶけたと笑ってみせたが、タケルの背中は冷たい汗が流れた。
(違う・・・。これ、ほら、あれだ、瘴気ってので枯れた草だ)
 前日の夜に見た枯れ草。それと同じ枯れ方をしていた。
 居たのだ、ほんの今まで。
 もし、それ以前に来ていたのなら周辺を調べていた蓮が見落とす筈がない。それこそ、全ての枯れ草を採取しようとする熱心さだったのだから。
「あ、これ、俺がむしっておくよ」
 ぎくしゃくとした返事をして、タケルは物置に向かう。
「ラジオあった?」
「おう、ほら」
 タケルは元々の目的であったラジオを父親から受け取ると、気を引かない程度の早足で客室へと向かった。
「あの、すいません」
 廊下の足音に気づいた木の葉天狗達はやってきたタケルを振り返った。
「あ、蓮。ちょっといいか?」
「はい」
 ひょこ、と立ち上がった蓮に皆の視線が集まる。タケルのただならぬ表情に常ならぬ事が起こったのではと感じたからだ。
「あのさ、うちの裏口って調べたか?」
「裏口?」
「ほら、洗濯機があって物置があって」
「はい、調べました」
「何かなかったか?昨日さ」
「え?」
 首を傾げる蓮を見て、タケルは血の気がひいていくのがわかった。
「何か、ありましたね?」
 膝がおれそうになるタケルをささえながら聞いたのは雪だった。ゆっくりと座らせ、視線で花に合図をする。主に連絡をとる為だ。
「さっき、物置にラジオを取りに行こうとしてさ。そしたら、姉ちゃんが誰かと話してて。何か変だと思った」
「何故ですか?」
「話してる内容っていうか。よく声が聞こえないっていうか」
 その時点で部屋にいた木の葉天狗の全てが行動を開始した。蓮は採取用の道具を手に走り出している。
「それで・・・外に出たら、もう居なかったんだけど。・・・草が枯れてた」
 その言葉で充分だった。タケルの感知能力が特殊である事は既にわかっていたからだ。
「敵意はなかったんですね?」
「無かった、と思う。話してる時、なんていうか・・・姉ちゃん楽しそうだった。だから」
「怖くなかったと」
 頷き、タケルは思い返す。姉と話していたのが誰であるかの予想はついていたが、枯れる草を見なければ確信は得られなかった。
「姉ちゃん、居なくなるのかな」
 言葉にした途端、喉が痛くなった。言ってはならない事を口にした罰のようだった。


続く


 走る車の中、部下の花から連絡をうけた岳人は深いため息をついた。
(また、わからなかった)
 自分達が拠点としている宿にオロチが現れたというのだ。
8つあるといわれる首の数と同じだけ感じた気のうち、1つを倒した。残るは7人の筈。
 今も7つは感じる。しかし、その7つとは全く異なる場所である宿にオロチと思われる存在が現れたというのだ。
(何故、宿に現れるオロチだけ感知できない?)
 天狗ではないタケルだけが気づき、指摘する。指摘されれば、確かにその場に居た事はわかる。今も現場に行けばわかるのだろう。
(それに・・・、まだ8人いるのか?1人倒したはずだ)
 無言で考え込む岳人は車を止め、シートに体を預ける。すでに残ったヤマタノオロチは山に火事を起こし、疫病を撒き散らしている。
 なら、宿に現れたヤマタノオロチは特段害をなしていないのだから、今のところは静観していいのではないかとも思う。だが、気になって仕方なかった。
 自分の能力に不安があれば今後、不測の事態が起こった時に躊躇が生まれるかもしれない。そうなれば自分だけでなく、相棒の三郎や部下達に危険が及ぶかも しれない。
 それが怖かった。
 自分と同じ力を持つ三郎の部下もいたが、能力の差は段違いだった。やはり、自分が何とかしなければいけないと気負う。
 何度目かのため息をついた時、携帯電話が鳴った。
「はい、富士です」
『あ、富士?元気ないじゃないの?』
 声は上司の新田のものだった。事態を知らない筈のない新田なのに、声は明るい。その明るさに落ち込みをぬぐわれ、岳人は答えた。
「そう思いますか?」
『思うねぇ。何、三郎と喧嘩でもしたの?』
「してませんよ。少し気になった事があって」
『気になったって?』
「オロチを1人倒したのですが、まだ8つ存在しているようなんです。しかも、その内の1つは俺が感知しづらくて」
『あ、オロチ9人居るから』
「・・・え?」
 新田の答えに岳人の反応は鈍かった。
『ほら、八岐って8つ股がある訳じゃない?だから、頭は9つあってもいいんじゃないかなーと。で、箱根っていえば九頭竜でさ。あ、頭9つあるから9人 かなってね』
「確定、なんですか?」
『んー、京都の御大将も同意見みたいでさ。思いつきで言ったら、その通りだろうって言われてさ。いやんなっちゃうよね』
 けろっとした新田の話し方に岳人は肩の力を抜き、尋ねた。
「ところで電話の用件は何ですか?」
『あ、そうだ、そうだ。あのね、オロチ退治に有効な武器を入手したから持ってくよ』
 再び、岳人は呆気にとられる。確かに新田は昼行灯を決め込んでいるが、その実力が折り紙つきである事は認めていた。だが、ここまで事態を把握し、 的確な対抗策を講じているとは思っていなかった。
「本当に課長はすごいですね」
『お世辞言っても何も出ないよ?』
 笑う新田に岳人も笑いで返し、息を大きく吸った。
「この事は他の者には?」
『三郎に言っといたよ。そしたら、拠点にしてる宿にも連絡入れとくってさ』
「そうですか」
『なんだか、宿にライバルがいるんだって?』
「え?」
 岳人は一瞬、誰の事かわからず首をひねった。
『ほら、タケルって男の子。三郎に聞いたよ』
「ああ。そうですね。彼だけが気づく」
 岳人は自分が感知できない相手を見つけるタケルの事を思い出した。
『言霊かなぁ』
「言霊?」
『ほら、タケルって草薙の剣を持ってたヤマトタケルと名前一緒じゃない。だから、草薙の剣を尻尾に持ってるヤマタノオロチには敏感なのかもね』
「そんなものでしょうか」
 新田の飛躍する思考に岳人はついていけずにいた。探してはいないがタケルという名前の住人や観光客は他にもいるのではないかと思ったからだ。
 そんな岳人の思いに気づいたのか、新田は笑った。
『富士は真面目だなぁ。そんな事もあるか、程度に思っとけばいいのに』
 新田に言われ、岳人は頭をかいた。
『でね、新幹線とヘリコプターの乗り継ぎなんだ。とりあえず、拠点の宿の方へ行くよ』
「わかりました」
 新田との連絡を終え、岳人は意識を集中しオロチの居場所をもう一度探した。自分に探せる相手だけでも把握しておく事が最低限の仕事なのだと気を取り 直した。  宿の仕事を続ける姉を視界に納めながら、タケルは落ち着かない気持ちで居た。ついさっき、オロチの一人と思われる男と姉の栞が話しこんでいたからだ。
 栞は特に恐れることも無く、疫病に冒されることもなく過ごしている。心なしか、楽しげな雰囲気さえ漂わせながら。
(どうして何度も来るんだろう。今も近くに居るのかな)
 タケルは窓の外をながめる。夏の山は緑の木々を揺らすだけで答えは無かった。
「タケル、どうしたの?暇なら草むしりでもしてよ」
 掃除機を手に振り向いた栞はタケルに言った。
「暇って訳じゃ・・・。なんか、楽しそうじゃない?」
「楽しそうって、私が?」
「そう見える。何か良い事あったの?」
「別に、そんな事無いけど」
「・・・さっき来た人、かっこよかったとか?」
 それとなく入れたさぐりに栞は動揺を見せた。
「かっこいいとか、そんな事関係ないじゃない。まあ、かっこいい方だったけど」
 その表情にタケルは答えを得た気がした。
(あ、そうか・・・)
 栞がオロチの一人を憎からず思ったように、オロチも栞を好ましく思っていたとしたら。ならば、何度も姿を見せる事はありうるし、害をなさないのを 頷ける。
 他のオロチが少女達を誘拐した理由はわからない。もしかしたら、栞と同じように好ましく思ったからさらったのかもしれないし、生け贄としてさらった のかもしれない。
「何かあったら、さっき来た人に助けてもらえるかもね」
「な、なによ、急に」
「あっちも気に入ってるんじゃない?姉ちゃんの事」
「わかんないじゃない。それに、何度も来るかわからないし」
 その答えに栞がオロチの再びの来訪を期待している事がわかった。
(同じ人が来てるなら、姉ちゃんは安全かも)
 タケルはそう直感した。何か縄張りのようなものがあるのではないか、と。そして、他のオロチに比べて旅館に現れたオロチは温厚なのではないか、と。
 そのことが安心材料になるかはわからない。しかし、命の危険は低そうだと思えた。
「どこ行くの?」
「ちょっと庭」
「草むしり?」
「んー。しておくよ」
 タケルは庭に出ると敷地の外へと歩き出した。
 じりじりとした暑さは続いていた。箱根一体はいまだ山火事があちこちで起こり、消防関係者は休むまもなく活動している。
 そのサイレンもタケルの暮らす地域では鳴る事がない。
(やっぱり、この辺りは生け贄が出てるって事かな)
 タケルはそう考えた。事件を捜査している天狗達の話を聞くにオロチが生け贄をとった地域は山火事も疫病も起こってはいない。
 まだタケルの知る範囲では行方不明者は出ていない。なら、この平穏は何なのか。
(姉ちゃんが生け贄なんだ)
 それは、もはや確信だった。しかし、まだ栞は家に居る。行方不明にはなっていない。オロチの腹には収まっていないのだ。
 普段なら歩かないような林の中を歩き、タケルは緩やかな傾斜を登り始めた。どこへ行くという目標は無い。ただ、そちらへ行こうと思う「何となく」に 任せていた。
 ふと、足を止めた。疲れたというのもあるが、何となく立ち止まった。
「何をしにきた」
 びくっと体を震わせる。聞こえた声にタケルは身構えた。
 しかし、それでも気を失いそうな恐怖はなかった。
「えと、その・・・話を」
 がさ、と音がして目の前に白面の青年が現れた。血の気が少なそうなうす青さも感じさせる肌の色をした青年はタケルを見定めていた。
 何か反応があるかと待っていたタケルだったが、青年は何も言葉を発しなかった。
「ヤマタノオロチですか?」
 緊張していたタケルの口から出たのは、そんな言葉だった。目に見えて雰囲気が変わる。
「あ、と、九頭竜と呼んだ方がいいですか?」
 剣呑な空気がふくらみ爆発しそうになった瞬間、風船の空気が抜けるように森は元の静謐を取り戻した。
 濡れたような黒髪を揺らし、青年は唇を笑みの形に動かした。
「恐れを知らぬな」
「いやっ、めちゃくちゃ怖いですっ」
 勢いこんで前のめりに言うタケルに、青年はにやにやと笑うだけだった。
「それで・・・、あの?」
 うかがうタケルに青年は頷いた。
「いかにも。ヤマタノオロチであり、九頭竜と人は呼ぶな」
「・・・本物かぁ」
 答えを得て気が抜けたタケルは、ぽかんとした顔でオロチを見ていた。一重で切れ長の瞳、白い肌、黒く少し長い髪が緩やかな風に揺れていた。
「テレビで見た人とは違う、な」
 昨日、殺人事件を起こしたオロチとは見た目はほぼ同じなのに、恐れの種類が違うのだ。
「違う?」
「もっと上の方で事件起こした人は、ほんっと怖かったんです。側にいるだけで死にそうになったのに、今は大丈夫っていうか・・・、怖いけど怖くないって いうか」
 身振り手振りで説明しようとするタケルをオロチは面白そうに見ていた。そして、ぽつりとこぼす。
「だから、はぐれる」
「はぐれる?」
 タケルは言葉の意味を思い出す。はぐれる、そう聞けば次に思い出すのは「群れ」や「集団」だ。
「はぐれるって、えーっと他の何人かと?迷子?」
 迷子の言葉にオロチは伏せていた目を上げた。
「迷子、ではないな」
 怒ったかと思った顔は笑っていた。それに安心してタケルはきいた。
「あの・・・姉ちゃんの事、好きなんですか?」
 タケルの問いにオロチはわずかに眉を寄せて、呟いた。
「案ずるな」
「え?」
「連れ去らぬ。泣くゆえな」
「泣くって、姉ちゃんが?」
「泣かぬ娘は見た事がない」
「泣くかなぁ、あの姉ちゃんが。大体、好みのタイプ〜ってオーラ出してるんだし。あー、でも帰れないっていうならホームシックになるかなぁ」
 ぶつぶつと姉の人物評をしているタケルをオロチは不思議そうな顔で見ていた。
「おかしな奴だ」
「姉ちゃんが?」
「お前がだ」
 真顔で答えるタケルにオロチが返した。
「俺ですか?いや、変じゃないでしょ」
「おかしいだろう。姉が人外の者に見初められて悲しまぬ者がいるものか」
「でも両想いならアリなんじゃないかなって」
「人の世で暮らしにくかろう」
「いや〜、でも、うち旅館してるから収入源はある訳だし。騒ぎ起こさなきゃ何とかなるんじゃないかな」
 信じられないものを見る目でタケルを見ながら、オロチはきいた。
「お前がおかしくないのなら、世が変わったという事か?」
「そうだなぁ、変わったのかな。そりゃ、家族がヤマタノオロチと恋仲だってのを許さない人の方が多いかもしれないけど」
 腕を組んで自分の周囲を思い出していたタケルが顔を上げた。吹く風も聞こえる音も変わりないように思えるのに、何となく何かが気になった。
「逃げろ」
 その声が気になっていた何かに形を与えた。
 それは、「恐怖」だった。
 森の中に恐怖が走った。鳥は空へ逃げ、虫は地に潜った。
「逃げろ」
 目前のオロチに言われ、タケルは駆け出そうとした。しかし、足は地面に縫い付けられたように動かず、引き剥がそうと腹に力を入れた。
 ふわ、と踵が浮いた時、折れた木々の枝と共に「恐怖」が降ってきた。
「何を、していル」
 顔は同じ、髪型が少し違う。それは目の前にいるのが同じオロチである事を物語っていた。
 新たに現れたオロチが話しかけたのはタケルではなかった。同胞であるオロチにであった。
「何をしようと勝手だろう」
 その一言に機嫌を損ねたのか、恐怖の担い手は瘴気を吐き出した。
「きサま」
 たったの三言だというのにタケルの膝からは力が抜け、立ち木に寄りかかるのがやっとだった。
(あ・・・、だめかも)
 目の前の恐怖にタケルは気を失いかけていた。森にじわじわと毒が広がる。土の色が変わり、木は葉を落とし始めていた。
「今更、仲間扱いか?」
「人にオチタものガ」
 異なる恐怖がぶつかり、空気が震えた。タケルの目の前が真っ白になった時、体浮いた。
「大丈夫ですかっ?」
 聞いた事のある声にタケルは目を薄く開けた。岳人の木の葉天狗である雪だった。
「逃げます」
 タケルを背負い、雪は土を蹴った。
 突然の乱入者に二つの恐怖は衝突を止めた。瘴気は体をたわめた後、一気に飛びかかった。
 タケルという荷物を背負った雪は捕食者の牙にかかった。
「ナマイキな。コッパ天狗ごときガ」
 タケルは投げ出され、オロチはその頭を踏みつけた。ぎし、と頭蓋骨のきしむ音がした。
「タケルさん!」
 雪は銃を抜き、全弾を打ち込んだ。
 硝煙が晴れた時、状況は好転していなかった。
「石礫、カ。いや、テツ?」
 わずかに顔を手でかばってはいたが、それだけだった。ぱらぱらと弾丸を払い落とし、雪を見た。
「タケルさん!」
 雪は叫び、逃げるように促す。しかし、タケルは瘴気に当てられ動く事ができずに居た。
 オロチは二匹いる獲物のどちらを先に仕留めるか少し考えた後、タケルに視線を落とした。
「余程、ダイジなようだナ」
 にや、と笑ってオロチは踵をタケルの首に下ろした。
「やめろ!」
 雪は叫び、オロチに飛びかかった。力の及ばぬ木の葉天狗の精一杯を笑うように手を振ろうとした時、動きが止まった。
「邪魔をスルか!」
 人に落ちたと言われたオロチが腕を止めていた。その反抗が逆鱗に触れ、気が爆発した。
   嗜虐の手を止められた大蛇が怒りで体を震わせた。その一振るいだけで山は震え、木々の葉は地に降った。
(苦し・・・)
 押し寄せる圧力にタケルは身を守る様に手をかざした。側には傷を負った雪が居たが、やはり顔をゆがめプレッシャーに耐えていた。
「タケルさん・・・、今の内に」
 雪は対立する二人のオロチをうかがいながら、タケルに近づいた。
「は、はい」
 地鳴りにも似た耳鳴りに耐えながら、タケルは雪に一歩寄った。
 その時、見えない矢がタケルの動きを止めた。視線だ。
「逃げルのカ?」
 牽制しあっていたオロチの片割れが見ていた。
 タケルは身を縮め、視線から逃れようとした。絡みつくような視線は重さを感じさせ、体を地面に縫い付けた。
 顔を上げる事ができない圧力の中、一瞬緩みを感じた。
「フン、またコモノが」
 瘴気の満ちた森に飛来する一つの風があった。タケルをのぞいた3人は一方を見つめていた。
 淀んだ森の中、雪の声が響いた。
「駄目です!来ては!」
 その叫びに瘴気の歪みが起こった。瘴気の主はニヤリと嗤い、雪を抱え跳んだ。
「このムスメ、もらってゆク」
 触れた葉は腐れ、森を震わせ恐怖は飛び去った。
「・・・」
 散った瘴気の中、風が降り立った。
「あ・・・、富士・・さん」
 タケルは飛び去った恐怖を凝視したまま、無言だった。
 岳人の名前を口にした後、タケルは黙り込んだ。岳人の部下である雪がさらわれたのは自分を助けようと駆けつけたからだ。気をつけろと言われていたに も関わらず、外出した自分に責任があると思った。
「怪我は・・・、大丈夫なようだね」
 落ち着いた岳人の声にタケルはうかがうように顔を上げた。
「遅くなってすまなかった」
「あの、雪さんが」
「タケル君は気にする必要はない」
「でも、勝手に」
「君を守るのが仕事だ」
 なおもタケルは言い募ったが、岳人は体の向きを変えた。
「何故、残った」
 それは今も残るオロチに対してだった。雪をさらった仲間と立ち去らず、居残った理由を問うた。
「あれと共にゆく理由がない」
「仲間ではないと」
「あちらは仲間と思っているようだな。情の厚い事だ」
 皮肉な笑みを浮かべ、オロチは言った。
「話が聞きたい」
「聞いてどうする」
「滅する」
「大きく出たな」
 言外に天狗と神怪の格の違いをにじませていた。
 しかし、ゆっくりと首をめぐらせ、納得した声を出した。
「なるほど、手はあるという事か」
 静寂の中、神怪は岳人の言葉を認めたようだった。

 ぴりぴりとした空気の中、タケルはどうしたものかと立ちすくんでいた。先ほどまでいたもう一人のオロチと違い、話が通じそうだと思いながらも存在の 大きさに言葉を発せないでいた。
 目の前の二人、オロチと天狗である岳人の間には対立の糸ははられたままである。
「あ、あの・・・」
 プレッシャーに押しつぶされないようにと願いながら、タケルは口を開いた。
 二人の視線が集まり、タケルは首をすくめ窺うようにしながら聞いた。
「手があるって、どういう事ですか」
 沈黙が返された。
「えと、すみません」
 聞いてはいけない事だったかと視線を落とした。沈黙が続くかと思われたがオロチの応えがあった。
「神代よりの剣だ。神が敵と認めたものを屠る剣」
「聞いた事はないかい?十握の剣という名前」
 続いて岳人の説明があった。
「聞いた事あるかも・・・。草薙の剣とかの仲間だった、かな?」
 タケルの言葉にオロチの眉がわずかに歪んだ。それを無視し、岳人が応える。
「そうだね。彼の尻尾の中にある。スサノオノミコトが退治された時に見つけられたと言われている」
 その答えにタケルは自分の言葉が軽率だったと気づいた。
「あ、う、えっと、その。すみませんっ」
 頭を下げた相手は岳人だった。予想外の行動に岳人は何度かまばたきした後、言った。
「何故、謝るんだい?」
「だって、俺のせいで雪さんが誘拐されて。だから、富士さん怒ってて。こんな言い方する人じゃないのに、怒ってるから。だから、その」
 自分の考えを上手く説明できないもどかしさをタケルは身振り手振りで表した。
 その必死な姿にオロチに対する怒りが沈静化したらしい。
「タケル君のせいではないよ。・・・そうだな、彼のせいでもないな」
 ちら、とオロチを見て言った。
「確かに彼は疫病と災害を撒き散らすヤマタノオロチの一人だ。だけど、彼自身が災厄を起こしたという事象は確認されていない」
 わずかに深呼吸をした後、岳人はオロチに向き直った。
「今回の件で教えてもらえる事があれば、話をきかせて下さい。そして、できれば協力を」
 怒りを収めた青い瞳を向けられたオロチは沈黙したままだった。
 その沈黙は遠くから聞こえるヘリコプターのローター音で破られる事になった。
「協力が何を指すかはわからん。だが、話を聞かせてやる位はしてもいい」
 今、箱根を覆っている災厄を打開する道が示されたようにタケルは感じた。


一瞬の静寂の後、爆発が起こった。そう三郎は感じた。
 爆音が聞こえた訳ではなかったが、明らかに吹きつける圧力が感じられた。
「まずいな」
 短くこぼした言葉が深刻さを匂わせる。常に強気を演じ、場を落ち着かせようとしている三郎がマイナスイメージの言葉を発したのだ。
 今、側には誰も居ない。岳人と合流しようと山を走っていたからだ。自然の中を行くなら、人目を気にしないなら自分の足で走った方が車より速かった。
 もうすぐ切り札となる武器が届く。そうなれば、今起こっている事件も収める事ができる。そう思って走っていた時だった。
(あの爆発が起こった場所に岳人が向かっていた。何があったんだ)
 相棒である岳人の気を感じ、三郎は焦った。爆発が起こった後に向かっているのだから巻きこまれたとは思えない。しかし、警戒して近寄ったという様 子ではなかった。
(くそ、瘴気が)
 爆発と共に押し寄せた瘴気が三郎の感覚を鈍くする。広く情報を得ようと感覚をのばせば、精神に瘴気がしみこみ腐らせようとする。
 山を駆ける三郎の胸で携帯電話が鳴った。
 その着信音に三郎は足を止めた。
「岳人、無事か?」
『ああ』
「何があった?」
『詳しい事は戻って話すよ。重要な人物の協力を得られるかもしれない』
「大丈夫なんだな?ここからじゃ瘴気が邪魔でよくわからないんだ」
『・・・雪がさらわれた。それ以外は問題ない』
「なっ、雪が?何が」
『後で話す。課長を迎えに行こう』
 つとめて冷静であろうとする岳人に気づき、三郎は質問をやめた。
「わかった。課長は俺が迎えに行く。お前は宿に戻ってくれ、重要な人物ってのも居るんだろ?」
『そうだな。先に戻る』
 そう言って三郎は通話を終えた。
 岳人の木の葉天狗である雪とは付き合いが長い。妹のようなものだ。事件解決には犠牲が生まれる可能性がある事は覚悟している。しかし、自分の大切な ものが犠牲になる事に痛みを感じない訳ではない。
(さらわれただけ・・・、だけどな)
 悪いほうへ転がろうとする考えを振り切り、足に力を入れる。
 三郎は走る方向を変えた。そして、飛ぶ。もう人目を気にするのは止めた。住人は家に篭っていると思い切ったのだ。
 風を切り、木々をすり抜け指定されていた場所に到着する。人気のない小学校の校庭だった。
 到着の連絡を受けていた時間より、わずかに早く到着した三郎は空を見上げる。ローター音を響かせ、ヘリコプターが降下してくる。
 風で砂を巻き上げながら着陸するとヘリコプターの扉が開く。
「災難だったね」
 髪をぐしゃぐしゃにしながら降りてきた新田は箱を抱えながら三郎をねぎらった。
「雪が」
「ああ、そうなんだ。さっき瘴気が吹き付けてきたから何かあったんだろうとは思ったけど」
 三郎の短い言葉で新田は状況を把握した。
「死んだ訳じゃないんでしょ?」
「ええ。さらわれたとの事です」
「なら色々用意しないとね。どうせ、人質にして何か言ってくるんだろうし」
「見せしめに殺すという事は?」
「あるかもしれないけど、そーいう輩はくやしがる姿を目の前で見たいと思うもんだから、死体を飾っとくって事はないと思うよ。目の前で殺して悔しが らせようと思うよ、どうせ」
 話す内容は陰惨なのに新田の力の抜けた声に三郎は安堵を感じた。長老達は新田を昼行灯扱いする。その風貌、話し方からの印象だ。しかし、その実、 頼りにもしている。実績があるからだ。
「大丈夫。雪ちゃんは強いし頭もいい」
「はい」
「じゃあ、行こうか。良い物も持ってきたしね」
 新田は箱を軽く持ち上げ、三郎をうながした。
 客室の木の葉天狗達の表情が消えていた。
「あの、どうぞ」
栞は休憩の為の茶一式を部屋に持ってきたのだが、続く沈黙にとまどった。いつもなら、誰かしらが礼を口にするからだ。
 おずおずと急須やポットをテーブルに置き、反応を待った。
 部屋の時計が秒針を鳴らし、沈黙を際立たせていた。
 あまりの沈黙に立ち去ろうかと腰を浮かしかけた栞の耳に深く吐き出す呼吸音が聞こえた。誰のものかと顔を向けた時、皆の表情が戻ってきた。
「ごめんなさいね」
 皆を見回していた栞に花が声をかけた。
「全然、問題ないです。はい」
 そう答えたものの、いまだ部屋の沈んだ雰囲気を感じていた。部屋にいる木の葉天狗である蓮は身をちぢこめ、小さく震えているようだったし、 「何か、あったんですか?」
 客のプライバシーを心配したが、それでも様子が気になり栞は尋ねた。
「忙しかったから、少し疲れが出たんですよ」
 花は答えたが栞には違和感があった。疲れからの沈黙ではなく、衝撃による放心に見えたからだ。
「そうですか・・・。あの、お風呂も用意できていますし、よかったらお入り下さい」
「ええ、ありがとうございます」
 花の笑顔に、それ以上の追求はせず、栞は客室を後にしようと立ち上がった。その時、花が玄関の方向に視線を向け、はじかれたように猿田が走った。
 何事かと栞は後に続き、玄関へと向かった。
「な、富士さん、何してんですかっ。こいつ、あのっ、うぅ」
 玄関に立つ岳人とタケル、そして一人の青年を前に猿田は大声を出して主張にならない主張をしていた。
「あら、お連れ様ですか?」
 栞が顔を出した事もあり、猿田の主張は無言でのものに変わった。岳人は、その主張を視線一つで抑え、栞に言った。
「ええ。少し彼と話があるので、しばらく人払いをお願いします」
「わかりました。ほら、タケルも部屋に戻りなさい」
「いえ、タケル君にも話を聞きたいので」
 岳人の言葉に栞は驚いた顔をして、見た。タケルは、その視線から顔をそむけ岳人達の後につづいた。
「あ、ごくろうさまです」
 栞は岳人達の後に続いた青年に頭を下げ、笑顔を見せた。
「言われる程の事でもない」
 わずかに細められた目にタケルは安堵の息を吐いた。
 部屋はぴりぴりしていた。当然だった。今回の事件の大本である人物が泰然と座っているからだ。
 ちろ、とタケルは部屋を見回す。怯えを滲ませる者、怒りをみせる者、戸惑う者。そんな中、タケルは盆を手に部屋を横切る。
「お茶です」
「酒がいい」
「昼から?」
 茶を出したタケルの少年らしい感想に男はくすりと笑う。その細い目は周囲の視線をものともせず、細められた。
「酒は話が終わってからでいいですか?」
 岳人の声に男は口の端を吊り上げた事を答えとした。
「聞きたい事はたくさんありますが、・・・まずは名前を教えてください。あなた達をひとつの存在と認識していたので、連絡などで意思の疎通に手間取る のです」
「名前、な」
 白い爪で茶碗の縁をなぞりながら、男は岳人を見た。
「俺は棗と呼ばれていた」
「なつめ?・・・夏の眼」
 ぼそ、と呟いたタケルに棗と答えた男が言った。
「植物の実だ」
「あ、あの赤い。えっと、餡子に入ってたりする」
 八つに分かれたとはいえオロチの一身に対して、何ら恐れる様子のないタケルを前に木の葉天狗達は驚きを隠せずにいた。
「タケル、お前」
「ん?」
 猿田に言われタケルが顔を向ける。
「・・・怖くないのか?」
 恐怖を感じている事を口にしたくなかったのか、猿田は言葉短かに言った。
「え?」
 その一言が皆の緊張を解いた。
「いや、いい」
 猿田は手を振り、自分で茶をいれて飲んだ。部屋の状況を見て、岳人が続けた。
「では、棗さん。率直に聞きます。仲間、と呼ぶかはわかりませんが彼らの目的は何ですか?」
「目的?」
 棗は鼻で笑い、窓の外を見た。
「強いのだろうよ」
「強い?」
「強いから好き勝手したいのだろう。自分達が強いから壊すのだろう」
「なんか、わかりやすいな」
 また、ぽそっとタケルが呟く。それは皆が思ったのか、それぞれに視線を合わせたり頷いたりした。
「何故、棗さんは彼らから離れ、力を貸してくれるのですか」
 それに、また皆が頷く。
「いや、それって、その」
 言ったタケルに視線が集まる。
「何か知っているのか?」
「知ってるっていうか、ねぇ?」
 タケルは、ちろと棗を視た。自分の姉を恋しく思っている事をオープンにしていいのかと思ったからだ。少年らしい気遣いだった。
「奴らとは気があわん。それに、この宿の娘を気に入っている」
 その答えに皆は納得した顔をみせた。タケルが言いよどんだ理由がわかったからだ。
「単純といえば単純。ですが、何よりも信じられる理由のような気がします」
 そんな会話をしていた時、車が駐車場に入る音が聞こえた。
「ちょっと見てきます」
 タケルが玄関に向かおうとしたが岳人が止めた。
「三郎と課長だから、大丈夫だよ」
「そうですか」
 来訪者の登場に棗の手は握り締められていた。
 二つの足音が廊下を進み部屋へとやってきた。
「やっぱり、いやがったか」
「おや」
 嫌悪を滲ませる三郎の声に続いて、のんびりとした顔がのぞいた。興味津々といった表情のまま、まじまじと棗を見た。
「こんにちは」
 人のいい雰囲気を持つ男は何の説明も受けないまま、棗の正面に腰を下ろした。
「これ、嫌な感じするかな?」
 手にしていた大きめの箱を座卓に置き、指差す。その行動に部屋に居た岳人以下、天狗たちは様子を見守った。
「するな」
「そりゃ、よかった」
「課長」
 共に現れた三郎に声をかけられ、課長と呼ばれた男は瞬きした後、自己紹介を始めた。
「あ、自己紹介がまだだったね。僕は新田佐徳。彼らの上司でね、林野庁整備部調整課ってところで課長をしているんだ」
「そうじゃなくて」
「え?」
 三郎の意図していた発言と異なっていた事に新田は首をかしげた。
「えっと、何かな」
「何って」
「彼、オロチの一人でしょ?」
「はい」
 新田の疑問に岳人が答えた。
「で、ここに居るって事は協力してくれるって事なんじゃないの?」
 今度の問いは棗に向けられていた。
情報提供はあると思っていても、どこまでのものなのか、協力は本心かと疑っている三郎達にとって新田の無警戒とも思える態度に戸惑いがあった。
 その戸惑いは棗も感じていた。目視はしていないが座卓に置かれた箱には自分を簡単に滅する事のできる武器が入っているのがわかったからだ。
「協力、か」
「うん、協力。単刀直入に言っちゃうと、今暴れてる人達を封印するか・・・まあ、そう事だ」
「言葉通り、単刀直入だな」
「仲がいいか、どうかはともかく同種族である事は間違いないからね。ムカッとかイラッかするかとは思うけど」
 目の前の会話をタケルは呆気に取られて見ていた。力があると思われる三郎や岳人ですら、オロチの一つ身である棗には警戒を超えたものを感じてい るように思う。だが、二人の上司であるという新田に、そのような雰囲気は無かった。
「でも、こっちも必死な訳なんだ。虎が口開けてるのに逃げない兎はいないでしょ」
「協力が嫌だと言ったら?」
「まあ、内容にもよるでしょ。傍観なら仕方ないかって思うけど、敵対となるとね」
 声色は穏やかな会話であったが、部屋の空気は張り詰めていた。
 その時、遠くで爆音が響いた。



 遠くでの爆音、それに最も早く反応したのは岳人だった。
「近づいてきます」
「やれやれ、せっかちだね。じゃ、一般人は護衛退避させて、後は散開」
 新田の指示と共に天狗達は行動を開始した。
 窓は開け放たれ、木の葉天狗の数人は部屋を飛び出した。
「三郎は、これを使って退治。岳人と花は旅館の人を護衛。えーと、タケル君は僕と一緒に逃げようか」
「は、はぁ」
 非常事態だとはわかるし、この状況で近づいてくるというのなら他のオロチなのだろうとわかるが、展開の速さにタケルは間の抜けた返事を返すのが やっとだった。
 ましてや、自分と護衛するだろう人物とは初対面であるし、頼りになる風貌ではない。ちょこんと座ったまま、部屋の様子を見ていた。
 そんな中、新田は棗に顔を向けた。
「で、君はどうする?」
 新田に言われ、棗は視線を向けた。だが、無言だった。
「栞ちゃんだっけ?ちゃっちゃと彼女の所に行きなよ。かっこつけてないで」
 棗は新田を一睨みした後、部屋を後にした。それを見ながら、新田はようやく立ち上がった。
「はい、これ」
 三郎には剣、タケルには蓑を渡し、新田は窓から顔を出した。
「二人ほど来てるから、がんばって」
「気楽に言ってくれますね」
「大丈夫でしょ、三郎なら」
「おだてても何もでませんよ」
「本気だよ。さて、行こうか」
 蓑を手に所在無さげにしていたタケルに声をかけ、新田は玄関へと向かった。
 靴をはいた後、玄関先で新田に蓑を着せられたタケルの耳に再び爆音が聞こえた。
「お、接触したな」
「馬場か。行ってきます」
「はい、ごくろうさん。馬場に無茶しないようにって言っておいて」
「余裕があれば」
 三郎を見送り、新田はタケルを振り返った。
「今、タケル君が着ているのはね『天狗の隠れ蓑』っていって姿を隠すものなんだ。でも、音は消せないし、匂いも消せない。万能ではないから、気を つけてね」
「姿を隠す」
 窓ガラスに目をやると、確かに姿が消えているのがわかった。
「あの、でも、それなら姉ちゃんに貸した方が」
「どうして、そう思う?」
「え、だって、棗さんが好きだし」
「狙われると?」
「ええ、まあ」
「狙われるかもね。でも、僕としては君に死なれるのはマズイと踏んでるんだよ」
「マズイ?」
「勘なんだけどね。皆の話を聞いてると、君は今回の事件を収めるキーマンになりそうなんだよね」
「そんな」
「いやねぇ、勘だけは良いって言われててさ」
 何度も続く爆音に新田は音から離れるように歩き出した。遅れないようにタケルも歩き出す。山にでも隠れるのかと思っていたが、新田は車道脇を歩き 続けた。
「あの、どこへ行くんですか?」
「ん?お寺。物の怪は神社仏閣が苦手だから。ましてや、自分を調伏したお坊さんのお寺って入りたくないでしょ」
「ああ」
 タケルは納得し、新田のあとを歩き続けた。


続く


 道路を歩く姿は一つ、足音は二つあった。断続的に響く爆発音を聞きながら、タケルは目の前の背を追った。
「あ、歩くの速かったかな?」
 立ち止まる新田に言われ、早足で歩いていたタケルは追いつくことができた。
「少し」
 通学には自転車を使っていたから歩く事には馴れていない。ましてや、自分のペースではない速さにタケルは疲れを感じていた。
「車の方が早く移動できるけど、一旦見つかると逃げ切れないからね」
 天狗の隠れ蓑で姿を消したタケルが追いついたのを確認して、新田は再び歩き出した。今度はタケルの息が上がらない程度の速さだった。
「あの・・・棗さん、どうなるんですか?」
 タケルの問いにしばらく沈黙があり、その後で小さな笑い声がした。
「あの?」
「いや、ごめん。自分の事より先に敵というか妖怪の心配してるんだと思ったらさ」
 色々考えた結果の問いだったのだが、笑われた事でタケルは口をとがらせた。
「どうして、彼の心配をするんだい?」
「姉ちゃんと両想いみたいだから、できれば平和に暮らせればなーと思って」
「平和、ねぇ」
「無理ですか」
 見えないはずのタケルの視線を受け、新田は答えた。
「無理とは言わない。でも、難しいよ」
「難しいですか」
「難しいね。僕達、天狗は早い段階で時の施政者と手を組んだ。だから、危険な仕事をしているとはいえ、平穏な暮らしができている。でも、彼は政府に 従うとか、そういった事は認めないだろう」
「・・・確かに警察とか自衛隊とかには行かないでしょうね」
「大人しく従ったとしても信用してもらえないよ。強すぎるから」
「強すぎるから?」
「いつ爆発するかわからない核爆弾を手元には置いておけないでしょ」
「それは、そうですけど。でも、棗さんは悪い人には思えないし」
「ま、僕もそれはそう思うよ。でも、上ってのは勝手なもんでね」
「じゃあ・・・、殺される、んですか?」
 窺うような声色に新田は苦笑を浮かべた。
「それも、ねぇ。協力してくれる内は殺せないでしょ。で、今回の様子だと生き残れば退治された者の力を吸収して強くなっていく。最後の一人の退治は 難しいね」
「でも、それなら・・・相手の人達を退治するのも難しいですよね?」
「難しいだろうね。いくら、神剣があるとはいっても人数が減れば減る程、相手が強くなる訳で」
 無言になるタケルに新田が言った。
「だから、君の力が必要になる可能性がある」
「でも、俺は何もできないんですけど」
 戸惑うタケルに新田はいたずらっぽい笑みを見せた。

続く


続く


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