宝塔寺








宝塔寺  縁起は藤原氏の極楽寺にさかのぼる。
 徳治二年(1307)日蓮の法孫日像は,京都布教中に洛外へ追放された。
 その時,真言寺(向日市)で,時の極楽寺住持良桂と三日三晩の宗論を行い,良桂は屈服した。
 極楽寺を法華道場に改め,日像を開山に仰ぎ,自らは二世になった。
 日像は京都妙顕寺で没する(康永元年 1342)が遺言により,ここで荼毘にされた。
 また,日蓮,日朗の遺骨も納められているので,西身延,巽の霊山とも呼ばれている。
 天正十八年(1590)妙顕寺日尭の弟子日銀は八世をつぎ,荒廃した諸堂の再建に着手。 
 本堂(重文)は,京都大仏殿建立の余材が,寄進され,慶長十三年(1608)落成した。
 この時,寺名は鶴林院常寂寺から,深草山宝塔寺に改められた。



宝塔寺  仁王門は宝永8年(1711)創建で,向かって右の仁王が密迹(みっしゃく)金剛,左が那羅延(ならえん)金剛である。
 本堂北側の参道を上ると七面社を通って,深草墓園に至る眺望の良いハイキングコースである。

  

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