伏 見 稲 荷



 伏見稲荷大社は、和銅四年(711)秦氏による創建といわれている。
 「山城国風土記」によれば秦伊侶具(はたのいろぐ)が裕福のあまり、餅を的に矢を射たところ、餅は白鳥になって飛び去り、とまった山の峰に稲が生え、 神として奉られ、イネナリ(伊祢奈利)生いきからイナリの社名になったという。
 しかし、これはもともと当時の万葉仮名で「伊奈利」と呼ばれていた地名に、空海(弘法大師)が「稲荷」という字をあてたために、稲を結び付けた後付け の説明であるともいわれており、伊奈利を古代東方キリスト教に結び付けて次のように説明する研究者もいる。

 創建した秦氏は、5世紀頃、朝鮮半島から1万人規模で日本に渡来してきた民族であるが、高度な技術力と豊富な経済力をもっていたため、 桂川に灌漑用の大堰を作って嵯峨野(さがの)一帯を開墾し、養蚕や機織などの新しい技法を古代日本に伝えた。  秦氏の祖先は、もともと中央アジア、現在のカザフスタンから新彊ウイグル自治区付近にあったという 弓月(ゆづき)国にいた民族ではないかといわれており、周囲の他民族からの迫害を逃れ、東方に移動し、最後は朝鮮半島の任那を経由して 古代日本に渡来してきたらしい。
 弓月国はシルクロード上にあり、その民は養蚕の知識もあり、また、当時の中国の皇帝たちは征服した多くの民族を使役し、次々と万里の長城の建設 に当たらせたが、弓月国の人々も、万里の長城建設に駆り出され、大規模な土木工事の技術にも長けていた。  弓月国の人々の東方への移動も、この万里の長城建設の苦役に耐え切れなかったのも要因の一つと考えられる。  一方キリスト教は、西暦30年にキリストが十字架にかけられると、その後弟子たちは猛烈な勢いで布教をはじめ、中央アジアには 騎馬民族も多く、移動も広範囲にわたることから、瞬く間に中央アジアに広がって、西暦3世紀頃には弓月国も古代東方キリスト教の影響下にあった。
 この秦氏の日本への渡来は、1万人という大規模な移民であったにもかかわらず、この時期に国内各地で紛争が起きたという記録も無いので、極めて平和裏な移民であったのだろう。
 このように秦氏の祖先が、中央アジアにいた古代東方キリスト教徒ではなかったかという説から、稲荷の起源を次のように説明する。

INRI INARIはイエスが処刑された十字架に掲げられたINRIIESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM:ユダヤ人の王、ナザレのイエス)に由来しているのではないかというのだ。  Nの「ん」という発音が、当時の日本には無かったため、「N」をNaと発音し、当時の万葉仮名の外来語表記「伊奈利」を宛てたのだという。
 古代日本にローマ字というのは、ちょっと違和感を感じるかもしれないが、群馬県高崎市にある奈良時代に建てられたという有名な多胡碑の下から、INRIと同義のJNRIというローマ字が書かれた銅板 が、江戸時代に見つかっていたという記録もあり、決して有り得ないことではない。
 他の日本の神々と異なり、稲荷大神は、唯一神であり、また偶像を持たないところも古代キリスト教の影響を受けてのことかも知れない。また、伏見稲荷のトレードマーク朱の鳥居も、旧約聖書の出エジプト記に出てくる、神の指示により、殺戮の天使を避けるため、入り口の門の2本の柱と鴨居を子羊の血で赤く塗ったという チャールトン・ヘストンの「十戒」の1シーンを彷彿させる。

 そしてこの伏見稲荷大社は、五穀豊穣・商売繁盛の神で、全国に約4万もあるといわれる稲荷社の総本社でもある。
 門前には、きつね煎餅や、スズメ・鶉(うずら)などの焼き鳥を焼く芳ばしいにおいが漂い、伏見人形などの土産を売るお店が軒を並べている。
 稲荷山の麓一帯は、深草といい、今でこそ車や人でにぎわう街だが、その昔は草深い土地で、いたるところで、鶉が鳴いていたらしい。
 このため、この地では鶉は古くから食されていたようで、江戸時代の文人大田蜀山人は次のような狂歌を詠んでいる。
   一つとり 二つとりては 焼いて食い うずら無くなる深草の里
 この歌の本歌は、平安末期の歌人藤原俊成が、『千載集』で詠っている秀歌
   夕されば 野辺の秋風身にしみて うずら鳴くなり 深草の里
 であるが、稲荷山山麓には、今でも「うずら」を冠した施設が多い。

 無頼派作家の坂口安吾は、東京にることがやりきれなくなり、「そうだ、すぐに京都へ行こう」と、小さなトランクに、原稿用紙千枚ばかりを詰め込んで、昭和12年(1937年)頃上洛してこの伏見稲荷に下宿し、「古都」を執筆した。その中で、伏見稲荷は、市内で最も物価の安いところと紹介している。昔まだ冷蔵庫も無く、正月は市内の多くの店が閉まっていた頃、正月から店が開いている伏見稲荷界隈は、市内で最も生活に便利な町でもあった。

 門前は歴史のある店が多い。JR稲荷駅前の京料理玉屋は、元和初年(1616年)創業の老舗で、明治2年3月28日には、あの桂小五郎も食事をしている。もともとは稲荷大社参拝者のための京料理のオーベルジュであったが、最近リニューアルされて京料理食事処に専念されている。

 稲荷大社の本殿は、重要文化財で、応仁の乱後に再建されたもので「打越流造」と呼ばれ、屋根が美しく雄壮な曲線を描いている。
 1467年から11年続いた応仁の乱は、京都の町をことごとく焼きつくしてしまった。  応仁の乱は、もともと御所の北、上御霊社で戦端を発し、次第に全国規模の争いになっていくが、京都では主に洛中内の市街戦で戦われた。洛外では唯一この伏見稲荷で、西軍の畠山義就が、 稲荷大社に立てこもった東軍の足軽頭(あしがるがしら)骨皮道賢(ほねかわどうけん)を応仁二年(1468年)3月21日攻め、道賢を捕らえて斬殺し、更に伏見稲荷大社に火を放ち、 大社を社殿も含め焼きつくしてしまった。
 京都は、第二次世界大戦の際は、爆撃を受けた場所が限られていたため、市民の間には、戦争被害は、応仁の乱のときの記憶の方が生々しく残っており、  地元の古老の話で「先の戦争では」という話が出てくると、これが往々にして第二次世界大戦ではなく応仁の乱のことを指しているということがあるらしい。  応仁の乱後、諸国への勧進が行われ、1499年に、現在の本殿が復興された。

 応仁の乱までは稲荷山は、巨木の生茂る鬱蒼とした森で、東寺の五重塔建立の際は、空海が稲荷山の巨木を利用したほどだったが、応仁の乱で稲荷山も全山焼失してしまった。 その後にアカマツが生育し、稲荷山のいたるところにアカマツ林ができた。江戸時代の都名所図会などで稲荷山の様子を見ると、多くの松林があったことがわかる。 しかし、このアカマツもマツクイムシなどの影響で枯れ、松林が消え、代りに杉や桧などの巨木が林立する鬱蒼とした森となり、次第に応仁の乱以前の山様に戻りつつあるようだ。

 本殿からさらに進んで階段をのぼると、大きな鳥居がいくつにも重なってトンネルのようになっている参道となる。
 この参道の途中に、伏見稲荷大社のインスタ映えスポット 「千本鳥居」がある。 elevator 折角のインスタ映えスポットなのに、山道なので  足腰の弱い方は、以前はここまで来るのが大変だったが、2020年春に、本殿の裏にエレベーターが設置され、バリアフリー化された。  千本鳥居は二手に分かれるが、ともに奥の院へとつづいている。

奥の院には、持ち上げた時に感じる重さが、思ったよりも軽ければ願いが叶うという「おもかる石」ある。

 参拝は、奥の院で終りではない。 
 稲荷山には、ここから、熊鷹社、三辻、そして展望の良い四辻を経て、一、二、三の峰と多くの神蹟があり、 これらをお詣りする「お山巡り」の起点でもある。
 稲荷山に登って途中の御社を参詣する「お山巡り」は、すでに平安時代からおこなわれており、清少納言の 「枕草子」にも「稲荷に、念(おも)ひ起こして詣でたるに、中の御どの、わりなう苦しきを念じ登るに、 いささか苦しげもなく、後れて来と見る者どもの、ただいきに先に立ちて詣づる、いとめでたし。」 という文章が登場する。
 意訳すると「一念発起して稲荷詣でをし、中の社付近で苦しい思いをしながら登っていると、後から来た 参拝者が苦しげもなく追い越していったが、本当にうらやましいことよ。」ということだが、昔の運動不足 の宮廷人にはきつい参拝だったようだ。

   奥の院から10メートルほど進むと、左手に腰やひざの病に信仰のある「根上り松」がある。
neagarimatsu  もともとは、根が地表に持ち上がった松の大木で、持ち上がった松の根が、人々がお祈りする姿に 似ていることから、「膝松さん」とも呼ばれ、松の根元をくぐったり、木の肌を撫で身体の痛むところを 撫でると、腰や膝の痛みが治ると信じられてきた。 また、「根上がり」を「値上がり」にかけて、 商売をする人、特に証券会社や株に関係する人々からは、値(根)が上がるのを待(松)つということで、 縁起が良い松として篤い信仰を得ている。 近年この松も寿命を迎え、朽ちていく一方だったので、陸前高田市 の奇跡の一本松の保存で有名な吉田生物研究所により 保存処理及び脱落した樹皮の復元、修復が行われ、今は、屋根付きの礼拝所に収められて、以前と変わらぬ 信仰を集めている。

 「根上り松」と、参道を挟んで反対側に登りの小道があるが、これを進むと5分ほどで伏見神宝神社 (ふしみかんだからじんじゃ)を通って竹の下道に出る。神社の名前は、物部氏によって寄進された鏡・玉・剣 など十種神宝「とくさのかんだから」に由来する。神社の前に、次のような短歌とともに説明板が掲げてあるが、 この先が杉と竹林の中の細い道、深草の「竹の下道」となる。
    深草や
      竹の下道わけすぎて
        伏見にかかる雪の明けぼの
               (続千載) 前関白太政大臣

 参道に戻って、朱色の鳥居の間に見え隠れする桧林や、左手下の谷間を眺めながらさらに進むとやがて石段となり、これを登ると「熊鷹社」に着く。
 右手に「お塚」と呼ばれる石碑群が目に付くが、これは稲荷神を崇敬する人が自分のお稲荷様ということで奉納したもので、山全体でその数は1万を下らないといわれている。
 「熊鷹社」の背後には、こんな高所にと思うような池があり、通称「熊鷹池」とか「新池」とか「谺(こだま)ヶ池」と呼ばれている。
 池に向かって柏手を打ち、その谺が帰ってきた方向に、願い事が叶うという言い伝えが、「谺ヶ池」の名を生んだ。
 池は、農業用水源として、きびしい村掟のもとに管理・運営されてきたという。
 さらに進むと三辻を経て、四辻に至る。四辻は、眺望も良く、四ッ辻茶屋や仁志むら亭という休憩や軽い食事のできる老舗のお店もある。

四ッ辻茶屋と仁志むら亭 43KB

 お山巡りはここから大杉社、眼力社、薬力社、一の峰、二の峰、三の峰とぐるっと回って参詣するのだが、四辻の左側の階段を進む道は東山トレイルのコースともなっており、泉涌寺への絶好のハイキングコースでもある。



稲荷山の大鳥居  四ツ辻から左に登ると、すぐに荒神ヶ峰に着く。この荒神ヶ峰は、大変 眺望が良く、京都の町を一望できる。また、ここには毎年七月の本宮祭に合わせ、夜に提灯を使った巨大な鳥居が出現し、京都南部の風物詩となっている。


稲荷山山頂付近に出現した赤く輝く大鳥居

 近年は、SNSで広がったのか、ここから見る西山に落ちる夕日が絶景ということで、日没間際に、ここを目指して稲荷山に登ってこられる外国からの旅行者も多い。