古来、この地域で、南に向かう街道を奈良街道とか大和街道と呼ぶ。 この奈良街道には、京・伏見間は、伏見稲荷、宝塔寺、藤森神社等の名所を通る伏見街道と、 鴨川を渡り、旧紀伊郡竹田村を通って伏見港へつながる竹田街道の2つのルートがある。 伏見街道は、豊臣秀吉が、関白を辞して伏見に居を移すにあたり、京と伏見をつなぐ街道として整備した。 道路沿いには、伏見稲荷、宝塔寺、藤森神社などの名所が多く、江戸時代から、参拝客や物見遊山客 でにぎわったという。 伏見稲荷参道に接する北側一方通行の本町通りが、この伏見街道である。この街道は更に北に行くと 東福寺の南門にも接している。 このため、東福寺を参拝し、そのまま伏見街道を徒歩で南下して、伏見稲荷大社まで散策する旅行者も多い。 しかし、この伏見街道は、一方通行であることが物語るように、狭く、物流ルートとしては貧弱である。 特に、江戸時代の伏見は交通の要衝であったため、京と伏見の間の物資の更なる運搬路として、伏見街道 に並行して、竹田街道が整備された。現在の国道24号線がこの竹田街道と重なる。 幕末頃は、京と伏見をつなぐ主なルートは、この2街道だったので、新選組や坂本龍馬達が、京と伏見の 間を、この奈良街道を使って、頻繁に往来していたのであろう。 この伏見街道と、竹田街道をつなぐ道に、京阪墨染駅南側を通る墨染通りという道があるが、道沿いの 京料理店清和荘の門前右手には、「近藤勇遭難の碑」が立っている。慶応3年(1867)12月 16日、二条城で王政復古の大号令が発せられ、新選組は伏見奉行所へ追われたが、隊長の近藤勇は18日、 二条城での会議からの帰りに随行者らと伏見奉行所へ向かっているとき、伏見の城下町に入る直前のこの 場所で襲撃され、近藤は右肩に銃弾を受けた。年が明けて1月3日には、鳥羽伏見の戦いが勃発するが、 近藤はこの傷の治療のため大坂城におり、戦の指揮を執ることができず、代わりに土方歳三が指揮をした。 |
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