石峰寺




 正徳3年(1713)千呆(せんがい)禅師創立の黄檗(おうばく)宗の寺。
 本堂背後の山中に江戸時代の画家伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)(1716〜1800)が下絵を描き,石工に彫らせた五百羅漢がある。
伊藤若冲は江戸時代中期,正徳六年(1716)二月八日京都の高倉錦小路南東角にあった青物問屋「桝屋」に長男として生まれた。
 名前は代々伊藤源左衛門を名乗り,店の名は,屋号と名前から「桝源」といった。
 23歳の時父親が42歳で亡くなったために,若冲は四代目伊藤源左衛門として店を継いだ。
 絵は小さいときからどこかに弟子入りして学んでいたと云うわけでなく,20代後半になって他に趣味はないが,絵を描く事だけは好きだからという理由で狩野派の絵を学ぶようになったという。
 最初は狩野派の画法を熱心に学び取ろうとしたが,持ち前の才能からか次第に飽き足らなくなり興味は次第に中国宋原画の模写に移っていく。
 この頃,生涯の精神的支柱となる相国寺慈雲庵の僧大典顕常と知り合い, その勧めで若冲という号を使うようになった。
 若冲とは,「老子」の中の「大盈(たいえい)は冲(むな)しきが若(ごと)きも」の一節から採られており,文全体の大意は「完成されたものはどこか欠けたように見えるが使っても尽きることがない」ということで若冲の芸術観をよく現している号といえる。
 40歳の時に次弟の宗厳に家督を譲り,隠居して絵を描くことに専念する。
 絵は写生を基礎とした動植物画が有名で,特に鶏の絵は画幅から今にも飛びだしそうなくらいリアルである。
 五百羅漢は一説には,天明八年(1788)正月におこった京都大火災で焼け出された若冲がこの石峰寺門前で妹と暮らすようになり,石峰寺後方の山中に石像の五百羅漢を建立する事を思い立ち,絵1枚につき米一斗分の代金を受け取り,その金でみずからデザインした石の羅漢を一体ずつ石工に彫らせ,奉納配置していったという。
 しかし実際には天明大火の二年前に刊行された『拾遺都名所図会』にすでに「石像五百羅漢」の記事があり,建立はもっと早い時期からはじまったらしい。



石峰寺 石峰寺 石峰寺
石峰寺

 明治以降荒廃していた羅漢山は龍潭和尚の篤志により,草を払い径を開き,個々の石仏の趣を見られるように整備されたものである。
 羅漢とは釈迦の弟子で,五百羅漢といえば,優秀な弟子五百人という意味であるが,若冲の磊落な筆法で下絵を描かれた石仏は,長年の風雨を得て丸み,苔寂びその風化に伴う表情や姿態に一段と趣きを深めている。


紫陽花双鶏図





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