師団街道




 明治の終わりから終戦まで,あたり一帯軍事施設があったため,平和な町並みには不釣り合いな「師団街道」,「第一軍道」などの名前が残る。
 「師団」というのは,歩兵,騎兵,砲兵,工兵,輜重兵(弾薬や食糧などの補給・輸送に従事)といった全ての兵種が集まり,それだけで戦争ができる軍の部隊の単位の呼び方である。
 明治政府は日露戦争の経験を踏まえ,大幅な軍備拡張を行った際に,この地にも「師団」を置くことを決め,明治41年(1908)11月陸軍第十六師団を設置したが,この際,軍用道路が多くの軍事施設とともに建設された。
 兵員や武器・弾薬を秘密裏に迅速に輸送するために,京都駅から塩小路通を東進して鴨川を渡り,疏水と鴨川の間の狭い空き地を使って道路が新設されたがこれが「師団街道」である。
 この師団街道の東側には,第十六師団が設置される前から伏見疏水と京阪電車が走っていたが,師団街道の両側にならんだ各部隊や施設を有機的につなぐために,この疏水と京阪電車を高架で飛び越える道路を建設する必要が起こり,第一から第三までの三カ所の高架道路がつくられ,これが今でも「軍道」とよばれている道路である。
 「第一軍道」は,砂川小学校の南側にある東西の道路で,龍谷大学の南東角には「師団街道・第一軍道」の標識が建っている。
 「第二軍道」は,藤森ダイエーの北出口に面した東西の短い道路だが,師団司令部に直結する軍道として重要な道路であった。 この第二軍道が疏水を越える高架橋は今も「師団橋」と呼ばれ,その橋脚の上部には陸軍の「☆」マークが読みとれる。
 「第三軍道」は青少年科学センターの南東角から京都医療センターの北を通って,山科へ抜ける道をいう。
 軍事施設としては,現在警察学校や龍谷大学の敷地になっている場所に「京都兵器支廠」があり,京都駅に到着した兵器などはひとまずここに収納され,必要に応じて各部隊に配られた。
 この「京都兵器支廠」の南には,初期の頃には飛行機の発着場としても使われた「京都練兵場」があった。
 東西約七百メートル,南北約八百メートルの大きな広場で,陸軍の買収前は松本町以下九つの町名をもつ地域だったが,買収後は「陸軍京都練兵場官有地無番地」という地名に変わり,第二次世界大戦後,民間に払い下げられても旧町名は復活せず,一括して「西浦町」となった。このような広域に単一町名が付けられている場所は,伏見区ではめずらしい。
(西浦町の歴史が詳しい「にしうら」からこんにちわのホームページ
                  http://www.nnpjp.com/rekisi/index.htm


 さらにその南,現在青少年科学センターや藤森中学などがある場所に,「砲兵第二十二聯隊」の兵営があった。
 ここでは,演習もかね,毎日正午になると練兵場に大砲を引き出し,空砲を打ち上げて時報としていたが,遠方までよく聞こえたので「伏見のドーン」と呼ばれていた。
 師団街道を車で南下すると,第一軍道,第二軍道付近から常時渋滞しているが,これは京都医療センター前の第三軍道の西端に「砲兵第二十二聯隊」の正門前広場があり,もともとここから西方向の道路がなく,師団街道と第三軍道の交差点が,一見四辻でありながら西行する車がほとんどない(東から来る車が直進しない)ため実質三差路と同じであることが原因になって引き起こされている。
 この交差点から東行し山科方面に向かうと右手に京都医療センターがあるが,ここにも陸軍衛戍(えいじゅ)病院があった。
 京都練兵場の東方,現在の聖母学院の敷地には,師団の中心「第十六師団司令部」がおかれていた。
 第十六師団司令部本館が,今でも聖母学院の中に残っており,レンガの赤と松の緑がよくマッチして女子学園らしい落ち着いた風景を醸し出している。

 第十六師団長官舎も残っていたが,この一角は聖母学院の校地ではなく大蔵省が管理し,防衛庁の官舎などになっていた。

 この官舎は1941年建築の木造平屋建てで約214平方メートルあり,当初は東側が洋風西側が和風という大正時代の典型的な建築物であった。戦後,師団跡地に聖母学院が創立され,官舎は残ったが,昭和54(1979)年に学院が官舎のある一帯の土地を買い取った際,西側部分を撤去した。現在は東側部分だけが残るが,旧師団司令部と師団長官舎が元の場所のまま残っているのは全国でここだけということで,貴重な戦争に関する遺跡を残そうと,市民団体「戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会」を中心に保存運動が起こっていた。しかし,平成11年4月,所有者の大蔵省は建物の老朽化と財政難を理由に,解体と撤去を条件にして一帯の土地を聖母学院に売却してしまった。
               (京都新聞,毎日新聞京都版 平成11年5月14日)

 十六師団の師団長を努め,この官舎に入居した有名な人物では,南京攻略を指揮した中島今朝吾や,日本軍が「満州事変」を引き起こした時の責任者の石原莞爾がいる。

また,戦争末期には,この師団がレイテ島で悲惨な戦いをし,多くの戦死者や餓死者を出した。


    (参 考)
    平和のための京都の戦争展実行委員会編 池田一郎・鈴木哲也 著
        京都の「戦争遺跡」をめぐる
             つむぎ出版 発行