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今日、一般家庭で使用されているような小形の急須に茶を入れ、熱湯を注いで煎汁を得る、いわゆる煎茶と呼ばれる茶は、歴史的発展の経過から煎茶とされているが、実際は煎じる必要がなく、ただ熱湯を注いで煎汁を出すだけでよいのである。実際に煎じて煮(烹)る昔の煎茶と違うのである。 既に中国の陸羽の『茶経』に、「瓶缶中に貯え湯をまってそそぐこれを淹茶と云う」と出ているものに当るだろうか。これを大典禅師の『茶経詳説』には、「これあぶり乾きたる茶を臼にてはたき、其を瓶中へいれて熱湯を上よりそそぐことなり、今のだし茶に同じ」と注している。 この昔の煎茶とは大いに趣きを異にしている新煎茶は、元文三年(1738)永谷宗七郎の手によって宇治田原町字湯屋谷の地において創始され、その真価は遠く文化・政治の中心地であった江戸において認められ、それから徐々に全国に広まったのである。後世この製茶法を宇治製、もしくは宇治製煎茶とよんでいるが、狭義に、人についていえば永谷式煎茶、場所についていえば宇治田原製、もしくは湯屋谷製煎茶とでもいうべきものである。広く宇治の名は天下に鳴り、宇治田原も宇治茶の範囲内にあるため、宇治製とよばれるようになったのである。 |
宇治製煎茶の製法 永谷式ともいうべき宇治製煎茶は、一方当時その優良さを誇っていた、抹茶の製法に影響されたものであるともいわれるが、まず第一に、従来の煎茶が新旧の葉を混合したり、硬芽老葉を使って製していたのを、この宇治製煎茶すなわち永谷式は、抹茶と同じように新葉の良芽つまり稚芽軟葉のみを選んで摘み採ったものである。そしてこれまでの煎茶の如く、水に浸して煮る方法をとらず、抹茶と同じように湯で蒸すのである。また従来の煎茶のように台上で手足にてもむというような粗雑な方法はとらず、手で柔らかくもみ、また従来の煎茶の乾燥方法としてとっていた、日乾あるいは風乾等の方法も用いず、あくまで抹茶と同じく焙爐上でもみながら乾燥してしまう方法をとったのである。 この製法の結果、従来の煎茶や中国の釜炒茶のような赤黒い茶や、上製茶の余材である煎茶(折)の著しく黄色い茶とは大いに趣を異にして、美しい薄緑の色をした、香気もあり苦みに一種の甘味を覚える優良な煎茶を得ることに成功した。その当時、最も区別しやすい特色である色沢や水色から、この茶は青製茶として人々に称賛されたのである。 このことについては、文化八年(1811)の速水宗達の『茶道記』に、 煎茶の起源は(中略)桜町天皇の元文戌午年、山城国綴喜郡湯屋ヶ谷村永谷三之丞 (宗円と号す)初て製出し、当時是を青葉と称して居た。然し是を世の中に弘めた人は、 肥前の国蓮池の住人で姓は柴山諱は元昭と云う人で、此の人は有名な売茶翁のことである。 というように記されている。 永谷翁に始まる手もみ煎茶の方法は、のち「玉露製法も影響し、手もみ製法は次第に完成する。現在では宇治式、朝宮式、静岡式、狭山式などの区別があるが、その原理は同じである。」 (宇治田原町郷土誌編集委員会『うじたわら』)と記されている。 |