皆さんは「八方天教」という新興宗教をご存知であろうか。
♪楽しいな 楽しいな 八方天にゃ本尊もォ 御布施もなんにもない!
という、夢のような奇跡のような、破格の新興宗教だったのだ。
さらにその活動形態はと言えば、これまたつかみづらい、常ならざるものだった。日本全国を行脚中の開祖様が訪れたときは彼を囲む特別の説法会を開くが、そうでないときには、互いを「友」と呼び合う信徒たちが、日常生活のなかで定期的あるいは随時に集まり、「正道」を生きるために励まし合い助け合うだけ。ただそれだけ。マスコミが実態をつかめなかったのも存在に気づかなかったのも、無理ない話なのだ。
こう書くと今度は、
「八方天教は単なる茶飲みサークルの一種ではないか、そんなものの歴史を書いて何が面白い?」
とのご指摘があるかも知れない。たしかに一面では、「八方天教=茶飲みサークル論」は的を射ている。そして茶飲みサークルの興亡に興味を持たれる酔狂な読者は少ないに違いない。
しかし、八方天教の興亡は、一つこの世紀末の現象に止まらず、二五〇〇年の昔から現在に至るまでの仏教の歴史の相似形である、と聞けばどうであろうか。
八方天教の特徴は、原始仏教の教義を非常に忠実に実践していた点にある。
一切皆苦。諸行無常。
現世の苦しみからの離脱。
そして、まやかしに支配されることからの自由−−。
これらを二〇世紀末の日本に一時なりとも蘇らせ、乗り越えようとしながらも、ついに力尽きて消えていった。それが八方天教なのだ。
私は個人的にその試みにひかれるところがあった。職業柄、というのが理由だろうが、八方天教に私の仕事の対極にあるだろうすがすがしさを見つけた。のみならず、たとえ世知辛い現場で日々の糧を稼ぐために苦闘する私の同業者でなくとも、八方天教の興亡をたどり検証することは、宗教の存在の意味を問い、考えるうえで、非常に示唆に富むことと思うに至った。そこには今の日本人が気づき、考えるべきテーマが、数多く横たわっている。私が宗教などという邪魔臭くも面倒くさく、私自身の生きざまにはまったく関係なさそうなテーマを取り上げて八方天教の歴史を記録する決意をした理由は、まさにここにある。
なお、私、大塚巨構は八方天の信徒ではなかった。ひょんなことから信徒の知り合いとなり、この教団の姿をかいま見ることとなった、一介の野次馬、傍観者に過ぎない。本職は詐欺師である。
本書は、半年に渡る私の超人的な取材の結晶である。
あの半年、私は実に広く日本を動いた。全国各地に関係者を訪ねて回った。
おしゃべり好きな元信徒を訪ねたときには夜を徹して聞き上手となった。口の重たい関係者に対しては、鍛え抜かれた口八丁のオベンチャラ・テクニックを駆使して、知るところを残らず語らせた。軍資金が乏しくなれば、すかさず寸借詐欺の力を駆使して取材を続けた。淀みなく無駄なく、ポイントを確実に押さえつづけた取材の日々。警官に職務質問されることすらなかった。ひょっとして職業の選択を間違えたのではないかと思うほど、我ながら実に見事な取材ぶりだった。
もちろん、いずれ教団当事者の方から、もっと詳細な研究や当事者心理をいきいきと表した体験の記録が試みられることと思うが、冷静な眼を持つ外部者による記述・論述も、それなりの意味があると考える。
ただ残念なことに、私はこうした文章を書くことに慣れていなかった。そこで知人の浮世絵太郎氏に、私が話すことを原稿にまとめてくれないかと依頼した。氏は快く引き受けてくれ、また私の思うところを十二分に汲み取って本論考を仕上げてくれた。よって本論考の文章はすべて浮世絵氏の手によるものであるが、もちろん最終原稿に私が眼を通しチェックを入れていることもまた言うまでもない。
すべての記述の責任は私、義詐欺師こと大塚巨構にあることを確認して、本文に入りたい。
♪望みは叶えてあげるし
欲も満たしてあげる
天国への移住申請だって
大変な手続きを代行してあげる
だから 僕に御布施を払ってよ
君自身のために払ってよ
とっても優しく 選ばれた君
自分一人が幸せになるのも寂しいだろ?
仲間を増やせば神様も大喜び
君に一層眼をかけてくれること間違いないよ
だから 君の友だちも紹介してよ
僕の教団に紹介してよ
そうすれば 友だちの友だちは 皆 信徒
世界に拡げよう 幸せな信徒の 「輪っ」!
(作詞・作曲 大塚巨構)
♯
金儲け、虚仮威し、イカサマとの結託!
宗教には常にそうした危険があった。まやかしの術と口八丁の詭弁と詐術を弄して金儲けを達成する「自称宗教家」は、いつの時代にも、どこの世界にも存在した。
超越的なものへの恐れと憧れ。
希望と欲望が生み出す、心の隙。
苦難のなかで生まれる、救いの手への希求。
そういった人間のありとあらゆる心情を商機に変えて刈り取るため、「自称宗教家」たちは有史以来様々な活動を繰り広げてきた。私、大塚巨構は、徒党を組んで詐欺を働く者たち、とくに宗教詐欺を基本的に快く感じていないが、詐欺業を営む一人として、彼ら先人たちの創意工夫と壮大なる努力、そしてそこに駆使された智恵と労力に対して、満身の敬意を表すること、やぶさかではない。
彼ら「自称宗教家」の餌食となる人々も、有史以来、連綿と存在しつづけてきた。俗に言うところの「カモ」、ネギを背負って川や池、湖などに浮かんでいる、あの「カモ」と同類の人々である。私、大塚巨構は詐欺業を営む一人として、彼ら「カモ」たちの運んで来てくれるネギに対して、満身の喜びをグッとこらえて表に出さないこと、当然である。
八方天教の開祖、大賢良司(戸籍名、大賀良司)の母良子も、その「カモ」類だった。騙されやすいタイプであった。
人生の一大事、結婚からして、そうであった。
一九五九年、高校を卒業した彼女は、北関東の小さな商事会社の事務職に就いた。
働き者で器量良し。鐘や太鼓でも見つかる嫁ではあるまいぞと、親類縁者、会社の関係者、そして町内の隣人たちは、次から次に縁談を持ちかけてきた。その豪勢なラインアップには目も眩むばかり。資産家の息子や医者、弁護士、洋行帰りの学者さんなど、贅沢な暮らしを今にも叶えてくれそうな相手が目白押しだった。
だが、良子はそのどれにもイエスを言わなかった。ひたすら断わりつづけた。
皆が不思議に思ったのも自然なことだ。まだまだ女性の幸せは結婚にあり、と考えられていた時代である。仕事に人生を賭けているわけでもないし、将来を誓い合った相手がいるわけでもないらしい。
断りの累計が一〇件、二〇件と重なるうちに、
「良子さんは竹林で拾われてきた子かも知れん」
「いずれ月に帰ってしまうのかも知れん」
と奇妙な噂が囁かれるようになったが、良子がかぐや姫でないこと、当然である。
彼女が縁談を断わりつづける理由は至極単純。相手が皆、酒を飲む男たちだったから、である。
良子の父は、凶暴なアル中ザウルスだった。酒を飲んでは妻に暴力を振るいちゃぶ台を引っ繰り返すのを日課とする、まったく困った男だった。そんな父を見て育った良子である。幼いころから酒飲みへの強烈な偏見を抱いていた。「酒飲みとだけは結婚すまい」。固く心に誓っていた。そして、この誓いと偏見が、良子の人生を泥沼の苦難へ導いていく。
一九六二年、二二歳の年。通算七五件目にして、良子に「イエス」と言わせる縁談がようやくやって来た。相手は、中小繊維工場に勤める大賀紀夫という二五歳の職人である。
「もっと条件の良い相手はたくさんいるのになぜ大賀さんを」
と家族も周囲も首を傾げたが、他の候補と違い、
「私は下戸です。お酒はまったく飲めません」
と真面目そうに語る紀夫の言葉が決め手だった。
そもそも良子は、「贅沢できなくても穏やかで温かい家庭が築ければ、それで十分に幸せだわ」と考えていた。長らく待った下戸で優しそうな伴侶候補の登場に、文句のあろうはずがなかった。素直に舞い上がり、待った甲斐があったと、見合いから三ヶ月で祝言の日を迎えた。
だが、気の毒なことに、紀夫の「下戸宣言」は、良子と結婚したいがための真っ赤な嘘だった。それどころか、紀夫の本性はそんじょそこらの酒飲みではなく、驚異的なうわばみであり、しかも極度の酒乱だった。結婚後一週間してそれがバレたとき、紀夫は、
「下戸だって言ったのは冗談だ。まさか本気にするとは」
と呆れた顔を見せ、開き直った。夫婦の絆にミシリとヒビが入ったのも当然であろう。
それでも夫婦双方の努力もあって、当初はまだ幸せな暮らしぶりだったが、やがて二人の男児、長男一紀と二つ違いの次男良司が生まれると、事態は暗転した。紀夫の生活が大きく荒れはじめたのである。
紀夫は、本人も気づいていなかったが、本来的に赤ん坊嫌いだったようだ。
やかましいし、わがままだし、そのうえ良子を独占すると、生まれたばかりの長男一紀に密かな敵がい心を抱くくらい、おとなげない男だったのだ。
赤ん坊なのはわずかな期間、すぐ大きくなるからと、どうにか我慢してきたが、二人目の誕生となるともう限界だった。昼夜構わず泣き叫ぶ赤ん坊のツープラトン攻撃を嫌悪し、住まいであるアパートに寄りつかなくなっていった。それどころか給料も家には入れなくなり、そのうえ外で女は作るわ酒を浴びるほど飲みつづけるわで、借金をどんどん重ねていった。
こうした紀夫の行動の背景には、勤めていた工場の経営が危なくなり、将来設計に黒影がかぶさってきたためのストレスが影響していたのではと、後に八方天教開祖となった良司は分析していたと言う。
しかし、たとえその分析が正しいとしても、私、大塚巨構は紀夫に同情などしたくない。それが人情というものだろう。
よく誤解されるが、詐欺師にだって人情はあるのだ。
腕の良いまっとうな詐欺師は、カモの羽のむしり方にだって技があり、情がある。堅気の方を相手とするときは、何年か後にカモが振り返ったとき、「あの詐欺師、なんともすがすがしい騙しっぷりだったなあ」と懐かしく思えるような、心暖まる、後味の良い騙し方をする。それが真の詐欺師だ。人情あってこその、プロの技だ。
ともかく、残された良子たちの生活の方が遥かに悲惨で、同情すべき状態だった。
両親と別居していたので、良子は二人の赤ん坊を置いて外へ働きに出るわけにはいかない。育児の傍ら、内職で生計を支えるべく奮戦した。たとえば、封筒口貼り、紙袋貼り、刺繍、レース編み、毛糸手編み、縫製・まとめ、人形細工、造花造り、荷札の針金通し、エトセトラエトセトラ。まさに当代の内職オンパレードだが、怒濤の勢いで膨らんでいく借金の前には焼け石に水、蟷螂の斧、活断層の上の机上の耐震設計、零下四〇度下の野宿時の使い捨てカイロ一個、みたいなもので、まったくはかない抵抗である。
(このままでは、一家全滅だわ……)
永遠に続くと思える借金の猛吹雪、その向こうに未来は見えない。家計は凍死へ向かうばかり。
悪夢の圧迫から逃れようとして、良子はついに「悪質商法」にすがるに至った。
ここで一言言っておかねばならない。詐欺業を営む私としては、「悪質商法」などという言葉は本来使いたくないものである。「夢とロマンという一瞬の輝きを売る商法」だと強調したい。だが、浮世絵氏の強い抵抗に遭い、やむなく本論考では「悪質商法」との言葉を用いることとする。そうしないと代筆してやらないと氏は脅すのだ。まさに言論弾圧の恐ろしさを身に沁みて実感している私である。そういうわけで、同業者の方々、誤解なきように。私は魂は売っていない。非難は浮世絵氏に向けてほしい。
ともあれ悪質商法にすがった良子は、一瞬は儲けが出た気がしたものの、気づいたときには借金の雪だるまで家計をガッチリ固められていた。
カモ類の人は、どうも無警戒に、自らどんどん深みにはまっていくところがある。本人は警戒しているつもりかも知れないが、肝心のところで抜けているのだ。良子が悪質商法のカモとなったのも、ちょうど「ねずみ講」が世間を騒がせていた時期である。そうした世情に少しでも注意を払っていれば引っかかることもなかったのだろうが、生憎そういう方面に良子は無関心だった。
さらに、悪いことは重なるもので、同じ時期、紀夫の浮気・女遊びが二重三重の大雪崩を起こし、雪だるまはさらに大きく、強固になった。
もはや内職ではとても挽回できない状況だった。真っ暗闇の雪だるまのなか、良子はついに耐え難きを耐え忍び難きを忍んで実家に泣きつき、最悪の事態はどうにか防いだ。
だが、借金がまったくなくなったわけではなく、暮らし向きの厳しさに変わりはなかった。次男良司の幼稚園入学を機に、良子はスーパーへパートに出ることにした。
同じころ、紀夫はあっちの女、こっちの女に捨てられ、会社も潰れ、ぼろぼろになってアパートに戻ってきた。
「目が覚めた。これからは本当に真面目に生きるから、勘弁してくれ」
涙ながらに訴える紀夫を、人の善すぎる良子は信じた。貧しいながらも家族全員がそろい、ようやく一つの暮らしをスタートする。大賀家の長い冬は去った、春が来たんだわ−−はポジティブに、そう思った。だが、期待は甘かった。
再就職先が見つからない焦りのためか、それともしばらく断っている酒の禁断症状か。紀夫はいつも機嫌悪くイライラしていた。そして始終家族に当たり散らした。良子は自分の人生が母の思い出と重なっていくような、絶望的な気分にとらわれていった。
良司が小学三年生のとき、紀夫はまたしても家を出た。そして、二度と帰ってこなかった。紀夫と良子の同床異夢の人生ゲームは、完全に幕を閉じた。
同じ年、懲りない良子は新手の悪質商法にまたしても手を出した。
組織だったプロの手口の前に、素人は基本的に無力である。結果は、借金を大きく膨らませただけで、良子と悪質商法の金儲け合戦、二戦全勝で悪質商法の勝ち。その返済のために良子は、昼のパートだけでなく、夜はスナックで働くようになった。
夜遅くまで、アパートには一紀と良司だけが残されるようになった。俗にカギッ子と呼ばれた子供たちの仲間入りだが、この孤独な仲間たちに横の連帯など築けるはずもなく、二人は孤独だった。「暗いよ、狭いよ、怖いよ〜」の心細さに負けまいと、互いを必死で支えあった。励ましあった。
良司に運命の出会いが訪れたのは、そんな暮らしのなかだった。隣室に一人の老占い師が越してきたのである。人呼んで、奈津子バア。優しく面倒見のいい彼女との出会いは良司の人間的成長を大きく促し、さらに後の苦難に際して良司を助け、やがて八方天教創立へつながっていく。良司の人生で最も重要な出会いの一つとなる。
奈津子バアはアパートで縮こまっていた兄弟の寂しさを癒してくれた。朝、登校前にしか母に会えないわびしい生活に安らぎを与えてくれた。とくに良司は、この六〇代半ばの老婦人によくなついた。かつては東京銀座の母だったこともあると自慢する奈津子バアも良司には何か感ずるところがあったのか、つれづれにこれまでの仕事の自慢話を話して聞かせた。人相見の基礎や心得を教え込んだ。
「占い師はねぇ、人の未来を言い当てる仕事じゃないんだよ。お客さんの全体の表情や話し方から、その人の心の状態を知る。それから、その人が勇気を持って前に進めるよう、自信を持って今の辛い境遇に耐えていけるよう、アドバイスをして力を与えてあげる仕事なんだよ。今は辛くても、生きてさえいれば、きっと生きていてよかったと思える瞬間がやってくる。それに、人には、決まった未来などありはしないのだから。人間の人生は、今からの努力次第で、どうにでも変わっていくものだからね」
奈津子バアのこうした話が、良司はとくに好きだったと言う。
私、大塚巨構もこの奈津子バアの言葉にはおおいに同感である。たとえ一度や二度刑務所にぶちこまれようとも、詐欺の腕がある限り、刑務所を出た後に食いっぱぐれる心配などしなくていい。顧客はどこにでも見つけられる。「カモ」はあちこちを泳いでいる。そう、私たちの未来はいつも黄金がかったバラ色に輝いている。
良司は奈津子バアにとって非常に良い生徒だった。呑み込みが異常に早く、天性のカンがあった。メキメキと人相見の力を身につけ、一年としないうちに、天才占い少年として近所の評判になるほどだった。
この時期、良司は人生のうちで最も幸福で充実した時間を過ごしていたのかも知れない。当時を振り返り、良司は次のように語っている。
「優しく頼れる奈津子バアという尊敬できる師匠に見守られ、導かれ、自分がどんどん成長していくさまが自分でもよくわかっていた」
だが、出会いから二年が過ぎた一九七八年の一月。別れのときが訪れた。奈津子バアが風邪をこじらせて亡くなったのだ。
奈津子バアは死の直前に良司に語った。
「良司、わしが死んでも悲しむことはないぞ。悲しんでくれても、もうわしにはわからん。人間死んだらそこで終わり、霊魂なんてない。この大地へ溶け込んで、帰っていくだけじゃから。安らかな終わりじゃよ」
良司はその言葉を素直に受け止めた。奈津子バアが言うからには、疑う余地のないことだった。寂しさはあったが、耐えることができた。
しかし、この年は災いの年だった。不幸が畳みかけて襲ってきた年だった。
五月。兄一紀が交通事故で死んだ。轢き逃げだった。一昼夜病院のベットで苦しみうめきつづけた後の、残酷な死だった。
うちひしがれる母良子に、良司は涙を流しながら訴えた。
「僕たちが悲しんでちゃ、カズ兄天国に行けないよ」
必死の慰めであり、励ましだった。奈津子バアならそうしたに違いないと考えての頑張りだった。一〇歳の子供とはとても思えない、なんとも気丈な話である。
だが、相次ぐ不幸と借金にまみれ、忙しすぎる毎日を送る良子の心は、すでに崩れはじめていた。息子の思いを受け止めることができなかった。それどころか良司を、
「兄さんが亡くなったばかりなのにそんな冷たいことを言うなんて、おまえなんか人間じゃない!」
と、きつく罵った。幼い良司に、これはショックだった。涙は止まり気力もなくし、落ち込んだ。危うく心が闇に引き込まれかけた。
良子が霊感商法の餌食となったのは、その一月後のことだ。
それは六月の休日、良司が昼食のラーメンを湯がいていたときのことだ。見知らぬ中年婦人がアパートを訪ねてきて、玄関口で良子に会うや否や、言った。
「あなたの全身に、たくさんのサナダムシがまとわりついているのが見えます」
良子がギョッとしたのも無理はない。しかしこのギョッと驚いた瞬間に、すでに良子の劣勢は決まっていた。婦人は続けた。
「ご先祖様にまつわる、祟りですね」
良子の全身を衝撃が駆け抜け、敗色の濃度は極限まで濃厚となる。
玄関口のただならぬ様子に驚いた良司が顔を出したとき、顔色の悪い謎の婦人は何かにとりつかれたようなくすんだ瞳で良子を凝視し、心配そうに続けた。
「まだまだ続きますよ、早く供養しないと。こんな程度じゃすみません」
良子は震えながら、操られるようにうなずいていた。敗北である。霊験あらたかと婦人が宣伝する高価な「ゼニ茶」をその場で買い、婦人の勧めるままに新興宗教『銭銭団』に入信。「ゼニ茶」を売って布教に努めれば努めるほど功徳が積まれ救われると教えられ、「ゼニ茶」販売に死に物狂いで打ち込むようになった。不良債権を抱える金融機関幹部などから見れば垂涎の的、死をも恐れず、文句も言わずよく働く、最凶の集金戦士、銭銭良子の誕生である。
「ゼニ茶」は教団本部から良子が高額で買い入れて外部の人へ販売する仕組みで、幾らかの中間マージンが良子の手に入る。しかしそのマージンは「ゼニ茶」をさらに買い入れることに使われるのがだいたいの成り行きで、良子の元に残るのは「功徳を積んだ」という幸せな意識だけだった。
詐欺業界に属する者から見て、この『銭銭団』のやり口は非常に古典的な手法でありオリジナリティには乏しい。が、なかなか廃れる気配を見せない手法でもある。つまり人間心理のあやを自在に操る見事な方法と言え、業界人の一人としては押さえておかねばならぬ必須知識の一つであろう。『銭銭団』の中枢には、なかなか堅実なスタッフがいたと見える。
それからの良子の『銭銭団』への没頭ぶりは凄まじかった。わずかに残っていた家財道具も次々に売り払い、「ゼニ茶」の仕入れに当てていく。良司の給食費も「ゼニ茶」に代えてしまった。中学の修学旅行にも行かせてもらえなかった。もちろん高校など行かせてもらえそうもなかった。
『銭銭団』に埋没していく良子の心の崩壊は、良司がどんなに諌めても泣き叫んでも、もはや止めることはできなかった。それどころか中学を出たらすぐ『銭銭団』の布教活動を始めなさいと迫られ、いやだと言うと、
「この子はなんて情けないことを言うんだろう! ほら、お前の体にうようよとナメクジがまとわりついている、たくさんのゴキブリがかみついている。アリがたかっている、クモがはいまわっている! 助かりたかったら、このゼニ茶を飲みなさい。さあ、飲みなさい!」
と、まずくて仕方のない妖しいゼニ茶(実はそこらの山に生えているなんの変哲もない雑草が原料だったそうだ。これはもう、パターンである)を強要してくる。良司はもう泣きわめいて狭いアパートを逃げ回るばかりの毎日だった。暗澹たる日々の連続だった。
そして、一九八一年。
一四歳になったばかりの中学二年生の冬。
深い絶望にくるまれて、良司は家を出た。
しんしんと雪の降りつもる、年の瀬、静かな夜のことだ。
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