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マタイによる福音書 5章 45節 2月4日(日) 左京教会 礼拝講話
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「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて
くださるからである。」
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「汝の敵を愛しなさい」というマタイ伝5章のイエス様のお言葉を昨年の左京教会の
テーマとしてお話ししてきましたが、今月も同じテーマでお話をしたいと思います。
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マタイによる福音書5章43節から45節を拝読しますと
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43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しか
し、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたが
たの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者に
も正しくない者にも雨を降らせてくださるからである
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昨年末に尹相優 (ユン サンウ) 牧師がこの春から左京教会に就任されることが
決まりました。尹先生は東京の弓町本郷教会で長らく伝道師として活躍された先生
です。この度、ご縁があって当教会の牧師としての就任が決まりました。ご尽力して
下さった方は新しく代表理事になられた李愛俐娥姉です。何れも韓国の方ですが、
日本で努力して頑張られています。尹先生が選ばれた今年の左京教会の主題聖
句はペトロの手紙一 4章 8節です。
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「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。」という箇所です。
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ちょっと驚くのはその前の文章です。7節から8節までを拝読しますと
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「7万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りな
さい。 8何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」
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その中でも、「万物の終わりが迫っています」という箇所があります。もし本当に万物
の終わりが迫っているなら、好き勝手にしたいことをしようと思う人もいるのでしょうが、
ペトロは全然違います。万物の終わりが迫っているからこそ、お互いに心を込めて愛
し合いましょうと言われます。でもこの言葉、私達の今の状況に似ています。将に世
界では各地で戦争や紛争、あるいは気候変動や地震など将に万物の終わりが来
そうな気がします。
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でも、ちょっと視点を変えて考えて見ると、私達にとっていつ何が起こっても不思議
ではないのがこの世でもあるのです。たとえ万物の終わりが来なくても、私達の命は明
日何が起こるかなんかは誰にも分からないのです。ペトロはそのことを云いたかったの
だろうと思います。何時死ぬ変わらない私達に向かって、だからこそ、何時死んでも
良いように、お互いを愛し合いましょうと言われたのだと思います。
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そうすれば何の悔いも無く死んでゆくことが出来るからではないかと思います。毎日を
必死になって生きていられれば、何も怖いことはないと云う事でもあります。たとえ、天
変地異が起こっても、戦争が起きて鉄砲の弾や砲弾で死のうとも大丈夫ですよと
云いたかったのだと思います。
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又、パウロはローマ書5章で神の愛をたたえています。神様の愛が私達に降り注いで
いるということを言い表しています。パウロの表現ではキリストが私達のために死んでく
ださったことが、神様の私達への愛の証であるとしています。
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ここで問題になるのはキリストが私達の為に死んで下さったのは、クリスチャンだけに
限定されるのかということです。イエスキリストを信じる者の為に死んで下さったと解釈
するのか、あるいはむしろイエスを死に追いやった者達をも含んで死んで下さったのか
ということでもあります。
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ところで、私は聖書学者ではありませんので、聖書に書かれてあることに忠実ではあり
ませんが、聖書の語ろうとしていることを自分なりに理解しようとしてお話ししています。
尹先生が来られれば、又違った解釈になるとも思いますが、今は自分なりの解釈で
お話しします。
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私達は自分たちの信じるものは自分で努力して得たと思っています。信じることは果
たして自分の努力で得たものなのでしょうか?クリスチャンになったのもはたして自分
で選んだ道なのでしょうか?
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ところで、クリスチャンの中には聖書に書かれてあることは全て真実だと思っている
方々もいれば、聖書に書かれてあることは全てが真実ではなくて比喩や伝承のミス
も含まれていると考えている方もいます。
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しかし、それでも聖書の価値が変わるものではないでしょう。
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ローマ書5章では神の私達への愛が書かれてあります。人の罪は律法によって明ら
かとなり、一人の人によってその罪が許されたとあります。神は罪の中の私達をキリス
トの死を通して罪から解放する様にされたことが将に神の私達への愛であると書かれ
てあります。
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アダムがヘビにそそのかされて禁断の木の実である知恵の実を食べてしまったことか
ら起こる人の罪は、モーゼの律法により明らかとなります。つまり人は罪を犯さないで
は生きてはおられないということです。その人の罪をイエス・キリストが全ての人の罪を
背負う代わりに処刑されたことが、将に神の愛の証であるとパウロは説明します。
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つまり一人の人から始まった罪は一人の人の死を通して罪がなくなったと言うことにな
ります。
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パウロは信仰により罪がなくなる「義」をもたらすのだと説明します。つまり、それはイエ
ス・キリストによる死が私達を罪から解放して下さることになることだと信じる事でもあり
ます。
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その信仰を持つ者がクリスチャンと言うことになります。
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そうなると、クリスチャンは罪のために死なれたキリスト・イエスを信じられない者はクリ
スチャンではないと言うことになります。
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パウロ信仰の根幹はキリスト・イエスが私達の罪を償うために十字架にかかられた事
が将に神の大きな御愛のたまものであると云うことだからです。もちろん、この考え方は
正統なクリスチャンにとってはごくごく当たり前のことです。
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只、私にとってはこの考え方が分からなくはないのですが、神様の愛はキリスト・イエス
が処刑されるまでは人々の上には望んではいなかったのかという問いにもなります。そ
れはイエスを処刑したユダヤの人々の上には望んではいなかったのでしょうか?
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つまりそういう考え方をしてゆくと、クリスチャンとクリスチャンでない者を分けることにな
っていくことに繋がっていきます。
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果たしてパウロはその様な考え方を支持するのだろうかと私は思うのです。勿論パウロ
は現代にはおられませんので、聞けるわけではありませんが、パウロの本意を考えると
一人でも多くの人々に罪からの解放を願っておられたと思うのです。
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でも、現代ではキリスト教も布教尽くされた感じで、世界での広がりはほぼ落ち着い
ています。むしろキリスト教から離れ始めている状態になりつつあります。何故、人々
がキリスト教から離れ始めているかというと、クリスチャンかどうかが問われるからだろう
と思います。その根幹にある考え方がこのパウロ信仰の神髄でもあるキリストが人々
の罪の贖いのために処刑されたことが神の人々への愛の証であるということだろうと思
います。つまり「信仰により義とされる」という考え方です。
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ここで問題になるのが「信仰」についてですが、「キリスト・イエスが人々の贖いのため
に処刑されたことを信じる信仰」と言うことになります。普通はこの考え方を皆がしま
す。
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でもこの考え方はパウロの信仰でもあるのです。つまり知らず知らずのうちにキリスト教
はパウロの信仰になっているのではないかと思えるのです。
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つまりパウロの信仰を信じる者がクリスチャンと呼ばれているということになります。
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只、パウロを見てみるとパウロは自分の信仰を自分の力で得たわけではありません。
知らず知らずのうちにパウロはイエス様を信じるようになったのではないかと思います。
何しろパウロは始め教会やクリスチャンを迫害していたからです。ところがダマスコへの
途上でパウロに変革が起こります。いわゆるパウロの回心と呼ばれる物語の始まりで
す。パウロは目が見えなくなり、アナニヤによって目を開かれます。その後パウロは熱
心なクリスチャンとなって布教活動をして行くこととなりますが、きっかけは神の啓示に
よるものと聖書では示されています。つまり、パウロがキリスト・イエスを信じるきっかけと
なったものは神の啓示によるものであることが分かります。
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パウロはキリスト・イエス人を知らない人に分かるように、キリスト・イエスの恵みを伝えま
す。「信仰により義とされる」という説明はここから出てくるのだろうという気がします。こ
の場合の「信仰」は自力的な信仰を意味しているのでしょうか?
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パウロも自らの決断でキリスト信仰に入ったわけではありません。キリスト・イエスの啓
示がまず始めにあります。でも、キリストの啓示は基本的に目に見える形では来ない
のだと思います。
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「信仰」とは自力的な決断で得られるものではないということでもあります。熱心に布
教をすればそれだけその人の信仰心が強いのかというとそうとも云えません。パウロ
はそれこそ熱心な布教をして行きますが、それは彼の中のキリストへの思いが強か
ったこともありますが、本当の所それだけキリストからの啓示が強かったからでもある
のだと思います。
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でも私は思うのですが、キリストの啓示は見える形では来ないと思っています。感じる
しかないからです。
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キリストの啓示は見える形では来ないと云うことは、どういうことかというと、つまり形には
表せないと言う事でもあります。だから行動が必要になります。熱心な布教をすれば、
ある面それは熱心な信仰を持っていると言う事に繋がります。でも、熱心な布教をす
ればそれがキリストの啓示によるものかどうかは誰にも分かりません。
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でも、キリストの啓示は見える形では来ませんが、私達の将にただ中にあると思ってい
ます。気が付けばいつもそこにあると云うことでもあります。でも見える形では来ませ
ん。感じるしかないからです。
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イエス様が示された世界はそういう世界だろうと思います。「信仰」は自分の努力で
勝ち取れるものではありませんが、神様からの啓示が感じられればその「信仰」は強
くなります。
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「信仰により義とされる」ということは、神様の啓示を感じられるときにその人の中にあ
る「信仰」が強くなることで、それがその人を強くすると云う意味ではないかと思いま
す。
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問題はその「信仰」が「パウロの信仰」によると解釈するのかどうかにあるのでは無い
かと思います。つまりキリストが人々の罪の為に十字架にかかられたことが神の愛の
証であるとするところにあります。それが「信仰」の基本とするところにあります。
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そして、回心したパウロの記事を見ていますと、神様の愛は「パウロの信仰」だけが
神様の愛ではないような気がします。勿論、パウロの思いは充分に聖書を読めば伝
わります。
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でも、私は左京教会で学んだ「根源思考」という考え方にとても惹かれます。
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それはイエス様をも含めたキリスト・イエスの教えの根っこの部分を見つめて、しっかり
と自分のものとすることが本来のクリスチャンのあるべき姿である様な気がするので
す。
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「信仰」は人の各々の問題であるのです。キリスト教会はその様な人々の集まりでは
ないかと思うのです。「パウロの信仰」も実はその一つのような気がするのです。
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つまりパウロに与えられた信仰はパウロ独自のものです。では私に与えられた「信仰」
は「パウロの信仰」と同じものなのでしょうか?
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そう考えたときにイエス様が云われた言葉の意味がなんとなく分かるような気がしてく
るのです。
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「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しか
し、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたが
たの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者に
も正しくない者にも雨を降らせてくださるからである
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この言葉は敵と隣人とを区別することなく、愛しましょうということを示しています。
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私の「信仰」も「パウロの信仰」も神の愛の中では変わらないという気がするのです。
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何故なら。「信仰」は本来、神の啓示から始まるからでもあります。
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何があっても大丈夫な世界です。どんなに苦しいことがあっても大丈夫です。「神の
国」は何もない「ポカンポカンとした世界」でもあります。
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パウロが私達に示して下さった「信仰」の道だけが全てではないのではないでしょう
か。「信仰」には「パウロの信仰」以外に様々な道があっても当然ではないのかと思
えるのです。
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勿論、そうなると収拾が付かなくなるような混乱が起こる気がします。
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何しろ神からの啓示は見える形では来ませんので、各々が勝手に是は神の啓示だと
言い出せば、好き勝手に何でもする人々が出てきそうです。
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でも私は色々あっても、最終的に残るのは本当に神の啓示を受けた人が残るような
気がするのです。「キリスト信仰」とは結局、キリストの啓示がないと維持できないから
ではないかと思えるのです。
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勿論「パウロの信仰」もその一つですが、それ以外の信仰ももし残ることが出来る
ならそれは、「キリスト信仰」となる気がします。
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実際、キリスト教にも様々な宗派があります。プロテスタントにも様々な宗派がありま
す。それのどれもがキリスト教です。それ全てが皆「パウロの信仰」ではないのではな
いでしょうか?
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むしろ問われるのは、神の啓示をどう感じていくことが出来るかが問われる気がしま
す。
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そのことはつまり、私たちはいつも心を空っぽの状態にしておけば良いのではないでし
ょうか?心に何もないとどんどん神の啓示を受けやすくなります。でもこれが神の啓示
だとか思ってその啓示にだけにこだわってしまうと、その容量はどんどん膨らんで行っ
てしまいます。むしろ、心をいつも空にして神の啓示だけを待てば良いのです。そうす
れば、いつもどんなときでも神の啓示を受けやすくなります。
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それが私の「信仰」を強くしてくれるはずです。パウロもきっとそうして心を空にしてキ
リストの愛を感じていたような気がするのです。
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「信仰により義とされる」ということは、キリストが人々の罪のために十字架にかけられ
たことが神の愛の証であると信じる事ではなくて、パウロはそう感じたようですが、私は
心を空っぽにしてキリストの啓示を受けることがその人の「信仰」を強くすることではな
いのかと思っています。
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もう一度、イエス様が云われたこの言葉をかみしめてみませんか?
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「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しか
し、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたが
たの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者に
も正しくない者にも雨を降らせてくださるからである
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マタイによる福音書 5章 45節 1月14日(日) 左京教会講話
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「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて
くださるからである。」
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「汝の敵を愛しなさい」というマタイ伝5章のイエス様のお言葉を昨年の左京教会の
テーマとしてお話ししてきましたが、今年も同じテーマでお話をしたいと思います。
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マタイによる福音書5章43節から45節を拝読しますと
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43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しか
し、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたが
たの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者に
も正しくない者にも雨を降らせてくださるからである
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今の世の中は、デジタル世界に変わりつつあります。特に最近の話題は生成AIによ
るビジネスの効率化が叫ばれつつあります。人間の知能を超える様な生成AIが生
まれてきそうだと言われています。事実、囲碁や将棋、チェスなどでは生成AIが
各々のプロを打ち破ったと云う報告があります。そうなると人の知能よりもずっと高い
人工知能が出てきて、人をコントロールするのではないかという不安が人々には芽生
えます。それで、今生成AIの開発に感じて推進する人々と逆に生成AIの開発に
制限をかけようとする人々の間で論争が生まれています。推進する人々は無駄を省
いて効率よく仕事が出来て人々が楽をすると云いますし、逆に開発に反対する人々
はAIが発達しすぎて人をコントロールしたり悪事に使われたりするリスクが高いと云い
ます。どちらにも言い分があり、どちらが正しいとは言えません。でもおそらく間違いなく
生成AIは発達していくでしょう。それは人々の力では押さえようがないような歴史のう
ねりのようなものです。かつて産業革命で人々の暮らしが一変したように、又原水爆
が開発されて戦争のあり方が変わったように、おそらく人々の思いではどうすることも
出来ない様な不思議な力が働いている気がします。
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これからの時代はどんどんデジタル化が進んでいくようなって、今まではアナログの世
界の自然環境でさえ、デジタル化で自然環境さえも変えられて行くような時代が来
そうな予感がします。
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そうなると、私達が今見ている自然の世界は実はバーチャル世界に置き換わってい
ってしまって、知らない間に見ている世界さえもそれが本物か偽物かも分からなくな
ってしまう世界になりかねません。いやきっとそんな時代がそう遠くない世の中では当
たり前になっていきそうです。
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もしそんな時代が来たとして、では宗教は一体どういう風に変わるのでしょうか?
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デジタル時代のキリスト教や仏教はその本質が変わってしまうのでしょうか?
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残念ながら、今の時点ではどうなるかは誰にも分かりません。
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でも、言い換えれば、そのことはデジタル全盛の時代にアナログは残るのかという問
いでもあるような気がします。それなら、答えは簡単です。私はどんな時代であっても
アナログは残るだろうと思います。
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それはデジタルが持つどうすることも出来ない欠点があるからです。それは電気がな
ければ動かないということです。どんなにすごい生成AIが出来たとしても、そのエネル
ギーは電気によるものだからです。しかし自然は違うのです。自然の世界では電気が
なくても大丈夫です。電気を生み出す様な仕組みも作れますが、電気がなくても大
丈夫な仕組みも可能だからです。
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同じような事が宗教についても云えるのです。宗教はいつどんな時代でも必要だから
です。つまり生成AIに取って見れば、宗教の持つ神秘性は太刀打ちの出来ない謎
みたいなものでは無いでしょうか?
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宗教の本質は「無」から「有」を生み出せるものだということでもあります。何もないと
ころから、何かが生まれてくることが将にアナログなのです。それは残念ながらデジタ
ルではどうすることも出来ない事だと思います。
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でも、人々はそんなことは重々承知しています。分かっていて、でもデジタルの心地
よさについ惹かれてしまうのではないでしょうか?
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宗教も特にデジタルのバーチャル映像などをうまく利用してあたかも天国のような感
じを作り出されて居心地良くしている間に現実では飛んでもないことが行われていた
りするとか、人が生成AI技術をうまく利用してバーチャル宗教なる世界を生み出しか
ねません。又、それを悪用する様な人々も出てきかねません。
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でも、その様な所には宗教の本質はなく、始めはうまくいくとしても恐らく長続きはしな
いだろうと思われます。どこかでボロが出ます。それが自然なことです。アナログだか
らです。悪事はどこかでばれるように出来ています。隠していても必ずどこかで分かる
ときが来るのです。悪い事は出来ないのが世の常でもあります。
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歴史を見れば、それが分かります。どんなに強い国だとしてもいつか衰えて弱くなりま
す。栄枯盛衰は世の習いです。
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その、波瀾万丈の世の中で生き残れるのが真の宗教ということになります。キリスト
教も仏教もイスラム教もその様な波瀾万丈の世の中を生き抜いてきた宗教です。形
はどうであれ人々の生活の中に入り込んでいます。
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一時の便利さに人々は魅了されても、時が過ぎると人々は熱が冷め飽きられていき
ます。いくら生成AIが人の知能を超えると行っても、人々の思いの移ろいには立ち向
かえないのです。便利だと思っていたものが、不便になり、楽だと思っていたものが重
荷になっていきます。その時なって人々は生成AIの情のなさにはっきりと気が付きま
す。何しろ生成AIは人の感情が分からないので、人々の心の機微には付いてはい
けません。
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只、人が全ての頂点と私達は思っていますが、しかし人が全ての頂点ではないとした
ら、生成AIが人の上に来ても不思議ではありません。何しろAIの知識はすごく、人
の知識を遙かに超えて行くと思われます。それが人々の生活に役立つのであれば、
AIに支配されても良いのではないかとも思われますが、時に人はAI使って人を支
配しようとします。そうなると、そこには人々の生活をおとしめるような陰謀が出てくる
可能性もあり、決して安心してAIを信用するわけにも行かないということも云えます。
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残念ながら結論は何処までいってもつきないことのようです。
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そこで、生成AIをどう信仰生活にどう活用していくかを考えて見ますと、バーチャル
体験としてのAI技術は発達しそうです。宗教的体験をバーチャルとして体験するこ
とは面白そうな試みでもあります。
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でも、忘れてはならないことは何処まで行ってもAIを完全に信用してはいけないと云
うことです。最後はアナログの世界になります。
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どこかで、デジタルの世界を離れて、心を空っぽにする必要があります。バーチャル
空間は何処まで行ってもバーチャル空間だからです。本当の所をバーチャルは教え
てはくれないのです。実際に自分で体験して実感する必要があります。そのときにな
って人は改めて神の存在を認める様になるのではないかと思います。
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人を超えた世界です。全てが始まり全てがそこで完結します。
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イエス様が云われたことは、何があっても大丈夫ですよと言う事だと思います。その
世界を感じて生きて行く事がとても大切になります。
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今を生きていられる事は奇蹟的な事だということです。明日のことは誰にも分かりませ
ん。今を大切に感謝して生きる事が出来ればそれだけで良いということでもあります。
いくら明日を心配しても、今を大切に生きなかったら明日はないのです。今をしっかり
と生きられたときに初めて明日が見えてきます。だから感謝しましょう。今生きていられ
る事に。感謝しても感謝しても感謝仕切れないのです。どんなに苦しくても悲しくても
大丈夫です。私達は見える世界にいるけれども、見える形ではいない世界が私達の
周りにあるのです。それを信じるほかないからです。「神の国」は見える形では来ない
のです。私達は感じる事しか出来ません。でもその世界から私達は生まれてきたのだ
と思っています。そして帰って行く世界も将にその世界です。その世界は残念なが
らデジタルでは表せないのです。見える形では来ない世界だからです。
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自然環境はいわばアナログの宝庫です。その一つ一つに生命が宿り、命が輝いて
います。それはそれ自体が神秘的なものだということでもあります。
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デジタルは人工的な模倣物ですから、その中には命はありません。つまり神秘性がな
いのです。必ず見える形でないと作り出せません。でも見えている物はデジタル技術を
屈しすると何とか模倣は出来ます。しかし、そこには残念ながら命の輝きはないと云え
るでしょう。
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宗教でも、同じです。一見宗教らしいものはデジタルで作り出せますが、それはあくま
でも模倣でしかないのです。宗教の宗教たるゆえんはその神秘性にあります。命の輝
く世界が宗教の中にはあるのです。その輝く世界がないと宗教ではなくなるのです。
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イエス様の言葉にはその輝くような生命感が感じられます。
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あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しかし、
わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたがた
の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも
正しくない者にも雨を降らせてくださるからである
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私達は「悪は悪だ」と思っています。「敵はあくまでも敵」です。隣人を愛することは出
来ても、決して敵は愛せません。でも、イエス様はそう言われませんでした。「敵を愛
し、自分を迫害する者の為に祈りなさい」と言われました。
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その理由が、あなたがたの天の父の子となるためだと言われます。
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私には是を見える形では来ない世界を感じなさいといわれている気がするのです。
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つまり見えている世界だけが全てではありませんよと云われているのだと思います。
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見える形では来ない世界が私達の土台だと思っているはずの見えている世界の他に
あるのですよと云われている気がします。自然の神秘性ということは、見えている自然
だけが自然の全てではありませんよと云うことでもある様に、もっともっと不思議な世
界が自然の中にはあると云うことです。それは見える形では来ない世界のことではな
いかと思います。勿論見えるわけではないので、誰にも分かりません。でもその世界は
イエス様の言葉を借りると、私達のただ中に存在しているのです。あるいは私達の間
にあるのです。
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見える形では来ないのに私達のただ中にはあると云われます。将にそれが神秘的な
ことであるのです。
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その世界を感じる事が出来れば、その時に私達は「隣人を愛するように、敵をも愛
することが出来る」様になるのではないかと思います。その世界に私達の思いが及べ
ば、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降ら
せて下さるからである」とイエス様が云われた事が納得出来る気がします。
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私達の見ている視線を見えている世界から見える形では来ない世界に目を向けさせ
ようとされているのではないでしょうか?
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確かに自然の世界は悪人も善人も区別はしません。正しい者も正しくない者も同じ
ように差は無いのです。いわばどんな人も自然の恵みを受けているのです。その自然
の恵みを実感する事が出来れば、それは見える形では来ない世界を感じているのだ
と思います。
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イエス様が立たれている場所はそういう世界なのではないでしょうか?そして、それは
今見えている世界だけが全てではない世界なのだと思います。
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どんなに悲しくても。どんなに苦しくても大丈夫な世界です。その世界から私達に向
かって「汝の敵を愛しなさい」と言われているのだと思います。勿論見える形ではあり
ません。でも、その世界は私達のただ中にあるのです。そのことが信じられるかどう
か、これは各々の人のその時の状況で変わります。
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あるときは信じられても、あるときは否定します。全ては個人個人に委ねられています。
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でも、私は思うのですが、たとえ信じるかどうかは個人に委ねられているとはいえ、イエ
ス様の立たれている世界はいつもそこにあるのだと思います。只見える形では来ない
のです。だからこそ見えている世界だけを信じるのではなくて、見える形では来ない世
界を感じてほしいのです。
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その世界は自然の中にあります。空には鳥が飛び、野には花が咲いています。のど
かで、平和で敵がいません。空っぽの世界です。「すっからかん」の世界です。将に
「日々是好日」の世界でもあるのです。その世界からイエス様は私達に呼びかけら
れているのだと思います。
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あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しかし、
わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたがた
の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも
正しくない者にも雨を降らせてくださるからである
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マタイによる福音書 5章 45節 1月1日(月) 左京教会の元旦礼拝
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「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて
くださるからである。」
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「汝の敵を愛しなさい」というマタイ伝5章のイエス様のお言葉を昨年の左京教会の
テーマとしてお話ししてきましたが、今日は令和6年、2024年の元旦礼拝でも新たに
このテーマについて考えたいと思います。
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マタイによる福音書5章43節から45節を拝読しますと
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43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しか
し、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたが
たの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者に
も正しくない者にも雨を降らせてくださるからである
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2024年は今日から始まります。今年1年間がどういう年になるか、それは誰にも分か
りません。でも、どのようなことが起ころうとも、ここに書かれてあるように「父は悪人に
も善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからで
ある。」ということは消えないでしょう。
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何故なら、天の摂理のようなものだからです。太陽が東から昇り、西に沈むように当
たり前のことだからでもあります。たとえ人がどうなってもこの摂理は変わらないというこ
とだと思います。
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イエス様は人の営みをその足下でしっかりと支えている神の恵みについて話されてい
るからでもあります。
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私達はどうしても目に見える自分たちの恵みに目が行きます。でも、イエス様の視点
は神の恵みに目が行っています。そこからこの世界を見ると、隣人を愛し、敵をも愛
しなさいと云う事になるのだと思います。神の恵みは分け隔てがないのです。
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人の世だと必ず差別が出てきます。お金持ちの人、貧乏な人、障害のある人、ない
人、若者や老人などなど様々な差が私達の住む世界にはあります。それらは皆、
同じではないのです。違いがあります。人の個性もそうです。様々な個性があります。
才能に恵まれた人も恵まれない人も、あるいは運の善い人や運がない人もいます。
災害に遭う人、遭わない人や戦争を経験した人とそうでない人などなど、人には違
いが色々あります。でもそれがこの世での当然の姿であります。
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只、イエス様は、その様なこの世の当然の様な姿には目もくれずに、私達が忘れて
しまっている、この世の姿ではない、見える形では来ない世界の事を思われているの
だと思います。
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それが、私達をその足下でしっかりと私達を支えてくれている世界です。目には見え
る形では来ませんが、私達の間にはあるのです。その世界をイエス様はいつも感じて
おられて、そこ世界から私達にメッセージを送って下さっています。それが「汝の敵
を愛せよ」という言葉ではないでしょうか?
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私達の思いはこの世を基準にしますが、この世の基準は決して一つではなくて様々
な矛盾を含んでいます。従って、その基準を統一することは不可能です。でも神様
の世界での基準はおそらく不変なのだと思います。
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その一つが「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも
雨を降らせてくださるからである。」ということなのだと思います。
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イエス様の「汝の敵を愛せよ」と言われることはすでにそれ自体はこの世の基準では
ないのだと思います。
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この世の中では、敵はどうしても愛せません。特に戦争や紛争地帯では人が毎日の
ように死んでいきます。爆弾で鉄砲の弾で人々は傷つき死んでゆきます。攻撃してくる
のは敵です。でも、時には間違って敵と思われて味方が犠牲になったりもします。
只、そのことにだけ目を奪われていると、敵への憎しみが消えることはありません。敵と
思う心をどこかで静める必要があります。
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年の初めに当たって、心を穏やかに過ごすためには、この世での思いを一度忘れる
必要があります。良いこと悪いこと全てを忘れてしまう事が大切になります。
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初心に戻るというか、一から始めるというか、今までのことを皆忘れて心を空っぽに出
来れば幸いです。
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イエス様が立って語られる場所はそんな場所ではないかと思います。
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つまり、この世が全てだと思っていると、絶対に敵は愛せません。この世だけが全てで
はないから、イエス様は汝の敵を愛しなさいと言われたのだと思います。
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この世を基準にしている限り、心は穏やかにはなりません。どこかに矛盾があります。ど
んな言葉にも裏があるかもしれないからです。でもイエス様が云われることには表も
裏もありません。だから、ホット出来るのだと思います。その心の中には敵が存在しな
いからです。平和でのどかで心が温かくなります。それには鳥が飛んでいて、野には
花が咲いています。
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この世が戦争で何時死ぬか分からない時でも、貧乏のどん底でも、いつも「日々是
好日」なのです。
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私はイエス様が立っておられる場所はそのような所なのだと思っています。そして、そ
の場所から私達に向かって、「汝の敵を愛しなさい」と言われている気がします。
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心の中には敵がいないからでもあるのです。将に何も心の中に不安がない状態でい
られるからです。
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イエス様が言われることを良く聞くことが出来れば、私達の心も次第に心が落ち着
いてゆくのではないでしょうか?
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その為にはこの世だけが全てではないと云う事に気が付く必要があります。今見えて
いる事実だけが全てではないのです。見える形では来ない世界を感じる必要があるの
では無いでしょうか?
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その世界を感じる事が出来れば、イエス様が言われることがなんとなく理解が出来
る様になる気がします。
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この年の始めに、今年を歩み出す始めの日に、今一度イエス様のこの言葉をかみし
めてみたいと思います。
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43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しか
し、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたが
たの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者に
も正しくない者にも雨を降らせてくださるからである
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