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「神の国はあなた方の中にある。その15」  6月19日 講話

ルカによる福音書。17章20節〜21節

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われ
た。「神の国」は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでも
ない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。

  明日の事は私達には分かりません。でも分からないからこそ生きていられるのか
も知れません。こうして今生きていられる事に感謝しましょう。生きていられる事が
奇蹟のようなことなのですから。人生をこうして歩んでこられることの素晴らしさは、
今がどういう状態であったとしてもすごいことなのです。そのすごさは私にはどう表
現すれば良いかは分かりませんが、今までの人々が作ってきた芸術作品などの
一つ一つに刻まれているものだろうと思います。生きる事の喜びがその作品の一
つ一つに込められているのだと思います。無限の努力を人々は今まで続けてきて
いるのです。勿論人には限られた時間というものがありますから、人が行っているこ
と自体には限界があります。でも今までの人々の努力が時間をかけて積み重なっ
て、文化や文明が生まれてきたのだと思います。
 ところが今、人の世の終わりが近いと言われ始めています。その理由は核開
発と戦争にあります。原爆の開発が止まりません。人々は自らの終焉を自らの手
によってなそうと努力していることになります。生きる事の大切さとは裏腹に、人々
は自らの手で自らの命を早めようとしているとも言えます。その様な人の世界の有
様とは別に「神の国」は存在します。人の世がもし無くなったとしても、「神の国」
は存在するのだと思うのです。何故なら見えないからです。見える形では来ないか
らです。生きる事の素晴らしさは人が全て死に絶えたとしても存在するのだと云うこ
とです。かつて地球を恐竜たちが支配していた世界があったように、今は人が地
球を支配しているかのように思えます。でも、その人の世もいつか消えていくことに
なるでしょう。人には限界があるからです。初めがあれば終わりもあります。でも何
時までも残るものがあるとしたら、それは「神の国」だと思います。それは「神の支
配」と云っても良いかも知れません。神の支配している世界ということです。神が
支配している世界は見えません。見える形では来ないからです。でも私達の間に
はあるのです。つまり、私達は神の支配する世界の中にいると云うことでもありま
す。でも見える形では来ないのです。感じるしか無いのだと思います。人々はその
神の支配する世界を感じ取って様々な文化や文明を築いてきたのだと思います。
芸術作品も実はそこから生まれて来たのではないかと思います。本来宗教は実
はそこから来ていると思います。でも様々な宗教の中には人が考えて作ったもの
もあるのでは無いでしょうか?しかし、おそらく人が作った宗教は長続きしないもの
だと思います。逆に何時までも残っている宗教には人が作ったものとは違う様な
趣があります。
 只、そのいつまでも残っている宗教でも、その解釈は年代時代で変わってい
きます。キリスト教も仏教も年代でそれぞれに解釈が変わってきているのではない
でしょうか?現代における宗教の位置づけは現代風にアレンジされて伝わります。
キリスト教も仏教もイスラム教も初め出来た頃の考えとは異なって云ってもおかし
くはないのだと思います。只それでもその神髄においては何も変わらないのだと思
います。それが伝統宗教の抱える大きさでもあります。つまりそれは見えない世界
を伝えているからだと思えます。
 私は伝統宗教の持つ大きさは、その根本的な発想が人の思いを越えているか
らだろうと思います。人が宗教を作ったのではないからでしょうか?人が作った宗
教にはどうしても限界があります。それはどこか人を守る教えがあるからです。人を
守る事は出来ないこともあるのです。何故なら神は人を越えるからでもあります。自
分を守れない宗教があるとしたら、それは果たして宗教と言えるのかと言う問題も
あります。でも伝統ある宗教はそこに神髄を見せます。見えない世界を感じさせて
くれるからです。自我を越えた世界を私達に感じさせてくれるからでもあります。
 昨年に放映されたNHKの朝ドラ「カムカムエブリボディー」の中で歌われる
「on The sunny side of The street」(明るい表通りで)の歌詞のように

コートをつかみ、帽子を取ったなら
悩みはひとまず置いといて、ドアをあけよう
明るい表通りをあるけば、何もかも良くなるさ、
君と出会い何もかも変わった
今まで暗い道ばかり歩いてきたけれど
今は恐くない、明るい表通りをあるけば
足元の塵も金に変わるんだ

 ここに書かれてある詩は実に不思議な内容の詩です。君に会っただけなのに
沈んでいた心が180度変わって明るくなります。実にその世界は、自分の思いを
越えて存在するからなのでしょうか?
 人々は何故かその世界を知っているのです。たとえ見えなくても、見える形では
来なくても人々は感覚的にその世界が私達の周りに存在している事を感じている
のだと思います。人生は素晴らしいものだと云うことを知っているのだと思います。
生きていられる事が素晴らしい事だと分かっているのです。
 でも、その世界で人々は同時に悩むのです。苦しむのだと思います。それは決
して生きる事が楽ではないからです。楽して生きていける社会ではないからです。
年金があるから私達は幸せではないのです。将来がある様な生活が出来るから
幸せではないのです。年金がいくらあろうと人々は決して幸せというわけではありま
せん。今生きていられる事が人に取って一番の幸せでもあるのです。つまり「神の
国」は今と言う世界に存在するのだと思います。見える形では来ませんが、私達
のただ中にあるのです。イエス様が伝えたかったことは、「神の国」が何時来るの
か考えるくらいなら、今を大切にしなさいという事だと思います。明日私達は死んで
いるかもしれません。今をしっかりと生き抜きなさいといわれている気がします。今を
しっかりと生きている事が出来れば、必ず明日が見えてきます。もし明日私達の
命がなくなっていたとしても、何も怖くはないのです。今をしっかりと前を向いて生き
ていけるとしたら、それ以上のものは何もいらなくなります。老後の蓄えも大切でし
ょう。老後の生活をしっかりと考える事もとても大切な事です。でも何より大切な
事は今を大切にすることではないでしょうか?今を大切にしなかったら、老後がどう
だとかこうだとか考えたところで、意味は無いのです。今こうして生きていられる事の
素晴らしさ以上に、素晴らしい事は何も無いのです。イエス様が云われた事は今
を大切に生きなさいと云うことだと思っています。私達はもうすでに「神の国」にいる
のです。「神の国」で暮らしています。でも見えません。見える形では来ないので
す。だからその「神の国」を感じるように、今という時間を大切にしてほしいのです。
それこそ明日は分かりません。明日は私達には見えないからです。今を大切にし
て歩んで行ければ、そこに明日が生まれてくるのだと思います。
まず「神の国」と「神の義」を求めましょう。でも見えません、見える形では来ない
のです。感じるしかないのだと思います。その為には今をしっかりと歩みましょう。

悩みはひとまず置いといて、ドアをあけよう
明るい表通りをあるけば、何もかも良くなるさ、
君と出会い何もかも変わった
今まで暗い道ばかり歩いてきたけれど
今は恐くない、明るい表通りをあるけば
足元の塵も金に変わるんだ

 今までの暗い部屋から明るい陽の当たる通りに出て歩めば、足下の塵やゴミが
金色に光り出します。それが感じられれば、それは将に「神の国」です。核戦争
の危機も地球温暖化も食糧難もコロナ感染も何も恐れることはありません。しっ
かりと今を力強く歩むことが出来ます。前をしっかりと見て歩めれば、何も恐ろしく
なくなります。勇気を持ってしっかりと歩みましょう。それがイエス様の云われる「神
の国」なのだと思います。
 パウロはガラテヤの信徒への手紙 2章20節で「キリストが私の内に生きて
おられる」と云いました。この言葉は、将にそのことを語っているような気がします。
私はその世界は「ポカンポカンとした世界」だと思っています。空には鳥が飛び、
野には花が咲く世界です。将に何もない世界です。「無」の世界ですが、無限の
力があります。この世はいずれどこかの時点では滅びてしまうかも知れません。で
も「くすしき光」は残るのです。人々は愚かな戦争を続ければ続けるほど、それだ
け自らを滅ぼしてしまいかねない行為を続ける事になります。ましてや大国のロシア
が世界中の国々に向かって自分たちの正当性を叫べば叫ぶほどに、その愚か
な行為が目立ってしまいます。力で人を従わせようとするものはその力によって自
らが滅んでいくしか無いのだと思います。でもそれが分かるのは今ではありません。
もっとずっと後になってからだと思われます。
 「神の国」は私達の周りに見えないけれどあるのだと思います。勿論見えませ
ん。見える形では来ないからです。「ここにある」「あそこにある」と云えるものではあ
りませんが、私達のただ中には見いだすことが、あるいは感じられる様なるのだと思
います。芸術活動などもその世界に刺激を受けて出来ているような気がします。
人の苦しみのその底辺に豊かに支えられている世界が存在すると思うのです。戦
争という地獄のような状態の中でも、「神の国」はあります。人の思い通りには世
の中は進みませんが、知らない間に私達はちゃんと守られて生かされているという
事でもあります。もちろん見えません。感じるしかないのだと思います。でも私達には
見ない世界が私達を見守っていてくれています。それを感じましょう。その為に心
に「ポカンポカンとした世界」を置きます。鉄砲の弾が飛び交っていても、ロケット
頭上から降ってきても大丈夫です。何も恐れることはないのです。勿論恐怖はあり
ます。恐ろしさは決して消えないでしょう。でもそれでも私達は守られていると思い
ます。私達には見ることの出来ない世界が私達を見えない所から支え見守ってい
て下さっているのだと思います。私達の命は明日どうなっているか分からないので
すが、それでも私達を見守っていて下さっています。その世界を感じる事が出来
れば、何も恐ろしくはなくなります。勿論見える世界にいると生きる事の辛さや苦し
さがあります。恐ろしさも決して消えないでしょう。つまりこの見える世界にだけ思い
を置いていると、いつまで経っても恐ろしさや苦しみは消えることはないのですが、
心を「ポカンポカンとした世界」に置くことで、見える形では来ない「神の国」を感じ
られる様になるのだと思います。空には鳥が飛び、野には花が咲く世界です。何
もない「無」の世界でもあります。でも無限の力があります。命がたぎる世界です。
一無為の真人が身体を出入りしている世界です。まさに平々凡々な日々でもあ
ります。平和でのどかな世界です。その世界はロケットが頭上から降ってきても、
鉄砲の弾が飛び交っている戦争に最中にでも存在するのです。もう一度言いま
すが、私達は明日生きているかどうかは分からないのです。そんな不確かな世界
に生きていますが、何も心配はいらないのです。それが「神の国」です。
只、現代において人類は自らを自らの手で滅ぼしかねない状態でもあります。戦
争や争いは世界の様々なところで起こっています。何時大きな争いが起こって、
それが拡大しないとも限らないのです。ウクライナではロシア軍がウクライナに侵
攻してきて、今血で血を洗うような激しい戦闘が行われています。台湾にしても中
国が不気味な動きをして軍を周辺に集めています。
 アメリカや欧米あるいは日本などはそれらの動きに敏感になっています。そうし
て世の中を見てみると私達は決して安穏とはしておれません。でも、イエス様は
「神の国」は私達のただ中にあると云われます。つまりどんな危機においても、必
ず「神の国」は私達の間にはあるのです。だから、希望を持ってこの大きな危機に
立ち向かおうではありませんか。恐れることはないのです。何があっても大丈夫な
世界です。どんなに苦しいことがあっても大丈夫な世界です。心に「ポカンポカン
とした世界」を置いて今を生きましょう。「神の国」は見える形では来ませんが、私
達のただ中にあります。
 私達は見えない「神の国」に包まれていることを忘れないようにしたいと思いま
す。イエス様を見上げましょう。イエス様の十字架を仰ぎましょう。そこには生死を
超えた「神の国」があります。「ポカンポカンとした世界」です。松下先生が云わ
れた命がたぎる世界です。「創造における自然」な世界です。茶の湯でいえば
「一期一会」で「日々是好日」の世界です。禅宗なら「無」の世界です。臨済
禅師なら一無為の真人が身体を出入りする世界です。キリスト教なら「愛」の世
界です。パウロなら「キリストが私の内に生きておられる」世界です。将に神の支
配に満ちあふれた世界でもあります。平和で争いがない、平々凡々な世界です。
あるいは絶対の世界でもあります。現代の危機に満ちあふれたように見えている世
界は実はこのような「神の国」の中にあるのです。だから安心して今を歩もうではあ
りませんか。恐れる必要など何もありません。今をしっかりと歩むことが出来れば、
明日の事を思い煩う必要は無いのです。
 ところで、私達は自我の世界に生きています。自我という事はいわば見えている
世界という事でもあると思っています。私達が見たり聞いたり感じたりする世界、つ
まり喜怒哀楽の世界です。よろこびや悲しみが山のようにある世界です。その世
界には罪も罰もあります。正義も不正義も、善も悪も存在するのではないでしょう
か。
 「因果応報」ということばがありますが、これはインターネットからとってきた三省
堂の国語辞書によると
人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるというこ
と。もと仏教語。行為の善悪に応じて、その報いがあること。

 とあります。悪い行いとは何かという問題はありますが、多くの死者をだす戦争と
いう行為は決して善行とはいえない行為です。理由は様々にあるのでしょうが力で
従わせようとするものは力が落ちてきたときに、自分が使った力で報いを受けること
になる気がします。だから愚かな戦争はなるべく早くに止めるしかないのだと思いま
す。戦争は次の争いを生み出します。とどまるところを知らない戦争の連鎖が始ま
らないようにする事が人の知恵なのだと思います。只今回は人の知恵も余り役だ
ってはいませんが、何時か必ずその知恵が必要になるときが来ると思います。そ
れまでは耐えに耐えて行くしか他ありません。
 「神の国」には「因果応報」という考えは存在しえ無いと思います。でも、この
世ではこの「因果応報」は存在するのかなあと思ってしまいます。戦争が悪だとは
云いませんが、戦争を仕掛けるという事はやはりどこかに善い悪いというこの世的
な判断が存在します。やむにやまれぬという事もあるかも知れませんが、罪と罰と
いうこの世的判断がそこには存在するでしょう。それで問題になるのは、自我の
世界にだけ心を置いているのでは、何が正義か、何が悪かという思いにとらわれ
てしまいがちだという事です。あるいは悲しみにだけ苦しみにだけ心を置いてしまい
がちになります。
 でもイエス様はおそらく見えている世界にだけ心を置かずに、見る形では来ない
世界を心に置きましょうと云われているのだと思います。だから「因果応報」という
人の行為の結果にだけに心を向けないでほしいと思います。
 「神の国」は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるもので
もない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
という、「神の国」はいつ来るのかと尋ねた人々へのイエス様の答えには、その様
な思いが込められていたのだと思います。






「神の国はあなた方の中にある。その13」 令和4年5月29日 講話

ルカによる福音書。17章20節〜21節

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われ
た。
「神の国」は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもな
い。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。


 日常を考えたときに、毎日私達は何の為に働いているのかとふと疑問が湧いてく
るときがあります。生活するため、家族を守るため、生きがいを求めてなどなどそれ
らしい目的が見つかることもあります。でも究極は何かと問われるとよく分からない
事の方が多いのではないのかと思います。何時とはなしに、知らず知らずのうちに
ふと気がついたときには働いていたのではないでしょうか?そして、気がつかない間
に歳をとり死んでゆくのではないのかなとは思います。NHKの大河ドラマ「晴天を
衝く」で渋沢栄一の生涯をドラマ化していましたが、駆け抜けた91年間を走馬灯
のように1年間にわたり放映されていました。将に波瀾万丈に満ちた生涯でした
が、でもどんなに波瀾万丈であっても、最後はその心の出発点を若い時の活気
に満ちた頃のことを振り返ることで終わっていました。ドラマの作り方として、心はい
つも青年のようであったという印象を抱かせる内容でしたが、実際に私達も歳を
取って見ると身体はどんどんと衰えていきますが、心は若い頃のような気でいたりし
ます。何故心が若くてありたいと思うのか不思議ではありますが、心はそう簡単に
は老いたくないのかも知れません。心を若々しく保つようにするということは、いわば
なんとか生きたいという証明でもあります。あるいは死にたくないという証明かも知れ
ません。
 でも、私の思いですが、心にはいつもポカンポカンとした思いを置いて生きたいの
です。死んでも生きても神の内という心境が心にあることが大切なのではないかと
も思います。何の為に生きているのかは人の思いで様々に変わるのですが、おそ
らくその思いを突き詰めていっても答えはないような気がします。人はどこか知らな
い間に生きている.あるいは生かされている気がするからです。
聖書に「成長する種」のたとえとして
マルコ4章26-29で
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものであ る。人が土に種を蒔い
て、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるの
か、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、
そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時
が来たからである。」
 とあります。このたとえは私達の人生を表しているようにも思えます。人が生きてい
るのはまさに知らない間に生かされて生きている気がするからです。勿論異論は多
くあるとは思います。でも私にはそう思えます。私達の生涯はいわば過ぎてしまえば
それこそあっという間の出来事の様に思えます。例え嵐に出会ったとしても、死
ぬ目に遭ったとしても過ぎてしまえば思い出の中です。波瀾万丈のように見えてい
ても必死になって生きている間での出来事になります。将に平々凡々と生きよう
が、波瀾万丈で生きようが過ぎてしまえば結局はどちらも成長する種なのではな
いでしょうか?刈り入れを待つ心の種なのだという気がします。心にポカンポカンと
した世界を置いて見ましょう。あるいは命たぎる世界をあるいは空に鳥が飛び、野
には花が咲くような将に「創造における自然」な世界に心を置きましょう。あるいは
「無」の世界かも知れません。何もない世界なのかも知れません。その世界はい
わば「絶対の世界」でもあります。平和で差別や偏見のない世界です。その様な
世界に心を置いて人生を歩んでいければ、あまり人生を後悔せずに成長していけ
るような気がします。でも生きて行くと云うことは決して楽ではありませんので、時に
間違えたり迷ったりします。その様な時にでも、いつもどこかにこの「ポカンポカンと
した世界」を感じられれば人生の間違いや迷いから解放されることになると思いま
す。
 私達の行く先は見えません。勿論人によっては前途洋々の人もおられるでしょう
し、後がないと思われている人もおられるでしょうが、どちらにしても明日の事は誰
にも分かりません。明日が分からない人生だからこそ、人生は楽しいのかも知れ
ません。私の思いですが、今しかないのだと思います。生きている事を実感出来る
のは今この瞬間だけなのだと思います。明日はどうなるかは分からないのですが、
間違いなく今は生きています。それが重要なのです。今こうして生きている事を実
感しながら生きて行く事がとても重要になります。
例え何が起こったとしても生きているのなら、その生きられている事に感謝します。
今できることしか私達には出来ません。「一期一会」を生きる事になります。そうし
て必死になって生きている事が次第に「日々是好日」に繋がっていきます。それ
は知らない間に生きている事になります。夢中で生きていられるなら、将にそれは
不思議と生かされていることの現れでもあります。慌てる必要は無いのです。必死
になって生きていると云うことは自分の思いの中だけでは生きているのではないのだ
と思います。色々考えて人は計画を立てそれを実行していきますが、計画通りに
は行かないのが人生でもあります。例え計画通りに行かない人生だとしても、その
人の人生は存在するのです。生きている限り人生を歩まなければなりません。その
人の人生はその人のものです。勿論思い通りにはいかないでしょうが、それでも
その人の人生はその人のものだと思います。只、人は時々道を外れて彷徨うこと
があります。自分の人生なのだけれど、どう人生を生きたら良いか分からなくなった
りします。そんなときにこのポカンポカンとした世界を心に置いてほしいのです。空に
は鳥が飛び、野には花が咲く「創造における自然」な世界です。命たぎる世界で
す。「一期一会」で「日々是好日」の世界でもあります。あるいは「無」の世界で
もあります。一無為の真人が出入りする世界でもあります。見方を変えると何もな
い平々凡々な日々でもあります。その世界に心を置いて考えて見ましょう。何も
恐れることのない世界です。安心していられる平和な世界です。その世界を心に
置きましょう。そしてその世界から今生きている世界を眺めてみます。どうですか、
見える景色が変わった様な気はしませんでしょうか?
 現実の状態は何一つ変わらないけれど、どこかに生きる希望が湧いては来ませ
んでしょうか?辛いけれどやって見ようかという気にはなりませんでしょうか?もうだ
めだと思っていたけれど、少しでも前に進んでみようという気にはなりませんでしょう
か?その気持ちがとても重要になります。
自我だけで私達は生きようとしていますが、実は自我だけで生きて行こうとするとと
ても苦しい世界になります。でも私達の周りに自我を超えた世界があることがわか
るだけでも、その人の人生は別な方向に変わっていくのではないでしょうか?人は
ともすれば自我まみれで生きている事があります。その世界はとてもしんどい世界
になります。かつてのアメリカ合衆国大統領が星占いに頼ったりしたこともあっと
か。アメリカ大統領の責務はおそらく非常に重く、今後を考えたときにその重荷に
耐え切れなかったのかも知れませんが、占星術のような世界にも助けを求めざる
を得なかったのかも知れません。それくらい自分で決めると云うことが自我の世界
だと難しくなります。世界をしょって立つような気持ちになるのだと思いますが、それ
は自我だけで処理しようとするとどうしても不安が先に立つことになるからです。
でも心に「神の国」を置ければ、「ポカンポカンとした世界」から現実の世界を見
ることになります。単なる不安では無くて、イエス様に抱きかかえ上げられてこの世
を見ることになります。その安心感はそれがアメリカ大統領でも同じ事のように思
えます。その占星術師がその様な思いを持っておられれば、きっと良いアドバイス
が与えられたのかも知れません。でも逆にその占星術が世界中の人の行く末を
変えるものになったとしたら、そう考えると無闇に占星術を信じる訳にもいかないと
いう事になります。いずれにしても明日の事は誰にも分かりません。おそらくその占
星術師にも分からない事だと思います。心を落ちつかせる世界は見えない世界の
中にあります。見える形では来ないけれど、私達のただ中にある世界を感じましょ
う。「ポカンポカンとした世界」です。空には鳥が飛び、野には花が咲く「創造にお
ける自然」な世界です。その世界からもう一度この現実を見て見ましょう。必ず
答えがその中にあります。世界の指導者達はきっと孤独なのだろうと思います。そ
の孤独な立場でも、必ず道があります。道を間違わないようにするには「ポカンポ
カンとした世界」に心を置きましょう。そこから世界を眺めてみましょう。それがとて
も大切な事のように思えます。
 まして、私達はごくごく一般の庶民です。決して世界を背負って立つ必要などは
ありませんが、でもそれでも生きている間には心が揺れ動く瞬間があります。その
様な時に何に心を寄せるかは大切な問題です。占いや御利益につい心を寄せた
くなります。でも心を寄せるなら何もない「ポカンポカンとした世界」に心を寄せたい
と思います。イエス様が「神の国」として話された世界は決して見える形では来ま
せんが、私達の間にあるのです。その世界を心に置いて生きてみたいと思います。
決して自分の思いだけでは入れない、自我を超えた世界だと思います。その世
界に入るには心にイエス様を置きます。十字架を見上げます。でも何にしても見え
る形では来ません。その見える形では来ない世界を私達はしっかりと感じ取る必
要があります。その世界は「ポカンポカンとした世界」です。何もない「無」の世界
です。空には鳥が飛び、野には花が咲く世界です。将に「創造における自然」な
世界です。命たぎる世界です。表現の仕方はいくらでもありますが、でも見えませ
ん。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもありませんが、私達のただ中にあ
ります。
 私達は明日死ぬかも知れないのですが、今こうして生きています。そのことに感
謝しましょう。感謝する以外にないのだと思います。感謝して感謝して、私達には
感謝する以外に他に方法はないのだと思います。こうして生きていられる事を感謝
するうちに、何があっても怖くはなくなります。何があっても恐れなくなります。勿論
私にはまだまだそんなことは出来ませんが、そういう気がします。イエス様が示され
た道だからです。
 心のあり方は実は生きて行く上でとても大切な問題です。でも、安定した心模様
というものを実感出来るかというと、その実現は難しく、むしろ心が揺れ動きなが
ら、なんとか人生を歩んでいるというのが、実態ではないでしょうか?見える世界に
は必ず限界があります。見えない世界を感じるしかないのだと思います。見える世
界のその周りにある見えない世界を感じましょう。その世界を感じる事、見える世
界の限界を超えて新たに見えない世界を感じる原動力がその人自身をこの見え
る世から解放することになります。「創造における自然」とそういう意味ではないか
と思います。空には鳥が飛び、野には花が咲く世界が私達の明日を包んでくれて
いるのだと思います。「一期一会」で「日々是好日」なのです。一無為の真人が
我々の身体を出入りする世界なのだと思います。平和で争いのない、差別も偏
見もない世界です。将に絶対の世界です。その世界に心を置きましょう。その世
界から今私達が生きている世界を見て見ましょう。自分がどうすれば良いのか、ど
う動けば良いのかがなんとなく分かってくるような気がします。でも現実の世では心
はあちこちと迷い歩きますが、それでもその「神の国」に心を置くようにすれば、彷
徨いながら帰るべき場所に帰れる気がします。その為にも今を大切にしましょう。
感謝して感謝して歩むしかありません。
 イエス様に抱かれて祈ります。自分を良くしようとしてあくせくしても、決して良い答
えは出てきませんが、心を空しくしてイエス様を受け入れることが出来れば、心に
は「神の国」が広がるような気がします。浅原才一はおそらく、そうして生きる事の
大切さを学んだのだろうと思います。私達も心を空しくする事が出来れば、才市の
様に素直にイエス様を心に受け入れることが出来る様になれる気がします。心を
空しくすればするほど、きっと感謝の念が大きくなるのだろうという気がします。心を
空っぽにする事が出来るかどうかは、イエス様に抱かれて祈る事が出来るかどう
かが必要になるのではないでしょうか?イエス様はなくてならないものは只一つだけ
と言われましたが、そのひとつのものとは見えない世界にある様な気がします。心
を空っぽにして初めて感じられるものでは無いでしょうか?
つまり心を空っぽにすることによって生まれるたった一つのものです。それは形のあ
るものではなくて、将に「創造における自然」の中に存在するような気がします。あ
るいは命たぎる世界の中にある様な気がします。あるいはポカンポカンとした世界の
中にあるのでは無いでしょうか?そのたった一つのものによって人は生かされてい
るのではないかと思えます。
ルカ伝10章41節〜42節の
 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気
を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。
マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけませ
ん。」
 と云う箇所はそれがマリヤにとってとても大切なものだったのだと思います。それ
は姉マルタがイエス様をとても大切に考えているのと同じくらい、マリアに取っては
そのことはとても大切なものだったのだと思います。
無くてはならないものは人によって異なるという事でもあるのですが、でも突き詰め
ていくと結局は同じ所に行き着くような気がします。マルタの心配もマリヤの心配も
実は同じものでもあるのだと思います。只何処が違うかというと、それは自我という
存在からの解放を意味するのだと思います。自分があって、他がある、という世界
からの解放という意味です。マルタがとらわれたのはイエス様をもてなそうとする思
いです。イエス様の存在がマルタを自我への思いに誘いました。又、マリヤはイエ
ス様の語る世界を見ていたのだと思います。その世界は将に自我からの解放され
た世界でもあります。マリヤが選んだほうというのは将に、相対の世界から絶対の
世界に思いを越えた世界を感じようとするところにあるのではないでしょうか?マリヤ
も初めは自我の思いにとらわれていたのだと思います。でもイエス様のお話を聞く
内に、自我の思いから自我を越えた世界を感じ始めていたのだと思います。だか
らあえてイエス様はマルタにマリヤの思いを取り上げてはいけないと諭されたのだと
思います。勿論マルタの思いも十分分かっておられたとは思います。でも大切な
事は自我の思いよりも自我を越えた所にある思いが大切だと云われたのではない
でしょうか?
 見える形では来ないものの中に実は大切なものがあるのだと思います。「ポカンポ
カンとした世界」だったり、「無」の世界だったり、空には鳥が飛んで、野には花が
咲く世界だったりします。「一期一会」で「日々是好日」の世界だったりします。
命たぎる世界かもしれませんし、平々凡々な日々かも知れません。でも見える形
ではやってこないのだと思います。感じるしかないのです。イエス様が示された「神
の国」は絶対の世界だと思います。何があっても大丈夫な世界です。どんなに苦
しいことがあっても大丈夫な世界です。それを天使が飛び交う世界だとしても、
神の軍勢が立ち並ぶ世界だとしても何も問題はありません。でも私にとってはそ
の世界は「ポカンポカンとした世界」です。天使がいなくても神の軍勢がいなくても
なんらかまわない世界です。それぞれ感じる人の世界なので、どう感じるかは人
それぞれです。中世のヨーロッパでは「神の国」を見事な絵画で表しています
が、どれも華やかな光り輝く世界として描かれています。中国や日本の仏教の僧
は墨絵で「神の国」を表していますが、華やかではなくて、落ち着いた墨絵の世
界で表したりします。将にどう「神の国」を捉えるかは人の感性で変わります。でも
表された世界は見える世界のものとなります。見えない世界の物を見える世界に
表そうとするとどうしても無理が起こります。だから、人々はその絵画を通して見え
ない世界を感じるしかないのだと思います。作者が感じた世界を見る私達が絵画
という表現された物を通してその先にある世界を感じる事が出来るのでは無いでし
ょうか?キリスト教の宗教絵画や彫刻あるいは聖書なども、あるいは仏教の仏像
や経典にしても、そこの表されているのは見たり聞いたり書いたり出来るものです
が、「神の国」を示している世界は見えない世界についてです。見える形では来な
い世界を今に表そうとして出来ているものでもあります。
 でも私達はその見えているものを通して「神の国」を感じようとします。そのギャッ
プが人々の心を迷わせます。感じる人にとっては感じられるのですが、感じられな
い人にとっては感じる事が出来ない世界でもあります
 だから、パリサイ派の人々は「神の国」を見いだすことは出来なかったのではない
でしょうか?イエス様は見える世界に心を置いていたのでは「神の国」は感じる事
は出来ませんよという事だと思うのです。心を空っぽにするほかに「神の国」を感じ
る手段はないのだと思います。心を空っぽに出来れば、そこには空を鳥が飛び、
野には花が咲いている世界が感じられる様になるのだと思います。将に「ポカンポ
カンとした世界」です。見える形では来ない「神の国」は見ようとしないで、心を空
っぽにするとそこに感じられるのではないかと思います。
 イエス様が言われた。「神の国」は見える形では来ない。「ここにある」「あそこに
ある」と言えるものでもない。実に「神の国」はあなたがたの間にあるのだという事は
このことを語られたのでは無いかと思います。






[神の国はあなた方の中にある。その60」 5月22日 講話

ルカによる福音書。17章20節〜21節

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言わ
れた。「神の国」は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるも
のでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。

 ウクライナでロシア軍とウクライナの人々の戦闘が今も繰り広げられている中で、
どうしても戦闘後の影像を見る度に、何人が犠牲になった、市民が大勢なくなっ
たという報道を聞く度に、戦争の痛ましさを感じます。報道されていない部分での
戦闘が目に浮かびます。凄惨な戦いが繰り広げられている事だと想像できます。
それでも決してウクライナの人々はひるむことなく、将にウクライナの将来の為に
戦っていると感じます。自分の身の事よりも将来のウクライナの為に戦っておられ
る気がします。ロシアには絶対負けないのだと言う気概が人々の語る言葉から聞
こえてくる気がします。特にウクライナの東部であるドネツク州での戦いは今が正念
場のような激戦地区になっています。ウクライナを応援するアメリカやEU諸国は
武器や資金援助をしてウクライナの人々を応援します。日本も岸田内閣は武器
以外の援助をしてウクライナを応援しています。
 でも、戦闘が激しければ激しいほど犠牲者が出てきます。多くの本来は死ななく
ても良かった人々が空しい戦闘の中で倒れていくことは本当に心が痛みます。早
くこの戦闘が終わって平和な日々が訪れるよう祈りたくなります。世界中で今も
多くの人々がこの戦闘が終わることを祈られていると思います。私はウクライナの
人々もおそらくロシア軍の人々にも戦争を継続したいと思っている人は余りいない
だろうと思います。でも一度始めた戦争はそう簡単には終わらないのだと思いま
す。特にロシアのプーチン大統領はロシア軍の勝利で終わらないと絶対に納得し
ないからです。でもウクライナの人々も決して負ける気はありません。どういう形でこ
の戦いを終わらせるかで、今後のその国のあり方が変わるからだと思います。
只、考えられるのはこの戦争が長引けば長引くほどロシアには不利になり、ウクラ
イナには有利になるだろうと云う気はしますが、逆にウクライナの人々の命もどんど
ん失われていくことにもなります。特にアメリカやEU諸国や日本などの経済制裁
は時間が経てば立つほどその効果が出始めていくことになりますが時間がかかり
ます。今年の秋頃にはその効果がでてロシアでの物の流通が制限されて物価の
高騰を招くことになるようです。その頃になればロシアにとってはとても辛い事にな
ると考えられます。春に起こした戦争のツケが秋になって始まると云うことになるで
しょう。ロシアは資源大国なので、ある程度の経済の低下には耐えられますが、
長い目で見るとその影響はロシア経済に痛手を負わせます。それがロシア国民
の不満になって、結局はプーチン政権の維持が困難になると思われます。プー
チン大統領は今年の秋に大統領の継続を図ろうとしていますが、その思惑が狂
っていくような気がします。私はこのウクライナへのロシア軍の侵攻はどう考えても
無理があると思います。無理を押し通そうとすればするほど逆に墓穴を掘ることに
なります。一日も早い戦闘の終息を願うばかりです。
 その様な情勢の中で、私達はどうしてもウクライナを応援して、ロシアを非難する
ことになっていきます。戦っているのはロシアとウクライナなのですが、ウクライナ贔
屓(びいき)でロシアを疎ましく思いがちです。でも本来ウクライナの人もロシアの人
も兄弟のような関係の国だと思います。お互いが憎しみ合ったり、そねみ合ったり
する中ではなくて、兄弟仲良く生活できれば幸いなのです。私達もそんな関係の
両国を見られればしあわせな感じになります。この戦争を早く終えて一日も早い
平和の訪れを、お互いが喜び合える日々が来ることを祈ります。勿論そんな簡単
にはその様な日々は来ないかも知れません。でも、そんな日を夢見て歩むことが
とても大切になります。戦争は何も生み出さないからです。むしろ人々の憎しみを
かき立ててしまいます。
 ところで、キリスト教は「愛の宗教」だと言われています。
コリント人への手紙第1の13章 1〜13節ですが
1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましい
どらや、うるさいシンバルと同じです。
2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに
通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値
打ちもありません。
3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のから
だを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢
になりません。
5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わ
ず、
6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならば
やみます。知識ならばすたれます。
9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だ
からです。
10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとし
て論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合
わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が
完全に知らされているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番す
ぐれているのは愛です。
 とあります。これは何を語っているかというと。
 私は、人は憎しみ合ったりそねみ合ったりしても、どこかで許し合わなければ生き
てはいけないのだと云うことではないかと思っています。
イエス様はパウロにそう言わせたかったのではと思うのです。
人はどうしても自我からは離れられません。当然憎しみや恨みの感情も湧いて出
てきます。でも、それだけで人は生きては行かれないのでは無いでしょうか?人生
の目的が恨みを晴らすことにあるとしたら、その人生は悲しいものになるような気が
します。恨みを晴らしたところで、何が残るのかと思うと自己満足だけのような気が
します。自分を喜ばせているだけのような気がします。戦争では多くの人の悲しみ
が、苦しみが起こってきます。当然ロシア軍の卑劣な行為は許せないという思いに
も駆られます。戦争裁判という事も云われています。そして心の中にはこの戦争
が心の癒えない傷として残ります。でも、それでも人は生きていかなくてはなりませ
ん。人が生きて行くと云うことはそれだけでとても大変な事だと思います。でも人
生には様々な事があったとしても、私達は生きている限り生かされて生きていま
す。つまり、どんなに辛い事があっても私達は生きて行こうとします。それはキリスト
教で云う「愛」の世界にいるからでもあるからです。勿論見えません。見える形で
は来ないからです。「ここにある」「あそこにある」と云えるものでもありませんが、私
達の間にはあるのです。パウロはそれを表現しようとコリントの人々に手紙を書いた
のだと思います。
 つまり生きていると云うことは、生きていると云うことだけで、実に素晴らしい事なの
だという事でもあります。それを実感出来るかどうかは私の心の中に「愛」を感じら
れるかどうかで変わります。言葉でいう「愛」は形でもあります。でも「愛」は本来
見えるものではありません。見える形では来ないのです。見えない「愛」を私達の
間では感じている事になります。ウクライナの人々もそうなのですが、私達も実は
何ら変わる事なく「愛」の中にいます。でもその「愛」は見えません。感じるしかな
いのです。どんなに苦しくても大丈夫です。どんなに辛くても大丈夫です。見える
世界は確かに苦しいのです。悲しいのです。でも見えない世界にある「愛」は見え
る世界がどのような状態でもいつも変わらずにそこにあります。気がつけばそこに
はあるのだと思います。苦しみや悲しみにだけ心を置かないようにしましょう。苦しさ
も悲しさも時間が経ってしまうと和らぎます。今の苦しみにだけに心を寄せないで、
「ポカンポカンとした世界」を感じましょう。何もない「無」の世界ですが。無限の
力があります。空には鳥が飛び、野には花が咲いている世界です。それが「愛」
の世界でもあります。自我を超えた世界でもあります。思いを越えた世界は穏やか
で、平和です。のどかで、憎しみ合うこともありません。恨みや辛みもなく、一無為
の真人が身体を出入りする世界です。私達が希望を持って進めるのは実は
「愛」のお陰なのだと思います。
 私達は何時死んでもおかしくない世界に生きています。でも何時死ぬか分からな
いのに、私達は何故か「希望」を持って生きています。それは、私達が何時死ん
でも「希望」が消えたりしないからだと思えるのです。明日私達が死ぬと分かって
いても私達が「希望」は捨てないのと同じです。私は思うのですが、ロシア軍に攻
め込まれても一歩も引かずに戦えているのは、今のウクライナの人々の思いはきっ
とそういう「希望」を心に抱いておられるからだと思います。たとえ自分の身がどう
なろうと明日のウクライナを心に描いておられるのだろうと思います。確かに今は辛
い状態ですが、ウクライナの人々の心には明日のウクライナが見えているのだと思
います。それが「希望」だと思えるのです。
でもそのような事は、私達にも当てはまります。私達は今を生きていますが、何を
「希望」に生きているのでしょうか?私達には明日死ぬかも知れませんが、余り意
識はしません。むしろ明日も必ず来るかのように思っています。でもそれは確かな
ことでしょうか?毎日をしっかりと生きているのでしょうか?生きると云うことはそれだ
けで素晴らしい事なのに、今が辛いとか苦しいとかだけで生きてはいないでしょう
か?恨みや憎しみと伴に生きているのではないのでしょうか?
「希望」は見えないけれど、見える形では来ないけれど私達の間には存在するの
です。それを感じるしか他に方法はありません。「愛」も「希望」も見える形では来
ないのです。感じるしかないのだと思います。気がつけばそこにあるのです。どんな
に苦しくても大丈夫です。どんなに悲しくても大丈夫です。私達は気がつきさえす
れば「愛」の中にいるのです。気が付きさえすれば「希望」を持てるのです。ウクラ
イナの人々も私達も何ら変わる事がありません。そしてロシアの人々も同じだと思
います。お互いに戦争をしている時は敵味方に分かれますが、戦いが終われば
敵ではなくなります。だから、一日でも早くこの無意味な戦いが終わらないかと思
います。又そう祈らずにはいられません。
そして何時か必ずこの戦も終わるときが来ます。だから、心の「希望」を絶やさな
いように、今は耐えに耐えるしかないのだと思います。人は憎しみや恨みだけでは
生きてはいけないのです。「愛」を心に置いて生きるしかありません。そのときに「希
望」が生まれてくるのだとも云えます。生きていて良かったと思える心は、将に
「愛」の世界にあるのだと思えます。たとえ明日命がつきるとしても心に「希望」を
持って生きられるのだと思います。それをイエス様は私達に伝えたかったのだと思
うのです。
 その世界は将に「ポカンポカンとした世界」です。何もない「無」の世界ですが
無限の力があります。空には鳥が飛び、野には花が咲く世界です。でもその世界
は見える形では来ません。「ここにある」「あそこにある」とも云えませんが、私達の
ただ中にあります。このウクライナとロシアの戦争は単にウクライナとロシアの間にお
ける戦争ではなくて、人々が今後どう生きて行くのかを考えなくてはならない戦争
でもあるのだと思います。私達一人一人には大きな力はありませんが、心の奥に
秘めている力は決して小さくはないのです。
 その力は将に「ポカンポカンとした世界」にあります。空には鳥が飛び、野には花
が咲く世界です。決して自我の思いに飲み込まれない様にしましょう。物事は妬
みや憎しみでは解決しません。将に平和の思いがある世界です。プーチン大統
領も熱心なキリスト教徒だと聞きます。何時か必ずこの平和の思いが届くときがあ
ると思います。だから祈って、祈って歩むしかないと思います。勿論見た目には祈
っているだけでは何の力もないように思えますが、祈りには無限の力があります。将
に「ポカンポカンとした世界」を心に置いて祈っていくことが出来れば、決してその
祈りは何の力もないものではなくて、大きな祈りのうねりを呼び覚ましていくことに繋
がる気がします。見ている事実だけが全てではありません。見えない所に大きな世
界があります。それを信じていくほか私達には手段はありません。生きている事は奇
蹟のような世界です。明日私達が生きていられるかは誰にも分からない世界なの
です。だから、私達はたとえ明日死ぬと分かっていても「希望」は捨てる必要はな
いのです。心にしっかりと「希望」を持って進んで行きましょう。何も恐れることはあ
りません。今をしっかりと生きる事が、明日への希望に繋がります。将に「一期一
会」です。「日々是好日」なのです。
 イエス様が云われた「神の国」は見える形では来ない。「ここにある」「あそこにあ
る」と云えるものでもない。実に「神の国」はあなたがたの間にあるのだとされたこと
は、しっかりと生きて、しっかりと死んで行く事にあるのでは無いでしょうか?





「神の国はあなた方の中にある。その59」  5月1日講話

ルカによる福音書。17章20節〜21節

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて
言われた。「神の国」は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と
言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。

  生きているとどうしても目の前の出来事に心が引かれてしまって、「ポカンポカ
ンとした世界」に心を置くことが出来なくなって、つい自我の思いにつられて、喜
怒哀楽の世界に身を置いてしまいがちです。ウクライナでは戦争状態でその中で
数多くの非力なウクライナの一般市民がロシア軍の攻撃を受けているシーンをテ
レビやSNSを通して見るにつけ、ロシア軍を憎く思う気持ちが増幅します。でもロ
シア兵が喜んでこの戦争をしているかと考えて見ると、おそらく気は進まないでしょ
う。何しろかつての同胞を攻撃しているのですから。ロシア政府はウクライナのネオ
ナチがそうしているのだと国内的には宣伝をして、ロシアの一般市民もロシア軍が
一般市民は攻撃しないで軍事施設のみを攻撃していると思っています。でも、実
際の影像を見るとロシア軍が攻撃しているのは将に無差別攻撃で、ウクライナ軍
も一般市民もかまわず攻撃しています。特にマリウポリでは戦闘が激しく、10万
人とも云われているウクライナの一般市民を巻き込んで攻撃しています。マリウポ
リの住民は逃げ出す事も出来ず、食糧や武器もない状態でどんどん亡くなって
いく人々が増えています。このような惨劇が現代のこの世界で将に起こっていま
す。戦争は何も生み出しはしません。誰も望まない戦争をプーチン大統領は続け
ようとします。プーチン大統領の思いはウクライナを非武装、中立国にしようと躍
起になってロシア軍を動かして戦いを仕掛けます。時には生物兵器や核爆弾の
使用もちらつかせながら、ロシアを守ろうとして戦いを続けています。ウクライナの
人々はその様なロシアの思いをとても受け入れられません。だから多くの人を犠
牲にしてでも決してひるまずに戦い続けています。でも、数多くの人々がこの戦争
で犠牲になるでしょう。そしてその行き着く先は将に荒廃とした大地や都市の姿
が見えます。
 かつて日本が将にそうでした。日本は80年くらい前にはアメリカやドイツやイタ
リアを除く欧州の国々やアジアではインドを除く中国や韓国などのアジア諸国とも
戦線を構えていました。おまけに戦争末期にはソ連までも参戦してきて、その結
果は惨憺たる有様で、1945年8月15日に日本はポツダム条約を受諾し無条件
降伏をして敗戦国となりました。それから約80年が過ぎ今や日本は戦前以上に
発展しています。敗戦国となった時期を越えて経済的な結びつきではアメリカ合
衆国やEU諸国とも良い関係を結んでいます。日本は帝国主義政策を捨てて、
専制国家から自由民主国家に変わった事や、アメリカの自由主義政策を取り
入れて近代化を果たした事も大きく関与しています。戦争は多くの悲しみを作り、
今でもその遺産があります。お隣の韓国は決して日本を友好国とは見てはいない
ようですし、中国はすきあれば日本も自分の領土にしたいとも考えている節もあり
ます。北朝鮮とはまだ戦争が終わっていない様な状態で盛んにミサイルを日本海
に打ち上げています。広島や長崎では原爆が落とされて犠牲になった方々や原
爆被害で今も黒い雨に遭った被害者の救済を求めるように政府に働きかけがな
されています。戦争は終わった後も多くの悲しみや苦しみを引きずります。
 ロシアとウクライナの戦いは今将に続行中です。なるべく多くの犠牲者を出す前
に戦争が終わることを祈ります。そして終わった後も何十年もかかって両国の修
復作業が必要になります。そう簡単には両者の溝は埋められないでしょう。でも
時間がかかっても両者は和平の試みを続けるしか方法はないのだと思います。世
界各国も両者の和平の為に力を使うことになるでしょう。でも今はまず、この空し
い戦闘を早く止めさせられないかを考える必要があります。 戦争はいわば殺し
合いです。人を殺さなければ、自分が殺される世界でもあります。だから、とても
非情です。人ではない思いでないと戦えないのです。でもどちらもかつても同胞な
のです。学生運動の時に同胞と書いて「はらから」と読んでいました。同じ共産圏
では同胞だった人達のいわば戦いでもあります。いわば兄弟同士で殺し合わね
ばならない状態です。それはとても悲しい戦争だと思います。戦う兵士の思いは
将に憎しみと愛情が入り交じって戦っています。どれだけ空しい争いなのかと思う
と涙が出ます。
 でも、悲しんでばかりいたのではどうしようもありません。私達は今一度自我を越
えてこの戦争を眺める必要があります。将に「ポカンポカンとした世界」を胸におい
て、この戦争を見た時に恨みや憎しみだけでこの戦争を戦わないように特にウクラ
イナのゼレンスキー大統領やウクライナの国民の人々に対しては思います。ウクラ
イナはロシアから見れば小さな国です。でもどんな国にも誇りがあります。その誇り
を捨ててでも、この戦いを終わらせなくてはならない時があります。その時期を間違
わないようにするには心に「ポカンポカンとした世界」を胸に置きます。空には鳥が
飛び、野には花が咲く世界です。憎しみも悲しみにも心には山のように持ってい
ても、心のどこかに「ポカンポカンとした世界」を置いておいてほしいのです。でない
と自我の心にとりつかれます。それではプーチン大統領と同じになってしまいま
す。自我にまみれた心では交渉は出来ません。耐え難きを耐え、忍び難きを忍ん
で歩むしかないのだと思います。この戦争をできるだけ早期に終わらせるために、
犠牲者の数を出来るだけ減らす為には、交渉の大事な部分では苦しみながらも
引く時を見つける必要があります。おそらく大統領同士での交渉が必要になるで
しょうが、そのときにはどこかに「ポカンポカンとした世界」を心に置いて臨んで行く
必要があります。必ず天が味方をする局面が出てくる気がします。だから、恐れず
にロシアと交渉しましょう。そうすればウクライナは必ず復活します。何時とは言え
ないけれど、必ず復活すると思います。
 でも、ロシアはそうはいかない気がします。プーチン大統領が辞めない限り今
後のロシアはどんどん変になる気がします。ロシアの人々も単に国の云っているこ
とを鵜呑みにしないで、自分の頭で考えて行動していかないと、今後益々ロシア
は悲惨な国になっていくのではないか心配です。それこそ世界中の国から恐れら
れ疎ましく思われる国になっていくことでしょう。誰もプーチン大統領の思惑に従
わないと話が進まない国とは協力したいとは思わないだろうからです。勿論将来の
事は誰にも分かりませんから私の勝手な妄想ですが。問題は心を自我だけの思
いで満たさないようにしないと、自我まみれだと不安で一杯になります。
 確かに、ウクライナとロシアとの戦争を考えると私達は不安で一杯になります。
でも皆さん安心してください。大丈夫なのです。この世は「神の国」の中に包まれ
ていますから。どんなに不安でも大丈夫です。どんなに悲しくても大丈夫です。戦
火に焼かれ家を失ったとしても大丈夫です。何故なら私達の周りには見える形で
は来ない「神の国」があるからです。「ここにある」「あそこにある」と云うことは出来
ませんが、私達のただ中にあるからです。今生きている事に感謝しましょう。私達は
生きていますがそれと同時に生かされてもいます。自分だけの思いにとらわれない
で、自我を越えた世界を心に置いて見ようではありませんか。「ポカンポカンとした
世界」です。何もない「無」の世界ですが無限の力があります。空には鳥が飛び
野には花が咲く世界でもあります。命がたぎる世界です。「一期一会」で「日々
是好日」の世界です。その世界を 心に置いてこの世を見ます。この世は将に
波瀾万丈です。
 明日の事は誰にも分からない世の中です。何が起こるか分かりません。でも心
に「ポカンポカンとした世界」を置いてこの世を見て見ると、冷静になってこの世を
見つめる事が出来ます。私達の周りには「神の国」があります。慌てず、しっかりと
この世を眺めてみてください。自我の心に左右されずに、この世がどう動いている
かがなんとなくですが分かるような気がしませんか?喜怒哀楽を越えた世界が、
感情にだけ左右されないで、しっかりとこの世のあり方が見えるような気がしません
か?「感謝」しかない世界がこの世界を包んでいることを感じられませんでしょう
か?
 つまり、私達が認識しようがしまいが、生かされているという「感謝」が私達の
周りにあふれています。心にその「感謝」を感じるしかないのだと思います。その為
には心に「ポカンポカンとした世界」を置きます。絶対の世界です。「一期一会」
で「日々是好日」の世界です。空には鳥が飛び、野には花が咲いている世界で
す。命たぎっている世界です。将に今しかない世界なのです。「感謝」しかありませ
ん。この世がどんなに悲惨な状態であったとしても、その「感謝」は変わらずにあ
るのです。そこに心を置いて世界を見ます。
 見えてくる景色が180度変わって見えないでしょうか?今まで苦しくて、苦しくて
どうしようもなかった世界が、将に180度見方が変わると、それが喜びに変わりま
す。あんなに苦しかった事が今はそれが喜びに変わります。「神の国」とはそうい
う世界ではないかと思えるのです。命がたぎり、喜びが身体にあふれる世界でもあ
ります。それは地獄である様な世界が現実にあったとしても何ら変わりはしませ
ん。現実が苦しければ苦しいほど、喜びは増します。感謝が増します。そういった
世界が私達の周りにはあるのだと云うことです。
 感じるしかないのだと思います。「ポカンポカンとした世界」を心に置くことが出
来れば、その「感謝」している世界を感じる事が出来てきます。私達は生きていま
すが、同時に生かされてもいます。生きる事にだけしがみつくのではなくて、生かさ
れている事に心を置きましょう。そうすることによって見方が180度変わって来ま
す。生きる事が苦しくても、生かされていると感じられれば、その苦しみが喜びに
変わるのです。今を生かされているという実感が、「感謝」を呼びます。命たぎって
いる世界を感じられるようになります。「一期一会」で「日々是好日」です。全て
は生きても死んでも神の内なのです。明日の事など私達には何も分からないので
す。明日私達は死んでいるかも知れません。でも今は間違いなく生きています。そ
れが感謝なのです。
 何があっても大丈夫な世界です。現実はとんでもなく苦しい状態でも大丈夫
です。まず心に「ポカンポカンとした世界」を置きましょう。空には鳥が飛び、野に
は花が咲いている世界です。少し前なら桜が咲いている世界です。桜の木の枝に
小鳥がとまってチュンチュンと鳴いている世界です。その光景を見たとき私達は、
今がどれほど苦しくてもホットします。どこかのどかで平和で心が和みます。でもち
ょっと振り返れば現実の世界は波瀾万丈です。私達は又その波瀾万丈の世界
に身を委ねていくことになります。でも忘れてほしくないのは桜の枝にとまってチュン
チュン鳴いていた小鳥の事です。どんなに波瀾万丈の現実があっても心にはそ
の桜にとまって鳴いている小鳥を置いておきたいのです。でないと心は自我まみれ
になって不安ばかりが募ります。敬虔なクリスチャンなら心に桜にとまって鳴く小鳥
ではなくてイエス様や十字架を置きます。それは同じ事だと私は思っています。つ
まり現実だけを見過ぎないと云うことです。今がとても大切になります。今私達は
神様に生かされて生きています。そこに大きな感謝があるのです。
 現実だけを見ていると不安ばかりなのですが、小鳥を見ていると安心が湧きま
す。だから私達は決して現実だけをみるのではなくて、小鳥をあるいはイエス様を
胸に置いて現実を見ます。安心してこの不安な現実を生きて行こう、生かされて
いこうと思える様になります。そこがとても大事になります。大丈夫なのです。私達
は神様によって生かされています。明日私達はどうなっているかは誰にも分かりま
せん。今を楽しみましょう。精一杯生き生きと生きましょう。何があっても大丈夫な
のです。ミサイルが飛んできても、原爆が降ってきても大丈夫です。何故なら「ポ
カンポカンとした世界」を心に置いていれば、空には鳥が飛び、野には花が咲い
ているからです。恐れることは何もありません。イエス様はそのことを伝えにこの世に
来られたのだと私は思っています。
 只、ここで問題になるのは「神の国」に心を置きすぎて現実を見なくなってしまう
可能性があります。桜の咲いた枝にとまってチュンチュン鳴く小鳥を胸において現
実を見ようとしたときに、現実を軽んじてしまって、現実から目を背けてしまう事も
考えられます。しかし、それでは本当にこの世を生きているとは言えません。でも現
実は見える世界ですので、喜怒哀楽の世界です。喜んで怒って悲しんで楽しむ
世界でもあります。の現実世界は優劣のある世界です。  強い者や弱い者が
います。富めるものもいるし、貧しい者もいます。その世の中をしっかりと生き抜い
て行かねばなりません。強い者であっても弱い者であってもしっかりと生き抜いて行
くにはしっかりした心の基礎が必要になります。しっかりした心の土台を基礎にし
て、歩んでいくしかないのです。
  朝ドラの「カムカムエブリボディー」の中で英会話に練習について、初めは
誰も英語の赤ちゃんだと教えてくれます。朝のラジオ英会話を毎日聞いて勉強す
るだけで、いつの間にか無理なく英会話が上達していきますよと説明します。世の
中の出来事もそれと同じ事が言えます。何事も急がずコツコツと地道に歩んで
行ければ、きっとその先には見えてくるものがあります。苦しいとき悲しい時にその
苦しさや悲しさにだけ目を向けないで、心に桜の枝の小鳥を置いて頑張リます。
そうすることで、どんなときでもくじけることなく前に進んでいくことが出来る様になり
ます。いらだって、無理なことをしようとしてもうまくはいきません。真面目にコツコツ
と歩んでいくしか他に手はないのです。苦しくても悲しくても真面目になってコツコ
ツ続けていくことが出来ればきっと良い方向に物事は進んでいくと思います。時に
は大きな壁が立ち塞がっても、コツコツと積み上げていけば何時かはその大きな
壁も乗り越えられるようになることでしょう。諦めないことが必要です。少しずつ少し
ずつ進んで行ければきっと何か成果が現れるはずです。それを信じて歩んで行く
事になります。
  朝ドラの「カムカムエブリボディー」のストリーの中でいつ来るか分からないチ
ャンスを待つというシーンがあります。実はこのことは人生を歩んでいる私達につい
ても云えることです。いつ来るか分からないチャンスを待ってそれまではその地道
な努力を続けていくしかないのだと思うのです。きっとそのチャンスが来るときがある
と思います。確かに現実の世の中で生きて行く事はとても厳しいと思います。でも
その中でくじけないで、しっかりと歩んでいくためにも心にはイエス様をあるいは桜の
枝の小鳥を置いておく必要があるのだと思います。今をしっかりと生き抜くことが出
来れば全然心配はいりません。
イエス様が云われた「神の国」は見える形では来ない。「ここにある」「あそこにあ
る」と云えるものでもない。実に「神の国」はあなたがたの間にあるのだという意味
はこんな所にもある様な気がします。



「神の国はあなた方の中にある。その49」 3月6日 有志による礼拝

ルカによる福音書。17章20節〜21節

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答
えて言われた。「神の国」は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこに
ある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。

「何気ない日常生活」という思いが私達にはあります。「何気ない日常」とは一体
どのようなことなのかと考えたときに、それは私のなかでは特に気にしもしない日々
と言うことになります。つまり気にとめる必要も無い平々凡々とした日々と言うこと
になります。私はそれこそ、その日々が「神の国」なのではないかとも思っていま
す。もし何かあって明日も分からない様な生活に変わったとしたら、波瀾万丈で
はあるけれどもそれはとても平和な日々とは云えなくなります。私達の思いの中に
ある平和な部分は、何もない日々という事ではないでしょうか?そこには苦労はあ
るかも知れませんが、穏やかで平和な生活という事になります。派手だけれどそ
れを維持することが大変な生活というものがあるならば、それはとても平和とは云
えません。つまり云いたいことは静かな波の様な状態が続いている日々は平和で
のどかだと云うことで、荒海のように何時船が転覆するか分からない日々はとても
しんどいと云うことになります。「神の国」を感じられるのは平和でのどかな日々に
あります。波瀾万丈の時はむしろ「神の国」を求めます。どうかこの波を静まらせて
下さいと祈るのではないでしょうか?私達が「神の国」を求めているときは波が立っ
て船が転覆しそうなときなのだと思います。平和な時にはどちらかといえば「神の
国」のことを忘れてしまいがちです。何故ならそこが「神の国」だかからです。
ファリサイ派の人が「神の国」はいつ来るのかと云ったという事は、ファリサイ派の
人にとって、将に波間に翻弄されている船の中の状態だったのではないでしょう
か?早く来てほしいと思っていたのだと思います。それに対してイエス様は実に
「神の国」はあなたがたの間にあると言われました。それはイエス様が揺れる波間
にはおられなかったのだと思います。静かな波の上の船の上におられるが如くに、
私達の周りは静かですよと言われたのだと思います。
賛美歌90番の歌詞の、特に1番と2番の歌詞ですが
ここも神の御国なれば
天地御歌を、歌いかわし
岩に樹々に、空に海に
妙なる御業ぞ現れたる

ここも神の御国になれば
鳥の音花の香、主をばたたえ
朝日夕日、栄えに栄えて
そよ吹く風さえ神を語る

この歌詞を眺めたときに、「そうか」という思いが私はしました
ファリサイ派の人は自分が荒海の中にいると思っていたのではないか、それで「神
の国」に助けを求めていたけれど、ちょっと思いを変えてみてみると、実は荒海だと
思っていた世界が、波の静かな凪の中にいつの間にかいるのだという事に気がつ
いてみれば、そこは穏やかな「神の国」の世界だったと気がつくのではないか?と
いう事のような気がします。
私達も何気ない日常の中でも、心は波瀾万丈に変化します。明日をどうしようと
思い悩んだり、昨日の出来事の後悔の中で、足を前に踏み出せなかったり、
様々な苦しみを抱えながら生きているのではないでしょうか?でも何気ない日常は
私達の周りにあるのです。気がつかないのはそこが「神の国」だからです。つまり
私達の日常の中に実は「神の国」は存在しているのだと思います。でも気がつか
ないのです。むしろ平和でなくなってから、始めていかに大切な時を過ごしていたか
を実感させられるのだと思います。若い頃は良かったとか云うお年寄りは多いです
が、それは気がつかない間に「神の国」を生きていたのだと思えます。でも、よく考
えてみると、今も「神の国」にいるのではないでしょうか?只、私達が今は嵐の中
にいると思っているだけなのかも知れません。イエス様はそのことを云いたかったの
ではないかと思います。「神の国」はあなたがたの間にあると云うことは、私達の間
にあるという事を私達が忘れかけているのかも知れません。それを思い出しなさい
と言うことではないでしょうか?
何気ない日常は私達の周りにあるのです。でも心が波打ってしまうと、不安になっ
て何気ない日常をつい忘れてしまうことになるのではないかとも思います。
その不安を起こすもとが我々の持って生まれた「自我」だと思います。自我の思
いは生きている間はどうしても自分について回ります。それは生きる欲求と同じだろ
うと思います。只、その生きたいという欲求が自我を育てます。でも自分の自我を
育てると云うことは、静かな海に波を起こす力になります。つまり「神の国」にはいら
れなくなると云うことでもあります。自我を越える必要がなりますが、それを自分の
力ではなかなか越えられません。自分を空しくする事が出来れば、自分の自我に
は縛られなくて済みます。西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」という表現
で、その思いを伝えたのだろうと思います。生きたいという欲求と何気ない日常を
求める心が自分の心の中で一体化してしまう事になります。波瀾万丈を求めるの
か何気ない日常にいるのかは各々の人達の思いに中で変化します。でも「神の
国」には自我を選ぶと入れません。だからこそ、「一期一会」の思いが大切になり
ます。今出来ることの最善を尽くすしか私達には出来ないのだと思います。それが
「日々是好日」の思いに変わっていくのだと思います。自我に振り回されないで、
自我と伴に生きて行くしかないのだと思います。自我しか無いという思いにとらわれ
てしまうと、自分を見失ってしまいます。自分をしっかりと見つめる事が出来れば、
自我の思いに翻弄されなくて済みます。心にはいつもポカンポカンとした思いがあ
って、空には鳥が飛び、野には花が咲いている境地を持ち続ける事が大切なの
だと思います。何気ない日常は私達の心の中にあるのだと思います。確かにこの
世は波瀾万丈に満ちています。でもその様な動き回る世の中でも、よく見ると何
気ない日常が隠れています。明日をも知れない生活ですが、変わらない日常が
そこにはあります。つまり私達はいつも「絶対矛盾的自己同一」の中で生きている
と云うことになります。イエス様が「神の国」は私達のただ中にあると言われたよう
に、気がつかないところに「神の国」は隠れているのだと思います。目に見える世
界だけが全てでは無いと云うことです。目には見えない世界が実は私達の周りに
はあって、その世界が私達を優しく包んでいるのだという思いが必要になります。
その為には感謝するしかないのだと思います。只只感謝するしか無いと思います。
生かされている事に、こうして今生きている事に感謝しましょう。明日がどうなるか
は分からない身ではありますが、それでも感謝します。それが何気ない日常だと
云うことでもあります。その世界は見える形ではやってきません。「ここにある」「あ
そこにある」と云うことも出来ませんが、その世界は私達の間にあるのです。今を
しっかりと生きると云うことしか私達には選択の余地はないのだとも云えます。
でもその世界はポカンポカンとした世界です。何にも左右されない境地とでもいう
か、将に「無」の世界でもあります。あるいは命たぎる世界でもあります。「一期一
会」で「日々是好日」の世界です。空には鳥が飛び、野には花が咲く世界でも
あります。心にはその世界を置きます。つまり変わらない日常の世界でもあるので
す。現実の世界がたけくるう嵐の中だとしても、心には風のない穏やかな日々があ
るという事でもあります。イエス様が語られた「神の国」はそういう世界だろうと思い
ます。何の変哲も無い日々は実は「神の国」であったのです。その世界にいること
を私達は普段気にはしないのです。でもひとたび嵐がやってきたときには、その穏
やかだった世界がいかに重要だったかが分かってきます。イエス様はその穏やか
な日々に心を置きなさいと言われている気がします。死んでも生きても神の内で
す。何があっても大丈夫な世界です。現実が嵐の真只中中であったとしても大
丈夫なのだと思います。どんなに現実が苦しくても大丈夫な世界です。
極論を言えば世界がなくなっても大丈夫な世界です。誰一人地球上にいなくな
ったとしても大丈夫なのです。人類が誰もいないのに大丈夫とはおかしいと思わ
れるかも知れませんが、宗教は人類のためにあるのでは無いのです。宗教は神様
の世界を表している教えであると思います。宗教があるのは人類が生まれてから
起こったものではなくて、神様の世界に人が生まれて、人が生きて行くために必
要になったのが宗教だと思っています。人が宗教を作ったかのように考えています
が、宗教の根っこは神様の世界にあります。それは実にポカンポカンとした世界な
のです。「一期一会」で「日々是好日」なのです。命たぎる世界です。イエス様
が語られている「神の国」はそんな世界だと思います。見える形では来ませんが、
私達の間にはあるのです。
私達は生きて行く事に必死です。今をしっかりと生き抜いていかなければ、自分を
見失ってしまいます。自分を見失わない為には人は自我を確立しようとします。で
も人が自我に頼れば頼るほど、人は心配事から抜けきることは難しくなります。ポ
カンポカンとした境地にはなれなくなるのだと思います。生きている実感は苦しくな
ればなるほど生きている事への執着が湧きます。今は死ねないとかつい思ってしま
います。でも死ぬも生きるも神様の内にあります。私達に出来ることは今をしっかり
と感謝して生きる事しかできません。その世界には過去も未来もありますが、生き
る事にしがみついてしまうと過去も未来も不安しか感じられなくなります。イエス様
はその様に生きる事にしがみついている心に対して云われたのではないかと思いま
す。ファリサイ派の人は自分が生きる事に必死だったのだと思います。生きる事に
必死になって、肝腎の「神の国」が見なくなってしまったのではないでしょうか?自
分を生かしてくださっている事に感謝する事を忘れてしまったのではないかと思いま
す。自分の力でこの世を生きているつもりになっていたのかも知れません。でも、よ
く考えてみれば明日の事などは誰も分からないのです。今しか私達にはありませ
ん。今こうして生きていられることの感謝は、つまり私達が「神の国」にいると云うこ
とでもあります。つい、自我に頼って自分の力で生きようとすると何故か不安が心
に生まれてきます。それは明日の命がどうなるかは人には予測がつかないからで
す。今をしっかりと生きる事しか私達には無いと云うことでもあります。そしてその世
界が「神の国」でもあります。でも見える形では来ないのです。「ここにある」「あそ
こにある」とも云えません。でも私達の間にはあるのです。ファリサイ派の人にとって
は、生きようとする余りに自我に頼りすぎてしまったのではないかとも思えます。で
も、実はそれは私達も同じです。私達も知らない間に自我に頼って、「神の国」
の存在を忘れてしまいがちになります。何しろ「神の国」は見える形では来ません
から。「ここにある」「あそこにある」とも云えないからです。でも知らない間に「神の
国」に私達は生きているのです。只、それは私達には見えないと云うことになりま
す。つまり後になってそれが「神の国」にいたと云うことが分かります。何気ない日
常は「神の国」の中にあるという事です。色々と苦労していたあの頃が実は「神の
国」にいたのだと云うことです。明日をも知れない生活をしていた頃が実は「神の
国」にいて明日をも知れないと思って生きていたのです。それは私達にはその時
は全然分からないのです。只只苦しかったりしんどかったり辛かったりします。でも
間違いなくそれは「神の国」で起こったことなのだと思います。何故なら生かされ
ていたからです。どんなに苦しかったとしても今があると云うことはそのとき私達は
「神の国」で生かされていたのです。只苦しさや辛さで気がつかなかっただけのこ
とではないでしょうか?そして今生きていると云うことは将に「神の国」に生かされ
ているのだと思います。どんなに苦しくても悲しくても大丈夫なのです。
もし全人類がこの世からいなくなったとしても大丈夫なのです。そこは「神の国」だ
からです。もう一度云いますが、私達には明日の事など分からないのです。明日
私達は死んでいるかも知れません。でも大丈夫なのです。何故なら今こうして生き
ていられるからです。今を生きる事しか私達には出来ません。今こうして生きている
と云うことは「神の国」にいると云うことです。勿論見えません。見える形では来な
いからです。
賛美歌262番の3番の日本語の歌詞のように
十字架のかげに、われは立ちて、
み顔のひかりを、たえず求めん。
この世のものみな、消えるときも
くすしく輝く、そのひかりを。
「神の国」は「ここにある」「あそこにある」とも云えません。将に「一期一会」なの
です。そして「日々是好日」なのです。何気ない日常は日々の中にあります。現
実の世界が突然の戦争で全ての財産を失ったとしても大丈夫なのです。家族を
全員失ったとしても大丈夫なのです。それは確かに辛く悲しいことです。でも大丈
夫なのです。何故ならここは「神の国」だからでもあります。「神の国」の中に私達
はいるからだと思っています。今をしっかりと生きて行く事がとても大切になります。
どんなに苦しくても悲しくても大丈夫なのです。今をしっかりと前を向いて歩みまし
ょう。艱難辛苦が来ても大丈夫です。何があっても大丈夫なのです。
イエス様は云われました。「神の国」はあなたがたのただ中にあると。いつも知らな
いところで私達は「神の国」に守られて生きていると云うことだと思います。でもそ
の世界は見えません。見える形では来ません。感じるしかないのだと思います。空
の鳥を見てご覧なさいと言われます。野の花が咲いているのをご覧なさいとイエス
様は云われます。空を飛ぶ鳥や野に咲く花たちはそのまま生きています。勿論明
日のことなど分かりませんが、生き生きと生きているでしょうと言われます。「神の
国」は見えなくても今を生き生きと生きていられる事はそこに「神の国」があるから
です。その鳥は明日何かで死んでいるかも知れないのです。野の花も明日は炉
に入れられて燃やされているかも知れません。でも今を生き生きと生きています。
私達も何ら変わる事が無いのです。明日の事など誰にも分からないのです。今を
生き生きと生きている事が実は「神の国」を生きていることになります。死んでも生
きても神の内なのです。私達が生き生きと生きる事がとても大切になります。今を
生かされて生きているのです。今に感謝して生きて行くのだと思います。今がどん
なに苦しくても大丈夫なのです。どんなに悲惨な状態でも大丈夫なのです。マッ
チ売りの少女やフランダースの犬の少年ネロも決して楽な生活を送ってはいませ
んでした。でも彼らの心には間違いなく「神の国」があったのだと思います。おそら
く作者はそういう思いを持ってあの童話や小説を書き上げたのだと思います。そ
れを読んで私達の心に何か感じるものがあるとしたら、将に見えない「神の国」を
感じているからだと思います。
人は必ず死んでいきます。でもその死はいつ来るかは分かりません。人は死んでい
くまでは必死になって生きようとします。でも生きているのではなく生かされて生きて
いるのだと思います。だからこそ、生きている今がとても大切なのです。

ウクライナではロシア軍の侵攻のために将に命がけで祖国を守ろうと人々が戦っ
ています。確かにロシア軍は重装備で手強い相手です。でもその手強い相手に
向かって戦いを挑めるのは心に祖国を守ろうとする思いがなければ恐ろしくてとて
も戦えないと思います。その祖国を守ろうとして戦おうとする心の根っこは祖国ウク
ライナの平和な世の中を守りたいという熱い思いがあるのだろうと感じます。ウクライ
ナの人も望んで戦っているわけではないと思いますが、自分たちの国が侵略され
ていると感じたときに、心にファイトする気持ちが湧き上がったのだろうという気がし
ます。ロシア軍がそう易々とは首都キエフに迫れないのは、そのようなウクライナ
の人々の熱い気持ちがロシア兵の思いを越えているからだろうと思えます。プーチ
ン大統領の思惑とは違って、実際の戦いでは心と心のぶつかり合いが影響するこ
ともあるのだと思います。強力な武器を持っていれば勝てるというものでも無いと
云うことです。同じ過ちはアメリカ合衆国も犯したことがありますが、戦いはいつも
強いものが勝つとは限りません。心の思いの大きさが戦いの行方に出ることもある
のです。ウクライナの人々に取って今の心境は祖国を守ろうという自我を離れた
思いがあるのだろうと感じます。でも、その心もロシアに勝とうともくろんだりし始める
と自我が目覚めてきます。そうするとこの争いが益々混沌とした戦いに変わってい
く気配もあります。今はゼレンスキー大統領の指導力と執行部の熱い思いが強
国ロシアに対して善戦をさせていますが、その形勢は日々変わります。今はウクラ
イナの将来が少しでも良いものへと変わっていくことを祈るばかりです。
賛美歌90番の歌詞に,特に1,2番の歌詞
ここも神の御国なれば
天地御歌を、歌いかわし
岩に樹々に、空に海に
妙なる御業ぞ現れたる

ここも神の御国になれば
鳥の音花の香、主をばたたえ
朝日夕日、栄えに栄えて
そよ吹く風さえ神を語る

たとえ、戦さで国土が荒廃しようと、心に御国を感じて戦って行けば、きっと開ける
道があると思います。私達には今しかないのです。明日どうなっているかは誰にも
分かりません。特にウクライナのように戦時下にある場合は特にそういう思いが強
いと思います。でも、ウクライナの人々がパニックにならずにロシア軍と戦えている
のは、心にしっかりとした思いがあるからだろうと推察します。明日は誰にも分から
ないのです。だから今を大切にされているのだと思います。おそらく祖国が今後も
平和であるために、今を戦っているのだろうと行く気がします。そんな思いがしまし
た。
イエス様が云われた。「神の国」は見える形では来ない。「ここにある」「あそこに
ある」といえるものではない。実に「神の国」はあなたがたの間にあると云うことだと
思います。







「神の国はあなた方の中にある。その47」 2月27日(日) 有志による礼拝

ルカによる福音書。17章20節〜21節

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて
言われた。「神の国」は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と
言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。

「宗教的実存」について語ったのはキルケゴールだと思うのですが、この「宗教的実
存」とは一体どのような事なのか自分なりに考えて見ました。是はインターネットから拾
ってきたものですが次のように解釈しています

「宗教的実存」とは、「美的実存」と「倫理的実存」の総合した段階で、不安と絶
望の渦中にいる人間が、神の前にただ一人立ち、神への信仰へとする人生の段階
である。人間は、自己の全存在を賭けた決断(実存すること)によって、永遠の神が
人間の中にあらわれるというキリスト教の逆説を受け入れ、神と向き合うときに真実を
見いだす。
信仰において、人間は永遠の神とかかわることを絶対的目的とし、世俗の生活にお
ける享楽や欲望などの有限な目的を放棄する。そして、外面的には世俗生活に身
を置きながらも、精神の内面においては世俗の社会と決別して、永遠の神の前にた
だ一人で立つ単独者として生きなければならない。

とありました。このことを私流に解釈すると、現実の見える世界において先行きに不安
と絶望した人が、神への信仰へ入っていくことが「宗教的実存」だと云うのだと思い
ます。そして信仰とは人が神に永遠に帰依することで世俗の生活とは全て離れて生
活する事だと説明します。
実はこのことは何を指し示すかというと神に帰依して世俗的な生活を離れて生きるま
事が宗教実存では無いかと云うことに繋がります。
でもと私は思うのです。イエス様はその様な事を考えて宣教されたのだろうかと思うの
です。「宗教的実存」の本当の狙いは人が生きるときに見える世界にだけに思いを置
かないで、見えない世界に思いを置いて生きる事が大切ですよと云っているのではな
いでしょうか?
外面的には世俗生活に身を置きながらも、精神の内面においては世俗の社会と決
別して、永遠の神の前にただ一人で立つ単独者として生きなければならない。
という事は心の中に「神の国」を置いてこの世を生きなさいといわれている気がしま
す。
問題はその「神の国」は実はポカンポカンとした世界ではないかと思うのです。何もな
い「無」の世界で、空には鳥が飛び、野には花が咲いている世界ではないかと思うの
です。つまり「宗教的実存」とはそのポカンポカンとした世界に気がつくことではないか
と思えるのです。「一期一会」で「日々是好日」の世界ではないでしょうか?「念ず
れば花開く」世界で、一無為の真人が体を出入りする世界です。平和で差別もなく
安心していられる世界ではないでしょうか?それは絶対の世界です。この世のように
相対の世界ではない将に絶対の世界では無いでしょうか?神様がいる世界と云うよ
り、神の支配が及ぶ世界ではないでしょうか?
人はこの世を生きるときに見えるものにだけ頼ろうとします。でも見えるものに頼ろうとし
ても、相対の世界なので安心できないのです。貧富の差があり、優劣の差があり、比
較の世界です。その世界はいわば信用が出来ない世界でもあるのだと思います。確
かなものがない世界と云うことでもあります。だから人は見える世界にどうしても不安を
覚え絶望してしまうのではないかと思うのです。でも「神の国」は違います。絶対の世
界なのです。だから人は見える世界に絶望して見えない「神の国」を求めます。でも
「神の国」は見える形ではやってきません。「ここのある」「あそこになる」という事も出
来ません。でも私達のただ中には存在するのです。考えて見れば「神の国」に心を置
いてこの世を生きると云うことはどこかに矛盾が感じられます。キルケゴールが考えた
ように世俗の生活を離れて生きないと「宗教的実存」は得られないと云うことになりま
す。でもと私は思うのです。イエス様は果たしてその様な事を私達にお求めになられ
たのかと考える時に、西田幾多郎が提唱した「絶対矛盾的自己同一」が思い浮か
ぶのです。人は見える世界を見ていますが、心に見えない「神の国」を置いています。
見える世界で感じるものは自我の思いだと思います。でも自我を超えた世界が私達
の周りにあるのだと感じられたときに、自我の思いだけにとらわれない心の落ち着きを
得るには「絶対矛盾的自己同一」が必要になるのだと思うのです。それが将に「宗
教的実存」なのではないかと思えます。キルケゴールはおそらくこのギャップに悩んだ
のだと思います。問題は西田の提唱した「絶対矛盾的自己同一」を心に持ってい
ればそこまで悩まなくても良かったのかも知れませんが、西洋の哲学的な発想では
この考え方にはなかなか到達できないと思います。むしろ東洋的な発想の中にその解
決方法がある様な気がします。仏教的な考え方の中に実はイエス様が伝えたかった
思いがよく伝わる事があるような気がするのです。私は真宗信者の妙好人である浅
原才市の思いの中に実に分かりやすい信仰の思いを見え出す事が出来るのではな
いかと思うのです。浅原才市は西洋哲学も仏教哲学も知りませんが、こと信仰に関
してはどんな人より図抜けて純粋であったような気がします。
あなたおがむに
体を清め 心清めるこたできぬ
抱かれておがむ なむあみだぶつ
これが親さま なむあみだぶつ
という詩は将に「宗教的実存」を表した詩でもあります。神様に帰依すると云うことは
どういうことかが素直に分かります。キルケゴールが考えた「外面的には世俗生活に
身を置きながらも、精神の内面においては世俗の社会と決別して、永遠の神の前に
ただ一人で立つ単独者として生きなければならない。」という思いをこの詩が見事に
解決しているのではないかと思います。
私達はどうしても今目の前にある事実だけに注目しがちになります。貧困にしても、コ
ロナ禍にしても、気象問題や温暖化問題にしても、目の前に起こった出来事に全て
を集中しがちになります。是を解決しなければならないと思ってしまいます。でも見える
世界ではその解決は困難ではないかと思えます。それは見える世界が相対の世界
だからではないでしょうか?原発汚染の問題も同様です。目の前にある原発から漏
れ出る放射能物質の処理をどうするか。あるいは沖縄の米軍基地問題の解決につ
いても同じようなことが云えると思います。嘉手納飛行場を無くして普天間にヘリポ
ート基地を造ろうとしています。是をどうするか頭の痛くなる問題でもあります。でも、ど
ちらにも賛成する人と反対する人がいて結局は先延ばしになっているのが現状です。
各々の利益を抱えて賛成したり反対したりします。でもと思います。見える世界にだけ
目を奪われているのではないかと思うのです。又靖国参拝の問題も国際的な特に戦
争で戦った近隣諸国にはすごく繊細な問題でもあります。竹島問題や尖閣列島の
日本の近海にある島々の問題もどれを取っても各々の立場があり、解決するには時
間や対話やあるいは戦いが必要になったりもします。これらの問題は政治的な問題と
云うより、見える世界における相対の問題でもあります。あちらが良くてもこちらが立た
ないという葛藤の問題です。このような問題に直面したときに人々は見えるものを材料
に意見を交換します。でもおそらく真の解決は出来ないと思います。結局は強いもの
が弱いものを凌駕してしまうことになりがちです。もしイエス様がこのような問題に直面
したら、見えない世界を感じてご覧なさいと言われる気がします。つまりそれが自然な
事かどうかを感じるしかないのだろうと思えます。おそらく双方の振り上げている拳をい
ったん下げて、それが自然な事かどうかを見直すしかないのだろうと思います。それ
でも真の解決にはならないのですが、悪い方向へは向かわないと思います。悪い方
向とは不自然な方向と云うことです。なるようななる世界は自然ですが、ならないよう
なものをなるようにしようとするとそれは不自然な事になります。それを感じるには心に
「神の国」を置くしかないのだと思います。ポカンポカンとした世界です。何もない
「無」の世界です。「一期一会」で「日々是好日」の世界です。一無為の真人が
体を出入りする世界です。「念ずれば花開く」世界でもあります。絶対の世界です。
平和で争いのない世界でもあります。その世界を心に置いてこの世の出来事を見ま
す。そうすると見えてくる景色があります。それが問題の解決への糸口になりはしない
でしょうか?この世の問題はどちらが正しいとかどちらが悪いという問題ではなくて、ど
ちらがより良い答えかあるいはどちらがより悪い答えかを判断するしかないのだと思いま
す。あるときは良かったものがいつの間にか悪いものに変わったりします。絶えず揺れ
動いていて完全なものは存在しません。だからあるときは良かってもあるときは悪かった
りします。だから本当の結論は存在しないのです。だからこそ、心に「神の国」を置き
ましょう。そしてそこからこの世を見ていきます。様々な問題の解決には時間がかかり
ます。そして粘り強く問題解決を図っていくほかないのだと思います。自分たちに都合
が良いからとかだけで問題を解決しようとすると、どこかに必ず無理が起こります。そ
うならないように、お互いが理解し合いながら前を向くしかないのだと思います。それで
ないと良い解決とは云えないでしょう。ドロドロした憎しみ合いの中からは何も良いもの
は生まれないし、お互いが戦ってばかりいては世の中がどんどん悪くなっていくばかり
です。どこかで、手を結び合って行く事を考えないと、結局はお互いが不幸にしかなり
ません。でもこの世の中でそれらを全て解決する事は不可能ですので、どんなときも
心に「神の国」を置いてこの世を見ていく必要があります。その世界は見えません。
見える形では来ないからです。でも私達の間にはあるのです。だからこの世にだけ心を
置かないで、「神の国」に心を置いてこの世を見ていく必要があるとお思います。今を
大切に生きる事がしっかりと出来れば決して恐れることはないのです。
そのためには感謝する気持ちがどうしてもその根底にはあるのだと思います。今がとっ
ても大切だと云うことは、今という時間に私が存在している事の素晴らしさと面白さと
驚きと感謝がそこにはあるのだろうと思います。その思いが今を大切に生きようとさせ
てくれるのだろうと思います。なんてすごいことなのだという思いが今を大切にしようとし
ます。妙呼人の浅原才一の書いた詩の様に
目が変わる 世が変わる
ここが極楽に変わる
うれしや なむあみだぶつ
という世界なのだと思います。地獄のように思えていた今が、実は極楽にいたのだとい
う新鮮な驚きが聞こえてきます。今まではこの世は地獄のように苦しいことばかりだった
のだと思います。それなのに目が変わった途端に地獄のはずのこの世がいつのまに
か極楽に変わって見えるようになったというのです。イエス様が云われた「神の国」は
あなたがたの間にあると云うことはそういうことなのではないでしょうか?
「「宗教的実存」」と云うことは実はこういうことなのだと思います。心の中で思いが変
わるのです。今まで辛い苦しいと思っていたはずなのにそれがいつの間にか感謝に変
わっているのです。それは今生きている事がどれほど素晴らしい事なのかという事に
気がついたときでもあるのだと思います。いずれどんな人も死んでは行きます。でもそ
の死が来るまでは生かされているのです。素晴らしい事ではありませんか?「「宗教的
実存」」は将にその様な思いなのだと思います。それを感じるには自我を越える必要
があります。自分の思いの中ではその思いが乗り越えられないのです。自分を空しくし
ても、感謝は出てこないのです。感謝が出てくるには自分を捨てるしかありません。自
分の思いを捨て去ったときに、始めて違った景色が見えてくるのだと思います。欲や
願望があってはならないのです。それは自我の範囲です。「「宗教的実存」」はそう
いう所に存在するのだと思います。決して難しくはないのですが、自我の思いにいる間
はとても難しく思えるのです。生きたいという欲求が人にはあります。なんとか生きたいと
皆思っています。自分を捨てると云うことは生きたいという欲求を無くすと云うことでも
あります。
往生とは今のこと
なむあみだぶつにて往生すること
なむあみだぶつ
これは妙好人の浅原才一の詩ですが、見事に自分を捨てています。今なのだと思い
ます。
自分を捨てるのは今なのです。いましか自分を捨てる瞬間はないのだと思えます。生き
たいという欲求を考える間も無く阿弥陀様の世界に飛び込んで行ったのだと思いま
す。
イエス様が云われた「神の国」はあなたがたのただ中にあると云うことは将にこのこと
ではないでしょうか?将にそれが「「宗教的実存」」だと思います。
「神の国」が私達の間にあるという事に気がつくことが、「「宗教的実存」」であるの
だと思います。その為には自分の思いを乗り越えるしかないのですが、それは自分の
力では出来ないのです。ファリサイ派の人はそれを自分の力で乗り越え様として、あく
せくしたのだと思います。でも残念ながら「神の国」は自力では困難なのだと思いま
す。律法を遵守したとか、善行を積んだとか、罪から離れたとか色々努力されたので
しょう。でもそれらの努力は結局「神の国」を感じさせてはくれなかったと言うことになり
ます。何故でしょうか?つまり自分の思いから離れられなかったことを意味します。自
分思いの中だけで、精一杯頑張っただけなのだと思います。自分の思いを越えた世
界には届かなかったのだと思えます。つまり「「宗教的実存」」を意識できなかったと
言うことになります。
これは私の考えですが、私達はどうしても見える世界に意識を置いてしまいます。見
えない世界を意識することは余り無いのですが、実は見えない世界が見えている世界
を支えているのだと思います。そのことが分かると、今こうして生きている事が有り難い
事だと分かります。それはすなわち感謝の世界です。ありがたい世界です。ファリサイ
派の人は今を感謝出来なかったのだと思うのです。今に感謝が出来ればイエス様が
云われた「神の国」は私達の間にあるという意味がなんとなく分かります。今あること
は実はすごいことなのだという驚きが、又その喜びが感謝に変わるのだと思います。
そしてそれが「「宗教的実存」」だと云うことではないでしょうか?
2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻しました。世界の各国から非難の声が上が
っていますが、戦闘は続いています。ロシアのプーチン大統領はウクライナの非武装
中立化を企てていますが、ウクライナのゼレンスキー大統領は徹底抗戦を叫んでい
ます。どちらも譲れない一線があるようで、このまま行くと泥沼化しそうな気配です。い
ずれにせよ圧倒的なロシア軍の兵力の前にウクライナ軍は苦戦を強いられています。
今まで世界は小さな戦闘は世界各地で様々にありましたが、今回のようにもと共産
圏同士の国を分けたような大きな戦争は国土の大きさや住んでいる人口の多さでも
他の戦闘とは比較にならないほどの大きな戦闘に発展しそうです。ウクライナの人々
はポーランドに逃げ込んだりシェルターに避難したり大混乱となっています。この2月
という寒い時期に着の身着のままで難を逃れようとウクライナの市民は大変です。そ
れにしてもロシアも思い切ったことをしてしまいました。この争いが長く続けばロシアには
不利になり、短ければウクライナには不利になると思われますが、おそらく長い戦いに
なるように思えます。何故ならロシアにとってこの争いの理由がはっきりしないからで
す。プーチン大統領はウクライナの親ロシア派の住民のジェノサイドを防ぐためとして
いますが、本当は何の為に戦うのか良く分からないのが現状です。でもウクライナの
人々に取って問題意識ははっきりしています。明らかなロシア人による侵略だからで
す。戦いのモチベーションが違います。時間が経てば立つほど、ロシア人にとっては
このウクライナ侵攻は心の負担になるでしょうし、ウクライナ人にとっては時間が経て
ば立つほど明確な目標になります。アメリカがアフガニスタンを侵略したのと同じで、
最後にはそこに住む住民が勝利します。ロシアのプーチン大統領のもくろみはいず
れほころびが出ていくでしょう。今は事の成り行きを見守るしかないのですが、これ以
上の戦争犠牲者が出て行かないことを祈るばかりです。日本もかつては世界を相手
に戦いましたが、結局敗戦で終わりました。戦いにおいても必然性があるのだと思い
ます。きっとこの代償はロシアにとって高くつくことになる気がします。
問題は自我で闘うのか自我を超えて闘うのかという問題になるのだと思います。戦争
は起こしてはならないのですが、もし起こってしまえばその中で大切なことは自我を超
えて闘うしかないのだとおもいます。心に「神の国」を置いて闘うしかないのだろうと思
います。ポカンポカンとした世界に心を置いて闘うしかないのです。現実は様々なこと
が起こります。でもその周りには私たちをしっかりと見守っている世界を感じて闘うしか
無いと思います。戦争は誰もしたくはありません。一日も早く平和がウクライナに訪れ
ることを祈ります。「神の国」は私たちの間にあるのです。自我の思いから一日でも早
く目覚めることが出来るようになることを祈ります。この思いを今戦いの中にあるウクライ
ナの人々とロシアの人々に送ります。





「神の国はあなた方の中にある。その48」 有志による礼拝  2022年2月13


ルカによる福音書。17章20節〜21節

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて
言われた。「神の国」は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と
言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。


宗教について考えて見たときに、特に仏教とキリスト教はよく比べられます。何処が違
って何処が似ているかと云うよりも、大きく宗教という枠組みで捉えるならば、両者と
も宗教の範疇に入ります。又イスラム教も同じように宗教の範疇に入ります。残念な
がらイスラム教についてはよく知りませんのでここでは仏教とキリスト教について考えた
いと思いますが、これら3つの宗教は一般的には世界宗教と位置づけられていま
す。世界的な広がりを持った宗教ということからだと思います。世界宗教という分類に
対して、各地には民俗宗教と言われるものもあります。各々の土地に根付いている
古くからの信仰がありユダヤ教やヒンドゥー教などがそれらに当たるそうです。それ
以外にも新興宗教などもあり世界各地で様々な活動をしています。
でも、宗教があると云うことはこの科学が進歩した社会の中でも、様々な宗教が存
在している事を考えて見ると不思議な事にも思えます。何故、私達は科学を信用し
ているのに宗教を信じるのかという疑問が湧きます。科学が万能ならそれでいいので
はとも思えます。でも、人は必ず死んでいきます。それは科学の力ではどうしようもな
い話ですが、このことが宗教を信じる根拠になっている気がします。人は只単に死ん
でいく事を良しとする人もいれば、単に死んで行く事を良しとしない人もいると云うこと
だろうと思います。宗教行事の大きな部分には「弔う」という行為がなされます。死ん
でゆかれた方々を生きている私達が「弔う」事で残された私達の心の整理が出来る
という側面があります。
科学の発達した現代における宗教とは、科学が進歩してもどうしようもない部分に焦
点が置かれるようになるのだとも云えます。「鰯の頭も信心から」という言葉がありま
す。
デジタル大辞泉によると「鰯の頭のようなつまらないものでも信心する人には尊く思わ
れる。物事をかたくなに信じる人を揶揄するときなどにもいう。」ということばがあります
が、余り良い意味には使われてはいませんが、是は「信心」というものの本質を突い
ているような気がします。他の人にとっては別にどうっと言うこともないような物を大切
にする様は将に「鰯の頭も信心から」なのかも知れません。
しかし信心の世界は実はそういう世界なのかも知れないのです。人にとっては別段気
にもならないことが、信心を持つことでそれにすごい価値を覚えるというか、何が良く
て何が悪いのかが分からなくなるような世界でもあります。
ところで、見えない世界、あるいは見える形では来ない世界である「神の国」は鰯の
頭なのでしょうか?それが今回の問いでもあります。見える形では来ない「神の国」
は私達のただ中にあります。その見える形では来ない「神の国」をどう感じるかが問題
でもあります。
それが果たして鰯の頭かどうかと言われても、それは誰にも分かりません。信仰する
と云うことはそういう問題をも含みます。宗教が宗教たるゆえんは、信心を持ってどう
変わるかと云うことでもあるのです。鰯の頭を只信じているのかあるいは「神の国」を感
じる事が出来るのかという問題でもあります。実は良く似てはいるのです。思い込んだ
らそれに吸い寄せられるようになって、その思いから離れられなくなってしまうからで
す。では何処が違うのでしょうか?私の考えですが、大きな違いは実は思い込みにあ
るのだと思います。つまりとらわれるというかその思いから離れられなくなるというか。何
が何でもという気持ちになってしまいがちですが、「神の国」は見えないのです。鰯の
頭は見えます。そこが大きく違うと云うところだろうと思います。見える世界の物を信じ
ないと言うことになります。それはいわば科学をも信じないと云うことでもあります。科
学は信用しますが、信じる事は出来ないのだと思うのです。見えるものにはどうしても
限界があります。ある程度の信頼はあっても、決して心を許してはならいという事でも
あります。
宗教が宗教であるという為には見えない物に心を寄せるしかないのだと思います。見
える物には限界があるのです。「神の国」も見える形では来ないのだと思います。でも
私達のただ中にはあるのです。見える物には心を寄せません。いくら見える物を拝んで
も、かなわないのです。見える物にはどうしても限界があるからだと思います。見えない
世界を感じる事がとても大切になります。キリスト教においてもイエス様により頼みま
す。十字架を仰ぎます。十字架は見えますが、十字架を見るのではなくて十字架の
先を見るのだと思います。それが十字架を仰ぐことになります。でも、十字架を仰ぎた
くなければ、十字架を仰がなくても良いのです。見えない世界を感じる事が出来れば
良いからです。イエス様により頼まなくても良いのです。見えない世界を感じられれば
良いからです。イエス様も十字架もいわば方便でもあります。イエス様が指し示され
た世界は見えないからです。見える形では来ないからです。
ポカンポカンとした世界です。空には鳥が飛び、野には花が咲いているような世界で
す。でも見えないのです。見える形では来ません。つまり何もない「無」の世界です。
平和でのどかで、罪もありません。何故なら見えないからです。見える物に信頼を置
かない世界でもあるからです。ただ感じるしかないのだと思います。でもそれは私達の
間にあります。私の考えではその神の世界が私達を包んでいてくれていると勝手には
思っています。いつも私たちを見守っていて下さっていると思っています。イエス様は
その世界から私達にメッセージを届けられたのだと思います。見えない世界がイエス
様を通して私達に思いを届けられたのだとも云えます。是も私の思いです。でもそうと
しか考えられないのです。イエス様は見える世界に来られたのですが、その活動はわ
ずか3年間でした。その間に多くのメッセージを残されて行かれました。その一つが
今日の聖書の箇所です。ファリサイ派の人がイエス様に聞きます。「神の国」はいつ
来るのですか?と。その答えが「神の国」は見える形では来ませんよというものでし
た。「ここにある」「あそこにある」と言えるものではないと言われました。そうだろうと私
も思います。見えない世界を見ることは出来ないと思うからです。でも見えないからとい
って無いわけでは無いと云うことです。「神の国」は私達の周りにいつもあるのだと思
います。だからイエス様は私達の間にあると云われたのではないでしょうか?
その世界は各々の宗教の中でいろいろと表現されているのだと思います。「一期一
会」と云う言葉があります。「日々是好日」という言葉もあります。一無為の真人が
私達の面門を出入りするという言葉もあります。「神の国」という言葉もあります。ある
いは「無」という言葉もあります。何もないという事です。おそらく宗教はその世界をな
んとか言い表そうとしているのだと思います。でも見えないのです。どんなにしてもその
世界は見えません。感じた世界を言い表そうとします。でもそれはどうしてもその人の
主観が入ります。だから様々な言葉が出てきます。でも私はその見えない世界が私
達をいつも見守っていて下さっているという事がすごいことなのだと思えます。
イエス様は見えない世界を言い表す代わりとして、この世に生まれてこられた方なの
だと思います。イエス様の言葉は私達に対する「神の国」からのメッセージなのだと思
います。だからこそ、見えない「神の国」を感じようではありませんか?
現代の様に科学文明が進歩して、世の中は便利になったかのように思えるこの世
で、実はどうしても科学では解決出来ない問題があるのだと云うことです。それがひ
との命だと思うのです。あるいは動物のあるいは植物の、あるいはこの星の命でもある
のだと思います。人が住みやすくするために出来たはずの科学の力で、逆に人は科
学によって「神の国」から遠ざかろうとしています。それは言い換えれば見ない世界
が私達を守っていてくれている事への感謝を忘れかかっているという事でもあるので
す。
その世界は科学力で豊になった世界をさしているのではありません。むしろ人の持つ
見えない世界への畏怖や尊敬のまなざしを再確認する事でもあります。私達はいつ
の間にか生かされている事への感謝が出来なくなってきているのだと思えます。それ
は科学力の進歩と相関するようにも思えます。科学が進歩して、身の回りの便利さ
が進めば進むほど、生かされている事への感謝がへってしまいます。それは実は見え
る世界にだけ目を奪われて見えない世界への思いが少なくなることを指しています。
でもその見える世界は差別があります。貧困があります。強者と弱者がいます。つまり
相対の世界なのです。比較検討して良い物と悪い物とに選別されてしまいます。平
等という言葉は存在しません。同じと云うことはないのです。差があります。その差が
人を悲しませるのだと思います。罪という思いも生まれてきます。それはこの世という世
界のいわば宿命でもあります。この世は弱肉強食の世界なのだからです。その中で
人は科学力を武器にこの自然界を支配してきました。でもその知識というか知恵とい
うか人の才能は科学力という人が生み出した世界の前に自然界の掟おも変えようと
してきているのだと思います。しかしそれはいわば自然と対抗することにもなります。
2021年11月のCOP26で話し合われたことは、人の行き過ぎを少しでも是正しよう
とした試みであったようにも思えますが、実は現場ではそうでもなくて政治の具にして
しまっている様な気がします。利害のある各国の思惑の中で各々の言い分がぶつか
ってまとまりのない結果になり始めています。
もう一度私達は私達が生かされているという思いに立ち戻らなければなら無いのでは
ないでしょうか?
便利で住みやすい生活は実はその背景にはどこかで地球を壊して住みにくい環境を
作っていることにはなっていないかという事が問われます。つまり誰に取って住みやす
いのでしょうか?誰しもが住みやすい環境を求めますが、それはどこかが良くなれば
どこかが悪くなる環境作りになると云うことを示しているのではないかと思えます。この
世はどうしても相対の世界ですので、残念ながら誰しもが満足できる環境作りは困
難なのだとも云えます。その中で、地球全体の環境を考えて二酸化酸素濃度の削
減を図るという試みは分かりやすいのですが、その実現にはかなりの困難が考えられ
ます。本当に可能なのかと思います。でもそれをやっていかないと地球の温度上昇
が続くことになり気候変動が益々強まっていくことにもなります。特に海面上昇は深
刻な問題で、南洋諸国は国土の喪失により住民が住めなくなってしまう問題が取り
沙汰されています。
つまり快適な生活を求めれば求めるほど、どこかに不都合が生まれて誰かに影響が
及んでしまいます。限りある地球環境において、人々の思惑が今後の地球環境を左
右するという今までには考えられなかった様な大きな課題が人類の上に降りかかって
きているのだと思います。
さて、その様な世界に私達は生きています。でもその世の中でさえ「神の国」は私達
の周りにあって私達を優しく見守ってくれているのだと思うのです。つまり見えない世
界が見えている世界を包んで優しく見守っているのだと思います。そういう心が今の
時代には必要になるのではないでしょうか?私達は生きる事に必死になって生きてい
ますが、その後ろで必死になって生きようとしている私達を優しく見守っていて下さる
世界があるという思いが、私達の心の支えになっている気がするのです。要は「神の
国」が見えないけれど私達の間にはあるのだと云うことです。私達には心の支えがど
うしてもいるのです。そうでないと見える世界にだけ心を置いて生活する事になります。
つまり自我まみれの生活になってしまいがちです。
この世知辛い世の中を、自我まみれになって生きて行く事はとてもしんどいことになり
ます。心を平安な場所に置いてこの世を生きていきたいのです。地球温暖化やゴミ問
題もそういう心のありどころから考えて行くことが重要になります。生きている私達にと
って今がとても大切になります。昨日も明日も今が無ければ存在しないのです。
自分の思いにだけとらわれないで、ポカンポカンとした世界を感じようではありません
か。イエス様が示された「愛」の世界は、何の障害もない「無」の世界なのかもしれ
ません、そして空には鳥が飛び、野には花が咲いている世界でもあるのではないでし
ょうか?それは私には「一期一会」で「日々是好日」の世界でもあるのではないかと
思います。自分を捨てて、自我を乗り越えていきましょう。イエス様にすがり十字架を
仰いで歩んでいくしか他ないのだと思います。自分にはすがらない、大きな何もない世
界を感じるしかないのだと思います。
それが宗教の持つ力なのだと思います。いくら科学が進歩しても心は満足しないと
思います。ますます心は渇くでしょう。でも宗教の世界は違います。科学が進歩しよう
としまいと関係なく心を満たしてくれます。何故なら何もない世界だからです。空っぽ
の世界です。
でも心は何故かそこで平安を得るのだと思います。
それはイエス様が云われた。「神の国」は見える形では来ない。「ここにある」「あそ
こにある」と云えるものでもない。実に「神の国」はあなたがたの間にあるのだという意
味ではないかと思います。

 
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