☆「世界の平和・人類の幸せ・京都からの発信」☆
☆「"障害"に学ぶ」☆
サマリー(要旨)
○障害者という表現・(重いテーマの中から)
○『この子らを世の光に』
・(人生の方向付け)
○欧米との格差
・(講演のテープ起こし)○滋賀県立近江学園
○「障害者」という呼称問題・(用語改訂・草の根運動)
・(糸賀一雄「最後の講演」)
○ふれあいで育つ
○『この子らに詫びる』
○「偏見と差別」
○「この子らに世の光を」という感覚
・(レッテルを剥ぐ仕事)
○「昭和54年度措置」
○「国際障害者年」
・(何故「for」ではいけないのか?)
・(バリアフリーとADA)
○ADA
○「障害を持つ人の障害が、障害になるような社会は、障害の多い不健全な社会です。」・(健全なる社会とは)
・(「分からないことが分からない」)
・(「ノーマライゼーション」)
○「ジョーイの物語」からの反省
○「野上芳彦・業績集」

☆「自著を語る」W。
☆出版予定本・絶版本
「野上芳彦関係図書」


・第一回講演会
◆日本自閉症協会・兵庫県支部
第一回総会「発足記念・記念講演」
1980年6月29日。於いて・神戸心身障害者福祉センター。
神戸・心身障害者連合会主催
・『ビデオ』・「録音カセット」(同上)

・京都精華大学アセンブリ・アワー

「韓国見たまま」
1980年6月29日。於いて・京都精華大学・ホール。
京都精華大学主催
・『スライド写真』・「録音カセット」(同上)

・定年退職・社会文化功労賞授賞・記念講演
「世界の平和・人類の幸せ・京都からの発信」
平成12年11月6日。於いて・京都普門館。
京都・明るい社会づくり運動推進協議会主催
・庭野平和財団・「庭野平和賞・京都講演」とテーマを合わせる。
・『ビデオ』・「録音カセット」(同上)

・定年退職・社会文化功労賞授賞・記念講演
◆「"障害"に学ぶ」
平成12年12月9日。於いて・京都精華大学L101教室。
京都精華大学主催
*講演会の後、悠々館にてレセプション。

*サマリー(要旨)
(『京都精華大学研究紀要』20号。サマリー、1200字程度)
*英文SUMMARY(省略)

 本稿は、平成11年12月9日。大学主催による「定年退職・社会文化功労賞受賞・記念講演」『”障害”に学ぶ』の講演内容のテープ起こしをした原稿を、大学の『研究紀要』の執筆規定に合わせて添削・補正を加えたものである。「業績集」関係分は文部省に提出した大学の資料類から活用させていただいた。
 テーマは、私の研究活動・社会活動の中で最も重い課題を選択した。しかし、従来平易に使用されていた「障害者」というネーミングは極力忌避することにした。そしてその理由や根拠、そしてこの半世紀の間に「障害を持つ市民」を取り巻く考え方・概念・施策のあり方が大きく変化していった節目や、その項目について解説することにした。
 許された紙数の関係で、学際的な論述が無理なことと、学内での「お別れ講演」でもあることから、内輪な話題についても触れることにした。中でも、筆者が奉職した滋賀県立近江学園研究部と、学園の創設者でもあり、棋界の先駆者でもある糸賀一雄 先生の思想的背景、行政的には「昭和54年度措置」、1981年の「国際障害者年」、それに1990年のアメリカで批准された[ADA」(Americans with Disabilities  Act)の意義についても触れたみた。中でも、「障害を持つ市民」に対して、何故従来の「forの概念」が忌避されるようになったのか? そして新しい権利保障のプロセスの中で、基礎概念として定着しはじめているノーマライゼーション・インテグレーション・メインストリーミング、そして近年非常に多く使われ始めた「バリアフリー」の概念などについても触れた。
 ただ、時間の関係もあり、糸賀一雄 先生の『この子らを世の光に』については、そのアウトラインについて取り上げるこおとはできたが、「糸賀一雄 語録」の内容、「自己実現の教育」「発達保障の概念」などについては割愛することとした。また、さまざまな点検活動を展開するなかで、一般にアピールできるフレーズとして、「障害を持つ人の障害が、障害になるような”社会”は、障害の多い不健全な”社会”です」という言葉を選択してみた。そして、この”社会”の部分をさまざまな固有名詞に変えることによって、具体的なチェックを行ってみようという試みである。「障害を持つ市民」の課題には単なる技術的な面、表面的な現象、量と質、ハードとソフトの段階を超えて、次の千年期、21世紀、人類の未来を占うまさに未来的課題、人類的課題を含んでいると言える。

(『大学紀要』20号京都精華大学;サマリーには英文にて加刷あり:略)

*記念講演「"障害"に学ぶ」
(テープ起こし原稿・中見出しは便宜的)

○障害者という表現
*(重いテーマの中から)

今日私は「"障害"に学ぶ」というテーマで、私が今まで取り組んできさまざまな取り組の中で1番重いテーマを選びました。例えば「精神薄弱者問題」とか「障害児教育」とか言うテーマにしなかったのが、講演の中核部分です。今日の日取りは大学でお決めいただいたんですが、実は今日12月9日は「障害者の日」です。これはまったくの偶然で、わざわざこの日を選んで記念講演を開いたわけではありません。馬庭さんから指摘を受けて、偶然の不可思議を感じた次第です。
 実は京都の「明るい社会づくり運動」では、先般、11月6日に私の定年退職・社会文化功労賞授賞に伴うの記念講演会を京都普門館で開いてくれました。その時のテーマは、「世界の平和・人類の福祉、京都からの発信」というグローバルで非常に大きなテーマでした。私の授業は、45分はビデオを使うものですから、最初か最後にその記念講演の内容の一部を、ビデオで紹介しようかと持ってはきたんですが、残りの時間がかなり少なくなるもんですから、必要な方は京都普門館の方にビデオがありますので利用いただきたいと思います。
 私は授業を半分に割りまして、後半は視聴覚を使い、特にパソコンを駆使して授業をやります。そしてあと45分を必要な講義をやっていくので、そういう意味で半分はパソコンを使いながら、あるいはOHPを使いながら授業をやっているものですから、同じようなパターンでの記念講演はおそらく全国の大学でも初めてだろうと思います。
○『この子らを世の光に』
 本当はもうひとつ、皆さんたちにぜひ見ていただきたいと思っていましたのは、『この子らを世の光に』と言うビデオです。これは名古屋の『あさみどりの会』というボランティアグループが制作したものです。そして、京都の誕生日ありがとう運動の馬庭さんたちと、もう何百回も京都市民に見てもらいました。本当はこれは16ミリのフィルムで、映写機を下げて、京都市内を回ったんですが、何百回も映写機を持って回りますと、フィルムには雨が降ってもう見るに耐えないものですから、京都市にお願いして、また2本目を購入戴いていますから、皆さんたちも是非誕生日ありがとう運動に連絡されて、ご覧いただけると、今日の私の講演の中の大切なもうひとつの部分の理解をいただけるのではないだろうかと思います。
 そのように16ミリのフィルムを使用する時には、重たい映写機が必要ですので、うちの情報館にお願いしまして、ビデオに移し替えていただきました。従って私は映写機の代わりに、授業の中ではビデオで見せています。今日は皆さんたちに是非見せたいと思いながら、そうするとまた私の講演が半分になるものですからできません。今日の話にも出てきます『この子らを世の光に』という言葉がもうひとつのメインテーマになるわけです。  「この子らに世の光を」というのと『この子らを世の光に』というのは、文字の構成ではまったく一緒なんです。ただ「に」と「を」がひっくり返っただけで、思想性や、その中に含まれる理念というものが本当に180度ほどを違うわけですが、それがいったい何だろうということをご理解いただけると、今日の私の話のもう半分が終わります。
 ただ今日は同じ記念講演でも、大学内における内輪の記念講演になるものですから、外 でやります話と違って、内輪でプライベートな話も交えながらお喋りをしてみたいと思っています。今日のようなテーマは実を言いますと、毎年どこかでは話している内容と重なるものですから、そういう意味では二番煎じ三番煎じの内容の方が多いのですが、レジメを予め皆さんたちに配ろうかと思って、一応「レジメめ的MEMO」というのは作ってみたんですが、かえって欲求不満を起こさせる可能性があるので、話題をどの辺から拾うかはパソコンと連動させながら、その場に応じて決めていきたいと思っています。
*(人生の方向付け)
 そういうことで、今までと違って気ままにパソコンを使いながらお話をしていってみたいと思います。少しプライベートな内容を含めてお話をしますと、自分の人生を振り返って、大変影響を与えられた恩人、恩師といっていいのか、そんな方たちが4人ぐらいあります。この大学に来たのも、その中のお1人が非常に大きな役割を果たしてくださっています。同志社大学の大学院の時に奉職したのが滋賀県立近江学園・研究部です。どうしてそこに行って、そしてそこで体つぶして止めたいきさつも、私の本の後ろの方に書いているんですが、或る偶然のことで、滋賀県立近江学園研究部に奉職したということが、その後の私の人生の方向を決めました。同時にそこで私が担当しましたのは、後に日本で1番最初にできた重度心身障害児施設の3つの施設の内のひとつであるびわこ学園、そこに措置をされた近江学園でも最重度といわれる子供たち、昔かつて白痴と言われていた子供たちでした。その障害の最も重い子供たちを担当したことによって、私に非常に大きな影響、あるいは学びを得たというふうに思っています。
 私が出ました母校は、今年が創立215年という非常に古い学校であるとともに、昔は西日本で一番有名な学校で、そんな学校でちょっと成績が良いと、そのことを鼻にかけて、そのことで自分まで人間として偉くなったと錯覚を起こすことがあるんですが、近江学園で最重度の子供たちとのかかわりを持てたおかげで、そういうことに対する厳しい自己チェックが出来るようになりました。その中には、そのまま癲癇発作が止まらなかったら、もうこの子の命はないと分かっていながら、発作をその当時の医学では止めることができないで、あたら目の前でその子を死なしてしまったこともあります。その後、公立の精神薄弱児施設の園長になりました時に、かなり重い子供たちを扱いましたが、近江学園でそういう非常に重い子供たちを担当しておりましたために、動ずることはありませんでした。それに、近江学園に勤めていた期間というのは、すぐにばてて、体潰してしまいましたが、短い間でも近江学園にいたということが、その後の自分の職業や人生に大きく影響したことになります。私が近江学園におりました時には、一緒に大学院に行っておりました山口治さんという人がもう1人いたんですが、ところが私が公立施設、精神薄弱児施設の園長になったときに、その施設の職員の誰かが「私勉強したいから、大学院に行きたい」と言ってきた時に、行かせることが出来ただろうかと考えた時、これが難しいんですねー。いかに糸賀先生が、こういうことに対してご配慮いただいたかというのを、自分がその立場になってやっとわかるんです。しかも近江学園は、「近江学園の3条件」というのがありまして、「四六時中勤務」、子供たちと一緒に生活するというのが原則でした。そして「不断の研究」というのがあり、いつも研究を止めてはいけないというのが原則でした。それからもうひとつは、「耐乏の生活」というのがありました。
 こういう中で、日曜日を働くという条件で、ウイークデーの1日だけ、体を開けていただき、その前日に京都に出て、そして翌日一日を大学院の授業を受けるというハードスケジュールでした。私たちの頃の大学院は、指導教授と学生とで一対一で原書を読むというスタイルでしたから、徹夜して原書をあらかじめ翻訳するため、休みの前日は原書と首ったけでした。考えてみますと、ずーっと体と心の休まる暇がない。これが健康によくなかったみたいです。
 ところがそういう所を出発点にしているものですから、その後にさまざまな第一線といわれるような最先端で高度な技術を必要とするところに勤めても、考えてみると最初に良い所に奉職させてもらったなあと、という思いがあります。
 そして、京都では誕生日ありがとう運動京都友の会の馬庭さんと一緒にはボランティア活動をやって、『この子らを世の光に』という16ミリの映画を見たのですが、最初にこの映画を見た時には、まさに感動して涙がポロポロ出ました。普通、筋書きのある映画だったら、一度見たら2度目はもう筋が分かってるから面白くないのに、このフイルムを私たちは少なくとも何百回となく見ているんですが、その度に新しい学び、新たな感動というものを感じるのです。いうならば障害を持ってる人たちを通して、私たちが何を学ぶかというのは、底がしれないほど深いものがあります。この1番大事なものを私たちは見落としていることはないだろうか。それが今日アピールしたい最大の事柄です。
○欧米との格差
 日本はこの障害児問題を取り上げる時に、欧米諸国に比べて百年の遅れがあるという形で出発しました。それじゃ今は縮まっているのか、開いているのか。何年の遅れがあるのでしょうか。どれくらいの開きがあるのかと言いますと、あまり縮まっていないのです。世界の経済大国といわれ、教育大国といわれている日本は、障害者問題に関する限りは、欧米に対して本当に見劣りがする。なんでこういう現状が出てきたのだろうかと、やっぱり反省する必要があります。私は、今日の記念講演のテーマに、「障害者」という表現をいれて見てみようか、あるいは「障害者問題を考える」とか「日本におけるの障害者問題はなぜこんなに遅れているのか」とか、そんな表現の方がアッピールするのではないだろうかと思ったのですが、「障害者」というこのネーミングはやはり好きではないんです。
 特に、「障害」という言葉を辞書で引くと、「差し障りがある、邪魔になる」とありますから、「障害者」と言いますと、「差し障りのあるもの、邪魔になるもの」ということになります。だから「障害者」という言葉は非常に差別的です。私は、京都府・市ではいろんな委員会で会長職務代行やその他責任ある立場にあるものですから、知事や市長に何度か諮問された答申案を作り上げ提出したことがあります。その時にいつもクレームがつく言葉が2つあるのです。そのひとつが「障害者」で、障害者団体から、「もうそろそろこういう古臭い言葉は、諮問の文書の中から消してくれ」「他の適当な言葉を選択して入れてくれ」というのです。もうひとつが「ボランティアという言葉の中に”奉仕”という古臭い活字は取ってくれ、私たちは何にも仕え奉ったりはしてはいない。もっと新しいイメージで言葉を使ってください」という要請を受けるものですから、行政の中にプロジェクトチームを組んでもらって、こういう要求が出ているから、知事や市長に出す原案の中からこれを削って全部書き直してくれるように協力要請をするのだが、これが簡単にはいかない。なぜかというと、法律や公文書の中にこの言葉がまだ生きているから、勝手に他の名前に代えること出来ない。そこで今、そういう問題に対して誕生日ありがとう運動の人たちが何十年という間、アピールをし続けており、その資料を読んでいただき、なぜ「障害者」という言葉は不適当なのかを理解いただきたい。そういう長い取り組みの中で、昔は、子供たちが「がいしゃ、がいしゃ」と差別するのと同じように、言葉は大事だから「せいはく」という呼び方はやめてフルネームで「精神薄弱」と呼ぼうとアッピールがあった。しかし「精神薄弱」というのもこれまた差別的なんですね。特に中国からの留学生に言わせると「先生、中国で精神薄弱なんて言われても意味がわかりません。中国では精神薄弱というのは思想性に問題ある人、いわば知能の発達の遅れという人よりは、精神性・思想性に問題のある人のことです。だから意味が通じません。」ではどういうネーミングが良いのかと、みんなで相談してやっと「知恵遅れの人たち」というネーミングが選び抜かれた言葉でした。そうしましたら、岡部伊都子さんがうちの大学に講演に来られた時に、ふっと「知恵遅れなんていう言葉は、差別的であまりいい感じじゃないから、何か変えられない?」と言われるから、実はこうこう、こういう長い取り組みの中で、やっと選び抜かれて出てきた言葉が「知恵遅れ」なんですと言うと、岡部さんは「だって聞いていて不愉快な言葉は差別だもん」と指摘されました。だとしたら、障害を持ってる人たちを、どういう言葉で表現するかというのは非常に重要です。その辺の事を、今日はパソコンを使いながら拾っていってみたいと思います。
 今この大学で父兄会なんて言いますと吊し上げられますね。なぜかっていったら、「父兄会って男ばっかりでしょう。保護する人が男ばっかりということはあり得ないはずです。女性のことはどうなっているんですか。」というわけです。そのようなことで、そのネーミングのことは非常に神経を使わないといけない。差別用語といわれるような言葉が出てき始めましたから、童話の「チビクロサンボ」なんて今は使えません。ましてや障害を持ってる人で、昔は盲聾唖とか、めくら・おし・つんぼとか言ってましたが、このような表現や言葉を無神経に使ってはいけない時代になっていますが、こういうネーミングを問題は非常に気をつけておくべきですね。
*(講演のテープ起こし)
 私の母校は、修猷館高校という学校で、天明4年に出来た黒田藩の藩校で、数限りないくらいの俊才を出しています。ここで4年間級長をし、3年間を生徒会長をしていた関係で、九州にいきますとを割合仲間が多いんですが、それだけに先ほど言いましたように、ここの学校に行ったというだけで、何か錯覚を起こしてしまうことも多いです。
○滋賀県立近江学園
こういう中で私は、幸いにして、近江学園では素晴らしい上司に恵まれることができました。その時の園長が糸賀一雄先生で、副園長が田村一二先生、そして研究部の部長が岡崎英彦先生、後にびわこ学園の園長・理事長をされた方です。そういう方が上司におられて、仕えたということもあり、私がこの障害者問題に関与して、まず糸賀先生の思想というものを的確にお伝えすることを第一の仕事としてやってみようと考えました。
 そこで大学紀要『木野評論』の創刊号に糸賀先生のことを書きました。「糸賀一雄氏とその思想」です。それを1回だけで終わらせるのは勿体ないものですから、九州で私が施設の園長をしてる時に、後にも先にも糸賀先生が北九州市での唯一の講演会だったのですが、それが『この子らを世の光に』というテーマでした。それをテープ起こしして、私がちょうどこの大学に来ました時にボランティアグループでVYSというのを作り、誕生日ありがとう運動のお手伝いをしておりましたので、そのメンバーと一緒になって、それを1冊の本にしようということで、みんなで協議をして本にしたんです。ところが、そのころは今のように音声パソコンなんてありません。今だったら私の喋ってることがそのまま活字になるのですが、その頃は大きなテープレコーダーを持ってきて、こんな大きなテープ(30センチもあるようなリール)で、ガチャン、ガチャン、ガチャン、ガチャンと、書き取ったり元に戻したりしながら、糸賀先生の声をまさに何千回と聞き直しながら、半年がかりでテープ起こしをしたんです。実はこれが大変いい勉強になりました。半年もかかって、一千回以上も聞き直しますと、どんな人間でもずしんとおっしゃる事が体に入ってきます。それと縁というのは不思議です。私が北九州市立ひまわり学園で園長をしてる最中に、糸賀先生は講演の最中に倒れ、翌日亡くなりました。そんな偉い先生だから、新聞に訃報が出ます。北九州市の施設の園長たちが、糸賀先生が亡くなったというので大騒ぎしてる最中に、糸賀先生が最後に書かれたハガキが私のところに舞い込みました。学園の事務局のメンバーが「糸賀先生が亡くなったというのに、ハガキが来てますよ。」と郵便物を持参してくれました。その時の講演が、「木野評論」の創刊号の分と一緒にしましたその本に、糸賀先生の『この子らを世の光に』という講演のテープ起こしを加えて編集したわけです。だから、私は今93冊ほど本を出してますが、その中でも今紹介した本は非常に強い印象が残っています。もちろん『糸賀一雄』という本も書きました。これは私の91冊目の本あたりますが、その次の92冊目の本が『田村一二』先生のことを書いた本です。
○「障害者」という呼称問題
*(用語改訂・草の根運動)

 誕生日ありがとう運動本部の機関紙に、長いことこのネーミングの問題を取り扱っています。だから本当は、今日のテーマで誕生日ありがとう運動の方に来てもらって、なぜそのような呼び方が不適当なのか、そして今までどういう取り組みしたのかということを聞く機会が持てると大変よかったと思うのでだが、今回は時間の関係で断念しました。
 機関紙は是非お読みいただきたいですね。それにはどうゆう特集が組まれているのかというのを見てみますと、「誕生日ありがとう運動のしおり」(年4回)に「用語改定・草の根運動」というのが見られます。これは大変素晴らしい活動で、行政や政府を動かし、30年ほど前のことになりますが、中学・高校で使っていた教科書が偏見に満ちた、いや偏見ならまだしも非常に誤った情報、正しくないむしろ誤解を生むような表現があり、それは小・中・高の教科書だけではなく、昔は大学で学ぶ心理学の教科書の中にも、そういう表現が使われていたものですから、従って誕生日ありがとう運動は、「教科書改定運動」というのをやりました。これには障害を持ってる人たちや、親の会も一緒になり、政府に働きかけました。これには行政府も、的確に反応してくれ、閣議で「教科書改訂」を決議をしていただき、議会を通し、正式に全国に通達を流してくれ、現在の教科書からはこういう部分は全部改正されています。こういうボランティア、当事者、親の会などの取り組みがあったからです。もちろん、フォーラムもやっていますし、それから「言葉と社会の背後にあるもの」、「これでも知的障害者と呼びたいですか」とあるように、これには少し解説を加えないといけないけど、精神薄弱者福祉法という法律がありますから、だからこれを使うなというのであれば、どういう表現がいいのだろうかと、政府の方で学識経験者を集めて、正式な委員会を構成して、協議の上決めたのが、「知的障害者」という表現である。政府が正式に決めてたのだからすんなりいくかと思いきや、これがボランティアの側や、親御さんたちの側からも、総スカンを食って、結局これもまた使えないという有様です。それでは「障害者」というネーミングに対して、これからどう表現していったらいいかと いうフォーラムを重ねながら、この取り組みがずーっと続けられ、しかも「知的障害者」という用語を廃止しようと、これが1998年5ですから、去年のチラシです、みんなの意見を聞きながら、草の根アンケートを実施して、「新用語知的障害者の欠陥、国会で明確に」、そしてこれに代わるような用語を、またその中で人権をどういうふうに守ったらいいのかという、その様な取り組みをしてくれているわけです。
*(糸賀一雄「最後の講演」)
こういう中で、うちの大学の紀要『木野評論』を抜刷にしたのが『糸賀一雄 とその思想』です。後で糸賀先生の本でもう1冊柏樹社から出したのがあります。『愛と共感の教育』です。これぜひ読んで欲しいと思う本のひとつですが、これが、糸賀先生にとっても私たちにとっても、非常にエポックメイキングで、そして非常に大事な記念碑的な本になりますが、それは糸賀先生が昭和43年7月17日に大津市で行われた「滋賀県児童福祉施設等新任職員研修会」の席で、「施設における人間関係」という題で講義をされている最中に倒れられ、翌日心臓発作で亡くなりました。
 講演の一番最後に、もう講義は終わっていたのに、聞いていた聴衆の中から一人の方が手を挙げて、「先生、先生の言われてる言葉の中で『この子らを世の光に』という非常に有名な言葉がありますが、『この子らを世の光に』という意味をもう少し分かりやすく説明いただけませんか」という質問が出て、糸賀先生も「そうだね、このことは是非皆さんたちに、知っておいてほしいから、じゃあ話を続けましょう」と話を続けられているときに、持病の心臓発作を起こして次の日に帰らぬ客となれました。この糸賀一雄 先生の「最後の講演」は聞く人をして、鬼気迫るほどの迫力を感じるといわれているだけに、多くの人に聞いていただける機会があると良いですね。
○ふれあいで育つ
 糸賀一雄 先生は当日、自分でテープレコーダーを持ち込んで、自分の講演を録音されていたのです。これも当時としてはこれは大変珍しい出来事でした。自分の講演を折角テープで録音されたのに、そのままで終わらせの勿体ないと、これを私がテープ起こしをしたのです。半年がかりでしたが、そのテープはまさに鬼気迫ると言われるぐらいの内容だでした。しかし「施設における人間関係」というテーマでは、どうももうひとつアッピールする力が弱いと思い、私の方で勝手に「愛と共感の教育」というふうに名前を変えて出版させていただきました。それがこの本です。ちっちゃな本ですがよく売れました。そしてこれに並行して、誕生日ありがとう運動の方で、大学のVYSは初期の頃は誕生日ありがとう運動京都友の会と一緒に活動していたもですから、この頃にVYSのメンバーが出したのがこの糸賀先生の本です。
 私が近江学園に居ります頃には、研究部長の岡崎医師に頼んで、暗室を作ってもらって、近江学園では全国の精神薄弱児施設で初めてアフターケアを始めたので、そういうプログラムを「精神薄弱児福祉展」で松坂屋デパートに展示するために、写真を撮って回ってました。その時に撮りました当時の近江学園の写真を表紙に使いました。三角帽子の赤い屋根、下には瀬田川が流れていて、料理旅館を改造した風光明媚なところでした。今、近江学園は石部町という所に移っておりますが、創設当時の近江学園の風景を表紙に入れて出版しました。その時に、私が園長していたときに北九州市で講演いただいた『この子らを世の光に』の部分をつけて、ちょうど1冊の本になるくらいの量になりました。当時大変有名になったんですけれども、内の大学のボランティア・VYSのグループのメンバーと誕生日のメンバーと一緒になって、「知恵遅れのこらの作品集」『大きくなったら』と『とうさんのハゲあたま』という本を、全国の知恵遅れの子供たちの施設から、子供たちが描いた作品を集めて1冊の本にしたのです。この時に実は、学生たちはただ頭の中だけで、知恵遅れの子どもたち・精神薄弱児のことを、いろいろ思いあぐねていてもはダメだから、「実際にびわこ学園に行って重度の子供たちと一緒に生活体験を持ちなさい。その上で本を作りなさい」ということで、学生たち全部泊まりがけで、びわこ学園に行かせました。これが、ほんとに学生たちを育てましたね。
 理屈だけではない多くのもの学びとって帰りました。この本は反響が強かったもんですから、出したらとたんに売り切れてしまって、いろんな新聞社やテレビ局から取材に来て、それに対してみんな堂々と受け答えするほど、障害者問題に対しても、一人の人間としても対応出来ました。だからいかに障害を持ってる人を通して、その触れ合いを通して、人間が育つかということを、知って欲しいし、理解して欲しいと思うのです。いうならばこう言うかかわりこそが、人間を育ててきたんだということを、知ってほしいと思うのです。
○『この子らに詫びる』
 これは私たちと一緒に、障害者問題に取り組んでいる、いうならば学者仲間の1人に伊藤隆二さんという人がいまして、伊藤教授は、単に『この子らを世の光に』という表現ではなく、いうならば『この子らは世の光なり』という本を書いています。そして同時にまた、『この子らはなぜ世の光なりか』という本も書き、その後に、『この子らに詫びる』という本を書きました。実を言いますと、私も精神薄弱児施設の園長もし、また障害者問題にずーっと関わってきたので、今までに学びが足らなかったとは言い上、多くの過ちを犯してきているんで、伊藤教授と同じように本当は「この子らに詫びる」というような本が書けるなら書きたいという気持ちを持ってはいるんです。例えば、私は大学の「木野評論」にずーっと連載してきた内容を1冊の本にしたのがこんな厚い本ですが、『障害児・者福祉と教育』という、割合専門書としても厚い本を出しています。
 でも今だったらこんな表題の本は書けません。なぜかといいますと、もろに「障害者福祉と教育」、私も今日の講演の表題を、やっぱり10年か15年か前だったら、こういうテーマをつけたのではないかと思います。なぜかと言うと、当時こういう表題をつける不自然さや、あるいは自戒めいたものを持っていなかったからです。しかし今は、伊藤教授が懺悔して書いているように、やっぱり自分たちが今まで歩いてきた道で、大変な過ちを犯してきたなあという、自戒がいっぱいあるからです。
○「偏見と差別」
 私の目の前で癲癇発作を起こしながら亡くなった子供がます。そして本当は、障害の重い人たちのことについては言葉でどんなに繰り返して言っても、判っていただけないものですから、先ほどの『この子らを世の光に』という16ミリの映画を見ていただくと、こんなに障害の重い子供たちがいるの。しかも、この子供たちが生きてるというのはどういうことなんだろう。この子たちの生きがいとはどういうことなんだろ。この子供たちに対する教育や福祉というのはどういうことなんだろう、ということを理屈でなく実感してもらわないと言葉だけでは分かってもらえない。特に先の本の中に、偏見と差別の問題について書いている部分がありますが、偏見や差別というのは大人になって是正しようと思ってもうもう間に合わない。大人になってどんなに論理的に理路整然と「差別はこういうところがいけない」と言ったって、論理を立てて説明されても、それを何十回に繰り返して聞かされても、大人になってしまってからでは、あまり効果がない。しないよりはするに越したことはないのですが、それを受けたら偏見や差別が雲散霧消して無くなるのかと言えば、いわゆるその人たちが育ってきた社会の側に、あるいはその育ってきたプロセスの方に、問題があるものですから、そこまで掘り下げないと偏見や差別の問題は、なかなか解決しないのです。
 ところが偏見や差別を受けている側では、偏見や差別はないのかと言いますとそうはいきません。私が「福祉の風土づくり」で責任者をしております時に、これは国際障害者年の問題もあり、それまで京都では身体障害者と精神薄弱者とは別々に福祉展を開いていたのですが、われわれの提案で、もう国際障害者年だから両方を一緒にして福祉展をやろうと提案しました。一番反対したのは誰かと言いますと身体障害者のグループでした。いわば対象が違う。一緒にして、味噌も糞も一緒にしてもらったら、われわれのイメージが悪くなると言うんです。いうならば私たちは障害をもって偏見や差別を受け来たのだから、偏見や差別は徹底的に糾弾していこうと言っていた人たちが、精神薄弱者と一緒に福祉展をやろうと言ったら、あの人たちと我々は別やと拒否する。言うなら、差別とは一体なんだということになる。同じ精神薄弱者の中でも障害の軽い人と重い人とでは、差別の内容は違ってきています。さらに重い重層的な差別というのもあります。そういうものをよほどキチンとチェックして考えておかないと、表面的に偏見や差別とだけ言ったってどうにもならない。
○「この子らに世の光を」という感覚
 この中でまず取り上げておきたいのは、『この子らを世の光に』と「この子らに世の光を」の違い、「を」と「に」をひっくり返しただけで、なぜそこに含まれている意味が全然違うのか、というのを眺めていきますと、『この子らを世の光に』と「この子こらに世の光を」というのでは、福祉に対する感覚がまるっきり違う。、ネーミングの問題、呼称の問題の重要性が、ここにある。そうしますと「この子らに世の光を」というのは、今までの福祉のパターンで言うならば「この子らには障害があって可哀想だから、そして不幸な立場に追い込まれているのだから、どうぞこの子らに世の光を当ててあげてください。手を差し延べてください。同情や哀れみを与えてあげてください。」というのが昔の福祉のパターン、障害者問題のパターンであった。これひっくり返すことによって、いうならばこの子らの存在が、私たちの持つ歪みや間違いを照らし出してくれる光なんだ。この子らを通して私たちが、そのことに気がつくのか気がつかないのかが、非常に大きな問題である。「糸賀語録」というのはそれだけで1冊の本になるくらいですが、「糸賀一雄語録」の中でもうひとつ有名な言葉に、「自覚者は責任者である」というのがあります。そして「見れども見えず、聞けども聞こえず」、重症なのは私たちの目であり、私たちの心である。私たちが「重症・重症」と言ってるけども何が重症なのか。立って歩けないとか、あるいは見えないとか、そういうことで判定するのだとしたら、むしろ1番大事なものが見えない、1番大事なものが聞いていてもわからないというのは、それは私たち自身の心の方ではないか。
○レッテルを剥ぐこと
そして私たち、こういう仕事をしているものは、相手が障害者とか、あるいは精神薄弱児だとか、そういうレッテルを貼りつける仕事ではなく、むしろそのレッテルを剥いでいく仕事がわれわれの仕事でなければならない、と糸賀先生はおっしゃっています。
 私は同社大学の大学院で臨床心理学を学びましたから、45分ほどあれば知能指数や性格を判定できます。そういうことがあって、私は心理判定員として、子供たちを措置する場合には、その子供たちの知能指数を測って、魯鈍・痴愚・白痴(後の軽度・中度・重度)というふうにランク付け、段階付けて、そして指導にはどの程度時間がかかるのかというのを判定して、私が園長してます時には野上式、いわゆる精神薄弱児に対する「指導のチャート」というもの作って、これも割合有名で広く使われていたのですが、糸賀先生は、そういうふうに相手にレッテルを貼りつけるような仕事は、これからの福祉のあり方ではない。むしろその人たちに貼られているレッテルを剥ぐ仕事こそ、これからの仕事、これからの福祉のあり方だと先生は指摘されました。
 考えてみますと、私たちが習ってきた心理学の教科書の中には、魯鈍・痴愚・白痴、いわいる精神薄弱児を、いうならばランク付けるのが当たり前だと思っていた。そして、こういう面での概念的な変化というのがありますが、私たちが福祉施設で働いたり、そういう場面で働いているとき、これは常識的に使用する言葉です。教育可能群・訓練可能群という分類、これは知能指数で判定するのですが、知恵遅れの子供たちが、教育の対象になる・教育が可能なメンバーなのか、あるいは教育は不可能でも訓練は可能だから、授産場だとか、またはそういう授産施設とかに行って訓練したり、リハビリテーションをしたら、なんとかものになるグループなのか。教育も不可能、訓練も不可能なグループを、昔は白痴と言ったんです。白痴というのはイディオットといい、箸にも棒にもかからない、煮ても焼いても食えない、人間でいうと下の下で、結局一生涯人様のお世話にならないといけないグループを、白痴というネーミングを使っていましたから、私たちは子供たちに対してこういうレッテルを平気で貼っていた。この子は教育可能なのか訓練可能なのか、これも不可能なグループなのかという分類を平気でやってきました。従って先ほどから、伊藤教授が「この子らに詫びる」と表現致したように、私が精神薄弱児施設の園長をしております頃は、いわゆる社会福祉関係の施設ですから、そこに子供たちを措置して引き受けようとしたら、就学猶予・免除の手続きの終わった子供でないと、施設には受け入れられなかった。施設に措置するには、教育不可能群だから教育受けるのを断念する手続きをしました。だから就学するのを猶予・免除する手続きが終わって、もう教育は諦めましたという人だけ、措置を受けてよろしいという時代でした。私が子供たちを施設に引き受けたのは全部、そういう手続きを取らしていたわけです。そして平気で魯鈍・痴愚・白痴だなんて言うレッテルを張って、「この子は教育は無理」なんて平気で言っていました。そのことが大きく変わったのが、「昭和54年度措置」という節目なんです。
○「昭和54年度措置」
 
">本書(『障害児・者福祉と教育』)の中に細かに書いていますが、この「昭和54年度措置」というのは、大変大きな変化の節目だと思います。この年度から、どんなに重度の子供たちであっても、子供たちの教育を受ける権利を100%認めよう、子供たちの教育権を完全に保障しようという決定をしたのが、この「昭和54年度措置」なのです。
 それまでは、生きた屍と言われ、ただ生きてるだけ、ベットサイドで寝たきりでもう身動きもできないような最重度の子供たちは、教育も不可能だし訓練も不可能だから、死ぬまで施設で面倒みてくれと言われていた子供たち、何が問題かというと、それは学校に行こうと言っても歩けない、第一何かを食べようと思っても自分では食べることができない。身辺自立もできていず、学校にも行けない、字も読めない、教育をしようと思ってもやれない、無理である。そういう考え方であったのが、その昭和54年度措置からどう変わったかていうと、学校に行けなかったらの学校がベットサイドに来れば良いではないか。先生がベットサイドに来て、そして子供たちに教育をやってくれたら教育を保証することができるではないか、だから昭和54年度措置から、もう学校の先生がベットサイドに来て、いろいろケアしてくれることをも教育と認めて、100%日本で生まれた子供たちは障害の重い軽いにかかわらず教育を受ける権利を保証しようと決定をされたのがいわゆる「昭和54年度措置」なのです。このように大きく変わりました。それまではどんどん切り捨てていったものを変えたのです。
○「国際障害者年」
 それからもうひとつ大きく変わりましたのが、「国際障害者年」です。国際障害者年の時には国連もミスを犯してるもんですから、われわれがどんなミスを犯したかということを、国連が出してる本を翻訳するとこんな厚い本になります。これを皆さんたちに紹介していたら3日あっても一週間あっても足りません。国連ともあろうものが、こういう大きな部分でミスを犯したということは、私たちが目を閉じていてはいけない非常に大きなポイントとも重なります。
 その時に、「障害者の10年」というのを決め、続いて「アジアの障害者の10年」というの決めたのです。お隣の滋賀県でもミスをしました。もう時効だからいいでしょう。これはその「障害者の日」に、みんなでセレモニーをやろうということで、ポスターを10万枚作ったんです。その時のポスターに、「身体障害者の日」と印刷して配りました。それまでミスに気がつかなかったけど障害者団体からクレームがついたのです。「身体障害者の日とは何事だ。知恵遅れの人たちや精神障害の人たちは別やということになるのか。」と、いろんな具体的な不備を指摘されて、初めてミスに気がついて、又ポスター10万枚を刷り直して、そしてセレモニーをやり直したということがあります。
*(何故「for」ではいけないのか?)
 このように、もうひとつの節目にIYDP(国際障害者年)があります。「International Year of Disabled Persons 」これを翻訳していわゆる「国際障害者年」になったのですが、IYは、インタナショナル・イヤーで、DPがディスエイブルド・パーソンズ、これを最初に国連が決めた時には真中を繋いだ文字がforでした。International Year for Disabled Personsという表現にクレームがついたのです。「for」とは何事だというんですね。それでは何故forがいけないんでしょうか。お分かりでしょうか? いうならば「for」というのは、障害を持ってるその人たちの「ために」ということでしょう。だから、「私たちがあなたたちのために、何かを考えてあげますよ」、「してあげますよ」、っていうことは、その人たちの立場を自分たちより下で、哀れで可哀想な存在だというのが前提で「for」ということになるわけで、それじゃ何にしようということで、使えるとしたら「with」です。20世紀までは「共に生きる」(with)というのが福祉のキーワードだったんですが、21世紀は「共に生きる」という古臭い言葉ではなく、「共生」という概念に、又ランクアップしたわけです。  どこが違うのってということについては、夫々で考えていただきたいんですが、その時に国連はforという代わりに「of」という前置詞に変えたわけです。だから、これは「International Year of Desabled Persons」 という表現に変りました。日本の場合には「国際障害者年」のままだったので、そんな大きな変更があったということに気がついていないのです。そして、いまだに障害者問題を「forの段階」のままで考えてしまっているのです。障害を持ってる人のために何かを考えてあげましょう、してあげましょう。これでは相手を同じ人間同士の立場に立って一緒に考えたり行動するということにはならないのです。
*(バリアフリーとADA)
 もうひとつ、今よく使われているのが、ノーマライゼーションとかバリヤフリーです。問題なのはバリアフリーは、物理的なバリヤだったらどうにかなるのだけれども、心の中にあるバリヤはそう簡単に払拭できない。
○ADA(Americanns with Disabilities Act)
 もうひとつだけ、取り上げておきたいのが、「ADA」についてです。ADAというのは、1990年、約10年前にアメリカで批准された法律です。ADAというのは、「Americanns with Disabilities Act」 の頭文字で、これが成立した時、日本では「全米障害者差別撤廃法案」と翻訳したんです。これに10年前でもクレームがついた。「障害者とは何事だ」ということで、今では「障害を持つアメリカ市民法」と言われています。
 だから、1981年の「国際障害者年」は、その頃だから「国際障害者年」で通った のですが、今年だったら、もう「国際障害者年」という名称はつけられない。たった10年の間に、それだけ大きな変化がありました。アメリカでは大統領がサインして、法律としてもう効力を発してますから、アメリカでは障害を持ってる人がその障害のために、差別を受けたり、みんなと一緒に行動できなかったら、これは法律で裁かれる時代です。アメリカと日本とでは、アメリカが風邪をひいたら日本がくしゃみするというくらいに、日本とは非常に近しい関係にある。だったらアメリカが10年前にADAという法律を作ったんだったら、後10年ほどで日本にも同じような案法律が出来るかと言えば、10年ぐらいでは出来っこないですね。アメリカンズですから、そこをJapaneseにして、ジャパニーズ ウィズ ディスアビリティーズ アクトで、JDAというのが10年たったら、日本にに出来るかというと、なかなか後10年ぐらいでは追いつきそうにはありません。この差をどこで詰めていったらいいのか。これは本気で考えないと、「日本は遅れているなあ」ではもう済む問題ではないのです。
○[障害を持つ人の障害が、障害になるような社会は、障害の多い不健全な社会です。」
*(健全なる社会とは)

 いよいよ最後に近くなると思いますので、いろんなことを、あんまり理屈っぽく言うだけでは意味がないので、分かりやすい表現でアピールできる何かフレーズはないだろうかと考え抜いたのが、「障害を持つ人の障害が、障害になるような社会は、障害の多い不健全な社会です。」という一文です。京都には一休さんや曾呂利新左衛門らがいて、昔から頓智や言葉遊びというのがある。「瓜売りが瓜売りに来て瓜売り残し、瓜売り帰る瓜売りの声」とか、同じ言葉を繰り返しながら、ある物語りや意味が含まれていえる文章やフレーズを作ってみたらどうだろうと私がいろいろ考えて、障害という言葉をいくつ重ねられるか、と考えて作ったのがこのフレーズです。
 「障害を持つ人の障害」、これを私たちは第1次障害と位置づけています。目が見えない(視力に障害がある)とか、耳が不自由であるとか、知恵遅れであるとか、車いすに乗っているとか、身体に障害があるとかです。その次の障害を私たちは第二次障害と呼び、目の不自由な人が、目が不自由であるということで、行動したり、就職したり、勉強しようとしたりすると時に障害になるような社会、それを第二次障害と言っています。そういう社会は障害の多い、いわゆるバリヤが多い、あるいはノーマライゼーションに到達していない不健全な社会であるというわけです。そういうふうに障害というものを眺めていきますと、障害というものが3つのレベルに分けることができます。第1次障害・第2次障害・第3次障害と言っていますが、第1次障害というのは私たちが京都で「福祉の風土づくり」をやります時に、「障害者の住みよいまちづくり運動」と言って、できるだけ物理的な障害、第1次障害、いわゆるハード面における障害をなくそうという運動をやってきました。皆さんたちがそこで仮に車いすのに乗らないと生活できない立場だったとしたらどうしますか?ここに10センチくらいの段差があると、それが大きな障害・バリヤになるんです。どうぞこの上に上って皆さんたちの名前を白版に書いてくださいと、これは障害のある人たちにとっては2メートルぐらいのブロック塀があるのと同じくらいのバリヤになりますか。でもこれにスロープをつけたらバリヤはなくなります。ところが、そんなのは単なるバリヤじゃない。車いすの人が来たら、誰かその辺の人たちが手を貸してくれたら、それはバリヤにならない。それができないのは、できない社会をの側に問題がある。それができないその回りの人の方に問題があるから、そういう障害をなくすことです。だから、京都で「福祉の風土づくり」の最初の頃には「障害者の住みよい街づくり運動」というネーミングを使っていたのに、後には「だれでも住みよい街づくり運動」と変えました。初期の頃は、シルバーシートや障害者優先席を乗物全部に作っていこうとしたのに、最後にはこれをなくす運動をやろうと変わってきた。優先席があって席を譲るというのはもう遅れている。なくても皆がそれが出来るようになることが重要だと私たちはアッピールを始めました。
 ここで「社会」の部分を固有名詞に変えるとそれが見えてきます。「会社」とか、「学校」とか固有名詞に変えてみると、「障害を持つ人の障害が、障害になるような会社は、障害の多い不健全な会社です」、ではあなたの会社はどうですか。同じように「障害を持つ人の障害が、障害になるような大学は、障害の多い不健全な大学です」といった形で、「あなたの大学を点検してみたらバリヤはありませんか? 問題ありませんか。」では「あなたの会社は」、「あなたの小学校は」といった具合に点検をし直してみることです。こういうふうに「社会」と書かれている部分を、それぞれの固有名詞に変えて点検し直してみると、こういう面で本当にそれに耐えられるような、状況になってるのかどうか、ということが分かってくる。こういうふうに具体的に、今までのような形ではなくって、物差しを変えて、見方(価値観)を変えて、見直してみることが大切です。
*(「分からないことが分からない」)
 ちょっと時間的には無理ですが、「わからないことが分からない」。私たちが誕生日ありがとう運動の市民集会の時なんかに、よくを使うエピソードですが、それを使用しながらこのエピソードを最後の〆くくりにしてみたいと思います。これは伊藤隆二教授、この方は障害児教育の権威者で、東京大学でも障害児教育を担当されたぐらいの人ですが、この方がその問題、あるいは脳障害問題の研究のためにアメリカに留学された折に、誕生日ありがとう運動の紹介をされたことがあります。すると、向こうの市民やボランティアたちが伊藤教授に「あなたの言うことが分からない」と言う。それは何故かと、伊藤教授はアメリカの市民に日本のボランティア活動「誕生日ありがとう運動」の紹介をして、「誕生日ありがとう運動というのは、みんな1年に1度誕生日がくる、その時ぐらいは自分たちの誕生日をちゃんと意識しながら100円献金をして、障害を持ってる人たちのために献金しようではないか」という運動を誕生日ありがとう運動の人たちがやっているってという説明をしたら、アメリカの人たちがどういったと思います?「何で誕生日なんですか?こういう問題は誕生日だから考えようという問題ではない。障害を持った人たちの問題は、われわれの日常的課題であって、日常みんなで考えないといけない問題なのに、どうして日本ではせめて誕生日ぐらいとなでるんですか?」「なるほどなーー」と伊藤教授は思ったと言います。こういうふうに私たちが当然日常的に、障害者問題を充分心得ている、知ってる、と思って過ごしてきた中で、私たちは重大な見落としや、重大な学びというものを、見落としている部分があるんじゃないでしょうか。
 単なるのネーミングの問題だけじゃないですね。さて、皆さんたちが住んでらっしゃる地域をこれに当てはめて、もう1辺このことを反芻いただいたらと思います。
「障害を持つ人の障害が、障害になるような地域は、障害の多い不健全な地域です」
これはもちろん、糸賀先生がおっしゃる『この子らを世の光に』、あるいは国際障害者年のノーマライゼーション(normalization)の考え方です。福祉というのは、without、for、to、with というパターンがあります。私は花園大学で「社会福祉原論」の講義の時によく使ったフレーズですが、福祉はかつてwithout、存在するのがけしからん、という選別・隔離・排除というパターンでした。これに対して「for」それでは可愛そうだから、その人たちのためにという、慈善・慈恵(チャリティー)的な感覚から、「to」すなわち社会全体で責任を持つという感覚へ。そして「with」、みんな一緒で仲間じゃないか、いわばwithという感覚に変わってきたのと同時に、ノーマライゼーションは、世の中の仕組みを基本から考え直すきっかけを生んだ。そして国際障害者年は、インテグレーションやメーンストリーミング、インテグレーションをテーゼにし、最近ではバリヤフリーという言葉がよく使われ、今そういうものを3つのバリアで眺めていこうと言うのです。
*(「ノーマライゼーション」)
 それがいうならばノーマライゼーションとは、われわれの住んでいる社会の方が病んでいる。すなわち「障害のある人を締め出すような社会は正常な社会ではない。」ということ。それを口で言うのは易しいが、それをきちんと受け止めながら、「障害という問題はその人自身、いわゆる障害を持ってる人自身あるのではなくって、障害ある個人と社会、それを取り巻く環境との関係から生まれてくる。」「ある社会がそれを構成する幾人かの人を締め出すような場合、その社会は弱く脆い社会なのである。」として私たちの住んでる社会を見直すと、私たちの住んでる社会は一見豊かそうで、そして良さそうに見えるけれども、なんと弱くもろい社会になっているんだろうか。
 今はそれがもろに出てます。先生を生徒が襲ったり、そして親が赤ちゃん投げ殺したり、昔では考えられなかったような事件が続発しているのは、社会そのものが病んでいる。そういう時代になっている。そういう問題を、ここにADAという法律が出来、今は「全米障害者差別撤廃法案」ではなく、「障害を持つアメリカ市民法」と言われていますが、日本でもこういう形に早くもっていかないと、どうにもなりません。理屈だけではなく、障害を持ってる人たちにそういう現象が私たちの回りに発生したら、きちんと法体制が整った中で、それが裁かれるような、きちっとした社会になっていかないと、障害者問題というのはただ理念やアッピールだけではどうにもなりません。考えてみますと、私たちもボランティアの立場で、学者の立場で、さまざまなアッピールをしておりますけれども、やり残している、やらねばならないことがまだまだいっぱいあります。
○「ジョーイの物語」からの反省点
 私が専門の心理学者として、まず目を開かれたのが『ジョーイの物語』でした。今までの心理判定がいかに頼りなかったかということをこの物語は教えてくれました。ジョーイはイギリスで生まれて、大人になるまで重度の障害者として施設で育てられ、大人になって仲の良いお友達出来て、その相手とだけはコミュニケーションができ、その人がジョーイの言葉を書きとって、それが本になり、イギリスでは映画になりました。そして、その時映画の中にはジョーイも自ら出演しています。周囲の人は、それでもまだ信用しなかった。その時にそれを証明するために、彼のその友達が来る前にジョーイに、
「あの人がこの部屋に来たら、時計の針を10分進めておきますから、それを元に戻して、10分遅らせるようにと伝えてください。」と言った。それからしばらくして、その人がやってきた時に、いつものような形で、言葉にならないような唸り声を出して「うーうー、うーうーうー」と何事かを喋っていると、その人が、「いまジョーイが、この時計の針を10分進めたと言うから、針を10分戻します。」といって時計の針の調整を済ませました。 これがきっかけになって心理判定、知能検査を実施する上で、コミュニケーションがつかなかったのは検査者の側で、こういう過ちを私たちは、うっかりすると障害者問題でも気付かないで大きなミスをいくつも犯している場合があるのです。その様な現実に、私たちはもっと謙虚になって、障害の問題に関しても謙虚に学ぶ姿勢を持たなければなりません。その様な心の目を是非育てていきたいものです。

・野上芳彦のHP.1:http://web.kyoto-inet.or.jp/people/y-nogam/
・野上芳彦のHP.2:http://village.infoweb.ne.jp/~fwga1497/
・野上芳彦のHP.3:http://www4.justnet.ne.jp/~ynogami3018/welcome.htm

E−mail:y-nogam@mbox.kyoto-inet.or.jp

*『京都精華大学研究紀要』20号。p.1.〜30.(2001.京都精華大学)
・(注;欧米では新しい概念やネーミングとして、「チャレンジド」や「UD{ユニバーサル・デザイン}」という言葉が使用され始めています。すなわち、神様が与えてくれた生きることへの課題に挑戦している人たちという意味です。また、UD(ユニバーサル・デザイン)とは全ての人・誰でもが使えるという概念が前提となっています。これは21世紀のキーワードとなるでしょう。)

「野上芳彦教授の略歴及び業績」
教育研究業績書

*『大学研究紀要』・20号(京都精華大学);「抜刷」
*「録音テープ・カセット」


*野上芳彦・E-mail;y-nogam@mbox.kyoto-inet.or.jp
*リンク
野上芳彦・ホームページ1.(学生のためのホームページ)
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