2・26事件

2・26事件


昭和11年(1936)2月26日早朝、青年将校に率いられた約1500人の兵力がクーデターを起した。首相官邸・内大臣邸・陸軍教育総監邸・蔵相邸・侍従長邸等を襲撃、斎藤実内大臣・渡辺錠太郎教育総監・高橋是清蔵相を殺害した。そして、陸相官邸等を占拠した。
この2・26事件の背景などについては既に多くの本で触れられているので省略する。ここでは、石原莞爾の動きを簡単に説明しておく。
石原は事件発生後直ちに陸相官邸に入った。ここで、反乱将校に殺されそうになるが一喝して何事もなく終わる。(関東軍で片腕であった片倉衷少佐は陸相官邸内で銃撃され重傷を負う。)既にこの時点で、石原は戒厳令を布くことを参謀次長に進言している。
27日午前3時には戒厳令が公布され、石原は戒厳参謀部第2・第3課長を兼務した。以後、事件の処理に当たる。結局、29日朝には、反乱部隊は原隊に戻り、指揮した将校は自首した。
しかし、戒厳令は7月まで解除されなかった。石原達は、この事件を好機として、軍部に(言い替えるなら戦争をするのに)都合の良い国家体制を作りあげることを目指した。そして、組閣に干渉して、国政に深く介入することになる。

2・26事件における石原の役割には2つの説がある。

  1. 石原の働きによって事件の早期解決が可能となった。
  2. 積極的には何もしなかった。



2・26事件での石原について触れてある関係者の資料を、少し引用しておく。



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