石原莞爾 略年譜
石原莞爾 略年譜
- 明治22年(1889)1月18日、山形県鶴岡町(現在は鶴岡市)に生まれる。
- 明治35年(1902)9月1日、仙台陸軍地方幼年学校に入校
- 明治38年(1905)7月、仙台陸軍地方幼年学校卒業
- 明治38年(1905)9月1日、東京陸軍中央幼年学校入校
- 明治40年(1907)6月、山形歩兵第32連隊配属
- 明治40年(1907)12月1日、陸軍士官学校(第21期生)に入校
- 明治42年(1909)5月27日、陸軍士官学校卒業。原隊復帰
- 明治42年(1909)12月25日、陸軍歩兵少尉。新設の会津若松歩兵第65連隊へ赴任
- 明治43年(1910)4月、第56連隊、韓国・春川へ派遣
- 明治45年(1912)4月、日本帰還
- 大正2年(1913)2月3日、歩兵中尉
- 大正4年(1915)11月29日、陸軍大学校(第30期生)入校
- 大正6年(1917)7月、一回目の結婚。すぐに離婚
- 大正7年(1918)11月29日、陸軍大学校卒業。原隊復帰
- 大正8年(1919)4月15日、大尉昇進、中隊長となる。
- 大正8年(1919)7月4日、教育総監部勤務
- 大正8年(1919)8月6日、国府■と結婚
- 大正9年(1920)4月、中支那派遣軍司令部付、漢口へ
- 大正10年(1921)7月20日(10日?)、陸軍大学校兵学教官
- 大正11年(1922)9月〜、軍事研究の為、ドイツ駐在。ベルリン居住
- 大正13年(1924)8月20日、歩兵少佐
- 大正13年(1924)10月、陸軍大学校兵学教官。帰国
- 昭和3年(1928)8月10日、歩兵中佐
- 昭和3年(1928)10月、関東軍参謀、旅順へ
- 昭和6年(1931)9月18日、満州事変勃発、(作戦主任参謀)
- 昭和7年(1932)8月8日、歩兵大佐
- 昭和7年(1932)8月〜昭和8年(1933)5月、
国際連盟総会臨時会議帝国代表随員(松岡洋右全権)。ジュネーブへ
- 昭和8年(1933)8月、仙台歩兵第4連隊長
- 昭和10年(1935)8月、参謀本部作戦課長
- 昭和11年(1936)2月、
2・26事件。2月27日より3月7日まで戒厳司令部参謀兼務で処理に当たる
- 昭和11年(1936)6月、参謀本部戦争指導課長
- 昭和12年(1937)1月、参謀本部作戦部長心得
- 昭和12年(1937)3月1日、少将、参謀本部作戦部長
- 昭和12年(1937)9月27日、関東軍参謀副長
- 昭和13年(1938)8月、予備役編入願を提出して帰国。4ヵ月の治療
- 昭和13年(1938)12月5日、舞鶴要塞司令官
- 昭和14年(1939)8月、中将昇進、京都第16師団長
- 昭和16年(1941)3月、予備役編入、立命館大学教授として国防学を教える
- 昭和16年(1941)9月、京都から故郷鶴岡市に転居
- 昭和17年(1942)9月、立命館大学を辞す
- 昭和18年(1943)春(17年末?)、甘粕正彦の仲介で、陸相官邸で東条首相と会談
- 昭和19年(1944)7月(?)、小磯国昭首相と総理官邸で会談
- 昭和21年(1946)10月12日、山形県飽海郡高瀬村(現在、遊佐町)に転居
- 昭和22年(1947)5月1〜2日、極東国際軍事裁判酒田出張法廷に証人として出廷
- 昭和24年(1949)8月15日、没
参考文献- 『石原莞爾資料 国防論策』
- 『石原莞爾選集』
- 角田房子『甘粕大尉』
- 青江舜二郎『石原莞爾』
満州事変までの年表としては、五百旗頭真「石原莞爾関係年表(上)」『広島大学政経論叢第21巻第1号』が非常に詳しく、参考になります。機会があれば、是非ご覧ください。
旧軍の用語等に精通しているわけではないので、妙な書き方があるかもしれません。
気付かれたときは、お知らせください。
1996/12/08 増補
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