因に、北一輝も石原莞爾も共に熱烈な法華経の信者であった。しかし、両者の間に何らかの交流があったことを示す資料はない。
しかし、この頃の人は強烈な人が多い。調べていてつくづく感じた。
今年(1996年)は宮沢賢治の生誕100周年である。
石原莞爾と宮沢賢治には大きな接点がある。
共に農業技術を広めようとした、というのも大きな共通点である。が、何よりも重要なのは、二人とも田中智学の国柱会の会員であった点である。年齢は石原の方が7歳年上であるが、二人が入会したのは共に大正9年(1920)。 妙な因縁を感じてしまう。ただし、両者が出会った可能性は少ない。賢治が東京の国柱会館に出入りしていたのは主に大正10年(1921)1月末〜8月(9月?)頃である。これに対し石原莞爾は、大正9年5月〜大正10年7月、中国の漢口に派遣されていた。会ったとすれば、大正10年8月が一番可能性が高いが...。実際のところはどうであったのだろうか?
参考文献・天沢退二郎編『宮沢賢治ハンドブック』
石原莞爾 没後47回目の8月15日(1996/8/15)記す
『枢軸万才』(ルーチョ・チーヴァ著/千種堅訳,河出書房新社1975)という小説に第2次世界大戦でのドイツ(そしてイタリア)の必勝法が載っているそうである。それは何かというと、1941年12月9日に独伊がアメリカに宣戦布告しなければ良い、という単純なことである。
太平洋戦争勃発時、日本に義理立てしてドイツからアメリカに宣戦布告しなければ、日本との戦争を抱えている以上アメリカから戦争を仕掛けることは出来ない。よってヨーロッパ戦線では史実にみられるような連合国の物量作戦は不可能となり、ドイツ・イタリアに勝ち目がある、という話である。
枢軸万才と言いつつ、日本が入っていない点が要である。
(断わっておくが、この話は孫引きである。)
太平洋戦争で日本はアメリカに勝つことが出来た、という小説・論説等をよく見る。しかし、当時日米に根本的な生産力の差があった以上、いくら個々の戦闘(戦術)で勝利しようが、長期的な視野(戦略)から見れば、アメリカに勝利するなどということは不可能であった。(少しでも有利に停戦するのが関の山であった。)そして、そのことを(陸軍で)一番良く知っていたのが石原莞爾であった。
55回目の日米開戦の日(1996/12/08)に追加
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