京都第16師団師団長官舎

京都第16師団師団長官舎 保存運動


石原が最後に軍務についていた、京都第16師団の師団長官舎が京都伏見に現存しています。この建物が老朽化の為、取り壊されようとしています。これに対して保存運動が起っています。以下は、fj.soc.war-and-peace,fj.soc.historyに転載の転載という形で投稿されていた京都の本庄豊さんのメールです。転載の許可を下さった本庄さんに感謝します。

(冒頭の転載者の説明省略)
(転載:ここより)



From aml-request@jca.or.jp Thu Jul 25 12:09 JST 1996
From: PEACE
Subject: [aml:1679] SENSOUISEKI =?ISO-2022-JP?B?GyRCISEbKEI=?= from =?ISO-2022-JP?B?GyRCISEbKEI=?= Honjo : Kyoto

近代建築は文化財として認定されることが少ないので、どんどんとりこわされ ています。特に、戦争遺跡とよばれる、戦前の日本の負の遺産を残すことは、 それを材料として、天皇の軍隊の実態を明らかにしていく上で、非常に重要で す。
京都でも、第16師団師団長宿舎が、今取り壊されようとしています。保存運 動をしているのですが、行政の壁が厚く、なかなか前に進みません。
このほど、京都市に対して、以下の要望をしました。関心のある方は、ぜひ、 転載等をして広げてください。


 京都市 企画調整課・文化財保護課 殿

     第十六師団(京都師団)師団長官舎の保存と活用の要望書

*この建物は京都市伏見区深草田谷町に現存し、1918年(大正7)にこの地に建てられた建築である。それは、第十六師団の師団長として当時の皇族の「梨本宮守正王」が決まった時、「さすが京都らしい人事だ、立派な官舎を新築して宮様を迎えよう」と、市民達の寄付を募って建築した建物である。

*この建物の建築史上の特徴の一つは、大正中期建築の見事なまでの和洋折衷様式を完成させている点にある。

*その上もう一つの歴史上の特徴は、こヽでの代々の居住者であった師団長達の、日本の戦争の歴史へのかかわり方にある。

*更に挙げると、日本中に多く存在していた陸軍師団の内、師団司令部等と共に師団長官舎が今日まで建設地に現存するのは、この京都第十六師団司令部と師団長官舎のみである。日本中を探しても、ここ深草のみに残る唯一のめずらしい例である。従ってこの師団長官舎を、いま深草の現地でそのまま保存し、「平和資料館」・「第十六師団歴史館」等に活用されるよう望みたい。

それはまた、とりもなをさず20世紀の初め頃、伏見や深草の祖父母達の時代に、三十 数万坪に及ぶ京都南部の最優良農地を、一言の軍命で買い上げられた歴史の事実を回 復し、先祖達の永年の思いにも答える事にもなる訳であるからこそ、保存と活用を強 く希望するものである。

どうぞ、この切なる願いが実ることを、地元深草や京都の人々と共に切望する次第である。

1996年6月

                

(1);旧第十六師団長官舎を現地で現状保存してください。
(2);保存後は、第十六師団の「歴史平和資料館」に活用してください。
(3);それが為にも、この師団長官舎を早急に調査し、保存や活用についての基礎資料の入手に努めてください。

もし、京都市のみで早急な調査が不可能な場合、私たちも協力を惜しむものではありません。

以上の要望を実現する為、伏見や深草の住民を中心とする協力体制は出来ていますから、些細なことでも声をかけてくださるよう、おねがいします。

「伏見・平和のためのとりくみ実行委員会」代表委員 手塚 晃
;事務局;T075-641-5852

「戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会」    事務局長 池田一郎
:事務局;T0774-52-9044

「平和のための京都の戦争展」      事務局長 岡田 勇
;事務局;T075-231-3048


(備考)
<この官舎に居住した師団長達の日本歴史に果たした重要な役割の一例>

*第六代師団長、梨本宮守正 ; <1917.8.8.〜1919.11.24.>
京都師団長就任後にこの官舎の新築完成を待ち、この建物で家族一同が暮らした。その間最大の出来事は、米騒動の鎮圧に第十六師団将兵達を出兵させたことである。1918年(大7)夏、シベリア出兵の噂に米価が高騰し庶民達は困った。富山から起こった米よこせの女房達の声は、8月には京都にも拡大し、警察だけでは押さえられなくなった時、京都府知事は、梨本宮京都師団長に鎮圧軍の出動を要請した。梨本師団長は伏見から兵隊を出し、兵士の親達が「米よこせ」と叫ぶ親や兄達の運動に、銃口を向けて鎮圧した。

*代十二代師団長、中島今朝吾 ; <1937.8.2.〜1938.8.1.>
彼は、舞鶴要塞司令官から、初代の陸軍習志野学校校長を経て中将に昇進した。京都師団長に就任直前の7月7日に日中戦争が芦溝橋で始められ、京都師団は8月中旬過ぎから大動員で兵士を集め、8月末から大陸に渡った時の師団長である。北中国を経て12月首都「南京」城を包囲し、中山門から攻撃、12月13日の早朝、南京政府政庁のセンタ-ポ-ル-の中国旗を引き下ろし、日の丸を掲げた。その頃から翌年1月末まで、南京掃討戦を担当し、南京守備が彼の任務となった。いわゆる「南京大虐殺」事件が、南京攻略の前後2〜3ケ月とすれば、事件に一番関係深い師団長となる。事件に関して、彼は日記を残し「捕虜はせぬこと」と記している。大分県出身。

*第十四代師団長、石原莞爾 ; <1939.8.30.〜19413.1.>
彼は、1928年(昭3)に関東軍参謀となり、1931.9.18の柳条湖での満鉄爆破事件を指導した。然し、鉄道爆破は中国軍の仕業と偽称して直ちに軍事行動を開始(いわゆる満州事変)し占領した。若槻内閣の不拡大方針を無視し、四ケ月後に満州全土を占領し、十五年戦争の端緒期を指導した中心人物である。その後も参謀本部の作戦課長や戦争指導課長、関東軍参謀副長などを経て、舞鶴要塞司令官から、1939年(昭14)8月に京都第十六師団長に就任、深草の官舎で暮らした。彼は、盛んに「世界最終戦論」を説き、深草練兵場では、夏期でも冬装束での将兵を訓練した。然し日米戦争を予定した東条英機に、1941年(昭16)3月に京都師団長を罷免され、立命館大学国防学教授に就任した。その後、彼は衣笠の臥龍庵で東条批判を続け、翌年には立命館も追われ郷里に帰った。秋田県出身

*第十六代師団長、森岡 皐 ; <1941.3.1.〜1942.8.1.> 彼は、中国での特務機関での勤務の時期が長い軍人であったが、1934年(昭9)立教大学配属将校の時、大学のキリスト主義の教学方針と衝突し、結局、立教大学も国策に従わせる事となった。1941年(昭16)3月、京都第十六師団長に就任した。そして、アジア太平洋戦争の開戦時は、京都師団の将兵を指揮して、フイリピンのルソン島上陸の訓練を重ねた上で諸準備を整え、xディ-(12月8日)を待った。第十六師団将兵達は、奄美大島や台湾沖で数十隻の輸送船団で開戦命令を待ち、ルソン島のリンガエン湾とラモン湾とレガスピ-にて激戦を繰り返しつヽ敵前上陸を強行し多くの犠牲者を出した。首都マニラを翌正月2日に占領、続くバタ-ン半島の激戦を経て、以後フイリピン各島でのゲリラ摘発や宣撫工作を担当していた。第十六師団長は、その後大場四平中将から牧野四郎中将とと交代している。森岡皐中将は、1942年(昭17)8月に帰国し予備役となった。退役前の森岡の率いる京都師団の将兵達は、バタ-ン半島で激戦を繰り返した。この戦いは作戦の失敗(参謀罷免)で、京都師団の将兵は半減したと言われている。この補充を受け、1944年(昭19)10月からのレイテ島攻防戦では、大本営から「自活自戦永久坑戦」を命じられ、13778名の京都師団将兵の内、森岡師団長のように生きて帰国できた将兵は、僅かに620人(厚生省援護局資料)だけだった。しかし、レイテ島の戦争は玉砕とは呼ばれないのが特徴である。

<深草師団長官舎の建築史上の特徴>

北向き玄関で左右対称の単層瓦屋根建築で、南側に庭園が造られていた。正面北に四角い車寄せを造りだしている。玄関ホ-ルを中心として、左右に二室づつ洋室を配置し、その境の壁面中央には暖炉が造られ、両室で一本の煙突が抜けている。床は固い板で天井高く、窓は観音開き雨戸の内側にはガラス戸が付けられている
南側は玄関ホ-ルの奥に、広い床の間を持つ二十畳程もある日本間を中心にして、その東側には居間がある。その奥に台所や風呂便所が付けられていた。日本間の二室の南側には長い縁側を通しており、雨戸はガラスを通して庭園を眺めるように造られている。
南北間の中間は東西に通る廊下がつくられ、この空間の天井は高い。その高い天井に天窓が造られている。四角い水眼鏡を逆さに置いたような特殊な天窓である
建物の玄関から西は聖母女学院の北門造成時に削られてしまった。また、南側にあった日本庭園も、戦争末期の食料増産のため崩され、庭園は菜園となっているが、往事の面影は漂っている。
その他に馬屋などもあったが、1996年6月現在は本屋のみになっている。

以上

              



(転載:ここまで)

1996/8/10

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