満州事変

満州事変


石原がその特異な才能を発揮するのは、満州事変からである。
石原は昭和3年(1928)に、関東軍(中国東北部に駐留していた日本軍)作戦参謀主任として旅順に着任した。そして翌年5月に板垣征四郎大佐が高級参謀として着任、この二人のコンビによって満州事変は引き起こされたのである。
昭和4年(1929)7月の北満州への関東軍参謀旅行における、石原より満蒙領有の構想が示されたことから、計画は次第に具体化していく。そして、昭和5年(1930)9月には彼の構想に基づく関東軍参謀部による『満蒙ニ於ケル占領地統治ニ関スル研究』が脱稿、満蒙領有計画はほぼ完成した。
昭和6年(1931)9月18日、関東軍は、奉天北部の柳条湖において南満州鉄道の線路を自ら爆破し(爆破したふりをした、と言うほうがより正しい)、これを中国軍の仕業として攻撃を開始した。
兵力は関東軍1万人に対し中国軍は25万人(別の資料によれば、公安隊を含め45万人)と、圧倒的に関東軍が不利な状況であった。又、装備も自動小銃など中国軍の方が良いものが多かった。しかも、軍中央及び政府・天皇は不拡大方針であった。
しかし、関東軍は朝鮮軍の独断による増援を得るなど既成事実を積み重ねていき、政府の方針を転換させるに到った。石原も自ら飛行機に乗り込み、爆撃の指揮をとるなど各所に活躍した。そして結局、たった5ヵ月で満州全域を占領、翌年3月1日には「満州国」を建国した。
これは、第2次世界大戦における、ドイツの電撃作戦(対ポーランド・フランス)に匹敵する(あるいはそれ以上の)戦果であった。それ故、作戦の立案・実施を行った石原は「戦争の天才」とも称されようになる。

満州事変が後々、日本(軍)にもたらした、特に大きな影響は次の2点である。

  1. 中国軍の実力を極端に軽視し、日本軍を過大評価するようになった。
  2. 出先の部隊が軍中央部の命令に従わず独断専行しても、結果さえ良ければ褒章を受けることはあっても処罰されることはない、という風潮が広まる。
後に日中戦争が勃発した際、石原はこれらの自ら蒔いた種に苦しめられることになる。また、日本を泥沼の戦争にひきづりこむ原因ともなる。

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