石原莞爾フォーラム
No.230
Date:Mon, 17 Sep 2001 23:36:17 +0900
Subject+α氏に対する反論
ハンドルネーム:震電改
Name:(匿名)
E-mail:(匿名)
発言:
 一九四七年(昭和二二年)五月、山形県酒田市の酒田商工会議所で開かれた、極東国際軍事裁判酒田臨時法廷の冒頭において、以下のような会話があったとされている。
 
『裁判長は、石原に質問した。「訊問の前に何か言うことはないか」
 石原は答えた。「ある。不思議にたえないことがある。満州事変の中心はすべて自分である。事変終末の錦州爆撃にしても、軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」』
 (石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」原書房 一九八八年 一八八頁)
 
 石原の「なぜ、自分を戦犯としないのか」のエピソードである。
 
 この酒田臨時法廷でのエピソードは、石原の伝記等によく出てており、よく知られている。
 例えば、歴史学者である秦郁彦教授もその著書「昭和史の謎を探る」の中で、『東亜の父 石原莞爾』(高木清寿 錦文書院 一九五四年)からの引用といういう形式で、このエピソードを取り上げている。東京裁判の全てを傍聴し、東京裁判研究家として著名な冨士信夫氏は、私のみた東京裁判(講談社学術文庫)に、
 
 「ノースクロフト代理判事の法廷指揮が極めて公正・適切であり、ともすれば証人の証言途中で口を挟み「発言する裁判長」との印象が強いウェッブ裁判長に比べ、できるだけ証人の証言を聞こうとする「聞く裁判長」との印象を強くした事、反対訊問をするダニガン検察官と石原証人では役者が違い、剣道の新米が有段者に稽古を付けて貰っているような恰好で、打ち込もうとして軽くいなされ、逆に面や胴を取られたような反対訊問の場面が屡々あった事、日本文の宣誓口述書と英文に翻訳されたものとの間で用語の意味が一致していないかの如く、検察官の質問に対する証人の証言の意味がよく判らなかった場合や、通訳の能力不充分のためか、判事、検察官及び米人弁護人の発言の日本語への通訳の意味を了解するのに苦しむ個所が何回もあった事、「天才的戦略家石原莞爾未だ衰えず」との感を強く持った事等を、私が強く感じた事として付記しておく。」
 

と記述している。さらに石原莞爾資料国防論編(角田順編/原書房)には、
 
 「満洲事変前満洲に於ける日支の紛争は日に切迫し日本が政治的軍事的に全面的退却をなす以外平和的解決の道なしと判断せられたり。日本の退却後ソ連の南下に対し支那が独力防衛の力なきは明白にして日本の退却は更に新しき東亜の不安を招来せん。
 満洲事変を契機として実力を以て満洲を支那より分離する行動は重大なる暴挙なるは明なるも反面これにより前項の不安を一掃すると共に満洲国の建設に際し日本が深き反省の下に本来の態度を一変し、満洲に於ける既得のあらゆる権益を満洲国に譲渡し、各民族は満洲国に於て全く平等の待遇を受け民族協和の実を挙げるに於ては却て遠からず支那の理解を得て多年に亘るお互の不信を一掃し得べきを信ぜり。
 民族協和の理想は在満支那人中にも強き共鳴を以て迎えたる人多かりしも彼等は日支両国の和解なくしては安じて建国に協力し難しとせるは当然なり。依て日鮮支各民族の同志が研究協議の結果民族協和の理解を押し進めて道義による東亜連盟を結成すべしとの結論に達せり。これがため支那が満洲建国を認むるならば日本は支那に対する凡ての権益を返還すべきものとせり。即ち日本は治外法権の撤廃、租界の返還等は勿論支那より完全に撤兵し支那の完全なる独立に協力せんとするものなり。東亜連盟の思想は満洲国協和会に採用せられ昭和八年三月正式に声明せられたり。
 満洲事変勃発後一年ならずして関東軍の責任者は全部転出せしめられ満洲国は右方針と全く反対の日本独占の方向に急変し以後建国の同志の努力により時に改善の希望を与えたることありしも遂に大勢を挽回する能わずして今時世界大戦の導火線となれり。
 我等は全世界に向い衷心より自己の不明を陳謝し、謹んで全責任を負わんと欲するものなり。」
 
という石原莞爾の昭和二十一年の手記が収められている。 
 我が身の危険を顧みず、潔く自らの責任を認め、勝者の矛盾を暴き、糾弾する石原のイメージは、多くの日本人の共感を呼び起こした。
 今日に至るまで、石原が偶像視される理由の多くは、この発言に起因するといっても間違いではないだろう。
 
 ところが 「資料を調べる限り、このエピソードは伝説であって事実ではない。記録に残っている石原の言動は、上記のエピソードと完全に矛盾するのである」という突飛な主張を行っている人物がいる。
 
戦史研究所管理人の+α氏である。(以下+α氏の発言は青色で示す)
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/senshi.htm
 
 
 まず、この有名な発言は、朝日、読売、毎日といった当時の主要な新聞には、全く掲載されていない。以上の資料から明らかなように、冒頭の石原のエピソードは、報道されず、公式記録に残っていないばかりではなく、その当時の人々、それも石原をよく知っている人々にさえ知られていなかった訳である。一貫して自分が戦犯でないことを主張している石原が、唐突に一回だけ、自分が戦犯であると主張するなどということは、常識的に言ってあり得ない。直接のきっかけは、一九五四年(昭和二九年)に出版された「東亜の父 石原莞爾」(高木清寿 錦文書院)である。それでは、どうして、このような「伝説」が生じたののだろうか。
 直接のきっかけは、一九五四年(昭和二九年)に出版された「東亜の父 石原莞爾」(高木清寿 錦文書院)である。
 この本のなかで、初めて上記の石原のエピソードが語られるのである。
 つまり、このエピソードは、東京裁判からは七年、石原の死後からでも五年も経って、人の記憶が薄れるのに十分なだけの時間が経過してから、突如として出てきたのである、
 これだけでも、充分胡散臭い話だが、それに加えて、これらのエピソード(石原が尋問において検事を怒鳴りつけたというもう一つの有名なエピソードを含む)は全て、著者の高木自身の体験ではない。
 高木が、石原からそういう話を聞いたという「伝聞」に過ぎないのである。
 

 
朝鮮人のツ寧柱氏は次のように証言している。

 「私は昭和二二年、酒田で行われた国際軍事裁判を傍聴しました。感心したのは、将軍の傍らに米国の医者が附いていたことです。将軍の答弁が長くなると、「この程度で止めていいですよ」と言うんですね。アメリカの民主主義には感心しました。裁判長は開廷の宣言後石原証人に向かって「何か言うことはないか」と訊ねました。将軍は、「私は、錦州の爆撃を指揮し、張学良軍にとどめを刺した。満洲事変の作戦指導は私がやった。この意味で私は戦争犯罪人だ。俺よりも話にならない奴を犯罪人にするなんて一体!どうした事か」と答えました。
その時の法廷の検事はダニカンというイギリス人でしたが、大いに慌てて、「ジェネラルは証人として出廷したので決して戦犯ではない、自分で勝手にそのような事を言うと却って裁判が混乱するから、もう言わないで欲しい。」と発言を抑えました。」

 石原は、一九四六年(昭和二一年)五月三日に、東京逓信病院で行われた国際検察局による第一回の尋問において、自分や板垣が満洲事変を計画したことを否定している。
 また、石原は、日本軍による南満州鉄道線路の爆破をも否定し、五月二四日に行われた第二回の尋問で、再度、南満州鉄道線路の爆破について問われた際は、「私は中国人が、一九三一年九月一八日に鉄道線路を爆破したと思っている。」と答え、日本軍が満洲事変を計画的に引き起こしたことを完全に否定し、満洲事変は偶発的に起こったことを主張している。
 更に、石原は、自分や板垣が、本庄司令官の命令無しに、攻撃命令を出したことも否定し、攻撃命令を下したのは、本庄司令官であり、自分はその命令に従った過ぎないことも主張している。
 挙げ句の果てに、石原は、満洲事変後に授与された爵位について、自分が貰ってしかるべき以上の名誉を与えられたが故に、そのことを恥じているとまで主張しているのである。
 
 
 満鉄線路爆破の爆音を聞いて、事故現場に急行した鉄道守備隊が、支那軍から発砲され、之に応戦、昭和六年九月十八日・午後十一時四十六分、関東軍参謀長の三宅少将は、奉天特務機関から同夜十時半頃、奉天北方の北大本営において日支両軍衝突の第一報を受領して之を本庄関東軍司令官に報告するとともに、幕僚を招集して軍司令部において対策を協議し、登庁した本庄司令官は、各方面からの報告と対策協議の内容を聴取し、沈思黙考の五分間の後、司令官の責任において軍事行動を決定したのである。
 だが石原は自らの越軌につき上司の処断を促して六年末には辞意を表明したものの、荒木陸相は辞意を許さずに却って之にも功三級勲三等を奏請して「死刑囚の無期出所」と長大息させたのであった。
 
 
 
つまり、石原は、尋問に対して、自分は、満洲事変に関して何らの責任もないと主張しているのである。
 これが、石原が、戦犯とならなかった最大の理由であろう。当時、満州事変を関東軍が起こしたことは、公式には知られていなかった。
 満州事変の切っ掛けとなった柳条湖事件が関東軍の謀略によるものであったことが、公式に知られたのは、「別冊 知性」(河出書房)の昭和三〇年一二月号に、満洲事変勃発時少佐で関東軍参謀であった花谷正が、「満州事変はこうして計画された」と題する回想を掲載したのが初めである。
 従って、これ以前の時期に、当事者である石原が、満州事変の計画性、謀略性を否定し、自己の責任を否定した場合、国際検察局が石原を戦犯とすることは、証拠の不足から不可能である。
 
 
 当時、関東軍が満洲事変を起こしたこと、その中心人物が石原莞爾であったことはよく知られており、ポツダム宣言、国際法、罪刑法定主義を蹂躙し、被告弁護側の準備した証拠資料の大半を却下し或いはその提出を許さないなど、悪辣非道を行ったGHQのこと、石原をA級戦犯容疑者として出廷させ徹底的に糾弾し、柳条湖事件が石原の謀略であったことを究明することなどは容易だったはずである。
 ところがGHQは之を行わなかった。さらにGHQは、近衛と並ぶ対支強硬論者であった元首相の米内光政や、近衛新体制を主導した元内閣書記長、法相の風見章など我が国を破滅に導いた要人をA級戦犯容疑者に指定しなかった。
 この不可思議さは、端的に言って、A級戦犯という概念が既存の国際法になかった為、A級戦犯指定基準が支離滅裂であり、東京裁判の本質が、日本に対する復讐というよりもむしろ、「日本を断罪し平和民主化した」と宣伝して大統領選挙に出馬しようとしたマッカーサーの虚栄心の産物に過ぎず、真実探求とは無縁だったからである。上記の「なぜ私を戦犯に指定しないのか」という裁判冒頭の石原の発言が抑えられ、裁判の公式記録から排除されたのは、東京裁判の本質を突いていたからであろう。
 
 
 
 更に石原は、満州国の建国についても関与を否定している。
 
「満州建国は右軍事的見解とは別個に、東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもので、わが軍事行動は契機とはなりましたが、断じて建国を目的とし、もしくはこれを手段として行ったのではなかったのであります。」
  (「石原莞爾宣誓供述書」前掲書 三二二頁)
 
 
 辛亥革命後の支那は殆ど無政府状態を呈し各地に割拠する軍閥の内戦、住民に対する悪政の弊甚だしく、大正十五年既に清朝最後の皇帝であった溥儀を推戴する清朝復辟運動が開始されており、満洲事変直後に特別行政委員会を組織した張景恵、吉林省の独立を宣言した煕洽、兆南の独立を宣言した張海鵬は、蒙古王族と共に忠実なる復辟支持者だったのである。
 満洲独立運動は、復辟の他、満洲文治派の保境安民運動などを含み、昭和三年末の満洲易幟よりも早く、満洲民衆の間に広汎に顕在化しており、満洲事変を契機として一挙に具現化し、かくして清朝後継国家として満洲国が誕生したのである。
 だからこそ石原莞爾は、
 
「私共は、満蒙に新生命に与え、満州人の衷心からの要望である新国家の建設によって、先ず満洲の地に日本人中国人にの提携の見本、民族協和による本当の王道楽土の建設の可能性を信じ従来の占領論を放擲して新国家の独立を主張するまでの」
 
転向(昭和六年十月十四日)を果たし、
 
「満洲事変勃発後一年ならずして関東軍の責任者は全部転出せしめられ満洲国は右方針と全く反対の日本独占の方向に急変し以後建国の同志の努力により時に改善の希望を与えたることありしも遂に大勢を挽回する能わずして今時世界大戦の導火線となれり。
 我等は全世界に向い衷心より自己の不明を陳謝し、謹んで全責任を負わんと欲するものなり。」
 
と自らを責めたのである。以上の史実を念頭に置けば、東京裁判における
 
「満州建国は右軍事的見解とは別個に、東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもので、わが軍事行動は契機とはなりましたが、断じて建国を目的とし、もしくはこれを手段として行ったのではなかったのであります。建国がうまくゆきましたため、後に至り手柄顔に建国はオレがやったとか、関東軍と通謀して計画したとか、軍官民の心なき徒輩がいろいろと申しましたが、満洲建国自体は全く満洲建国自体は歴史的所産であります。」
 
という石原の宣誓供述書の真意は明白であろう。
 
 石原莞爾は満洲国の正統性を主張しているのである。

 
参考文献
 
読売新聞、朝日新聞、毎日新聞 1947年版
東京裁判速記録 東京大学社会科学研究所図書館資料
石原莞爾供述書(案)東京大学社会科学研究所図書館資料
精華会中央事務所「石原莞爾研究 第一集」1950年
山口重次「石原莞爾」世界社 1952年 
榊山潤「石原莞爾」湊書房 1952年(小説)
高木清寿「東亜の父 石原莞爾」錦文書院 1954年 
藤本治毅「人間石原莞爾」太千産業社 1959年
極東国際軍事裁判所「極東国際軍事裁判速記録」雄松堂書店 1968年
石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」原書房 1988年
横山臣平「秘録・石原莞爾」芙蓉書房出版 1989年 
青江舜二郎「石原莞爾」中央公論社 1992年
石原莞爾平和思想研究会編「人類後史への出発 石原莞爾戦後著作集」展転社 1996年
粟谷憲太郎・吉田裕 編集解説「国際検察局(IPS)尋問調書 三一巻」日本図書センター 1993年
朝日新聞東京裁判記者団「東京裁判 上下」朝日新聞社 1995年
 
 
 驚くべし、石原莞爾研究の基本資料である石原莞爾資料も、東京裁判研究の基本資料である東京裁判却下未提出弁護側資料も使っていないのである。
 
 朝鮮人のツ寧柱氏は次のように証言している。
 
 「満洲は本当は中国じゃないですよ。満洲は日満鮮漢蒙各民族がそれぞれに言い分を持っている土地なのです。私が何故こう一生懸命しゃべるのかというと、私が朝鮮族という異民族の一人だからです。日本人だと、あれは石原びいきだからといわれるでしょう。異民族がこんなにも石原を慕うのだから、石原莞爾という人は本当に真実のあった人という事が分かって貰えるのではないかと思うのです。「民族協和」を将軍ほど望んでいた人はいなかった。その人を「満洲侵略の張本人」だとする評論が後を断たない。私が最後に言いたい事は、石原莞爾は侵略戦争の張本人だった。満洲事変の火付け役だった。満洲国は日本の傀儡国家だった。この傀儡国家をつくったのは石原莞爾だった。こういう汚名だけはなんとしても雪ぎたいのですよ。これが私の最後のお願いです。」
 
 満洲事変から七十年、今なお、石原莞爾や満洲事変、満洲国を誤解する人が後を断たない。平成八年に亡くなられたツ寧柱氏の無念、思い半ばにすぎよう。


発言入力ページへ

前の発言を見る

次の発言を見る