石原莞爾フォーラム
No.40
Date:Tue, 30 Jun 1998 14:01:48 +0900
Subject(no specified)
ニックネーム:
Name:北嶋 修
E-mail:meisei01@osk3.3web.ne.jp
発言: ご一読下さい。
会社の社報に日本近現代史を自分なりのシリーズで連載していまして、 そのなかで自分なりの「石原莞爾諭」を述べてみました。
 すこし長くなっておりますがご一読下さい。

              

私の「石原莞爾」研究
 私が石原莞爾という人物の事を知ったのは、そう昔の事ではありません。
20年程前、私が30才を少し過ぎた頃、当時阿川弘之氏の(現在キャスターなどで活躍 されている阿川佐知子さんの父上)の「米内光政」「山本五十六」「軍艦長門の一生」など の一連の海軍に関する著作を読みました。
 東大文学部から学徒出陣で海軍に入られ、また一方志賀直哉に私事された阿川氏の著作 はさすがに本格的な作家が書かれた立派なもので、熱心に熟読したものです。
そして、これらの著作の中で阿川氏が一貫して主張されているのは、要するに「海軍良識 派は太平洋戦争を欲してなかった。あの戦争は陸軍に引きずられて始めてしまった。」とい う事でありました。
 彼の著作を読み、かつ史実とも比較して考えてゆきますと、確かに米内光政、鈴木貫太 郎、岡田啓介、山本五十六、井上成美が強く対米英戦争に反対していた事はよく理解でき ました。しかし、ここで私は「それなら陸軍はすべて対米英戦に賛成だったのか?」とい う疑問が起こってきたのです。
 いかに陸軍が昭和の始め強引に政局を引っ張って行ったとしても、そのエリート軍人達 全てが対米英戦に賛成であったとは考えにくかったので、ここに一体陸軍はどの様なプロ セスを持って対米英戦を決意するに至ったのかに、大いに興味を持ち始めた次第です。

 以後、陸軍関係の本を読み漁り始めたのですが、答えは容易に見つかりました。陸軍側 のキーパーソンがすぐに判ったのです。
 それが「石原莞爾」という軍人との出会いであります。
ところが、それまでは名前を少し聞いた事があるかな?という程度であったこの人物は恐 ろしく難解かつ興味深い人物で、また彼に関する著作物も驚く程多く、以後長い間私はこ の人物と格闘する事になったのです。格闘とは大げさに聞こえるかも知れませんが、実際 この人物はそう表現せざるを得ない程その評価が難しいのであります。
  そして、この人物の難解さは諸人が認めるところで、それを前出の阿川弘之氏は著書 「山本五十六」の冒頭で石原莞爾を登場させ、日中戦争を終らせるために石原が山本に会 いたいと知人を通じて申し込む場面を取り上げ、石原に対して微妙な表現をしていますし、 先年亡くなった伝記作家の巨匠杉森久英氏は石原の伝記のあとがきに「肯定と否定の間」 と題して、この人物の評価の難しさを述べています。
 その経歴を簡単に列記しましても、陸軍大学二番卒業の秀才、満州事変の首謀者、2・ 26事件の鎮圧者、日中戦争の不拡大の主唱者、東条英機の政敵、太平洋戦争を前に京都 師団長を最後に陸軍をクビになる。立命館大学講師、その後は故郷山形県鶴岡市で隠遁生 活、終戦後他の満州事変の首謀者達が次々と戦犯になるのに、なぜか彼は起訴もされずに 昭和23年癌で死亡。
 以上の様にまことに戦争推進派なのか、反対派なのか、よくわからない人物なのです。 この複雑さの根底を探るために、死後50年以上もたった今日でも、まだ時々新しい研究 書が外国からも出版される事があります。これも非常に珍しい現象と言えるでしょう。   ある人達は石原を一種教祖の如く崇め、またある人達は石原を大陸侵略の巨魁、日本を 敗戦の惨禍に陥れた元凶と非難し、真に毀誉褒貶はなはだしいものがあります。
 ともあれ、石原がこの様に歴史家達などから興味を持たれる理由は、彼が日本で唯一の 対米戦争のベースプランナーだったからでしょう。

 そこでなるべく判りやすい様に
(1) 石原はなぜ対米戦争を予想したのか、そして現実はどうなったか?
(2) 石原の構想はなぜ崩れていったのか?
(3) 私は石原莞爾をどう評価するか?
 とこの様に分けて考えて見たいと思います。
少々難解な部分がありますが、これは他の言葉では説明しにくいので、そのまま記します が、この点はご勘弁下さい。

(1)石原はなぜ対米戦争を予想したのか、そして現実はどうなったか?
 石原莞爾といえば「世界最終戦争論」が有名ですが、この世界最終戦争論とは一体どん なものなのでしょうか?
 まず、これの説明から入っていかないと石原の対米戦決意には到達しませんので、少々 難解ですがぜひお読み下さい。
 石原は戦史研究家の一面と、熱心な日蓮宗の信者でありました。
戦史研究の方ではナポレオンとフリードリッヒ大王の研究、特にナポレオンの研究を熱心 にしています。そして若い頃のドイツ留学中に、まだ現存していた第一次大戦のドイツの 将軍達を個別訪問してその教えを受けています。これによって養われた学識に、日蓮宗の 予言をプラスして行き、彼は世界最終戦争がある時期行われると考えたのです。
 ヨーロッパにおける戦争の性質は、ルネッサンス期においては傭兵ばかりの軍隊で、互 いに兵隊は商品であるから、その消耗をきらいすべて持久戦争であった。ところがフラン ス革命後のナポレオンの軍隊は国民皆兵で、訓練不足のためそれ以前の傭兵、あるいは貴 族を中心としたプロの軍人ではないので難しい戦闘体型などはとれない。そこでナポレオ ンは一番容易にとれる戦闘体型である縦隊散兵体型を取らざるを得なかった。この体型で は敵の一点に攻撃の重点を集中する単純な戦法しかとれないが、ナポレオンは砲兵をうま く使い、どの戦いでも、敵の戦線に突破口を作り、そこから全軍が突入し、混乱する敵を 追撃、徹底的に殲滅する戦法で成功したのです。
 要するに相手の国土を領有するとか、首都を占領をしなくても、相手の野戦軍を捕獲殲 滅さえすれば、その戦争は勝利となったのです。これはあきらかに決戦戦争であります。
 そして第一次世界大戦はご存知の様に塹壕戦となり、持久戦争となった。
 この様に戦争進化は常に持久戦争があればそれを破る事に工夫がされ次の戦争は決戦戦 争となる。
そしてその次の戦争には例えば、第一次大戦の機関銃の様な兵器が現れ、決戦戦争は出来 なくなり、又、持久戦争になる。
 この様に石原はヨーロッパの戦史を研究して、概ね持久戦争と決戦戦争が繰り返される、 一種の法則があると結論したのです。そして今度起こる戦争は決戦戦争であると考えまし た。
 そして、この次の決戦戦争となる時には兵器は@地球を無着陸で何回も回れる航空機A 一つの爆弾で一都市が破滅する様な爆弾が出現するはずであると主張する。これは現在の 大陸間弾道弾、及び核兵器の出現によって本当に出現したのですが、但しこれは石原の予 想とは少し時期がくい違った様です。
 そして、次の戦争はどことどこが戦うのかというと、彼は世界を4つのブロックに分け て考えていました。@東亜A米州Bソ連Cヨーロッパ、という四つの大きな勢力ブロック があるが、この内ヨーロッパは第一次大戦でフラフラになっているから脱落、ソ連ブロッ クもまだ誕生して間もないから非力なので、これも脱落する可能性が強い。したがって次 回の戦争は日本を中心とした東亜ブロックと米州のブロックで行われる可能性が高いと考 えたのです。(これは石原がドイツに留学していた大正時代に考えたからです。)
 これに大きな影響を与えたのが日蓮上人の予言で、「日蓮は仏滅後2500年内に世界 に空前の大戦争が起こり人類は絶望のどん底に突き落とされるが、その時本化上行菩薩で ある日蓮上人は賢王として再びこの世に出現し、その徳により人類は救われ、世界はあげ て日蓮宗による絶対平和の道義的時代、政教一致の人類最高の文明の時代に入る。」という ものですが、この辺になると私は全く理解できませんので、一応述べるだけ述べておきま す。
 ただ、石原はこの賢王はイコール日本の天皇であると主張するが、これに対し作家で僧 侶の寺内大吉氏はその著書「化城の昭和史」の中でこの部分を指して『法蓮経が目指した ものが人間の根源にかかわる「究極の涅槃」であり、「仏慧」である以上、この王法(賢王 =天皇)は化作された幻影の城と断じざるを得ない。』と述べて政教の一致は仏法に反する 主張しているが、これが正論でしょう。要するに宗教と現実をラップさせて考えてはいけ ないという事です。
 ともかく、石原はこの様に考え、日本はいつかアメリカと全面戦争をするという結論に 達したのです。
 ここで、特に注意すべきは東亜ブロックという考え方をしている点です。
彼は漢口に駐在していた時代に、無気力に生活する中国人を見て、ひどく失望しています が、一面孫文の革命の報を聞いたとき「バンザイ!」と叫んだほど、アジア人を意識して いました。要するに明治維新の時の坂本竜馬や勝海舟の様に東アジア連合によって西洋帝 国主義をやっつけたいと考えていたのです。
 満州事変は彼にとっては対米戦の資源補強地の確保のためであり、満蒙領有計画は、漢 口で見た中国人達の無気力さから、とても彼らが近代国家は作れないという先入観からで した。しかし、満州国が出来、蒋介石による中国統一が完成しますと、彼の中国感は大き く変わります。彼は中国は充分頼りにするにたる国家であり、国民であると考え直し、何 とか蒋介石と和解して東亜連盟を作り、西洋植民地を一掃し、来るべき最終戦争には日中 連合であたるべきであると考え始めました。
 この考えの変化が、彼の日中戦争反対の根拠でありますが、一方で満州国を作りながら 中国と同盟をしょうというのは、幾らなんでも虫が良すぎると言わざるを得ません。
 まぁその「虫が良すぎる事」はともかくとして、石原の考えていた対米戦は日本が中心 となり、中国、ベトナム、フィリピンなどの東アジアの民族解放戦争の意味を持った戦争 を漠然と考えていた事は確かです。
 この最終戦争論も米ソの冷戦時代は確かに世界が二つのブロックに分かれ、世界の覇権 を争うという具合に、国は違いましたが石原の予言に誠に良く似た情況が確かに生まれま した。 このあたりが石原莞爾に予言者的性格を与え、戦後も長く多くの人の興味を引く 理由となったのでしょう。
 ソ連邦の崩壊により幸い人類は石原の予言した「世界最終戦争」まで行き付かなかった 事は幸いでしたが、キューバ危機など彼の予言の寸前まで行った事は、紛れもない事実で すし、彼が何によってこの様な「最終戦争」にまで考え至ったかはともかく、大正時代に この様な状況が起こる事を予言したのは驚嘆に値します。
 以上が石原の「世界最終戦争論」の概略です。
そして石原は概ね1960年頃には日本の国内体制も、国際情勢も対米戦が可能になると考え ていました。
 事の是非はともかく彼は、彼の信じるスケジュールに沿って時代をリードしてゆきます。 満州事変に成功した石原は、しばらく仙台の第4連隊長を勤めたあと参謀本部作戦課長と して陸軍の中枢に入りました。
意外な事に石原は陸大を2番で卒業した秀才でありながら、それまでの経歴はどちらかと いうとドサ回りばかりでした。満州事変を起こした関東軍といっても所詮は植民地軍です から、その参謀は全陸軍から見れば端の方に位置するものです。
 この原因はどうも石原の誹謗癖にあった様です。彼の伝記を読んでいますと必ず上司に 対し辛辣な批判を加える場面が出て来ます。軍人の社会と言っても平時は一種のサラリー マン社会ですので、このタイプはまず出世は出来ません。
 要するに上役から見れば煙たい男だったのでしょう。
それが初めての中央勤務であり、かつ、花形部署の作戦課長ですから、彼はおそらく自ら の持論を実現さす絶好の好機と考えた事でしょう。彼をこの地位に付けたのはすでに激し さを増していた統制派と皇道派の派閥争いを、派閥色のない石原の存在によって緩和させ る事をねらった参謀本部、陸軍省の中堅幹部連中の推しがあったとも、すでに軍務局長の 座にあり先にお話した様に「国家総動員計画」を推進していた永田鉄山が引っ張ったとい われてますが、正確なところは判りません。

 ところが、石原が奇しくも参謀本部に着任した当日に永田軍務局長が皇道派の相沢中佐 に暗殺されました。永田鉄山は統制派のbPリーダーであったのですが、すでにこの様な 重要な人物まで殺される程、陸軍部内の派閥闘争はひどくなっていたのです。
 どうして、この様に派閥争いがひどくなったかと言いますと、軍部は満州事変の成功に よって世間に政治の主役と認められたからです。
 俗な言い方をすれば陸軍が天下を取ったのなら、その陸軍を支配する事は日本を支配す る事を意味しますので派閥争いが激しくなる道理です。
 後年、石原自身が「満州事変があれほどの軍国主義を呼ぶとは思わなかった。」と語って いる様に、国民は軍部を一挙に英雄に祭り上げてしまったのです。
 この統制派と皇道派という色分けですが、前者が官僚主義的な統制を重んじ、後者が多 分に神懸り的な天皇崇拝主義者の集まりという様に、実は何か確たる物を持って区別され ていたわけではありません。
 所詮は同じ穴のムジナで、どこの会社や団体の派閥と同じ様にその根底は人の好き嫌い を基としたものでした。
 しかし、政権が目の前にぶら下がってくると、当然この争いを利用して政権をねらう者 が出てくるのは自然の成り行きです。
 はっきりと行動に出たのが皇道派の真崎甚三郎という将軍です。
彼と彼の朋友荒木貞夫は若い将校を抱きこみ、これが半年後2・26事件として暴発した のです。
 2・26事件の主役となった青年将校達は、何やら戦後は一種の革命的英雄のように言 われた事でありますが、ほとんどが20代の、それも軍事教育ばかり受けてきた青年達で あり、私から言わせてもらえば政治学、経済学には全くの無知であります。
 ただ、この利用された一団が起こした2・26事件は現在考えているより、より深刻な 影響を日本近代史に与えました。
 この後はのちに述べるとして、ともかく永田鉄山が殺された事は石原にとっては、軍政 関係の最大の協力者を失った事になり、大きな痛手となりました。
 少なくとも昭和の陸軍で、永田、石原の両名は当時の日本陸軍が列国に比して、非常に 遅れていた事をよく認識していた数少ない有力者だったからです。
 石原莞爾が満州事変を起こす前、満州在留の日本人団体の有力者であった小沢開作に「関 東軍の腰の軍刀は竹刀か!!」となじられ時、石原「腰の軍刀は竹刀で結構。東北陸軍(張 学良軍)などは竹刀でも一撃で倒せる。」と豪語した有名な話がありますが、これは逆に言 えば張学良軍の様な軍閥の軍隊になら勝てる。しかしソ連軍の様な精鋭にはそうは行かな い。とも解釈出来ない事はないでしょう。
 ともかく、相棒が居なくなっても石原は日本を世界最終戦争の決勝戦にまで勝ち残らす ための努力を怠るわけにはいかなかったのです。
 特に満州国を建国して切実になって来たのは、一時革命によって無力化していたソ連軍 が著しく増強、近代化されて来ている事でした。
第一次、第二次五ヵ年計画を完成する1937年(昭和12年)の鉄鋼生産量は年産17 70万トンと、帝政時代の三倍半に達すると予想されたのです。一方日本の鉄鋼生産力は 昭和11年(石原が参謀本部勤務になった年)には444万トンで、一年の違いはあるが、 その差は4:1という大きなものです。
 また、鉄鋼以外の全産業においてもソ連は日本を遥かに追い抜き、結果軍備において、 昭和10年には兵力比で10対3、航空兵力において10:2.5となっていました。
 この状況を改善するとなりますと、これはもう軍部だけではどうにもなりません。経済 そのものの問題になって来ていたのです。
 この点、永田鉄山という人はさすがに冷静に現実を見極め、経済人や経済官僚、そして 軍縮予算を主張する大蔵大臣高橋是清とも交友関係を結び、積極的に経済に関する勉強も し、また陸軍の機械化のため自動車産業の育成にも力を注いでいました。
 従って参謀本部勤務になった石原が最優先に取り組んだ仕事は、永田鉄山の仕事を引き 継ぎ陸軍の近代化を進める事でした。しかし前にも述べました様にその事には日本の産業 構造そのものから、触らないとこれは不可能です。これはすでに軍人の領域を越えるもの であり、またどうも石原は永田ほど経済には強くなかった様で、彼は彼自身の側近とも呼 べる知識人グループにこれを頼ります。
 このスタッフは、少々奇異な感じがしますが、浅原建一という労働組合運動で勇名をは せた代議士とか、宮崎正義というモスクワ大学で社会主義経済を学んだ満鉄の調査局社員 など、どちらかと言うとマルクス経済に学んだ人が多かったのです。これは恐らく、ソ連 の社会主義経済が相次ぐ五ヵ年計画によって成長していくのを見た事が最大の理由と思わ れます。
 これにより起算された「重要産業五ヵ年計画」によって日本経済は完全に社会主義的要 素の強い統制経済へと変化したのです。
 この石原の「重要産業五ヵ年計画」によって日本ははっきりと修正資本主義の時代にな ったのですが、《別項―2》でお話した米英のケインズ政策と一度比較して見て下さい。
 石原の計画は基本が軍備増強であり、ケインズの様に価値の再生産とか、経済の重数効 果などを全く無視している事がおわかりになると思います。
 経済学からして「重要産業五ヵ年計画」は非常にお粗末なものでした。
ただ、この政策によって日本の産業の技術水準が大幅に向上した事は認めねばなりません。 例えば、日本の精密工業はその基礎となるベアリングの製造を完全に出来たのが、大体昭 和4年頃といわれていますが、この約10年後には有名な零式戦闘機を生産できるレベルま で向上したのです。 この技術レベルの向上は正確に評価すべきでしょう。
ところが、石原が参謀本部勤務を始めて約半年で例の2・26事件が起こります。
 この時の彼の行動は松本清張の「昭和史発掘」に詳しく書かれていますが、どうも派閥 に属さない彼は始めの内はこの軍事クーデターを利用して「重要産業五ヵ年計画」を実行 できる内閣を作ろうと考えた様です。
 しかし、天皇の反乱軍に対する激怒と、反乱を起こした青年将校の幼稚さから一転、反 乱軍を断固討伐する側に回りました。
 戒厳令が引かれ、その戒厳参謀として反乱の鎮圧の主役を演じた石原は一躍陸軍の主役 に踊り出ます。
 これで彼は日本を本当の強国にすべく「重要産業五ヵ年計画」を推進する事に熱中しま した。その為に広田内閣が倒れたあと大命が宇垣一成に下った時、こんな大物に出てこら れてはとてもコントロールが出来ない、従って「重要産業五ヵ年計画」も潰されかねない と考え、以後陸軍の倒閣の常套手段となった、陸軍大臣を内閣に出さないという手によっ て宇垣内閣を流産させます。
次に、自らが一番コントロールをしやすいと考えた林銑十郎を総理大臣に担ぎ出します。  しかし、この林内閣は人気がなくごく短命で終ってしまいました。
次に成立したのが国民に絶大な人気のあった近衛内閣です。
 ところがこの年(昭和12年)の7月、北京郊外の蘆溝橋で日中両軍が衝突します。 当時石原は参謀本部第一作戦部長という文字どうり全陸軍を動かす事の出来る立場にあっ たのですが、彼はこの事件の不拡大策を取ります。なぜ彼が不拡大方針を採ったかという 理由は彼の最終戦争論では中国は同盟の相手で戦う相手ではなかったからです。
 彼は参謀本部に着任してからというもの「重要産業五ヵ年計画」の達成しか頭になかっ たのです。
そしてこの計画は昭和12年の国家予算が22億円程度であったのに対し総額推定85億 円が必要であり、少なくともその達成には10年が必要と考えられていました。逆に言え ば10年間はどこの国とも戦争をしてはいけなかったのです。
 ところが、彼の不拡大方針に賛成するものは少なく、特に部下の武藤章作戦課長はこと ごとく石原の方針に反対しました。(武藤章が東京裁判で死刑になったのはこの為です。)  石原自身は気が付いてなかったのですが、2・26事件で皇道派が一掃され、陸軍は統 制派の杉山、梅津、東条、武藤の時代になっていたのです。派閥に属さない彼は統制派に とってはすでに目の上のタンコブつまり邪魔者だったのです。
 特に前々から仲の悪かった東条英機は、2・26事件の前までは久留米の田舎連隊に左 遷されていたのですが、2・26事件で再び日の当たる場所に出てきて、この事変発生の 時には関東軍の参謀長であり、積極的にこの事変を拡大しょうと努めました。
 この様に石原の不拡大方針は、上からも、下からも、そして現地軍からも総スカンをく い、この事件はついに日中戦争へと拡大し、ついに石原は左遷され、そして「重要産業五 ヵ年計画」はその大前提である「10年不戦」が崩れた事により、単なる物動計画へと成 り下がってしまいました。
 この「重要産業五ヵ年計画」が崩れた事によって日本は近代的な陸軍を作る機会を失い、 陸軍は明治時代の兵器を持つ旧態依然としたまま戦場に投入され、各地で今に語り継がれ る悲惨な物語をの残しながら「ミズーリ号への道」をひた走る事になったのです。

(2)石原の構想は崩れていったのでしょうか?
 勿論、原因は色々ありますが、実は石原の挫折の原因は天皇論にあると言われています。 ただ、ここでお断りしておきますが、私自身は日本の皇室に対して好意も悪意も持たない 戦後生まれの日本人でありますが、この文章を続けてゆく上でどうしても昭和天皇の戦争 責任に関する事象を避けて通るわけには参りませんので、どうか皇室を敬愛される方も、 これは史実である事を冷静にお受け取り下さい。
 石原は少なくとも3回の大きな統帥権の無視をしています。第一は満州事変の時、そし て第二は2・26事件の時。この事件が起こった当初の石原の行動には一つの大きな要因 が絡んでいます。それは戦前、戦中、戦後とも「菊のカーテンの中のタブー」とされ、あ まり触れられていない事なのですが、昭和天皇とその弟宮秩父宮との関係です。反乱軍の 将校が漠然と頼りにしていたのは秩父宮でした。
そして事件発生直後、宮は弘前の連隊から急遽東京に戻りました。2・26事件には天皇家 の兄弟争いという側面があったのです。
 昭和天皇は後に明らかになってきますが、生真面目で、気の小さい人でした。それに対 し秩父宮は豪放、才気あふれるタイプで帝王としては、兄の天皇より向いていました。
 この事は昭和天皇自身が認めていたのです。(英国人モズレーの証言)。
石原が事件発生から二日間ほど態度を余りはっきりしなかった原因の一つに場合によって は昭和天皇が秩父宮へ譲位するという事が万が一起これば、彼の持つ天皇観では秩父宮の 方が天皇に適任と考えていた節が大いにあります。
 この時に昭和天皇と秩父宮との間に相当な激論があった事は事実ですし、この2・26 事件の時の昭和天皇の激情はいささか異常で、(天皇自ら近衛師団を率いて反乱を鎮圧す ると言った事)天皇自身も身の危険も感じていたと充分推察されます。天皇制の歴史の中 には兄宮を弟宮が追い落とした例は幾例かあります。
 この成り行きを待った、石原に対する昭和天皇の心情に深く刻み込まれた事は容易に考 えられます。
 第三に、宇垣大将に大命が降下した時、石原が中心となってこれを潰した時です。一度、 天皇の組閣の大命を受けた宇垣を引きずり降ろした事は明かに「不忠の臣」となります。   これらの事柄から昭和天皇は石原を非常に嫌っていたと考えてもまず間違いありません。 特に後に石原が最後に京都師団長に推挙された時、天皇はそれを非常に嫌がった事が伝わ っていますし、石原もその事はよく自覚していた様です。
 昭和天皇は東条英機をものすごく信頼していました。その事はもう一人の弟宮高松宮が 戦争末期東条の憲兵政治による横暴、戦局の悪化に伴い天皇に東条罷免を直談判を行った が、昭和天皇はそれに耳を貸さなかった事が最近出版された高松宮日記に記されています。
 小心で生真面目な昭和天皇は石原莞爾のようなスケールの大きな人物は苦手で、小心な 官僚型の東条英機が好きだったのです。
  昭和天皇の人物の好き嫌いが、日中戦争を拡大さした事は否定出来ません。
もし、天皇が本当に日中戦争拡大に反対ならば、2・26事件の時と同じ様に断固とした 拒否が出来ましたでしょうし、これは日米開戦の時も同じ事が言えます。
 石原は観念としての天皇を敬っていましたが、現実の人間である天皇との間には大きな ギャップがあり、それが原因で葬られたと言えましょう。
 これはやはり大きな日本の悲劇であったと私は思います。少なくとも官僚の典型である 東条英機があの大戦争の指導者としては全く不適格者であった事は確かで、その為に死亡 した多数の人々に対し、彼を登用した昭和天皇の責任は決して免れるものではありません。  以上が石原莞爾が挫折した最大の原因でしょう。
最後に最近東条英機を主役にした「プライド」という映画が出来たそうですが、東京裁判 の側面からのみ東条英機を英雄視するなど、歴史に対する無知もはなはだしく、東条が在 任中行った憲兵政治の陰湿さを考えて見て下さい。そしてあまりの東条の横暴に、近衛な どの重臣、高松宮を中心とした海軍、そして石原に近い人達からも東条英機を暗殺する計 画があり、現実にその様な行動がありました。
この様な真実を無視した東条英機の様な人物を英雄視した映画を作るなど全く作る人間の センスが解らない。

(3)私は石原莞爾をどう評価するか?
私も、実のところこの石原莞爾という日本人離れしたスケールの人間をどう評価するかは 可とも不可とも言えません。
 ただ、世界史の大きな流れの中で西洋の東洋に対する優越がどこかの時点で修正される 事は間違いなかった事でしょう。
 その点から見ますと石原は日本人では幕末の先人達の遺志を忠実に継いだ人物でありそ の流れは中国の毛沢東、ベトナムのホーチミンに繋がると思います。
 但し、東アジアの中心勢力が日本であると考えた事には疑問があります。古代から東ア ジアはやはり中国が中心ですので日本が中心となって西洋に対抗するという考えは世界史 的に見れば少々無理があります。(ただ、この時代は中国が分裂状態で、何と言っても東ア ジアの独立国は日本、中国、タイしかなかった様な時代の事ですから石原が日本が中心に なって東洋が西洋からの解放を計ろうと考えた事はやむを得ないかもしれませんが。)

 また、彼が官僚であった事も不幸だったかも知れません。政治家と違い、官僚はその地 位が変われば、影響力が全く無くなります。日中戦争に反対して、関東軍の参謀副長にな ってからの石原は全く歴史に影響を与える立場では無くなりました。
 次に石原がいま私達に考えさせてくれる事の一つに日本人の対アジア観があります。 当時の、(或いは現代も)日本人のアジア観は幕末の偉人の志を失い、ともかく軽蔑、蔑視、 一段も二段も下に見ていました。この点、確かに石原は人種差別の無かった人物でしたが、 大多数の日本人はその考えについていく事が出来なかったのです。彼は本気で満州国を五 族(日本人、朝鮮人、中国人、満州人、蒙古人)平等な国家にしょうとしていた事は事実 ですが、しかし現実は満州の実権は俗に二キ三スケと言われた東条英機、星野直樹、岸信 介、松岡洋介、鮎川義介などの植民地主義者に握られ、その実態は石原の理想とは程遠い ものでありました。
 また後には満映の甘粕正彦(大杉栄を殺した元憲兵で「ラストエンペラー」で坂本龍一 が演じた人)などと言うわけの解らない人物が登場するに及んでは、最早石原の理想であ る五族協和どころか、満州国は完全な日本の植民地となってしまったのです。
 この事は当時の日本人の意識の低さをうかがわせるのに充分です。確かに石原は理想主 義者にすぎたのであります。

 ただ石原の最大の欠点は現実と日蓮宗の予言をリンクさせた事でしょう。先に寺内大吉 が述べている様に宗教と現実の政治は絶対にミックスしてはならないものです。
 この点、石原の熱狂的な日蓮崇拝は、他の宗派の人々には非常な抵抗感を持たし、また その「最終戦争論」も科学的説得力が薄れてしまいました。
 またこの「最終戦争論」の結論としている最後の戦争相手がアメリカになるという事は 恐らく、当時の日本人移民禁止法とか、アメリカ海軍の対日戦を想定した「オレンジ計画」 などによって、国内に醸し出されていた反米感情に影響されていた事は疑いの余地があり ません。石原自身も認めている様に「最終戦争論」は不完全なものでした。
 この様に私から見ても石原の理論は「各論はバラバラで説得力なし、但し総論では東ア ジアのあるべき姿をある程度正確に考えていた。」と申し上げておきます。
 そして、この石原莞爾の対米戦争というイメージが一人歩きし、日本は石原という対米 戦のベースプランナーを欠いた状況で、真に日本的な集団無責任体制のまま、或いはそれ ゆえに太平洋戦争を起こす事になってしまったのです。
 ここに至り私は「なぜ冷静に考えれば負けると解っていた太平洋戦争を日本が起こした のか?」「なぜ中国戦線に数百万もの陸軍を投入したまま、アメリカという大国と戦う愚か な二面作戦を取ったのか?」「緒戦の勝利の後に当然考えられていなければいけない攻勢 終末点がなぜ考えられていなかったのか?」など長年の疑問が氷解してゆくのを感じまし た。
また、石原個人について語れば、彼が当時のエリート軍人としては驚くべき事に「軍隊は 国民の所有物である。」という事を明確に認識していた事があげられます。
 この事に関する例は陸軍大学生の時代、彼の乗馬を貸してもらえないかと大学の乗馬部 の学生が申し込んだところ「勿論いいよ。この馬は君達の親御さん達の税金で買って貰っ ている馬だから。」といって貸してやったとか、仙台の第4連隊長時代には兵隊が洗濯に時 間を取られて困っているのを見て「国民は洗濯する為に兵役に就いているのではない。」と 当時非常に珍しかった電気洗濯機を導入した事。(当時世界中の陸軍で電気洗濯機を使用 していたのはアメリカの陸軍だけ。)など、現代の官僚に聞かせてやりたい程たくさんの例 があります。
 そして、また特記すべきは農村に対する配慮の深さです。
これも仙台時代ですが、兵役を終わった農民の子弟が帰郷してから役立つように、軍隊内 でアンゴラウサギの養育法を教えたり、演習の時には絶対に田畑を踏まない様にしたりし ています。
 私が一番感銘を受けた話しは当時の陸軍には年に一回連隊旗祭といって、一種の父兄参 観日の様な日があったのですが、この時には父兄は全て羽織紋付で参ります。ところがそ の日父兄が整列して将校が訓辞をしている時に急に雨が降り出しました。軍人は当然雨が 降っても、そのまま訓辞を続けます。ところが当時連隊長であった石原がそれを見て、そ の将校に訓辞を中止させ、「君はあの親御さん達の着ている紋付が借り物というのが判ら んのか!!」と叱ったのです。
 石原は当時の東北農民の貧しさを肌身でもって知っていたのです。

 この様にやはり石原莞爾という人物はその他の昭和の百凡の将星とは比較にならない偉 材であったと考えます。
 なお、2年ほど前に朝日新聞に今村均将軍の回想として、当時の陸軍には機密費という ものがあり、満州時代の石原らがよく料亭で散財していたと報道された事がありますが、 石原は酒が飲めない体質で料亭きらいでした。この記事は奉天の「粋山」という料亭の事 を指していると思われますが、ここでは板垣、石原、花谷、片倉らがよく集まり満州事変 の謀議をしていた事は確かです。
 しかし、如何にも石原が現在の大蔵官僚の様な遊びをしていた様な書き方は朝日新聞と いう大新聞が恣意的に事実を曲げており、少しでも近現代史を知るものにとっては非常に 不愉快なものでした。
 新聞はもっと正確にもの事を伝えるべきです。特に朝日新聞は往々にしてこの様な事が あるので嫌になります。

 以上が私の石原莞爾に対する意見なのですが、まだまだ語り足りない事が多くあります。 また機会がありましたら別にもっと詳しい「石原莞爾論」に挑戦してみたいと考えていま す。
 しかし、「ケインズ」の場合も同じですが、調べて行くと歴史はこの石原莞爾の様なあま り一般には知られていない人物によって左右されている事があり、興味が尽きません。


発言入力ページへ

前の発言を見る

次の発言を見る