ことが多いのか」と聞かれて、苦しまぎれに次のような説明をし
たことがある。
神道では神と人間は対立物ではなく、究極的には神即我(宇宙
即我)であり「人間本来神の子」とする。その理を表したのが鏡
のご神体。試しに、参拝者が「神さんってどんな顔?」とご神体
をのぞき込むと、そこには参拝者自身の顔が写っている。ほら
「神即我」でしょ、と。そんな鏡を“完全なる円満”を象徴する
「円形」にしたのがご神体。
だから「神が身(神の身)」がつまって「かがみ」になったの
だ(ついでに奇跡は神からやって来るから「ミラー来る(ミラク
ル)」というダジャレも)と話したら「ふ〜ん」という顔をして
いた。
ところが最近、さらなる意味を感じることがあった。きっかけ
は散髪である。散髪の最中に目の前一面に広がる大きな鏡を眺め
ていてあることに気付いた。いくら一生懸命見詰めても「鏡その
もの」が決して見えないのである。見えているように思えるのは
あくまでもそこに映る「こちら側の映像」であって、“物体とし
ての鏡”そのもの、つまりガラス製で裏面に光を反射する物質を
塗った「物体」は見ようとしても見えてこない。周囲に鏡の“縁
(ふち)”があるから「ああ、そこに鏡がある」と分かるのであっ
て、もし上下左右に無限の広がりを持った鏡ならどうなるのだろ
うと考え込んでしまった。
そこで気付いたのは、私たちの日常生活そのものが、実は“鏡
の世界”なのではないかということだ。私たちは周囲の風景や人
をきちんと見ていると思っている。しかし、それらを「本当にあ
るがままに見ている」ことはめったにない。ほとんどが自分の思
い入れや先入観を対象に投影して見ている気になっているだけで
はないかと。
例えば親が子を見るとき、子供の本当の姿を見ているだろうか。
夫が妻を見るとき本当の妻の姿を見ているだろうか。多くの場合
「これが私の子供」「妻とはこんな人間」と長年かけて心に作り
上げた“像”を相手に投影して見ているにすぎない。極端な場合
は、自分が果たせなかった“夢”を相手に押し付けて、それが相
手そのものだと思い込んでいることさえある。
ある僧侶にこんな話を聞いた。何十年も連れ沿った夫を失った
老婆が寺にやって来て「じいさんって一体どんな人だったんでしょ
うねえ」としみじみと語ったという。人生の伴侶を失って、改め
てその手ごたえのなさに愕然(がくぜん)としていたというのだ。
老婆は本当のおじいさんの心と触れ合うことなしに長い長い時間
を過ごしてきたのだろう。
周りを鏡に囲まれた世界とは、ちょうどガマが四面を鏡で囲ま
れて冷や汗をたらすようなもの。生き生きとした“生”のだいご
味とは無縁で、大きなストレスともなるだろう。父母、子供など
身近で見慣れたもの(その分、人生で大切なもの)ほどこの傾向
が強いだけに、人生に与える影響は大きい。だから、釈尊は八正
道の一つとして「正見(正しく見る)」を強調したのだろう。
一方、鏡は周りからやって来るものを「あるがままに受け入れ
て」、何の先入観もなしに返している。「無私」の極みである。
もし人間が鏡のような心で、先入観の呪縛から自由になれたら……。
見慣れたはずの父母が、子どもが、配偶者が、そして日々の暮ら
しがすべて新鮮でとても貴重なものに一変するだろう。世界を受
け取る心の在り方一つで人生の手ごたえは変わってくると思う。
鏡がそれ自体見えないのと同じように、神もそれ自体は見えな
い。だが、いずれも「人や物事をあるがままにとらえ、あるがま
まに受け入れる」という「働き」として厳然と存在している。
鏡のご神体には「あるがままに見、あるがままに受け入れるこ
との大切さ」という意味もあったのでは、と散髪を契機に気付い
た。
「かみがみの世界」どころか、不平不満いっぱいの「ガミガミ
の世界」(濁点一つで大違い!)に生きている私たちに、鏡は多
くのことを教えてくれる。