記事には「『自殺』する幼虫の細胞」のサブタイトルがついて
いる。著者は言う。「さなぎって不思議だ。さなぎになる前と後、
幼虫と成虫とでは外見も器官の機能も全く違う。さなぎの中でいっ
たい何が起きているのだろう」。
そこでさなぎの中を見ようとする。「蚕(かいこ)の幼虫がさ
なぎになったばかりのものを解剖してみた。中身はほとんど液状
になっていて、幼虫時代にあった消化管や、繭糸を出す蚕糸菅は
どこを探しても見つからない」。
ところが「約一週間たった羽化直前のさなぎを開くと、すでに
目、触覚、足がはっきり分かり、小さいながらも羽がちゃんとで
きあがっていた」(朝日新聞1996年10月23日付夕刊)。
驚いた。外からは見えないが、実はさなぎの時期に蚕は一度
“死んで”いたのである。それも、ドロドロに溶け、遺体すらな
い“徹底した死”を体験していたのだ。これを生物学的には「細
胞の自殺=アポトーシス」と呼ぶ。溶けた身体はアミノ酸レベル
にまで分解され、成虫を作るときの材料に使われる。
私たちは宗教書などで「死と生は一体のもので、大きな生命の
流れの中から見れば、そこには何の分断もない……」と教えられ
る。しかし、正直なところ、やはり「死」はすべての終わりであ
り恐怖であるとしか思えない。「死なんて死んでみないと本当の
ところは分からない」というのが本心ではないだろうか。
その意味で、蚕のさなぎの話は興味深い。蚕は実際に死を体験
して生きているからだ。ひょっとしたら蚕はこう言うかもしれな
い。「死んでみたけど、大したことなかったよ。生きている(眠っ
ている)のと同じだったよ」と。
蚕はさなぎで“死ぬ”ことによって、幼虫から成虫へのあの劇
的な変化、つまり身体の根本的な再構成を果たす。その結果、あ
の美しい絹糸をつむぎ出せるようになる。天女の衣にふさわしい
絹糸の玄妙なる美は、死によって生み出されると言ってもよいだ
ろう。
だから、仮に親の蚕が横でさなぎを見ていたとしても、“死ん
で”しまったわが子を見て悲しむことはないに違いない。しばら
くすると立派な成虫となってよみがえり、美しい糸をつむぎ始め
ることを知っているからだ。
多分、人間も同じなのだろう。死によって何かを根本的に変え
てよみがえり、より美しい命をつむぎ出しているに違いない。た
だ、蚕と違って「よみがえった先」が目の前に見えず、知らない
だけなのではないか。死を恐怖し嘆き悲しむのは「知らない(=無
明)」のが原因だと言えそうだ。
そこで思い浮かぶのがトンボである。トンボの幼虫=ヤゴは長
い時間水中で過ごす。しかし、成虫となって“よみがえる”のは
空中である。水中に残った仲間のヤゴたちから見れば「死んで突
然に消えてしまった」としか思えないに違いない。「よみがえっ
た先」が見えないのだ。
水中だけが宇宙だと思っているヤゴには理解できないかもしれ
ないが、水中も空中も認識できる人間からすれば、ヤゴの命は分
断なく続いていることが分かる。
親しい人が亡くなったときは悲しいものだ。思い切り悲しむの
が自然な在り方だろう。しかし、生前のその人を悲しみと共に
「回顧」するばかりでなく、「蚕」の例を思い出して、さらなる
レベルでの生命誕生を祝うのも一つの考え方ではないだろうか。