「回顧」よりも「蚕」を

【発表メディア】出雲大社大阪分祠機関誌「ひふみ」1996年12月号
 先日「さなぎの不思議」と題する面白い新聞記事と出会った。

 記事には「『自殺』する幼虫の細胞」のサブタイトルがついて

いる。著者は言う。「さなぎって不思議だ。さなぎになる前と後、

幼虫と成虫とでは外見も器官の機能も全く違う。さなぎの中でいっ

たい何が起きているのだろう」。

 そこでさなぎの中を見ようとする。「蚕(かいこ)の幼虫がさ

なぎになったばかりのものを解剖してみた。中身はほとんど液状

になっていて、幼虫時代にあった消化管や、繭糸を出す蚕糸菅は

どこを探しても見つからない」。

 ところが「約一週間たった羽化直前のさなぎを開くと、すでに

目、触覚、足がはっきり分かり、小さいながらも羽がちゃんとで

きあがっていた」(朝日新聞1996年10月23日付夕刊)。

 驚いた。外からは見えないが、実はさなぎの時期に蚕は一度

“死んで”いたのである。それも、ドロドロに溶け、遺体すらな

い“徹底した死”を体験していたのだ。これを生物学的には「細

胞の自殺=アポトーシス」と呼ぶ。溶けた身体はアミノ酸レベル

にまで分解され、成虫を作るときの材料に使われる。

 私たちは宗教書などで「死と生は一体のもので、大きな生命の

流れの中から見れば、そこには何の分断もない……」と教えられ

る。しかし、正直なところ、やはり「死」はすべての終わりであ

り恐怖であるとしか思えない。「死なんて死んでみないと本当の

ところは分からない」というのが本心ではないだろうか。

 その意味で、蚕のさなぎの話は興味深い。蚕は実際に死を体験

して生きているからだ。ひょっとしたら蚕はこう言うかもしれな

い。「死んでみたけど、大したことなかったよ。生きている(眠っ

ている)のと同じだったよ」と。

 蚕はさなぎで“死ぬ”ことによって、幼虫から成虫へのあの劇

的な変化、つまり身体の根本的な再構成を果たす。その結果、あ

の美しい絹糸をつむぎ出せるようになる。天女の衣にふさわしい

絹糸の玄妙なる美は、死によって生み出されると言ってもよいだ

ろう。

 だから、仮に親の蚕が横でさなぎを見ていたとしても、“死ん

で”しまったわが子を見て悲しむことはないに違いない。しばら

くすると立派な成虫となってよみがえり、美しい糸をつむぎ始め

ることを知っているからだ。

 多分、人間も同じなのだろう。死によって何かを根本的に変え

てよみがえり、より美しい命をつむぎ出しているに違いない。た

だ、蚕と違って「よみがえった先」が目の前に見えず、知らない

だけなのではないか。死を恐怖し嘆き悲しむのは「知らない(=無

明)」のが原因だと言えそうだ。

 そこで思い浮かぶのがトンボである。トンボの幼虫=ヤゴは長

い時間水中で過ごす。しかし、成虫となって“よみがえる”のは

空中である。水中に残った仲間のヤゴたちから見れば「死んで突

然に消えてしまった」としか思えないに違いない。「よみがえっ

た先」が見えないのだ。

 水中だけが宇宙だと思っているヤゴには理解できないかもしれ

ないが、水中も空中も認識できる人間からすれば、ヤゴの命は分

断なく続いていることが分かる。

 親しい人が亡くなったときは悲しいものだ。思い切り悲しむの

が自然な在り方だろう。しかし、生前のその人を悲しみと共に

「回顧」するばかりでなく、「蚕」の例を思い出して、さらなる

レベルでの生命誕生を祝うのも一つの考え方ではないだろうか。


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