雲をつかむような人生

【発表メディア】出雲大社大阪分祠機関誌「ひふみ」1996年7月号
 あるとき、一人の地底人が地上へ迷い出た後地下に戻り、次の

ように言った。

 「地上の空には綿のような形をした雲が浮いている。うそじゃ

ない。私はこの目でしかと見た」

 すると昔一度地上へ出たことのある別の地底人が言った。

 「何を言うか。雲とはウロコのような形をしたものだったぞ。

ほら写真も撮ってある」

 確かに写真に映った雲はウロコ雲であり、それを見せられた最

初の地底人は自分の記憶に自信がなくなり、うなだれてしまった。

 そこへ長老の地底人がやって来てしたり顔で言った。

 「二人とも若いのぉ。雲を見る目が足りん。その写真は偽物じゃ

。なぜなら、ワシなどは三回も地上へ出たことがあるが、いつも

雲はスジのような形をしていたぞ」

 そこで三人そろって再び地上へ出てみることにした。季節は秋

に変わっており、空には見事なスジ雲が流れていた。二人の若い

地底人はそれを見て声をそろえて言った。

 「ちきしょうだまされた。雲の野郎、今まで猫をかぶってやがっ

たんだ。本当の姿はこれか!」

 二人は長老をいたく尊敬、以来、何かあるごとに長老におうか

がいを立てるようになり、自分の目で見ることはやめてしまった

とさ。……

 この寓話での会話がいかにナンセンスなものかは、だれの目に

も明らかだろう。もちろん、三人の雲に対する見解はどれも間違

いではない。「この目でしかと見た」というのも本当なら「雲の

写った写真」も本物。長老の見た雲も本物の雲だ。

 ただ、「事実」であっても「真実」ではない。雲とは何かの本

質を見誤っている。雲の本来の姿は何か。それはずばり「姿がな

い」点にある。時々刻々形を変えて定まるところがない。変化こ

そが本質、つまり「無常(常なるものはない)」が本質なのに、

表面的な動きの「ある瞬間」を捉えてそれを不動の本質と見てし

まった。ここに「ものごとを正しく見られなかった」原因がある。

 「相対世界の本質は無常である」と釈尊が喝破したとおり、実

を言えばこの寓話の「雲」の部分には人生のどんな出来事でも代

入できる。例えば「Aさんの本心」を入れても通用する。ところ

がこうなると、とたんに理解しにくくなるものだ。

 ある瞬間のAさんを見ては「何てずるい奴だ」と思ったり、

「いや、意外にいい奴なんだな。勘違いしていた」と思ったり、

また「やっぱり、こんな奴だったんだ。裏切られた」と思ったり

する。Aさんの心を雲のように捉えられる人は少なく、地底人の

寓話を笑った人でも「結局あいつの本心は何だったんだ」と真剣

に悩むことになる。

 だが、そもそも人の本心って何なんだろうか。人の心は環境に

応じてさまざまな反応を返す。歴史を振り返り、自分自身を顧み

ても分かるが、同じ人間がときには天使のように、ときには悪魔

のように振る舞える。自分でさえ自分自身が分からないのが正直

なところだ。

 相対世界の出来事は一種の雲である。水蒸気が風や気温などの

「環境」の作用に応じて、ウロコ雲やスジ雲に姿を変えるように、

ある縁に触れてある出来事として現出しているにすぎない。

 にもかかわらず、私たちは「現れ(雲)」にばかり目を奪われ、

握り締めて一喜一憂している。「雲をつかむような話」とはよく

言ったもので、だれも地底人を笑えない。

 では、雲の奥にある不動のものは何か。空(そら)である。音

読みすれば奇しくも空(くう)。

 一切は空(そら)である。つまり、一切は空(くう)である。

雲(出来事)にとらわれるから、「転倒夢想」(てんどうむそう)

の世界に生きることになる。

 だからといって雲を否定してはいけない。相対世界では、雲(現

象)は人生のメインディッシュ。正面きって取り組むべき対象だ。

ただ、それを握り締めて一喜一憂するのではなく、味わい楽しめば

いいのである。観月会やバードウオッチングのように。


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